小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

共産党が国民から嫌われる、これだけの理由。

2021-11-15 05:49:10 | Weblog
【緊急追記】共産党・穀田国対委員長が共産党の革命理念を否定した
12月1日、共産党の大幹部であり、テレビにもたびたび出演している穀田国対委員長が、記者会見で共産党の革命理念を否定する発言をしたようだ。
本文でも明らかにするが、日本共産党は【二段階革命論】を革命理念としている。第1段階の革命が『民主主義革命』で「日本共産党の綱領は、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破を実現する民主主義革命」と『しんぶん赤旗』に明記している。つまり、日本共産党は、「現在の日本は民主主義の国ではない」と規定しているのだ。
が、穀田氏の記者会見を報じた2日の朝日新聞朝刊は『共産・穀田氏「同じ立命大」 泉氏と同窓アピール』という記事タイトルでこう報じた。

共産党の穀田恵二・国会対策委員長(74)は1日の記者会見で、立憲民主党の泉健太新代表(47)に対して「私と同じ立命館大学の先輩後輩。良き同窓としてつながりが持てればいい」などと述べ、祝意を示した。泉氏が共産との「野党共闘」のあり方について見直す方針を掲げるなか、「同窓」をアピールして秋波を送った。
穀田氏はさらに同大出身者として共産の市田忠義副委員長(78)を挙げ、同大出身者には教学理念の「平和と民主主義」が「共通する土台」としてあるなどと解説。そのうえで「これからも今の自公政治を変えるためにともに力を尽くしていきたい」と続けた。

つまり朝日の記事が誤報でなければ、穀田氏は日本共産党の革命理念に反して、日本は「民主主義の国」であることを認めてしまったことになる。朝日の記者に直接確認はできないため、共産党本部(中央委員会)に電話で確認した上で、「事実ならば除名まではすべきではないが、穀田氏の立場から自己批判は必要だと思う」と伝えたところ、「平和と民主主義の国を目指すと言ったことが、そんなに悪いことですか」と反論された。
もし共産党中央委員会の認識がそうであるならば、朝日新聞が誤報をしたことになり、朝日に対して抗議と記事訂正を要求すべきだし、朝日の記事が正確だったならば穀田氏は少なくとも『しんぶん赤旗』で自己批判し頭を丸めるくらいの必要がある。
なぜなら、共産党の志位委員長は立憲との「共闘」継続について「公党と公党の約束」を堅持することを何度も要求している。一方、共産党綱領は共産党のアイデンティティであり、公党間の約束以上に重要な国民との約束だ。その約束を党の大幹部が反故にしてしまった発言を容認するようであったら、もはや共産党は「公党」とは言えないだろう。(12月3日)



いまさら、と言われるかもしれないが、なぜ立憲・共産を中軸にした野党「共闘」が総選挙で敗れたのか(なお立憲は「共闘とは一度も言っていない」と主張しているが、共産は正式に「共闘」と位置付けている)。
私自身は4年前に立憲に吹いた風は「希望の党」から排除された枝野新党に対する「判官びいき」の風に過ぎなかったと思っているし、4年前に立党の精神として掲げた「永田町の数合わせの論理には与しない」という枝野スローガンを降ろすのであれば、責任政党としての説明責任があるはずだと、選挙期間中に何度も立憲本部に申し入れてきたが、最後の最後まで説明責任は果たされなかった。その結果、小選挙区では議席数を多少増やすことに成功したものの、政党に対する支持基準である比例で大幅に議席数を減らすことになった。
一方、立憲と「共闘」した共産は小選挙区では沖縄1区で議席を維持したが、比例では11議席から2議席減らして9議席になった。比例の得票率も前回の7.90%から7.25%へと0.65ポイント減少した。共産はなぜ国民から嫌われるのか、その原因を探ってみた。

●『民主主義革命』を標榜する共産党が、国政選挙をボイコットしない不思議
実はこの選挙期間中だけでなく、共産党支持者からも、というより共産党員からもしばしば聞くのだが「共産党の党名を変えた方がいい」という声がかなり大きいのだ。とくに高齢の党員や支持者から、そういう声を聞く。
むかしの「トラック部隊」や「暴力革命主義」のイメージが党名にべったりついているかもしれないが、党名だけ変えても中身が変わらなければ「赤ずきんちゃん」でしかない。
たとえば、今回総選挙で共産党はどういう公約で闘ったか。党中央委員会幹部会の総括声明(11月1日)にはこうある。
「選挙戦でわが党は、コロナから国民の命と暮らしを守る政策的提案、自公政治からの「4つのチェンジ」――①新自由主義を終わらせ、命・暮らし最優先の政治、②気候危機を打開する「2030戦略」、③ジェンダー平等の日本、④憲法9条を生かした平和外交――を訴えぬきました。どの訴えも、国民の利益にかない、声が届いたところでは、共感を広げました」
4番目の「憲法9条を生かした平和外交」を除けば、どれをとっても自民の公約と大きな差異を感じない。一般に国民が抱いている共産党のイメージからはかなりかけ離れていると言えよう。なぜか。
実は共産党が党名を変えないのは、もちろん最終的に目指しているのが「共産主義革命」だからではある。
ところが不思議なのは、その前段階として「民主主義革命」が必要と考えている(「二段階革命」論)ことである。だから、今回の総選挙でも、どの政党とも代わり映えのしない公約を掲げており、そうした公約は実現そのものが目的ではなく、「民主主義革命」のための手段でしかないということなのだ。
つまり共産党は「いまの日本は民主主義国家ではない」という認識に立っているようなのだ。
民主主義とは選挙によって民意を反映する制度を意味する。だから共産圏の国でも表面上は民主主義を否定していない。中国でもいちおう中国共産党以外の政党を認めているし(ただし、共産党以外の政党から選挙に出馬しようとすると様々な妨害があるようだが)、北朝鮮に至っては正式国名(朝鮮民主主義人民共和国)でも「民主主義」をうたっているくらいだ。
ただ、いわゆる「民主国家」においても民意を反映するための選挙制度はまちまちであり、日本の場合は衆院選挙は小選挙区比例代表並立制で、立候補者は小選挙区と比例代表の重複立候補が認められている。が、参院選挙のほうは選挙区と比例区の重複立候補は禁止されており、選挙制度そのものに矛盾がある。いずれにせよ、共産党が「日本は民意を反映する仕組みの選挙制度ではない」と主張するのであれば、国政選挙をボイコットするのが筋のはず、と私は思っている。

●共産党が目指す「民主主義革命」とは~
実は共産党員や支持者の多くも、「日本は民主主義の国ではないか。なぜ民主主義革命が必要なのか」という疑問を抱いている。そうした疑問に正面から答えたのが「しんぶん赤旗」である(2007年12月13日)。

日本共産党の綱領は、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破とを実現する民主主義革命が、「労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって実現される」こと、「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる」ことを明らかにしています。

ふつう選挙によって政権が交代することは「革命」とは呼ばない。共産党が主張したい「革命」とは「権力構造の変革」と考えられるが、それが武力の行使や威嚇によらず選挙によって行われたら、その新しい権力はつねに選挙の洗礼を受けなければならない。ふつう「革命」とは永続的な政治権力構造の変革を意味し、もし共産党が現在の選挙制度の下で「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占める」ことができたとしても「安定した」権力を維持するには選挙制度そのものを中国や北朝鮮の様に非民主的なものに変える必要が生じる。
たとえ共産党が主張する民主主義革命の目的が「異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」にあったとしても、そうした政権交代が実現し、しかも「共産党と統一戦線の勢力が国会で安定した勢力」を維持するために選挙制度を非民主化したりすれば、当然そうした権力に対する国民の怒りを背景に「反革命」の動きが生じる。彼ら「反革命」勢力は軍隊(自衛隊)や警察組織などの国家暴力組織を擁しており、なまじ中途半端な「平和的手段」による革命を実現したら、かえって壊滅的な打撃を受けることは必至だ。
単なる政権交代であれば、かつての野合政権・細川内閣や野合政党の民主党政権のような一時的なものだったら自民党も国家暴力組織である自衛隊や警察権力を発動して政権転覆をはかろうなどとはしないが、仮に共産党が目指すような政権交代が実現し、しかもその勢力の安定した維持を図ろうとしたら間違いなく自民党は国家暴力組織の発動をいとわない。
つまり共産党が第1段階として目指す「民主主義革命」とは「共産党と統一戦線が国会で安定した過半数を占める」ために民主的な選挙制度を破壊することにあるとしか、文理的には解釈できないのだ。
さらに問題なのは、共産党が「民主主義革命」の次に「共産主義革命」を目指していることだ。共産党が夢見る「民主連合政府」が「国会で安定した過半数」を占めることができたとして、では次に段階の「共産主義革命」では「民主連合政府」から共産党以外の「民主勢力」をすべて排除して共産党の独裁政権を構築することを意味する。それ以外に第2段階の「共産主義革命」の目的についての文理的解釈はありえない。つまり第1段階の革命目標である、共産党の勝手解釈による「民主主義」すら否定しようというのが、「共産主義革命」の目的ということになる。
そんなこと、自民党が国家暴力組織を動員するまでもなく、民主的な選挙で共産党は国民から排除される。少なくとも、日本は自由と民主主義が保証されている国であり、共産党も自由に活動できている。共産党だけが自由に活動できる社会を、国民が民主的と考えるわけがない。確かに私も「異常な対米従属」の状態に日本があるとは思っているが、私も含めて日本国民の大多数はアメリカとの友好関係を破壊したいとは思っていない。共産党は「異常な対米従属」から脱した日本の外交的立ち位置をどうしようと考えているのか、それが見えないから国民の多くは「親米」から「親中」に移行しようとしているのではないかという疑念を抱いている。共産党はしばしば「中立」を重視するが、日本の地政学的地位の中で、完全「中立」という選択肢はありえない。共産党は「中立」的外交の立ち位置について明確に共産党の考えを示すべきだ。

●マルクスが間違えた「土地は根源的生産手段」学説
共産主義思想の教祖・マルクスは『ゴータ綱領批判』で、社会主義・共産主義への過渡期においてはプロレタリアによる独裁が必要だと主張している。
「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期がある。 この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない」
実はこの規定は「反革命勢力」の暴力組織に対抗するためには労働者階級が軍事力を含むあらゆる権力を奪取する必要があると考えての規定だったが、実質的には労働者階級の指導団体による独裁につながるという批判が当初からあった。とくにロシア革命を実現したレーニンがプロレタリア独裁を公式に革命政権の権力規定としたことに対してトロツキーは「代行主義だ」と批判した。
が、レーニン死後、スターリンらとの権力闘争に敗れてトロツキーは亡命、国外からスターリン批判を続けたが最後は暗殺される。
実はマルクスが【プロレタリア独裁=共産党独裁】と考えていたかどうかは不明である。マルクスは共産主義思想の教祖と位置付けられているが、私はアダム・スミスの資本主義市場経済に対する社会主義計画経済の提唱者としてみている。
もちろん政治思想家としても共産主義の教祖としての地位は揺るがないことは承知の上だが、そういう面での思想は欠陥だらけである。たとえば『剰余価値学説史』という大部の著書でマルクスは、「根源的生産手段である土地は私有を認めるべきではない」と主張し、この思想が共産圏ではバイブルとなり、中国も北朝鮮も土地は国有化している。
が、マルクスがこの定義で前提にした土地とは当時黎明期にあった資本主義社会で工業立地の土地のことであり、例えば住居の立地である土地は根源的消費手段であり(マルクスが杉田水脈のように子供を作ることが「生産活動」と考えていた場合は別だが~。ただ、その場合でも生殖活動が不可能な子供や高齢者にとっては土地は根源的消費手段でしかない)、また工業生産でも「消費を伴わない生産活動」はありえないし、人の手が入らない荒れ地や山岳地帯の土地は生産手段にも消費手段にもなりえない。
土地についての定義もさることながら、ひとが行う生産活動(ただし「生殖活動」は除く)は何らかの付加価値を生まなければ生産活動を行う意味そのものがないし、生産活動の発展もありえず、その「付加価値」を「剰余価値」と解釈して、だから資本家による「搾取」としたのも明らかに間違いである。
実際の経済は、いまは中国も市場経済を導入しており、資本主義国も社会主義的「計画経済」を取り入れている。日本でいえば需要の減少に伴い農家を保護しながら供給量を計画的に削減した「減反政策」など、典型的な社会主義政策そのものである。つまり「現代資本主義」も「現代社会主義」も事実上「混合経済」であり、市場経済のメリットと計画経済のメリットをうまく融合させた国が経済も成長するし国民生活も豊かになると、私は考えている。

