小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

読売新聞読者センターの欺瞞的体質をついに暴いた!!

2012-08-31 07:57:54 | Weblog
 誠に残念な報告をしなければならない。
 実は一昨日(29日)、私が居住している地区を管轄している区役所の無料法律相談に出かけ、弁護士に読売新聞読者センターとの争いについて相談に乗ってもらった。26日に投稿したブログ記事『読売新聞読者センターはとうとう「やくざ集団」になってしまったのか?』の最後に近い個所でこう書いた。
 「問題は私を恐怖のどん底に追い込んだ彼の発言内容に、読売新聞読者センターにとって致命的な発言が含まれていたことだ。その致命的な発言内容の問題点を読者の皆さんにはお教えしたいのだが、今私は天下の読売新聞を相手どって法的手段に出ることも考えているので、残念ながらこのブログで明らかにしてしまうわけにはいかないのだ。お許し願いたい」と。
 実は私は読者センターの某(読売新聞読者センターに限らずNHKを除いて大半のマスコミの読者・視聴者の意見を聞くべき窓口担当者は絶対に氏名を名乗らない。いったいなぜだろうか。NHKふれあいセンター(旧視聴者センター)のコーディネーターは単なる人間録音機にすぎないが、それでも氏名を名乗る。しかも録音しているのだから、貴重な人件費をかけてまでかなりの人数のコーディネーターを置く必要性がどこまであるかという疑問が生じる。
 ただ一般的には視聴者センターは比較的早くに窓口を閉じてしまい、時間外に電話をかけると「ただ今受付を行っておりません。お急ぎの方はピーとなりましたらご意見を○○(秒あるいは分)以内にお話しください」というメッセージが流れ、私も何回か無人の録音機に向かってしゃべった経験があるが、確かにむなしい感じはする。
 NHKのコーディネーターは「自分の意見を言うこと」は禁止されているが、「そうですね」といった程度の事実上自分の意見(このような相槌を打つことも、自分の意見を言っていることになるはずだが)を言っても、その程度はお目こぼしに預かっている。
 ところが、読売新聞読者センターの場合は「読者センターは読者の方の意見を聞いて担当者に伝えることしかしません」と宣告されてしまうと、時間外に録音機に向かって独り言をしゃべることを強制されたと同様で、味気ないことこの上ない。実際読者センターとの間でトラブルが生じて以来一度だけ読売新聞の社説について私の意見を言いたくなったことがあって、氏名を名乗らず電話したところ、読者センターの方は声で私だとすぐ分かったようで「もうご存知だと思いますが、読者センターは読者の意見をお聞きして担当部門に伝えることしかしておりませんので、そのことをご承知の上でお話しください。ではどうぞ」と言われ、一応数分間話したが。その間、相手は人間録音機であることを義務付けられているNHKのコーディネーターですらしない完黙(完全黙秘のこと)を貫き通した。
 実は読売新聞読者センターは今春大幅な人事異動があり、10回電話をして聞き覚えのある方と話ができるのは1回か2回くらいのペースになってしまった。
多分読者センターの責任者の方もその時移動になったのではないかと思う。で、いとも簡単に私を敵視することを読者センター全員の共通認識にすることが出きたのだと思う。
 人事異動の前だったら、私が事実に対して意図的に捻じ曲げたような主張をする読者ではないことを大半の方が承知されていた。厳密にいうと、たった一人だけ、最初電話口に出たときはいったん普通に対応されるのだが、声で電話してきた相手が私だとわかると、途端に完黙状態になってしまう方がいた。その方を除けば社説やスキャナー、『基礎からわかる』シリーズ、『昭和時代』シリーズなどの記述に対して批判的意見を申し上げても、当初は反論されるケースもあるが、結局は「わかりました。担当者に伝えます」と、事実上私の意見に同意されるケースがほとんどだった。だからその当時だったら、こんな形で大問題になったりしていなかったと思う。
 その方の声に私は全く聞き覚えがなかったので、多分今春の移動で読者センターに配属された新人の一人ではないかと思う。だから、この最後のやり取りに至るまでの私の主張に真摯に耳を傾けられ、つい読者センターの限界を超える発言をしてしまわれたのだと思う。かつての読者センターの方ならそういう迂闊な受け答えはしなかったはずだし、仮にしても「新聞の主張に対する小林さんの意見はほとんどフェアで論理的だから同意しても構わないが、担当記者のアイデンティティを否定するような主張に対して同意するような発言は慎むように」と注意して、それで「終わり」になっていたはずだ。
 それともう一つ悪条件が重なったことについても、この際明らかにしておきたい。8月8日に『仙台育英高校は甲子園大会に出場できるのか?』というタイトルのブログ投稿を再開したときの書き出しで私はこう書いた。
 「過去2年半体調を崩しブログを書いてきませんでした。それなのに毎日私の復活を待ち訪問してくださる方が依然としてかなり多くいらっしゃったことを知り、感謝の念に堪えません。実はこの間3度入院し2度手術しました。さらに肝硬変という不治の病に侵されてしまいました。この間暴飲暴食をしていたわけではありません。おそらく若いころの暴飲暴食の付けが今頃になって爆発したのでしょう」と。
 そのためこの間はブログを書く気にもなれず、グータラ、グータラした生活を送っていたのだが、持病の痛風の薬(尿酸値を下げる薬)と血圧降下剤を処方してもらうために通っていた内科のクリニックで、医師がおなかのあたりを触診して「ちょっと肝臓が腫れている感じがする」と言われ血液検査をすることになった。その日の夕方受付の女性から「先生からのお話ですが、血液検査の結果ちょっと問題があるので、明日エコー(超音波による画像診断装置)をやりたい。午前8時に来てほしいと言われましたが、ご都合はつきませんか」という電話があり、格別用事はなかったので行くことにした。そして医師から「まだ初期の段階で致命的ではないが、肝硬変になっています。γ―GTPが1580と非常に高いことからアルコール性肝炎から発生したものと考えられます」との宣告を受けてしまった。そしてアルコール類は一切口にしないこと、とドクターストップをかけられてしまったのである。
 そして妙なことが生じたのは、食前のビールをノンアルコールに代え、寝酒の焼酎をやめてからみるみる体調が回復しだしたのである。それまでも、一応フィットネスクラブに通ってはいたものの、エクササイズはとてもやれる状態ではなく、ただクラブのサウナに入るのが目的で、たまに気が向くと水中ウォーキングをするくらいで、ましてブログを書こうなどという気にはなれなかった。が、アルコールをやめてから様々な身体上の悩みも解消し(尿失禁や便失禁も突然治ってしまった)、エクササイズも1日正味で2時間程度ならやれるくらいに体調が回復し、そういう中でブログも再開しようという意欲が急に復活したのである。
 そして8月25日に投稿した「読売新聞読者センターはとうとう人間録音機集団になってしまった!!」というブログ記事までは、ワードで書いたブログ記事の原本をすべて読売新聞読者センターにFAXしてきた。
 なお読者センターの方は(朝日新聞のお客さまセンターの方もそうだが)読者からの電話はすべて記録している。ただし、メモあるいはパソコンのキーボードを叩いてでだ。実際手書きのメモよりキーボードで入力する方が早いという人はいくらでもいる。ただし記録するのは読者の意見だけで、自分の発言は一切記録しない。そんな必要が通常はないからだ。
 NHKのふれあいセンターが視聴者からの電話を、コミュニケーターにつなぐ前に自動音声で「この通話は録音させていただきます」という旨のメッセージを流すことはみなさんもご存知だと思う。NHKに限らず最近は一般の会社も消費者から問い合わせやクレーム(だけとは限らないが)の電話がかかってきた場合、「この通話は録音させていただきます」とやはり自動音声でメッセージを流す会社が大多数を占めるようになった。もちろん視聴者や消費者に不愉快な思いをさせないため、「正確を期すためと、今後のサービス向上のために」という「録音する理由」を述べたうえでだ。
 少し前になるが、読売新聞の社説について意見を申し上げるについて、「これは非常に微妙な問題なので、正確に論説委員室に伝えていただくため録音していただけませんか」と要望したとき、読者センターの方は「この電話機には録音機能がついていません。正確にメモを取りますので、できるだけゆっくりお話しください」と言われたことがある。
 このことは非常に重要なことだが、私の声は読者センターの大半の方がご存知なので私が電話で「これから申し上げることは非常に重要な事なので録音していただけませんか」と言ったら、その瞬間電話を切られてしまうことは間違いない。そこでこのブログの読者の方にご協力をお願いしたいのだが、今書いたような内容を電話をしていただけないだろうか。もしご協力していただける方は、その結果を「コメント」に書いていただきたい。もし先方が「わかりました。録音します」と答えた場合、二つのケースが考えられる。
 ひとつは少し前に私が「録音してほしい」と要望したときとは違い、今は録音機能が付いた電話機に代えている場合である。その場合も二つのケースが考えられる。一つは読者からの電話はすべて自動的に録音されるようになっている場合である。この場合は読者センターにつながる前にNHKなどと同じく自動録音をすることを知らせるメッセージを流さなければ良心的な企業とは言えない。そのメッセージを流さず録音する場合は、読者の要望に応じて電話機の録音ボタンを押すか、さもなければ読者センターの方が独自に判断して無断録音する場合である。この場合も読者センターの方は「非常に重要なお話なので録音させていただいてもよろしいでしょうか」と読者の了解を取るのがフェアなやり方である。少なくとも私の場合はそのような断りは一度もなかった。第一、問題になったケースでは担当者は、私の主張に同意されたぐらいだから、私に無断で録音する意味がない。
 もう一つは、今でも読者センターの電話には録音機能がついていない場合である。その場合は、読者センターも意味のない嘘をつく必要がないから「この電話機には録音機能がついていません」と正直に答えるはずだ。
 私はこの問題の真実を知りたいのだ。最初に、私に「事実でないことをブログに書いたりしないでください」と抗議した方は「内部調査の結果、当人に確認したところ、そんなことは言っていない、と言っていますから小林さんが書いたブログは事実ではないことが明らかになりました」と言い張ったことは口が酸っぱくなるほど書いてきた。この方は「当人に確認したところ、そんなことは言っていない、と言っています」と口頭で当人から確認を取ったことを事実上意味したことになる。これは動かせない重要な発言である。
 ところが、その後、読者センターの別の方がやくざ口調で私を「ねつ造した方ですね」と断定し、私がその根拠を尋ねると「録音がある」と言い、「では聞かせてほしい」と申し入れたところ「そんなことできるわけがないだろう」と居直ったこともすでに私は明らかにしている。
 いったい「当人」と私の会話は録音されていたのかいなかったのか。録音されていたのなら、なにも「当人」から発言内容について確認を取るまでもなく、私が事実以外のことを一切書いていないことはただちに判明したはずだ。
 となると事実上ありもしない「録音」を唯一の「根拠」として私に対し「ねつ造した方」という、大津事件の加害者のように、ジャーナリストにとっては「お前、死ね」と言うに等しい侮辱を受けた身としては、いかなる理由があろうとも絶対に許すことはできない。
 で、私は29日に行われた弁護士による無料法律相談に行き、私のブログ記事に「ねつ造」と決めつけた読者センターの人に対する正当な報復手段として「侮辱罪」で刑事訴訟を起こしたいと相談を持ちかけたのである。私があえて民事ではなく刑事事件にしようとしたのは、読売新聞読者センターとの戦いは金銭目当てが目的ではなく、このような教育界以上に腐った体質に染まった読売新聞読者センターを解体再編成することが、読売新聞の読者にとっても絶対に必要だと考えたからである。
 しかし弁護士は六法全書の「侮辱罪」の項目を指さしながら、「侮辱罪や名誉棄損罪は日本では非常に立件するのが難しいのです。というのはこうした行為を犯罪として立件するには、その行為が『公然』と行われたことを証明することが必須条件だからです。公然というのは不特定多数(少数でもいい)が知りうる方法でそういう行為を行った場合を意味します。だから新聞や雑誌、ブログやツィッター、それに街頭演説も公然の範疇に入りますが、小林さんと二人だけの電話での話となると残念ながら公然性は認められません。警察に被害届を出しても門前払いされるのが関の山です」という説得力がある説明に納得せざるを得なかった。
 マスコミは「第三の権力」と言われている。が、私は「第三」どころか「最大」の権力機構だと思っている。現に政治家や官僚、大企業の経営者もすべて大手マスコミに媚を売ることに必死ではないか。こうして日本の権力構造の頂点に達した大手マスコミは、自分たちの世界だけで「村社会」を作り、マスコミ界の人間がスキャンダルを起こした場合を除き、競争している相手に対する批判は一切控えるという、「暗黙の協定」を事実上結んでいるとしか思えないスタンスをとっている。その世界にあえて「竿」をさしてきたのは残念ながら私だけである。もし私の姿勢に共感していただけるなら、先ほどお願いした読売新聞読者センターに電話していただきたい。読者センターの電話番号は下記である。
    03-3246-5858
 なお読者センターは1年365日の毎日9:00~22:00まで受け付けている。また午前中と夕方以降はなかなかかかりにくいが、呼出音が3回なっても相手が出なかったら、すぐ切ってほしい。切らないと「ただ今大変込み合っています」という自動アナウンスが流れ。電話料金が発生してしまうからだ。
 勝手なお願いだが、傲慢不遜の大手マスコミを、読者に立場に立って報道・主張する、当たり前の正常なスタンスに変えさせるための一石にしたいからだ。
 残念ながら大手マスコミにはもはや自浄能力が失われてしまっている。その原因は、遡れば「あの戦争」時にとったマスコミの報道姿勢に対する、ゆがんだ「反省」から生じている。つまり「権力に屈した」という一点だけを反省(それはそれで間違っているわけではないが)してしまい、「反権力が錦の御旗」であるかのごとき姿勢に180度転換してしまったことによる。私に言わせれば「あの戦争時の報道スタンス」は権力に屈したと言うより、読者(もっと広い言い方をすれば国民)に媚びる姿勢のほうが、報道や主張に与えた影響力が大きかったのではないかと考えている。もし当時「大本営発表」の真偽を問い、日本の軍国主義に対する批判の論陣を張る新聞があったら、軍部の弾圧を受ける前に(軍部の弾圧を否定しているわけではない。間違いなく軍部は弾圧に乗り出していた)軍国主義思想に染まっていた読者から真っ先に見捨てられていた。つまり読者に迎合するため権力に媚を売ったというのが当時の新聞が取ったスタンスに対するフェアな歴史認識である。「権力に屈した」というのは単に歴史的事実を言っているだけで、本当の意味での「反省」の言ではない。
 ちなみに国民が軍国主義に染まりだしたのは日清・日露戦争で日本が大勝利を収めたころからで、当時の新聞がこの二つの戦争に対し、どういう報道・主張をしてきたかをちょっとでもいいから脳裏に思い浮かべれば、中学生でも理解できる話だ。ほんの一例をあげれば、日露戦争で日本が大勝利を収めたにもかかわらず、欧米列強の干渉によって戦後賠償権の大幅な譲歩を余儀なくされた日本政府の「弱腰外交」に対し、国民がすさまじい怒りをぶつけ、そうした国民の軍国主義感情を煽りに煽ったのが当時の新聞だったはずだ。
 このことは別の機会にフェアな歴史認識とそういう認識をするための方法論(論理学の分野では『認識論』という学問)をこのブログで書きたいと思っているが、とりあえず「権力に屈した」という、責任を権力側に押し付けるような「反省」にしがみついている間はたった一人の無力な読者に対して、ここまでやるか(「録音」ロいう存在しない「証拠」まででっち上げたこと)というほどの総力戦を仕掛けてくる意味がないはずだ。それほどの危機感を読者センターが持ったのは、読者センターの大半が私の読売新聞に対する批判に同調してきた状況を何とかして一変させたいという、おそらく責任者の意向が強く働いたのではないかと思う。実際そう思われても仕方がないであろう、読者センターの私に対する攻撃のすさまじさであった。

