面白いことになってきた。とうとうかばい合いの村社会の一角に穴が開き始めた。28日から、読売新聞が朝日新聞の誤報「慰安婦記事」についての連載検証記事を掲載し始めたのだ。
一方、朝日新聞は読売新聞の動きをキャッチしたのか、あるいは偶然か、やはり28日に初めて追加記事を掲載、醜い弁解を始めた。
が、両紙の視点は最初からずれている。読売新聞は朝日新聞の誤報記事が国際社会における対日感情悪化の原因を作ったと主張しているのに対して、朝日新聞は朝日新聞の誤報と河野談話は無関係と必死に弁解している。呆れたのは、朝日新聞の姿勢だ。
確かに河野談話は朝日新聞の誤報だけを根拠に作成されたわけではない。第一、政府が特定のマス・メディアの記事だけを根拠に、国際社会に対して公式な談話を作ったりするわけがない。同様に朝日新聞が称賛した吉田清治(故人)のフィクションである「慰安婦狩り」も、河野談話は採用していない。河野談話が採用したのは、韓国側が提供した16人の「元慰安婦」と称する女性の証言だけである。それが河野談話の性質だ。「木を見て森を語るがごとし」とは、河野談話のためにある格言だ。
朝日新聞が果たした役割は、でっち上げの吉田証言をオーソライズし、それが韓国や国際社会に伝わり、戦時中の日本軍兵士が性奴隷狩りに血眼になっていたかのような印象を世界中に振りまいたことである。朝日新聞は吉田証言をオーソライズしたことと河野談話は無関係である、と28日の記事でこう主張した。自ら墓穴を掘ってしまったことにすら気づかずに。
「談話作成にかかわった当時の政府関係者は朝日新聞の取材に対し、内閣外政審議室の職員が吉田氏に複数回にわたって接触したことを認めた上で『つじつまが合わない部分があったため、談話には採用しなかった』と明かした」
一方読売新聞によれば、朝日新聞が吉田証言を取り上げた記事(もちろんすべて肯定的に)は少なくとも16回はあるという。
朝日新聞によれば河野談話の作成過程で内閣外政審議室の職員が吉田氏に接触したのは複数回だというから、朝日新聞の記者は入れ代わり立ち代わり最低でも16回以上は吉田氏に接触したことになる。
政府職員は数回の接触で吉田証言は「つじつまが合わない」ことに気付いて談話に反映させなかったが、朝日新聞の記者(一人の単独取材はありえない。こうした取材の場合、必ず複数の記者が録音しながら取材する)は、16回以上取材しながら吉田証言に「つじつまが合わない部分があること」に気付かなかったのだろうか。それも、ちょっと考えにくい。
週刊誌の記者が吉田の著書を読んで疑問に感じて取材した時点で、吉田は「あれはフィクションだ」と明言している。その週刊誌記事を朝日新聞の記者が読んだという確証はないが、少なくとも週刊誌レベルの取材記者が疑問に感じたことに、天下の朝日新聞の記者が入れ代わり立ち代わり16回以上取材して、だ
れも吉田証言に疑問を感じなかったなどということがありうるだろうか。
今回の問題で明らかになったことは、マス・メディアのなかでも、いったん社内に醸成されてしまった「空気」は、だれにも壊せないということである。おそらく吉田に接触した朝日新聞の記者の多くは吉田証言に疑問を抱いたはずで、だがそのことをだれも社内で言い出せない「空気」が、このケースの場合、おそらく朝日新聞社会部の中で醸成されてしまっていたのであろう。
特定秘密保護法について、メディアは一斉に反発している。「言論の自由が脅かされる」というのがメディアの言い分だ。
私も、民主主義を育てるための「武器」として「言論の自由」はあらゆる自由の中で最も尊重されるべきだと思っている。が、肝心のメディアの中で「言論の自由」が封殺されていたとしたら、メディアが振るう「言論の自由」は民主主義を育てるための「武器」ではなく、民主主義を破壊する「武器」になりかねない。実際、戦時中のマス・メディアは軍部の手先になって国民、特に若い人たちをマインド・コントロール下に置いた。メディアは戦時中の報道姿勢から、いったい何を反省したのか。
朝日新聞が検証すべきは、なぜ誤報の検証が今日まで放置されてきたかである。二度と同じ過ちを繰り返さないためには、社内に相当の激震が走ったとしても、誤報が放置されてきた根っこをあぶりだすことが、読者から信頼されるメディアに回復するための唯一の道であることを知るべきである。「言論の自由」の重さには、それに匹敵する「報道責任」の重さが伴うことを忘れてもらっては困る。