●「プロレタリア独裁」論が共産党独裁政治の理論的基礎
マルクス自身は労働者や市民による権力奪取が資本家や貴族、大地主などの武力を伴った「反革命」によって圧殺された経緯(例えば「フランス革命」)から、革命勢力は政治権力を掌握するだけでなく軍事力も含めた絶対的権力を掌握する必要があると考えたようだが、絶対的権力を掌握した後、どう民主主義制度に移行していくべきかのプロセスについてはいっさい指針を出していない。むしろ新しい政治権力である共産党の独裁支配につながらざるを得ない「社会主義社会」「共産主義社会」についての定義を、やはり『ゴータ綱領批判』で行ってしまったのだ。マルクスとしては、取り返しのつかない大失敗であった。マルクスは「ゴート綱領批判」で社会主義社会、共産主義者下における「生産と分配」の関係を、こう定義している。
「社会主義社会においては、人々は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」
「共産主義社会においては、人々は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」
話がちょっとずれるが、日米貿易摩擦の後、アメリカに進出した自動車メーカーやコンピュータメーカーの「アメリカにおける日本型経営」の実態を取材するため私が訪米したとき、現地の日本人経営者や幹部から日米の雇用関係の違いから生じる「人材育成のむずかしさ」をいやというほど聞かされた。アメリカでは人事権を直属の上司(ボス)が握っているため、自分より能力がある部下に絶対的忠誠を求める習性があるというのである。そのため能力のある部下が自分に逆らおうとしたら、たちまち有能な部下をクビにしてしまう。もちろん、その上司にも上司がいるわけだから、孫部下の能力を高く評価した場合は直属の部下をクビにして孫部下を出世させることもしばしばある。どこかの国の人事制度とそっくりではないか。
この訪米取材が先だったか、映画が先だったかは覚えていないが、マイケル・ダグラスの主演映画『ディスクロージャー』を彷彿させるケースがままあるというのだ。映画のストーリーをウィキペディアから引用する。

シアトルのハイテク企業の重役トム・サンダース(マイケル・ダグラス)は、今までの業績から昇進はほぼ確実と思われていた。だが、そのポストに就いたのは彼ではなく、本社から新たにやってきた女性メレディス・ジョンソン(デミ・ムーア)だった。実は彼女とトムは10年前に激しく愛し合った仲で、彼はこの事実に衝撃を受けるのだった。その夜、メレディスのオフィスに呼び出されたトムは、次第に彼女に誘惑されていくが、彼はこの誘いを拒否し、その場を去るのだった。しかし、次の朝、事態は急変してしまう。なんと彼がメレディスに対して、セクハラを行ったという訴えがあがっていたのだ。しかも、この訴えを起こしたのは、他でもないメレディス自身だった。会社での高いポストと、女性という立場を利用した彼女の攻撃によって、トムは仕事も家庭を失いそうになる。

ハリウッド映画らしく、その後ドンデン返しがあるのだが、実は資本主義の権化のようなアメリカでの上下関係は、共産圏の権力機構における上下関係とそっくりなのだ。直属の上司に逆らったら「おしまい」という封建時代を思わせるような人事権の「鉄のピラミッド」規律がアメリカでも共産圏でも構築されているのだ。日本共産党でも、「野坂→宮本→不破→志位」というピラミッドの頂点が絶対崩れない仕組みはマルクスがつくってしまったと言える。その理論的根拠はマルクスの「社会主義社会」「共産主義社会」における「生産と分配」の定義に集約されているからだ。
確かに「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」とか「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という「生産と分配」の制度そのものは、もし本当に公平に実現されるのであれば理想的であることは私も認めないわけではない。共産主義社会における「必要に応じて受け取る」は別とすれば、「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」制度は資本主義社会における企業経営者にとってもきわめて合理的であり理想的な制度といえる。
だいいち、アメリカ型「同一労働同一賃金」の「生産と分配」のルールは、多民族国家だったからこそ自然に構築されたものと言える。

●「成果主義賃金制度」には含まれていなかった「同一労働同一賃金」
2014年5月、安倍内閣(当時)はアベノミクスの「第3の矢」である「成長戦略」の柱として「成果主義賃金制度」の導入を打ち出した。
当時、OECDの中でも日本の労働生産性の低さが指摘されており、無意味な長時間労働が社会問題にもなっていた。で、政府の諮問機関「産業競争力会議」(議長・安倍総理)が「労働時間ではなく、労働の成果に応じた報酬制度の確立」を提案したのである。このときはまだ、「同一労働同一賃金」は諮問に含まれておらず、野党やメディアの多くは「残業代ゼロ政策」だと批判していた。私は同月21日から3日連続のブログ『残業代ゼロ政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか』でこう書いた。
「私は基本的に、その方針については賛成である。が、どうして安倍総理はいつも方針(あるいは政策)が中途半端なのだろうか。総理の頭が悪いのか、それとも取り巻きのブレーンの頭が悪いのか。あっ、両方か…」(※当時はまだ3日連続でブログを書く体力があった。いまは見る影もないが~)
大企業で成果主義賃金制度を初めて導入したのは1983年の富士通である。その後、成果主義賃金制度を導入する企業が増え始めたが、バブル崩壊によって「能力の高い従業員に、能力に見合った仕事を与え、その成果に応じて報酬を払う」という意味合いが次第に薄れ、人件費の抑制手段として企業が導入するケースが増えだした。そのため厚労省は2008年の『労働経済白書』で「企業の対応は人件費抑制的な視点に傾きがちで、労働者の満足度は長期的に低下傾向にある」と指摘したほどだ。

実は私がサラリーマンだった時代、従業員300人ほどの中小企業だったが、労働組合の初代委員長をして体を壊し(休職期間中の賃金は無税で会社が支給してくれた)、復帰後、新設の社長室(室長は社長の義弟に当たる常務)に配属されたことがある。27,8歳のころだったと思う。
そこで新商品開発プロジェクトのチェックや広告宣伝、人事や労務など、やりたいことは何でもやらせてもらった。今から考えると自分でも無茶をやったなと思うが、消耗部品の価格改定を一人で勝手にやり、数10ページにわたる価格表を勝手に印刷作成までしたことがある。いま実はつくづく思うのだが、個人としてはプリンターの使用度が非常に多い方だと思うが、消耗部品はインクである。メーカーは同一品番のインクの価格は上げにくいためか、次々にたいして機能や性能がアップするわけでもないのにプリンターの新製品を発売する。目的は消耗部品であるインクをそのたびに実質値上げすることにある。で、私は「そういうことを続けると、長い目で消費者(顧客は一般消費者ではなく工場だったが)の信頼を失う」と考え、同じ性能・機能の消耗部品の値段を統一してしまったのだ。社長にも誰にも相談せず勝手にやってしまったが、結果的にはユーザーから「これから安心して新製品に乗り換えることができる」という声が殺到し、社長から褒められたことがある。
そんな無茶をやってきた私だが、労組との賃金交渉を私が今度は会社側で行うことになった。さすがに独断で賃金交渉をまとめるわけにはいかず、社長と相談しながら交渉をまとめたが、このとき私が社長を説得して「賃上げ額については労組にできるだけ歩み寄る代償として能力主義賃金体系への移行」を労組に呑ませた。事務職や営業職が大半の本社は問題なかったが、工場の従業員の反発が大きく、交渉は難航したが、「賃金を下げることはしないし、ベースアップは維持する」という約束をして何とか交渉をまとめた。
実は、そこから先が問題だった。私は完全能力主義賃金体系を目指していたので、年齢や学歴、性別、勤続年数で自動的に決まる基本給制度を廃止し、役職手当以外の諸手当(職務に伴う諸手当・扶養手当・住宅手当・通勤手当なども含む)を本給に一本化して廃止することにした。つまり属人的要素をすべて廃止してしまうことが目的だった。
が、ここで大きな壁にぶつかった。日本では通勤手当が非課税なのだ。その一方、住宅手当は課税対象の所得になっている。ちょっと考えればすぐわかることなのだが、会社(都心にあることを前提)への通勤時間と通勤費、住宅費は逆比例の関係にある。
簡単に言えば、会社への通勤時間が30分程度の近距離に住居を構えた場合、住居費(基本的に家賃)は高くなるが、通勤費は安い。住宅手当は一律であり、通勤手当は実額である。しかも片道通勤に1時間以上かけて出社する従業員と30分で出社できる従業員の労働効率は明らかに差が出る。企業側のコストとして考えたら、会社に近いところに住居を構えてくれた従業員に対する属人的コストは安くなるし労働生産性も上がる。そうした賃金制度を導入するための税制上の大きな壁が日本にはあるのだ。
我が国労働基準法では賃金は基準内賃金と基準外賃金に区別されている。基準内賃金とは労働の対価となる賃金で残業代計算の基礎となる賃金のこと。労基法によれば「家族手当、通勤手当、その他厚労省令に定める賃金(住宅手当など)が基準外賃金に当たり、残業代の対象にならない。
私はそこで考えた。いっそ、通勤手当を一律化してしまおうと思ったのだ。通勤手当が課税対象所得に含まれるのであれば問題ないのだが、そういう方法をとると従業員に不利益になる。で、とことこ所轄の税務署に出かけて行って、税務署長と直談判した。さすがに、20代の若造が簡単に署長に会えるわけがないので、社長にアポは取ってもらった。税務署長は私の考えに真剣に耳は傾けてくれ、その合理性は認めてくれたが、通勤手当の一律支給は認めるわけには絶対に行かないとの回答。ここで私の完全能力主義賃金体系移行へのチャレンジは終わりを告げた。
アメリカの賃金体系や所得税制がどうなのかまでは私も調べようがないが、自己責任が基本のアメリカではおそらく属人的要素の基本給や諸手当はないのではないかと思う。

