小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

米中貿易戦争の勝者は?……いない。安倍さんには理解できない、その理由。

2019-05-20 01:36:15 | Weblog
 米中貿易戦争が最終段階に入りつつある。「破局」という言葉すら現実味を帯びてきた。米中はなぜそこまで激突するのか。双方が意地を張りあって一切妥協しないという姿勢を貫けば、南シナ海での小規模な軍事衝突さえありうる。まさか核を使用してまでの全面戦争はありえないと考えたいが、歴史はほんの些細な偶発的軍事衝突から一気に全面戦争に突入することを否定していない。
 そもそも、なぜ米中貿易戦争が、ここまで拡大してしまったのか。米中の覇権争いが底流にあるといううがった見方もあるが、私はそうした見方には与(くみ)しない。確かにアメリカ人の中には、中国の海洋進出や一帯一路政策によってアメリカが第2次世界大戦後、営々と築いてきた「覇権」が足元から中国によって切り崩されようとしている現実は、私も否定はしない。が、中国に対して貿易戦争を仕掛けたトランプ大統領はそこまで戦略的思考力を持っているとは思えない。もともとはビジネスマンとして成功し、巨大な資産を築いてきた経緯からも、純粋に膨れ上がるアメリカの貿易赤字に我慢ができなかったのだろうと私は思っている。来年11月の大統領選挙しかトランプ氏の頭にはなく、貿易収支を改善すれば必然的に米国産業界が息を吹き返し、雇用状況もよくなって大統領選挙で有利な戦いを進められる、といった程度の考えしか根底にはないと思う。
実はトランプ氏は大統領選での公約を、ことごとく実行しようとしてきた。その手法は強引なまでであることは日本でもよく知られている。彼の執念深さは、おそらくビジネスでの成功体験によって裏打ちされているのだろう。そしてトランプ氏は前回の大統領選で、貿易収支の改善だけでなく、特に輸入超過大国の中国との貿易不均衡の是正も公約していた。そして貿易収支の改善という公約の実現に向かってトランプ氏が走り出したのが、昨年3月である。このときは、とくに中国だけを目の敵にするような政策ではなく、日本も含め大半の国に対して鉄鋼・アルミに高率関税をかけるというものだった。独立国家としての矜持などかけらも持っていない日本の安倍総理は抗議するわけでもなく、また報復措置を取ろうともせず高関税の対象から除外してほしいとトランプ氏に泣きついたが、むろん無視された。だが、誇り高き中国やEUは猛烈に反発、報復措置をとることを直ちに発表したが…。
 トランプ氏があからさまに中国を敵視するかのごとき対中貿易戦争を発動したのは、7月に入ってからである。ただ、この時点ではメディアはまだ「貿易戦争」という位置付けはどこもしていなかった。おそらく私が7月9日のブログで「貿易戦争勃発か?」と「貿易戦争」と事態を表記したのが初めてだと思う。続いて7月25日のブログで私はこう書いている。
「私が『貿易戦争』という言葉を初めて使用したのは7月9日にアップしたブログである。(そのブログで私は)アメリカの身勝手さを告発した。私の記憶ではメディアが『貿易摩擦』から『貿易戦争』に言い換えだしたのは7月中旬以降だったと思う」
 そんなくだらないことで先見の明を誇りたいわけではないが、最初は世界的規模で広がるかと思えたトランプ発の関税攻勢は、この時期から対中貿易戦争の色彩を強めだした。アメリカが中国を対象に340億ドル分の追加関税措置を公表、中国も同額の米国製品への報復関税措置を発表した。実はメディアの報道には誤解を招きかねない表記(あるいは表現)がある。それは「発動」という言葉だ。たとえば朝日新聞の5月11付朝刊の記事(見出しは「追加関税、米が発動『第3弾』中国、報復を予告」)でも「トランプ米政権は米東部時間10日午前0時1分(日本時間午後1時1分)、知的財産の侵害などを理由とする中国への制裁関税の『第3弾』について、5700兆の輸入品目を対象に、税率を10%から25%へ引き上げる措置を発動した。これに対し、中国側は10日、報復措置に踏み切ると予告」とある。この記事にある「25%へ引き上げる措置を発動した」という表記は読者に誤解を与えかねない。朝日新聞だけでなく他のメディアも同様の表記・表現を行っており、10日の時点で抜き打ち的に中国からの輸入製品に関税引き上げが行われたという誤解を読者や視聴者に与えかねない。朝日新聞の場合は、同記事の中で「今回は10日以降に中国から輸出される商品に適用される。さらに米通商代表部は、10日より前に輸出された場合も、6月1日以降に米国に到着した商品には適用するとの条件を加えた。大半が海路で運ばれるため、5月中は適用が事実上猶予されることになる」と、誤解が生じる余地がない内容が掲載されている。実際、この記事の見出しにある「中国、報復を予告」は13日に実行され、中国政府は6月1日以降に米国からの輸入品600億ドル分に対して関税を25%に引き上げると発表した。「発動」という表現は「即時実施」と受け止められかねず、メディアはどういう表記・表現を使うべきか、もっと慎重でありたい。

