小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「一票の格差」問題に対するマスコミの主張はすべてデタラメだ !!

2013-03-31 20:44:54 | Weblog
 「一票の格差」問題についての全国紙5紙の社説が出そろった。3月28日に朝日新聞と日本経済新聞、29日に毎日新聞と産経新聞、最後に30日に読売新聞が社説を発表した。
 これに先立ち、私は27日に『「一票の格差」を単に格差是正に終わらせるべきではない!!』と題するブログを投稿した。タイトルにあまりインパクトがなかったのか、あるいは「一票の格差」そのものに対する国民的関心が薄いのか、このブログの訪問者はいつものブログ訪問者に比べ格段に少なかった。もし「一票の格差」問題についての国民的関心が低いとすれば、これは日本人の民主主義についての意識の低さを証明することになり、極めて残念なことである。今回のブログには多くの訪問者が訪れてくれることを期待して、改めて全国紙5紙の社説を検証することで、選挙を通じて実現すべき民主主義への道標を明らかにしたいと思う。
 5紙の社説を検証する前に、前回のブログの訪問者が少なかったため、私の主張の要点を述べておきたい。
 
 全国の高裁で先の衆院選挙が「違憲」「違憲状態」「無効」という判決を相次いで出したのは、最高裁が2年も前に出した判決に基づいている。最高裁がその前の総選挙について「違憲」との判断を下したのは一票の重みに格差がありすぎており、(以下が最重要な判決理由なのだが)その原因は300の小選挙区の区割りをする際47都道府県に「1人別枠方式」を導入したことにある、と指摘したことである。つまり「1人別枠方式」を廃止しない限り「一票の格差」は解消しないと断じたのである。もっとわかりやすく言えば、人口が最大の東京都1300万人にも最少の60万人の鳥取県にも無条件に一人ずつ議員を割り振り、残り253人を各都道府県の人口に応じて割り振るという制度そのものが一票の重みは同等であるべきとする日本国憲法の理念に違反している、というのが最高裁判決の趣旨であった。
 
 私自身は最高裁判決を完全に支持しているわけではない。だから前回のブログではこう主張した。

 民主主義というのは、絶対的な理想的政治形態ではない。大哲学者プラトンは「民主主義は衆愚政治(愚民政治とも訳されている)」と言ったほどである。
 現に最高裁に否定された「1人別枠方式」にしても、東京都民が日本人全人口の10%を超え、神奈川・千葉・埼玉など首都圏を含めると、全人口の27.8%、この首都圏4都県に大阪・愛知を加えると、なんと日本人の40.5%が集中していることになる。(中略)では多数決を原則とする民主主義を選挙制度や法律にダイレクトに導入するとどうなるか、結果は火を見るより明らかだろう。
 民主主義には多くの欠陥があるが、かといって民主主義にとってかわるだけのよりベターな政治形態(※「政治システム」と書いたほうがよかった)をまだ人類は発明できていない。ひょっとしたら永遠に発明不可能かもしれない。そうした状況の中で私たちにできることは民主主義の欠陥を理解したうえで、より良い政治を実現すること、言い換えれば民主主義をより成熟させていくこと――それしか現実問題を解決する方法はない。
 そうした観点から相次ぐ違憲判決を契機に、よりベターな選挙制度をどうやったら構築できるかを考えてみた。
 まず民主主義を標榜する国の選挙制度は基本的に議員たちが決めていることに根本的な問題があることをご理解いただきたい。国会議員に限らず。選挙でリーダーを選ぶ組織の構成員が、自分たちにとって不利な制度を作るわけがないということである。だから、その組織の構成員には選挙制度を作る資格を与えないことである。つまり国会には選挙制度についての権限を与えず、裁判所(地方・高等・最高)の中に選挙制度制定部会を設け(常設である必要はない。国民や市民の要請に応じて随時開催すればよい)、そこで地方選挙や国政選挙制度についての議論を尽くしたうえで国民や市民に制度の是非を問う――そういう仕組みにしたらどうか。(中略)
 一票の格差の問題を単に選挙制度の問題に終わらせるのではなく、日本が民主主義の欠陥をどう克服し成熟させていくかの試金石にしたい。

 以上が前回投稿したブログの要点の抜粋である。もちろん現在の裁判所に選挙制度を制定できる権限がないことは百も承知で、私は裁判所にげたを預けるしか方法はないと考えたのである。三権分立という民主主義制度の大原則から逸脱していることも承知の上だ。しかし常設的な第三者委員会を設けるのは税金の無駄遣いになるし、また第三者委員会をその時代の権力から完全に独立したものとして作ることは事実上不可能である。確かに裁判所は立法府ではないが、「1人別枠方式」を違憲と判定した最高裁判所が、限界のある民主主義の枠内での選挙制度の在り方についての基準を作るしか方法がないではないか。そして最高裁判所が作った基準に基づいて、国政選挙制度については最高裁判所の国政選挙部会が、県知事や県会議員の選挙制度については高等裁判所が、市会・区会・町村会議員の選挙制度については地方裁判所がそれぞれ分担して構築する。とりあえずは、そうした超法規的処置で現行選挙制度の問題点を解決するしかないと思う。

 あらかじめこの私の考え方を基準に全国紙の社説を検証してみたい。ことさらに胸を張るわけではないが、少なくとも私程度の見識は持って「一票の格差」問題に取り組んでいただきたいと願いながら……。(なお各紙の引用について、改行箇所は1字あけることにする)

