ジャーナリストや歴史学者、歴史小説家、それにいわゆる「進歩的文化人」の方々が「あの戦争」について「日中戦争」「アジア太平洋戦争」「大東亜戦争」などさまざまな言い方をされています。そしてどの表記を選択するかによって、その方が「あの戦争」についてどういう歴史認識をしているかが明確になります。そして私は「あの戦争」についてのこれまでのさまざまな歴史認識を論理的かつフェアに検証した結果、これまでのすべての表記を否定せざるを得なくなり、どうしても私の歴史認識を明確に反映できることばが思い浮かばず、「あの戦争」という言い方しかしないことにしたというわけです。
ものを書くことを生業としている人にとってどういう「言葉」を選ぶか、また自分が選んだ「言葉」にどういう意味を付与するかということは、実は「ものを書くことを生業とする」資格があるか否かを左右するほど重要なことなのですが、とくにジャーナリストにはそうした自覚がなぜか希薄なのです。そのことを実例をあげて証明します。
多くの方々が、読売と朝日が「南京問題」(実は私は「南京事件」と言いたいのですが、その表記が読売用語として定着しているためこの表記にしました。つまり読売の歴史認識と一線を画すためです)「慰安婦問題」「沖縄の集団自決問題」について「軍(旧日本軍)」の関与があったのかなかったのか、真っ向から対立していることをご存知だと思いますが、両紙とも同じ「軍」という言葉を使いながら自分たちが使う「軍」という表記の定義を明らかにしていません。もちろん言葉の一つ一つをいちいち定義しないと使えないなどということになったら、現実問題として文章なんかまったく書けなくなります。
しかしとくに「慰安婦問題」や「集団自決問題」について両紙が歴史教科書に「軍」の「関与」についてどう書くべきか、国論を二分するような歴史認識で対立するようなケースでは、「軍」や「関与」といった表記を明確に定義した上で使う必要があります。しかし両紙ともこの二つの言葉の定義を明らかにせず(たぶん両紙の論説委員の方たちにはそうした自覚をまったく持っていないのでしょう。つまり「ものを書く」資格のない人たちを両紙は論説委員にしていると解釈できます)勝手な自分たちの解釈を読者に押し付けているのです。
本論に入る前にいきなり言葉の定義が極めて重要になる場合があることを述べさせていただいたのは、実は「あの戦争」についてフェアで論理的な歴史認識をするためには、日本の近代化が何をきっかけにして始まり、そしてどういう近代化への歩みをしてきたか、ということについての従来の歴史観をきちんと検証しなければならないからなのです。
もっと具体的に言えば、ほとんどすべての歴史家やジャーナリストは明治維新を実現した革命エネルギーを「尊皇攘夷」運動と、「四字熟語」でひとくくりにした思考をしていて、そのことの矛盾に誰も気がついていないことに「あの戦争」の歴史認識を誤ってしまった最大の原因があると考えられるからです。結論から先に述べてしまいますが、私は明治維新を実現した革命エネルギーは「尊王・攘夷」運動であったと考えています。つまり「尊王=攘夷」といった解釈ではなく「尊王プラス攘夷」という解釈をしないと、近代化革命が実現したとたん、「尊王」と並ぶ革命エネルギーだった「攘夷」運動が煙のように消えてしまったことを論理的に説明できないからです。言葉の使い方を誤るととんでもない歴史認識に行き着いてしまうということをご理解いただけたでしょうか。
前置きはこのぐらいにしてそろそろ本論に入りましょう。
まず日本で明治維新という、今日の価値観から見ると「市民革命」と言っても間違いではない、封建制社会体制から「無血」でなぜ日本がいっきに近代化への道を歩むことができたのか、ということから高校生なら誰でも知っている歴史事実だけを頼りに解明してみましょう。
明治維新つまり政権が徳川幕府から天皇家に移ったのは1868年です。その28年前の1840年にアヘン戦争が勃発し、42年には決着が付いて清が敗北し、イギリスに香港を割譲しました。この戦争がきっかけになり、欧米列強のアジア侵略が始まったのです。
世界史を紐解くと、強国による侵略戦争の歴史でもあります。古くはシーザー、アレキサンダー大王、ジンギスカン…と数えあげていくとそれだけで数冊の本になってしまいます。日本の国内だってそうです。
でも強国がいっせいに、つまりヨーイドンで侵略戦争を始めたのはアヘン戦争から第2次世界大戦が終わるまでの約100年間と、日本では足利政権が政権維持能力を失って戦国時代に突入し、徳川政権が確立するまでのやはり約100年間だけです。日本の戦国時代のことは明治維新とまったく関係がありませんから(厳密に言えば関が原戦争以来、長州藩が徳川家に持ち続けた恨みは無視できませんが)維新の世界史的時代背景だけ考慮に入れて新しい歴史認識を構築してみましょう。