 実は問題はどちらがちゃぶ台返しをしたのか、ということだ。ベトナム・ハノイで行われた米朝首脳会談も、何の成果もあげられずに決裂した。通常、首脳会談が決裂することはありえない。事前に実務者同士による水面下での交渉によって合意に達しているのが通例だが(実際、合意文書はすでに実務者間で作成されていたようだ)、決裂後の双方の言い分には相当の隔たりがあり、真実は依然として闇の中だが、アメリカは「北朝鮮は一部の核施設の破壊と引き換えに制裁の全面解除を要求してきた」と主張し、北朝鮮側は「要求した制裁解除は人道的な分野に限定しており、アメリカはすべての核・ミサイル施設を破壊しない限り制裁を一切解除しないと話を振り出しに戻してしまった」と主張している。事前の実務者同士による水面下の交渉で、これだけの対立があったら、通常は首脳会談は行われない。推測する以外ないのだが、トランプ氏の頭はいま来年の大統領選挙のことしかなく、北朝鮮との交渉でも下手な妥協をすると岩盤的支持層の反発を招きかねないと計算したのかもしれない。実際、対北朝鮮・中国・ロシアに対する強硬姿勢を見せることによってトランプ氏の支持率は46%と、大統領就任以来最高を記録しており、アメリカ社会の「アメリカ・ファースト」「アメリカこそ世界の覇者」といった空気の根深さがあらわれているとも言える。
 だとすれば、今月日本で行われるG20(サミット)での米中首脳会談での事態打開はあまり期待できないだろう。それどころか、米中首脳会談が行われるかどうかも不透明になったのではないか。とりわけトランプ氏が、北朝鮮や中国、ロシアへの強硬姿勢が支持率の高さに結び付いたと考えているとしたら、中国からの輸入全製品への高関税措置(第4弾)も避けられない可能性が高い。一応トランプ氏はいまでもしばしばツイッターで金委員長との信頼関係を強調したり、中国との関係改善への期待感を語ったりしているが、それも国内のリベラル派を懐柔することが本当の狙いではないかとしか見えない。
 そもそも、なぜトランプ氏が突然第3弾の関税引き上げ措置を早々と発表したのか。これまた米中の言い分が噛み合っていない。トランプは「中国が合意事項の大半を土壇場でひっくり返した」と中国側の非を声高に主張しているが、合意事項のどの部分を中国が突然ちゃぶ台返ししたのかの具体的説明は一切ない(知的財産侵害問題や国有企業への補助金政策などメディアも推測はしているが、米政府の公式な発表はない)。一方、中国政府も具体的な反論はしていないが、中国共産党の機関紙『人民日報』は11日付の論説で「中国の主権と尊厳を損なう(要求をアメリカがしてきた)」と主張。これも具体的にどういう米側主張が中国の主権と尊厳を損なうものかは明らかにしていない。米朝協議の決裂とまったく同じ様相を呈している。
 それはともかく米中が最後まで折り合わなかった場合、中国経済がどうなるか、世界経済に及ぼす影響は? とりわけ日本にとっても中国にとっても、両国はアメリカに次ぐ第2の貿易国同士であり、中国経済の混乱が日本に与える影響は計り知れないものがある。おそらくリーマン・ショックどころではない事態も想定される。かといって、そういう事態が生じるにしても、まだ数か月先であり、今現在リーマン・ショック級の事態が生じているわけではないから、「そうなる可能性がある」から消費税増税をまた延期したいから国民に信を問う必要があるといった「大義名分」で衆院を解散して衆参同時選挙に持ち込むわけにもいくまい。「おいトランプよ、いい加減にしてくれ。人の迷惑も少しは考えろ」とは、トランプ氏の飼い犬でしかない安倍さんは言えないだろうな。
 なお、菅官房長官が17日午後の記者会見で記者(どのメディアの記者かは17日現在不明)の「野党が内閣不信任案を出した場合、解散の大義になるか」というやらせ質問に対して、間髪を入れず菅氏は「なる」と応じた。先の萩生田副幹事長の「日銀短観次第で消費税増税を延期する必要があるかもしれないし、その場合は衆院を解散して改めて国民に信を問う必要がある」というアドバルーン発言といい、安倍内閣はなりふり構わず衆院解散に持ち込みたいようだ。2か月後に迫った参院選で依然として野党が共闘体制を構築できていない中で、何が何でも衆参同時選挙に持ち込みたい自民党の党利党略がこれほどあからさまに出たことを見たことがない。
 念のため、確かに解散は総理の専権事項だが、内閣不信任で総理が解散に踏み切ったのは、過去、不信任決議が可決された場合だけだ。いま野党が足並みをそろえて内閣不信任を国会で提出したところで可決されるわけがない。それでも「解散の大義になる」とは、どういう神経をしているのか。また飲まされたのか抱かされたのかは知らないが、やらせ質問をするような記者がいること自体、日本のメディアがいかに腐敗しているかの証明になる。この記者を、記者クラブは直ちに除名すべきだ。もちろん記者の勤務先のメディア名も公表すべきだ。それができないなら、記者クラブは解散したほうがいい。