 まず先陣を切った朝日新聞と日本経済新聞から見てみよう。朝日新聞はこう書きだした。
「改めて、この国の政治の異様をおもう。 違憲の選挙で議席を得た国会議員が法律や予算を作り、違憲の議会が選んだ内閣とともに国の歩む方向を決める。これを異様といわず何といおう」
 なかなかいい線をついていると思った。さらに読み進めよう。
「憲法が掲げる『正当に選挙された国会における代表者』とは何か。国民主権とは、民主主義とは、法の支配とは。(中略) あいもかわらず、どんな仕組みにすれば自党に有利か、政局の主導権をにぎれるかといった発言がなされ、『裁判所はやりすぎだ』と見当違いの批判を繰り返す」
 この指摘も私の主張とおおむね同じだ。同感する。
 ところが、この直後、とんでもないことを朝日新聞は言い出した。はっきり言って精神分裂症的主張だ。
「0増5減による新区割り法を、まず成立させる。そのうえで、これは緊急避難策でしかないとの認識にたち、最高裁が違憲の源とした「1人別枠制」(※正確には「1人別枠方式」)を完全に排する抜本改正をする」
 この主張は高校生程度の読解力を前提にすれば、まず安倍内閣のもとで0増5減の新区割り法を成立させて国会を解散して、いちおう一票の格差を2倍以下にした新区割りによって総選挙を行い、次の政府が「1人別枠制」を排した抜本的な選挙制度改革をする、というようにしか読めない。それ以外の解釈は絶対に不可能である。なぜなら、現在の安倍内閣のもとでいったん0増5減の新区割り法を成立させたのち、国会を解散せず、やはり同じ安倍内閣のもとでいったん野党の協力を得て成立させた新区割り法を破棄して抜本的な選挙制度改革をするなどというようなバカげたことは、北朝鮮のような国でも絶対にやれっこないことだからだ。私が「精神分裂症的主張」と極めつけた理由は中学生でも理解できるだろう。

 次に日本経済新聞の社説である。これも朝日新聞と同様精神分裂を起こした主張だ。その箇所を引用する。
「国会はまさに崖っぷちに立たされた。16件すべてが上告され、最終的には最高裁統一判断を示す見通しだが、まず小選挙区の『0増5減』を直ちに実現させ、違憲状態を解消すべきである。 そのうえで、抜本改革を早急に進める必要がある。ここでまた小手先の数合わせに終始し、選挙のたびに最高裁の判断を待つような対応が続けば、立法府としての信頼を完全に失ってしまう。(中略) 格差是正をめぐる与野党協議が難航するのは、多くの課題を一緒に議論するからだ。各党の利害調整が最も難しい比例代表の定数削減の幅などで合意が得られない限り、他のすべての選挙制度改革が実現しないという現在の進め方では、今国会は成果なしで終わる公算が大きい。 1票の格差の是正には都道府県に配分する小選挙区の数や区割りの見直しが不可避であり、これを先行させるべきである」
 選挙制度の2段階改革論は朝日新聞とまったく同様で、すでに朝日新聞に対する批判をしたので繰り返さない。ただ朝日新聞には多少あった「憲法が掲げる『正当に選挙された国会における代表者』とは何か。国民主権とは、民主主義とは、法の支配とは」といった問題意識のかけらも日本経済新聞の社説には見られない。日本経済新聞は経済問題だけ論じていればよい。こんな社説を恥ずかしげもなく載せるようでは、政治や民主主義を語る資格がない。

 翌29日には毎日新聞と産経新聞が「一票の格差」問題について社説を書いた(産経新聞は「社説」ではなく「主張」としているが、私のブログでは他紙と同様「社説」として扱わせていただく)。まず毎日新聞から読み解こう。社説のタイトルは「区割り案勧告 まず『0増5減』の実現を」で、朝日新聞や日本経済新聞と一見変わらないが、多少踏み込んだ主張もしている。
「この『0増5減』策はすでに一部の高裁が判決で不十分な改正だと指摘しており、野党の中にも反対論が出ている。だが、最悪なのは与野党でもめているうちに結局、何も是正されない事態である。違憲判決を突きつけられた立法府の最低限の義務として、まずこの改正案を今国会で即座に成立させるべきである。
(中略)政界は格差是正と定数削減、選挙制度改革がごちゃ混ぜになって収拾がつかなくなっている状況にある。 どんな選挙制度にするかは、国の政治形態をどうするかという根本的な問題につながる。そしてかねて提起しているように、衆参一体で改革を検討すべきテーマでもある。利害がからむ各党に任せておくのはやはり無理ではなかろうか。 ここは緊急的な対応として即座に『0増5減』を実現させたうえで、民主党の海江田万里代表がやっと言及し始めたように、その後の抜本改革は第三者機関に委ねた方がいい」
 0増5減先行主張としては比較的ましな方であることは認めるが、0増5減を成立させて国会を解散させ、いったん一票の格差を2倍以内にしたうえで新しい国会で抜本改革をしろと言うのか。だとしたら、朝日新聞の主張とまったく変わらない。そんなことは絶対不可能なことはすでに書いたから繰り返さないが、多少毎日新聞の主張に新味が見られるのは、抜本改革は「国の政治形態をどうするかという根本的な問題」であり、「衆参一体で改革を検討すべきテーマでもある。利害がからむ各党に任せておくのはやはり無理ではなかろうか」「その後の抜本改革は第三者機関に委ねた方がいい」という主張である。
 毎日新聞の主張の問題は、やはり二段階改革を唱えている点にある。いったん0増5減で一票の格差を2倍以内(1.998倍)に抑え込むという自民法案を成立させる条件として、民主党が「法案成立に協力したら、直ちに国会を解散し、抜本的改革法案について国民の信を問うか」と自民党に迫ったら、自民はどうするか。そんなことの予測がつかないほどのバカではないだろう。
 もう一つ、第三者委員会に選挙制度の抜本的改革を任せるという話だが、第三者委員会をどう設置するかの提案がない。これでは絵に描いた餅にもならない。私もこの問題については熟慮に熟慮を重ねた結果完全に政治から独立できる機関として裁判所に超法規的処置で検討してもらうしかないと考えた。安易に「第三者機関」などと持ち出して、海江田の後押しをするがごとき主張はすべきではないだろう。