明治維新の出発点をどこに設定するかは異論があるかもしれませんが、私が唯一の手がかりとしている『日本史小年表』によれば、アヘン戦争の3年前、1837年に米モリソン号が浦賀に入港し、浦賀奉行が砲撃させた事件を出発点にします。つまりこの時点では徳川幕府も鎖国体制を維持するスタンスを堅持していたと考えられます。
しかしその5年後には徳川幕府もアヘン戦争の経緯と結果を知り、「異国船打払令」を廃止し、「薪水令」を発布しました。つまり開国はしないけど燃料と水だけは提供しようということにしたのです。その結果どういう事態が生じたか。
日本にとって幸いだったのは日本がアジアの東端に位置し、しかも四方を海に囲まれていたという地理的条件でした。つまり欧米列強にとって日本はアジア侵略の最後の標的に、偶然なったということです。つまり欧米列強が日本を侵略の標的にしたときはすでに日本以外のアジア諸国の分割支配が終わっており、1国だけが他の列強に先行して日本を自国の支配下に置こうとする試みが不可能になっていたのです。そのことを証明する歴史的事実は無数にあります。列強がこの時期いっせいに日本に開国を求めて特使を派遣したり、これ見よがしの艦隊を日本近海に出没させ威嚇行動に出たりしていることは200ページほどの『日本史小年表』でも確認できます。ただこの時期には一握りほどの学者を除いて「攘夷論」はまだ浮上していません。幕府はその一握りほどの攘夷派学者をも弾圧し、列強との交渉は継続しつつも懸命に鎖国体制を維持しようとさまざまな策を講じていました。
いわばシーソーの上で必死にバランスをとろうとしていた幕府に決定的な開国決断を迫ったのが、53年6月に艦隊を率いて浦賀に強行入港した米提督ペリーでした。幕府は翌7月諸大名にアメリカ国書を示し、意見を求めています。幕府が諸大名に対する支配権を自ら放棄した瞬間です。念のため書いておきますが、私はすでに明らかにされている歴史的事実だけを唯一の根拠として歴史認識を構築しています。私の歴史認識の方法論は何度も書いてきましたがフェアな論理的思考力だけです。私の歴史認識の方法論は、批判があれば誠実に対応させていただきますが、ともかくこの日から日本の歴史が大転換を始めます。しかしこのブログ記事はすでに3000字を超えました。維新を実現した巨大エネルギーだった「攘夷」運動がなぜ維新の実現と同時に煙のように消えてしまったのか、歴史学者や歴史小説家が総がかりでも解明できなかった謎は、いっさい先入観を持たず、幼児のように素直で素朴な「なぜ」という疑問を持てば(実はそのこと自体が司馬史観などに洗脳されている人には極めて困難なことなのですが)、簡単に解明できるはずなのですが、この続きはこのシリーズの②で書くことにします。
ものを書くことを生業としている人にとってどういう「言葉」を選ぶか、また自分が選んだ「言葉」にどういう意味を付与するかということは、実は「ものを書くことを生業とする」資格があるか否かを左右するほど重要なことなのですが、とくにジャーナリストにはそうした自覚がなぜか希薄なのです。そのことを実例をあげて証明します。
多くの方々が、読売と朝日が「南京問題」(実は私は「南京事件」と言いたいのですが、その表記が読売用語として定着しているためこの表記にしました。つまり読売の歴史認識と一線を画すためです)「慰安婦問題」「沖縄の集団自決問題」について「軍(旧日本軍)」の関与があったのかなかったのか、真っ向から対立していることをご存知だと思いますが、両紙とも同じ「軍」という言葉を使いながら自分たちが使う「軍」という表記の定義を明らかにしていません。もちろん言葉の一つ一つをいちいち定義しないと使えないなどということになったら、現実問題として文章なんかまったく書けなくなります。
しかしとくに「慰安婦問題」や「集団自決問題」について両紙が歴史教科書に「軍」の「関与」についてどう書くべきか、国論を二分するような歴史認識で対立するようなケースでは、「軍」や「関与」といった表記を明確に定義した上で使う必要があります。しかし両紙ともこの二つの言葉の定義を明らかにせず(たぶん両紙の論説委員の方たちにはそうした自覚をまったく持っていないのでしょう。つまり「ものを書く」資格のない人たちを両紙は論説委員にしていると解釈できます)勝手な自分たちの解釈を読者に押し付けているのです。
本論に入る前にいきなり言葉の定義が極めて重要になる場合があることを述べさせていただいたのは、実は「あの戦争」についてフェアで論理的な歴史認識をするためには、日本の近代化が何をきっかけにして始まり、そしてどういう近代化への歩みをしてきたか、ということについての従来の歴史観をきちんと検証しなければならないからなのです。