 突如浮上した解散問題はさておき、日本はかつて世界で最も厳しい貿易摩擦をアメリカと繰り返してきた(この場合は「貿易戦争」ではない。アメリカの一方的な攻撃だけで、日本は何の反撃もしていないから)。日本はどうやってアメリカの攻撃をしのいだか。果たして現在の中国に同様のしのぎ方ができるだろうかの検証を行う。
 ドル・金の兌換制度の廃止や固定相場制から変動相場制への移行は置いておくとして(日本に対してだけの攻撃ではないから)、最初のあからさまな対日貿易攻撃は1985年のG5におけるプラザ合意である。当時アメリカは慢性的な双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)に苦しんでおり、貿易赤字対策としてドル安のための協調介入を、ニューヨークのプラザホテルで日本・ドイツ・イギリス・フランスの財務担当大臣・中央銀行総裁に要請した(この4か国にアメリカを加えてG5)。当時アメリカは貿易赤字に苦しんではいたが、依然として自由貿易の旗手を自任しており、関税措置によって輸入を制限しようとはしなかった。そこで為替操作によってアメリカ製品の国際競争力を回復しようとしたのだ。実際にはイギリスやフランスは輸入超過にはなっておらず、実際の標的は日本とドイツだった。イギリスとフランスにも声をかけたのは両国のメンツを重んじただけのことだ。
 結果、各国の中央銀行はドル安円高、ドル安マルク高の協調介入に応じることになり、ドルを売りまくって円とマルクを買いまくった。円に関して言えば、わずか2年間に1ドル=240円から120円へと倍に跳ね上がった。為替がそれだけ大きく変動すれば、日本製品の対米輸出価格も2倍にならなければならない、理論上はだが…。
 実際はどうだったか。「乾いた雑巾をさらに最後の一滴まで絞るほどのコストダウン努力によって」(トヨタ自動車の当時の主張)、対米輸出価格の引き上げはせいぜい10~15%、電気製品に至ってはかえって値下げした製品すらあった。アメリカには競争相手がいなくて為替相場をもろに輸出価格に転嫁できるはずの一眼レフカメラでも30%程度の値上げが限度だった。「競争相手がいないからといって、これ以上値上げしたらアメリカのカメラ愛好者の平均的購買力を超えてしまう」(キヤノン・賀来社長)からであった。
 で、問題は「乾いた雑巾をさらに絞って」コストダウンした製品の日本での販売価格はどうだったのか。日本の消費者はメーカーのコストダウンの恩恵にあずかるどころか、かえって「高機能化」を口実にした値上げラッシュにさらされたのである。そのため、電気製品やカメラなど、いったんアメリカに輸出された製品が日本に逆輸入されたり、並行輸入業者が雨後の筍のように誕生するという社会現象すら生じた。私も取材や遊びでアメリカに行くたびに格安の一流ゴルフボールを山ほど買って帰ったことがある。トヨタと関係が深い会社に勤めていた友人から「輸出向けの左ハンドルでよければ、日本車の半値で買ってあげるよ」と言われ、お願いしたこともある。
 なぜ日本のメーカーはそこまでしなければならなかったのか。最近経済団体や大企業のトップが五月雨的に「終身雇用を続けることは困難になりつつある」と記者会見で述べたりしているが、年功序列終身雇用の雇用体系を原則としてきた日本企業としては、アメリカへの輸出減(つまり需要減)に応じて生産量を調整(つまり削減)することは企業にとって致命傷になるからだ。というわけで日本企業は生産量を維持するため、アメリカへの輸出価格は抑えられるだけ抑えて、そのしわ寄せを国内の消費者に付け回すことによって、このドル安円高攻勢を何とかしのいできたのである。このことは非常に重要な意味を持つので、読者は記憶にとどめておいてほしい。もっとも、従来からの私のブログの読者は、私が「アベノミクス失敗の理由」について何度もブログで書いてきたから覚えている方も少なくないとは思うが…。
 そうした日本企業の戦略が、アメリカからダンピング輸出だという猛烈な非難を浴び、貿易摩擦はさらに激化した。「日本異質論」や「日本はアンフェアな国だ」という国家の尊厳にかかわるような対日批判さえ、アメリカでは日常茶飯事に行われるようになった。そうした時期の1989年9月から90年6月まで延々1年近くかけて行われたのが日米構造協議である。この場でアメリカは巧みにレトリック論法を展開した。「日本が牛肉の輸入関税を引き下げれば、日本人は毎週ステーキが食べられる」(※アメリカ人も毎週ステーキを食べているわけではない。アメリカでもステーキはぜいたく品だ)「日本は生産者主義だ。消費者主義になるべきだ」「大店法のおかげで日本人は高い商品を買わされている」「我々は日本の消費者の利益のための要求をしている」etc。こうしたレトリックに日本のメディアは屈服した。政府も日米交渉で後退を余儀なくされ、大店法の大幅な改正に踏み切った。その結果、日本の地方都市の駅前商店街はいまどういう状態になったか。閑古鳥も鳴かなくなったことは、皆さんご承知の通り。「哲学なき政治」の付けが零細商店に回されたのだ。いや、商店街がなくなったこともあって、地域のコミュニケーションも失われる羽目になった。日米構造協議で、日本の消費者は何を得たのか。アメリカの主張の肩を持ったメディアは、その検証をすべきだろう。