 次に産経新聞である。「0増5減は最低条件だ」という見出しが目を引いた。いったんまたか、と思ったが、ちょっと違った。書き出しはこうだ。
「衆院選挙区画定審議会が、小選挙区の『0増5減』や『一票の格差』を2倍未満に押えるよう求めた新区割り案を、安倍晋三首相に勧告した。 あくまで応急的処置である。だが、立法府はそれすら怠り、一票の格差をめぐる一連の高裁判決で『違憲』や初の『選挙無効』という厳しい判断を招いてきた」
 実はこの審議会の勧告(以下「区割り審」と略す)については、朝日新聞が社説で2段階改革論を主張した翌29日の朝刊トップ記事の解説で2段階改革論を真っ向から切って捨てた。そうなった経緯を私は文書で29日に読売新聞にFAXしたので、このブログの最後に差しさわりのない範囲で抜粋転記する。とりあえず産経新聞の社説に戻ろう。産経新聞はこうも主張する。
「自民党が抜本的な選挙制度改革として、第2党以下のために60議席の『優先枠』を比例代表に設けるという案で、公明党と合意したのは大いに問題だ。 一票の平等の価値を崩し複雑で分かりにくい。加えて、民主党、日本維新の会、みんなの党の3党を反対姿勢で結束させ、緊急是正策の実現も難しくしている。 選挙制度改革は、中小政党への配慮、中選挙区制復活論、定数削減など多くの課題が錯綜(さくそう)して合意のめどが立っていない。政治家が決断できないなら、選挙制度審議会に委ねる必要があろう。 その際にも、現行の小選挙区比例代表並立制の何が問題なのかを明確にしておくべきだ。 選挙区で敗れても比例代表で復活できる重複立候補の是非は論点となろう。政党交付金の減額や政治資金規正法の強化など政治家が自らを律する論議も不可欠だ」
 産経新聞の引用が長くなったが、各紙の社説の中では一番まともに近いと思ったからにすぎない。見出しの『0増5減は最低条件だ』と、実際の主張の内容は必ずしも一致していない。見出しで「最低条件」と位置付けた0増5減案を産経新聞はまったく容認していないからだ。そのことを明確にするため、あえて産経新聞の社説にかなりのスペースを割かざるを得なかったのである。
 しかし現行の選挙制度の問題点を要領よくかつ的確にまとめながら、結局「政治家が決断できないなら選挙制度審議会に委ねる必要があろう」と主張しただけで、肝心の選挙制度審議会なるものをどうやって設けるかの主張がないのは残念だった。通常、この手の審議会を設置するとしたら政府なり総理の諮問機関ということになる。当然自民党にとって都合のいい選挙制度を答申するような審議会になることは目に見えている。私が、あえて裁判所と、ほとんど実現不可能な案を提案したのは、政党や政治家から完全に独立して「国民の、国民による、国民のための」選挙制度を構築できる場所は裁判所しかないからだ。ほとんど実現不可能だが、もし国民の大多数が、この方法しかないと思ったら、世界で初めて司法が立法府を監視できる状態が生まれる。そのことの意味と重大性を国民的議論を巻き起こして実現してもらいたいと思う。

 最後は30日に社説を出した読売新聞だ。「民主の一転反対は解せない」というタイトルで、自公が早期成立を図ろうとしている0増5減案に反対している民主党の党利党略に対する批判が主張のポイントだ。読売新聞はこう主張する。
「そもそも昨年の衆院選前に1票の格差を是正できなかった主たる責任は、当時の与党・民主党にある。衆院解散を先送りする『党略』の思惑から、格差是正と抜本改革の同時決着に固執したためだ。 民主党は昨年秋、ようやく『0増5減』の先行処理に同意したのに、今になって反対に転じ、抜本改革との同時決着に回帰するのは筋が通らない。緊急性を要する格差是正が次期衆院選に間に合わない恐れさえ生じよう」
 いったい読売新聞は次期総選挙をただ一票の格差を縮小しただけで行ってよいと考えているのだろうか。読売新聞はこの主張の直後に「無論0増5減は暫定的な改革にすぎない」とは書いているが、いったん0増5減で一票の格差が2倍以下になったら、選挙制度改革の芽は消えてしまう。
 最高裁判決の要点は次の二つである。
 ① 一票の重みに2倍以上の格差があるのは、国民の権利の平等を定めている憲法に違反している。
 ② そうなった原因は人口の多少にかかわらず、47都道府県に「1人別枠」の議員を配分したからで、「1人別枠方式」を廃止すべきである。
 この最高裁判決の真意はすべての国民の権利の平等化を実現するため、人口の多少を無視して47都道府県に一人ずつ別枠で議員を配分している現行の小選挙区制は憲法違反の制度だという点にある。
 その最高裁判決の真意を矮小化して「一票の格差を2倍以下にすれば憲法違反にならなくなるだろう」というのが党利党略に基づいた自公の0増5減案ではないか。もちろん民主の「反対のための反対」も党利党略に基づいたものでしかないことは私もあえて否定はしないが、読売新聞が民主の党利党略を問題にするなら、自公の党利党略も問題にすべきだろう。
 この社説の締めで読売新聞はこう書いている。
「現行の小選挙区比例代表並立制は、小選挙区で敗れた候補の復活当選制度など、様々な問題が指摘されている。衆参両院の役割分担も含めた抜本改革は不可欠だ。 政党間の審議が進展しないようなら、有識者会議の活用を真剣に考える必要がある」
 確かに正論だが、他紙の社説についても書いたが、いったいどうやって有識者会議を作るのか。その具体的提案がなければ他紙と同様アリバイ作りのためのイタチの最後っ屁でしかない。

