小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

日本の安全保障を考えるときの、もっとも重要な視点

2018-01-30 17:27:24 | Weblog
今日(1月30日)、BSフジのプライム・ニュース(20:00~)で、中谷元・森本敏の両・元防衛相による、日本の安全保障問題についての討論が行われる。番組宛に私の意見として送信した文がある。このブログを読まれた方はすでに番組は終わっているかもしれないが、非常に重要な視点なのでブログで公開する。物事はシンプルに考えることがいかに重要かを分かっていただきたい。


中谷さん、森本さん、お二人にお聞きします。
安倍さんが第2次政権に就いた時、中国の海洋進出を前提に「日本の安全保障環境はかつてないほど厳しくなっている」と主張して憲法違反の疑いが濃い集団的自衛権行使に道を開きました。
先の総選挙では北朝鮮の核・ミサイル開発を前提にして「日本の安全保障環境は戦後かつてないほどの厳しい状態にある」と訴え、自民党は大勝しました。
この間、安倍さんが一貫して主張してきたことは「日米同盟の深化による抑止力の向上」でした。
しかし日米同盟の深化によって日本の安全保障上のリスクは軽減したのでしょうか。それともかえってリスクが増えたのではないでしょうか。もともと北朝鮮は日本を敵国視していませんでした。「日米同盟の深化」によって北朝鮮から敵視されるようになり、日本の安全保障環境上のリスクは拡大しています。もし安倍さんが言うように、日米同盟の深化によって日本の抑止力が向上したのであれば、日本は自国の軍事力をさらに強化する必要はないはずです。安倍さんは自ら日本の安全保障環境を厳しくしてきたとしか思えません。
中谷さん、森本さんはどうお考えですか。

【追記】 案の定、この質問は採用されませんでした。もし採用されていたら、安倍安全保障政策は一瞬にして崩壊してしまいますから…。




研究に成果主義を持ち込むと……京大捏造論文の教訓

2018-01-25 02:57:51 | Weblog
 久しぶりに政治・経済問題から離れる。
 京都大学のiPS細胞研究所(山中伸弥所長)で発生した論文不正問題について書く。論文の不正を行ったのは同研究所の特定拠点助教の男性研究員(36)だという。報道では実名が公表されているが、このブログでは実名は伏せる。
 研究者の捏造論文事件として一躍社会的問題になったのは、2014年3月に発覚した理化学研究所・小保方晴子氏の万能再生細胞STAP細胞論文事件である。iPS細胞に次ぐ「世紀の大発見」として世界中を駆け巡ったこの論文は同年1月の『ネイチャー』に掲載され、「発見者」の小保方氏は一躍時の人となった。
その前年、山中教授のiPS細胞研究がノーベル賞を受賞したばかりで日本中が沸き立っていた時に、iPS細胞よりはるかに簡単な方法で作成でき、しかも細胞がガン化する可能性も低いというのだから、世界中の再生細胞研究者を驚愕させたのも当然であった。
 が、3月10日、NHK『ニュース7』がこの研究に対する疑惑を報道したのである。共同研究者の若山昭彦氏(山梨大学教授)が「研究データに重大な問題が見つかり、STAP細胞が存在する確信が持てなくなった」として、論文の共著者として名を連ねた研究者たちに論文取り下げを呼びかけたというのである。
 私が直ちにネット検索してみたら、日本中が大騒ぎをし始めた直後の2月中旬ころから研究者たちの間で、「この研究は捏造ではないか」という疑惑の声が生じていたようなのだ。
 NHKの報道の翌日11日に私は『小保方晴子氏のSTAP細胞作製はねつ造だったのか。それとも突然変異だったのか』と題するブログをアップした。そのブログで私はこう書いた。

自然科学の分野における新発見や発明は、再現性の確認が極めて重要な要素を占める。生物学の分野においては「突然変異」という現象が生じることはよく知られている。私も多分中学生のころ理科の勉強で学んだと記憶している。なぜ突然変異が生じるのかは、私の中学生時代にはもちろん解明されていなかった。ただ、科学的に説明不可能な変化が生物界にはたびたび生じていて、その現象を「突然変異」と称することになったようだ。
いまは、なぜ「突然変異」が生じるのかの研究がかなり進んでいて、DNAあるいはRNAの塩基配列に原因不明の変化が生じる「遺伝子突然変異」と、染色体の数や構造に変化が生じる「染色体突然変異」に大別されているようだ。こうした変異が生じる原因を特定できれば、同様の状況を遺伝子や染色体に作用させれば、それは「突然変異」ではなく人工的に同様の変異を作り出すことが可能になるはずだ。(中略)
で、問題はSTAP細胞が原因不明で生じた「突然変異」だったのか、それとも研究者としては絶対に許されない捏造研究だったのか、ということに絞られるのではないかと私は見ている。