 さて米中貿易戦争によって、当然だが中国製品の対米輸出は、ダンピング輸出でもしない限り大幅に減少する。日本の場合も、アメリカから「ダンピング輸出だ」と猛烈な批判を浴び、当時のアメリカの自動車産業のメッカ・デトロイトでは日本車がアメリカの自動車メーカーの労働者からぼこぼこにされたうえ火を付けられて燃やされるというニュースが日本でも大きな話題になったほどだ。まして今犬猿の仲となっている中国製品がダンピング輸出されたら、アメリカ人がどう出るか。身の毛がよだつ光景が目に見えるようだ。
 だが、対中関税攻撃の第3弾は、実はアメリカでもかなりの不評を買っている。たとえばアップルのスマホ。これにも大幅な関税がかけられるからだ。トランプ氏は「中国製品が値上げされたら、もっと安い国から買えばいい」とうそぶくが、そうはいかぬがブランド品だ。アメリカの大手ブランド衣料品の大半はいま中国製だ。ブランドのマークがついていなければ、タイ製でもベトナム製でも品質に変わりはないという理屈はあるだろうが、トランプ氏が重視している知的財産はブランド・マークが持つ付加価値でもある。知的財産を重視しながら、ブランドの付加価値を否定するような関税措置をとる。それがトランプ流のやり方なのか。
 さらに問題なのは、プラザ合意後の日本のように、過剰供給になるだろう中国製品を消化できるだけの需要層が中国国内に育っているだろうか。もしだぶついた中国製品の行き場がないとなれば、どういう事態が生じるか。
最近、機会があってジェトロの職員として長く中国に駐在して中国経済に詳しい真家陽一氏(名古屋外国語大学教授)に聞いたことがあるが、「中国の国内市場はそこまでの力はない」とのことだった。念のため、真家氏は中国経済の今後に関してかなり楽観的な方である。
 では、対米輸出減のはけ口を国内に求めることができないとなると、どうするか。習近平主席はいま一帯一路で世界中にマーケットを広げようと必死だが、いま目の前に迫っている対米輸出減を補えるところまではいっていない。供給が需要を上回る事態が常態化すれば、当然デフレ不況に陥るのは経済学のイロハだ。日本の場合は少子高齢化によって徐々に労働人口(需要層の大部分を占める人口)が減少していった結果、デフレ状態も徐々に進んだが、中国の場合はそんな時間的余裕はない。デフレが一気に中国経済を襲う。
 日本と違って終身雇用ではない中国の場合は、需要に応じて工場を閉鎖したり人員削減したりして生産調整して需給関係のバランスをとることはできるだろうが、1社や2社のリストラならともかく、ほとんど全産業界がそういう事態に直面することになる。失業者が街にあふれだし、労働賃金も需給関係によって大幅に低下する。そうなれば中国全体の購買力も激減する。
 アベノミクスがなぜ失敗に終わったか、もう一度おさらいしておこう。アベノミクスの根幹は、金融緩和による円安誘導によって日本製品の輸出競争力を回復し、需要の拡大に応じた設備投資と雇用拡大、労働者の賃金上昇、その結果としての国内需要の拡大、需要増に応じた生産設備の増強……という、絵にかいたようなケインズ景気循環論を根拠とした。
が、終身雇用を前提としてきた日本企業にとっては生産設備の増強、雇用の拡大は、少子高齢化による労働人口(つまり需要層)の減少状況においては、これ以上にリスキーなビヘイビアはないという結論に達せざるを得ないのは当然と言えば当然すぎる選択だった。だから、安部さんがいくら笛を吹いても、日本企業は生産設備の増強には踏み切れず、企業は為替差益による内部留保を膨らませただけだった。そうした日本企業の宿命的体質は、プラザ合意後の2年間の日本企業のビヘイビアを分析・解明していれば、当然わかっていなければおかしい。つまり、アベノミクスの発案者と言われている経済学者の浜田宏一氏は、この時期の検証を何もしていなかったことを意味する。アホか!
しかし、中国にとってもアメリカのブランドメーカーにとっても起死回生の手がないわけではない。アメリカから関税攻撃を受けていない第3国で、中国の一帯一路戦略に巻き込まれ、かえって借金地獄に陥り疲弊している途上国経由でアメリカに輸出するという方法だ。アメリカもMade in Chinaのタグが付いていたら目を光らせるだろうから、最後のほんのちょっとした加工だけ第3国で行い、第3国製のタグをつけてしまえば文句が言えなくなる。
たとえばiPhoneの場合、真家氏からもらった資料によると中国からアメリカに輸出される完成品の輸出額は20億227万ドルだが、部品は日本、ドイツ、韓国、アメリカからの輸入で占められており、中国での組み立て費は7,345万ドルに過ぎないという(データは2010年12月のアジア開発銀行研究所に基づいており、ちょっと古いが)。いまは中国も半導体生産に力を入れており、内製率はもう少し向上していると思われるが、真家氏の資料に基づく限り内製率は3.7%にも満たないことになる。それでもアメリカは中国製とみなして高率関税をかけるというのだから、中国が完成品への最終的なちょっとした加工を第3国で行えばMade in ***で関税攻勢から逃げることができるはずだ。そうすれば、中国も生産量の調整はわずかで済むし、アメリカのブランドメーカーや消費者も打撃を受けなくて済む。ただし、アメリカの貿易収支は改善できないが…。

それはそれとして、消費税に関してはいま増税すべきではない。日本の消費動向に与える影響よりも、あまりにもでたらめな増税対策をどうにかしてもらいたいからだ。そもそも消費税は逆進性が高い税制である。所得に応じて税率を変えるというなら別だが、そんなことは不可能である。だとしたら、消費税増税が低所得層に与える打撃を最小限にとどめるには、低所得層に対する恒久的な給付金制度でカバーするのが筋である。
だが、政府の増税対策は食料品や宅配の新聞に対する軽減税率(現行8%の税率を維持)するという、まったく不可解な対策である。念のため、新聞に対する軽減税率は宅配の定期購読に限っている。駅の売店やコンビニで買う新聞には10%の税率が適用される。OECDは日本の消費税を25%に引き上げる必要があると主張しており、その時点で宅配の新聞に8%の軽減税率が適用されたら、新聞社は政府の言いなりになる。あの、暗黒の時代の言論統制が消費税という手段で復活する。新聞社はわかっているのかね。少なくとも朝日・毎日・東京の3紙は、「政府の言いなりになってたまるか」という気概を見せてほしい。つまり、軽減税率の返上を宣言してもらいたい。そういう新聞を、私たち国民は応援して定期購読しようではないか。
次に、逆進性の最たるものは食料品の軽減税率問題だ。私は何度もブログで書いてきたが、国産ブランド牛のサーロインやひれと、オージービーフの切り落としが同じ税率であることに、誰も疑問を抱かないのだろうか。私は食料品の軽減化を強く要求してきた公明党本部にも「おかしいと思わないか」と電話したが、本部職員は「確かにおかしいと思います。執行部にお伝えします」と言ってくれたが、いまさら公明党もちゃぶ台返しはできないようだ。
また当初は食料品でも加工品は除外するという方針だったが、スーパーなど小売業者からレジが大混乱するという批判が出て加工食品も軽減化することになった。そこで問題になったのはスーパーやコンビニでのイートインである。持ち帰りは軽減対象にするが、イートインは10%の税率を適用するという。まだコンビニの場合は弁当とお茶だけという買い方が多いだろうが、スーパーの場合はイートイン食品だけでなく持ち帰りも一緒に買う。いちいちレジで客に一つひとつの食品について確かめるのか。そんな手間暇をかけられるか。それに、イートインには10%の税率をかけるというなら客は当然、店側に最低でもファミレス並みのサービスを要求できる権利が生じる。「弁当はテーブルまで運べ。水も持って来い。お茶も持って来い」――私なら、そういう「正当」な要求を店に対してする。コンビニ業界は「お客の自己申告に任せる」という方法に決めたが、これは犯罪行為を推奨しているのと同じだ。誰がわざわざ不利なイートインを自己申告するとでもいうのか。
一方、宅配の食品(ピザやすしなど)は自宅で食べるから軽減税率の対象になるという。こんなおかしなやり方が罷り通るのが、日本の政治の実態だ。だから私は公明党本部に対しても「食べる場所ではなく、飲食に伴うサービスが提供されるか否かで分けるべきだ」と主張し、本部職員も「その通りだと思います」と答えた。政治に哲学がないから、こういう摩訶不思議な制度がつくられてしまう。
さらに不思議で、訳が分からないのはポイント制の導入だ。キャッシュレス化を進めることがなぜ必要なのかの説明は政府からこれまで一切ない。まったくないわけではなく、「消費税増税による消費の冷え込みを防ぐため」というのが目的としているが、まったくの嘘っぱちだ。政府の本当の狙いは現金商売の零細小売店の「益税」をあぶりだすためだと思うが(だから零細小売店には無料でカード決済用のレジ機を提供するという)、カード決済の場合、カード会社に支払わなければならない手数料が発生する。その手数料をすべて国が負担するなら一気にキャッシュレス化は進むだろうが、そうした場合の財政負担がどのくらいになるか、計算したことがあるのか。どアホ!
そうした現在の消費税増税対策を全面的に見直すことを前提にするなら、私は消費税増税の延期に賛成するが、対症療法的な増税対策を続けるというなら、延期しなければならない経済状況には、いまはない。