私はなせ政局を読み誤ったのか?  反省に代えて

2012-08-28 13:06:03 | Weblog
 どうやら私の読みは外れたようだ。
 8月9日に投稿したブログ記事『あすにも成立する一体改革法案に国民は納得できるのか?』での政局分析のことである。
 3党合意によって8月10日に消費税総勢案が参議院を通過し成立したことは私の読み通りだった。読み間違えたのは民・自のトップ会談で、自民の谷垣総裁が「参議院での問責決議」と「衆議院での不信任案提出」を見送り、参議院での消費税増税案に賛成票を投じる方針に転換することの見返りに、野田総理から解散時期について「近い将来」から「近いうち」という表現に変えさせたことによる。で、「近いうち」とはいつごろまでを指すのか、マスコミの間で様々な憶測が飛び交っていたが、解散時期について私はお盆明けの21日か翌22日がぎりぎりの許容範囲だと読んだ。その理由は8月9日に投稿したブログ記事で詳しく述べているが、その読みが見事に外れてしまった。
 私がどうしてそう読んだのか。その読みを書いたブログ記事の要点を集約して述べておこう(ただし結果論になるが⑤の前半部分はこの記事で付け加えた)。 
 ①当初参院での採決日について自民が8月8日を主張したのに対し、民主は8月20日を提案した。自民はそれを民主の延命策として一蹴した。
 ②民主に対する不信感を募らせた自民は6日に野田総理に対する「不信任・問責案提出」に踏み切ることを表明する。
 ③民主は10日採決に大幅な歩み寄りを示したが自民は拒否。民主は輿石幹事長が「党首会談は認めない」と発言、民主首脳部の足並みの乱れが表面化。
 ④民主はついに自民に屈し、自民が提案していた8日採決を改めて自民に申し入れたが、自民の強硬派・石原幹事長に「すでにルビコンの川を渡ってしまった。いまさら後戻りはできない」と一蹴される。
 ⑤一見誠実そうに見えて政局についてこれほど鈍感な総理はかつていただろうか、と言いたくなるほどの野田氏だが、ここに至ってようやく事態がただならないところまで追い込まれてしまったことに気づき、自民・谷垣総裁に直談判してトップ会談に持ち込み、すでに述べたように早急な参院採決の確約を取り付けた。その時野田総理が解散時期についての表現を「近い将来」から「近いうち」に変えたことで、マスコミがてんやわんやする騒ぎになったのである。
 こうした経緯から、「近いうち」という多少あいまいな日本語の許容範囲について、私はせいぜいお盆明けの21日か22日が解散時期になると読んだのである。実は『広辞林』など何冊かの辞書をめくったのだが、「近いうち」と「近い将来」はほとんど同義語として扱われている。私は参考までにと思い朝日新聞のお客様センターの方にこの二つの表現についてどう感じるかを聞いてみた。彼は予想していた通り、「近い将来というと1~2年ぐらい先まで範囲に入ると思うが、近いうちというと10日かせいぜい長くても1ヶ月以内でしょうね」という解釈を示した。また読売新聞読者センターの方は8月9日に投稿したブログ記事の中で書いたが「今月中という感じがする」と言われた。私は状況にもよるが、自民党内の強硬派(石原幹事長を筆頭とする)を説得できるだけの根拠を谷垣氏が確信したこと(「近いうちとは重い言葉だ」との発言を再三繰り返したこと、さらに民主・輿石幹事長が参院採決の合意ができた当日に記者から「近いうちとは今国会中か」との質問に対して「そんなことはないだろう。特例公債発行や選挙制度改革などの重要法案がまだ残っている」と発言したことを聞き谷垣総裁が「こんな幹事長が与党にいるなんて信じられない」と激怒したこと、また肝心の野田総理が繰り返し「私は社会保障と税の一体改革に自らの政治生命をかけている」と耳にタコができるほど聞かされてきたことの3点)に重点を置いて、私はおそらくお盆明け早々の解散を野田総理がそれとなく示唆したか、あるいは密約をしたかのどちらかだと今でも思っている。だが、そうした事実上の約束を、輿石幹事長が再び民主党の実権を野田総理から奪い返したことによって反故にされたとしても、谷垣総裁は密約を明らかにすることはできない。そんなことをしようものなら密室政治に対する国民の怒りが爆発し、野田総理ともども谷垣総裁も政治生命を完全に失うことになるからだ。
 そこまで輿石幹事長が読み切って、絶対に参院で否決されて廃案になることを百も承知で今国会に特例公債発行や選挙制度改革法案を衆院に提出して自公ボイコットの中で単独強行採決に踏み切ったということは、解散時期を引っ張れるだけ引っ張って、うまくいけば衆議院議員の任期満了まで政権を維持しようという作戦に出たと解釈するのが妥当だろう(その間に選挙基盤がまだ弱い元小沢チルドレンに地元に確固たる基盤づくりをする時間的余裕を与えるのが目的と思われる)。
 私氏が解散時期を読み誤ったのは、輿石氏の党内基盤が野田総理よりはるかに強固だったということに思いが至らなかったことによる。先のブログで書いたように、輿石氏は小沢氏に近いと見られていた実力者である。その輿石氏を野田総理が重用し総理に次いで党内に大きな影響力を発揮できる幹事長という要職につけたのは、ひとえに党内融和をすべてに優先したからだ。そして小沢氏の離党に際し、小沢氏と行動を同じくしなかった元小沢チルドレンは当然輿石氏を頼る。選挙活動を差配するのは幹事長の専権事項だからだ。つまり大派閥の領袖ではない野田総理の党内基盤が予想していたよりかなり脆弱で、小沢チルドレンの残党を一手に握った輿石の権力基盤のほうが強かったということを証明したのが、現在の民主党の内実だったのだ。
 一方自民党の谷垣総裁も、私と同様輿石氏の党内基盤の強固さを見抜けなかったことで墓穴を掘ってしまった。輿石発言に憤る前に総理の約束を無視できるほどの党内基盤を輿石氏が固めていることに気づくべきだった。だからいったん成立した参院での採決の3党合意は、野田総理が解散時期を今すぐ明確にするか、それとも総理の約束をひっくり返した輿石幹事長の職を解くかしないと3党合意を白紙に戻す、と野田総理に迫るべきだった。それを怠った谷垣総裁が自民党強硬派の協力を今後得ることは極めて難しい状況になったと言えよう。

読売新聞読者センターはとうとう「やくざ集団」になってしまったのか?

2012-08-26 17:32:31 | Weblog
 昨日(8月25日)の午後6時ごろ、「読売新聞読者センターはとうとう人間録音機集団になってしまった」というタイトルの記事を投稿した後、すぐこの記事の原本(私はブログ記事をワードで書いて、ブログページに貼り付け投稿することにしている)を別紙表書きをつけて読者センターにFAXした。その後、何回か同センターに電話をしたが、なかなかつながらず、やっと6時半過ぎに代表番号に電話して読者センターにつないでもらった。どういう仕組みになっているのかさっぱりわからないが、代表番号にかけると大体すぐつながることは何回か経験している。
 やっと電話に出てくれた方は私の記憶にはない声の方で、「小林です」と名乗ると、先方も私の声に聞き覚えがないようで、「しょっちゅう電話をしてくる小林さんですか」と聞いてきたので「そうです」と答えると「ねつ造した方ですね」と私に対する非難のボルテージをさらに上げた言い方をした。私は当然「何を根拠にそう言えるのですか」と尋ねたところ「録音があるから」と断言した。「本当ですか」と聞くと「当たり前だ」とすごんだ。「録音があるなら聞かせてください」と言ったところ、「そんなことできるわけがない」と拒否し、さらに「裁判が……(後半がぼそぼそした声になって聞き取れなかった)」と続けた。私は一瞬恐怖におののいた。
 最初に私に抗議した人は「内部調査で当人に確認したところ、そんなことは言っていないと言ってました。だから事実ではないことを書かないでくださいと言ったんです」と主張した。そこで私は「内部調査で当人が本当のことを言うわけないではないか」と反論してきたのである。
 たまたま今日(25日)大津市立皇子山中学校2年の男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺した件の本格的調査を行うために設けられた第3者委員会の初会合が開かれた。この委員会には遺族が推薦した3人の委員候補(教育評論家として有名な尾木氏も含まれている)も委員に任命されている。自殺といじめとの因果関係がわからなかったという大津市教育委員会と学校の調査は身内意識によって左右されているという遺族の訴えに大津市の市長が理解を示し、フェアな調査を行う必要があると判断、第3者委員会の設置に至ったのである。そういう事実は常識として熟知していたはずのジャーナリスト出身者の集団である読者センターが身内による内部調査の結果を「事実」と断定し、私に「事実でないことをブログに書くな」と要求したこと自体、不当な圧力と言わざるを得ない。
 それでも私は誠意を尽くし、3日間かけて読者センターへの反論と批判の記事を書くと同時に、私自身にも反省すべき点があったことを認めた。そして以下の表書きをつけて読売新聞読者センターにFAXしたのである。
  たった今投稿したブログ記事の原本です。
  この記事は22日に電話したとき、私のブログ記事『緊急告発‼! オスプレイ事故件数を公表した米国防総省の打算と欺瞞』に書いた読者センターの方との会話の内容について「事実でないことはブログに書いたりしないでください」「読者センターは読者の意見を聞き、担当者に伝えることが仕事で、読者と意見を交わしたりするセクションではありません」と宣告された読者センターへの反論と批判をまとめた記事です。この宣言は読者センターの全員が共通認識として持たれているようなので、このブログ記事も読者センターの皆さん全員が読んでください。反論はブログ記事へのコメントでなされても結構ですし、FAXしていただいても構いません。FAXの場合、ご要望があれば私のブログに転載します。いずれにしてもフェアに対応してください。私自身がそうしていますので。
 この表書きをつけてFAXした後、読者センターに電話したのだが、いきなり「ねつ造したかたですね」とどうかつされ、さらに「証拠は録音がある」と言われ、「録音があるなら聞かせてください」と言ったところ「そんなことできるわけがない。裁判が……(後半はぼそぼそした声になって聞き取れなかった)」と脅かされ、冒頭で書いたように私は恐怖におののきながら、ほとんど一睡もできず一夜を過ごした。
 そうした一夜を過ごしている中で、いろいろな想いが頭をよぎり、右から左へと消えていく。そしてやっと明け方になってうとうとできたが、その間に不眠状態にあったときにいろいろ考えをめぐらしたことはほとんど忘れてしまった。が、完全に目覚めて洗顔し、茶漬けで朝食を済ませた(田舎育ちの私は子供のころから我が家の畑で栽培した野菜、ダイコンやカブ、キュウリなどの糠漬けで茶漬けを食べるのが朝食の習慣だった)。いまの若い人はまったくご存じないだろうが、スイカの実を食べた後の皮の部分の食べ残した実をスプーンできれいに削り取り、皮の表面は堅いので包丁で切り剝がし、残った白いところだけ塩もみして一晩寝かし食前に余分な塩を洗い流すと、最高の漬物になる。いまは「浅漬けの素」といった手頃で簡単に浅漬けができるものがスーパーで売っているので、お試しいただいたらと思う。
 スイカの漬物の話は余談でしかないが、私を恐怖のどん底に追い込んだ読者センターの方の言ったことは本当に「事実」なのか、を冷静に考えてみた。まず最初に抗議してきた方は「当人から聞いたところ『そんなことは言っていない』と言ったので小林さんが書かれたブログの内容は事実でないことが明らかになった。今後事実でないことはブログに書いたりしないでください」との趣旨だった。
 この抗議の内容について私は「内部調査で当人が本当のことを言うわけがない」「内部調査は要するに身内の調査だから甘くなるのは当たり前だ」「読売新聞の記者は取材相手の言い分をそのまま鵜呑みにするのか」「仮に私が事実無根のことを書いたとして、私にどんなメリットがあるのか。嘘をつく(あるいは嘘を書く)場合、それなりのメリットが得られる(あるいは期待できる)ケースで、私の場合はそのような動機がまったくない」(このブログ記事ではより正確を期すため表記を追加したり、よりふさわしい表記に変えた個所もある)の四つの視点から、当人の申告を真に受けて私が事実無根の記事を書いたと非難する方がおかしいと反論したことはすでに昨日投稿したブログ記事『読売新聞読者センターはとうとう人間録音機集団になってしまった!!』で明らかにした。
 さらに昨夜、なかなか寝付けない中でふっと思いついたのは読者センターが行った内部調査は警察が行う捜査活動と類似した行為だったのではないか、という疑問である。警察の基本的捜査方法は、まず犯罪が行われたと考えられる場所の付近の捜索(犯行に使用された可能性がある凶器などを発見することが目的)と、近隣住民への徹底的な聞き込み調査で、ある程度犯人像を絞り込んでいく。その結果、証拠らしき物品の発見と近隣住民の「あの人が怪しいと思う」といった(冷静に考えればかなり不確実性が高いのだが)「証言」に飛びついてしまい、犯人である可能性が高いと思い込んでしまう。あとはその「犯人」(この段階では容疑者)を逮捕し(容疑が固まっていない場合、しばしば行われるのが万引きなどの些細な犯罪を口実にした別件逮捕である。なおこの段階から容疑者は被疑者になる)、起訴に追い込むための証拠固めを行うのだが、その後犯人ではありえないと思える証拠や情報が得られても、すでに先入観にとらわれてしまっている警察は何が何でも「犯人」と思い込んでいる容疑者の自白を取ることに必死になっており、取り調べの時「禁じ手」を使ってしまうことがままある。この禁じ手の中でも最悪の行為は誘導尋問によって「秘密の暴露」を強要することである。「秘密の暴露」とは犯人しか知りえない、犯行と結びつく行為や凶器を処分した場所、犯行時に来ていた衣類の処分方法、どうやって犯行現場に侵入したかなどで、実は警察がそれらの情報をすでにつかんでいながら外部に漏れないよう極秘扱いしたうえで、「こういうことはなかったかね?」「こうしたんじゃない?」などと被疑者が疲れ果てて思考力が極端に低下しだした微妙なタイミングを探りながら極秘情報を小出しにして「秘密の暴露」を被疑者の脳メモリーに埋め込んでいく。そうやってついには被疑者自身が「秘密の暴露」をしたかのような錯覚に陥らせることに巧みな警官が「落としの名人」と言われるのだ。つまり「落としの名人とは「マインド・コントロールの達人」にすぎないのである。が、その後検察の事情聴取があり、起訴されて公判に持ち込まれるまでにかなりの日数が経過し、その間に弁護士もついてマインド・コントロールから脱出できた被告(起訴されるまでは被疑者)が、公判で自白をひっくり返すことがままある。しかし肝心の裁判官が警察や検察による取り調べが被疑者をマインド・コントロール下に追い込んで「秘密の暴露」を「自白」させている実態をまったく知らないため、「自白」を必要以上に重視し、有罪判決を下すといった誤審が後を絶たないのである。もちろんすべてがそうだと言っているわけではない。物的証拠があやふや(あるいは乏しい)ときに警察や検察が事件の早期解決をあせった結果、しばしば生じうるケースである。だから物的証拠が確実な場合は容疑者(逮捕前)を逮捕して(逮捕された時点で被疑者になる)取調べは被疑者が否認しても、否認した状況のまま検察庁に送ってしまう。検察も無理に被疑者から自白を取ろうとせず(もちろん取り調べで手抜きをするという意味ではない)、被疑者否認のまま起訴してしまう。そういうケースは裁判官も被告の「無罪主張」あるいは「警察のでっち上げ」といった最後のあがきを無視して有罪判決を言い渡す。この場合、被告があがけばあがくほど、そうした被告の態度に反比例するかのように「被告には全く反省の色が見えない」と宣告して量刑も重くする。
 警察・検察・裁判での「容疑者」→「被疑者」→「被告」に対する事件の発端から警察の取り調べ、検察の事情聴取、裁判での判決に至るプロセスを詳細に書いたのは、これら一連のプロセスを、読売新聞読者センターの場合は誰か(多分責任者だと思う)の指示によって同センターの全社員がマインド・コントロールに陥ってしまった結果だと思えるからである。
 でもこの段階(少なくとも8月24日)まではまだいちおう読売新聞読者センターの方は紳士的姿勢を保ってくれていた、たとえば23or24日にきな臭くなってきた「日韓関係」について言いたいことがあって読者センターに電話をしたところ、「もうお聞きになったと思いますが、読者センターは読者の意見をお聞きして担当部門にお伝えするだけですから、ご承知の上でご意見をおっしゃってください。ではどうぞ」と、固い口調ではあったが、いちおう紳士的に対応してくれた。そのときは「どうして急に韓国が日本に対して敵対的行動をとるようになったのか」といったテーマについて意見を申し上げたかったのだが、そういった国難とも言える問題には読者センターの方は最低でも30分くらいは議論に応じてくれたのだが(この問題についての私の見解は8月22日に投稿したブログ記事『緊急提言!! 日本はフェアな歴史認識を世界に向かって発信せよ』で明らかにしている)、この時はいかにも迷惑そうな感じを受けたので、「昔だったら『国交断絶』→『宣戦布告』が必至のような危機的状況ですよね」とだけ言って早々に電話を切った。
 主題に戻ろう。
 「記者としては失格だということですね」という私の挑発(言っておくが、取材時にこうした挑発をして相手の本音を引きずり出すといった行為はジャーナリスト(かなり広義な意味での)にとって常識的な常套手段である)。私が取材ではなく読者センターの方に意見をうかがうときにこうした挑発的行為を取ったことについては反省していることをすでに述べたが、ご当人が私に対しては無警戒に本音を漏らしてしまったことは私の責任ではない。なおこの問題がこれほどの大騒動になるとは私は思いもしていなかったし、この大騒動が起きるまでは読者センターのほとんどの方が私に対しては(私だけではないかもしれないが)きわめて好意的かつフランクに話し合ってくれていた。それが突然私に対しては人間録音機集団になってしまった。それも電話をかけるたびに電話口に出る全員が、である。そうなると、先ほど書いたように読売新聞読者センター全体が誰かのマインド・コントロール下で一枚岩になってしまったとしか考えようがない。
 まして「ブログで事実と違うことは書かないでください」という苦情までは許せるギリギリの誤解発言として、私もこれまでは紳士的に対応してきたが、ジャーナリスト(ブログでも立派なジャーナリストの活動場所である)に対して「ねつ造したかたですね」とのどうかつを私は絶対に許すことができない。さらに「証拠は録音がある」とまで言って私を恐怖のどん底に陥れ「録音があるなら聞かせてください」との要請に「そんなことできるわけがない」といっかつされた。それもまるでやくざのような口調だった。読売新聞読者センターはとうとうやくざ集団に転落してしまったのか、とすら私には感じられた。
 問題は私を恐怖のどん底に追い込んだ彼の発言内容に、読売新聞読者センターにとって致命的な発言が含まれていたことだ。その致命的な発言内容の問題点を読者の皆さんにはお教えしたいのだが、今私は天下の読売新聞を相手取って法的手段に出ることも考えているので、残念ながらこのブログで明らかにしてしまうわけにはいかないのだ。お許しいただきたい。
 とりあえず、私としてはこれで読売新聞読者センターとの対立についての報告はいったん終え、書きかけの原発問題に全力を挙げて取り組みたい。もう半分くらいは書き終えているので近いうちに投稿できるだろう。
 