 このブログを終えるに際し、読者にお約束した朝日新聞の問題について読売新聞に送ったFAXの要点箇所を抜粋(部分的に要約)しておこう。

 (朝日新聞28日社説の「0増5減に基づく新区割り法を、まず成立させる。そのうえで、これは緊急避難策でしかないとの認識に立ち、最高裁が違憲の源とした『1人別枠制』を完全に排する抜本改正をする」という主張について)素直に読めば、選挙制度改革を2回に分けて行え、という主張になります。そうなると疑問が生じるのは1回目の0増5減改革は安倍内閣のもとで行い、そこでいったん国会を解散して新選挙区のもとで総選挙を行い、さらにその総選挙で成立した新内閣のもとで1人別枠方式を排した抜本的な選挙制度改革を行う、という主張としか読み取れません。
 (そのことを朝日新聞に対し手厳しく批判したことを書いた後、結果について以下のように書いた)
 なお今朝(29日)の朝刊1面トップで朝日新聞は政府の衆院選挙区画定審議会(区割り審)の勧告を報じました。案の定「0増5減」の自民党案を第三者を装って権威づけしたものでした。その内容を社説氏は事前にキャッチしていたため、あのような社説を書いたのでしょう。しかし、私の昨日の批判は無意味ではなかったようでした。この記事の解説(筆者は河口健太郎氏)で「ようやくまとまった区割り見直し案の勧告では、最大格差が1.998倍と、違憲の目安とされる2倍をかろうじて下回った。『一人一票』にはほど遠い、取り繕った案にすぎない」と、前日の社説の主張を事実上完全に否定してしまいました。河口氏はさらに解説記事の締めでこう書いています。
「人口に応じた定数配分を徹底すると、鳥取県の定数が1になるなど地方の議席が大幅に減ることになる。選挙権の公平を守りながら、人口が少なく相対的に発言力が弱い地方にも配慮するのは難題だ。その場しのぎではない格差の是正策が国会には迫られている」

 以上で今回のブログを終える予定で、タイトルをどうしようかと考えながら日本テレビの『真相報道バンキシャ』を何気なく見ていたら、なんとアメリカでは裁判所の命令に従わず議会が格差の是正を行わなかったら、裁判所が議会に代わって区割りを行うというニュースが報じられた。私が提案した裁判所が政党や政治家と完全に隔絶して公正・公平な選挙制度を作ることは夢物語ではないようだ。マスコミは、政治家や政党に選挙制度の改革を任せたら党利党略で自分たちに都合のいい制度しか作らないと主張するなら、得体のしれない第三者機関とか有識者会議、選挙制度審議会などという代物に選挙制度の改革を任せろなどと言うより、現にアメリカでは可能な裁判所に選挙制度改革を委ねることを主張したらどうか。私がすでに提案してきたように。

 
コメント

「1票の格差」を単に格差是正に終わらせるべきではない !!

2013-03-27 13:57:15 | Weblog
 全国各地の高等裁判所で、先の衆議院議員選挙が違憲と認定され、無効との判決さえ出ている。
 そもそもこうした判決が続出しているのは最高裁判所が2年も前に、現行の選挙制度は1票の重みに大きな差異がありすぎ憲法に違反しているとの判断を下し、その理由として地方に手厚く議席を配分する「1人別枠方式」を憲法違反の原因として廃止を求めたにもかかわらず、国会が選挙制度改革に本腰を入れて取り組まなかったことが高裁での判決に反映されたと言ってよいだろう。
 「1人別枠方式」というのは1996年10月の第41回総選挙以来導入された小選挙区比例代表並立制度導入の際に設けられた、小選挙区300を区割りする際に47都道府県に各1人を割り当てるという制度である。つまり小選挙区制で選出される議員は300人なのだが、そのうち47人は「実質的」には「1人別枠方式」の恩恵で選ばれた議員だということになる。これが最高裁で「1票の格差を生んだ原因」と断罪されたのである。「法の下での平等」という憲法の理念に違反するという趣旨である。
 もう少しわかりやすく説明しよう。
 例えば神奈川県の場合、253(300-47)の「実質的な」小選挙区制で割り振られる選挙区は17区になるはずなのだが、そこに別枠の1人が加算されることで「実際の」選挙区は18区になり、小選挙区での当選者は18人となる。この水増し議員に投じられた1票の重みは、当然のことながら都市部より地方の農村地帯のほうが重くなる。例えば日本一人口が多い東京都の場合は1316万人、一方日本一人口が少ない鳥取県の場合59万人である(いずれも2010年国勢調査による)。「1人別枠方式」で当選した議員が獲得した1票の重みはなんと22.3倍にも上る。この「1人別枠方式」による水増し議員に投じられた1票の重さが小選挙区で当選した議員300人が獲得した票の格差2.43倍を生んだ最大の原因、というのが最高裁の判断だった。
 
