小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

集団的自衛権行使にあくまで食らいつくぞ。 日米安全保障条約の片務性解消の方が優先課題だ。⑥

2014-07-25 06:05:22 | Weblog
 無謀なアメリカとの戦争に、敗北に次ぐ敗北を重ね、原爆を2度投下されるまでは、婦女子に至るまで近代兵器で武装した米兵に竹槍で戦うことを、大本営は本気で考えていた。当時の日本政府は「精神異常者集団」とでも考えようがない、としか言えない。
 米国から「ハル・ノート」と呼ばれている最後通告を突きつけられ、ABCD包囲網で石油入手の道(近代戦争においては糧道を意味する)を絶たれた日本が、精神主義だけを「武器」に、すでに世界の軍事最強国になっていたアメリカに単独で戦争すること自体、「ハル・ノート」を受け入れて失うものと、拒否して戦争に敗れて失うものとの「足し算・引き算」ができないほど判断能力を失った政府だったと言えよう。
 戦勝国連合が、敗戦国の責任者を裁判で裁くことが国際法上正当であったかどうかの議論はあるにせよ、もし日本側が戦争責任者を告発して裁判を行っていたら、戦争犯罪者として告訴された被告は、極東軍事裁判(東京裁判)で起訴された被告の数百倍に達していたであろう。その中には、戦争について外電などで真実の戦況を知りうる立場にありながら、あえて国民に真実を伝えず「竹槍で戦え」と自殺行為を推奨したメディアの責任者も、当然ながら含まれる。そのことをメディアは、いま自覚しているのか、と私は問いたい。
 ノンフィクション作家の大宅壮一氏は「一億総懺悔」なる「名言」を残したが、それはちょっと違うだろう。懺悔すべきは戦争を遂行し、「竹槍で戦え」と国民の戦意高揚を図った軍部や軍部協力者(メディア関係者もその中に含まれる)だけで、原爆投下や空襲で逃げ惑った戦争被害者は懺悔すべき筋合いではない。
 第一、戦争犯罪者のA級戦犯を「昭和受難者」という名目で合祀しながら、集団自決に追い込まれた戦争被害者については「昭和受難者」と見なさず、合祀していない靖国神社への参拝を「政治信条」としているはずの安倍晋三首相は、今年8月15日にあくまで靖国参拝を強行すべきだ。もし靖国参拝を行わず、安倍総理の「政治信条」が紙より軽いものであったら、「実は私の政治信条はトイレット・ペーパーより軽いのです」と、正直に国民に告白したらどうか。そうすれば国民も「安倍さんは正直な人だ」と思い、世論調査で内閣不支持を表明したうちの何人かは内閣支持に転じるかもしれない。逆に内閣支持を表明していた人のどのくらいが不支持に転じるかは分からないが…。
 いずれにせよ、戦争に敗れた日本は連合国に占領され、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の施政下におかれた。この「最高司令官総司令部」というのはおかしな言い方で、連合国最高司令官はダグラス・マッカーサー米陸軍元帥だから、こうした言い方を日本の政治機構に当てはめると「内閣総理大臣」ではなく、「総理大臣内閣」という言い方になる。いい加減なのは日本もアメリカも変わらない、ということか。
 それはともかく、GHQによって大日本帝国陸軍・海軍・空軍はすべて解体さ
れ、武器弾薬や軍需産業の生産設備に至るまですべて没収された。つまり日本は下着まで脱がされ、すっぽんぽんになったのである。あっ、警察という下着はかろうじて着けていたか…。
 マッカーサーは「日本憎悪」の念に凝り固まった総司令官で、日本占領政策もきわめて過酷なものだった。マッカーサーの対日感情の原点は、最初の戦いで大敗北したことによるとされている。もともとアジア系人種に対する差別意識が強かったとも言われている。おそらく両方が重なって憎悪感が巨大化したのではないだろうか。
 1941年12月8日、日本は米英に宣戦布告して無謀な戦争に突入する。真珠湾に集結していた米艦隊を奇襲攻撃すると同時にイギリス領のマレーにも侵攻した。当時この方面の米軍の指揮官だったマッカーサーは、日本陸軍戦闘機の攻撃で米軍航空機が壊滅状態に陥った時も、日本の戦闘機のパイロットが日本人であるとは信じられず、本国に「日本軍戦闘機のパイロットはドイツ人である」と報告したくらいである。