●成果主義賃金制で安倍晋三はマルクス主義者に転向したのか~
ちょっと私事に及びすぎた。本論に戻す。
 マルクスの社会主義社会における「生産と分配」についての定義――「人は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」。アダム・スミスやケインズもNOと言わないだろう、この定義。
が、問題は例えば、このブログを読んでくださっている方の「能力」は自分で決められますか? また自分の労働の成果に対する報酬額(働きに応じて受け取る報酬)も、あなたが自分で決めることができますか?
こうしてマルクス主義「生産と分配」方式の矛盾が爆発したのが、旧ソ連のコルホーズ(集団農業)・ソホーズ(国営農業)であり、中国の人民公社(集団農業)だった。いずれも土地の個人所有は認められなかったから、「同一(時間)労働同一賃金」制を導入したため、汗水流して一生懸命働いても、ダラダラ働いているマネをしても同じ賃金だから、労働生産性が上がるわけがない。まだ旧ソ連や中国が職業や地位に関係なく、すべて「同一労働時間同一賃金」制だったら、理想と現実が乖離したとしても、徹底した思想教育によって「労働の価値は職業・職種・地位によらず同一時間同一賃金」を徹底すれば、ひょっとしたら労働意欲が報酬目的ではなく「自己実現」にあるという考えが国民に浸透し、マルクスが本当は目指したのかもしれない公平平等な社会が実現できた可能性がないとは言えない。
たとえば習近平自身が、貧農とまでは言わないが、せめて中農や都市の平均的サラリーマン給与水準の報酬しかとらなければ、中国は発展しえない途上国として、高度な文化的生活は無理としても白黒テレビくらいは全家庭に普及する程度の生活水準に全国民が等しく達していただろうと思う。結局、マルクスが目指した社会とはそういう社会にならざるを得ないということだ。
日本共産党は、党職員の給与をマルクスの定義に応じた「時間単位一律性」を採用しているか。たとえば志位委員長の時間当たり賃金と、党本部で働いている職員の時間当たり賃金を同一にしているか。
そうではなく、「働きに応じて」が労働の成果に応じてと解釈するなら、安倍の「成果主義賃金制」と基本的な考えは変わらないということになる。むしろ「安倍総理はマルクス主義的賃金体系への転換を始めた」と高く評価すべきだった。そうでなければ共産党内の給与格差の理由の説明がつかない。
だから共産党は、「いや安倍晋三がマルクス主義的賃金制度を採用したのだ」というのであれば、「残業代ゼロ政策」は支持しなければ矛盾が生じる。例えば同じ仕事でも100の労働成果を上げるのに、Aは8時間労働で終わらせ、Bは10時間かかったとする。「同一労働同一賃金」とはAとBが働いた時間ではなく、同じ成果を上げた結果に対する対価として同一賃金にする制度だと私は考えている。だから安倍が「成果主義賃金制」を国会に持ち出した時、私は賃金体系を「欧米型同一労働同一賃金」に改めるべきだと主張したのだ。
その後、安倍は2020年3月、成果主義賃金制を「高度プロフェッショナル制度」に改め、「働き方改革」と称して「同一労働同一賃金」をベースにした「年俸制」賃金制度を導入した。ただし適用職種は高度に専門的知識を必要とし、労働の成果を労働時間を基準にするのが困難な職種(金融関係の専門職、アナリスト、コンサルタント、研究開発など)に限定した。
が、もっと重要なのは、日本型雇用・賃金体系である年功序列型(ベースアップや定期昇給)や封建時代の家族雇用形態を色濃く残した基準外賃金(家族手当・住宅手当・通勤手当)などを基本的に廃止し、純粋に労働力の対価としての賃金制度に移行するべきだった。そのためには労働基準法の抜本的改正や所得税法の改定も必要になる。そういう部分に目をつぶった、中途半端な改定にとどまったと言わざるを得ない。

●共産党が国民から警戒される本当の理由
実は国政選挙においても地方選挙においても共産党が掲げる公約・政策はかなりリベラルで、正直、私も支持できる要素が多い。
最近、特に今年9月の自民党総裁選以降、誤った理解に基づく「リベラル攻撃」がネトウヨなどから執拗に行われ、国民の意識に【リベラル=革新=左翼】というイメージがかなり浸透してしまった。
実はアメリカでも過去、【共和党=保守】【民主党=リベラル】という図式化されたイメージが形成され、共和党陣営から「民主党はリベラルだ」とレッテル張りが行われて民主党が劣勢に立たされた時期がある。
が、本来の「リベラル」は「自由主義」の代名詞であり、人々の個性や自由な発想を重視する思想で、左翼思想ではない。だから人によって「自分は保守リベラルだ」とか「革新リベラルだ」と立ち位置を明確にしているケースもあるし、私自身に関していえば「ど真ん中のリベラル」を標榜している。が、私の考え方は右寄りの人から見れば「左」に、左寄りの人から見れば「右」に見えるようだ。とくに安全保障問題に関していえば、ひとによっては「極右よりさらに右寄り」と見えるような主張もしてきた。例えば20年8月14日の『終戦から75年、私たちはあの戦争から何を学んだのか?』と題する2万字を超えるブログでは「日米安保条約を片務的なものから双務的なものに変え、日本もアメリカ防衛の義務を果たすためにアメリカに自衛隊基地をつくり、基地協定も結ばせるべきだ」と極右団体も目を回しそうな主張すらしている。実際、日本政府がアメリカにそう主張したら、アメリカが国内に自衛隊基地の設置を認めるわけがないし、そうなれば在日米軍基地の目的が日本防衛のためではなく、実はアメリカの東南アジア覇権のための軍事拠点としての意味の方が大きいことも明々白々になる。
共産党も「基地反対」は主張するが、基地問題の真相を浮き彫りにしない限り、日本は対米従属から脱して真の独立国家としての矜持ある外交を行うことが不可能だということを証明できないから、主張が「スローガン止まり」に終わり、実効性を伴う運動体を形成することができない。
私は自衛隊を「国際災害救援隊」に改組することが、現代の国際社会状況下では最大の「安全保障策」になると考えているが、共産党の「非武装中立」論は空理空論でしかないとも考えている。現に、「永世中立国」のスイスは国民皆徴兵性・国民皆武装で国を守っており、ただ「永世中立」を宣言しただけで軍事的防衛力を保持しなかったヨーロッパの小国が過去、他国に蹂躙された歴史的事実も無視しているからだ。
国民の多くは、共産党のリベラルな主張の部分についてはおそらく支持できる要素を感じていると思うが、そうしたリベラルな主張が共産党の場合「赤ずきんちゃん」ではないかとかえって警戒されるのは、最終的には共産党の独裁権力をつくろうとしているのではないかという危惧を捨てきれないからだ。
 共産党が、独裁政権を意味する「共産主義革命」路線を放棄しない限り、共産党が多くの国民の支持を得ることは不可能と思われる。


財務省・矢野事務次官の「国家財政破綻」論を論理的に検証した。

2021-11-02 08:23:47 | Weblog
【緊急追記】 岸田政府はアベノミクス離れを始めたのか? 日銀・黒田は?(10日)
米FRB(アメリカの中央銀行、日本の日銀に相当)が景気過熱を懸念して金融引き締めを模索しているなかで、依然としてマイナス金利政策と続ける日銀・黒田総裁。本来、アメリカが金融引き締め(政策金利の上昇)すれば日米の金利差が大きくなるため一段と円安が加速するはずなのだが、逆に先週から急速な円高に向かいつつある。なお10月下旬、円は1ドル=114円台後半と3年11か月ぶりの安値に下落している。
日本経済新聞のネット配信(9日)によれば、日銀・黒田東彦総裁と岸田新内閣の鈴木俊一財務相のあいだに為替相場についての認識のずれが生じ始めたようだ。果たして岸田総理の「新しい資本主義」(新自由主義からの脱皮?)が、円安誘導を政府と日銀が二人三脚で進めてきたアベノミクス金融政策からの転換を始めたのだろうか~。
ただ、二人の記者会見の日時に若干のずれがある。そのことを前提に二人の認識を日経即は維新から引用する。

黒田(10月28日)「現時点で、若干の円安だが、悪い円安ということはない。むしろ、輸出への影響や海外子会社の収益の増加などを通じてプラスの効果がある。総合的に見てプラスであることは確実だ。
鈴木(11月2日)「私の発言が至上への影響を与えてはいけないので、足元の為替水準などについてコメントは差し控えたい。為替が安定することが重要。為替市場の動向をしっかり注視していきたい」

なお日経配信では不明だが、アベノミクスによる円安誘導で自動車や電機など輸出産業の収益は大幅に良化したが、輸出の量的拡大はどうだったのか。その検証は本文で行ったが(数字的裏付けが不十分であることは認める)、任天堂やソニーなどゲーム機メーカーは輸出増大と円安によるダブル・プレゼントにありつけたと思うが、それらの一部輸出商品以外は輸出の量的拡大はほとんどなかったのではないか。
アメリカの前大統領・トランプ氏は鉄鋼・アルミ製品や自動車の輸入に高率関税をかけて国内産業の競争力回復を目指したが、GMは5工場(うちカナダが1工場)を閉鎖して生産量を縮小した。輸入部品が高騰したせいもあるが、アメリカの自動車マーケット自体が縮小しつつあるためと考えられる。
先進国や発展途上国は軒並み人口減少時代に突入しているうえ、自動車や家電製品のマーケットは飽和状態に達し、買い替え需要にマーケットは限定されつつある。
しかも、これらの製品は技術革新によって買い替えサイクルの寿命が延び、日本では若い人たちの自動車離れも生じている。需要が伸びないのに円安誘導で自動車や電気製品の国際競争力を回復させようとしても、メーカーはおいそれと設備投資をして生産拡大に走ろうとはせず、むしろ輸出価格を据え置いて生産量を維持し、為替差益だけちゃっかりため込むという戦略に出たのではないか。
その一方、円安は輸入製品の価格上昇によって消費者物価は高騰するはずなのだが、輸入品が為替相場を反映すると消費者の購買意欲を冷え込ませるだけということもあって、海外ブランド品などは輸出ダンピングに走り消費者物価はほとんど上昇しなかった。かつてプラザ合意で日独英仏がドル安協調介入を行い、わずか2年間で円は倍に上昇したが、海外ブランド品は日本への輸出価格をほとんど引き下げなかった。そのとき海外ブランドメーカーは「日本では価格が高いことがステータス・シンボルになり、価格を下げるとかえって売れなくなる」という奇妙な論理でがっぽり為替差益を稼いだ。
日本政府は一貫して大企業の育成を経済成長の基本政策にしてきたが、そういう時代は終焉しつつあるのではないか。岸田政府の「新しい資本主義」経済政策が「ものづくり」至上主義からの脱皮による新しい市場価値の創造に向かうのかどうかが今後問われていく。


矢野康治・財務事務次官が月刊誌『文藝春秋』(11月号)に寄稿した論文『財務次官、モノ申す「このままでは国家財政が破綻する」』が話題を呼んでいる。「よくぞ警鐘を鳴らしてくれた」と高く評価する人がいる一方、MMT(現代貨幣理論)論者とみられる人たちからは「自国通貨を発行できる国は財政破綻しない」という批判も多く寄せられている。
財務次官という立場にある人が自論を一般雑誌に寄稿することの是非は置いておいて、外野席からこの問題を論理的に考えてみた。日本人は「権威」とやらに弱く、経済学の権威でも何でもない私の問題提起など見向きもされないかもしれないが、それはそれで構わない。知識に頼るのではなく、論理思考を武器にすれば、これだけの論陣を張れる。

●「新自由主義」というおかしな用語
いきなりだが、ちょっと本題から外れる。
岸田氏が自民党総裁選に臨んだとき、「小泉政権以来の新自由主義からの脱皮」というスローガンを掲げた。確かに新自由主義(新保守主義とも)という言葉は定着して使われているが、私はずって用語法として間違っていると思っていた。この言葉から受けるイメージは思想的であって、経済政策の用語としては不適切だからだ。私は「新自由競争主義」とするべきと考えている。で、私の用語を使って以下、書く。
資本主義経済原理を初めて体系化したのはアダム・スミスである。スミスの思想は「自由放任主義」とも言われ、経済活動に対する政府の関与は可能な限り小さくして「(神の)見えざる手」に委ねるべきだというもの。需要が供給を上回ればインフレになるし、逆に供給が需要を上回ればデフレになる。市場原理に任せておけば、自然にバランスが取れるようになるという超楽観主義の経済思想だ。言うなら、この思想が「古典的自由競争主義」である。
が、実際の市場はそれほど冷静ではない。需給関係は政府がコントロールすべきと主張したのがマルクスの計画経済論。経済活動の自由度を完全否定した(ここでは政治思想としてのマルクス主義は問わない)。
このマルクスの経済思想を資本主義経済理論に取り込んだのが、実はケインズ理論である。スミスの「振り子の原理」的経済政策では競争が行き過ぎる欠陥がある(デフレ不況や悪性インフレ、スタグフレーションの要因の一つ)ため、とくに不況時には政府が公共工事など財政出動して雇用を確保し、需給バランスを調整するという考えだ。
実はケインズ理論は不況対策としての経済政策論だが、マクロ経済理論としてはたぶん誰も主張した人はいないようだが(私の不勉強のせいで私が知らないだけかもしれない)、巨大な資本投下が必要な大規模交通インフラ(鉄道や道路など)や通信インフラ、電力インフラ、上下水道などの生活インフラは一民間企業の手におえるものではなく、政府が主導するケースが資本主義国でも多い。言うなら「国家独占資本主義形態」と言えなくもない。そして高度に発展した先進国では、この「親方日の丸」体質の温存が経営の非効率化を生み、「新自由競争主義」の考えが生まれる。つまり民営化理論である。
その走りは英サッチャーと言われているが(サッチャリズム)、実は鄧小平の「改革開放」政策(1978~)の方が一歩早かった。「富める者から先に富み、そのお裾分けを広げる」という、計画経済から市場経済へと大きく舵を切った経済政策である。なんと岸田総理の「成長の果実を分配に」「成長と分配の好循環」とそっくりな経済政策ではないか。
サッチャーが国営企業だった水道、電気、ガス、通信、鉄道、航空などを数年かけて次々に民営化し、いわゆる「英国病」を脱し、民間活力を経済政策の軸足にしたのは1979年以降だ。日本では中曽根康弘(元総理)が1985~87にかけて日本専売公社、電電公社、国鉄を次々に民営化して経営の効率化を進めたのが「新自由競争主義」の幕開けである。そういう意味では岸田総理の「小泉政権以来の」という歴史認識は完全な間違い。
ついでに小泉「郵政民営化」は結果的に大失敗だった。

