小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

集団的自衛権行使にあくまで食らいつくぞ。 日米安全保障条約の片務性解消の方が優先課題だ。④

2014-07-23 05:41:10 | Weblog
 昨日のブログを投稿した後、ネットで毎日新聞の布施博氏(論説室)が、『記者の目:集団的自衛権と湾岸のトラウマ』と題した記事を読んだ。その記事の書き出しはこうだ。
「集団的自衛権をめぐる論戦を見聞きしながら、ふと不安になった。議論にはよく1991年の湾岸戦争が登場するが、私が前線で取材したこの戦争はかなり誤解されているように思えるからだ」
 布施氏はこの記事で、湾岸戦争の停戦から約2か月後の憲法記念日(91年5月3日)の朝日新聞の社説を引用している。
「今回浮き彫りになったのは、日本の政治・外交が平和主義の基本理念を積極的に発信し、世界に浸透させる努力を十分重ねておらず、むしろ憲法理念を『制約』として自らの怠慢の言い訳にしか使ってこなかった、という事実ではないだろうか」
 一方布施氏が所属する毎日新聞については、翌92年の憲法記念日に掲載した社説で「『正義の戦争などない』という正論性を、とことん詰めもしないで済ませてきた日本が、その虚をつかれたのが湾岸戦争だった」と総括し、「戦争放棄の理想という原点」を踏まえ「人的な貢献策をギリギリ詰めていく」必要性を説いている、と述べた。
 そんな20年以上の新聞の社説を調べようにも、国会図書館にでも行けば、多分コンピュータの記録媒体ではなくマイクロフィルムに保存されているだろうが、私のブログは対価を得るために書いているわけではないので、そこまでの時間とコストはかけられない。
 布施氏は、当時の社説を振り返って「ここにはトラウマの影はなく、両紙とも深い問題意識によって日本の在り方を反省している。どんな結論に至るにせよ、ここが模索の出発点と思うが、昨今の論戦でこうした問題意識が希薄なことに驚かされる。90年代からの課題が自然消滅、または乱暴にリセットされているかのようだ」と語っている。以下布施氏の思いを転載させていただく。問題意識の原点は、私と共通した要素も感じられるが、その後の認識を深めていくプロセスが微妙に異なっている。できれば読者にもそのあたりを意識しながら布施氏の記事を読んでいただきたい。

 いささか恣意的な分類と独断を許してもらえれば、いわゆる「保守」の人々が湾岸戦争の「教訓」を長年考え続けたのに対し、いわゆる「リベラル」の人々は「トラウマ=忌まわしい記憶」として忘れようとする傾向が強かったのではなかろうか。このことは集団的自衛権をめぐる論戦にも影響していて、双方に優れた論考があるのは確かだが、私の目には「リベラル」の側に稚拙で雑な文章が多いように映った。「こう書くのが平和主義なんだ」という安易で根拠のない思い込みが論理の緻密さを失わせ、朝日新聞社が指摘した「怠慢」にも通じ
るような気がしたのである。
 私自身は2001年の米同時多発テロ後、日本周辺の防衛と邦人保護に限って集団的自衛権の行使を認めた方がいいと思い始めた。テロもそうだが、中国や北朝鮮も含めて国際秩序の流動化が続く。憲法解釈は大事だし、閣議決定を急いだ安倍晋三政権を批判するのも当然である。だが、安全保障や国際貢献がからむこの問題はしょせん、賛成と反対では割り切れないのではないかという疑いを禁じ得ない。
 国連決議を積み重ね「正義の戦争」といわれた湾岸戦争から同時多発テロを経て、米国は大義なきイラク戦争へ突き進んだ。これが湾岸戦争のイメージを損ない、集団安全保障の論議などに響いているのは残念だが、ともあれ米国が各国を強引に「テロとの戦争」に組み込む過程を私はつぶさに見た。米国の力が衰えた時も、肩代わり的に日本が巻き込まれる状況は生じよう。
 だが、米国の力に頼りつつ米国に巻き込まれるのを警戒するのは日本の宿命的な現実であり、二律背反的な要素を使い分けて日本は平和を保ってきたとも言える。そう簡単に日本が巻き込まれるとは思わないし、巻き込まれることを自明とする必要もない。
 昨秋、ある国立大学で約100人の学生に聞いたところ、半数以上が集団的自衛権の行使容認に賛成する一方で、日米問題について「強化」を求めた学生は2割に満たなかった。この種の調査をするたびに若者たちが日本の自立を求めていることを痛感する。