読売新聞読者センターはとうとう人間録音機集団になってしまった!!

2012-08-25 16:53:46 | Weblog
 最近私のブログ記事『緊急告発‼! オスプレイ事故件数を公表した米国防総省の打算と欺瞞』の中のわずか1行半ほどの文章について読売新聞読者センターから厳しい抗議を受け、それまで営々として築き上げてきた読者センターとの相互信頼関係が一瞬にして崩壊してしまった経緯について、私は私のブログ読者の方々に報告する義務と責任があると思ったので、このブログで書くことにした。読者センターがこのブログ記事に反論がある場合はコメントを寄せていただきたい。いかなる批判であっても私は削除しないことを約束する。
 実は仕事をしていたころは私は日経・朝日・読売の3紙を取っていた。情報源としてである。だから社説などの各紙の主張には目もくれなかった。
 しかし漫画ブームによって活字離れが急速に進行し、私は50代前半で職を失うことになった。雑誌などでの執筆活動だったら続けられたはずだったが、単行本と違い、雑誌の場合はあらかじめ編集会議でテーマを決め(時にはタイトルまで決めてしまうこともある)、その後しかるべき筆者に原稿依頼をする。もちろん原稿依頼をする場合、それとなく(つまり露骨にではなく)編集部の意向を匂わせる。で、最初からそんな意向には総沿えないと思った時は「今忙しいので」とやんわり断る。これは面白そうだと思った時は引き受けるが、実際に取材してみると編集部の意向に沿った原稿は書けないという結論に至るケースがままあった。で、こういう時のフリージャーナリストのスタンスが問われることになるのだが、私は私が取材で得た情報に基づいて原稿を書くことにしている。当然編集部の意向に反した原稿になることが多くなる。そうした場合、編集部は勝手に原稿を大幅に変更したり、時にはほとんど全面的に書き直したり(そういう行為をこの世界では「リライト」という)することさえある。で、売らんがためには名誉棄損で訴えられかねないぎりぎりまでを勝手にきょよう範囲と「解釈」して元原稿をいじってしまうのだ(しかもゲラは絶対に筆者に見せない)。あまりにもひどかった場合に一度弁護士(役所が弁護士数人に依頼して無料法律相談の日を設けているときに相談に乗ってもらったのだが)にその雑誌の「販売停止の仮処分」をできないかを相談したことがある。弁護士は「著作権と編集権の問題ですね」と念を押したうえで「当然著作権は何人にも侵されないという非常に強い権利です。仮処分の申請をすれば、どの程度著作権が侵害された科の事実調査に基づいて仮処分を執行するかどうかを慎重に考慮します。いくら著作権のほうが法的権利が強いといっても、雑誌の販売差し止めは事実上その雑誌の廃刊を意味しますから、むやみやたらと仮処分を認めるわけにはいかないのです」と仮処分の難しさを説明してくれた上で、「もし仮処分が認められたとしたら大ニュースですからテレビや新聞も大きく取り上げるでしょうし、小林さんはおそらくこの世界から追放されるでしょうね。そういうリスクまで考えたら、無念でしょうけど諦めた方がいいと私は思います」と言われ、以来私は雑誌の原稿依頼はすべてお断りすることにした。
 しかし出版社に恵まれたせいもあるが、10万部以上の大台に乗った本も4冊を数えた。
 私の本を一番多く出版してくれたのは光文社で13冊を数えた。光文社がノンフィクション分野で最も多くの本を出版したのは学者の小室直樹氏で15冊出版している。私は光文社で小室氏に次ぐ位置を占めていた。次は講談社が5冊、祥伝社が3冊、青春出版社、リクルート出版、まったく無名の早稲田出版(同社社長が友人で、頼まれたら嫌と言えなかった)、の各3社がそれぞれ2冊。あとは各出版社1冊ずつで出版順に書くと、こう書房、サンケイ出版、コスモの本。かんき出版、実業之日本社で、計32冊を数えた。
 22日にちょっとした用件があって、読売新聞の読者センターに電話をしたところ、いきなり「事実でないことをブログに書いたりしないでください」とクレームを付けられた。最初何のことかわからなかったので「何のことでしょうか」と尋ねた。相手は「読書センターの者とのやり取りです。本人に確認したらそんなことは言っていないと言っています」と返事が返ってきた。何のことかさっぱりわからない読者もいらっしゃると思うので、ざっと説明しておこう。
 私は8月15日に投稿したブログ記事『緊急告発‼! オスプレイ事故件数を公表した米国防総省の打算と欺瞞』の中で、米国防総省がなぜ今頃になって(8月9日)、A・B・Cの3クラスに分類したオスプレイと海兵隊所有の飛行機の事故件数(10万時間飛行したときの平均事故件数)を公表したのか、また公表せざるを得なくなった事情と、背後に秘められた「打算と欺瞞」について私なりの分析に基づく記事を書くことにした。が、私は軍事評論家でもなんでもないので、ジャーナリストとしての経験が豊富な読者センターの方にあらかじめ私の考え方に対すり意見をお聞きして参考にしたいと思ったのである。その時のやり取りを私はブログの中で書いた。そのことが読者センターの逆鱗に触れたようだった。その個所を述べておこう。
   実は8月16日、『オスプレイ事故の「調査結果報告書」で米国防総省は    墓穴を掘った』と題したブログ記事を投稿したのだが、その記事を書くにあたって私の論理構成に誤りや偏見が混じっているとブログ読者に申し訳がないと思い、読売新聞の読者センターの方に(これから述べる)私の考えを申し上げたところ、担当者は「うーん。……おっしゃる通りだと思います」とお答えになったので、「読売さんの記者はまだ誰も米国防総省の打算と欺瞞にお気づきではないようですね」と言いつのった。「そのようですね」と誠に正直にお答えになったので「つまり記者としては失格だということですね。」とまで挑発してみたが、かえってきた答えは「その通りだと思います」だった。
 そこで私は自信を持って米国防総省の欺瞞性を暴くことにしたというわけである(ブログ記事を書くに際して、情報源はいろいろあるが、他人に意見を求めたことは初めてである。実際オスプレイ問題についての第一弾のブログ記事『緊急告発‼! オスプレイ事故件数を公表した米国防総省の打算と欺瞞』を書いた時はだれの意見も聞いていない。第2弾を書くに際して読売新聞読者センターの方に意見を求めたのは、私の考えが同盟国のアメリカに対し厳しすぎるかもしれないという不安感があり、ブログ読者から私の主張を誤解や偏見に基づいていると思われないか多少心配だったからである。。
 そしてこの時の会話をブログに書いたところ、なんと読者センターは「犯人」探しを始めた。そして「犯人」を突き止めた結果、「当社にとって不利になる意見に対し同調するようなことは言わないように」と当人に注意するだけにとどめ、私には「犯人」探しをしたことを伏せていれば、この「事件」は闇から闇に葬ることができたのに、たまたま21日の夕方、別件で読者センターに電話をしたところ、いきなり「事実でないことをブログで書いたりしないでください」とクレームを付けられたのである。当然私は反論した。
 「私がブログで読者センターの方とのやり取りについて仮にでたらめを書いたとして、何か私に利することがありますか。私にはプラスもなければマイナスもありません。むしろ読売は一枚岩ではない、自由に自分の良心にかけてものが言える新聞社だという印象を読者がお持ちになったら、メリットを得るのは読売さんのほうですよ」と。さらにこうも言った。「内部調査をしたら、私に対応された方が本当のことを言うわけないじゃないですか。仮にあなたがその時対応されて、内部調査の対象にされたら本当のことを言いますか。そんなことはジャーナリスト出身のあなた方は百も承知のはずでしょう」と。
 当然その方は黙してしまった。再反論をできるわけがないからである。彼がその後言ったことは、「とにかく読者センターは読者の意見を聞き、それを担当者に伝えるだけです。読者の意見に対して私たちが自分の考えを述べるようなことはありませんので、ご承知おきください」と言うのが精いっぱいだった。私は「そんなことはない。何10分も、時には受付終了時の午後10時を過ぎても私との会話に夢中になられた方もいる。少なくとも私に対しては人間録音機のような方はいないはずだ」と申し上げた。こんな話を延々と続けても平行線をたどるだけだし、私もそんな無意味な会話に電話代を払わされるのは困るので「とにかく今日電話したのはさっき投稿したブログ記事の原本をFAXしましたので、それをお伝えしたかっただけです」と言って電話を切った。
 私はNHKにも『ニュース7』や『クローズアップ現代』『ニュースウォッチ9』『NHKスペシャル』などについてもしばしば視聴者センター(NHKでの部署名は「ふれあいセンター」である)に電話するが、まず自動音声で「この電話は録音させていただきます」というアナウンスが流れた後視聴者センターにつながる。私が電話するようなとき(つまり上記の番組中か直後)は電話が殺到するようで、多少(せいぜい1~2分)待たされることもあるが、電話がつながったときはかなりの比率でチーフに代わってもらっている。その理由は、視聴者センターの担当者(コミュニケーターという)の持ち時間は視聴者一人につき最大10分とされているようで(結果的には15分くらい話を聞いてもらえるケースもないではないが、非常に込み合っているときはいきなり「5分以内でお願いします」と時間制限をかけられてしまうこともあり、そういう場合は「とても5分では話しきれないのでチーフに代わってほしい」と要求する。「では上司に伺ってきますので、簡単にご用件をお話しください」と言われ用件を述べると「しばらくお待ちください」といったん電話を保留にされ、結局は私の場合、これまでは100%上司(「チーフの○○です」と名乗ったり「責任者の○○です」と名乗ったりするが、これは別々の職位があるわけではなく、同一人物が状況によって使い分けているようだ)が代わってくれた。NHKの場合、コミュニケーターに放送内容について抱いた疑問を述べ、説明を求めても「自分の考えを申し上げることはできません。担当者にお伝えするだけです」と必ず拒否されるので、「では担当者から説明をいただけるのですか」と聞くと「そうした対応はしておりません」と冷たい返事が返ってくるだけである。で、やむを得ず「ではチーフに代わってください」と頼まざるを得なくなるのである。そしてチーフはかなり自由にものが言える(時にはこれは私個人の見解ですが、と断りを入れて自分の考えを述べる方もいる)。たとえばNHKは総合テレビで平日の昼間、時々『NHKアーカイブス』という番組名で、過去に放送されたコンテンツ(番組)を再放送されることがある。そのなかで「プロジェクトX」シリーズで放送されたコンテンツを再放送したのをたまたま見たことがあり、「あのシリーズがなくなったのは非常に残念だ。いっぱいいいコンテンツを放送され、一種の社会現象を作り出した番組だったのに」とチーフの方に申しあげたことがある。チーフは「私も同感です。NHKがあのシリーズを打ち切ったことで、担当プロジューサーがNHKを退職したぐらいで、彼は無念の思いを今でも引きずっていると思いますよ」と言ってくれた。で、私は「結局最後のほうはネタ切れになって中小企業のどこにでもあるような技術開発なんかをコンテンツのテーマにするようになり、あのシリーズの最大の魅力だった視聴者に与える感動性が薄らいできたことが視聴者離れを引き起こしたのだと思う。土台定期番組にしたことがコンテンツの質を低下させてしまったのだと思う。何とかあのシリーズの精神を受け継いで、視聴者に大きな感動を与えられるようなコンテンツを考えてもらえないか」と申し入れた。チーフは「私も大賛成です。今日もいろいろ提案が寄せられていますが、最重要提案として編成に伝えます」と言ってくれた。今NHKは「プロフェッショナル」という番組を放送しているが、私は私の提案がこういう形で実現したのではないだろうか、とひそかに自負している。
 まだある。フィギアスケートが国民的人気のスポーツになったきっかけは、浅田真央が15歳の時トリプルアクセスを成功させグランプリファイナルの出場資格がかかったNHK杯で見事に優勝したことだった。実はこの当時のNHK杯は昼間に行われていた。にもかかわらず放送は「ニュース7」が終わった後の7時30分からの開始だった。基本的にNHKだけは放送業界の中で唯一スポーツ放送の録画中継は新聞のラテ欄(ラジオ・テレビの番組表のこと)に「録画」と表記している。が、この年のNHK杯についてはラテ欄にその表記がなかった。が、NHK杯の放送直前の「ニュース7」の冒頭でアナウンサーが「浅田真央がショートプログラムをトップで通過しました」と結果を放送してしまったのである。
 問題が生じたのはその翌日である。私はNHKの視聴者センターに昼間電話をして、「今日のフリーはナマですか、それとも録画中継ですか。もし録画中継なら「ニュース7」はパスするから」と聞いた。コミュニケーターは「しばらくお待ちください」といったん電話を保留にし、しばらく待たされたあと「今日はナマです」と答えた。で私は安心して「ニュース7』を見たのだが、とんでもないことにまたアナウンサーがニュースの冒頭で「浅田真央がNHK杯で優勝しました」と結果を明らかにしてしまったのだ。私は怒り狂った。直ちに視聴者センターに電話をして苦情を言った。その電話に出たコミュニケーターは「上司に代わりますので少しお待ちください」といったん電話を保留にし、「チーフの○○です。調べましたが、そのようにお答えしたことが判明しました。誠に申し訳ありませんでした。今後そのようなことがないよう注意しておきます」と平謝りだった。怒りがまだ収まらなかった翌日にも視聴者センターに電話し、チーフ(前日とは別人)に代わってもらって再びクレームをつけた。「しばらくお待ちください」と言った後、「確かにお客様にお謝りしたことが確認できました」と認めた。怒りはまだ収まっていなかったものの、多少は冷静さも取り戻していた私は「スポーツ放送はナマが原則です。放送前に結果を明らかにしてしまったら、推理小説の前書きであらかじめ犯人と犯行手口を暴露してしまうのと同じようなものです。そんな推理小説を誰が読みますか。現にNHKは昼間に行われている高校野球や大相撲はナマ中継しているじゃないですか」と申し上げた。チーフは「お怒りはもっともだと思います。今後何らかの対策をとるよう編成に申し伝えます」と誠実に答えてくれた。その翌年からNHK杯はゴールデンタイムの午後7時半から試合が始まることになった(ただし女子のみ)。実はグランプリファイナルに出場できる権利は日本をはじめ世界6か国で行われるグランプリシリーズに出場して獲得したポイントの累計で上位6人だけが得ることができる狭き門なのである。しかもすべての試合は昼間に行われるのが習慣化していた。この壁にNHKが穴をあけた意味は決して小さくない。
 NHKについてはまだある。フィギュア日本選手権はフジテレビが独占放送権を持っていて、試合はやはり昼間に行われている。が、フジテレビの放送はゴールデンタイムの午後7時から始まった。その日、私はNHKの「ニュース7」を見てからチャンネルをフジテレビに変え、女子フィギュアの試合を見ていた。が、日本選手権だから、無名のまだ育成中の選手も出場する。で、そんな選手の競技を見ても面白くもなんともないので、ネットサーフィンしながらちらちらテレビに目を向けていた。が、ネット上にその日の結果が流れた。そこで私はフジテレビの視聴者センターに電話し、「今日の試合は何時から行われたんですか」と聞いた。視聴者センターの方は「担当者におつなぎします」と番組制作担当者に電話を回してくれた。私は電話に出た女性の制作担当者に同じ質問をぶつけた。彼女は「この放送はナマですよ」と平然と答えたので、「では、今競技を行っているということですか」と意地悪く念を押した、彼女はやはり平然と「そうです」と答えたので、「私は今ネットサーフィンをしながらフィギュアの放送を見ているんだけど、ネットにはもう今日の結果が流れていますよ。どういうこと?」と言ってみた。すると彼女はあわてて「ちょっとお待ちください」と電話を保留にしてしまった。しばらく待たされた後、今度は男性の担当者が電話口に出て「彼女はちょっと混乱したようですね。試合は○○時から始まり○○時に終わっています」というので、「だったらラテ欄に『録画』と表記するか、昼間の競技中にナマ中継すべきじゃないですか。現にNHK杯は今ゴールデンタイムに生中継していますよ」と苦言を呈した。
 すでに結果がわかっていたのにNHKは「ニュース7」でフィギュア全日本選手権の結果を報道しなかった。NHKの視聴者センターのコミュニケーターは女性が大半を占めているが、男性も少数だがいる。その日はたまたま男性コミュニケーターが電話に出て、「なぜ女子フィギュアの全日本選手権の結果を報道しなかったのか?」と聞いたところ、そういう質問に答えるすべもないし、また自分の考えで答える権限も持っていないため、普通なら「上司に変わらせていただきます」とチーフに電話を回すのだが、ルールを無視して自分で問題を解決しようとしてしまった。彼が最初に答えたのは「放映権はフジテレビが持っており、NHKは放送できないんです」というありふれた答えだった。そこで私は「映像を放映することができないことくらい私も知っている。だけどニュースの後半で、映像なしでプロ野球全試合の結果や途中経過を文字だけで報道しているではないか。放映権と、映像なしで文字だけで結果をニュースとして報道することは別問題だ。それに今日のスポーツ関連のニュースでラクビー天皇杯の準決勝は映像付きで放送しているではないか。いったいあなたはどっちのほうがニュース性として重要か、また一般の視聴者の関心はどっちのほうにあると思っているのか」と問い詰めた。彼は居直ったかのように「私はラクビーのニュースのほうがスポーツニュースとしては重要だと思っています」と答えた。ちなみに当日の昼間、NHKはラクビーの試合を生中継していた。私は呆れかえって電話を切ったが、腹の虫がおさまらなかったので翌日チーフに電話に出てもらって、前日のコミュニケーターとの会話の内容を述べ、こんなおかしな考え方をしているコミュニケーターがいる、と苦言を呈した。チーフの第一声は「コミュニケーターが自分の考えを言ったのですか」だった。
 私が延々とNHKの話を書いた理由は要するに読者センターの方たちはNMKのコミュニケーター並みの存在でしかなくなったのか、と改めて読者センターに問いたかったからである。
 それならそれで私からも提案がある。読者とのやり取りで「言った、言わない」でこれほどの大騒ぎをされるくらいなら、NHKの視聴者センターのように、読者とのすべての会話を録音することだ。無数にかかってくる視聴者からの電話(読売新聞読者センターにかかってくる電話よりはるかに多いはずだ)を録音しても、すでに書いたように私が同じ問題を再度蒸し返した時、視聴者センターの方が即座に前回の電話の録音を検索(ただし個人情報の外部流出を防ぐため、おそらくコミュニケーターの方には検索できないようにしていると思う)できるシステムを構築していると思う。具体的には視聴者からの電話にコミュニケーターが出た瞬間、視聴者の電話番号をサーバーが記録し、録音内容を読者の電話番号で検索できるようなシステムではないかと思う。また視聴者センターの電話にナンバー・ディスプレーがついているのはチーフ以上の役職者だけで、視聴者の電話をコミュニケーターから受け継いだ瞬間、役職者の電話にだけ付いているナンバー・ディスプレイに視聴者の電話番号が表示され、同時にその電話と接続されたパソコンのモニターにいつ、どんな用件の電話があったかをキーワードで表示され、例えば私がかけたフィギュアNHK杯の放送に対する苦情の電話内容を直ちに検索できるようになっているのだと思う。しかも録音内容をいちいち再生していたら時間を無駄に消費するだけなので。おそらく音声認識のソフトで文字変換し、モニターに表示されたキーワードをクリックすれば文字化された録音内容が即座にモニターに表示されるようになっているのではないかと思う。これは私の推測にすぎないが、読売新聞の読者センターもこのようなシステムを導入すれば、今回のような大騒動にはならなかったはずだし、NHKのコミュニケーターと同様、人間録音機の機能しか持っていないかのような、元ジャーナリストの出身者としてのプライドを私ごとき者のために投げ捨ててまで自らを貶めるような行為に出ずに済んだはずだ。
 確かに私が、オスプレイ事故件数を米国防総省が公表した件について読者センターに電話したとき、調子に乗りすぎて「つまり記者としては失格ですね」などという思い上がった質問をぶつけてしまったことは大いに反省しているが、読者センターの方も(たとえ同感していただけたとしても)苦笑いしながら「私にはその質問にはお答えできません」と大人の対応をしていただいていたら、私には事実上その方も私と同意見をお持ちのようだと推測できたし、それで充分だった。だから読者センターで大問題になったわずか1行半ほどの文章を書くことはなかったと思う。人のせいにするわけではないが、これまで営々と築き上げてきた読者センターと私との信頼関係がたった1行半のブログ記事によって崩壊してしまったことに思いをいたすと、無念でならない。
 それにしても内部調査で「小林さんがブログに書いたことが事実ではないことが明らかになった」と極め付けられるのは日本最大級のマスコミとしてはいかがなものか、という苦言を呈さざるを得ない。読売に限らずジャーナリスト(この場合私はかなり広義な意味で定義している。駆け出しの取材記者も含めて言っているので)が取材先の言い分を鵜呑みにしていたら新聞の記事やテレビニュースは全く信用できなくなってしまう。だから内部調査で私の電話に対応された方の言い分を鵜呑みにして、私の「ブログ記事は事実ではないことを書かれた」と断定される以上。官公庁をはじめ学校などの公的機関に生じた不祥事に対する身内の内部調査に対して、読売新聞が厳しい批判をしてきたこと自体が間違っていたと「反省」されての上での、私に対する非難であったと私は受け止めざるを得ない。
 なお私自身も反省すべき点はある。問題の電話の相手があまりにもすいすい私の考えや主張に同意されたので、調子に乗りすぎたと言うか図に乗りすぎたと言うべきか、「記者として失格ですね」とまで同意を求めるような言い方はすべきではなかったと思っている。せいぜい「担当記者にオスプレイ問題についての突っ込みが不十分だという読者からの指摘があったと伝えてください」くらいにとどめるべきだったと思っている。
 もうブログ記事の文字数の限界になってしまった。というより限界をはるかに超えてしまったので、あまり重要でない部分は相当カットした。そういう作業にかなり手間取ったが、何とか制限内の文字数に収めることができた。今書きかけの原発問題を中断しての作業だった。原発問題についての問題提起は数日中に書き上げ投稿する予定であるが、読者諸氏も、もし原発「0」にしたら日本人の生活や日本の経済、特に日本のナショナル・アイデンティティと言えるハイテク産業はどうなるかを考えておいてほしい。
 