一方、朝日新聞は読売新聞の動きをキャッチしたのか、あるいは偶然か、やはり28日に初めて追加記事を掲載、醜い弁解を始めた。
が、両紙の視点は最初からずれている。読売新聞は朝日新聞の誤報記事が国際社会における対日感情悪化の原因を作ったと主張しているのに対して、朝日新聞は朝日新聞の誤報と河野談話は無関係と必死に弁解している。呆れたのは、朝日新聞の姿勢だ。
確かに河野談話は朝日新聞の誤報だけを根拠に作成されたわけではない。第一、政府が特定のマス・メディアの記事だけを根拠に、国際社会に対して公式な談話を作ったりするわけがない。同様に朝日新聞が称賛した吉田清治(故人)のフィクションである「慰安婦狩り」も、河野談話は採用していない。河野談話が採用したのは、韓国側が提供した16人の「元慰安婦」と称する女性の証言だけである。それが河野談話の性質だ。「木を見て森を語るがごとし」とは、河野談話のためにある格言だ。
朝日新聞が果たした役割は、でっち上げの吉田証言をオーソライズし、それが韓国や国際社会に伝わり、戦時中の日本軍兵士が性奴隷狩りに血眼になっていたかのような印象を世界中に振りまいたことである。朝日新聞は吉田証言をオーソライズしたことと河野談話は無関係である、と28日の記事でこう主張した。自ら墓穴を掘ってしまったことにすら気づかずに。
「談話作成にかかわった当時の政府関係者は朝日新聞の取材に対し、内閣外政審議室の職員が吉田氏に複数回にわたって接触したことを認めた上で『つじつまが合わない部分があったため、談話には採用しなかった』と明かした」
一方読売新聞によれば、朝日新聞が吉田証言を取り上げた記事(もちろんすべて肯定的に)は少なくとも16回はあるという。
朝日新聞によれば河野談話の作成過程で内閣外政審議室の職員が吉田氏に接触したのは複数回だというから、朝日新聞の記者は入れ代わり立ち代わり最低でも16回以上は吉田氏に接触したことになる。
政府職員は数回の接触で吉田証言は「つじつまが合わない」ことに気付いて談話に反映させなかったが、朝日新聞の記者(一人の単独取材はありえない。こうした取材の場合、必ず複数の記者が録音しながら取材する)は、16回以上取材しながら吉田証言に「つじつまが合わない部分があること」に気付かなかったのだろうか。それも、ちょっと考えにくい。
週刊誌の記者が吉田の著書を読んで疑問に感じて取材した時点で、吉田は「あれはフィクションだ」と明言している。その週刊誌記事を朝日新聞の記者が読んだという確証はないが、少なくとも週刊誌レベルの取材記者が疑問に感じたことに、天下の朝日新聞の記者が入れ代わり立ち代わり16回以上取材して、だ
れも吉田証言に疑問を感じなかったなどということがありうるだろうか。
今回の問題で明らかになったことは、マス・メディアのなかでも、いったん社内に醸成されてしまった「空気」は、だれにも壊せないということである。おそらく吉田に接触した朝日新聞の記者の多くは吉田証言に疑問を抱いたはずで、だがそのことをだれも社内で言い出せない「空気」が、このケースの場合、おそらく朝日新聞社会部の中で醸成されてしまっていたのであろう。
特定秘密保護法について、メディアは一斉に反発している。「言論の自由が脅かされる」というのがメディアの言い分だ。
私も、民主主義を育てるための「武器」として「言論の自由」はあらゆる自由の中で最も尊重されるべきだと思っている。が、肝心のメディアの中で「言論の自由」が封殺されていたとしたら、メディアが振るう「言論の自由」は民主主義を育てるための「武器」ではなく、民主主義を破壊する「武器」になりかねない。実際、戦時中のマス・メディアは軍部の手先になって国民、特に若い人たちをマインド・コントロール下に置いた。メディアは戦時中の報道姿勢から、いったい何を反省したのか。
朝日新聞が検証すべきは、なぜ誤報の検証が今日まで放置されてきたかである。二度と同じ過ちを繰り返さないためには、社内に相当の激震が走ったとしても、誤報が放置されてきた根っこをあぶりだすことが、読者から信頼されるメディアに回復するための唯一の道であることを知るべきである。「言論の自由」の重さには、それに匹敵する「報道責任」の重さが伴うことを忘れてもらっては困る。