この時期、私はブログで集団的自衛権問題に集中的に取り組んでいたが、散発的にSTAP細胞問題についても書いている。
3月14日には『小保方晴子氏のSTAP細胞作製疑惑に新たな疑惑が浮上した。彼女はなぜ真実を明らかにせず逃げ回るのか?』と題するブログをアップしている。
4月10日『小保方晴子氏が反撃を開始した①――STAP現象は証明できるのか?』
4月11日『小保方晴子氏が反撃を開始した②――論文のミスは悪意の所産だったのか?』
4月16日『STAP細胞研究のカギを握る理研・笹井氏は今日何を語る。小保方氏に追い風が吹き出すか?』
4月17日『ノーベル賞級といわれる理研・笹井氏の釈明会見は一見理路整然に見えたが、実は矛盾だらけだった』
6月5日『小保方晴子のSTAP細胞研究は科学史上、空前の虚偽だったことがほぼ確実になった』(※このブログ以降小保方を呼び捨てにした)
6月17日『STAP細胞は結局「青い鳥」だったのか…。関係者の処分だけでは済まされない』
8月28日『STAP,検証実験、いつまで税金の無駄遣いを続けるのか。理研の解体的出直しとは野依体制の一新だ』(※野依は理研理事長)
12月22日『STAP騒動はなんだったのか①』
12月26日『STAP騒動はなんだったのか②――理研は解体し、野依理事長は懲戒免職だ』

ここまで私がSTAP問題を追及してきたのは、二度と論文不正事件が生じないようにするためだった。が、東大で生じ、今度は京大iPS細胞研究所でも生じた。なぜか。
報道によれば、iPS細胞研究所に所属する研究者は、教授ら一部の主任研究者を除いてほとんどが有期雇用だという。論文不正を犯した助教も雇用期間が今年3月末に迫っており、研究成果が雇用延長や別の研究機関での就職に反映される状況だったようだ。
所長の山中教授は会見で「不正を防げなかったことを非常に公開し、反省している。重く受け止め、研究者への教育にこれまで以上に取り組んでいく」と頭を下げたが、問題の本質はそういうことではないと思う。
基礎研究には「成果主義」を求めること自体が間違っていると、私は思う。
大きな発見や発明の多くは、従来の思い込みを否定することによって生まれる。若い研究者を育てるには、発想のユニークさを重視する研究環境を整えることだ。発想はユニークだが、よく考えてみれば一理ある、というような研究者を育て、またそういう素質のある人の能力を見抜く力がリーダーには求められる。
私が小保方氏を犯罪者と決めつけるに至ったのは、逃げ回っていた彼女がようやく記者会見に出て、「私は200回以上再現に成功した」と言った瞬間である。それまでは「突然変異」の可能性を否定できないと考えていたが、世界中の研究者が小保方レシピで実験しても再現できないことを、彼女は200回以上再現したという。もし小保方氏の主張が事実なら、彼女は再現条件を付きとめていたはずであり、それを明らかにすれば疑惑は一瞬にして晴らせていた。生物界における突然変異でなくても、物理現象でも一定の条件が整わなければ再現しないこともある。本当に生じた現象なら、とことん再現条件を追及するのが研究者ではないか。
基礎研究に成果主義はそぐわない――そのことを、一連の論文不正事件が物語っている。
 

狂い出したNHKにつける薬はないのか?