緊急提言!!  日本のフェアな歴史認識を世界に向かって発信せよ

2012-08-22 11:31:42 | Weblog
 8月16日にオスプレイ問題についてのブログ記事(第2弾)を投稿した後、友人たちとゴルフ旅行に出かけ、19日に帰宅しました。お盆期間ではありましたが、サラリーマンたちがお盆旅行や故郷に戻るのは多分お盆期間の前半で15日以降は帰宅ラッシュで高速道路の上り線は大渋滞が連日続くだろうけど、下り線はがら空きになるだろうと予測して日程を組んだのですが、「どんぴしゃ」で道路はすいすい、ホテルもガラガラ、ゴルフ場に至っては無人の野を行くがごとき状態でプレイもすいすいでした。「もう少し若ければ2ラウンドできたね」と笑いあったほどでした。で、20日は久しぶりにフィットネスクラブで汗をかき、夕食後に留守中に取り置きしてもらっていた読売新聞にざっと目を通し、今後のブログ投稿するつもりの参考になる記事を切り抜く作業に没頭しました。
その中で特に目を引いたのは終戦記念日の15日の社説でした。社説スペースをすべて使った読売新聞の主張で、格調も高く、高校生でも理解できるだろう平易な表現で、かつ論理的整合性もほぼ完ぺきに満たしており、「久しぶりにいい社説を読ませてもらった」と思ったほどでした。今日(21日)はその社説について書くことにします。