 民主主義というのは、絶対的な理想的政治形態ではない。大哲学者プラトンは「民主主義は衆愚政治(愚民政治とも訳されている)」と言ったほどである。
 現に最高裁に否定された「1人別枠方式」にしても、東京都民が日本人全人口の10%を超え、神奈川・千葉・埼玉など首都圏を含めると、全人口の27.8%、この首都圏4都県に大阪・愛知を加えると、なんと日本人の40.5%が集中していることになる。なお大阪・愛知は単独の府県の人口だけを計算に入れたが、関西圏・中部圏まで含めると日本人の6割以上がこの3大都市圏に集中しているのだ。では多数決を原則とする民主主義を選挙制度や法律にダイレクトに導入するとどうなるか。結果は火を見るより明らかだろう。
 民主主義には多くの欠陥があるが、かといって民主主義にとってかわるだけのよりベターな政治形態をまだ人類は発明できていない。ひょっとしたら永遠に発明不可能かもしれない。そうした状況の中で私たちにできることは民主主義の欠陥を理解した上で、より良い政治を実現すること、言い換えれば民主主義をより成熟させていくこと――それしか現実問題を解決する方法はない。
 そうした観点から相次ぐ違憲判決を契機に、よりベターな選挙制度をどうやったら構築できるか考えてみた。
 まず、民主主義政治を標榜する国の選挙制度は基本的に議員たちが決めているということに根本的な問題があることにご理解をいただきたい。国会議員に限らず、選挙でリーダーを選ぶ組織の構成員が、自分たちにとって不利な制度を作るわけがないということである。だから、その組織の構成員には選挙制度を作る資格を与えないことである。つまり国会には選挙制度についての権限を与えず、裁判所(地方・高等・最高)の中に選挙制度設定部会を設け(常設である必要はない。国民や市民の要請に応じて随時開催すればよい)、そこで地方選挙や国政選挙制度についての議論を尽くしたうえで国民や市民に制度の是非を問う――そういう仕組みにしたらどうか。
 自民党は55年体制以来、都市部を中心に支持層を固めていた社会党系(旧総評などを構成していた大企業の労働者は大都市圏に集中していた)に対し、農村などの地方を地盤にして政権を維持してきた。だから地方票を失うことは自民党にとって死活の問題だった。
 本来都市と地方の対立、あるいは格差を解消するのは政治的課題であり、それこそ民主主義の仕組みの中で「多数の利益だけを優先すべきではない」と国民に訴えるのが民主主義の成熟を図る最善の手段である。が、依然として地方票にしがみつくため地方重視の選挙制度である「1人別枠方式」を作り出すようなことをするから、最高裁から憲法違反として断罪される羽目になったのだ。
 その結果、安倍総理が今この「1人別枠方式」に苦しんでいる。地方出身の国会議員が「TPP交渉参加反対」で大団結を組み、安倍総理の足元を揺さぶっているからだ。
 TPP交渉に参加して日本が5年後、10年後ではなく50年後、100年後の未来を構築できるか否かは、自民党がどうなるかこうなるかの問題ではない。
 1票の格差の問題を単に選挙制度の問題に終わらせるのではなく、日本が民主主義の欠陥をどう克服し成熟させていくかの試金石にしたい。
コメント

自民党政府はいつまでコメ農業に事実上の「生活保護」政策を続けるのか !?

2013-03-25 13:22:35 | Weblog
 安倍自公政権は、TPP交渉参加に際し、大打撃を受けると考えられている零細農家への所得補償を考えているようだ。
 この政策が憲法違反であることに気付いているマスコミは皆無のようだ。批判も疑問も呈しているマスコミはないからだ。
 国(政府)が特定の人あるいは家族への所得補償を行うべき行為は憲法第25条に基づいて制定された生活保護法以外には一切認められていない。
 憲法第25条にはこうある。

すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.国はすべての生活部面について社会福祉と、社会保障及び公衆衛生の向上に努めなければならない。

 この規定に基づいて生活保護法が制定されている。実際、生活保護法第1条には以下の記載がある。

日本国憲法第25条に規定する理念に基づき、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助成すること。

 憲法第25条に基づいて定められている国民あるいは家族に対する健康で文化的な最低限の生活を保障する手段として設けられている制度は生活保護法だけである。
 生活保護については様々な社会問題が発生しているが、国が自ら零細農家に対する例外的生活保護を実施しようとしていることにマスコミが全く無視しているのはどういうことか。
 もちろん農家は生活保護を受ける資格がないなどとは私は言っていない。私は昨年末『今年最後のブログ――新政権への期待と課題』と題するブログ記事を12月30日に投稿した。その中で私は三つの提言をした。
 一つは税制改革。その中でこう書いた。「まず贈与税と相続税の関係を見直し、現行のシステムを完全に逆転することを基本的方針にすべきだ。つまり相続税を大幅にアップし、逆に贈与税を大幅に軽減することだ。そうすれば金を使わない高齢の富裕層が貯め込んでいる金が子供や孫に贈与され、市場に出回ることになる。当然内需が拡大し、需要が増えればメーカーは増産体制に入り、若者層の就職難も一気に解消する。そうすればさらに内需が拡大し、メーカーはさらに増産体制に入り、若者層だけでなく定年制を65歳まで拡大し、年金受給までの空白の5年間も解消できる」
 二つ目は消費税導入に当たり、依然としてくすぶっている生活必需品の軽減税率導入問題である。「私は消費税導入はやむを得ないと考えている。ただ食料品などの生活必需品を非課税あるいは軽減税率にするのではなく、『聖域なき』一律課税にして、低所得層には生活保護対策として所得税を軽減すべきであろう」
 最後がTPP交渉参加問題である。前の二つは要点だけ述べたが、この問題についてはほぼ全文(といってもそれほどの量ではない)を掲載する。