※今回も実数1万字を超える長文になったため、次のブログは6月3日に更新します(あくまで予定)。まだテーマは決めていません。



悲惨な交通事故の責任はだれが負うべきか……検察はなぜ警察庁長官を起訴しないのか。

2019-05-13 01:37:40 | Weblog
 高齢者の自動車事故が急増している。最近も(4月19日正午過ぎ)、東京・池袋で、自転車で横断歩道を渡っていた31歳の若い母親と3歳の女の子が87歳の高齢男性が運転する乗用車にはねられ死亡する事件が生じた。この男性は旧通産省工業技術院の元院長、2年前の17年には免許を更新して、75歳以上の更新者に義務付けられている認知機能検査を受けて「記憶力や判断力に問題はない」と判定されていたという。事故当時、元院長は時速100キロ程度の猛スピードで暴走していたとみられ、警視庁は元院長を自動車運転致死傷処罰法違反(過失運転致死傷罪)容疑で捜査するという。
 一瞬にして最愛の妻と幼い娘を失った夫は4月24日、都内で記者会見を行い悲痛の声を振り絞った。
「この悔しさはどれだけ時間がたっても消えない。娘がこの先どんどん成長して大人になり、妻と私の元を離れ、妻と寿命が尽きるまで一緒にいると信じていた」
 夫の男性は、必死に涙をこらえながら、「(ドライバーが)不安を感じた時の運転、飲酒運転、あおり運転、運転中の携帯電話の使用などの危険運転をしそうになった時、思いとどまってくれるかもしれない」と、妻と娘の死を無駄にしたくない思いを切々と訴えた。
 が、この元院長の事故を含め、増え続ける高齢者の自動車運転事故を、運転手の責任を問うだけで終わらせてはならない。最大の問題は高齢者の運転免許更新制度にあり、当然、警察機構の最高責任者である警察庁長官の責任問題にまで発展させるべきだと、私は考えている。

 平成29年度の『交通安全白書』によれば、75歳以上の運転手の死亡事故件数は75歳未満の運転手と比較して、免許人口10万人当たりの件数が2倍以上発生しているという(警察庁資料による)。また警視庁のホームページによると、高齢者(65歳以上)が起こした自動車事故件数は平成22年の6979件をピークに減少に転じ(※免許返納キャンペーンによると思われる)、28年度には最少の5703件に減ったが、その後再び微増傾向に入っている。自動車事故そのものは毎年減少しているが、自動車事故全体に占める高齢者ドライバーの割合は年々増加している。
 実は私は70歳の誕生日を迎えた時点で免許を更新しなかった。当時はまだ返納制度がなかったし、マイナンバー制度もなかったので、本人確認の証明書はパスポートと健康保険証だけとなった。私が70歳になったら免許の更新をしないことを決めたのは67歳の時で、その時警察庁長官あてにかなり長文の文書を送った。もちろん返答はなかったが、朝日新聞お客様オフィスには電話でそのことを伝えたら、「もし、その文書の原文が残っていたらFAXしてほしい」と言われFAXしたが、朝日新聞も私の提案を紙面に反映することはなかった。私が警察庁長官に送った文書は2通あり、1通目は2008年5月10日、2通目は25日である。全文を転載するのは消耗なので、要約する。
5月10日付の文書ではこう書いた(要約)。
「私は毎日フィットネスクラブで汗を流しており、エアロビクスもやっていますが、運動神経(反射神経?)が確実に年とともに後退していくことをいやというほど知らされるのがエアロです。私が70歳になった日、つまり免許の有効期間が切れる日に運転を辞めることにした最大の理由です」(※この後、この文書では免許証発行の手続きの簡素化についての提案を書いた)
2通目の文書では高齢者免許更新について具体的な提案をした。2通目の文書を書く前日、娘の家に行って5歳の孫と任天堂のテレビゲーム「ウィ・フィット」で遊んだ。この文書では「前の文書で、私は70歳の誕生日を迎えた時点で免許証の更新をしないことをお伝えしたが、その理由はエアロをしていて、高齢者になった時、例えば路地から子供が飛び出したようなとき急ブレーキを踏むか、急ハンドルを切って電柱に車をぶつけても子供を避けるかといった、とっさの時の正確な判断と、その判断を下す反応スピードについて自信が持てなくなったからです」と書き、「じいちゃんもやってごらん」と挑発されてウィ・フィットに挑んだが、5歳の孫にまったく勝てなかったことで、かなりのショックを受けたことも伝えた。そのうえで、最寄りの教習所に電話をして更新時の講習内容を聞いたことも書いた。その個所だけ全文掲載する。
「私の提案ですが、任天堂と共同で判断力や反応速度を3分くらいで測定できる装置を開発し、70歳以上の高齢者の免許更新時には視力だけでなく、とっさの時の反応スピードと判断力を検査項目に加えられてはいかがでしょうか。現在70歳を超えた人が免許の更新をする場合は民間の教習所で3時間の高齢者講習を受けなければなりませんが、講義を除けば本当に必要なとっさの時の反応スピードや判断力の検査は行われていないのが実情です(実際に最寄りの教習所に高齢者講習の内容を聞きましたが「15分ほど車に乗ってもらうが、ハンドルを握らなくても乗っているだけでいい」ということでした。
 いま私の手元にはインターネットで検索した交通安全白書の19年版に記載されている『道路交通事故』をプリントしたもの(8ページ)がありますが、高齢者が起こす自動車事故は平成元年の3倍に達しています(全年齢層の事故総数は65%に減っているのにです)。この高齢者事故をどうやって減少していくかが、飲酒運転の撲滅とともに全国の警察組織が全力で取り組まなければならない課題だと考えています」
 この文書がある程度効果あったのかどうかは、警察庁から何の返答もないので不明だが、その後、高齢者免許更新時には実際に教習所で運転操作の実技テストが行われるようになったし、75歳を超えた後期高齢者には認知症検査も義務付けられるようにはなった。が、実際に認知症検査で高齢者ドライバーの事故を減らすことができたのか。「減らすことは不可能だ」という検証をする。