2018-01-15 03:00:05 | Weblog
 公共放送としてのNHKの放送姿勢が問われている。NHKスペシャルもクローズアップ現代も、政治問題から逃げ回っているのだ。NHKが大スポンサーである相撲協会の不祥事も、NHKだからこそ膿を出し切る努力をすべきなのに、それからも逃げ回っている。14日のサンデースポーツでは春日野親方が解説を担当したが、その冒頭で親方が多少謝罪めいたことを述べたが、それで禊が済んだと思っているのか。いや、NHKとしては、それで幕引きをしたいのだろう。
 日曜討論について書く。6日には各政党党首の個別インタビュー番組を放送した。問題は日本共産党の志位委員長へのインタビューだ。日本共産党は日ごろから中国共産党や北朝鮮の独裁体制を批判し、日本共産党は独裁政治は行わないと主張している。が、それが嘘っぱちであることが、明らかになった。
 先の総選挙で日本共産党は大敗した。当然、志位執行部は責任をとって総辞職して新体制を構築すべきだったが、志位執行部の支配体制は盤石である。党内で執行部の責任を問う議論も生じていないらしい。ということは日本共産党には党内民主主義がゼロの組織だということがはっきりした。日頃、日本共産党の主張には共鳴できる点も少なからずあっただけに、党内民主主義がまったく機能していない実態に、私は愕然とした。日曜討論の司会者は、日本共産党のそうした独善的姿勢をまず問うべきだった。政策論はそのあとの話である。
 私はNHKのふれあいセンターの責任者(スーパーバイザー)に「NHKは何を考えているのか」と猛烈に抗議した。責任者は恐縮して、担当者に必ず伝えると約束した。
 昨14日の日曜討論では南北会談の「成果」についておもに専門家や学者に意見を聞く討論番組を放送した。それはそれで構わないが、慰安婦問題に関する日韓合意を巡って日韓関係がぎくしゃくしている中で、あえてその問題を避けて南北会談の「成果」を、各政党の開港関係責任者に議論させるのではなく、外野席の学者たちに無責任な議論をさせたのはなぜか。
 それでも、南北会談によって朝鮮半島の緊張が多少緩和する兆しが見えたようだが(現に米トランプ大統領は、「アメリカとともに北朝鮮に対する圧力と制裁を強化する」としてきた安倍総理をつんぼ桟敷において、「金正恩委員長と良好な関係を築きたい」と述べている)、南北会談の「成功」によって日本の安全保障環境にどのような変化が生じたのかという、私たち日本国民の最大関心事に、日曜討論の司会者は全く触れなかった。私は当然NHKのふれあいセンターの責任者に猛烈に抗議して、この最重要な問題を避けてなぜ今南北会談をテーマにしたのかと厳しく追及した。責任者は「申し訳ありませんでした」と謝罪して再び「担当者には必ず伝えます」といったが、NHKの体質が変わらない限りこうした放送姿勢は変わらないだろう。
 安倍総理は第2次政権の誕生以来、一貫して「日本と取り巻く安全保障環境は厳しい状況にある」として日米同盟の深化の必要性を強調し、内閣法制局による国連憲章51条のでたらめ解釈すらひっくり返し、「交戦権」を否認した憲法9条2項も無視した集団的自衛権行使容認の安保法制を強行採決した。
 そのうえ北朝鮮がアメリカの核の脅威に対する抑止力として核・ミサイル開発を強行するようになると、安倍総理は「日本を取り巻く安全保障環境は戦後かつてないほどの厳しさを増している」と主張し、メディアがその欺瞞性を暴くことができなかったことを「これ幸い」と解散・総選挙を強行して改憲勢力の勝利を収めることに成功した。
 安倍総理は、日本の安全保障環境を再整備すると称した日米同盟の深化を図り、北朝鮮の「挑発」に対する抑止力として軍事力の強化を図りつつある。 
 が、よく考えれば、これほど矛盾した話はない。日米同盟の深化によって日本の安全保障上のリスクが軽減できるのであれば、なぜ「抑止力」として自衛隊の軍事力を強化する必要があるのか。また日米同盟の深化をうたい、「会話で解決する時期は終わった。圧力と制裁を強化して北朝鮮に核・ミサイルの開発を断念させるまで、日本はつねにアメリカと100%友にある」とことさらに北朝鮮を挑発して、北朝鮮から「有事の際には日本を真っ先に火の海にする」とあからさまな敵視宣言をされている。
 いったい安倍総理の安全保障政策は、日本の安全保障環境のリスクを軽減できたのか、それともかえってリスクを増大させることになったのか、中学生でもわかるだろう。
 南北会談について、日本政府はまったくコメントできない。当たり前だ。「会話で解決する時期は終わった」と、発言が日替わりに変わるトランプ大統領が最も強硬姿勢だった時期に、「アメリカと100%ともにある」と宣言してしまった手前、ここでまたどう転ぶかわからないトランプ大統領に振り回されて対北朝鮮政策をころころ変えたりしたら、安倍総理は鼎(かなえ)の軽重を問われることになる。
 安倍総理にとって幸いだったことは、この時期、バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)を歴訪する日程が組まれており、いま遠く離れたバルト三国の首脳に一生懸命「北朝鮮に対する圧力・制裁の強化」で協力を求めている。バルト三国は日本の経済援助がほしいから儀礼的に安倍総理の要請に応えることを表明して安倍総理の顔を立てはしたが、もともとバルト三国の北朝鮮との関係はほとんどない。北朝鮮にとっては痛くもかゆくもない「圧力と制裁の強化」だ。
 そもそも、抑止力とは何か、ということについてメディアも政治家も真剣に、そして論理的に考えたことがないのではないか。たとえばリベラル色を強めている朝日新聞ですら、昨年末に連載した『変わる安全保障:抑止力を問う』のシリーズで、「抑止力」についてこう定義している(12月29日付朝刊)。

攻撃してくればダメージを与えるという姿勢を事前に示すことで、相手に攻撃を思いとどまらせるという軍事力の役割。相手に抑止を効かせつつ不測の事態を防ぐには、軍事的対応を実行する「意図」と「能力」を相手に正確に認識させることが必要とされる。日本の抑止力は日米安保に基づく在日米軍をはじめとする米国の攻撃力に強く依存しているのが実情だ。北朝鮮問題では、恐怖を感じている相手を追い詰めると、かえって攻撃を誘発する「抑止と挑発のジレンマ」も指摘されている。

 この定義のうち後段については、たぶん私が一番先にハルノートの挑発に乗って日本が無謀な対米開戦に踏み切ったことを例にとって、日米韓が北朝鮮に対して軍事的挑発を強めすぎると北が「窮鼠、猫を噛む」の虚に出かねないことを警告した。それを論客としても知られる丹羽宇一郎氏がそっくりパクった主張をTBSの時事放談でしたことがあるが、軍事的抑止力の強化はかえってリスクを高めることになりかねないというのが歴史的教訓だ。
 日本が北朝鮮を挑発しない限り、北朝鮮が日本に対して敵視政策をとることはあり得ないと私は考えているが、仮に北朝鮮の核・ミサイル開発によって日本の安全保障が脅かされると仮定しても、最も有効な抑止政策は、これまでも何度も書いてきたように「拉致問題を一時的に先送りしても北朝鮮との平和条約交渉を進め、北朝鮮の政策を軍事優先から経済優先に切り替えさせるために経済援助に踏み切るべき」である。
もともと北朝鮮は日本が統治していた時代に工業振興政策を進めてきた経緯もあり、かつてはアジアにおける先進工業地域でもあった。日本の援助によって韓国が先進工業国の仲間入りができるようになったのと同様、北朝鮮も先進工業国の仲間に入れるようになれば、日本をはじめアメリカや韓国、中国、ロシアなどとの経済的互恵関係が強まり、北朝鮮の政治体制の安定にもつながる。北朝鮮にとっても、また日本や韓国、アメリカにとってもそうした経済的関係を強めることが、軍事力に頼る必要がない最大の抑止力になりうる。歴史から学ぶということは、そういうことだ。アメリカの挑発に乗ってバカげた戦争を始めた日本が、今度は北朝鮮に対するバカげた挑発を繰り返して北朝鮮の暴発を招こうとしている。「馬鹿につける薬はない」という。