もっと具体的に言えば、ほとんどすべての歴史家やジャーナリストは明治維新を実現した革命エネルギーを「尊皇攘夷」運動と、「四字熟語」でひとくくりにした思考をしていて、そのことの矛盾に誰も気がついていないことに「あの戦争」の歴史認識を誤ってしまった最大の原因があると考えられるからです。結論から先に述べてしまいますが、私は明治維新を実現した革命エネルギーは「尊王・攘夷」運動であったと考えています。つまり「尊王=攘夷」といった解釈ではなく「尊王プラス攘夷」という解釈をしないと、近代化革命が実現したとたん、「尊王」と並ぶ革命エネルギーだった「攘夷」運動が煙のように消えてしまったことを論理的に説明できないからです。言葉の使い方を誤るととんでもない歴史認識に行き着いてしまうということをご理解いただけたでしょうか。
前置きはこのぐらいにしてそろそろ本論に入りましょう。
まず日本で明治維新という、今日の価値観から見ると「市民革命」と言っても間違いではない、封建制社会体制から「無血」でなぜ日本がいっきに近代化への道を歩むことができたのか、ということから高校生なら誰でも知っている歴史事実だけを頼りに解明してみましょう。
明治維新つまり政権が徳川幕府から天皇家に移ったのは1868年です。その28年前の1840年にアヘン戦争が勃発し、42年には決着が付いて清が敗北し、イギリスに香港を割譲しました。この戦争がきっかけになり、欧米列強のアジア侵略が始まったのです。
世界史を紐解くと、強国による侵略戦争の歴史でもあります。古くはシーザー、アレキサンダー大王、ジンギスカン…と数えあげていくとそれだけで数冊の本になってしまいます。日本の国内だってそうです。
でも強国がいっせいに、つまりヨーイドンで侵略戦争を始めたのはアヘン戦争から第2次世界大戦が終わるまでの約100年間と、日本では足利政権が政権維持能力を失って戦国時代に突入し、徳川政権が確立するまでのやはり約100年間だけです。日本の戦国時代のことは明治維新とまったく関係がありませんから(厳密に言えば関が原戦争以来、長州藩が徳川家に持ち続けた恨みは無視できませんが)維新の世界史的時代背景だけ考慮に入れて新しい歴史認識を構築してみましょう。
明治維新の出発点をどこに設定するかは異論があるかもしれませんが、私が唯一の手がかりとしている『日本史小年表』によれば、アヘン戦争の3年前、1837年に米モリソン号が浦賀に入港し、浦賀奉行が砲撃させた事件を出発点にします。つまりこの時点では徳川幕府も鎖国体制を維持するスタンスを堅持していたと考えられます。
しかしその5年後には徳川幕府もアヘン戦争の経緯と結果を知り、「異国船打払令」を廃止し、「薪水令」を発布しました。つまり開国はしないけど燃料と水だけは提供しようということにしたのです。その結果どういう事態が生じたか。
日本にとって幸いだったのは日本がアジアの東端に位置し、しかも四方を海に囲まれていたという地理的条件でした。つまり欧米列強にとって日本はアジア侵略の最後の標的に、偶然なったということです。つまり欧米列強が日本を侵略の標的にしたときはすでに日本以外のアジア諸国の分割支配が終わっており、1国だけが他の列強に先行して日本を自国の支配下に置こうとする試みが不可能になっていたのです。そのことを証明する歴史的事実は無数にあります。列強がこの時期いっせいに日本に開国を求めて特使を派遣したり、これ見よがしの艦隊を日本近海に出没させ威嚇行動に出たりしていることは200ページほどの『日本史小年表』でも確認できます。ただこの時期には一握りほどの学者を除いて「攘夷論」はまだ浮上していません。幕府はその一握りほどの攘夷派学者をも弾圧し、列強との交渉は継続しつつも懸命に鎖国体制を維持しようとさまざまな策を講じていました。
いわばシーソーの上で必死にバランスをとろうとしていた幕府に決定的な開国決断を迫ったのが、53年6月に艦隊を率いて浦賀に強行入港した米提督ペリーでした。幕府は翌7月諸大名にアメリカ国書を示し、意見を求めています。幕府が諸大名に対する支配権を自ら放棄した瞬間です。念のため書いておきますが、私はすでに明らかにされている歴史的事実だけを唯一の根拠として歴史認識を構築しています。私の歴史認識の方法論は何度も書いてきましたがフェアな論理的思考力だけです。私の歴史認識の方法論は、批判があれば誠実に対応させていただきますが、ともかくこの日から日本の歴史が大転換を始めます。しかしこのブログ記事はすでに3000字を超えました。維新を実現した巨大エネルギーだった「攘夷」運動がなぜ維新の実現と同時に煙のように消えてしまったのか、歴史学者や歴史小説家が総がかりでも解明できなかった謎は、いっさい先入観を持たず、幼児のように素直で素朴な「なぜ」という疑問を持てば(実はそのこと自体が司馬史観などに洗脳されている人には極めて困難なことなのですが)、簡単に解明できるはずなのですが、この続きはこのシリーズの②で書くことにします。