 その社説のタイトルは、こうだった。
  『「史実」の国際理解を広げたい……日本の発信・説得力が問われる』
 しばしば「何様だと思っているのか」と言いたくなるような命令口調の、上から見下すような傲慢さがこのタイトルからは全く感じられない。むしろ読者の視点に立って読者と歴史認識を共有したいという筆者の切ない思いが私の心に響いたほどである。
 しばしば新聞をお読みの多くの方は各新聞を対角線上に位置づけ、読売と産経は「右寄り」、朝日と毎日は「左寄り」と思っていらっしゃるようだ。そういう傾向は多少あることは私も否定しないが、各新聞社は「まず右翼(あるいは左翼)的立場ありき」というスタンスで取材したり記事を書いたりしているわけではない。たとえば裁判で口頭弁論が終わり、裁判長が最後に原告・被告の双方に「まだ言いたいことはありますか」と尋ね、双方が「ありません」と答えたら、裁判長は「では判決の日時はいついつ行います」と言って席を立つ。
 それからが裁判官たちの本来の仕事で、口頭弁論の間は黙って原告・被告(実際には弁護士)の論争(すでに書面で提出されている「訴状(訴因も含む)」や「答弁書」「準備書面」を巡って「そんな事実はない」とか「こういう証拠をすでに提出している」「そんなのは証拠にならない」などと書面での記載や提出されている「証拠」の是非を問うやり取り)を、時々メモを取りながら基本的には黙って聞いているだけである。裁判官が口頭弁論の最中に口を挿むときは弁護士の主張の意味がよく理解できなかった場合だけで、「こういう意味ですか」と確認する必要性を感じたときだけである。
 裁判官たちは1件だけでなく常時数件の裁判を抱えているため、全員が顔を突き合わせて「証拠」や「証言」の信頼性について合議ができるのはせいぜい週に1~2回しかなく、そのため日本の裁判は時間がかかりすぎると国際的な非難を受けているほどである。そしてこの証拠調べが終わったら、まず有罪か無罪かの議論からスタートする。判断が分かれた場合はとことん話し合ったうえ最後は多数決で決める。裁判官のうちだれが多数決の時どういう選択をしたかが公表されるのは最高裁判所での判決の時だけである。最高裁判所の裁判官は総選挙の時国民の審判を仰ぐ必要があり、選挙民が個々の裁判官について○or×をつけるべきかの判断材料を与えるためにどの裁判官がどの事件ではどういう判断を下したかを公表しなければならない定めになっているのだ。
 裁判所と同様新聞社も一枚岩ではない。社説は基本的には論説委員が書くが(例外的に主筆が書くこともある。前回の総選挙で民主党が大勝利して政権を奪ったとき、「民・自の大連立」を求める社説を書いたのは渡邊恒雄主筆だと言われている)が8月15日の社説を書いたのはおそらく論説委員長ではないかと思う。もしそうでなかったら、この社説を書いた論説委員はいずれ論説委員長になるだろう、
 言っておくが、私はこの社説の筆者に媚を売ろうとしているわけではない(媚びたところで得るものは何もないし、第一ブログを再開するまでは読者センターに電話でけちょんけちょんにけなすケースの方がはるかに多かった)。
 ただべた褒めするにはそれなりの理由を説明しないと、読者も納得がいかないだろう。で、私がどうしてこの社説を高く評価したのか、私なりの理由を述べておこう。
 まずタイトルが素晴らしい。史実、という単語に鍵カッコをお付けになった。史実とは歴史的事実の簡略語である。そして歴史的事実は本来一つしかないはずだ。が、実際には国の数だけ「史実」が存在する(もっと厳密に言えば、一つの国内にも思想や主義によって多くの「史実」が存在するが、その国の政権を握っている政党が主張する「史実」をその国の「史実」と位置付けざるを得ない)。そしてすべての国が、自国にとって都合のいい解釈をしたり、時には一つか二つの事実をもって、それがあたかも組織的行為であるかのごとき「新史実」を創作したりすることがままある。たとえばこの社説で触れている従軍慰安婦の問題もその一つと言える。
 事実として検証されているのは関東軍の一部(あるいはかなり多くの部隊かもしれない)が従軍慰安婦を募集したことだけである。そして「金になる」と自らの意思で応募した韓国女性が大半を占めていたこともすでに検証されている。しかし応募者が少なくて兵士のニーズ(おかしな言い方だが)に応じられなかった場合、その部隊に出入りしていた業者に頼んだり、時には兵士自身が若い娘がいる家に押しかけ強制連行したケースも多分あっただろうとは思う。だが、そういうケースがどのくらいあったのか、また兵士の個人的犯罪だったのか、あるいは部隊長が命令したのかということまで調査するとなると、土台無理な話になってくる。
 ちなみに1965年6月に調印された日韓条約には戦後補償として日本が1080億円の経済援助(通貨だけではなく日本の生産物や日本人の役務提供も含まれる)を行うことで「完全かつ最終的に解決されたこととなることを(双方が)確認する」という文言が明確に記載されている。で、日本政府としては建前として戦後補償問題は解決済みと主張し、韓国の従軍慰安婦に対する慰謝料請求を退けてきた。確かに日韓条約をベースに考えると日本の言い分のほうに合理性があるのは間違いないが、日韓条約を締結した時点ではまだ従軍慰安婦問題は表面化していなかったから1080億円の経済援助で「完全かつ最終的に解決済み」と一顧だにしないのは、そういうスタンスで国際社会の理解を得られだろうかと考えると、私は高度の政治的判断で韓国と再交渉するしかないのではないかという気がする。ただ慰謝料を支払うことにしても、いったい誰が関東軍兵士に強制連行されたのかは、もはや証明する手段がないだろう。「自己申告」を無条件に認めることにしたら、自ら応募した女性たちすら我も我もと申告することは間違いない。そこで日本としては「解決済み」と突っぱねるのはもうやめて、「日本軍兵士が強制連行したという証拠を添えて慰謝料請求してくれ。今更物的証拠(例えば日本軍兵士に連行されている時の写真など)が残っているわけはないから、申告者への聞き取り調査や当時の家族か近隣の人の証言も状況証拠として認める。ただし本人に対する聞き取り調査を行う場合は連行された時の状況や日本軍部隊による待遇、さらに1日何回くらい性行為を要求されたかなどをきめ細かく調査してほしい。その調査は韓国政府の主権でやってくれ。ただし韓国側の調査結果に疑わしい点があった場合は、日本が再調査する権利があることに同意することが条件だ」と、下駄をいったん韓国政府に預けてしまうのである。そうなると今度は困るのは韓国政府になる。おかしな調査結果で慰謝料請求したら韓国に国際社会から非難が殺到することは目に見えているからだ。
 従軍慰安婦問題の解決策は私の私見だが、多分、社説の筆者も同意してくれるのではないかと思う。
 それはともかく社説の筆者は竹島問題についてはこう書いている。
 「(韓国の李明博大統領が竹島訪問を強行した件について手厳しく批判したうえで)、なぜ今韓国がこうした暴挙に出たのだろうか。 李大統領は、領有権を巡る日韓対立が続く竹島の支配を誇示するとともに、いわゆる従軍慰安婦問題に言及した。首脳会談で提起したのに日本政府が『誠意を持っていない』とも語っている」と韓国側の主張にも幾分かの理があることを行間でそれとなく示唆している。
 そのうえで筆者は韓国がこういう暴挙に出た背景に迫っていく。まず動機については「政権末期で求心力を失った李大統領は、『初めて竹島を訪問した国家元首』という“業績”を残そうとしたとの見方が一般的だ」と語っている。
 ここで注目すべきは、見方、という言葉の使い方である。この言葉自体が実は肯定的要素と否定的要素の二律背反的な意味を持っている。そして否定的要素を強調する目的でこの言葉を使う場合は一般的には鍵カッコを付ける。多分筆者はこの言葉に鍵カッコをつけるべきか否か、かなり悩んだのではないだろうか。私見だが、この筆者はとりあえず読者に予断を与えず、読者が自分の頭の中で鍵カットをつけるか否かの選択をゆだねることにしたのではないか、と思う。それはさておき、筆者は背景分析を続ける。「日本の植民地支配を受けた韓国には根強い『反日感情』がある。そこに訴えた大衆迎合主義(ポピュリズム)とも言えよう。(中略)李大統領の行動が、韓国国民のナショナリズムをいたずらにかきたてたのは間違いない」
 蛇足だが筆者の主張に補足をしておこう。今日本では政権党なり政府がそういうスタンスをとれない状況にあるが、政権基盤が弱体化したとき政府が「仮想敵国」をでっち上げ、「仮想敵国」に対し厳しいスタンスをとっていることを国民に誇示し、ナショナリズムを煽り立てることで政権基盤の立て直しを図ろうという試みは封建時代からひきづってきた古典的手法である。
 筆者は日韓関係にひずみが生じつつある状況を、あまり感情的にならずに憂いている。この社説の格調の高さは次の文章にも表れている。
 「良好に見える日韓関係も、政治に歴史認識問題が絡むと、一気に崩れる脆弱さをはらんでいる。歴史認識の違いを乗り越え、建設的な関係を築いていく努力が日韓双方に必要である。(中略)大統領自身、「日本はかつてのような国際的影響力はない」と述べている。韓国が急速な経済成長を遂げた結果、以前ほど日本との関係を重視しなくなった面にも留意しなければなるまい」「日本は竹島問題を国際司法裁判所(論者注:国際司法裁判所は国家間の紛争や対立を戦争などの武力行為によらずに解決するため、オランダ・ハ-グ市に常設されている国連の主要な司法機関)に提訴する方針だ。同時に韓国に対して、不法占拠をこれ以上強化しないよう強く自制を求めるべきである」
 筆者の主張に補足するが、国際司法裁判所で問題解決を図るためには当事国双方が裁判で争うことに同意する必要があり、日本は韓国に共同提訴を求めたが、韓国から拒否されている。なお日本はいかなる国のいかなる告訴にも応じることを宣言しているが、現在領有権を巡って日本と対立している韓国や中国、ロシアはその宣言をしておらず、日本がこれらの国に領土問題は国際司法裁判所で解決したいと申し入れているが、いずれの国も拒否している。竹島問題については日本は韓国が同意しなくても単独提訴する構えを示しているが、韓国が出廷を拒否すればやはり裁判を開くことができない、私論だがこうした逃げ道を封じるため、裁判官の3分の2以上が同意すれば出廷の義務が生じるようなシステムを構築すべきではないかと考えている。もちろんその義務すら果たさなかった場合は国連の決議により何らかの制裁を加える必要があると思う。
 竹島問題に続いて筆者は北方問題についても言及している。
 「一昨年11月、当時のメドベージェフ露大統領は北方領土(論者注:この表現は多少問題がある。「北方領土」の頭に「わが国固有の」との表記を付けるべきだったと思う)国後島を訪ねた。今年7月にも再び首相として国後島を視察している。 ロシア側は先の大戦の結果として北方領土を領有し(論者注:この文中の「領有」にも鍵カッコをつけるべきだった)、しかも独自に開発を進めていることを内外にアピールしたいのだろう」
 この文章の中で筆者はおそらく大きなリスクを負うことを承知の上で選んだのではないかと思われる記述をした。「先の大戦」という表記がそれである。すでにご承知の方も多いと思うが、筆者が表記した「先の大戦」についてはマスコミ各社は社としての表記を社内で統一している。朝日の場合は「アジア太平洋戦争」(もともとは岩波用語)で統一しており、読売の場合は「昭和戦争」で統一してきた(ひょっとしたら最近表記を変えたのかもしれないが)。その読売用語である「昭和戦争」という社内統一用語をあえて使用せず「先の大戦」という新定義を創った筆者の意図を忖度するに、従来の読売史観さえ再度検証し直すべきだと考えたのではないだろうか。だとしたらこの4文字が持つ意味はとてつもなく重いものになる。筆者の勇気に拍手喝采!!
 ちなみに私自身は「あの戦争」と定義づけている。日本の軍国主義化への最初のレールを引いたのは明治維新であり、第2次世界大戦の一角を担うことになった日本の明治維新以降の歩みを検証していくと(言っておくが私は歴史家ではない。単なる一読者として司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでいて、ふと彼は明治維新のパラドックスに気付いていないのではないかという単純かつ素朴な疑問を持ったのがきっかけである。そのことについてこのブログで書き出すと収拾がつかなくなってしまうので、次の機会に私の歴史認識とその方法論について書こうと思っている。
 社説の筆者は引き続き日本が置かれている政治的、経済的状況をこう分析・指摘する。
 「さらに、極東サハリン州で石油・天然ガス開発は順調に進んでおり、もはや北方領土への日本の支援は必要ない、と日本を牽制する狙いもうかがえる。(中略)一方で経済・軍事力で膨張を続ける中国に向き合うためにも、日露関係の強化は欠かせない。 政府は、複眼的視点に立って北方領土問題解決への戦略を練り直さなければならない。 韓国やロシアの主張する『歴史』が世界に拡散しつつある。日本政府はもっと危機感を持って対処すべきである」
 筆者はこの後、世界中に拡散している韓国人(2世も含む)たちが慰安婦問題を巡って日本を孤立化しようという狙いの行動を展開している1例を挙げ、彼らに絶好の口実を与えた1993年の河野官房長官談話を取り上げた。
 「(河野談話には)日本の官憲が組織的、強制的に(韓国)女性を慰安婦にしたかのような記述があり、誤解を広めることになった。しかし、結局、こうした事実を裏付ける資料的根拠は見つからなかった」
 河野氏は当時、一応良識ある政治家の筆頭格としてマスコミからも評価され、国民的人気も高かった。だから河野談話が公表された直後は「さすが河野さん」と称賛の声が持ち上がったくらいである。少なくとも現在は世界各国の中で、よく言えば「国家エゴを最も主張しない国」、悪く言えば「海外の顔色ばかりうかがい、すぐ自虐的になってしまう国」になってしまったと言ってもいいすぎではないと私は思っている。だから足元を見透かされて韓国や中国、ロシアなどに付け込まれてしまうのも無理はない。で。あえてこの社説に付け加えることがあるとすれば、私たちが次の(あるいは次の次)の世代に日本国民として誇りを持って生きていけるようなナショナル・アイデンティティを1日も早く確立するのが私たち世代の義務であり責任でもあると思う。
 社説の締めで筆者はこう主張した。
 「日本政府は、竹島、北方領土、そして慰安婦などの歴史の事実関係を、国内はもとより、広く海外にも説明すべきだ」「終戦を思い起こす8月の機会に、国際社会に日本の立場を積極的に発信し、理解と支持を獲得していくことが大切である」
 私はこの社説の趣旨に賛同する(了)。
 

オスプレイ事故の「調査結果報告書」で米国防総省は墓穴を掘った

2012-08-16 23:50:34 | Weblog
 ついに米国防総省が墓穴を掘った。今年モロッコで生じた墜落事故(乗員2名死亡、2名重賞)の原因解明に取り組んできた米国防総省は昨日(15日)調査結果を日本に伝えてきた。私は昨日のブログ『緊急告発‼ オスプレイ事故件数を公表した米国防総省の打算と欺瞞』の中で読売新聞の記事を引用しながら、こう書いた。
   読売新聞は8月5日の朝刊2面の記事「オスプレイ 米、安全性に自信」という見出しの中で、今年に入ってから生じた二つの事故について、米政府はいずれも機体の欠陥が原因ではないと見ていると書いている。
   では事故の原因は何か。機体の欠陥でなければ人的ミスということになる。つまり天才的な操縦能力の持ち主でなければオスプレイを操縦できないと言っているに過ぎない。ということはやはりオスプレイはまだ未完成な飛行機だということを意味する。
 しかも事故の大きさについて米国防総省はA・B・Cの3クラスに分けていながら、Aクラスの事故件数(10万時間飛行したときの平均事故件数)について、海兵隊所有の9機種の事故件数2.45件に対して、オスプレイの場合は1.93件にすぎないと発表し、あたかも他の飛行機に比べて安全度が相当高いかのごとき主張をしてきた。
 しかし、NHKが7月26日の『ニュース7』で米国防総省や海兵隊幹部がひた隠しに隠してきたA・B・C 3クラスの、オスプレイと他の飛行機の「飛行時間10万時間での平均事故件数」をスクープ報道してしまった。すでに前回のブログで書いたが、NHKがスクープした事故件数は以下のとおりである。
  Aクラス   オスプレイ:1.93件 他の飛行機:2.45件
  Bクラス   オスプレイ:2.8件 他の飛行機:2.07件
  Cクラス   オスプレイ:10.46件 他の飛行機:4.58件
 その数値が、それまで国防総省がひた隠しにしてきた数値とびったし合っていた。現在岩国基地に搬入されているオスプレイの最終配備地は普天間飛行場が予定されている。日本側の協力を得るためにはオスプレイの安全性を証明しなければならない。そのためにはNHKにすっぱ抜かれた事故件数を認めA・B・Cクラスに分類した基準も明らかにし、オスプレイの安全性をさらに強調しようというバカげた行為に出たのだ。
 そのクラス分けの基準がいかにアンフェアなものであるかは、すでに前回のブログで詳述したので、改めて繰り返しはしない。ただ、自動車事故についてはどのように分析・究明されているかだけを、この機会に述べておこう。このことはモロッコ事故の原因究明を行った米国防総省の調査結果の、あきれるばかりのインチキさを証明するためにどうしても必要となる作業だと思うからだ。
 自動車事故については基本的に3つの視点から分析・究明される。
 ①運転手に事故の原因を期すべきケース……例えば飲酒運転・居眠り運転・ブレーキとアクセルの踏み間違い・ハンドルの操作ミス・スピ-ドの出しすぎなど。
 ②自動車の整備が不十分だったケース……例えばタイヤのすり減り(タイヤの溝がほとんどなくなるほどすり減っていたら、路面の状態にもよるが、急ハンドル、急ブレーキでスリップすることが多い)。また雪道や路面が凍結した道路をチェーンなしやスタッドレスタイヤを装着せずに走行することで生じるスリップ事故。タイヤの空気圧が正常でなかったことによる操縦ミスなど。
 ③自動車そのものの欠陥によるケース……これはほとんどリコールの対象になり、部品の交換などの対策を行うことになる。
 さて米国防省が行ったモロッコ事故の調査結果だが、調査が終わる前(8月5日付の読売新聞によればすでに米政府が、フロリダ事故も含め「二つの事故はいずれも機体の欠陥が原因ではない」という結論をすでに出していたことをうかがわせる記事を書いている。つまり「まず結論ありき」の調査だったのである。
 案の定、米国防省はモロッコ事故について「パイロットの操縦ミス」という調査結果を日本に伝えた。この「操縦ミス」について米国防総省の最終報告書は「旋回中追い風を受けた際、パイロットが回転翼を前方に傾けすぎたため機体がバランスを崩し墜落した。パイロットが操縦の際『制限している行為』を行ったのが事故の原因」と結論付けている。つまり私が既述した自動車事故の原因究明の3つの視点は、オスプレイ事故の原因究明にはまったく行われていなかったのだ。政府の「機体の欠陥が原因ではない」という調査結論がすでに出されている以上、そしてあくまでオスプレイを普天間基地に配備するという米国防総省の方針が確定している以上、いまさら「実は機体にこういう欠陥がありました」とは口が裂けても言えなかったのだ。
 だが、この結論公表で米国防総省は墓穴を掘ることになる。まず「パイロットに制限している行為」が存在していること自体が、オスプレイが飛行機として未完成であることを意味していると言っていい。
JR西日本が起こした福知山線の「尼崎脱線事故」は急カーブの事故現場には本来設置していなければならなかったATS(緊急停止装置)を設置していなかったことと運転手の運転ミス(運転手は手前の伊丹駅で80メートルもオーバーランしており、そのミスによる電車の遅れを取り戻そうとしてスピードを出しすぎたとされている)が重なった複合事故だった。
そのことを考えると、オスプレイに事故の原因の一つとしてパイロットが「制限している行為」を行おうとした時、その行為をさせないような制御機能(電車のATSにあたる)がオスプレイには載っていなかったという飛行機としての致命的欠陥があったことを証明している。私が前回のブログで米政府の「機体の欠陥が(事故の)原因ではない」との見方について「では事故の原因は何か。機体の欠陥でなければ人的ミスということになる。つまり天才的な操縦能力の持ち主でなければオスプレイは制御できないと言っているに過ぎない。ということはやはりオスプレイは未完成の飛行機だということを意味する」と断定した私の主張を図らずも米国防総省の報告書が裏付けてくれたことになる。
問題はまだある。私ごときものがこの報告書を入手すべもないが、報告書には「パイロットが制限した行為を行った」と記載されているようだが、いったい「制限した行為」とはどういう行為なのか、それを明らかにしない限りオスプレイが安全な飛行機と認めるわけにはいかないのである。たとえばATS装置が不備だった福知山線の事故現場はかなりの急カーブで、運転手には制限速度を守ることが義務付けられていた。その制限速度自体、安全を重視する立場からかなり厳しく設定されていて、事故を起こした運転手ほどではなかったにしても大半の運転手は制限速度を超えた運転をしていたという。それは過密ダイヤを守るためのやむにやまれぬ行為だったという。はたして米国防総省はどの程度のアロアンスを「制限」に持たせていたのか。それは事故検証にとって絶対欠くべからざる重大事項である。それを軍事機密として公表を拒んだりしたら、日本国民(特に岩国基地や普天間基地周辺の住民)の不信感は募る一方になるだけでなく、米海兵隊のパイロットたちの間にもオスプレイへの乗務を拒否するケースが生じかねない。そしてそういう動きが表面化した途端「反乱」に近いオスプレイ乗務拒否運動が燎原之火のごとく燃え広がるのは必至である。
結局米国防総省にとっては逃げ場のない袋小路に追い込まれてしまったと言っていい。もともと事故の重大性の分類基準を乗員が受けた被害度にしたこと自体が常識では考えられないアンフェアな行為だった。そのようなアンフェアな分類基準にしたのは、米国防総省がオスプレイの危険性(というより未完成度)を覆い隠し、何が何でも海兵隊の主力機種の一つとして位置づけ、一日も早く重要基地に配備して活用したいという独りよがりの思惑からだった。
しかしその思惑を打ち砕くような事故(特に墜落事故)が毎年続発している状況がありながら、あくまで機体の欠陥に目をつむり「墜落原因はパイロットの操縦ミス」と言い張れば張るほど、肝心の米海兵隊のパイロットたちの不信感をあおる結果となり、世界各地のどの基地に配備できたとしても大半は「宝の持ち腐れ」になることは間違いないだろう。つまり、米国防総省のモロッコ事故の「調査結果報告書」は図らずも、米国防総省の目論見を破たんに導くことになることが必至である。