●小泉「郵政民営化」はなぜ日本郵便の詐欺商法を生んだのか~
小泉郵政改革が実現したのは2007年。郵便事業がすべて民営化され、持ち株会社の日本郵政のもとに日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命の子会社3社が発足した。もともと銀行業務や生保業務は民間と激しく競争していたから民営化による特段のメリットが生まれるわけではない。むしろ民営化したことで、利用者からすると安心感が失われた分、競争力が低下したはずだ。
問題は郵便事業である。小泉内閣は民間企業の参入についてユニバーサル・サービスを義務付けるなど、かなり厳しい参入条件を付けた。そのため民間からの参入はなかった。ゆいつヤマト運輸がコンビニを郵便局代わりに使うというアイデアで参入したが(メール便)、配達でトラブルが頻発した。ネット・オークションで一番扱いが多い商品券や株主優待券、割引券などの金券類の発送にメール便を利用する出品者が急増したのである。普通郵便の場合、発送記録がないため発送記録が残り配送追跡も可能なメール便は出品者にとって極めて便利な発送手段になったのだ。
が、金券類の発送に出品者が薄い茶封筒を使うなど、1円でも儲けようという心理が働くのか、郵便局の責任者に聞いたところでは封筒の手触りだけで中身がほぼわかるというのだ。そのうえ、ヤマトの配達人(ヤマト運輸の社員ではなく請負の個人事業者)は都市部にしか存在しない。過疎地への配達は郵便局に丸投げしているようだ。
そういうこともあって金券類の未着トラブルが頻発し、ヤマト運輸はメール便事業から手を引かざるを得なくなった。結局、はがきや手紙などの郵便物の独占状態に変化は生じず、民間活力を生かすという小泉構想は看板倒れというか、「絵に描いた餅」に終わってしまった。銀行業務や生保業務はもともと民間との激しい競争下にあったから。
それだけに止まっていれば、大きな問題にはならなかったが、日本郵便にとってとんでもない競争相手が異次元の世界から登場した。携帯電話(スマホ)である。日本ではすでに1999年にNTTドコモがiモードを発売、携帯電話によるインタネット接続が可能になっていたが、通話料金が高いなどの問題で広く普及するまでには至らなかった。
が、郵政民営化の翌年08年にアップルのiPhoneが日本上陸を果たし、グーグルがアンドロイド・スマホで参入、NTTドコモだけでなくKDDIのauやソフトバンクも携帯市場に参入、大手3社の通信帯を借りる格安スマホ会社が乱立、楽天も自前で基地局を持つ第4の携帯大手に名乗りを上げるなど、はがきや手紙に代わる手段としてメールが台頭するようになった。その結果、郵便物市場が縮小し、郵便局の多くが赤字経営に陥った。
郵便物の集配事業は典型的な労働集約型産業であり、事業収益は人件費のピンハネに依存するしかない。が、労働集約型産業の人件費は3K労働ということもあって高騰し続けた。一方、はがきや手紙の料金は監督官庁の総務省に抑え込まれ、扱い量もメールの普及によって減少の一途をたどる。人手不足を理由に宅配料金は数年前、大幅に値上げされたが、はがきや手紙の料金は値上げを総務省が認めなかった。バカか~
そういう状況下で、日本郵便が赤字の穴埋めとしてかんぽ商品を、特に高齢者向けに「オレオレ詐欺」まがいの商法に走ったのは、別に肯定するわけではないが、やむを得ない「正当防衛」手段だったと言えなくもない。
少なくとも郵便事業を民営化するのであれば、経営の自由度も高めてやらないと、手足を縛って「さあ、相撲を取れ」と言うに等しいと言わざるを得ない。固定電話料金みたいに距離制料金制度にするわけにもいかないのだから、はがき代や切手代の値上げや、大都市以外の集配制度の自由度を認めるとかしないと経営が成り立たなくなるのは当たり前だ。具体的方法としては人口密度に応じて地域ごとに集配を週に1~5回に区分けすることができれば、全国2万4395局もある郵便局(簡易郵便局4241局を含む)を統廃合によって半分以下に縮小できるだろう(郵便局数は17年度末)。
現に、中曽根・国鉄民営化ではJRにかなりの経営自由度を認めた。過疎地の赤字路線の撤廃や第3セクター化などで黒字経営体質への移行を容認した。それに比べれば小泉・郵政民営化は極端な言い方をすれば「角を矯めて牛を殺す」ような改革だった。

●「新自由主義競争主義」からの脱皮政策で真っ先に行うべきこと
岸田総理が「小泉内閣以来の~」と中曽根・民営化路線と切り離してスローガン化したのは、たぶん日本郵便の経営の自由度を容認するつもりではないかと思っているが、それ以外にどうしても実現してもらいたいことがある。
その一つはパソコンとスマホの共通化である。私は高齢で細かい字が読みづらくなって来たため、新聞などの活字媒体はほとんど読まない。デジタル新聞は購読しているが、スマホでも読めないことはないが、文字をかなり拡大する必要があり、そうなると読みづらくて仕方がない。しかも私のブログはかなり長文だし、書いているのはブログだけではないからスマホで長文の文章を入力するのは自殺行為になってしまう。そのため私はスマホをほぼ「かけ放題」の電話機としてしか使っていない。だからデータ容量は最低の0.5ギガにして基本料金を抑えてはいるが、それでもパソコンとスマホのプロバイダー料を別々に支払っている。なんとなくバカバカしい思いがしてならない。
私が考えているのは、イメージとして昔のワープロとスマホをUSBケーブルでつなぐような方法だ。つまり、インターネットへのアクセスはスマホで行い、その画面はパソコンのディスプレーで見る。つまりスマホで取り込んだ映像をパソコンの大画面で見る。その逆に入力作業はパソコンで行い(パソコン用キーボードを使う)、パソコン画面で推敲してからデータをスマホに移して発信する。パソコンにかかる電話回線使用料やプロバイダ料、Wi-Fiレンタル料などが一切不要になる。その程度のこと、大げさな技術革新など必要ないと思うが…。
次にスマホの6G時代に向けて民間携帯会社が別々に基地局を設置するといった無駄な投資をやめて、政府が一元的に基地局を全国に網羅してプラットホーム・ビジネス化する。つまり一つの基地局網を携帯各社が平等・公平に利用できるようにする。たとえば地デジテレビ放送用のスカイツリーのようなイメージで考えてほしい。テレビ電波の場合は放送各局に電波帯域を割り当てざるを得ないが、スマホ用の場合は携帯電話事業者に電波帯域を割り当てる必要はまったくない。基地局をプラットホーム化すれば、携帯料金は大幅に安くなる。携帯事業者もいろいろなプランを考えて公平な競争条件を活用できるようになる。例えば電気料金のように、夜料金と昼料金に分けることも出来るし、もっときめ細かく時間帯によって使用できるデータ容量を変動制にしたりする会社も現れそうだ。
とくにインフラ事業は民間に丸投げすることだけが効率化するとは限らない。インフラは官が設置し、その運用は民間に委ねることも考えていい。プラットホーム基地局についていえば、官が一元的に設置した後は、JR方式のように全国を6~8くらいの地域別に運営を民間企業に任せてサービス競争させることも考えられる。「新自由競争主義」からの脱皮という以上、官でなければ不可能な巨大インフラ投資は官が行った方が効率的なケースもあるということだ。

●PB(プライマリー・バランス)は緊縮財政の代名詞ではない
そろそろ本論に戻る。矢野次官は論文でこう主張している。
「今の日本の状況を喩えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです。氷山(債務)はすでに巨大なのに、この山をさらに大きくしながら航海を続けているのです。タイタニック号は衝突直前まで氷山の存在に気づきませんでしたが、日本は債務の山の存在にはずいぶん前から気づいています。ただ、霧に包まれているせいで、いつ目の前に現れるかがわからない。そのため衝突を回避しようとする緊張感が緩んでいるのです」
 日本政府が抱える債務の巨大さを氷山にたとえるのは多少違和感がある。私の感覚では東日本大震災の前夜の状況と言いたい。08年、国の研究機関は調査・研究の結果として、東電に対し「福島第1原発には15メートル超の巨大津波が押し寄せるリスク」を警告していた。もちろん、そのリスクがいつ現実化するかは誰にもわからない。東電はリスクを承知していながら対策を先延ばしにしてきて、そして09年3月11日を迎えた。
矢野論文は3.11リスクの警告を発したもの、と私は理解している。矢野次官は論文の冒頭で、「やむに已まれぬ気持ち」をこう吐露している。
「最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。数十兆円もの大規模な経済対策が謳われ、一方では、財政収支黒字化の凍結が訴えられ、さらには消費税率の引き下げまでが提案されている。まるで国庫には、無尽蔵にお金があるかのような話ばかりが聞こえてきます」(中略)「私は、国家公務員は『心あるモノ言う犬』であらねばと思っています。昨年、脱炭素技術の研究・開発基金を1兆円から2兆円にせよという菅前首相に対して、私が『2兆円にするにしても、赤字国債によってではなく、地球温暖化対策税を充てるべき』と食い下がろうとしたところ、厳しくお叱りを受け一蹴されたと新聞に書かれたことがありました。あれは実際に起きた事実ですが、どんなに小さなことでも、違うとか、よりよい方途があると思う話は相手が政治家の先生でも、役所の上司であっても、はっきり言うようにしてきました。『不偏不党』――これは、全ての国家公務員が就職する際に、宣誓書に書かせられる言葉です。財務省も霞が関全体も、そうした有意な忠犬の集まりでなければなりません」(中略)「財務省は、公文書改ざん問題を起こした役所でもあります。世にも恥ずべき不祥事まで巻き起こして、『どの口が言う』とお叱りを受けるかもしれません。私自身、調査に当たった責任者であり、あの恥辱を忘れたことはありません。猛省の上にも猛省を重ね、常に謙虚に、自己検証しつつ、その上で『勇気をもって意見具申』せねばならない。それを怠り、ためらうのは保身であり、己が傷つくのが嫌だからであり、私心が公を思う心に優ってしまっているからだと思います。私たち公僕は一切の偏りを排して、日本のために真にどうあるべきかを考えて任に当たらねばなりません」
私は涙もろいせいもあるが、涙失くして読めなかった。現在、国の長期債務は973兆円、地方の債務を合わせると1166兆円に達している。コロナ対策費がどんどん出ていく今年度末の債務残高は確実に1200兆円を超えるとみられている。これは国の借金である。国債には償還期限があり、期限が来ると返さなければならない。
「いや、国債の償還分を新たな国債の発行で賄えばいい。日本は自国通貨をいくらでも発行できるから、いくら国債を発行してもデフォルト(財政破綻)に陥る心配はない」という反論も実際に生じている。本当にそうか。
が、こうした考え方が徐々に日本のマクロ経済学者の間でも広まりつつある。MMT(現代貨幣理論)という新マクロ経済論だが、簡単に言ってしまえば「自転車操業財政論」である。そんな自転車操業が永遠に続くとは、MMT論者も主張しておらず、「インフレが悪化し始めたら国債発行を止めればいい」と言うが、ではそのとき未償還の国債はどうする。まさか「徳政令」や「棄捐令」を発令して借金をチャラにしろなどと無茶は言うまい。
PB(プライマリー・バランス)主義は別に緊縮財政の代名詞ではなく、財政の健全化つまり「入るを図りて出を制す」という健全財政論である。