 米軍は敗北に敗北を重ね、マッカーサー自身捕虜になりかねない状態になった。本国では「英雄」視されていたマッカーサーを米政府も、戦死させたり日本の捕虜にさせたりするわけにはいかず、フィリピンで日本軍と死闘を続けていた米軍兵士を見捨てて「身一つでオーストラリアに脱出するよう」命令を出した。政府が、敗軍の指揮官に自分だけ逃げろと命じること自体異例である。が、この本国の命令を奇貨として脱出したマッカーサーは伝説となる言葉「アイ・シャル・リターン」という捨て台詞を残して戦地から逃げ出した。
 戦後、米本国では昭和天皇の戦争責任を問うべきだという考えが上下両院で支配的だった。連合国のなかにも天皇の戦争責任を問う声がかなり大きかった。が、連合国最高司令官のマッカーサーにとっては、対日占領政策を成功させることが最優先事項だった。現在の皇室と国民の距離感はイギリスのそれに近いほど親密な関係になっているが、当時の天皇は「現人神(あらひとがみ)」と呼ばれ神格化されていた。一般人が「ご尊顔」を直視することさえ「畏れ多いこと」として禁じられていたくらいである。そういう日本国民の精神的支柱である天皇の戦争責任を問うとなれば、占領政策に重大な支障が生じかねないことをマッカーサーはまず恐れた。
 「アイ・シャル・リターン」を実現して、さらに米国内の人気を集めていたマッカーサーは、この時すでに大統領への野望を抱いていたと思われる。その野望を達成するためにも対日占領政策を成功させ、日本から軍国主義思想を徹底的に排除して「平和を愛する国」に変えることが、総司令官としての使命であることを自覚していた。
 その使命の達成には昭和天皇の協力が不可避と考えていた(と言うより側近のブレーンたちの進言が大きかったようだが)。マッカーサーが他の連合国や本国政府を説得して昭和天皇の戦争責任を問わず、皇族の政治権力をはく奪したうえで皇室を存続させた最大の理由はそこにある。
 だからマッカーサーの占領政策は、皇室の存続に見られるような寛容なものではまったくなかった。同じ敗戦国であり枢軸国で日本に3か月先立って無条件降伏したドイツに対する占領政策に比べても、おそらく相当に過酷だったと思われる(ウィキペディアを含め、連合国による日独の占領政策比較研究はネットでは調べられなかった)。
 そう思える節はいくつかある。まず財閥解体。財閥が日本の戦争遂行に果たした役割は否定できないが、財閥解体の狙いは日本の産業工業力の回復を不可能なまでに破壊することにあったと考えられる。
 敗戦直後の日本はナベ・カマの生産すらままならないほど工業生産力は疲弊していたが、それでも戦禍から免れた工場も地方には存在した。マッカーサーはそれらの工場に残されていた生産設備や機械類をすべて撤去して東南アジア諸国に移してしまうという制裁的政策を実行に移そうとしていた。
 さすがに、この政策は米本国政府が認めず、撤去破壊されたのは武器・兵器類の製造設備だけにとどめられたが、マッカーサーの占領政策はそういうものだったということを、若い人たちは歴史認識として頭の片隅に刻み込んでおいてほしい。
 それはともかく、ドイツの場合もそうだが、占領下におかれていた間は、その国を防衛する義務が占領側にあることは国際常識である。ドイツは1945年5月7日に無条件降伏し、欧米とソ連に分割占領されたが、西ドイツは49年5月23日に占領を解かれて主権を回復した。東ドイツもほぼ同じ時期に主権を回復している。
 念のため、日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏したのは45年8月14日。ただし、国民に玉音放送で知らしめたのは翌15日なので、いちおう日本では15日を終戦日としている。その日本がサンフランシスコ講和条約に調印し占領を解かれて主権を回復したのは51年9月8日。ドイツの占領期間は4年だったが、日本は6年余である。
 ついでに同じ枢軸国のイタリアは43年にムッソリーニが失脚して連合国側に寝返って戦争に参加しており、ちゃっかり戦勝国の仲間入りをしている。