緊急告発!! オスプレイ事故件数を公表した米国防総省の打算と欺瞞

2012-08-15 17:51:47 | Weblog
 8月9日(アメリカ時間)米国防総省は突然、重大情報を発表した。
 普天間基地に配備予定(現在は岩国基地に仮配備中)のオスプレイMV22の事故件数を。初めてA・B・Cの3クラスに分けた数値を公表した。これまで公表してきたのは重大事故(具体的には10万時間飛行したときの死者を出すなどの事故)を意味する「Aクラス」だけで、海兵隊が運用する他の9機種の平均事故件数の2.45件に対しMV22オスプレイは1.93件として、オスプレイの安全性を強調してきた。
 だがNHKが7月26日に放送した『ニュース7』で、米国防総省がひた隠しに隠してきた3クラスに分類した事故件数(その重大情報をどうやって入手したかは不明)を明らかにしていた。結果から言うとNHKが入手し、報道した3クラスに分類した事故件数を米国防総省が「追認」したことになる。改めて米国防総省が公表した事故件数をこのブログで記載し、さらに同省の「公表」に隠された計算と欺瞞性を暴いてみたい。あらかじめ言っておくが、こうした視点で米国防総省の計算と欺瞞性を指摘したマスコミは皆無である。日本のジャーナリストたちがいかに無能であるかを結果的には明らかにしてしまうことになるが……。
 まず米国防総省が公表した内容を明らかにしておく。
 「Aクラス」(死者や200万ドル以上の損害を出したケース)
   オスプレイ:1.93件  海兵隊平均(オスプレイを除く9機種):2.45件
 「Bクラス」(負傷者に重い後遺症があるか損害額50~299万ドルの損害を出したケース)
   オスプレイ:2.8件   海兵隊平均:2.07件
 「Cクラス」(軽傷者が出るか損害額5~50万ドルの損害を出したケース)
   オスプレイ:10.46件  海兵隊平均:4.58件
 実は昨夜読売新聞の読者センターの方に(これから述べる)私の考えを申し上げたところ、担当者は「うーん。……おっしゃる通りだと思います」とお答えになったので、「読売さんの記者はまだ誰も米国防総省の計算と欺瞞性にお気づきではないようですね」と言いつのった。「そのようですね」と誠に正直にお答えになったので「つまり記者としては失格だということですね」とまで挑発してみたが、返ってきた答えは「その通りだと思います」だった。そこで私が米国防総省の欺瞞性を暴いてみることにしたというわけである。
まず最初になぜ米国防総省は重大事故の「Aクラス」の事故件数(10万時間飛行した場合の平均値)だけを公表したのか、という問題を考えてみよう。この「Aクラス」の事故というのは死者を出すか200万ドル以上の損害(金額的損害基準については当初は公表していなかった)を出したケースである。損害額については私にはまったくわからないので、以降問題にしない。人的被害の基準についてのみ追及していきたい。というわけで死者を出すような飛行機事故とはどういうケースなのだろうか、をまず考えてみた
 ①墜落した場合 ②飛行中に、例えば燃料が漏れて引火し空中爆発したような場合の二つが主要因だろう。 
民間機と違いテロリストによる爆破は軍用機の場合、考慮に入れる必要はないだろう。
 ではオスプレイの場合、墜落してもなぜ乗員の死亡者率がさいのか。これはユーチューブでオスプレイの飛行状態の動画を見ていただきたいが、翼の構造とプロベラが設置されている場所が、ヘリコプターとも普通の飛行機(プロペラ機、いまどきプロペラ機なんか軍用機としては使用されていないと思うが)とも違うのである。オスプレイは上昇するときにはヘリコプターと同様プロペラが上を向いて回転する。ただしヘリコプターのプロペラが操縦席のほぼ真上に設置されているのに対し、オスプレイの場合は2基の小さめのプロペラが翼の左右の先端に設置されている。上昇中の動画では翼の構造が分かりにくいが、上昇を終えて飛行状態に入るときにオスプレイの翼の独特な構造がよくわかる。つまり翼が3体構造になっていて主翼の両端にそれぞれ副翼がついていて、上昇時には主翼と一体化していた(つまり地面に対して水平であること)2枚の副翼が、飛行状態に入るとき前方方向に90度傾いていくのだ(つまり地面に対して垂直になること)。そしてオスプレイのプロペラはこの両端の副翼に固定されているため副翼と一緒に向きを飛行方向に変えていくのである。だから墜落が免れないという状況に至ったときは急きょプロペラを上向きにすることによってヘリコプターの不時着と同様の着地が可能になったのである。墜落しても死亡者が少ないのはそのためなのだ。
米国防総省はオスプレイにこうした構造を採用することによって、墜落時の乗員の安全性を向上させたのである。現に今年起きた2件の墜落事故で乗員がどのような損傷を受けたかを検証してみよう。
①4月11日、モロッコの南方沖海上で訓練飛行していたオスプレイが、強襲揚陸艦イオー・ジマから離艦し、モロッコの演習所に海兵隊員を下したあと帰艦する際艦上に墜落し、全乗員4人のうち2人が死亡、2人が重傷を負ったケース(Aクラスの事故)。
②6月18日米フロリダ州で訓練中のオスプレイが墜落、乗員5人が負傷したケース(Cクラスの事故)。
海兵隊が所有するオスプレイを除く9機種のうち何機種がジェット機かはわからないが、7~8機種がジェット機と考えられる(ヘリコプターなどジェット機以外の飛行機も所有しているため)。ジェット機の場合、墜落したらまず乗員全員が死亡する、命が助かるケースは乗員が機体を放置してパラシュートで脱出する以外あり得ない。もちろん何らかの理由で空中爆発した場合はオスプレイも含め全機種の乗員全員、命は助からない。それなのに米国防省は乗員が死亡したケースのみをAクラスに算入し、②のように全員が負傷(重症の場合はこういう表現は使わない)で済んだケースはCクラスにカウントされてしているのだ。
ではなぜ事故の重大性についてこのようなアンフェアなクラス分けをしたかというと、米国内でも「オスプレイはまだ未完成だ」「極めて危険な飛行機だ」といった批判が後を絶たず、オスプレイの「安全性」を強調するため、あえて乗員の死亡件数を他の飛行体と比較して、乗員の死亡件数、事実上の死亡率(あくまで乗員であって、例えば市街地に墜落して一般市民に多くの死傷者を出しても、乗員さえ無事ならばAクラスに算入されない)だけをカウントするという姑息な手段をとったのだ。そうした姑息なやり方に蓋をするため、BクラスとCクラスの事故件数を極秘扱いにしてきたのである。
ところが、NHKがこの極秘情報を入手し、すでに述べたように7月26日の『ニュース7』で暴露してしまった。つまりオスプレイと他の飛行体の事故件数をA、B、Cの3クラスに分けてカウントしてきた米国防総省の秘密情報を暴いてしまったのである。ただそれぞれのクラスの事故の基準までは情報を入手できなかったようで、それぞれ「大規模」「中規模」「小規模」といった意味づけでアナウンスした。
このNHKの大スクープで頭を抱えてしまったのが米国防総省。NHKがスクープした数字が海兵隊か国防総省の内部(しかも幹部級しか知りえない極秘情報)から流出したとしか考えられず、(NHKが報道した内容が完全に正確なものだっただけに)米国防総省はやむを得ずB、Cクラスの事故件数も公表せざるを得なくなったというわけだ。が、そのことによって米国防総省の欺瞞性が一気に明らかになってしまった。
読売新聞は8月5日の朝刊2面の記事「オスプレイ 米、安全性に自信」という見出しの記事の中で、今年に入ってから生じた二つに事故(既述)について、米政府はいずれも機体の欠陥が原因ではないと見ていると書いている。
では事故の原因は何か。機体の欠陥でなければ人的ミスということになる。つまり天才的な操縦能力の持ち主でなければオスプレイを制御できないと言っているに過ぎない。ということはやはりオスプレイはまだ未完成の飛行機だということを意味する。
さらに事故のクラス分けを乗員の「死亡」「重い後遺症が出た負傷」「軽傷」の三つにしたこと自体、オスプレイの未完成度を証明していると言っていいだろう。本来機体の安全性をフェアな方法で確認するには、事故の内容を基準にすべきで、乗員が事故によって受けた身体的ダメージの大きさを基準にするべきではないのは当然だ。
たとえば同じ墜落事故でも原因はいろいろある。御巣鷹山で生じた日航ジャンボ機の事故を「墜落」と理解している人が大多数だが、事実は違うと私は考えている。すでに金属疲労を生じていた隔壁に亀裂が走り、客室の空気圧(ジャンボ機は空気が薄いかなりの高度を飛行するため、客室内の空気圧を高くしている)の圧力に耐え切れず隔壁が破壊し、機体のコントロールがまったくできない状態になってしまった。そういう状況の中で操縦士は冷静さを失わず、必死に不時着できる場所(平地)を探して操縦を続けたのである。しかし隔壁が破壊するというトラブル(これが事故の原因)によって通常の操縦が不可能になり、操縦士はついに山中への不時着を試みる。そして、結果的には4人の命を救うという操縦士の鏡ともいうべき手腕を発揮したのである。私はこの操縦士の命がけの操縦技術を高く評価しているし、日航はあまり公にはできないにしても後輩にあたる操縦士たちに彼がとった冷静な行動と操縦士魂を学ばせるべきだと考えている。
話がややそれたが、Aクラスの事故件数では他の海兵隊の飛行機より少ないのは当たり前で(現にオスプレイの場合墜落しても乗員の生存率が高いことはすでに検証した)、問題はBクラス、Cクラスになると事故件数が一気に増大しているという事実である。もし人的被害の大小で事故の重大性を区分したりせず、フロリダでの墜落事故も、乗員が全員負傷しただけだったとしても、墜落そのものが飛行機にとってはあってはならないことなので、機体にどういうトラブルが生じたかを事故分析の基準にすべきである。そのようにB、Cクラスに分類された事故件数のほうに算入されている墜落事故をカウントすれば、とうてい日本としては受け入れがたいという結論が出るはずだ。
森本のような論理的判断力を欠いた防衛相がたった一度オスプレイに試乗したくらいでオスプレイの安全性or危険性がわかるわけがない。防衛相として森本が米国防総省に迫るべきは、乗員の人的被害度で事故の重大性を分類した米国防総省のデータを一切認めず、3クラスすべてひっくるめて墜落事故はいったい何件生じたのか、その墜落率を海兵隊の他の飛行機と比べたデータを出させるべきである。そしてすべての墜落事故の詳細な原因解明のデータの公開を求めるのが日本の防衛相としての義務であり責任であり、さらに言えば米国防総省に真実のデータ提出を要求する権利を行使すべきではないのか、
もちろん墜落だけが事故ではない。機体のコントロールが不可能になったケースの件数とその原因の解明結果も公開を迫るべきである。それが日本の防衛相としての最低の任務であり義務であろう。