 私自身は、野合政党であり、連合と旧小沢チルドレンをバックにした輿石幹事長に足を引っ張られながら、最後の土壇場で自公の協力を取り付けて、少子高齢化に歯止めがかからない日本の将来の布石を何とか打った野田前総理を政治家として高く評価している。野田前総理は。選挙で農民票を失うことを覚悟でTPP交渉参加の方針を打ち出していた。(中略)
 確かに選挙には勝たなければならないが、日本の将来を危うくするような公約(マニフェスト)を並べ立てて票の獲得を目指すような政治家に日本の将来を任せるわけにはいかない。その最たるものが日本の農業保護政策だ。資本主義社会の基本原則は自由競争である。もちろん今すぐ何でもかんでも自由競争にしろなどとは言わない。自由競争社会で勝ち残れるような手段を構築することと、その構築が完成するまでの一定の猶予期間を設ける必要はある。だが、どうやっても勝ち残れない場合は別の救済手段を設けるべきだ。その典型がコメ農業である。実際今すぐに自由化しても生き残れる国産米の生産量は50%以上あるそうだ。ただしその50%以上の国産米を生産している農家(農業法人も含め)は全体の5%以下だそうだ。つまり農家(兼業農家も含む)の95%はどうやっても自由競争に生き残れない農家だ。そういう農家は減反奨励金などの保護策ではなく(※この時点では零細農家に対する所得補償策は俎上に上っていなかった)、生活保護の対象として救済すべきだ。つまり全資産を処分してもらって、憲法が定めている最低の文化的生活水準を維持できる生活保護をすべきである。95%の大半は兼業農家だから、生活保護の対象にする必要はない。ほんの一握りの零細専業農家への生活保護費など、現在の農業保護をやめれば。おつりが出ることは間違いない。
 そういうと「食糧安保」を喚き散らす連中がいる。それなら言わせてもらうが、彼らは「エネルギー安保」を考えたことが一度でもあるか。日本のエネルギー自給率はたったの3%しかない。食料自給率を高めるためTPP交渉にそっぽを向いて、日本が自由競争世界の中で孤立化し、エネルギー源(石油・石炭・天然ガス・ウラン)の輸入がままならなくなってもいいのか。そういうエゴを「民意」と認定するような政治家には政治家の資格がない。
 はっきり言う。日本は直ちに「聖域なきTPP交渉」への参加を表明すべきだ。TPP交渉に参加したからと言って、今すぐ直ちにすべての関税をゼロにしなければならないというわけではない。一定の猶予期間は認められる。その猶予期間のうちに競争社会で生き残れるコメ農業を育てるための努力は政府は農業団体と協力してやるべきである。それでも競争に勝てない農家は気の毒だが、生活保護受給者になっていただく。
 日本が、自らそういう血を流す覚悟を世界に向けて発信すれば、国際社会における日本の発言力は格段の重みをもつようになる。

 改めて強調するが、この提言は昨年12月30日に投稿したブログ記事である。
 ついでに、安倍総理も主張している「食糧自給率を高める」ことがいかに危険なことか、述べておきたい。
 北朝鮮が過去数年飢饉が続き食糧危機に陥っていることは私たちもよく知っている。幸い日本は豊作が続きコメ余り状態が続いているが、日本が飢饉にならないという保証はない(コメ余り状態は豊作だけが原因ではなく、食生活の多様化により、日本人特に若い人たちのコメ離れも大きく作用している。つまりコメの需給バランスが崩れていることもコメ余り現象の原因の一つなのである)。この傾向は少子高齢化に歯止めがかからない限り続くと考えなければならない。コメだけを「聖域」とする考え方は早晩若い人たちによって崩壊させられることは疑いを入れない。
 しかしコメが依然として日本人の主食であることは否定できないし、私もコメが日本の食文化の中心から外れることは望んでいないし、もし将来そういう状況になるとしたら悲しいことだと思う気持ちはだれよりも強いつもりだ。
 ではどうやって日本のコメ文化を守るか。
 いっそのこと、発想を逆転して、日本のコメ文化を世界に広めることを考えたらどうだろうか。
 植物性蛋白源としてのコメの栄養的価値やダイエット食に適していることはすでに欧米にも広く知られている。コメには大別して単粒種と長粒種の2種類があり、日本のコメは単粒種であるが、世界的には長粒種の国のほうが多い。しかし最近では長粒種の国でも日本の単粒種のおいしさが知られるようになり、長粒種が中心の中国も日本から単粒種を輸入する量が増えているという。もともと日本人もおいしいと認めているアメリカのカリフォルニア米は日本から持ち込まれた単粒種である。
 日本にとって「究極の食糧安保」とは、たとえ日本が飢饉になったとしても、世界各地からいつでも単粒種のコメを輸入できる状態を構築しておくことである。そのためには日本のコメ文化(単粒種文化)を世界中に広めていくことである。
 幸い日本のコメ技術は世界に突出している。かつてコシヒカリと肩を並べていた高級米のササニシキを市場から放逐してしまったのはあきたこまちをはじめ、日本各地でそれぞれの土地にあったコメの栽培技術に成功した結果であった。「絶対においしいコメは作れない」とされていた寒冷地の北海道でもきららをはじめブランド米が首都圏のスーパーにも大量に売られるようになった。
 一方スーパーの食肉売り場では国産品が売り場面積の多くを依然として占めている。多少高くてもおいしさや安全性を重視する日本人の多くは国産肉を多く買っているようだ。これは決して国産品重視のスーパーの愛国心の表れではない。
 繰り返すが、日本の食文化を守り、食糧安保を確実なものにし、さらに世界の自由貿易の推進に貢献することで、日本の国際的発言力を増大する方法は「聖域なきTPP交渉」参加を表明し、私が述べてきた提言を実行に移すことである。