 警察庁のWebサイトによれば、認知症検査は「記憶力や判断力を測定する検査で、時間の見当識、手がかり再生、時計描画という3つの検査項目について、検査用紙に記入して行います」とある。具体的には、
① 時間の見当識…検査時における年月日、曜日および時間を回答する。
② 手がかり再生…一定のイラストを記憶し、採点には関係しない課題を行った後、記憶しているイラストをヒントなしに回答し、さらにヒントをもとに回答する。
③ 時計の文字盤を書き、さらに、その文字盤に指定された時刻を表す針を書く。

おい、高齢者をバカにするのもいい加減にしろよ。こんなテストは幼稚園の入園試験レベルではないか。確かに幼稚園児並みの記憶力があるかどうかのテストにはなるだろうが、このテストで「とっさの時の判断力」が分かるのか。あっ、そうか。警察が要求しているのはとっさの時の判断力ではなく、数時間考えて結論を出せばいいということか。ということは、高齢者は自動車を運転してはいけないということになるではないか。
肝心の事故を起こした87歳の男性は骨折(ホント?)で入院したということで、警視庁は現行犯逮捕を見送ったというが、ネットでは「高級国民だからか?」といった批判が殺到しているらしい。「高級国民=元高級官僚」という意味のようだが、警察機構もそこまでは腐っていないと思う。政治家でも、悪さをすれば「お目こぼし」などしないから、元高級官僚だからといって特別扱いすることはありえない。が、元高級官僚といえども、とっさの時の判断力は加齢とともに失われていくのは当然だ。そういう意味では、そうした人に幼稚園の入園試験程度の「認知症検査」で免許を更新させた側、つまり警察機構の責任のほうが、事故を起こした元高級官僚よりはるかに重い。が、その責任を問うべきなのが、警察機構そのものなのだから、始末に負えない。
私は14年1月10日から17日まで5回連載で『法務省官僚が世論とマスコミの感情的主張に屈服して、とんでもない法律を作ってしまった』と題するブログ記事を書いた。実は危険運転致死傷罪が成立したのは1999年11月に飲酒運転のトラックが前方を走行していた乗用車に衝突し、乗用車が炎上して後部座席に乗っていた幼い姉妹が亡くなった事故がマスコミで大きく報道され、その事故を起こした運転手に対する罰則が当時は自動車運転過失致死傷罪(業務上過失致死傷罪の中で自動車事故に限って設けられた量刑)の適用で、7年以下の懲役または100万円以下の罰金とされており、「飲酒運転によって失われた幼い姉妹の命の代償がそんなに軽くていいのか」という怒りの声が全国的に広がったことがきっかけだった。私が書いたブログのさわりの部分を転載しておく。官僚がいかに場当たり的な対策しか考えないという貴重な証拠だ。