いじめ社会の復活に手を貸した大手マスコミの罪

2012-08-11 12:20:49 | Weblog
 いじめ事件が深刻化している。すでに社会問題としてマスコミも大きく取り上げ、文部科学省も本腰を入れて取り組んできた。特に滋賀県大津市の市立中学の2年男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺した事件は、日本中に大きなショックを与えた。
事前に生徒の父親が学校に訴え、学校側が何の対応もしてくれなかったため、3度にわたって大津警察署に被害届を出そうとしたが、警察も取り合ってくれなかった。そういう状況の中で父親が子供をほかの学校に転校させていれば悲劇は防げたかもしれない。だがそれは悲劇が生じた結果を知ってから言えることで、そこまで自分の子供が精神的に追い込まれていることを、父親の立場でも察知することは困難だろう。
 この事件をマスコミが大きく取り上げたことで滋賀県警本部が動き出した。ひょっとしたら警察庁が滋賀県警本部に指示したのかもしれない。その結果大津警察署は加害者学生3人に対して逮捕あるいは少年院送致(その場合は家裁が決定する)も視野に入れ数十人規模の捜査態勢で事件の真相解明に取り組んでいる。
 ここでこの事件を未然に防げなかった大津市立中学校名を明らかにしておこう。私のブログを読んでくださっている方たちはおそらく「とっくの昔に知っているよ」とおっしゃりたいだろうが、このブログでわざわざ皆さんがご存知であろう中学校の実名を明らかにすることの意味は最後まで読んでいただければご理解いただけると思う。
  大津市立皇子山中学校
 私はみなさんと同様加害生徒3人の実名もわかっているが、それは公開しない。いくら匿名で好き勝手に自分が知り得た情報をネットに流せるとしても、そこまで公表するのは行き過ぎだと思うからだ。
 さて二十数年ほど前にも「いじめ」が社会問題化したことがある。多分このブログの読者の大半は当時の状況をご存じないだろう。
 文部省(当時)がいじめについて本格的に調査に乗り出したのは昭和60年度(1985年4月1日~86年3月31日まで)からであり、いじめが社会問題化したのはその数年前からだ。きのう文部科学省児童生徒課に問い合わせたが、それ以前のデータは見当たらないということで、社会情勢の動向に当時の役所がいかに鈍感だったかを物語っている。
 が、文科省の名誉のために言っておくが、今はマスコミよりはるかに鋭敏な感覚でいじめ問題に取り組んでいる。すでに2010年からいじめ問題の調査に取り組み、2011年8月4日には「平成22年度『児童生徒への問題行動の生徒指導上の諸問題に関する調査』結果について」と題する数十ページに及ぶ緻蜜な報告書を公開した。
 同報告書によれば、前回のいじめ問題は、皮肉なことに調査を始めた昭和60年度を境に急激に減少を始めた。ちなみに今のいじめ問題と大きな違いの特徴は、当時のいじめは小学校が中心で、昭和60年のいじめ発生件数は小学校96,457件、中学校52,891件、高等学校5,718件であった。ところが調査を始めた翌年の61年度には小学校が26,306件と前年比72.2%の減、中学校が23,690件で55.2%の減。高校も2,614件で54.3%の減、といずれも大幅に減少した。その後も一時的にいじめが増えた年もあったが、調査を開始して以降平成21年度(2009年4月1日~2010年3月31日)までの25年間ほぼ毎年いじめの件数は前年比マイナスと続けてきた。
この間、前年比プラスに転じたのは小学校で平成(以下平成は略す)7年度の5.2%増と15年度の6.9%増の2回だけ、中学校は4年度の14.3%と7年度の8.4%及び15年度の4.1%のそれぞれ増加を記録しただけだったが、高校の場合だけ元年度14.1%、3年度12.5%、5年度2.8%、15年度からは3年連続で8.6%、2.5%、3.3%と、6回も増加した年があった。
だが、これらの増加した年がそろったのは15年度だけで、それもすべて1けた台の増加で、いじめ問題の再発とまでは言い切れない。むしろ偶然その年に重なっただけと解釈するのが妥当だろう。
問題は文科省の調査結果が公表された22年度である。この年に揃っていじめが増加したのである。だがまだこの年度は予兆にすぎず、いじめの復活とまでは予測できるような増加率ではなかったではなかった。すなわち増加率は小学校で3.5%、中学校で0.7%、高校だけが突出していて17.3%の増加率を示した。
結果的にはこの年がいじめ現象の再発になったと言えるのだが、実はその年の3年前からのいじめ発生率はすべて2ケタ台の減少を記録していたのだ。すなわち19年度以降、小学校が19.7%、16.5%、14.8%の減、中学校が15.2%、15.4%、12.7%の減、高校でさえ32.1%、19.4%、16.3%と大幅にいじめは減っていたのだ。いったい22年度以降教育環境にどのような、いじめを再発させるような事態が生じたのか。
実はこれらの数字の根拠に問題があったということが文科省児童生徒課への問い合わせで明らかになった。いじめ現象が再発したのでは、という危惧を文科省が抱き始めたのは平成17年ごろだったようだが、それまでもそれ以降も、いじめ調査の方法は、基本的には学校あるいは教育委員会からの報告と少数のスクール・カウンセラーの学校への聞き取り調査に頼ってきた。
そして昭和60年度以降平成17年度までと調査方法は基本的に変わっていないのだが、「実際にいじめが発生した件数」を正確に把握することは難しい。学校や教育委員会が報告しなければ、実際にいじめがあったとしても「発生件数」としてカウントするには無理があるとの指摘が有識者会議の結論であった。その指摘を受け、平成18年度以降は「いじめを学校側が認知していたかどうか」を基準に、「認知(した)件数」と表記することにしたのだ(実態数字には変化はない)。その結果、17年度までの調査結果には「「いじめの発生学校数・発生件数」と題して調査結果を発表してきたが、18年度以降「いじめの認知学校数・認知件数」と題することにしたのだ。しかし調査方法を変えたわけでもなければ、実態数字が表記の変更で変わったわけでもないので、18年度以降も「発生件数の増減率」(実際には「認知件数の増減率」と表記すべきだが)という欄はそのまま残されている。つまり実際にいじめがあったとしても学校や教育委員会にいじめがあったとは「認識していなかった」と言い張れば、いじめ件数にカウントされず、結局文科省の調査結果は氷山の一角でしかなかったのだ。だから文科省がいじめ社会の復活を危惧するようになった17年度以降、「認知していたことを認めるのはやばい」と危機感をつのらせだした学校や教育委員会が19~21年度にかけての3年間、スクール・カウンセラーの聞き取り調査は「いじめがあった(あるいは『あったようだ』)」という情報が匿名も含め「関係者」と想定できる人からの情報提供(あやふやなケースも含め)が寄せられた場合にのみ行われている。
つまり文科省が独自の調査網を全国的規模で構築しているわけではなく(限られた予算の中では「いじめ調査」が後追いになるのは仕方がないだろう)、何らかの情報が寄せられなければ動けないのである。ただ文科省の調査方法の欠陥(かなり重要な欠陥)は、「教育委員会や学校」が自ら認めない限り(つまり「いじめがあったことを認知していた」ことを認めない限り)「いじめの認知件数」にカウントできないこと、いじめの被害にあった生徒の被害度を区分してカウントしていないことの2点である。
後者について言えば①最悪な事態(自殺および自殺未遂)②仙台育英高校の加害生徒が被害生徒に対して行った「根性焼き」のような日常的な暴力行為③被害生徒が恐怖感に駆られ登校しなくなったケース④被害生徒が転校することによっていじめから逃れたケース、など少なくとも一過性とは言えない4つのケースに分けて、教育委員会や学校が認知していたか否か(「認知していた」にもかかわらず事件化した後の聞き取り調査で「認知できなかった」と主張されたら、「認知していたはずだ」と立証することはほとんど不可能である)のいかんを問わず、警察と連携して強制調査を行う体制を敷いたうえでスクール・カウンセラーの聞き取り調査を行うようにすべきだった(文科省に強制調査権が付与されていない以上、警察との連携関係を構築し、その威力をバックにカウンセラーが聞き取り調査を行えるようにすれば、かなり「いじめ社会の実態」を把握できたはずだし、また最悪の事態に至る前にいじめを防ぐ手段(例えば加害生徒を退学あるいは強制転校させる)が取れていたはずだ。
文科省の「いじめ対策」の不備に対する指摘はこのくらいにして、このブログの最大のテーマである「いじめ社会の復活に手を貸した大手マスコミの大罪」に焦点を移そう。
私が2年半に及ぶ沈黙から脱してブログ活動を再開した第一弾は「根性焼き」などのリンチを繰り返してきた4人の加害生徒を処分せず、むしろ被害生徒に自主退学を迫った仙台育英高校の悪質さを弾劾する前に、NHK、朝日新聞、読売新聞に「なぜ学校名を公表しないのか」と苦情を述べたことはすでに書いた。そして、なぜ仙台育英があくまでいじめを否定し続けたのかは、同校が宮城県代表として甲子園大会への出場を最重要視したためだったことも指摘した。実際甲子園大会に限らず大学なども含めアマチュアスポーツ界においては必ずしも当該スポーツの選手が直接関与していなかったケースでも、目に余る校内暴力事件や性犯罪事件などが生じた場合、一定期間公式試合への出場を自粛するというのが事実上の慣行だった。当然仙台育英は、宮城県大会で優勝し、甲子園大会の出場権を獲得していたため、このいじめ事件をうやむやに葬り去ることを決断、加害生徒4人をひそかに県外の高校に転校させる一方、被害生徒には自主退学を強要したのである。
結果的には被害生徒が仙台警察署に被害届を出したことをいち早くキャッチしたNHKが6日の『ニュース7』でこの事件をスクープ報道し、他のマスコミも翌日には後追い報道した。事ここに至って仙台育英も8日には河北新報の取材に応じ、「根性焼き」だけでなく校内調査した結果明らかになった他のいじめも公表、被害学生に強要した「自主退学」も取り消したことを明らかにした。翌9日には今度はNHKが『ニュース7』で後追い報道したが、ここまで来ても仙台育英の校名は明らかにしなかった。
すでにこのブログで書いたが、文科省のいじめ対策に限界が(現状では)ある以上、大手マスコミにはすでに社会問題化し、学校も教育委員会も手が付けられないところまで来てしまったいじめ社会の根絶に腹を据えて取り組む責任と義務がある。被害学生に対する配慮も大切だが、もう大半の日本人がネットで「根性焼き」のいじめ事件を生じた学校が仙台育英であることを知っており。そのことを前提に仙台育英も河北新報の取材に応じ、それまでの「われ関せず」の態度を堅持することはかえって学校の立場を不利にしかねないという判断に傾いた結果、被害学生への「自主退学要請を取り消した」ことを明らかにしたのである。
つまり、NHKが6日の『ニュース7』でスクープしたとき、25年間教育問題に取り組んできたという視聴者センターのチーフが、校名を明らかにしなかった理由について「校名を明らかにすることによって被害学生がかえって学校に戻れなくなる可能性が高い」といった判断方法(NHKに限らず、朝日新聞や読売新聞も同じスタンスをとっている)はもはや完全に時代遅れになったと認識すべきなのだ。現在のネット社会が持っている社会的影響力が、もはや大手マスコミの思惑やマスコミ社会にしか通用しなくなった自主規制を完全に過去のものにしてしまったことに、そろそろ気づいてもいいころだ。
あえて言う。いじめ事件の増大にストップをかけ、被害学生を守る最善の手段はニュース報道で学校名を明らかにしてしまうことだ。ここまで私がいじめ問題についての私論を展開しても、依然として従来のスタンスから脱皮できないようなら、もはや日本人とくに若い人たちのマスコミ離れはとどまるところがないだろう。最近読売新聞は高率の付加価値税を導入しているヨーロッパ先進国が、新聞については軽減処置をとっていることを唯一の根拠として消費税の増大を支持しながら、新聞に対しては非課税もしくは軽減税率を例外的に認めるよう社説で主張したが、従来のように自分たちのマスコミ社会でしかもはや通用しなくなった論理から自らを開放しない限り国民のマスコミ離れはとどまることがないことを知るべきだ。
実は大手マスコミの読者や視聴者の意見を聞く窓口担当者の大半は「ネット社会下におけるマスコミが果たすべき役割と権利・義務・責任」についての私の主張を理解・支持してくれているのだが、肝心の現場が窓口担当者が伝えてくれた私の「マスコミ論」を全く理解してくれないようなのだ。現に仙台育英の校名を公表すべきだという私の主張に対して「校名を公表するとかえって被害学生が不利になる」と当初反論していたチーフも最後まで私の主張に耳を傾けてくれ、「貴重なご意見として必ず担当部門に伝えます」と言ってくれたのだが、仙台育英がいじめがあったことを認め、被害学生に強要した自主退学を取り消したことを後追い報道した9日の『ニュース7』でも、依然として校名を明らかにしなかった。
このブログの冒頭でいじめ自殺があった大津市立皇子山中学校の校名を明らかにしたのは、早い段階で校名を明らかにしていれば大津市教育委員会や皇子山中学校の見苦しいとしか言いようのない責任逃れの言い訳を事前に防止できていたはずだ。そして校名が明らかにされていれば、全国の学校が一斉に襟を正し、皇子山中学校の二の舞はすまいと、いじめの防止に総力を挙げて取り組むようになっていたはずだ。
なおかなりの方が(マスコミ界も含め)この事件で「調査をしたが(全校生徒へのアンケートなどを含む)、いじめと自殺との因果関係はないとの結論に達した」という大津市教育委員会の発表について委員長の責任は大きいと考えていらっしゃるようだが(読売新聞の読者センターの方も「委員長は校長経験者だから、どうしても学校寄りのスタンスをとる」と述べられたが、実態は違う。教育委員会委員長はいわば名誉職で、社会的地位が高くそれなりの権威が一般的に認められている人が就く。それに対して事実上の実務のトップは教育長で、この職には原則として校長経験者が就く(例外も多少あるようだが、文科省も全国の教育委員会の人事をすべて把握しているわけではないようだ)。つまり実務上のトップが校長経験者で、その立場にある教育長が調査を指揮し、結果を独断で判断するといった態勢が、教育委員会の現状と言っていいだろう。それが教育委員会と、不祥事を起こした学校との癒着体質が今日まで堅持されてきた最大の要因である。こうした癒着体制によって多くのいじめが闇から闇に葬られてきたことを考えると、不祥事についての教育長の下した決定については、弁護士などフェアな立場でチェックできる第3者委員会をあらかじめ設けておく必要があるのではないか。そういう委員会が設置されているだけでも、教育長にとってはかなりのプレッシャーになり、学校側との癒着体質に一石を投じることができるはずだ。
マスコミが果たすべき責任と義務は、まさにそうした問題にメスを入れることにあり、「少子高齢化」に歯止めがかからない状況と同じく、ネット社会がますます影響力を持っていく今後のことを考えると、「ネット社会の中でマスコミはいかなるスタンスで読者や視聴者に情報を提供していくべきか」を真摯に考えるべき時期に差し掛かっているのではないか。
そうした反省に踏まえて今日の様々な社会現象を、それこそ各マスコミが独自の視点で分析・評価して読者の信を問うという確固たる信念を持って報道・提言に徹するといったスタンスを確立しないと、読者・視聴者のマスコミ離れに歯止めをかけることはできまい。
さて本題から多少ずれるが、今回のいじめ現象は背景として少子高齢化の進行と無関係ではない。これは一人っ子政策を続けている中国で生じている問題ときわめて似た現象でもある。つまり中国で生じている子育ての状況を分析すれば、それがそのまま日本での子育ての状況と重なっていることに気づくはずだ。つまり同じ少子化の中で子育てが日本も中国も2極分化していることを理解しないと、第2次いじめ時代の背景を分析することはできない。
第1次いじめ時代は昭和の50年代半ばから始まったが、そのころはまだ日本では少子化は始まっていない。文科省のデータによれば、学校内の暴力行為発生件数と発生率についての調査は1983年(昭和58年)から行われてきたが、当初は中学校と高校のみが調査対象とされ、小学校の暴力事件も無視すべきでないということで小学校も調査対象に加えられたのは1997年(平成9年)からである。そのデータによれば第1次いじめ時代は。実は現在のいじめ状況と比べればそれほど深刻な状況とは言えなかった。一つには少子化がまだ始まっていなかったため、親だけでなく兄弟姉妹の存在が大きかったのではないかと思われる。また教師に大きな影響を与えたTBSの『金八先生』(武田哲也主演)の最初のシリーズが始まったのが1979年(昭和54年)であり、2008年(平成20年)まで8回に及ぶシリーズが放映された(シリーズとシリーズの間の間隔も含む)。このドラマが教師だけでなく学生に与えた影響も無視できないほど大きく、生徒と教師のコミュニケーションが頻繁に行われるようになり、いつの間にかいじめが減少していった。
ここで中国の子育て状況を見てみよう。先ほど「2極分化」と書いたが、一人っ子を甘やかし、わがままのし放題といった育て方(共産党幹部や富裕層などに多く見られる)と、とにかく将来成功できるように教育に大きな力を注ぐ育て方(中間層に多い)の2極分化である(そのほかに貧困層が中国にはあるが、日本の子育て状況とは無縁なので無視した)。
こうした中国の子育ての2極分化を見ると、日本と同じじゃないか、と読者の皆さんはお気づきだろう。まさにそうなのだ。私はスキャンダルを書くことは原則として自己規制しているが、これだけは書いておきたい。皇子山中学の加害生徒の保護者を学校に集めて事情を聞こうとした時、一人の母親が「私の子供を加害者扱いしないでください」と抗議しただけでなく「自殺した子はもう戻らないけど、私の子供はこれからも生きていかなければならないんです」と叫び、さらに校門で「私の子供こそ被害者です」というビラをまいたという。その母親はこともあろうに人権保護団体の「大津市地域女性団体連合会」の会長を務めているというから恐れ入る。
ところで最後にもう一つだけ文科省の調査データを紹介しておこう。このデータは「学年別いじめの認知件数」を調査したもので小学校では学年が上がるにつれごくなだらかな増加傾向がみられるが、中学1年生になった途端小学校6年生のいじめ認知件数の2倍超に激増し、2年生になると40%減少し、3年生になると2年生の半分以下に大幅減し、以降はなだらかに減少している。このデータの意味することは、いじめが激増した中学1~2年生は(個人差はあるにしても)一般的には子供が反抗期に入る年代であり、従来は反抗の矛先が親に向けられていたのが、少子化の結果、親が子供に甘くなったため反抗のし甲斐がなく、矛先がいじめやすい同級生に向かったのではないかと私は推測している。どなたか教育問題の研究者が私の推測を裏付ける研究をしていただければと願っている。

明日にも成立する一体改革法案に国民は納得できるか?