 なお話題は全く異なるが、いまテレビ朝日の『スクランブル』を見ていて、不思議に思ったのは、なぜジャーナリストが全柔連の上村会長をはじめとする執行部が総辞職しようとしないのかという基本的疑問を提起しないのかということである。普通の組織なら、これだけ不祥事が次々と出てくると執行部が総辞職するのは常識である。その常識が通用しないということは、全柔連という組織が常識の通用しない組織だということではなく(そんな組織はあり得ない)、ここで執行部が総辞職すると、いまだにひた隠しにしている、とんでもないことが白日の下にさらされてしまうからではないかと、私なら考える。ジャーナリストがニュースを報道する場合、事実を明らかにするだけでなく、こういう疑問をもつ6感覚がないとジャーナリストとして失格であることを付け加えておく。


コメント

再び断言するーー公共事業で景気は回復しない。ケインズ循環論は今の日本には通用しない

2013-03-08 17:42:20 | Weblog
 この間、少し体調を崩していてブログを休んでいた。毎日NHKの国会中継を見ていたが、相変わらずくだらないやり取りに終始しており、日本の将来への不安感が増大するばかりだった。
 かつてアベノミクスの「3本の矢」の1本である公共事業は日本の景気回復にあまり貢献しないことをブログで書いたが、改めてもう少し理論的にまとめることにした。
 私が公共事業について初めてブログに書いたのは昨年12月17日に投稿した『総選挙で大勝した自民党がつくらなければならない国の形』の中である。16日が投票日だったから、その夜テレビで選挙速報を見ながら夜を徹して書いたブログだったと記憶している。この総選挙で自民はケインズ経済理論に基づく景気刺激策を訴えており、民主は「再びハコモノ公共工事の失敗を繰り返すのか」と批判したが、あまり効果はなかったようだ。そのことについて私は同日のブログで「ハコモノ公共工事が景気浮揚につながらなかったという(過去の)事実と、その理由を国民に理解できるように説明できなかったことが、自民との差別化を図れなかった最大の原因だったと思う」と書いた。
 そしてハコモノ公共事業が今の日本では景気浮揚にあまり大きな効果を発揮できない理由について、こう述べた。

 ハコモノ公共事業が世界恐慌脱出の大きな効果を上げたニューディール政策のことは皆さんもご存じだろう。ニューディール政策はケインズ経済理論に基づいて行われたが、ケインズ経済理論の大きな柱は不況対策として「失業の原因は労働力需要の減少によるという仮定に立ち、労働力需要を増大するための大規模公共工事を行えば失業者が減り、購買力が回復して内需が増大し、その効果があらゆる産業分野に波及して不況から脱することができる」という考え方に基づき、1930年代の世界大恐慌を克服するためにルーズベルト米大統領が行った一連の経済政策がニューディール政策だった。
 確かにケインズ経済理論は労働者に占める肉体労働者の比率が圧倒的に高かった時代には大きな効果を発揮したことは疑いを入れない。しかし今の日本のデフレ不況の原因は肉体労働者の失業によるものではない。デフレ不況の要因がケインズの時代と異なって相当複雑化しているのである。

 いま朝日新聞は「アベノミクスって、なに?」という長期連載の記事を掲載しているが、3月5日に公共事業問題を取り上げた。その記事ではこう書いている。

 公共事業など財政で景気をよくしようという考え方は、イギリスの経済学者、ジョン・メイナード・ケインズ(1883~1946)がとなえたことで知られる。1929年に世界中が不景気になった「世界恐慌」のころから、各国で取り組まれた。
 ケインズは、「働きたくない」のではなく、働く場がないので「働きたくても働けない」という失業者がいると考えた。そこで、政府がお金を出すことで、仕事や商売が必要になる「需要」をつくろうとした。
 アベノミクスでは全国で道路や橋、建物などをつくる。政府や自治体のお金が建設業界で働く人を増やし、その人たちが買い物をしたり飲み食いをしたりしてお金がどんどん回り、景気をよくする。こうした「乗数(じょうすう)効果」をねらう。(中略)
 果たして、財政政策は安倍政権の期待通りの効果を上げるだろうか。課題はないのだろうか。

 この問題提起は悪くない。では朝日新聞はこの問題提起に続いてどう主張するのか、大いに期待して翌6日の「アベノミクスって、なに?」を読んだら、まったく期待外れだった。書き出しがいきなりこうだ。

 アベノミクスでは、政府が景気をよくするために気前よくお金を出す。だが、日本の財政にはあまり余裕がない。(中略…国の借金が増え続けている状況を説明した後で、それでも安倍内閣は景気対策のために膨大な借金をつくろうとしていることを指摘)
 確かに公共事業によって目先の景気はよくなる。だが、ふくらんだ借金を放っておくとどうなるか。
 借金が増えれば投資家からの信用がなくなり、国債の買い手が付きにくくなる。新たな借金ができなくなったり、信用がない分、借金につく金利が高くなったりする。(中略)借金は雪だるま式に増えて財政再建は遠のく。

