小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。⑨

2014-07-16 08:11:53 | Weblog
 昨日のブログに続いて論理的思考法から入る。昨日の論理的思考法については「水平思考」についての私流の方法論を述べた。それを自衛権問題について考察すると、こういうことになる。
 ① A国とB国が、隣接あるいは近隣の間柄であり、しかも領有権などをめぐって利害関係が対立しているか複雑な場合、AとBは相互に自国の防衛のための抑止力としての軍事力を保持する権利(自衛権)は、国連憲章51条によって認められている。たとえばインドとパキスタン、イスラエルと近隣のアラブ諸国は歴史的にそういう関係だったし、最近では中国とベトナム、中国とフィリピンが一触即発の状態になっている。
 ② そういう状態にある2国間で、BがAを敵視していなくても、Cという第三の国がBを「悪の根源」と一方的に決めつけ、しかもCが世界一の軍事大国だった場合、BがAの脅威に対抗するためではなく、CのBに対する敵意と軍事力を脅威に感じ、「国家存立」のための抑止力として、核武装や高性能のミサイル開発など軍事力を強化したとする。
 ③ その場合、AはBの軍事力強化を、自国に対する脅威と見なす国際法上の「権利」があるだろうか。Bは、あくまでCの脅威に対する抑止力を世界に向けて発信し続けている。Bは、従来はやはり軍事大国であるD 国の庇護下にあり、経済・外交関係においても密接な関係にあった。が、Dが自国の国益のためにBとの距離感をしだいに置くようになり、Bにとっては有事の際、Dをどこまで頼りにできるか不透明な状態になってきたとき、Bが国民生活を犠牲にしてまで「自国の存立」のための抑止力として、軍事力を強化したとした場合のBを制裁できる国際法は存在しない。
 ④ しかもBの自衛のための軍事力の保持の限界を、国連憲章は規定していない(「核不拡散条約」より「国連憲章」のほうが国際法としては優先される)。核武装しようが、ミサイルを持とうが、BがCの核やミサイルを脅威と見なす以上、国際法に違反した行為とは言えない。とくに「核不拡散条約」によってCが核やミサイルの保持を国際社会で認められながら、CがBの核やミサイルなどの軍事力強化を国際社会に対する挑戦と見なして軍事的・経済的な圧力や制裁を強化し、Aにも同一歩調をとるよう求めている状況下において、それでもBは自国の存亡を「天の運」に委ねるしか許されないのだろうか。
 ⑤ 実際Cは自国が原爆を投下したり、ナパーム弾や枯葉剤の有効性を検証するために他国の紛争に軍事介入して、その国の国民を実験材料にしたことを、いまだに謝罪していない国である。日本のメディアと同様、自国の軍事行動は「つねに清く正しい」のだから、反省も謝罪もする必要性を認めないのだろう。そのくせ他国に対しては非人道的行為を何十年にもわたって執拗に責める権利だけは保持している点も、日本のメディアと同質である。
 ⑥ そうした状況下で「抑止力」のために核やミサイルを保持したBの軍事力を「脅威」と見なす「権利」を正当だとすれば、Bの軍事力に対抗して自国の安全保障のための抑止力を高めるためにAは自国の「抑止力」を強化する「権利」があるどうかは、政府の閣議決定で決められるほど軽いものだろうか。しかも、その「抑止力」の行使が、国民の生命や生活に甚大な影響を及ぼす可能性が濃厚な場合、政府には国民の総意を問わずに一握りの大臣たちの話し合いによって閣議決定し、国の安全保障政策をいとも簡単に180度転換できる権利まで、国民は政府に与えているという認識を、全国民が共有していると言えるのだろうか。
 ⑦ 一方Bの軍事力強化はCの脅威に対抗するためであって(実際Bは国際社会に向かってそう主張し続けている)、Aがことさらに「脅威」を強調するのは、「ためにする主張だ」と考えることも論理的には可能である。実際過去の歴史を紐解くと、国際法上認められた「ためにする主張」を唯一の根拠として軍事力の強化を互いに競い合う軍拡競争は、人類の歴史が始まって以来、ずっと続いてきたし、現在も続いている。
 ⑧ そういう「論理」に立てば、AがBの軍事力を「脅威」と主張して、「抑止力のために」同盟国であるCとの軍事的協力関係を強化すれば、BがAとCの軍事同盟強化をどう感じるか。とくに敵対関係にある(少なくともBがそう思っている)Cの「警察権」強化に、Aが軍事的協力を行うことを閣議決定し、アジアの緊張状態に対するスタンスを明確にしたら、Bにとっては脅威が増大すると考えるのは自然である。