●MMT(現代貨幣理論)の欺瞞性を暴く
MMTの主な主張は次の3点からなる。
1. 自国通貨を発行できる政府は財政赤字を拡大しても債務不履行にはならない。
2. ただし、政府は過度のインフレが生じない範囲に財政赤字をとどめよ。
3. 税は財源ではなく、通貨を流通させる仕組みである。
いずれも従来の経済学の常識を根底から覆すようなショッキングな説である。この説に正当性があるならば、私たちは年金問題に苦しむ必要はないことになる。いま日本だけでなく世界の先進国や途上国の一部は人類がかつて経験したことがない「少子高齢化」と「人口減少問題」に直面している。
実は「少子化」と「高齢化」はまったく別の現象で、たまたま同時期に生じた「二つ玉低気圧」のような現象である。少子化とは合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の数)が人口維持の基準とされている2.1を下回る現象。日本の場合、1.36(19年)と、基準をはるかに下回っている。一方、高齢化は高齢者の健康志向や生活様式(食生活も含む)、医療技術の進歩などによって平均寿命が延び、少子化と重なって人口構成に占める高齢者比率が高まっている現象。一般に全人口に占める65歳以上の高齢者比率が7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」、21%を超えると「超高齢社会」と区分けされているようだが、日本の場合、すでに高齢化率は28.4%(19年)に達しており、25年には30%、60年には40%に達するとみられている。
で、当然ながら年金問題が浮上した。従来、年金制度は現役世代の平均賃金や物価の変動に応じて支給額を調整することを原則としていたが、少子化による現役世代(生産人口=労働人口)が減少し、高齢者の年金制度を支えきれなくなってきた。で、年金制度を維持することを目的に導入されたのが「マクロ経済スライド」方式。計算方式はややこしいので説明を省くが、要するに年金制度を維持するために現役世代が負担できる範囲に支給額をとどめようという仕組み。言うなら年金制度のPB版というわけだ。
もしPBを無視していくらでも赤字国債を発行できるのなら、別に現役世代の年金負担を増やさなくても従来の年金支給制度を維持できるはず。なぜMMT論者は年金制度のマクロ経済スライド方式に噛み付かないのか~
そもそもMMTの根本的間違いは、「自国通貨の発行権」は政府ではなく中央銀行が持っていることを無視して、中央銀行を政府機関と思い込んでいることにある。日本の場合、確かに貨幣の製造は財務省造幣局が行っているが、財務省(政府機関)が勝手に貨幣を発行できるわけではない。たまたま日本の場合、日銀の黒田総裁が安倍氏と二人三脚で消費者物価2%上昇を目指し、そのために大胆な金融緩和策(「黒田バズーカ砲」の異名が付けられた)を発動してきたため、いつまでも無制限に日銀が赤字国債を買い入れることができると錯覚した経済学者たちが多かっただけのこと。
次に「悪性インフレになったら赤字国債の発行をストップすればいい」という手前勝手な主張だが、すでに述べたように既発行の国債は期限が来たら償還しなければならない。現に今でも歳出の22%強は既発赤字国債の償還に充てられている。
もちろんその償還が税収から行われているのであれば、いつかは国の債務は解消する。が、実際には赤字国債の償還のための原資は、新たな赤字国債の発行によって賄われているのが現実であり、しかも償還分だけでなく更なる積極財政の名のもとに発行額がどんどん増えていっている。
矢野次官はそういう状態を「ワニの口」にたとえる。ワニの口は「<字型」に開いている。「ワニの口は塞がなければならない」という小見出しを付けてこう説明する。
「歳出と歳入(税収)の推移を示した2つの折れ線グラフは、私が平成10年ころに“ワニの口”と省内で俗称したのが始まりですが、その後、四半世紀ほど経ってもなお、『開いた口がふさがらない』状態が延々と続いています」。つまり歳入と歳出の差が<字型にどんどん開く一方になっていっている(国の借金が増え続けていること)と言うのだ。「ですから『経済成長だけで財政健全化』できれば、それに越したことはありませんが、それは夢物語であり幻想です」「これまでリーマン・ショック、東日本大震災、コロナ禍と十数年に2度も3度も大きな国難に見舞われたのですから、『平時は黒字にして、有事に備える』という良識と危機意識を国民全体が共有する必要があり、歳出・歳入両面の構造的な改革が不可欠です」
矢野次官の「財政健全化」論は言うなら「財政安保」論と言い換えてもいいと思う。我が国自衛隊は、平時は自然災害などへの対応で済むが、万が一の有事への備えが本来の目的である。日本政府は「経済成長」を旗印に赤字国債を乱発しているが、いつまでも「自転車操業」ができるわけではなく、既発国債を償還できなくなれば、たちまち国家財政はデフォルト(債務不履行=財政破綻)に陥る。MMT論者は赤字国債の発行をストップしたとたん既発国債の償還が不可能になるという冷酷な現実が分かっているのか~。
最後に「税収は財源ではなく、通貨を流通させる仕組み」というおかしな定義について。まったく意味不明である。税収は歳入の基本であり、社会福祉や公共サービスなどに費消される。しかし個人や企業は収入のすべてを税金として国や地方自治体に収めているわけではない。そういう考え方がないではないが、その場合は国が国民生活や企業の生産活動に必要な金を税収から分配しなければならない。マルクス思想に近いが、MMTは先進資本主義国を前提にしている。であれば、「通貨を流通させる仕組み」は個人や企業が税金を納めた残りの可処分所得を決済手段として使うためのものだ。結果的に税収は社会福祉や公共サービスに費消されるから、税金としての通貨による歳入は、その費消手段でもあるが、それは結果解釈の一部に過ぎない。
それに、サウジアラビア、クウェート、カタール、ドバイ、バーレーン、オマーンなど中東の産油国には個人所得税がない国もある。そういう国では、MMTによれば通貨は流通しないことになる。奇をてらっての新定義かは知らぬが、MMTは説明すべきだ。
まだある。貨幣(通貨)には国内では売買の決済手段としての機能を持つが、自国通貨の交換価値は為替相場で決められるという事実をMMTはまったく無視している。つまり変動相場制のもとでは通貨は「商品」として売買の対象になっており、「円」の商品価値が為替市場で暴落したら、そのとき日本財政は東日本大震災に直撃されることになる(矢野氏に言わせれば氷山への激突)。前もってその兆候が分かれば手の打ちようもあるかもしれないが、1929年の世界大恐慌にしても、最近のケースではギリシャのデフォルトにしても予兆なんか何もなかった。ある朝、突然生じるのである。バブルの崩壊は一瞬ではなかったが、デフォルトは一瞬にして生じる。円に対する信用が為替市場で失われた瞬間、投資ファンドが一斉に円を売り浴びせ収拾がつかなくなる。為替市場では「通貨は決済手段ではなく取引対象の商品(ただし使用価値のない商品)」であり、現実社会における通貨の交換価値を決定的に左右しているという事実にMMTは完全に目を背けている。