(法務省官僚が)世論やマスコミの主張に配慮して業務上過失致死傷罪から切り離して悪質な自動車事故に対する刑罰として2001年に危険運転致死傷罪が設けられ(最高懲役20年)、さらに自動車事故抑止のため2007年には自動車事故過失致死傷罪(最高懲役7年)が設けられた。(中略)裁判官が運転手を危険運転致死傷罪に問うケースはほとんどなく(適用要因が極めて限定されていて、立証が困難という検察側の事情もある)、大半は最長7年の懲役刑である自動車運転過失致死傷罪しか適用できない状態が続いていた。その後しばらく社会問題化するような自動車事故が発生しなかったため(厳密に書くとマスコミが大々的に報道するような事故のこと)矛盾が表面化するようなことはなかったが、11年4月に栃木県鹿沼市でてんかんの持病を隠して運転免許を取得していたクレーン車の運転手が児童6人を死亡させ、翌12年4月には京都府亀岡市で無免許の少年が集団登校の列に突っ込み生徒と保護者が死傷した事故が発生し、被害者や遺族が危険運転致死傷罪に問えるよう声を上げ、マスコミもこれを支持したため法務省も無視できなくなり、13年11月に「自動車運転致傷行為処罰法」という法律(あくまで罪名ではない。つまり道交法と連動した自動車事故の加害者に対する刑罰の隙間を法律で埋めるという小手先のごまかし)を成立させた。この法律の施行により危険運転致死傷罪の適用対象の拡大と同時に「過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪」(最長12年の懲役刑)が設けられた。
何度も繰り返すが、私は法曹家ではない。一人の良識人として素朴な疑問を呈しておきたい。
まず、なぜ自動車事故の加害者に対して一般刑法の中での量刑を適用しないのか、という疑問である。わざわざ自動車事故に関してのみ一般刑法とは別の量刑体系の罰則をなぜ設ける必要があったのかという問題である。(中略)この事実はかなり知られていると思うが、空手やボクシングの選手がけんかをして相手を殴って怪我をさせたり死に至らしめた場合、こぶしは凶器とみなされる。
では道交法は何を目的に作られているのか(自動車を運転する場合に限定する)。「車は走る凶器だから、安全に運転するよう規則を定めたもの」のはずだ。だからスピード制限や飲酒運転、薬物使用運転、てんかんなどの持病のある人の運転規制を定めているのである(運転状態にない駐停車禁止は別の目的=交通の妨害行為になるという理由)。つまり制限を超えたスピードで車を走らせたり、飲酒して車を走らせたりする行為は自動車を「走る凶器」と化す危険性があると取り締まる側(つまり警察)は考えており、スピード超過の度合いが増すほど危険性は高くなり、飲酒量が多いほど危険性が高くなるという前提で道交法の罰則は定められている。(中略)
言っておくが、私は犯罪者の個人的事情を斟酌すべきではないと言いたいのではない。道交法は個人的事情を斟酌していたら成立しない。たとえば制限速度を個々人の運転技術によって変化させるなどということは不可能だ。
ということは道交法と連動させた自動車事故の罰則を一般刑法から外すべきではないという結論にならざるを得ない。「車は走る凶器」という認識を前提にすれば、道交法に違反した時点で車は「凶器」になったと判断されるべきで、従ってそういう状態で起こした事故に対しては一般刑法の傷害罪あるいは殺人罪を適用すれば済む話だ。そうすれば、個人的事情も勘案できるし、事故を起こした状況に対する情状も、一般刑法と同じ基準で考慮すればよいということになる。(中略)
私は刑罰の目的は三つあると思っている。
①  犯した罪に対する社会的制裁
②  反省の機会を与え、社会復帰への意欲と努力を促す。
③  犯罪に対する抑止力
この三つのうち何を優先すべきかは、その時代における国民の意志であるべきだと思う。国民の意志は時代とともに変わるし、いかなる時代にも通じる絶対的基準というものはない。国民の意思がその時々の感情に左右されることも承知のうえで、民主主義とはそういうものだという認識を国民すべてが持つようになれば、一時的な感情に流されて国の針路を誤らせる選択をしてはいけないという、集団心理的感情に対するコントロール機能が働く。民主主義とはそうやって遅々たる歩みで成熟していくものではないだろうか。
法律用語の一つに「未必の故意」というのがある。推理小説や法廷小説の愛読者ならご存知だと思うが、明確な目的と意志をもって犯罪を行った場合は明らかに「故意」の行為だが、「ひょっとしたら、そうなるかもしれない」という認識を持ちながら結果的に障害や殺人に至る行為を行った場合に適用されるのが「未必の故意」である。例えば包丁自体は凶器ではないが、包丁をぶらぶらさせながら繁華街の人込みを歩いたら、だれが考えても他人に危害を与える危険性があることはわかる。そして実際に人に危害を与えたら、この行為は「未必の故意」と解される。
同様に「車は走る凶器」という認識は運転手ならだれでも持っている。免許を取得する過程や更新するときの講習や警察署で見せられるビデオで何度も耳にタコができるほど教えられている。その認識を持っていない人は、そのこと自体で免許を取得したり更新したりする資格がない。様々な交通法規は、車を「走る凶器」にさせないために設けられているはずである。だから飲酒運転や一定以上のスピード違反は、その時点で車を「走る凶器」にしていると考えるべきである。つまり包丁をぶらぶらさせながら繁華街を歩くのと同じだということだ。そういう認識に立てば、交通事故に対する刑法上の扱いは、一般刑法の傷害罪や殺人罪、器物破損罪で扱えばいいということになる。池袋の事故の場合も、87歳の運転手は運転操作が困難になってきたことを認識していた事実が認められ、かつアクセルやブレーキを踏む右足が不自由である状態で車を運転していた。彼が起こした事故は当然、一般刑法の「未必の故意」による殺人罪・傷害罪・器物破損罪に問うべき性質の犯罪行為である。
そういう認識に立って法制度を整備すれば、何も危険運転致死傷罪などという自動車事故に限定した刑体系をつくらなくても、自動車事故は大幅に減る。

官僚機構は、監督権限がある団体や企業と長年にわたって構築してきた、よく言えば信頼関係、実態は癒着関係がある。パチンコ業界や競馬・競輪・競艇などの公認・公営ギャンブル関連をはじめ、全国の警察署の敷地内に設置されている交通安全協会や免許更新時に義務付けられている安全運転講習の講師もすべて元警察官である。当然、そうした関連業界とは利害関係において切って切れない関係にある。高齢者ドライバーも警察機構にとっては「おいしいお客様」であり、簡単には免許を更新させないという方針は取りづらいのだろう。
4月24日のテレビ朝日の「羽鳥モーニングショー」でも報道したが、後期高齢者に義務付けられている実技試験でも、縁石に乗り上げたり一時停止を怠ったりした「運転不適格者」も全員合格にしている実態を明らかにした。「運転実技をした」というお墨付きを与えることが実技試験の目的だということを、恥ずかしげもなく実技講師が証言していたくらいだ。はっきり言う。高齢者に義務付けられた免許更新のための試験は、警察機構によるアリバイ作りのためでしかない。その責めを負うべきは当然最高責任者の警察庁長官だ。
もうこの稿も実数で5500字に達し、読者も連休疲れだろうから、この辺で終える。(4月25日記す)