 ⑨ ましてCが「世界の警察」を自負する軍事大国で、国連憲章が認めていない他国の内紛に軍事介入したり、あるいは根拠のない核兵器の存在を口実に他国を攻撃したりするような国でありながら、財政難などの国内要因で世界に及ぼす警察力が弱体化し、Aがそれを補うために軍事的同盟関係の強化に踏み切れば、Cと敵対関係にあるBにとって脅威がますます増大すると考えることは、Bの立場に立てば当然である。
 ⑩ そうなればBは新たな脅威に対抗するために、さらなる抑止力の強化に踏み出さざるを得ず、そうなれば今度はAがBの抑止力の強化をさらなる脅威と見なさざるを得なくなる。「その場合は、脅威と見なさない」などとAが考えるわけがない。当然Aはさらなる自国の安全保障策(Bの軍事的脅威に対抗する抑止力)としてCとの軍事同盟の強化や自国の個別的自衛力の強化に踏み切らざるを得ない。そうしなければ、最初にBの軍事力を「脅威」と見なして軍事力を強化した理由(口実と言い換えても差し支えない)との論理的整合性が取れない。

「負の連鎖」はこうして始まる。そして、いったん始まったら、行き着くところまで行かないという保証はない。公明党は「集団的自衛権行使容認の条件に歯止めをかけた」と主張しているが、それはアメリカが期待しているような集団的自衛権行使を、中国や北朝鮮が脅威に感じず、軍事力のさらなる拡大をしないことを前提にした場合に初めて成り立つ論理であって、先に述べたような「負の連鎖」が始まったら、「歯止め」など事実上意味をなさなくなる。集団的自衛権行使容認の閣議決定に反対した朝日新聞と毎日新聞は、そうした論理的視点に立って主張しているだろうか。

 朝日新聞は「戦後日本が70年近くかけて築いてきた民主主義が、こうもあっさり踏みにじられるものか」「法治国家としてとるべき憲法改正の手続きを省き、結論ありきの内輪の議論で押し切った過程は、目を覆うばかりだ」「『(憲法を)改めるべきだ』という声はあっても、それは多数に達していない」「他国への武力攻撃に対し自衛隊が武力で反撃することは…自衛隊が『自衛』隊ではなくなることを意味する」「首相は…『国民の命を守る責任がある』と強調した。だが、責任があるからといって、憲法を実質的に変えてしまってもいいという理由にはならない」と主張した。
 毎日新聞は「行使の条件には『明白な危険』などと並び『わが国の存立』という言葉が2度出てくる。いかようにも解釈できる言葉である」「孤立を避け、米国に『見捨てられないため』に集団的自衛権を行使するのだと、政府の関係者は説明してきた。だがそれは、米国の要請に応じることで『国の存立』を全うするという道につながる」「米国に『見捨てられないため』集団的自衛権を行使するという日本の政治に、米国の間違った戦争とは一線を画す自制を望むことは、困難である」

 2紙の基本的スタンスは微妙に違う。朝日新聞が「実質改憲」という視点で批判しているのに対して、毎日新聞は「米国の間違った戦争に巻き込まれる」という視点で反対している。
 まず朝日新聞の主張から検証しよう。安倍総理は一貫して「憲法解釈の変更」と言っているが、朝日新聞が主張したように「解釈変更」が可能な限界を大きく逸脱していることは間違いない。最高裁の砂川判決は「個別的自衛権」として自衛隊の存在は「憲法に違反していない」とした。そのため自衛隊の「実力」の行使は、「専守防衛」に限定され、その保持できる「実力」も「専守防衛のための必要最小限」とされている。
 が、これまでの「集団的自衛権」についての政府の「定義」は「自国が攻撃
されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」である。だから、「集団的自衛権は憲法の制約によって行使できない」というのが政府「見解」であり、その政府「見解」を国民が受け入れた結果、国民の総意として定着している。この視点が非常に重要なのだが、なぜかメディアは理解できないようだ。メディアと政治家以外は100%、容易に理解できることしか私は書いていない。
 安倍内閣は、前段である「政府定義」を変更せずに、後段の「政府見解」の「日本も国際法上『固有の権利』として保持しているが、(他国を守るために実力を行使することは)憲法の制約によってできない」という部分だけ変更しようとしている。「国際情勢の変化」を口実にして。
 なお、いまはどうか分からないが、少なくとも今年春までは外務省北東アジア局は「安倍総理は従来の集団的自衛権についての政府の定義を無視しており、そのことを国民に説明していない」ことを明確に認めていた。