韓国・北朝鮮の南北会談の陰で、蚊帳の外に置かれた安倍総理の安保・抑止政策の意味を問う。

2018-01-11 07:33:14 | Weblog
 またも安倍総理は蚊帳の外だったようだ(「ようだ」と書いたのはメディアの報道がこの見方でほぼ一致しているからだ)。もちろん朝鮮半島における南北会談のことだ。
 すでに会談の結果はテレビのニュースや新聞でご承知だと思うので繰り返さないが、会談は北朝鮮のペースで進んだという。韓国側は何とか北朝鮮の核開発にストップをかけようと何度も試みたが、北朝鮮の頑なな姿勢を変えるには至らなかった。それでも米トランプ大統領は韓国の文大統領と深夜の電話会談で、「北朝鮮と対話する用意がある」と伝え、改めて平昌オリンピックが終了するまで米韓合同軍事演習を行わないことを確認した。
 南北会談が行われる前も、会談中も、会談が終わってからも、安倍総理周辺からはいかなるメッセージも発せられることはなかった。そりゃ、そうだ。「会話の時期は終わった。圧力と制裁で北朝鮮に核・ミサイル開発を断念させるまで、日本は100%米国とともにある」と言い張ってきた手前、トランプ大統領が話し合い解決に一歩踏み出すことは想定外のことだったのだろう。トランプ大統領が、安倍総理には何の事前相談もせずに(つまりトランプ大統領に恋焦がれている安倍総理を蚊帳の外に締め出して)、勝手に文大統領と電話会談を行い、北朝鮮との対話の可能性に踏み込んだからだ。
 韓国側は会談に際し、「朝鮮半島の非核化」について北朝鮮と何らかの前向きな合意を取り付けたかったようだが(韓国メディアはそうした希望的観測を振りまいていた)、実際には会談で非核化の話は一切出なかったという。そのうえ北朝鮮代表団の首席代表・李祖国平和統一委員長が報道陣にこう断言した。
「我々が保有する水爆や大陸間弾道ミサイルは、徹頭徹尾アメリカを狙ったもので、同族(韓国)や中露に向けたものではない」と。
 この発言には、日本の名前がない。日本なんかとるに足らずとみているのか、それともアメリカと戦争になった時には、これまでも北朝鮮首脳が公言してきたように「真っ先に日本を火の海にする」つもりだからなのか。
 私はこれまでも何度もブログで書いてきたように、安倍総理の安全保障政策は、かえって日本のリスクを高めているのではないかという疑問を呈してきた。
「集団的自衛権行使容認」を決めた安保法制にしろ、日米同盟の深化にしろ、安倍総理にとっては抑止力の強化と安全保障を高めるための政策だったはずだ。が、その結果、日本はトランプ大統領から「防衛装備品」を押し付けられ、北朝鮮からは敵視され、さらに「非核三原則の見直し」発言まで公然と飛び出している。日本の安全保障や抑止力の面から考えると、かえってリスクが増大しただけではないのか。
 日本が抑止力を高めるために自衛隊の軍事力を強化すれば、それは直ちに日本の隣国や周辺国への脅威になる。北朝鮮の核が、日本にとって脅威だというなら、北朝鮮がアメリカの核を脅威に感じて核・ミサイル開発に狂奔するのは、安倍総理の「抑止力の論理」とまったく同じである。安倍総理が自衛隊の軍事力強化の理由をいくら「北の脅威に対抗するため」と声を張り上げても、日本のかつての過ちを忘れていないアジア諸国の人たちにとっては、やはり「脅威」に映るだろう。
 そもそも世界の強国による軍拡競争は、常に【仮想敵の軍事的脅威に対する抑止力】として行われてきた。あれだけ悲惨な戦争を繰り返してきた日本は、「抑止力幻想」からいち早く脱皮することが大切なのではないか。
 実際世界は二度の世界大戦の経験から、戦争による国際紛争の解決という手段を根絶するために国連憲章を作り、国連憲章に基づいた国際連合を作った。国連憲章は日本の憲法の原型をなすもので、だから「平和憲法」として国民に広く定着してきた。
 国際紛争を解決する手段としての戦争(軍事力の行使)は、先の大戦以降ほぼなくなった。例外はイ・イ戦争と湾岸戦争の二つだけだが、ともにその遠因はヨーロッパ列強による中東の分割支配がもたらした後遺症といえなくもない。
 基本的に戦争の目的の大半は、経済的権益の拡大もしくは維持にある。過去の二つの大戦も、そうだった。が、日本を含め、そうした目的をあからさまに公にするわけにはいかず、それなりに「大義名分」のオブラートで戦争の真の目的を包み隠してはきたが(日本の場合、「大東亜共栄圏」とか「八紘一宇」といった「理想」を掲げた)、真の目的は経済的権益の拡大や維持にあった。
 だから戦後の世界は国連の下で国際紛争の平和的解決の道しるべを構築すると同時に、GATTをはじめ自由貿易の旗を掲げることで経済的権益の衝突を防ぐ努力を重ねてきた。その推進役を担ってきたのが、戦後のアメリカでもあったが、その結果アメリカは財政赤字と貿易赤字という双子の赤字を抱えるようになった。トランプ大統領の保護主義政策が米国民の心をとらえたのも、そうした一面が大きい。
 確かに外交力が軍事力に依存する要素は大きいが、日本は戦後、軍事力に頼らずに外交力を高める努力を重ねてきた。そうした歴代政権が重ねてきた努力を灰燼に帰す様な事態に、いま日本は突入しつつある。憲法論議が始まろうとしている今、私たち日本人には何が問われているのかを、今一度原点に立ち返って考えてみようではないか。メディアの果たす役割が問われている。