 集団的自衛権をめぐる論戦は50年後100年後の日本を見据えた議論であってほしい。「私たち日本人は、世界の中で、平和のためにどうしたいのか」。むかしからリセットされがちな問いと向き会わない限り、行使を容認しようがしまいが、日本人は国際貢献でも安全保障でも主体的な選択はできないだろう。

 私が知る限り(私が知りうるのはごく限られていることを前提に言っている)、集団的自衛権問題について自らが属する毎日新聞の立場にも敢えて立たず、外野席に身を置いて集団的自衛権問題の再考察の必要性を訴えた方は布施氏のみである。
 ただ、私とは考え方が違うという意味ではなく、湾岸戦争について「『正義の戦争』といわれた」戦争と位置付けながら、イラク戦争については「大義なき」戦争と決めつけた合理的根拠を明確にしていないのは、新聞の場合紙面の制約があるとはいえ、メディアの常とう手段であるご都合主義的主張の仕方とも思える。学生へのアンケートも、どの大学名を特定していない以上、でっち上げの可能性が否定できないと言われてもやむを得ないだろう。
 メディアが主張の正当性の根拠として、いまでもしばしばでっち上げや捏造を行っていることは、私が知りうる限り、これまでも暴いてきた。でっち上げ
た、あるいは捏造した、という事実を内部情報に接触して得たわけではない。私がそう断定するに至った、閣議決定に関するNHKと読売新聞がでっち上げもしくは捏造について検証したことを改めて再検証する。
 メディアは、先の大戦については何度も再検証を重ねているが、戦後の報道については「すべて正しい」と信じているのかも知れないが、明らかな誤報は別として、ねつ造やご都合主義的解釈についての検証作業を行ったメディアは、私が知る限りない。布施氏の記事は例外中の例外と言っていいだろう。

 7月1日の閣議決定の直後、公明党の山口代表の発言(同党の「外交安全保障・憲法両調査会合同会議」での)を、NHKはなぜか山口代表の映像をバックに武田アナウンサーが、山口代表の肉声ではなく「代行アナウンス」した。おそらくNHKの報道局内部で集団的自衛権行使の容認派と批判派グループの間で主導権争いが背景にあったことをうかがわせるに足る放送の仕方であった。
 武田アナウンサーが「代行アナウンス」した内容は「他国のためだけでなく…」だった。私は耳を疑った。閣議決定に至るまで、公明党は集団的自衛権を事実上個別的自衛権や警察権で対応可能な範囲まで絞り込み、自民・安倍執行部に丸呑みさせてきたはずだ。そのうえで閣議決定の文言に「集団的自衛権行使容認」とそれを可能にするために「憲法解釈を変更する」という事実上意味をなさない言葉を盛り込むことで自公は折り合いをつけたはずだ。
 その折り合いをつけるために閣議決定では、これまでの憲法9条の解釈として定着してきた個別的自衛権(我が国に武力攻撃が発生した場合に反撃する「専守防衛」の権利)だけでなく、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」というのが、自公がギリギリの折衝を重ねた結果として「集団的自衛権行使」が憲法解釈の変更によっても許容できる限界としたはずだ。
 相撲でいうなら、「集団的自衛権」行使の範囲は、勝負を行う円形の土俵の内側に限るということである。もう少し厳密な解釈をしても、土俵(円形の勝負俵と東西南北の4カ所に少し出っ張った徳俵)の完全に内側での実力の行使は「個別的自衛権」、勝負俵や徳俵に足がかかった状態での実力の行使が「集団的自衛権」と解釈するのが文理的である。少なくとも、土俵の外で実力を行使することは、いかように屁理屈を付けて憲法9条を解釈しようと、解釈の許容範囲を逸脱していることは明らかだ。
 もし、土俵外での実力の行使までも憲法の許容範囲だとすれば、天皇の統帥権復活も憲法解釈の許容範囲になる。山口代表の発言(「他国のためだけでなく…」)は、明らかに土俵の外での実力の行使を容認した発言である。私が武田アナウンサーの「代行アナウンス」を聞いて耳を疑ったのは、そうした理由からである。
 この日、まず私がチェックしたのはネットのNHKオンラインで確認することだった。基本的にNHKのニュース原稿は放送開始直前に飛び込んできたニュース報道の原稿以外は、放送前にオンラインで公表(配信時刻も表示)されている。が、武田アナウンサーの「代行アナウンス」の原稿はNHKオンラインで公表されていなかった。
 私が事実確認のためにとった次の方法は公明党事務局に電話で確認することだった。が、公明党に何度電話してもつながらない。「話し中」のピ、ピ、ピ…が受話器に流れるだけだった。