 それはともかく、果たしてドイツの無条件降伏が3か月遅れていたら、アメリカはドイツにも原爆を投下していただろうか。歴史の検証に「タラレバ」は禁句とされているが、この疑問だけは私の脳裏から消えたことがない。
 1980年代後半から90年代初めにかけて、日米経済摩擦が発生したとき、アメリカ国内で吹き荒れたジャパン・バッシングの合言葉は二つあった。一つは「安保ただ乗り」論であり、もう一つは「日本は異質な国」論である。いずれも「自分たちの規範や価値観だけが正しく、それを受け入れないのは…」という、アングロサクソン民族に共通した、明らかな差別意識である。政治家もメディアも、そのことをすっかり忘れているようだ。「のど元過ぎれば、熱さ忘れる」日本人の特質なのだろうか。
 私は日米経済摩擦が最高潮に達していた時期の92年11月に上梓した『忠臣蔵と西部劇』でこう書いた。

 折しもアメリカでは「どうやら日本人は、我々と共通の価値観を持った人種ではないようだ」という、一種諦めに似た日本論が台頭しつつあった。いわゆる“日本異質論”である。「日本を理解してもらう」という受け身の姿勢は、この“日本異質論”への対応でもあった。
 だが、よく考えてみれば、こんな情けない話はない。
 なぜなら、アメリカ人が「日本は異質だ」と極めつけるとき、彼らの発想の前提には「われわれが普遍であり、そのわれわれとの共通性が少ない日本は、異質である」という、恐るべき傲慢さがあるからだ。その傲慢さを、なぜ日本の論客は問題にしなかったのか。
「お前たちは日本を異質だというが、オレたちから見たら、お前たちのほうが異質だ。価値観が異なる場合は、互いに異質なのは当たり前の話で、だからこそ、互いに近づきあって、共通できる要素を広げていく努力が、必要なのではないか」
 日本側がそう反論していれば、新しい建設的な議論の場を、日本側のリーダーシップで作り出すことも可能だったのだ。だが、日本の論客はそうしなかった。ひたすら、卑屈な弁解に努めた。「日本にはこういう事情がありまして…」とか、「日本の伝統や文化はこういうものでして…」と、何とか日本を理解してもらうことによって、批判の矛先を避けようとした。矜持のある人のやることではない。(※アメリカのジャパン・バッシングを日本のメディアが支持したことで、その後日本のアメリカ化が急速に進み、それに味を占めてヨーロッパ諸国にも同様の試みを行おうとして失敗したのが「グローバル化」作戦だった。そのことを記憶しているジャーナリストはほとんどいないだろうな。いやそもそも「グローバル化」作戦にアメリカが乗り出す先鞭をつけたのが、日本での成功例だったことに気付いているジャーナリストは皆無ではないか)

 それはともかく、日本の主権回復がドイツに比して2年も長くかかったのは、連合国の差別意識だけが理由ではなかった。48年から49年にかけて中国で共産革命が進展したこと、その余波が朝鮮半島にも飛び火し50年6月25日には朝鮮戦争が勃発したことも大きな要因であった。
 ヨーロッパにおける共産勢力の波及は東欧圏で止まった。西側列強が同盟を結んで共産勢力の拡大に歯止めをかけることができたためだったが、アジアはそう簡単に共産化の波を抑えることはできなかった。軍事大国日本が破滅したうえ、中国では共産革命が成功し、朝鮮半島でも国家分裂が生じ北朝鮮と韓国が同じ民族同士で戦争を始めたのである。アジアにおける共産勢力の浸透を防ぐのはアメリカ一国の責任になってしまった。マッカーサーの対日占領政策が裏目に出た瞬間でもあった。
 実際、北朝鮮軍は強かった。戦争が始まって3日目には首都ソウルを支配下におさめ、さらに南下して韓国軍を釜山まで追い詰めた。北朝鮮を支援した中国共産党軍はすでに国内の支配権を確立しており、蒋介石率いる国民政府は台湾に封じ込められていた。もし朝鮮半島が共産主義勢力によって支配されることになると、日本も含め東南アジアでは雪崩現象的に共産党政権が生まれる可能性もあった。
 事ここに至って、アメリカは大ばくちを打った。当時、日本には米陸軍4個師団が日本防衛のため日本各地に駐屯していた。マッカーサーは、その4個師団をすべて朝鮮半島に投入した。日本の軍隊はとっくに解体されていたから、日本列島は丸裸になってしまったのである。平和憲法の理念はいいが、理想だけでは国は守れない、という冷たい現実に日本国民は直面した。