新年所感  私の「異論」がなぜ説得力を持つのかーー「知識」で主張しようとしないからだ。

2018-01-05 02:02:17 | Weblog
 遅ればせながら、明けまして新年おめでとうございます。読者の皆さんは正月3日間、どうお過ごしでしたでしょうか。私のように「毎日が日曜日」という方もおられるでしょうし、あるいはお勤めの方の中には「例年は5日が仕事始めだが、今年は金曜日に当たるので1日だけ出社してもあまり意味がないから仕事始めは週明けの9日から」と、年末の12月29日から合わせて11連休という優雅な方もいらっしゃるのではないかと思う。
 かくいう私自身は現役中から正月を挟んで約1か月近くは仕事もなく、ひたすら家族サービスと図書館通い、ゴルフ、フィットネスに集中していた。いまは図書館通いをしなくても、図書館で必要と思われる書籍を探さなくても、インターネットという史上最強のリアルタイム百科事典があるので、何かを調べようとするときの効率が著しく向上した。
 それは私の性格でもあるのだが、あまり人が気に留めないようないことに疑問を持つというか、引っかかるのである。あるいは突然、ほとんど人が疑問に思っていないことに、ふと「なぜ?」と幼児のように疑問を抱く習性が身についている。今日のブログは正月らしく、余り肩肘を張らずにすむことから書くが、私の思考法の一端でもあるので参考にしていただければと思う。
 あらかじめお断りしておくが、私はウィキペディアを「お気に入り」には入れていない。私のインターネットのトップページはヤフーにしているが、私にとってはグーグルよりヤフーのほうが使い勝手がいいだけのことである。検索方法は皆さんと同じように一つか二つ、あるいは三つになることもあるが、調べたいことについてキーワードを入力して検索する。たまたま多くの場合、ウィキペディアの解説が検索トップに出てくるので参考にすることが多いが、メディア関係者の多くは「ウィキペディアはだれでも自由に書き込めるので、あまり信用できない」と勝手に決めつけているようだ。はっきり言って、そう思っている人は自分の能力に自信がないからだろう。たぶん実際に能力がないのだろう。自信があればウィキペディアの解説をうのみにせず、疑問に思ったことを論理的に検証すれば済む。つまり「疑問に思う」能力に欠けているから、ウィキペディアの解説を読むと自分自身が汚染されてしまうという恐怖心を抱いているからとしか考えられない。
しかしウィキペディアにも問題がないわけではない。編集方針が権威主義に凝り固まっているからだ。だから投稿者が新鮮な解釈をした場合、必ず「出典が不明確」とか「独自研究の可能性がある」といった否定的な注釈がつく。ヤフーやグーグルで「集団的自衛権 誤解釈」とか「国連憲章51条 誤解釈」などのキーワードで検索をかけると検索トップに私のブログ記事が出るが、もし私がこの記事をウィキペディアに掲載しようとすれば、記事の根拠である出典として何十回も「国連憲章51条」を出すしかない。誰かの著作物を「出典」として明記したところで、その著作物も自分の主観で書いたもので、出典を明記したからといって記事の信頼性が増すわけではない。私はそうしたウィキペディアの欠陥を踏まえたうえで、ウィキペディアが提供してくれる「知識」に頼らず、自分の論理を構築するための手掛かりとして利用させていただいている。
 そうしたことを前提に、私が最近ゴルフをしながら感じた幼児的な「素朴な疑問」をどう解決したかのプロセスを書く。この冬は今のところ暖冬で「小春日和」の日が冬になっても多い。とくにゴルフをしていると、10時ころから14時ころまではゴルフ用の薄手のブルゾンを着ていると汗をかくほどの暖かさの日が多かった。が、私のメンバーコースは丘陵地帯にあるので、日が落ちるのが早く、15時ころになると太陽が隠れてしまうためヘアウェイでも急速に体感温度が低くなる。「秋の日はつるべ落とし」といわれるが、その意味は秋は日没後の薄明かりの時間帯が短いことであるが、丘陵地帯のゴルフコースでは周囲を山で囲まれているため日没が平地よりかなり早い。当然空はまだ薄明るく、しかしコースはヘアウェイでも日陰に入ってしまうため体感温度が急速に低下するというわけだが、私が幼児的発想で疑問を感じたのは「太陽は東からのぼり、西に沈む」という「常識」の根拠についてだった。そこでとりあえず、私が疑問を解くキーワードとして選んだのが「地球の自転」である。検索をかけると、やはりウィキペディアの解説がトップに出た。その冒頭部分を転記する。