 NHKのニュース7は原則7時30分前に終わる。その日はどうだったか覚えていないが、NHKオンラインでは確認できなかったので、8時半過ぎにNHKふれあいセンターに電話して上席責任者に、「武田アナウンサーの代行アナウンスはNHKの誤報ではないか」と疑問をぶつけた。上席責任者は「私は山口代表の発言映像を見たわけではありませんが、放送からすでに1時間は経っており、公明党からは全く抗議の連絡がありませんから誤報ではないと思います。こういうケースの場合、誤報だったら間違いなく公明党から抗議の連絡があり、訂正放送します」と答えた。
 公明党事務局にやっと電話がつながったのは9時半近かった。本来この時間帯だと電話受け付けは終了しているのだが、NHKのニュースを見た公明党支持者たちからの抗議が殺到して、電話対応時間を延長したのだろう。事務局はあっさり、武田アナウンサーの「代行アナウンス」の内容が事実であることを認めた。
 さらにその後、10時過ぎにやっとNHKオンラインで武田アナウンサーの「代行アナウンス」原稿が公表された。だから私は武田アナウンサーの代行アナウンスのすべてを一字一句正確に知りえて、その内容をブログで書いた。事実かどうかを確認するために、私は最低限そのくらいのことをしたうえで、メディアが流した情報の正確性を確認して主張している。改めて山口発言をNHKオンラインが公表した原稿通りに記載しておく。
「他国のためだけでなく、日本国民の生命、自由、権利を守るための限定的な行使容認であり、閣議決定以上のことは憲法改正でなければならないことを確認するなどの歯止めを勝ち取った」 

 その後、NHKはこの山口発言を改造するのだが、時系列的に山口発言をメディアがどう扱ったかを検証する。閣議決定の翌日7月2日の読売新聞朝刊は1面で、公明党「外交安全保障・憲法調査会合同会議」での山口発言を、こう紹介した。
「意見が一通り出たところで、山口代表が閣議決定について『他国防衛ではなく、自国防衛であるという目的が明確になった』と歯止めを求めた成果を強調した」
 明らかに読売新聞は山口代表の発言を捏造した。NHKのニュース7での武田アナウンサーが正確に山口代表の発言を、重要な部分だけを切り取ってではあるが、「代行アナウンス」したことは、上記のように私は確認している。
 さらに念のため当日朝日新聞お客様オフィスに電話をして「読売新聞が山口発言を捏造していますよ」と伝えたところ、即座に「分かっています」と答えられた。「これは、かつて朝日新聞のカメラマンがスクープ目的にサンゴに自分で傷をつけて撮影し、その写真を朝日新聞が紙面に掲載したケースとは違う。メディアとしての致命的な犯罪行為だ。いくら村社会を大切にしたいとしても、かばい合える性質の問題ではない。かつて朝日新聞は吉田清治氏の捏造本を過大評価して、それが今日の従軍慰安婦問題に発展した」と言ったところ、「あれは“勇み足”でした」と即座に認めた。
 が、朝日新聞は結局、読売新聞の捏造記事を無視した。そのせいかどうかはわからないが、NHKが7月13日に放送した『NHKスペシャル』での捏造につながる。番組のタイトルは『集団的自衛権――行使容認は何をもたらすのか』で、番組の内容紹介にはこうある(NHKオンラインによる)。
「戦後の安全保障政策の大転換となった集団的自衛権の行使容認。憲法解釈を変更する閣議決定に至る舞台裏では自民、公明両党の間で、憲法解釈の変更や“歯止め”などをめぐってさまざまな協議が行われた。なぜいま集団的自衛権の行使容認なのか。自衛隊の活動はどう変わるのか。キーパーソンへの取材で、今回の決定までの動きと背景に何があったのかを検証。海外の事例も交え、今回の決定が今後の日本に何をもたらすかを考える」
 問題意識はよしとするが、肝心のキーパーソンの最重要人物である山口代表の発言を肉声ではなく、「他国防衛のためではなく、自国防衛のため」と読売新聞と同様の捏造テロップを流した。
 私は即座に『NHKスペシャル』の担当ディレクターに電話をして、山口代表の発言内容を文字化したテロップは明らかに捏造だ。どうして捏造したのか、と追及した。ディレクターは、「私は山口代表の肉声を聞いているわけではなく、報道局から渡された原稿をそのままテロップにしただけです。捏造されているとは思えませんが…」という返事だった。