2012-08-09 04:54:50 | Weblog
 昨夜食事の後NHKのオリンピック放送を見ていたら、午後8時半すぎ突然臨時ニュースが飛び込んできた。3党合意が成立したというのである。
 直近の読売新聞の記事(見出しのみ)を時系列で見てみよう。
① 「自民、不信任・問責案提出へ…解散確約ない限り」(7日朝刊1面トップ)
② 「首相手詰まり…輿石氏、党首会談認めず」(同日スキャナー)
③ 「党首会談で事態を打開せよ」(同日社説)
④ 「不信任・問責、谷垣氏一任」(同日夕刊1面)
⑤ 「一体改革成立に危機…自民きょう不信任・問責案」(8日朝刊1面トップ)
⑥ 「自民『強硬』一点張り…党内『主戦論』抑えられず」(同日スキャナー)
⑦ 「一体改革を党利党略で弄ぶな」(同日社説)
⑧ 「解散時期『近い将来』」…民主、3党首会談を打診」(同日夕刊1面トップ)
これらの見出しだけでもこの数日の政権党である民主党内部(首脳陣)の混迷ぶりが目に見えるようだ。特に首相である野田氏が党内リーダーシップを発揮できず、輿石幹事長の対自民強硬姿勢に振り回されている状況を明確にした記事が②である。同記事のリードを転記させていただく。
「自民党が、社会保障・税一体改革関連法案採決の条件として衆院解散の確約を求める強硬路線に転じた。野田首相は、自民党の出方を読み誤り、輿石幹事長ら党執行部の対応に任せてきた甘さがあった。事態打開の手立ても容易には見当たらない事態に追い込まれている」
 ここでちょっと解説しておく。輿石氏はもともとは、民主党とたもとを分かつことになる、いわゆる「壊し屋」の小沢氏に近い政治家であった。党内地盤がそれほど強固ではなかった野田氏が小沢氏の協力を取り付け党内の結束を固めるために、あえて小沢氏に近い輿石氏を党内ナンバー2の幹事長に登用せざるを得なかったという因縁があった。小沢氏が新党を結成することにしたとき輿石氏の動向が注目を集めたが、党内最大派閥を誇っていた小沢氏に同調する議員が予想をはるかに下回る規模にしかならなかったことを察知した輿石氏が小沢氏とたもとを分かち党に残って党内のリーダーシップを事実上握る方向に舵を切ったのが、そもそも民主党首脳部の混迷を招くことになった最大の要因であった。
その結果自公との協力関係を壊したくない野田首相の意向を輿石氏が全く無視し、野田首相の了解も得ず「党首会談を認めない」などという、あたかも自分が事実上のリーダーであるかのごとき振る舞いに出たのである。本来野田首相としてはこうした輿石氏の計算を見透かし「おれに従えないなら離党してくれ」と服従を迫るべきだった。それができないところに野田政権の党内地盤の脆さがあった。また輿石氏はそのことを見透かし「党首会談を認めない」などというのぼせ上った態度に出たのである。そのことを昨夜の党首会談がようやく実現した経緯の重要性を正確に認識するための前提としてご理解していただきたい。
念のため読売新聞には論説委員以下政治部の記者に至るまでそういう認識を持っている人はいないようだ。そのことは7日の社説「党首会談で事態を打開せよ」との同紙の主張にも表れている。記事の全文をこのブログに転記するのは消耗なので一部だけ紹介する。「そもそも、こうした状況を招いた一因は、首相と民主党執行部の不誠実さにある」と記し、野田・輿石体制に亀裂が生じていることに理解が及んでいない。
 しかし8日の採決を主張した自民党に対し、当初20日の採決を求めた民主党案を自民党に蹴っ飛ばされ、ようやく事態がただならぬところまで追い込まれたしまったことに気づいた野田首相が輿石氏の「了解」を得ず10日採決を再提案、さらにそれも自民党から拒否され、自民党案を丸呑みして8日採決に歩み寄った。が、民主党執行部の足並みの乱れを見透かしていた自民党の強硬派・石原幹事長から「もう遅い。ルビコンの川を渡ってしまった。衆院で内閣不信任、参院で問責の決議を行う」と突っぱねられ、8日に至ってようやく腹をくくった野田首相自らが自民党・谷垣総裁に党首会談を要請した。そこまで腹をくくって最後の勝負に出た野田首相の要請を谷垣総裁も受け入れざるを得ず、二人の会談で合意に達した場合、公明党の山口代表を会談の席に加えて同党の了解を得ることを条件に党首会談に応じたのである。
 その結果はこのブログで繰り返すまでもないのだが、要点だけ述べると①早急に参院で一体改革の採決を行う②近いうちに国民の信を問う(衆院解散・総選挙を意味する)③自民党は不信任・問責を問わない、の3点である。
このうちジャーナリストの間で問題になったのは①の採決日、②の「近いうち」の時期である。昨夜読売新聞読者センターの方とこの問題について話し合ったが、私は「採決日は10日しか考えられない」と申し上げた。「理由は?」と問われたので「明日は各党が今日(昨夜)の3党合意について党内をまとめる必要があり、最短で考えると採決日は10日しかあり得ない」と応じた。結果から言うと今日の読売新聞朝刊1面のトップ記事の見出しは「一体改革あすにも成立」とある。私の読み通りであった。
次に「近いうち」の解釈である。解散権は総理の専権事項であり、あらかじめ野党の協力を取り付けるために日時を約束した例は憲政史上一度もない。しかし「近い将来」(昨日までの野田首相の公言)よりは多少具体性が帯びた表現だが、やはりあいまいさが残っている言い方ではある。これについては読者センターの方と読みが分かれた。読者センターの方は「今月中という感じがするが」と言われたので、「それでは『近いうち』の許容範囲を超えてしまう。いつから国会がお盆入りに入るかによるが、最短の場合週明けの13日になる。従来の慣行から考えると採決の翌日11日の土曜から19日の日曜までがお盆期間になるだろうからお盆明けの20日か翌日の21日が『近いうち』のギリギリの許容範囲だ」と主張した。読売新聞が「近いうち」の解散日をどう予測するか楽しみにして今日の朝刊を見たが、まるでトンチンカンな読みをしていた。同紙2面の見出し「解散時期で憶測…10,11月との見方も」の記事の中でこう述べている。
「自民党が早期解散を要求し、民主党が先送りを求める中での『玉虫色』の合意だが、『秋の臨時国会召集後の10月か11月が本線』との見方が出ている」さらに「自民党は、関連法案の参院での採決に応じる条件として、今国会期末(9月8日)までの解散確約を求めてきた。だが、谷垣氏は『近いうち』との文言について、8日の3党国会対策委員長会談で民主党が示した『近い将来』よりも早期解散の意味合いが強まったとして、受け入れた。自民党幹部は『早期解散』の範囲に、『秋の臨時国会での解散も入る』との解釈も示した」
 だが、自民党が当初3党合意を堅持する条件として当初求めていた「今国会期末(9月8日)までの解散」要求を民主党が突っぱねた時期から石原幹事長を筆頭とする強硬派が谷垣総裁に揺さぶりをかけ始め、野田氏と同様党内基盤が脆弱な谷垣氏が強硬派の揺さぶりに屈し、「8日採決、直後解散」要求に舵を切り替えたことを読売の政治部記者は忘れたわけではあるまい。その時点で「今国会末までの解散」要求は反故になっているのだ。いったいこの記事を書いた記者はどういうスタンスをとる自民党幹部の「(解散時期の許容範囲に)秋の臨時国会での解散も入る」というコメントを重視したのか。政治ジャーナリストとしてのセンスもなければ、昨夜の政局の劇的な一転がどうして可能になったのか、私がるる述べてきた経緯をまったくご存じないようだ。
民主党と同様自民党も一枚岩ではない。今や石原氏を筆頭とする強硬派が自民党の主流派をなしており、「近いうち」という文言は(日時に関する密約があったかどうかは忖度する以外に情報を得る手段はないが)強硬派を納得させるだけの意味合いを持っていると解釈するのが論理的である。だから谷垣総裁は会談後の記者会見で「「近いうち」とは重い言葉だ」とコメントしたのである。谷垣総裁が強調した「重い言葉だ」とは党内強硬派を説得できる、それなりの意思疎通が野田首相との間に成立したことを意味する。ということはきょう3党が首脳間で合意した内容について両院議員総会を開き、それなりの説明をして明日の法案成立について党内の一本化を図れるめどがついたことを意味する。
 しかしこの3党合意について、もう見苦しいとしか言いようがない抵抗をまだ試みようとしているのが民主党の輿石幹事長だ。今日の読売新聞朝刊1面トップ記事によれば、輿石氏は『近いうち』の解釈について、記者団から「今国会中か」と問われ、「そんなことはないだろう」と述べたようだ。特例公債法案など懸案が残っていることも指摘し「(早期に)解散できる状況ではない」と3党首会談の合意事項について反発したようだ。しかしここまで来たら輿石幹事長がいかに抵抗しようとも、もはや野田首相から党のリーダーシップを再び奪い返すことはだれの目にも不可能としか見えまい。
 現在の政治状況を、そう解釈するのが、最も論理的整合性を満たした政治ジャーナリストのあるべきスタンスだろう。
 そういうスタンスに立って3党合意の意味をもう一度分析・評価してみたい。
 まず、当初野田政権がかげたスローガン(今日的状況の中での新マニフェストと言ってもいい)は「社会保障と税の一体改革」であった。つまりまずありきは「社会保障制度の改革」だったはずだ。
 「少子高齢化に歯止めがかからない(厚労省によれば16年前は現役世代4.8人でひとりの高齢者を支えていたが、現在は3.5人でひとりの高齢者を支えなければならなくなっており、さらに2025年には2人でひとりを支えなければならない状況を予測している)現状の中でどうやって社会保障制度の崩壊を防ぐか」が「社会保障と税の一体改革」という新マニフェストの最大の目的だったはずだ。だから衆参のねじれ現象が生じてさえいなければ、まず社会保障制度の崩壊を防ぐための政策を長期にわたって確立していくことが「まずありき」であったはずだ。
 実際「こども園」という新しい制度を作って子育て世代の若い母親が安心して子供を預け、現役世代に復帰できる環境を整えるという構想も打ち出したし(まだ必ずしも構想通りには進んでいないが)、定年制改革(現在は60歳を年金受給の資格が生じる65歳まで延長しようという計画も考えられている)も政府は視野に入れている。また医療費の増大を抑えるため現役並みの収入がある後期高齢者(75歳以上)の保険医療負担率を3割に引き上げることも考慮されている。また働く意欲さえあれば働くことが不可能ではない若年生活保護者に、働く意欲を持たせるための様々な構想も練られている。
 本来なら「少子高齢化」に歯止めがかからない状況を踏まえ、「社会保障制度」の崩壊を防ぐための長期にわたる政策を与野党が協力し合って構築し、若い人たちが自分の老後を安心して迎えられるという確信を持てるような社会システムを構築することが最優先の政治的課題だったはずだ。そしてそのための財源をどう確保するかが税制改革の課題になるべきだった。消費税増税も特別公債発行もそのための、とりあえずの財源確保策の一部にすぎないはずだ。いずれ次々に「社会保障制度」を構築していくに従って新しい財源をねん出していかなければならなくなる。逆進性の欠陥が前々から指摘されている消費税増税は、現在の若い人たちの就職難、収入減、高齢者を直撃した年金支給額の減額などを考えると消費税以外の財源確保を図らざるを得ない。具体的には高額所得者への累進課税の強化、固定資産税や相続税、贈与税、株式配当の源泉徴収税(かつては20%だった税率が現在は10%に減額されている)、さらに確定申告した場合の優遇税制など、特に高額所得者や資産家が優遇されている税制の見直しは避けて通れまい。
もちろん、「少子高齢化」に歯止めをかける方途も考えていかなくてはいけない。また日本の産業界に大打撃を与えたユーロ圏の国家財政危機に対しても日本が黙視しているわけにもいかない。すでに火の粉が日本にも降りかかってきているからだ、
 こうした時期に政権党の民主党は前回の参院選で大敗したため、衆参ねじれ現象が生じている中でのかじ取りをしなければならないという困難な事態を迎えたのである。野田政府が、前回の参院選で消費税増税をマニフェストに掲げて勝利を得た自民党の協力を得るため、「社会保障制度」の構築案件を後回しにして、とりあえず財源確保を先行させることにした背景にはそういう事情があったのだ。そういう意味では消費税増税はマニフェスト違反だと駄々っ子のような屁理屈を並べたてて民主党を飛び出し、新党「国民の生活が第一」を作って「反消費税増税」グループに加わった小沢氏は政治家としての見識も、また党名に採用した「国民の生活」を増税なしにどうやって守るのかの具体的政策も考えていない(少なくともそう言うしかない。もし「これから考える」というのなら、いったん野に下がって、増税なしに「国民の生活」を守れるマニフェストを掲げて出直すべきだろう。
 いずれにしても後先をひっくり返して、自公の協力を得て「社会保障制度」の安定化のための財源の一部は確保できることになった。そして私の予測によれば解散は遅くもお盆明けの8月20日か21日になるはずで、消費税増税で野田政権に協力した自公も、また自公の協力を得るため後先をひっくり返して財源確保を最優先させた民主党も、総選挙ではどのような「社会保障制度」を構築すべきかを争点にして戦ってほしい。それが税金の負担増に耐えなければならなくなる国民に約束すべき最低限の義務であり責任である。


仙台育英高校は甲子園大会に出場できるのか?

2012-08-08 05:50:46 | Weblog
 過去2年半体調をくずしブログを書いてきませんでした。それなのに毎日私の復活を待ち訪問してくださる方が依然としてかなり多くいらっしゃったことを知り、感謝の念に堪えません。実はこの間3度入院し2度手術しました。さらに肝硬変という不治の病にも侵されてしまいました。この間暴飲暴食をしていたわけではありません。おそらく若いころの暴飲暴食の付けが今頃になって爆発したのでしょう。
 たとえば日航のジャンボ機が御巣鷹山に墜落した原因は隔壁が金属疲労に陥り、飛行中に亀裂を生じてしまい機内の空気圧(ジャンボ機はかなりの高度を飛ぶため機内の空気圧を相当高くしないと乗客や乗務員が酸素不足になってしまいます)に耐え切れず破壊したことでコントロール不能に陥ってしまったのです。私の高齢者検診では昨年まではγーGTP(アルコール性肝機能障害を検査した数値)はやや高いまでも肝機能障害を生じているような数値ではありませんでした。しかし今年の検査ではγーGTPの数値が一気に10数倍の1980という医者も検査結果に疑問を持ち再検査してくれましたがやはりアルコール性肝機能障害の疑いがあるということでエコー検査(超音波を照射する画像診断)をしてくれた結果やはり肝硬変を生じていることが判明したというわけです。
 もちろんビールをはじめアルコール飲料にはドクターストップがかかり現在はノンアルコールに代えました。その一方私の体調は5月の末ごろから急速に回復し、それまで中止していたエクササイズを再開し、ブログを再開することも可能になったというわけです。
 私事はこの辺にして、例の「根性焼き」という不祥事を起こしたうえ、被害学生に自主退学を迫った仙台育英高校が今年の甲子園大会に宮城金代表として、しかも皮肉なことに初日の今日の第三試合で佐賀北高校と試合を行う予定になっています。
 過去のケースを重視するならば、県の代表校が(野球選手に限らず)暴力事件など不祥事を起こした場合、すべて学校側が自主的に出場を辞退し、準優勝校が出場権を得てきました。少なくとも1週間前くらいまでに不祥事が明るみになっていれば仙台育英も自主的な辞退を余儀なくされていたはずです。
 仙台育英が悪質なのはいじめの被害にあった生徒に自主退学を迫るという教育評論家の尾木氏がコメントしたように「天地がひっくり返ったような話」というにとどまらないということです。つまり仙台育英は(当然校長も含め)相当前にこのいじめを承知していながら甲子園出場を辞退せず、ひた隠しに隠してきたという問題です。
 問題が明るみに出たのは今月6日にNHKがニュース7でスクープしたことがきっかけでした。被害生徒が仙台警察署に被害届を提出したことをキャッチしたNHKのスクープでした。
 このニュースを見た直後、私はNHKの視聴者センターに電話し、チーフに代わってもらって「なぜ校名を明らかにしなかったのか。これほどいじめが社会問題化している時期に加害生徒を処分せず、逆に被害生徒に自主退学を迫るという悪質な学校名を明らかにしなかったのはなぜか」と苦情を述べた。25年間教育問題に取り組んできたというチーフは「いじめ問題を扱う場合はかなりデリケートにならざるを得ないんです。お客様がおっしゃることは十分理解できますが、校名を公表した結果、かえって被害学生が学校に戻れなくなる事態も生じる可能性がかなり高いと報道部門は考えたのでしょう」と答えた。私は「あなた方は現在のネット社会の広がりを全く理解されていないようだ。今日中に校名は必ずネットで流れるよ。NHKが校名を明らかにしないという配慮はネット社会では通用しない。もうかつてのような大手マスコミが自分たちだけの社会にしか通用しない自主規制や被害者に対する配慮は今のネット社会によって完全に崩壊したことを念頭に置いて報道しないとマスコミに対する信頼感は雪崩を打つように喪失されていくよ、と私は応じた。現に厳しいネット規制を行っている中国ですら次々に共産党幹部の腐敗がネットで暴かれ権力の中枢部すらネットの告発を抑えきれない状況である。最近でも中国共産党でナンバー3の地位にあった重慶市トップがネットの告発で完全に失脚し、死刑になるのではないかとのうわさも流れている。北朝鮮は貧困社会だから一般庶民はパソコンや携帯などのネット手段を持てないが、もし中国などの支援(食料などの援助だけでなく技術供与)などで経済発展するような時期が来れば金家による世襲政権が崩壊することはほぼ間違いない。
 いずれにせよNHKがスクープしたその日の午後11時前には案の定「根性焼き」のいじめがあった学校が仙台育英であることが最初にネットに流れ、次々に書き込みが寄せられた。改めて私はNHKをはじめ高野連と共同主催している朝日新聞だけでなく読売新聞の読者センターにも早急に校名を公表し、高野連に「仙台育英を強制辞退させ佐賀北の不戦勝を迫れ」と主張した。がどこも私の主張を受け入れず、校名を明らかにしなかった。つまり大手マスコミ3社は仙台育英の甲子園出場に手を貸したことになる。もちろん高野連としてはネットに流れた情報を唯一の根拠として仙台育英の出場権を剥奪することはできない。高野連は独自の調査網を持っているわけではなく不祥事を起こした学校なり各都道府県の下部組織からの報告がなければどうにも手の打ちようがない。
 その結果、多分今日の第3試合に仙台育英は出場するだろう。そのことが何を意味するか、今日まで戦中を除いて旧制中学時代から続いてきた「清く正しい」甲子園大会の歴史に消すことのできない汚点がついてしまうことになる。
 いずれいじめにあった学生からの被害届を受理した仙台警察署が宮城県検察庁に事件を送り検察が立件すれば大手マスコミも校名を公表せざるを得なくなる。そうなれば相撲界で生じたように高野連も仙台育英の甲子園大会どころが県大会をはじめすべての公式高校野球試合への出場を永久禁止の処分をとらざるを得なくなる。仙台育英の被害学生に対して下した「天地がひっくり返る」ような処分と、不祥事を知りながら素知らぬ顔で甲子園に出場した罪、校名を公表せず甲子園大会を汚すことに手を貸した大手マスコミも同罪である。それは「被害者生徒への配慮」を口実にできるほどの軽い罪ではない。