地球の自転(ちきゅうのじてん、Earth's rotation)とは、地球が自身の地軸の周りを回転すること(自転)である。回転方向は東向きであり、地軸の北方向を正とすると右手回りである。北極星からは反時計回りに見える。

 この解説で、私は「地軸」とは何かということを調べる必要性を感じた。調べたら「北極点と南極点を結ぶ運動しない直線を指す」とある。実際ウィキペディアの解説記事には地球が右回りの回転をしている動画も載っている。そこで私はこどもが中学生時代に使っていた世界地図・日本地図の教科書を引っ張り出した。日本列島が北海道から九州まで、体の柔らかいゴルファーのフィニッシュ状態のような弓なりの形状をしていることを改めて確認した。ここで急きょ「日本の標準時」を検索することにした。日本の標準時地点が兵庫県明石市にあることは知っていたが、日本に時差がないのはどうしてかという疑問が生じたためである。そこで今度は「日本の標準時」で検索した。やはりウィキペディアの解説が検索結果のトップに出ており、「標準子午線は東経135度の経線」とある。だとしたらその経線上には多くの都市があるはずだ、と私は考えた。実際ウィキペディアによれば東経135度上にある都市は京丹波市・福知山市(京都府)、豊中市・丹波市・西脇市・加東市・小野市・三木市・神戸市(西区)・明石市・淡路市(兵庫県)、和歌山市(和歌山県)と12もあり、明石市はその一つに過ぎないことがわかった。私や皆さんが勝手に決めつけていた「常識」が、いかに非論理的な思い込みでしかなかったことにお気付きだろうか。
 そこで私の頭脳は飛躍を始める。経線を基準にする限り、日本列島の東端は北海道・根室岬になる(北方領土は除く)。「太陽は東から昇って西に沈む」のなら、根室岬の夜明けが一番早いはずだ――果たしてそうなのか。そこで「日本の夜明け」で検索してみた。ところが検索結果は坂本龍馬の名言とされている「日本の夜明けは近いぜよ」に関することばかり。そこでこのキーワードに「日本で一番早い場所」を加えて再度検索をかけてみた。国立天文台が「初日の出」という条件付きでこう解説していた。
初日の出がいちばん早い場所は、どういう条件で考えているかによって大きく違います。ですから、まず、考えている条件をはっきりさせる必要があります。
まず、日本の国土全体で初日の出がいちばん早い場所は南鳥島(みなみとりしま)で、初日の出の時刻は午前5時27分です。南鳥島は、東経約154度、北緯約24度という、本土のはるか南東の海上にある島です。
しかし、南鳥島に定住している人はいません。人が定住している場所でいちばん早く初日の出を見られる場所は、小笠原の母島だと思われます。日の出時刻は午前6時20分です。ただ、周辺のどの島に人が定住しているかによって、若干答えが違ってくるかもしれません。
それでは、島を除くとどうなるでしょう。北海道・本州・四国・九州でいちばん早く初日の出を見られるのは富士山の山頂で、日の出時刻は午前6時42分です。標高が高い場所では平地(標高0mの場所)より日の出が早くなりますので、もっと東にある標高の低い場所よりも、初日の出を先に見ることができるのです。
山も除いて考えるとどうなるでしょう。北海道・本州・四国・九州の平地でいちばん早く初日の出を見ることができるのは、千葉県の犬吠埼(いぬぼうさき)で、日の出時刻は午前6時46分です。
北海道の納沙布(のさっぷ)岬のほうが犬吠埼よりももっと東にありますので、初日の出も早くなるように思えます。しかし、おおよそ南東の方向に行くほど、初日の出の時刻は早くなりますので、より南にある犬吠埼のほうが、北の納沙布岬より日の出時刻は早くなるのです。
しかし、1年中いつでも、南東ほど日の出時刻が早くなるわけではありません。夏至の前後には、日の出はおおよそ北東の方向に行くほど早くなりますし、春分・秋分の頃には、東に行くほど日の出は早くなります。そのために、日の出をいちばん早く見られる場所の順番も、季節によって違ってくるというわけです。
(文中の日の出時刻は2012年の値ですが、年による違いはほとんどありません。)