 公明党との協議の結果、現段階では「集団的自衛権」の行使は事実上「個別的自衛権」や「警察権」で対処できる限定が加えられたため、かろうじて政府の定義の範囲にとどめたと解釈できなくもないので、外務省北東アジア局も考えを変えている可能性はある。しかし限定そのものが極めてあいまいであり、とりあえず「集団的自衛権」を行使できる事例がいくつか述べられているが、肝心の中国の海洋進出による南西アジア諸国との領有権をめぐる紛争が火を噴いたケースは、個別的事例として俎上に上げられていない。アジア太平洋地域における最大のリスクなのにだ。
 北朝鮮の核やミサイルは、他国を侵略できるほどのものには至っていず、「挑発」と考えるのは論理的に無理がある。北朝鮮は必死になって、自国を攻撃したら「これだけの抑止力を持っているぞ」と国際社会にアピールしたいだけ、と考えるのが合理的である。
 ただ、そういうカードをちらつかせたため、それをアメリカに攻撃の口実にされ、米英連合軍によって壊滅された国もある。イラクのフセイン政権がそうだ。核を含む大量破壊兵器など持っていなかったにもかかわらず、あたかも保持しているかのごとき言動を国際社会に振りまいて「抑止力」を誇示しようとして、それがアメリカのイラク攻撃の絶好の口実を与える結果となった。
 北朝鮮も、あまり抑止力を高めるために多くのカードを切りすぎると、アメリカに口実を与えるだけという結果になりかねないことを考えた方がいい。
 もっともアメリカ国内には厭戦気分が高まっており、イラク戦争でめちゃくちゃにされたため生じたイラクの内紛を解決するための責任を、アメリカは本来免れ得ないのだが、アメリカの国内世論の反発が大きく、自らの戦争責任を果たすことすらできない状態になっている。
 アジアの緊張緩和についても、アメリカは実際に紛争が生じたときに「警察権」を行使できるような状態にはなく、せいぜい「張子の虎」に過ぎない日本を含むアジアに張り巡らしている米軍基地網が、紛争の抑止力になることを神様に祈るしかできない状態になっている。誤解を避けるためにあえて書いておくが、私はアジアの米軍基地の軍事力が「張子の虎」だとは言っていない。基地そのものが「張子の虎」だと言っている。あるいは「竹光」と言い換えてもいい。そのことを、一番理解しているのは、ひょっとしたら安倍総理かもしれない。
 そもそも閣議決定は、「集団的自衛権」についてのこれまでの政府が踏襲してきた「定義」は変えずに、「固有の権利として日本も保持しているが、憲法の制約によって行使できない」という「見解」の部分だけを「憲法解釈の変更によって行使できるようにする」というものである。その「定義」と「見解」の境目を曖昧にすることによって安倍総理は「集団的自衛権行使容認」を憲法解釈の変更によって可能にしようとしているのだ。このあたりの論理的解釈になると、中学生程度の理解力では難しいかもしれない。
 新聞の発行部数では読売新聞に負けているが、メディア志望の有能な学生の
就職先人気は朝日新聞のほうが高い。が、知識で考えることが「有能」とされている日本社会では、就職試験でも学生の論理的思考力を確かめようとはしない。だから朝日新聞には、現行憲法を守るというスタンスでしか考えることができないような人間ばかり集まってしまう。朝日新聞がいくら憲法9条をタテにとって閣議決定を批判しても、所詮犬の遠吠えでしかない結果に終わるのも無理はない。
 なぜ「有能」な人材の宝庫とも言える朝日新聞の記者たちがそうした国際関係を論理的に理解できないのか、そのことが、私には理解できない。実際、「集団的自衛権」問題に取り組み出してから、私のブログにコメントを寄せた読者はたった一人しかいない。「学校で芦田修正のことなど教わらなかった」というものだ。私も学校教育では教わっていない。日教組に対する共産党や旧社会党の影響力が強く、とくに日本国憲法について「平和憲法」といった幻想を生徒たちに押し付ける教育をするためには芦田修正を説明するのは都合が悪かったのだろう。
 現に朝日新聞ですら社説で比較的最近まで「平和憲法」と現行憲法を定義づけており、私はブログで痛烈に批判したことがある。私の批判を受け入れたわけではないと思うが、現在朝日新聞は「(現行)憲法の平和主義」という表現で統一するようになった。この表現なら正しいし、私も憲法を現在の日本が国際社会に占めている地位にふさわしい、国際の平和と安全に貢献できる憲法に改正すべきだと主張しているが、その前提として現行憲法の平和主義の崇高な理念は尊重し、維持すべきだとも主張している。そのうえで、現行憲法9条の改正は、平和主義の理念を維持しつつ、国際、とりわけアジア太平洋の平和と安全のために日本はどういう貢献をすべきかを、国民の総意によって決めるべきだと主張している。