 この連載の書き手が日替わりに代わるということにも問題があるのかもしれないが、たとえ書き手が日替わりに代わろうと、連続性が絶たれるのは問題ではないだろうか。少なくとも5日付の記事ではケインズ経済理論が現代の日本で景気刺激策になるのかという問題意識をもって書いている。だから結びで「(ケインズ政策は)期待通りの効果を上げるだろうか。課題はないのだろうか」と締めている。ところが翌6日の記事では、ケインズ政策が現代に通用するかどうかの検証を行わず、日本が借金地獄に陥るという結論だけ出してしまった。
 もちろん効果が期待できない財政出動は財政難をもたらすだけということは高校生でも理解できる。だから、まずケインズ政策は現代日本にとって効果があるのかないのかをきちんと検証することのほうが先だろう。ニューディール政策の時も、アメリカは財政的に余裕があったから行ったのではない。財政難の中で、①財政出動をして公共事業を行い失業者を減らす②内需が拡大し産業が振興する③税収が増え財政難も解消する、という循環理論が効果を発揮してアメリカは世界恐慌を克服したのである。果たして同じような循環理論が期待できるか否かを検証するのでなければ意味がない。
 私が12月17日に書いたブログでは先述したように「確かにケインズ経済理論は労働者に占める肉体労働者の比率が高かった時代には大きな効果を発揮したことは疑いを容れない」と書いた。
 戦後の日本ではかなりの間「エンゲル係数」という言葉が流行った。今の若い人たちは聞いたこともない言葉だと思うが、このエンゲル係数というのはドイツの経済学者エンゲルが発見した、生活の文化的水準を示す指数として一時有名になった。具体的には家計(生活費)に占める食費の割合(比率)をエンゲル係数といい、エンゲル係数が高ければ高いほど、その家の文化的水準は低いというのがエンゲルの考え方だった。
 この考え方をケインズ理論の有効性に当てはめて考えてみよう。
 ケインズ理論が有効なのは公共事業で出動した財政が①失業率の改善にどの程度寄与するか②その結果内需がどの程度拡大して産業の振興に結び付き③その結果税収が増えて財政難も解決するか、という循環(サイクル)を検証する必要がある。
 私は前回のブログでは「労働者に占める肉体労働者の比率」を基準にして、現代の日本ではケインズ政策は有効ではないと結論づけたが、エンゲル係数のようにもう少し視点をずらして考えてみるとGDP(国内総生産)に占める総人件費の割合(比率)を基準に考えたほうがいいと思うようになった。まだその視点から国の経済政策の在り方を唱えている経済学者はいないようなので(私が知らないだけかも知らないが)、おこがましいが私の頭文字をとって、とりあえずNK係数と呼ばせてもらうことにする。
 つまりNK係数が高ければ高いほど(国内総生産に占める総人件費比率が高いこと)、その国の産業は発展途上段階にあり、ケインズ政策は現代でも有効に作用することが大きい。なぜなら、国家財政の出動を伴う公共事業費の大半が労働者の雇用に直結し、ケインズ循環が実現するからだ。
 それに対して先進工業国は、大規模な公共事業を行っても、出動した財政の大半は人件費以外の機械などの費用に回ってしまう。つまり失業率の減少を前提とするケインズ循環は残念ながら実現しないのだ。
 だとしたら、どうしたらいいか。現在はアメリカの景気回復への期待や世界各国(先進国)が足並みをそろえて金融緩和政策を行っているため、株価も急上昇し、日本も景気回復への期待が先行している感があるが、それは投機筋がそういう期待感をあおることで停滞してきた株式市場を見せかけの活性化することに一時的に成功しているだけで、オバマ大統領の緊縮財政政策が実行に移されればアメリカの景気回復への期待など一気に吹き飛んでしまう。
 アメリカも懲りない国で、かつてバブル時代には全国に数百という住宅ローン専門の金融機関(貯蓄組合)が生まれて、通常の信用調査では通らない低所得層に高金利の住宅ローンを組んで、バブルの崩壊と同時に貯蓄組合もすべて崩壊したが、その後遺症がまだ残っている中でリーマン・ブラザーズという投資銀行が、やはり低所得層に高金利で金を貸し付けて住宅を買わせ、担保に取った不動産を証券化して世界中の投資機関に売りまくった。かつてのバブル時代にも同様のビジネスが日本でも流行り、不動産を証券化した抵当証券を売る金融会社が雨後の筍のように生まれたが、バブル崩壊と同時に全滅した。
 日本ではその後、不動産を担保にした金融ビジネスは生まれなかったが、アメリカではリーマン・ブラザーズが低所得層に買わせた不動産を事実上の抵当証券化して売りまくり、優良な貸出先を国内に失った日本の銀行が高金利の魔力に取りつかれて買いまくり、2度目のアメリカでの土地バブルの崩壊によってリーマン・ブラザーズが倒産した際、日本の銀行も大打撃を受けたことは記憶にまだ新しい。
 なのに、またアメリカの景気回復期待は住宅需要が復活しつつあることによるという。一方オバマは緊縮財政によってアメリカ財政を立て直そうとしている。いったいアメリカの住宅需要が回復しつつあるというニュースは本当に信じていいのだろうか。私は今の「景気回復感」は一瞬にして消えるミニバブルではないかと思っている。そしてこのミニバブルは相も変わらず投機筋が演出したものではないかとすら考えている。ミニバブルの化けの皮は多分今月中にはがれるだろう。
 私なりの提案はすでに12月17日投稿のブログで行っており、その一部は安倍内閣も取り入れるようだ。その個所を再記して、今回のブログを終える。

 貧富の差の拡大が内需の減少をもたらしていることに配慮し、税体系を抜本的に改革して富裕層がため込んでいる金の流動化を図ることも大切である。具体的にはシャウプ税制まで戻せとまでは言わないが、最高税率(国税と地方税の合算)を現在の50%から65~70%くらいに累進性を強化し、一方低所得層の課税率を大幅に軽減することで内需を拡大することである。もう一つは金を使う機会が減少している高齢者がため込んでいる金をどうやって市場に流通させるかということだ。そのためには相続税を重くし、贈与税の軽減化を図れば、高齢者がため込んでいる金が若い子供や孫に移り、間違いなく内需の拡大につながる。内需が拡大すれば企業は供給を増大させる必要が生じ、先に述べたように海外進出に対する規制を強化すれば国内産業が息を吹き返して若年インテリ層の失業率も低下に向かうだろう。
 こうした不況対策であれば事実上の赤字国債になることが必至の建設国債を無制限に発行する必要もなくなるし、少子高齢化に歯止めをかけることができる可能性が生じる。
コメント