 常識を疑ってみると、思いもよらぬことが見えてくる。もう一度皆さん、いろいろな常識を疑ってみませんか。「自分はとんでもない思い込みをしていた」ことに気付けば、あなたの思考力は格段に向上する。例えば今年は憲法改正問題が大きくクローズアップされるが、憲法問題を考える時、私は次のような数々の疑問を思い浮かべる。ここから先は、正月気分を忘れてもらいたい。
① 憲法上、日本は「戦力の不保持」と「交戦権の否認」が義務付けられている。政府はこれまで自衛隊は憲法が定める「戦力」には当たらないとして「実力」という意味不明な定義をしてきた。つまり「実力組織」である自衛隊が保持する兵器類は戦闘能力を有しない「張子の虎」あるいは「竹光」ということになる。徳川時代末期、日本来航の外国船を威嚇するために釣鐘を逆さにして並べて大砲に見せかけたという笑えない実話があるが、本当にそういう解釈でいいのか。
② ま、そういうエピソードは別として、自衛隊の「実力=国際法上は紛れもなく戦力」は専守防衛のためにしか行使できないということだが、「防衛」という言葉には広義の意味で「自分を守るために、やむを得ず行使する攻撃力」も含まれるが、「専守防衛」ということになると「自分を守るためだけの行為」しか許されず、反撃も許されないことを意味する。だとしたら有事の際、我が自衛隊は「戦わずして逃げる」しか方法はない。そりゃ、保持している兵器が「釣鐘」のようなものだったら、逃げるしかないわな。私が言いたいのは「専守防衛」などという「防衛」は絶対にありえないということだ。安倍政権が攻撃力を有する自衛隊を憲法に明記するというなら、憲法をいじる前に、「専守防衛」の欺瞞性を国民に明らかにしてからの話ではないか。
③ 共産党を含む「護憲派」が主張する「憲法9条が日本の安全を守ってきた」という主張は本当に正しいのか。自明のことだが、憲法は自国の権力は規制できても、他国の権力を規制することはできない。「憲法9条が日本の安全を守ってきた」と言うなら、日本の憲法だけが特別で、他国の権力も規制できることを証明してもらいたい。ちなみに、第1次大戦においても、第2次大戦においても「永世中立」を表明して戦火から免れようとした国はヨーロッパにいくつもあったが、国民皆武装で自衛体制を整えていたスイス以外の「永世中立国」はすべてドイツ軍に蹂躙された。「歴史は繰り返す」と言うが、日本だけは例外だというなら、例外であることを証明すべきだ。証明できずに「ただ信ぜよ」と言うなら、それはもはや宗教の世界と同じだ。
④ 前項とは逆も真なり。「日本が安全だったのは、アメリカの核の傘で守られてきたから」という論理も同様だ。実際、アメリカの「核の傘」が日本の安全保障にとって大きな役割を果たしているのなら、北朝鮮の核・ミサイル開発におびえる必要などないではないか。トランプ大統領が来日したとき、米製兵器(防衛装備品?)を日本に押し売りしたのは「有事の際、アメリカの核の傘が日本を守ると思っているのなら、とんでもない楽天家だ。自分の国は自分たちで守れ。そのための兵器を買いなさい」という要求だ。だから政府筋(石破氏など)も「いざというとき、アメリカが自分たちの血を流してまで日本を守ってくれるという保証はない」と、最近になって言いだしている。アメリカに守ってもらえるという確信がないのなら、なぜ沖縄県民の気持ちを踏みにじってまで沖縄の米軍基地を維持する必要があるのか。しかも、アメリカが日本に押し付けた「基地協定」は、同じ敗戦国だったドイツやイタリアと比べても著しく屈辱的な内容であることが明らかになっている。日本政府にとって沖縄は「植民地」に過ぎないのと同様、アメリカにとって日本は「属国」なのだろう。有事の際、日本はアメリカを頼りに出来るのか出来ないのか、そのことを安倍政権が明確にしない限り、憲法論議にもうかつには乗れない。また、そのことをあいまいにしたままで憲法改正を数の力で押し切ろうという姿勢を、黙って許すほど日本国民はおろかではない。
⑤ 最後に「抑止力」についても考えてほしい。④で述べたことと関連するが、日本にとってアメリカの核や日米同盟が本当に抑止力になっているのだろうか。もしそうなら、日本は「専守防衛のための実力組織」である自衛隊を整備する必要性は、限りなく少なくて済むはずだ。ところが、実際には自衛隊の「実力」は韓国や中国も警戒心を持つほどに強力になりつつある。日米安全保障条約に基づいて、日本有事の際にはアメリカが約束している日本防衛の義務を果たしてくれることが確実なら、自衛隊の「実力」は10年以上前の状態でも十分なはずだ。なぜ政府は自衛隊の「実力」を「専守防衛」能力をはるかに超えるまで整備するのか。「いざというとき、本当にアメリカが日本防衛のために自国兵の血を流してくれるか確信が持てない」と言うなら、沖縄県民に犠牲をなぜ強いるのか。沖縄県民に犠牲を強いる時だけ「日本の安全保障のため」「沖縄の米軍基地は日本にとって最大の抑止力」などという言い訳をするな。言うこととやることが、真逆ではないか。