 私が1992年に『日本が危ない』を書いた時には、インターネットなどない時代だったから、憲法制定時の事情を調べるのに、何回図書館通いをしたことか。それが今では机の前でインターネットを開くだけで欲しい情報はほとんど手に入る。朝日新聞の論説委員は憲法制定過程をインターネットで調べたことがあるのだろうか。調べていたら「日本国憲法には9条がある。戦争への反省から自らの軍備にはめてきたタガである」などと言うデタラメを書けるわけがないはずなのだが。
 あっ、ごめん。朝日新聞の論説委員室の爺さんたちは、パソコン操作ができない連中ばかりだったんだっけ…。少なくとも私より若いはずだが…。

 次に毎日新聞だ。閣議決定に盛り込まれた「明白な危険」や「わが国の存立」
という言葉に「いかようにも解釈できる言葉だ」と噛みついた。いい線をいっている。ただ、論理がそこで立ち止まってしまったのが、残念。
 はっきり言えば、いかように解釈するかはそのときの政府の権限である。安倍内閣が国際情勢の変化を脅威と考え、抑止力を高めるための政策を行うのは、やはり政府の権限だ。その政策の実行には法律の制定や改正が必要な場合は、国会で審議して承認されなければならないが、閣議決定そのものは政権の自由である。もっとはっきり言えば、公明党の協力がなくても多数決で閣議決定は出来た。選挙協力の腐れ縁のために、安倍・自民党執行部は公明党の主張をほとんど丸呑みして全員一致の閣議決定に持ち込んだのだ。
 私が毎日新聞の主張について「いい線をいっている」と書いたのは、「いかようにも解釈する権利」を政府が持っていることを理解した点だ。そこまで理解できたのなら、中国や北朝鮮の権力も日本の抑止力の強化に対抗して、自分たちも抑止力を高めないと自分たちの安全保障が危うくなる、と解釈する権利を持っていることに、なぜ思いが至らなかったのか。
 そう中国や北朝鮮の政権が解釈して、さらに日米同盟による脅威に対して抑止力を高めれば、それが日本にとってはさらなる新たな国際情勢の変化であり、脅威の増大と政府が解釈すれば、それは直ちに抑止力を高めるための口実になる。すでにその「負の連鎖(スパイラル)」の原理は、このブログの箇条書きの箇所で私は明らかにしている。
 毎日新聞の論説委員が書いた「米国の間違った戦争」とはどういう戦争のことを指しているのか不明だが、戦争に「正しい」も「間違った」もない。勝てば「正しい戦争」であり(官軍)、負ければ「間違った戦争」である(賊軍)。日本は先の大戦で負けたから責任をいつまでも問われ、勝ったアメリカは世界史上例を見ない大量虐殺行為を行った責任は問われない。それが国際社会の常識だ。残念だけども。

 ここまで書き続けて、正直疲れ果てた。が、気分はいま見ている窓の外の朝の風景のようにさわやかだ。家を一歩出れば、暑さに弱い私にとっては不快指数100%の地獄が待ち受けているはずだが。
 ここまで延々と述べてきた私の論理はだれにも否定できない。安倍政権ができることは、せいぜい無視することだけだ(安倍さんは私のブログは読んでいないと思うが、首相官邸にはしばしば通知している)実際、私が電話で話したメディアの人たちも法律の専門家も、私の論理の正しさを認めている。これまで誰からも反論を受けたことがない。反論の余地がないほど単純で、中学生でも理解できる明快な論理だからだ。なのに、メディアの主張は変わらない。なぜならメディアはつねに清く正しく、部外者によって主張を変えさせられることは、自分たちにとって大変な恥になるからだ。
 そういえば「恥」というのは日本独自の文化だ。世界に通用する概念ではない。「恥」にまつわることわざは、日本には数えきれないほどある。
 戦時中の軍総司令部は日本軍兵士に「捕虜となって生き恥をさらすより死して名を残せ」といった趣旨の戦陣訓を強要した。米軍の攻勢に抵抗手段を失った日本兵が「天皇陛下、バンザイ」と叫びながら岸壁から次々に飛び降り自殺した、この文化に、日本はいつまでしがみつくのか。
 まだ先の大戦は、終わっていない。
 長い間、私の「集団的自衛権」問題についての考察ブログに付き合って下さった読者の皆さんに、心からお礼を言いたい。「日本が戦争に巻き込まれない」ためではなく、「日本が国際とりわけアジア太平洋地域の平和と安全に、安倍政権が行おうとしている集団的自衛権の行使がどういう事態をもたらすか」を読者諸氏も真剣に考えてほしい。最後に、現行憲法は、国民の総意によって成立したものではないことを、改めてご理解いただきたい。(終わり)