●もはや経済成長の時代は終焉した。
失われた30年のきっかけとなったバブル崩壊は、不動産バブルを一気に弾けさせるため大蔵省(当時)が「総量規制」によって銀行の無謀とも言える不動産関連融資に歯止めをかけ、日銀はバブル経済を支えた澄田総裁のもとでの金融緩和を一気に引き締めに転じるという、「軟着陸」ではなく「強制胴体着陸」を行ったことでバブルを一気に弾かせた。自称「経済評論家」の佐高信氏は金融政策を転換した日銀・三重野総裁を「平成の鬼平」と持ち上げたが、その評価についての説明責任はいまだ果たしていない。
以降、一時的なミニ・バブルがIT関連で生じたこともあったが、ほぼ日本経済は停滞状態が続いている。安倍元総理はアベノミクスの成果の一つとして株価上昇を挙げたが、官製相場による効果といった方が正確だ。日銀が景気浮揚策の一環として株式や投信を大量購入し、年金機構も日銀・官製相場に便乗して株式市場で資金運用を強めた結果の株価上昇だからだ。だから日銀も年金機構も帳簿上では含み益が巨大化しているが、現実に利益として確定するには所有している株式や投信を売却しなければならない。
あまりにも大量に保有しすぎているため日銀や年金機構が直接株式市場で保有株や投信を一部でも売却すると雪崩現象のような暴落が生じかねない。それを防ぐためには場外で第3者に少しずつ保有株や投信を譲渡し、第3者が株式市場で売却するという手法を取るしかないだろう。
それはともかく、政府が赤字国債を大量に発行し、日銀が「いくらでも買う」と言っていながら金利が上昇しない。中央銀行が民間の金融機関に資金を貸し出す際の政策金利(日本では公定歩合と呼ぶ)とは別に、市場で売買される長期国債の価格変動による長短市中金利がある。すでに欧米先進国ではコロナ禍後の経済復興を見越して市中金利は少しずつ上昇しており、アメリカの中央銀行FRBのパウエル議長も政策金利の上昇を視野に入れつつある。が、日本の黒田・日銀総裁は金利引き上げなど眼中にないかのようだ。10月28日も定例の記者会見で黒田総裁は金融緩和を続けると発表した。アホか~
が、日銀がいくら金融緩和策を継続しても資金需要は生じない。すでに民間にはお金がだぶついている。コロナ禍で職を失った非正規社員や営業不振に陥った飲食業や旅行関連産業には資金需要があるが、日本の金融機関はよく言われるように「晴れの日に傘を貸したがり、雨が降り出すと傘を取り上げる」という「ユダヤの商人」根性をしっかり持っているから、資金需要がある先への融資基準はかなり厳しい。
結果として内部留保で資金がだぶついている大企業や富裕層には資金需要がないから、日銀が政策金利を引き上げたら金融機関への預貯金が殺到し、中小金融機関の経営が行き詰まってしまう。
そもそも安倍政権時代、何とかデフレ不況から脱却して経済を再び成長路線に戻そうと、日銀・黒田総裁と二人三脚で金融緩和をしたが、一向に消費者物価は上昇しない。安倍政権下で消費税を5%上昇させたにもかかわらず、消費者物価は増税分すら上昇していない。少なくともアベノミクスではデフレ脱却は不可能だったことがもはや歴然としている。
日本ではGDP(国内総生産)の55~60%は個人消費が占めるとされている。が、少子高齢化で消費活動の中核となるべき現役世代の消費志向がいま完全に萎えているのだ。
前回のブログで書いたが、金融庁が19年6月、夫65歳、妻60歳で年金生活に入った場合、年金収入だけでは生活資金が不足するという試算を公表した。不足額は月5.5万円として余命20年の場合は1320万円、余命30年の場合は1980万円の貯えが必要というのが試算結果だった。いわゆる「老後生活2000万円」問題だ。
実はこの試算方法そのものがめちゃくちゃなのだが、確かに定年退職後の数年間は現役時代の同僚や友人との交際も続くだろうし、夫婦「水入らず旅行」などで家計の出費は年金収入ではそのくらい不足するかもしれない。が、そんな生活をいつまでも続けられるわけがない。年を重ねるごとに行動範囲も狭くなり、カネを使う機会も減少する。増え続ける医療費を考慮に入れても年々出費は減り続け、個人差はあるにせよ夫75歳、妻70歳前後で家計は黒字化するはずだ。麻生財務相は、金融庁のこの報告の受け取りを拒否したが、現役世代が老後生活のためにますますカネを使わなくなることを恐れてのことだけだ。
ただし金融庁の調査報告は19年6月であり、国民の貯蓄性向はそれより早くから進んでいた。その理由は少子化傾向が明らかになりだしたころから、若い人たちの実感として「将来年金生活に入ったとき、年金だけでは食べていけなくなる」という認識が広まっていったことにある。私も含めて今の高齢者は子供たちに生活の世話になろうとは思っていないし、また子供たちも「遺産なんか残してくれなくてもいいから、私たちを当てにしないでね」とはっきり言う。核家族化の進行とともに親子のきずなもだんだん細くなっていくのはやむを得ないことだ。「老々介護」の悲劇は増すばかりだ。
そのうえ、もっと厳しい問題に日本経済は直面している。岸田氏が自民党総裁選で「宏池会」の生みの親である池田元総理の「所得倍増計画」をもじって「令和版所得倍増計画」をぶち上げたが、自民党内部から「時代環境が違いすぎる」と猛反発を食い、総選挙ではこのアドバルーンを引っ込めてしまった。
日本で貯蓄性向が高まったのは将来への不安だけでなく、消費マインドを刺激するような商品が高度経済成長期以降の約半世紀ほとんど出現していないことにもよる。実際戦後日本の奇跡的な経済回復は、吉田茂氏による「傾斜生産方式」で近代産業力の回復を最優先したことで朝鮮戦争特需にありつけ、「3種の神器」(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)が庶民の消費マインドを刺激、経済成長の原動力になった。さらに「3C」(カー、クーラー、カラーテレビ)が庶民の手が届くようになって消費マインドを刺激し、日本は高度経済成長時代を謳歌した。
さらに重要だったことは当時の所得税制が超累進課税のシャウプ税制により世界で最も所得格差の少ない国になったこともあって、「1億総中流意識」が醸成されて、それが巨大な需要を生み出したことも忘れてはならない。
その高度経済成長時代と比較すると、なぜ日本経済の停滞が生じたのか、目に見えるようだ。従業員の年収は過去30年間ほとんど横ばい状態で、可処分所得が増えない状態が長く続いている。また若い人の大都市集中で、まず自動車が若い人たちの消費マインドを刺激しなくなった。
若者の自動車離れの傾向が明らかになったのは2000年代初頭だが、自動車所有がもはやステータス・シンボルではなくなったこと、自動車は所有するものではなく利用するものという認識が浸透してレンタルやカー・シェア市場が急速に伸びたことが理由の一つと言えるだろう。また大都市部は電車・地下鉄・バスといった公共交通機関インフラが充実し、移動に要する時間が読めない車より公共交通機関の方が移動手段としての利便性の高さに対する認識が広まったことなどがある。
他の電気製品も技術の進歩で耐久年数が伸び、買い替え需要のサイクルも長くなり、それも経済活動の足を引っ張っている。
そう考えていくと、この半世紀の間、新しい市場が生まれたのはテレビ・ゲームと携帯電話くらいしかないのではないか。まさかドローンが家庭に普及するなどと考えるバカはいまい。アベノミクスで円安誘導して自動車や家電製品の国際競争力を回復しても、少子化現象で国内市場の伸びが期待できないため、メーカーはリスクの大きい設備投資にはなかなか踏み切れない。設備投資意欲を刺激しようと政府は躍起になっているが、為替の動向をもろに受ける輸出に大きな期待をかけるのはリスクが大きすぎると、メーカーは二の足を踏まざるを得ない。
さらにメーカーを消極的にさせているのは日本独特の「年功序列・終身雇用」という雇用形態の壁だ。コロナ禍前は派遣社員や定年退職後の再雇用などの非正規社員の占める割合が40%と高くなったが、残りの60%を占める正規社員は日本では簡単に会社都合でのレイオフが難しい。そこがドライな雇用関係の欧米との大きなハンデになっており、政府が与えてくれた程度の飴玉では容易に踊り出すわけにいかないのだ。
具体例で明らかにする。トランプ前大統領がTPPから離脱して保護主義に転じ、自動車や鉄鋼・アルミ製品などに25%という高率関税を課して自国産業保護政策を打ち出したのに、GMは国内4工場を閉鎖、従業員をレイオフした。トランプは「お前たちのために保護政策に転じてやったのに、工場を閉鎖して従業員をレイオフするとは何事か」と怒り狂ったが、GMの1現場作業員からスタートして初代女性CEOに昇り詰めたメアリー・パーラは涼しい顔でこう反論した。
「輸入自動車との競争は有利になりましたが、原材料や部品の輸入価格高騰で生産コストも大幅にアップしました。その分を販売価格に上乗せすると、一般のアメリカ人購買力の限界を超えてしまうため、工場を閉鎖したということです」
実は安倍氏も国内市場の回復の難しさはわかっていたようだ。デフレとかインフレは需要と供給の関係で決まる。民主党政権時代、円高なのになぜデフレ不況になったのか。円高であれば輸入製品価格は下落する。原材料や部品を輸入に頼っているメーカーは生産コストが軽減し、小売価格も安くなってデフレ現象を生じる。消費者にとっては消費マインドが刺激されて需要が喚起されれば、スミスの「(神の)見えざる手」が機能して需給バランスが回復し、デフレ不況からの脱却ができたはず。
ところが、先に述べた理由で国内需要は増えない。そこで安倍氏は円安誘導して自動車や電気製品の国際競争力の回復を図り、それなりに自動車メーカーや電機メーカーは増収増益の決算になった。が、海外市場にも少子化の波が押し寄せており、マーケットの拡大は望めない。だからメーカーは輸出価格をほとんど下げず(輸出価格を下げると需要が急増してリスクの大きい生産増強策を取らざるを得なくなるため)、為替差益をがっぽり貯め込むという戦略に打って出たというわけだ。
その反面、当然ながら円安誘導すれば輸入品の価格は高騰する。当然、庶民の消費マインドは冷え込む。安倍氏は毎年のように経済団体と「官製春闘」を行い、企業もベースアップを復活するなど、正規社員の給与は増やしたが、そのため非正規社員との所得格差はさらに広がった。庶民の消費マインドはますます冷え込み、目標としてきた消費者物価2%上昇は遠のくばかりだ。
そもそも「成長神話」なるものは、浦島太郎の「玉手箱」のようなもの。経済成長できる要素は何ひとつとして、いまはない。そういう時代こそ、絶対手にすることが出ない「成長の果実」を求める「バラマキ」政策をストップして債務残高を減らすべきなのだ。いずれ、市場未開拓のアフリカや中南米の諸国に成長市場が形成されるかもしれない。20年かかるか、30年かかるか、あるいはもっとかかるかもしれないが、それまでは苦難の道を歩み続ける覚悟が政府には必要だ。

小林紀興(のりおき)
TEL 045-902-8372
メール norioki1029@yahoo.co.jp
ブログURL  blog.goo.ne.jp > sawako1029














●小泉「郵政民営化」はなぜ日本郵便の詐欺商法を生んだのか~
小泉郵政改革が実現したのは2007年。郵便事業がすべて民営化され、持ち株会社の日本郵政のもとに日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命の子会社3社が発足した。もともと銀行業務や生保業務は民間と激しく競争していたから民営化による特段のメリットが生まれるわけではない。むしろ民営化したことで、利用者からすると安心感が失われた分、競争力が低下したはずだ。
問題は郵便事業である。小泉内閣は民間企業の参入についてユニバーサル・サービスを義務付けるなど、かなり厳しい参入条件を付けた。そのため民間からの参入はなかった。ゆいつヤマト運輸がコンビニを郵便局代わりに使うというアイデアで参入したが(メール便)、配達でトラブルが頻発した。ネット・オークションで一番扱いが多い商品券や株主優待券、割引券などの金券類の発送にメール便を利用する出品者が急増したのである。普通郵便の場合、発送記録がないため発送記録が残り配送追跡も可能なメール便は出品者にとって極めて便利な発送手段になったのだ。
が、金券類の発送に出品者が薄い茶封筒を使うなど、1円でも儲けようという心理が働くのか、郵便局の責任者に聞いたところでは封筒の手触りだけで中身がほぼわかるというのだ。そのうえ、ヤマトの配達人(ヤマト運輸の社員ではなく請負の個人事業者)は都市部にしか存在しない。過疎地への配達は郵便局に丸投げしているようだ。
そういうこともあって金券類の未着トラブルが頻発し、ヤマト運輸はメール便事業から手を引かざるを得なくなった。結局、はがきや手紙などの郵便物の独占状態に変化は生じず、民間活力を生かすという小泉構想は看板倒れというか、「絵に描いた餅」に終わってしまった。銀行業務や生保業務はもともと民間との激しい競争下にあったから。
それだけに止まっていれば、大きな問題にはならなかったが、日本郵便にとってとんでもない競争相手が異次元の世界から登場した。携帯電話(スマホ)である。日本ではすでに1999年にNTTドコモがiモードを発売、携帯電話によるインタネット接続が可能になっていたが、通話料金が高いなどの問題で広く普及するまでには至らなかった。
が、郵政民営化の翌年08年にアップルのiPhoneが日本上陸を果たし、グーグルがアンドロイド・スマホで参入、NTTドコモだけでなくKDDIのauやソフトバンクも携帯市場に参入、大手3社の通信帯を借りる格安スマホ会社が乱立、楽天も自前で基地局を持つ第4の携帯大手に名乗りを上げるなど、はがきや手紙に代わる手段としてメールが台頭するようになった。その結果、郵便物市場が縮小し、郵便局の多くが赤字経営に陥った。
郵便物の集配事業は典型的な労働集約型産業であり、事業収益は人件費のピンハネに依存するしかない。が、労働集約型産業の人件費は3K労働ということもあって高騰し続けた。一方、はがきや手紙の料金は監督官庁の総務省に抑え込まれ、扱い量もメールの普及によって減少の一途をたどる。人手不足を理由に宅配料金は数年前、大幅に値上げされたが、はがきや手紙の料金は値上げを総務省が認めなかった。バカか~
そういう状況下で、日本郵便が赤字の穴埋めとしてかんぽ商品を、特に高齢者向けに「オレオレ詐欺」まがいの商法に走ったのは、別に肯定するわけではないが、やむを得ない「正当防衛」手段だったと言えなくもない。
少なくとも郵便事業を民営化するのであれば、経営の自由度も高めてやらないと、手足を縛って「さあ、相撲を取れ」と言うに等しいと言わざるを得ない。固定電話料金みたいに距離制料金制度にするわけにもいかないのだから、はがき代や切手代の値上げや、大都市以外の集配制度の自由度を認めるとかしないと経営が成り立たなくなるのは当たり前だ。具体的方法としては人口密度に応じて地域ごとに集配を週に1~5回に区分けすることができれば、全国2万4395局もある郵便局(簡易郵便局4241局を含む)を統廃合によって半分以下に縮小できるだろう(郵便局数は17年度末)。
現に、中曽根・国鉄民営化ではJRにかなりの経営自由度を認めた。過疎地の赤字路線の撤廃や第3セクター化などで黒字経営体質への移行を容認した。それに比べれば小泉・郵政民営化は極端な言い方をすれば「角を矯めて牛を殺す」ような改革だった。