 このほかにも皆さんに考えてもらいたいことはいっぱいある。たとえば集団的自衛権。国連憲章51条には集団的自衛権行使の許容条件として二つが明記されている。一つは、当たり前といえば当たり前だが、「個別的」も「集団的」も、自国が他国から攻撃を受けた時に行使できる権利(だから「自衛権」)で、「密接な関係にある他国」の防衛などはまったく許容していない。もう一つは自衛権の行使も、国連安保理が紛争を解決するまでの間という期限付きだ。
 この国連憲章51条の規定を全く無視したのが安倍政権による安保法制である。安保法制が憲法に違反しているか否かをうんぬんする前に、安保法制が国連憲章51条違反であることを明確にすべきなのだが、今回はここまでで止めておく。
 ただ、最後に一言。メディア関係者や政治家とくに野党の国会議員諸君は閣僚の失言の揚げ足取りや不祥事ばかり追求するのではなく(してもいいが、ほどほどにという意味)、もっと本質的な問題を追及してほしい。
 たとえば昨年末に日銀・黒田総裁が突然「物価上昇率が2%に達しなくても」と、利上げの可能性を示唆する発言をした。これほど野党議員をなめてバカにした発言を、私はこれまで見たことも聞いたこともない。黒田氏が金融政策の転換を示唆したのは、マイナス金利政策によって日本の金融機関が窮地に陥っていることにやっと気づいたからに他ならないが、目的を達成していないのに金融政策を転換するということは、一連の金融緩和策が失敗だったことを認めたことを意味する。本来なら、こうした金融政策の転換は、まず日銀総裁が責任を取って辞任した後、次期総裁が行うことだ。金融政策を180度転換しても総裁を続投できると黒田氏が読んだのは、野党がなめられている証拠だ。
もともと黒田氏が金融緩和策を金融政策の中心軸に据えたのは、第2次安倍政権が誕生したときの経済政策である「脱デフレ不況」のための2本柱であった(金融緩和による円安誘導と大胆な財政出動による需要喚起)の一つを忠実に実行してきたことによる。金融緩和によって金融機関は窮地に陥ったが、市場にあふれ出た金が富裕層を介して株や不動産に向かい、日経平均はバブル崩壊後の最高値を更新、都心部の商業地や大都市近郊の住宅地の地価上昇を招き、バブル期を超える高値で取引される不動産も出てきた。政府はそれを持ってアベノミクスの効果が出ていると称するが(有効求人倍率がバブル期を超えていることもアベノミクスの成果と自己都合解釈を重ねているが)、肝心の消費者の消費マインドは一向に回復の兆しが見えない。安倍総理は今年の春闘で経済界に3%以上の賃上げを要請し、経団連も会員企業に対して安倍総理の要請にこたえるよう異例の通達を出したが、たとえ3%以上の賃上げが実現したとしても消費は回復しない。なぜか。このブログでは答えは書かない。理由を読者の皆さんが考えてほしい。今年78歳になる老人にバカにされたくないだろう。
 一つだけ、この問題を論理的に説くためのヒントを差し上げておく。
 安倍さんが主張しているように、有効求人倍率はバブル期を超えた。人手不足が続き、パートやアルバイトの時給も上昇している。ファミレスなどは、従業員対策のために稼ぎ時の元日を休店にしたところもある。そうなったのは、別にアベノミクスの効果ではない。大胆な財政出動による公共工事の推進によって求人は増えた。そんなことは、別に安倍さんでなくても当たり前の現象で、その当たり前の現象を超える現象が生じている。それがアベノミクスとは関係ない、と私は言っているのだ。これが重要なヒントなのだが、ここまで述べたことで有効求人倍率がなぜバブル期を超えたか、の本当の理由がお分かりになっただろうか。ま、無理だろうね。
 バブル期の現役世代人口と、現在の現役世代人口を比較してみてごらん。少子化の波はとっくに押し寄せており、現役世代人口が激減しているのだ。有効求人倍率が上昇するのは当たり前だろう。有効求人倍率がアップしたのはアベノミクスのせいではないのだ。
 このように、答えは極めて単純で、難しく考える必要などまったくない。集団的自衛権問題についても、私は専門知識に一切頼らず、ひたすら物事を単純化して結論を出しただけだ。そうして出した結論に、専門家の憲法学者たちが脱帽してくれている。「知識に頼らない」ことがいかに重要か。だが、そのためには「知識に頼ろうとしない習性」を日ごろから身につけることが政治家やジャーナリストには大切な心構えになる。これが、実は結構難しい。学生時代に、知識に頼ることを日本人は習慣づけられているからだ。
 知識に頼らない人づくり。これが教育改革の基本柱にしなければならない。そのためには教育者の改造から始める必要がある。「知識は忘れるためにある」--誰かがそんなことを言ったかどうかは知らないが、どうせ忘れられるようなことは覚えさせる必要はない。たとえば、関ヶ原の戦いが西暦何年だったか、などという知識は入学試験には必要かもしれないが、試験が終われば必要がなくなる知識だ。それより、関ヶ原の戦いがどういう意味を持っていたのか、なぜ不利だったはずの東軍が大逆転の勝利を収めることができたのかを自分の頭で考える訓練を重ねたほうが、その後の人生ではるかに役に立つ。ただし、そう書くと大半の読者の頭にすぐ浮かぶのは、司馬遼太郎氏の解釈だろう。司馬氏の解釈を記憶していること自体が、実は論理的思考力を働かせるうえで邪魔になるのだ。そのことを、骨の髄から身に沁み込ませてほしい。読者の皆さん、いまからでも遅くない。今日から見ること聞くこと、あらゆることに疑問を持つ習慣を身につけてほしい。これまでは、読者の大半は競馬馬と同じだった。自分で視野を狭くしていた。
 今日から、自分の視野を狭くしている知識は捨てよう。といっても無理な話だよね。私も分かっていて言っている。パソコンのメモリは新しいのと取り換えれば消えるが、人間の頭脳に蓄積された知識は自分の意志では消せない。認知症になればいやでも頭の中のメモリは劣化していくが、意図的に認知症になることも不可能だし、認知症は記憶力だけでなく思考力も失われるようだから、やはり認知症にはなりたくないよね。だとすれば、努力で「知識に頼らない思考力」を身につけるしかないということになる。今年は、そのための第一歩を踏み出す年にしてみないか。

 私は立憲民主党本部や無所属の会の有力議員にも私のブログを発信しているのだが、肝心の議員たちからはなしのつぶてだ。バカな事務局員や秘書がブロックしてしまっているためだ。心あるメディアの記者が、それなりの議員に「こういうブログを書いている人がいる」と伝えてくれれば、私は選挙にはかかわらないが、ボランティアとして政策面のアドバイスは惜しまないつもりだが…。