【追記】 5月8日午前10時15分ごろ、大津市琵琶湖近くの道路で痛ましい自動車事故が発生した。10連休明けの保育園の園児10人が3人の保育士に連れられて歩道を散歩中に、車道で前方をよく見ずに右折しようとした乗用車が直進してきた軽自動車に衝突、軽自動車の運転手は避けようと左にハンドルを切ったが避けきれずに衝突、はずみで信号待ちしていた園児たちの集団に突っ込み、園児2人が死亡、1人が意識不明の重傷を負った。(8日夕方時点)。
 本文で私が主張してきたように、「クルマは走る凶器」として交通違反による人身事故を起こした場合は、否応なしに「未必の故意」による死傷行為として厳罰に処するようにしていれば、「前方をよく見ずに」というような無謀な運転は激減するはずだ。あおり運転も絶滅とまではいかなくても、相当激減するだろうし、高齢ドライバーはためらいなく免許を返納するようになる。自動車事故に対する処罰の甘さが、こうした悲惨な事故の原因であることを、検察は厳しく認識し、事故を起こした当事者だけでなく、警察庁長官を「不作為犯」として起訴すべきである。
何気なくその日の夕方、TBSのNスタを見ていたら、保育園側の記者会見を生中継していた。
 なぜ、被害を受けた側の保育園が記者会見を行ったのか。通常はありえない光景が、そこにはあった。
 保育園側が自ら記者会見を行うことは考えにくいから、おそらく記者クラブの要請によって記者会見が行われたのだと思う。記者たちは、それでも多少は気を使っている様子は見られたが、「安全対策は十分だったのか」といった厳しい質問も飛び交った。が、事故現場のストリートビュー(グーグルが提供している道路沿いの風景画像)によれば、事故直前の園児たちは保育士に守られて車道からかなり離れたフェンス際に固まって信号待ちをしていたことが明白であり、保育園側には何の落ち度もない。そうした事故について保育園側の安全対策を問うという記者クラブの姿勢には、いったい人間としての正常な感情があるのか、という疑問を持たざるを得なかった。
 この事故を起こした乗用車の運転手(女性)は52歳で高齢者とは言えない。こうした事故が発生した責任を問うなら、大津警察署の道路管理と安全対策だろう、が、仮に記者クラブが大津警察署に記者会見を要請しても警察側が応じるわけがない。そうした記者クラブの体質については知る由もない保育園側が、二次被害にあったのが、この記者会見だ。
 もしこの事故が起こるべくして起きたというなら、この交差点が「魔の交差点」と近所の人たちから恐れられているような事故多発地点であり、そうした事情を知りながら保育園が園児の散歩通路にしていたというなら、保育園側の責任を問うのはジャーナリストとしての当然の義務だ。同時に道路の安全管理の責任を大津市や大津警察署にも問うべきだろう。
 自分たちの仕事をつくるために、えげつない記者会見を保育園側に要請するなど、記者クラブは少し思い上がってはいないか。(5月8日記す)



【追記】12日、アメリカの陸上競技でサニブラウン選手が100メートル競走で9.99秒の記録を出した。桐生選手に次ぐ快記録だ。そのことを日本人として、実は素直に喜べない。
 私は単純な国粋主義者ではない。サニブラウン選手は日本人の母を持つ。国籍も日本だ。日本語もテニスの大坂なおみ選手よりはるかに流暢だ。なのに、なぜか大坂選手には抱かなかった違和感が、サニブラウン選手には持ってしまう。後期高齢者だからなのか。若い人たちには違和感がないのか。私には分からない。
 私は学生時代、解放運動にも参加したし、人種差別には強烈な反発がいまでもある。最近、韓国政府の反日政策をきっかけに日本各地でヘイト・スピーチが活発化しているという。私は心を痛めている。なぜ人々はいがみ合うのか。日本人の血は流れていなくても、日本に永住している人たちだ。でも、私のような純血日本人とは精神的規範が異なっているのかもしれない。
 日本には、聖徳太子の憲法のトップで書きこまれた「和」の精神が日本人のアイデンティティとして刻み込まれている。日本人の精神的規範と言ってもいいだろう。私は純血日本人であっても、実は「和」の精神に疑問を抱き続けてきた異端児だ。別に喧嘩がしたいわけではない。非合理的なことが「和」によって罷り通ってしまうことに強烈な反発を感じてしまう。
 いまは亡き私の母は敬虔なクリスチャンだった。小学生のころから母と一緒に近くのプロテスタント系教会に通っていた。ある日、教会の長老が「自転車が壊れて困っていた。神様に祈ったら新しい自転車が買えた」という証(あかし)をした。当時私は小学年の5年か6年だったと思う。その長老の証を聞いて。思わず立ち上がり「おかしい」と叫んだ。「物欲」などという言葉を知っていたとは思えないが、信仰は物欲をかなえるためのことか、と言い募った。牧師は困惑したが、なんとかその場をくつろった。教会からの帰り道で、母は「お前が言ったことは間違っていない」と言ってくれた。その一言が、私の生き方の精神的規範になっている。
 にもかかわらず、大坂選手に抱く親和観と、サニブラウン選手に抱く違和感はどこから生じているのだろうか。私には、いま戸惑いしかない。単純に姓名が日本的かどうかの違いなのか、あるいはそれ以外の何かの要素があるのか、私には今答えがない。その答えをこれからの日本がどうつくっていくのか。日本人のアイデンティティとは何かが、これから問われる時代になる。(5月13日、記す)