●「新自由主義競争主義」からの脱皮政策で真っ先に行うべきこと
岸田総理が「小泉内閣以来の~」と中曽根・民営化路線と切り離してスローガン化したのは、たぶん日本郵便の経営の自由度を容認するつもりではないかと思っているが、それ以外にどうしても実現してもらいたいことがある。
その一つはパソコンとスマホの共通化である。私は高齢で細かい字が読みづらくなって来たため、新聞などの活字媒体はほとんど読まない。デジタル新聞は購読しているが、スマホでも読めないことはないが、文字をかなり拡大する必要があり、そうなると読みづらくて仕方がない。しかも私のブログはかなり長文だし、書いているのはブログだけではないからスマホで長文の文章を入力するのは自殺行為になってしまう。そのため私はスマホをほぼ「かけ放題」の電話機としてしか使っていない。だからデータ容量は最低の0.5ギガにして基本料金を抑えてはいるが、それでもパソコンとスマホのプロバイダー料を別々に支払っている。なんとなくバカバカしい思いがしてならない。
私が考えているのは、イメージとして昔のワープロとスマホをUSBケーブルでつなぐような方法だ。つまり、インターネットへのアクセスはスマホで行い、その画面はパソコンのディスプレーで見る。つまりスマホで取り込んだ映像をパソコンの大画面で見る。その逆に入力作業はパソコンで行い(パソコン用キーボードを使う)、パソコン画面で推敲してからデータをスマホに移して発信する。パソコンにかかる電話回線使用料やプロバイダ料、Wi-Fiレンタル料などが一切不要になる。その程度のこと、大げさな技術革新など必要ないと思うが…。
次にスマホの6G時代に向けて民間携帯会社が別々に基地局を設置するといった無駄な投資をやめて、政府が一元的に基地局を全国に網羅してプラットホーム・ビジネス化する。つまり一つの基地局網を携帯各社が平等・公平に利用できるようにする。たとえば地デジテレビ放送用のスカイツリーのようなイメージで考えてほしい。テレビ電波の場合は放送各局に電波帯域を割り当てざるを得ないが、スマホ用の場合は携帯電話事業者に電波帯域を割り当てる必要はまったくない。基地局をプラットホーム化すれば、携帯料金は大幅に安くなる。携帯事業者もいろいろなプランを考えて公平な競争条件を活用できるようになる。例えば電気料金のように、夜料金と昼料金に分けることも出来るし、もっときめ細かく時間帯によって使用できるデータ容量を変動制にしたりする会社も現れそうだ。
とくにインフラ事業は民間に丸投げすることだけが効率化するとは限らない。インフラは官が設置し、その運用は民間に委ねることも考えていい。プラットホーム基地局についていえば、官が一元的に設置した後は、JR方式のように全国を6~8くらいの地域別に運営を民間企業に任せてサービス競争させることも考えられる。「新自由競争主義」からの脱皮という以上、官でなければ不可能な巨大インフラ投資は官が行った方が効率的なケースもあるということだ。

●PB(プライマリー・バランス)は緊縮財政の代名詞ではない
そろそろ本論に戻る。矢野次官は論文でこう主張している。
「今の日本の状況を喩えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです。氷山(債務)はすでに巨大なのに、この山をさらに大きくしながら航海を続けているのです。タイタニック号は衝突直前まで氷山の存在に気づきませんでしたが、日本は債務の山の存在にはずいぶん前から気づいています。ただ、霧に包まれているせいで、いつ目の前に現れるかがわからない。そのため衝突を回避しようとする緊張感が緩んでいるのです」
 日本政府が抱える債務の巨大さを氷山にたとえるのは多少違和感がある。私の感覚では東日本大震災の前夜の状況と言いたい。08年、国の研究機関は調査・研究の結果として、東電に対し「福島第1原発には15メートル超の巨大津波が押し寄せるリスク」を警告していた。もちろん、そのリスクがいつ現実化するかは誰にもわからない。東電はリスクを承知していながら対策を先延ばしにしてきて、そして09年3月11日を迎えた。
矢野論文は3.11リスクの警告を発したもの、と私は理解している。矢野次官は論文の冒頭で、「やむに已まれぬ気持ち」をこう吐露している。
「最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。数十兆円もの大規模な経済対策が謳われ、一方では、財政収支黒字化の凍結が訴えられ、さらには消費税率の引き下げまでが提案されている。まるで国庫には、無尽蔵にお金があるかのような話ばかりが聞こえてきます」(中略)「私は、国家公務員は『心あるモノ言う犬』であらねばと思っています。昨年、脱炭素技術の研究・開発基金を1兆円から2兆円にせよという菅前首相に対して、私が『2兆円にするにしても、赤字国債によってではなく、地球温暖化対策税を充てるべき』と食い下がろうとしたところ、厳しくお叱りを受け一蹴されたと新聞に書かれたことがありました。あれは実際に起きた事実ですが、どんなに小さなことでも、違うとか、よりよい方途があると思う話は相手が政治家の先生でも、役所の上司であっても、はっきり言うようにしてきました。『不偏不党』――これは、全ての国家公務員が就職する際に、宣誓書に書かせられる言葉です。財務省も霞が関全体も、そうした有意な忠犬の集まりでなければなりません」(中略)「財務省は、公文書改ざん問題を起こした役所でもあります。世にも恥ずべき不祥事まで巻き起こして、『どの口が言う』とお叱りを受けるかもしれません。私自身、調査に当たった責任者であり、あの恥辱を忘れたことはありません。猛省の上にも猛省を重ね、常に謙虚に、自己検証しつつ、その上で『勇気をもって意見具申』せねばならない。それを怠り、ためらうのは保身であり、己が傷つくのが嫌だからであり、私心が公を思う心に優ってしまっているからだと思います。私たち公僕は一切の偏りを排して、日本のために真にどうあるべきかを考えて任に当たらねばなりません」
私は涙もろいせいもあるが、涙失くして読めなかった。現在、国の長期債務は973兆円、地方の債務を合わせると1166兆円に達している。コロナ対策費がどんどん出ていく今年度末の債務残高は確実に1200兆円を超えるとみられている。これは国の借金である。国債には償還期限があり、期限が来ると返さなければならない。
「いや、国債の償還分を新たな国債の発行で賄えばいい。日本は自国通貨をいくらでも発行できるから、いくら国債を発行してもデフォルト(財政破綻)に陥る心配はない」という反論も実際に生じている。本当にそうか。
が、こうした考え方が徐々に日本のマクロ経済学者の間でも広まりつつある。MMT(現代貨幣理論)という新マクロ経済論だが、簡単に言ってしまえば「自転車操業財政論」である。そんな自転車操業が永遠に続くとは、MMT論者も主張しておらず、「インフレが悪化し始めたら国債発行を止めればいい」と言うが、ではそのとき未償還の国債はどうする。まさか「徳政令」や「棄捐令」を発令して借金をチャラにしろなどと無茶は言うまい。
PB(プライマリー・バランス)主義は別に緊縮財政の代名詞ではなく、財政の健全化つまり「入るを図りて出を制す」という健全財政論である。

●MMT(現代貨幣理論)の欺瞞性を暴く
MMTの主な主張は次の3点からなる。
4. 自国通貨を発行できる政府は財政赤字を拡大しても債務不履行にはならない。
5. ただし、政府は過度のインフレが生じない範囲に財政赤字をとどめよ。
6. 税は財源ではなく、通貨を流通させる仕組みである。
いずれも従来の経済学の常識を根底から覆すようなショッキングな説である。この説に正当性があるならば、私たちは年金問題に苦しむ必要はないことになる。いま日本だけでなく世界の先進国や途上国の一部は人類がかつて経験したことがない「少子高齢化」と「人口減少問題」に直面している。
実は「少子化」と「高齢化」はまったく別の現象で、たまたま同時期に生じた「二つ玉低気圧」のような現象である。少子化とは合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の数)が人口維持の基準とされている2.1を下回る現象。日本の場合、1.36(19年)と、基準をはるかに下回っている。一方、高齢化は高齢者の健康志向や生活様式(食生活も含む)、医療技術の進歩などによって平均寿命が延び、少子化と重なって人口構成に占める高齢者比率が高まっている現象。一般に全人口に占める65歳以上の高齢者比率が7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」、21%を超えると「超高齢社会」と区分けされているようだが、日本の場合、すでに高齢化率は28.4%(19年)に達しており、25年には30%、60年には40%に達するとみられている。
で、当然ながら年金問題が浮上した。従来、年金制度は現役世代の平均賃金や物価の変動に応じて支給額を調整することを原則としていたが、少子化による現役世代(生産人口=労働人口)が減少し、高齢者の年金制度を支えきれなくなってきた。で、年金制度を維持することを目的に導入されたのが「マクロ経済スライド」方式。計算方式はややこしいので説明を省くが、要するに年金制度を維持するために現役世代が負担できる範囲に支給額をとどめようという仕組み。言うなら年金制度のPB版というわけだ。
もしPBを無視していくらでも赤字国債を発行できるのなら、別に現役世代の年金負担を増やさなくても従来の年金支給制度を維持できるはず。なぜMMT論者は年金制度のマクロ経済スライド方式に噛み付かないのか~
そもそもMMTの根本的間違いは、「自国通貨の発行権」は政府ではなく中央銀行が持っていることを無視して、中央銀行を政府機関と思い込んでいることにある。日本の場合、確かに貨幣の製造は財務省造幣局が行っているが、財務省(政府機関)が勝手に貨幣を発行できるわけではない。たまたま日本の場合、日銀の黒田総裁が安倍氏と二人三脚で消費者物価2%上昇を目指し、そのために大胆な金融緩和策(「黒田バズーカ砲」の異名が付けられた)を発動してきたため、いつまでも無制限に日銀が赤字国債を買い入れることができると錯覚した経済学者たちが多かっただけのこと。
次に「悪性インフレになったら赤字国債の発行をストップすればいい」という手前勝手な主張だが、すでに述べたように既発行の国債は期限が来たら償還しなければならない。現に今でも歳出の22%強は既発赤字国債の償還に充てられている。
もちろんその償還が税収から行われているのであれば、いつかは国の債務は解消する。が、実際には赤字国債の償還のための原資は、新たな赤字国債の発行によって賄われているのが現実であり、しかも償還分だけでなく更なる積極財政の名のもとに発行額がどんどん増えていっている。
矢野次官はそういう状態を「ワニの口」にたとえる。ワニの口は「<字型」に開いている。「ワニの口は塞がなければならない」という小見出しを付けてこう説明する。
「歳出と歳入(税収)の推移を示した2つの折れ線グラフは、私が平成10年ころに“ワニの口”と省内で俗称したのが始まりですが、その後、四半世紀ほど経ってもなお、『開いた口がふさがらない』状態が延々と続いています」。つまり歳入と歳出の差が<字型にどんどん開く一方になっていっている(国の借金が増え続けていること)と言うのだ。「ですから『経済成長だけで財政健全化』できれば、それに越したことはありませんが、それは夢物語であり幻想です」「これまでリーマン・ショック、東日本大震災、コロナ禍と十数年に2度も3度も大きな国難に見舞われたのですから、『平時は黒字にして、有事に備える』という良識と危機意識を国民全体が共有する必要があり、歳出・歳入両面の構造的な改革が不可欠です」
矢野次官の「財政健全化」論は言うなら「財政安保」論と言い換えてもいいと思う。我が国自衛隊は、平時は自然災害などへの対応で済むが、万が一の有事への備えが本来の目的である。日本政府は「経済成長」を旗印に赤字国債を乱発しているが、いつまでも「自転車操業」ができるわけではなく、既発国債を償還できなくなれば、たちまち国家財政はデフォルト(債務不履行=財政破綻)に陥る。MMT論者は赤字国債の発行をストップしたとたん既発国債の償還が不可能になるという冷酷な現実が分かっているのか~。
最後に「税収は財源ではなく、通貨を流通させる仕組み」というおかしな定義について。まったく意味不明である。税収は歳入の基本であり、社会福祉や公共サービスなどに費消される。しかし個人や企業は収入のすべてを税金として国や地方自治体に収めているわけではない。そういう考え方がないではないが、その場合は国が国民生活や企業の生産活動に必要な金を税収から分配しなければならない。マルクス思想に近いが、MMTは先進資本主義国を前提にしている。であれば、「通貨を流通させる仕組み」は個人や企業が税金を納めた残りの可処分所得を決済手段として使うためのものだ。結果的に税収は社会福祉や公共サービスに費消されるから、税金としての通貨による歳入は、その費消手段でもあるが、それは結果解釈の一部に過ぎない。
それに、サウジアラビア、クウェート、カタール、ドバイ、バーレーン、オマーンなど中東の産油国には個人所得税がない国もある。そういう国では、MMTによれば通貨は流通しないことになる。奇をてらっての新定義かは知らぬが、MMTは説明すべきだ。
まだある。貨幣(通貨)には国内では売買の決済手段としての機能を持つが、自国通貨の交換価値は為替相場で決められるという事実をMMTはまったく無視している。つまり変動相場制のもとでは通貨は「商品」として売買の対象になっており、「円」の商品価値が為替市場で暴落したら、そのとき日本財政は東日本大震災に直撃されることになる(矢野氏に言わせれば氷山への激突)。前もってその兆候が分かれば手の打ちようもあるかもしれないが、1929年の世界大恐慌にしても、最近のケースではギリシャのデフォルトにしても予兆なんか何もなかった。ある朝、突然生じるのである。バブルの崩壊は一瞬ではなかったが、デフォルトは一瞬にして生じる。円に対する信用が為替市場で失われた瞬間、投資ファンドが一斉に円を売り浴びせ収拾がつかなくなる。為替市場では「通貨は決済手段ではなく取引対象の商品(ただし使用価値のない商品)」であり、現実社会における通貨の交換価値を決定的に左右しているという事実にMMTは完全に目を背けている。