 この時期、日本に共産革命が飛び火しなかったのは、僥倖としか言いようがない。GHQはアメリカ本国のレッドパージに呼応して、日本でも朝鮮戦争勃発の直前にレッドパージを行い、共産勢力の拡大を封じ込めていた。中国は北朝鮮の支援で手いっぱいであり、ソ連軍もヨーロッパにくぎ付けになっていて日本に革命を輸出するだけの余力がなかった。アメリカの対日政策が転換したのはこの時期である。マッカーサーはのちに回顧録でこう書いている。
「ところで(在日米軍を根こそぎ朝鮮半島に投入した場合)日本はどうなるのか。私の第一義的責任は日本にあり、ワシントンからの最新の指令も『韓国の防衛を優先させた結果、日本の防衛を危険にさらすようなことがあってはならない』と強調していた。日本を丸裸にして、北方からのソ連の侵入を誘発しないだろうか。敵性国家が日本を奪取しようとする試みを防ぐため、現地部隊を作る必要があるのではないか」
 こういう危惧を抱いたマッカーサーはGHQを通じ、吉田内閣に「日本警察力の増強」を指令した。当時の吉田総理は、日本の経済再建を最優先する考えを持っていた。日本の国力のすべてを二大基幹産業である、鉄鋼と石炭産業の再建に注ぎこむという「傾斜生産方式」を最優先の政策課題に掲げていた。実はこの経済政策の成功によって日本は工業生産力の回復を成し遂げたことで、日本経済復興の足掛かりとなる「朝鮮戦争特需」にありつけたとも言える。
 吉田総理はGHQの指令に可能な限りの抵抗をしながら、警察予備隊を発足させる。占領下において吉田内閣の選択肢は、きわめて限られたものにならざるを得なかったとも言えよう。
 アメリカは日本に警察予備隊という名の疑似軍隊を作らせたが、占領状態を続ける限り日本の防衛責任はアメリカの肩に掛かってくる。連合国と日本の講和条約の締結を急ぎだしたのは、日本に主権国家としての自衛責任を持たせることが狙いだった。サンフランシスコ講和条約の内容をすり合わせる過程で、アメリカは「自衛のための軍備力の強化」を吉田内閣に求めたが、吉田総理は「やせ馬に重い荷を背負わせるようなものだ」とアメリカの要求を突っぱねている。吉田内閣は経済復興に全力を注ぎたかったのである。
 この時期の政策について吉田氏は回顧録『世界と日本』でこう述べている。
「それ(再軍備の拒否)は私の内閣在職時代のことだった。その後の事態にかんがみるにつれて、私は日本の防衛の現状に対して多くの疑問を抱くようになった。(中略)経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するようになった独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まらないことは、いわば国家として未熟な状態にあるといってよい」

 現行憲法の制定過程における吉田内閣とGHQの交渉のプロセスと、そのプロセスを経て作成された政府原案が、個別的自衛権をも否定する内容だったこと、その政府原案にいわゆる「芦田修正」が行われ、その修正が根拠となって最高裁が「個別的自衛権」を行使する実力部隊として自衛隊の合憲性を認めたことは、すでに何度もブログで書いた。ただ、日米安保条約によって日本防衛の名目で米軍が駐留していることに関しては、「このような高度な政治的問題については裁判所が是非を判断することはできない」と、判決を避けた。
 この砂川判決で、最高裁が自衛隊を「自己防衛のための自然法であり、憲法に違反しているとは言えない」と個別的自衛権行使のための軍事力を合憲と判断しながら、「駐留米軍は、日本防衛のためであり、日本が固有の権利として保持している集団的自衛権である」と合憲性を認める判決を下していれば、「日本にとっての集団的自衛権とは、あくまで日本を防衛することに限定される」と判決理由を述べていれば、今日のような混乱は防げたはずである。

 日本は1951年9月8日、サンフランシスコ条約に調印して主権を回復すると同時に、日米安全保障条約をアメリカとの間で締結した。その日米安全保障条約と、岸信介総理が強行した1960年の日米安保条約改定については、来週書く。(続く)