 私はディレクターにニュース7での武田アナウンサーの「代行アナウンス」について徹底的に真偽を確認した経緯と読売新聞の捏造についても説明し、7月1日のNHKオンラインで代行アナウンスした内容が確認できるから、確認してほしい、と伝えた。
 実は、この日の番組ではもう一つ重要なシーンがあった。NHKの女性記者が安倍総理に取材するシーンが映像で流れたのだが、安倍総理がインタビュー・ルームに入っていくシーンから放送された。女性記者の質問は放映されず、はっきり言って意味のないシーンなのだが、女性記者が椅子にでんと座ったままで入室する安倍総理に対して、向かい合った椅子に座るよう手で指図した。一国の総理に対し、失礼を通り越して非常識極まりない映像だった。
 そのことについても番組ディレクターの抗議したところ、「私どもは、権力と距離を置くという姿勢を明らかにするためにしたつもりですが…」と返答したので、そういう撮影は距離を置いたことにならない。アメリカの大統領でさえ、他国の首相や大統領を執務室に迎えるとき、必ず立ち上がって、自ら訪問者に歩み寄って握手し、訪問者と同時に椅子に座る。その程度の常識すらNHKの職員はわきまえていないのか、と厳しく追及した。ディレクターは、そう言われると私たちが非常識だったと思います、と素直に非を認めた。
 が、この撮影シーンは、どうやらNHKと首相官邸との打ち合わせの過程で、首相官邸側から「こういうシーンを入れてくれ」と要請があったのではないかという疑いを私は持たざるを得なくなった。
 いつだったか覚えていないが、NHKの『クローズアップ現代』が菅官房長官をゲストに招いて、国谷裕子キャスターがインタビューしたことがあった。この番組は私も見たが、国谷氏と菅官房長官とのやり取りは覚えていない。記憶にないということは、問題になるような追求を国谷氏がしたとは感じなかったということだ。国民の多くが抱いている疑問を国谷氏が代弁したに過ぎないと私は解釈している。
 が、官邸はそうは受け取らなかったようだ。NHKの籾井会長と国谷氏を官邸に呼び出し、安倍総理じきじきに「あの番組はなんだ」と恫喝したらしい。籾井会長、国谷氏はともども土下座して謝罪し、国谷氏は涙したという。写真週刊誌の「スクープ」記事なので、真偽のほどは分からない。もっとも、週刊誌も「煙もない」のに火事だ、火事だと騒ぎ立てたりはいくらなんでもしないから、それに近い情報は官邸筋から流れたのであろう。籾井会長や国谷氏が安倍総理の前で土下座している写真が掲載されていれば、それは間違いなく事実であったことの証明になるのだが、公には官邸側もNHK側も否定しているので私がどうのこうのと言う筋合いではないが、この写真週刊誌の「スクープ」にツイッターが炎上した。
 それでもNHKも官邸も写真週刊誌に抗議もしなければ、名誉棄損で告訴をする様子もないことから、やはり「火のないところに煙は立たず」で、『クローズアップ現代』をめぐって官邸とのいざこざが多少はあったのではないかと思わざるを得ない。そう考えると、『NHKスペシャル』での総理インタビュー・シーンは、「NHKが権力との距離を置いている」ように一見視聴者を思い込ませることを目的に、官邸側からNHKに要請した可能性がかなり濃厚になる。
 そう考えると、このインタビュー・シーンで、女性記者が映像で椅子にでんと座ったままでインタビュー・ルームに入室する総理を手招きするシーンだけが映像化され、肝心のインタビュー・シーンはまったく映像化されず(つまり女性記者が質問しているシーンの映像はまったくなかった)、総理が一方的に説明する映像だけが放送されたことも併せ含めて、山口代表発言の捏造テロップを考えると、『NHKスペシャル』の番組は、ディレクターたちが報道局の「集団的自衛権行使容認派」によって、自らは無自覚なまま「操り人形」として官邸の意に沿う番組を作らされた可能性がかなり濃厚になる。
 もちろん一般視聴者もバカではないから、見え見えの閣議決定支持番組を作ったりはしない。第一、そういう指示が何らかの筋からあったとしても、「分かりました。そういう番組にします」などと権力に尻尾を振る人間集団ではNHKはないはずだ、と信じたい。が、番組制作の責任者であるプロジューサーは違う。少なくとも、この番組については権力と相当程度癒着して制作されたと考えざるを得ない。
 歴史が作られていく過程で、メディアがしばしば国民に対して加害者になるのは、先の大戦のときだけではない、という証左である。(続く)