●もはや経済成長の時代は終焉した。
失われた30年のきっかけとなったバブル崩壊は、不動産バブルを一気に弾けさせるため大蔵省(当時)が「総量規制」によって銀行の無謀とも言える不動産関連融資に歯止めをかけ、日銀はバブル経済を支えた澄田総裁のもとでの金融緩和を一気に引き締めに転じるという、「軟着陸」ではなく「強制胴体着陸」を行ったことでバブルを一気に弾かせた。自称「経済評論家」の佐高信氏は金融政策を転換した日銀・三重野総裁を「平成の鬼平」と持ち上げたが、その評価についての説明責任はいまだ果たしていない。
以降、一時的なミニ・バブルがIT関連で生じたこともあったが、ほぼ日本経済は停滞状態が続いている。安倍元総理はアベノミクスの成果の一つとして株価上昇を挙げたが、官製相場による効果といった方が正確だ。日銀が景気浮揚策の一環として株式や投信を大量購入し、年金機構も日銀・官製相場に便乗して株式市場で資金運用を強めた結果の株価上昇だからだ。だから日銀も年金機構も帳簿上では含み益が巨大化しているが、現実に利益として確定するには所有している株式や投信を売却しなければならない。
あまりにも大量に保有しすぎているため日銀や年金機構が直接株式市場で保有株や投信を一部でも売却すると雪崩現象のような暴落が生じかねない。それを防ぐためには場外で第3者に少しずつ保有株や投信を譲渡し、第3者が株式市場で売却するという手法を取るしかないだろう。
それはともかく、政府が赤字国債を大量に発行し、日銀が「いくらでも買う」と言っていながら金利が上昇しない。中央銀行が民間の金融機関に資金を貸し出す際の政策金利(日本では公定歩合と呼ぶ)とは別に、市場で売買される長期国債の価格変動による長短市中金利がある。すでに欧米先進国ではコロナ禍後の経済復興を見越して市中金利は少しずつ上昇しており、アメリカの中央銀行FRBのパウエル議長も政策金利の上昇を視野に入れつつある。が、日本の黒田・日銀総裁は金利引き上げなど眼中にないかのようだ。10月28日も定例の記者会見で黒田総裁は金融緩和を続けると発表した。アホか~
が、日銀がいくら金融緩和策を継続しても資金需要は生じない。すでに民間にはお金がだぶついている。コロナ禍で職を失った非正規社員や営業不振に陥った飲食業や旅行関連産業には資金需要があるが、日本の金融機関はよく言われるように「晴れの日に傘を貸したがり、雨が降り出すと傘を取り上げる」という「ユダヤの商人」根性をしっかり持っているから、資金需要がある先への融資基準はかなり厳しい。
結果として内部留保で資金がだぶついている大企業や富裕層には資金需要がないから、日銀が政策金利を引き上げたら金融機関への預貯金が殺到し、中小金融機関の経営が行き詰まってしまう。
そもそも安倍政権時代、何とかデフレ不況から脱却して経済を再び成長路線に戻そうと、日銀・黒田総裁と二人三脚で金融緩和をしたが、一向に消費者物価は上昇しない。安倍政権下で消費税を5%上昇させたにもかかわらず、消費者物価は増税分すら上昇していない。少なくともアベノミクスではデフレ脱却は不可能だったことがもはや歴然としている。
日本ではGDP(国内総生産)の55~60%は個人消費が占めるとされている。が、少子高齢化で消費活動の中核となるべき現役世代の消費志向がいま完全に萎えているのだ。
前回のブログで書いたが、金融庁が19年6月、夫65歳、妻60歳で年金生活に入った場合、年金収入だけでは生活資金が不足するという試算を公表した。不足額は月5.5万円として余命20年の場合は1320万円、余命30年の場合は1980万円の貯えが必要というのが試算結果だった。いわゆる「老後生活2000万円」問題だ。
実はこの試算方法そのものがめちゃくちゃなのだが、確かに定年退職後の数年間は現役時代の同僚や友人との交際も続くだろうし、夫婦「水入らず旅行」などで家計の出費は年金収入ではそのくらい不足するかもしれない。が、そんな生活をいつまでも続けられるわけがない。年を重ねるごとに行動範囲も狭くなり、カネを使う機会も減少する。増え続ける医療費を考慮に入れても年々出費は減り続け、個人差はあるにせよ夫75歳、妻70歳前後で家計は黒字化するはずだ。麻生財務相は、金融庁のこの報告の受け取りを拒否したが、現役世代が老後生活のためにますますカネを使わなくなることを恐れてのことだけだ。
ただし金融庁の調査報告は19年6月であり、国民の貯蓄性向はそれより早くから進んでいた。その理由は少子化傾向が明らかになりだしたころから、若い人たちの実感として「将来年金生活に入ったとき、年金だけでは食べていけなくなる」という認識が広まっていったことにある。私も含めて今の高齢者は子供たちに生活の世話になろうとは思っていないし、また子供たちも「遺産なんか残してくれなくてもいいから、私たちを当てにしないでね」とはっきり言う。核家族化の進行とともに親子のきずなもだんだん細くなっていくのはやむを得ないことだ。「老々介護」の悲劇は増すばかりだ。
そのうえ、もっと厳しい問題に日本経済は直面している。岸田氏が自民党総裁選で「宏池会」の生みの親である池田元総理の「所得倍増計画」をもじって「令和版所得倍増計画」をぶち上げたが、自民党内部から「時代環境が違いすぎる」と猛反発を食い、総選挙ではこのアドバルーンを引っ込めてしまった。
日本で貯蓄性向が高まったのは将来への不安だけでなく、消費マインドを刺激するような商品が高度経済成長期以降の約半世紀ほとんど出現していないことにもよる。実際戦後日本の奇跡的な経済回復は、吉田茂氏による「傾斜生産方式」で近代産業力の回復を最優先したことで朝鮮戦争特需にありつけ、「3種の神器」(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)が庶民の消費マインドを刺激、経済成長の原動力になった。さらに「3C」(カー、クーラー、カラーテレビ)が庶民の手が届くようになって消費マインドを刺激し、日本は高度経済成長時代を謳歌した。
さらに重要だったことは当時の所得税制が超累進課税のシャウプ税制により世界で最も所得格差の少ない国になったこともあって、「1億総中流意識」が醸成されて、それが巨大な需要を生み出したことも忘れてはならない。
その高度経済成長時代と比較すると、なぜ日本経済の停滞が生じたのか、目に見えるようだ。従業員の年収は過去30年間ほとんど横ばい状態で、可処分所得が増えない状態が長く続いている。また若い人の大都市集中で、まず自動車が若い人たちの消費マインドを刺激しなくなった。
若者の自動車離れの傾向が明らかになったのは2000年代初頭だが、自動車所有がもはやステータス・シンボルではなくなったこと、自動車は所有するものではなく利用するものという認識が浸透してレンタルやカー・シェア市場が急速に伸びたことが理由の一つと言えるだろう。また大都市部は電車・地下鉄・バスといった公共交通機関インフラが充実し、移動に要する時間が読めない車より公共交通機関の方が移動手段としての利便性の高さに対する認識が広まったことなどがある。
他の電気製品も技術の進歩で耐久年数が伸び、買い替え需要のサイクルも長くなり、それも経済活動の足を引っ張っている。
そう考えていくと、この半世紀の間、新しい市場が生まれたのはテレビ・ゲームと携帯電話くらいしかないのではないか。まさかドローンが家庭に普及するなどと考えるバカはいまい。アベノミクスで円安誘導して自動車や家電製品の国際競争力を回復しても、少子化現象で国内市場の伸びが期待できないため、メーカーはリスクの大きい設備投資にはなかなか踏み切れない。設備投資意欲を刺激しようと政府は躍起になっているが、為替の動向をもろに受ける輸出に大きな期待をかけるのはリスクが大きすぎると、メーカーは二の足を踏まざるを得ない。
さらにメーカーを消極的にさせているのは日本独特の「年功序列・終身雇用」という雇用形態の壁だ。コロナ禍前は派遣社員や定年退職後の再雇用などの非正規社員の占める割合が40%と高くなったが、残りの60%を占める正規社員は日本では簡単に会社都合でのレイオフが難しい。そこがドライな雇用関係の欧米との大きなハンデになっており、政府が与えてくれた程度の飴玉では容易に踊り出すわけにいかないのだ。
具体例で明らかにする。トランプ前大統領がTPPから離脱して保護主義に転じ、自動車や鉄鋼・アルミ製品などに25%という高率関税を課して自国産業保護政策を打ち出したのに、GMは国内4工場を閉鎖、従業員をレイオフした。トランプは「お前たちのために保護政策に転じてやったのに、工場を閉鎖して従業員をレイオフするとは何事か」と怒り狂ったが、GMの1現場作業員からスタートして初代女性CEOに昇り詰めたメアリー・パーラは涼しい顔でこう反論した。
「輸入自動車との競争は有利になりましたが、原材料や部品の輸入価格高騰で生産コストも大幅にアップしました。その分を販売価格に上乗せすると、一般のアメリカ人購買力の限界を超えてしまうため、工場を閉鎖したということです」
実は安倍氏も国内市場の回復の難しさはわかっていたようだ。デフレとかインフレは需要と供給の関係で決まる。民主党政権時代、円高なのになぜデフレ不況になったのか。円高であれば輸入製品価格は下落する。原材料や部品を輸入に頼っているメーカーは生産コストが軽減し、小売価格も安くなってデフレ現象を生じる。消費者にとっては消費マインドが刺激されて需要が喚起されれば、スミスの「(神の)見えざる手」が機能して需給バランスが回復し、デフレ不況からの脱却ができたはず。
ところが、先に述べた理由で国内需要は増えない。そこで安倍氏は円安誘導して自動車や電気製品の国際競争力の回復を図り、それなりに自動車メーカーや電機メーカーは増収増益の決算になった。が、海外市場にも少子化の波が押し寄せており、マーケットの拡大は望めない。だからメーカーは輸出価格をほとんど下げず(輸出価格を下げると需要が急増してリスクの大きい生産増強策を取らざるを得なくなるため)、為替差益をがっぽり貯め込むという戦略に打って出たというわけだ。
その反面、当然ながら円安誘導すれば輸入品の価格は高騰する。当然、庶民の消費マインドは冷え込む。安倍氏は毎年のように経済団体と「官製春闘」を行い、企業もベースアップを復活するなど、正規社員の給与は増やしたが、そのため非正規社員との所得格差はさらに広がった。庶民の消費マインドはますます冷え込み、目標としてきた消費者物価2%上昇は遠のくばかりだ。
そもそも「成長神話」なるものは、浦島太郎の「玉手箱」のようなもの。経済成長できる要素は何ひとつとして、いまはない。そういう時代こそ、絶対手にすることが出ない「成長の果実」を求める「バラマキ」政策をストップして債務残高を減らすべきなのだ。いずれ、市場未開拓のアフリカや中南米の諸国に成長市場が形成されるかもしれない。20年かかるか、30年かかるか、あるいはもっとかかるかもしれないが、それまでは苦難の道を歩み続ける覚悟が政府には必要だ。