小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「橋下発言」騒動はようやく収まりつつあるが、残された課題は小さくない。

2013-05-31 06:44:18 | Weblog
 今回の「橋下発言」を巡る騒動は海外にまで大きく発展してしまった。が、橋下氏が外国特派員協会での会見で、沖縄米軍基地司令官に申し入れたことについて、米軍だけでなくアメリカ人すべてを侮辱した行為だったと謝罪して、一応騒動は収まりつつあるようだ。
 だが、大阪市議会では自民、民主、共産の3党が橋下大阪市長に対し問責決議を行う姿勢を見せている。これに対し公明は、問責決議するほどの問題ではないとの立場を明らかにし、問責決議案は否決される見通しとなった。
 しかしこの間、橋下発言を支持する立場からの声は一切出ず、「女性蔑視」「人権無視」といった「ためにする批判」ばかりが大手を振って横行していた。
 橋下発言のどこが「女性蔑視」に当たるのか。
 また橋下発言のどこが「人権無視」に相当するのか。
 具体的な指摘は一切ないし、フェアで論理的な検証も一切行われていない。
 おおよそ見当がつくのは、「売春・買春」を肯定しているかのように受け止められかねない部分を指しているのだろうということだ。だが、橋下氏が沖縄の米軍基地司令官に申し入れたことは、米兵による性犯罪が頻発し、米軍自体が米兵に対し、基地外での飲酒を禁じざるを得ない状況になっている現状に踏まえ、米軍兵士の性欲を発散させる方法として、「日本の法律で認められている範囲での」(※この表現は橋下氏の意図を明確にするため私が付け加えた)風俗営業を「活用」(何度も書いてきたが、この表現には私も違和感を覚える)したらどうか、と申し入れたに過ぎない。
 米軍基地司令官は、橋下氏によれば(25日の日本テレビ系ニュースショーでの発言)「苦笑いを浮かべて、アメリカでは禁止されている」と拒否したようだ。だが、橋下氏は米軍兵士に「買春」を勧めたわけではない。
 言うまでもないが、日本も現在は「売春・買春」は法律で禁止されている。
 日本には「自分のことは棚にあげて」という常套句がある。橋下発言に金切声をあげたアメリカ、韓国、中国の政府要人にこの言葉を、のしをつけて差し上げたい。私は世界の売春・買春事情について詳しくないので、基本的にウィキペディアの記述をベースに、友人たちの体験談を踏まえて簡潔に述べておきたい。より詳しく知りたい方はウィキペディアだけでなくインターネットで調べる方法はいろいろあるのでお調べ願いたい。
 まず近年における売買春の合法化は世界的な流れとなっているようだ。アジアではタイが完全に合法化され、台湾でも合法化が検討されているという。ヨーロッパでは売春が合法である国がほとんどである(ウィキペディアには「欧米では」とあるが、アメリカはネバダ州を除き禁止されている)。ただ売春のあっせん業は違法としている国も多いが、現在はオランダを皮切りにドイツ、オーストラリア、ニュージーランドなどは合法化している。
 問題は従軍慰安婦問題で日本と対立している韓国の事情は知っておく必要がある。いわゆる「河野談話」は、私は事実に基づいていないと思っているからだ。あるいは世界中に誤解をばらまいた稚拙な表現が盛り込まれている、と言い換えてもよい。
 実は韓国は売春大国なのである。韓国では、チケット茶房、ルームサロンなどを通じて売春が行われているという。売春業の規模は2003年時点で24兆ウォン(約2兆4000億円)でGDP比で約4%、20歳以上の韓国女性の25人に1人が娼婦であるという調査結果を韓国の刑事政策研究院は公表した。なお2007年に韓国政府の女性家族部が実施した実態調査では、韓国の風俗営業の経済規模はGDP比で約6%、約27万人が従事している。また外国人女性を騙して入国させ、監禁して売春を強要する事件も生じている。日本の暴力団もそこまではしない。
 こうした状況を無視できないと、韓国政府も2004年に「性売買特別法」を施行したが、このとき約3000人の売春婦がデモを行い「売春させろ」「「職業の自由を守れ」と騒いだという。その後も、取り締まりが強化される旅に売春婦によるデモが続発し、2011年には売春婦による規制緩和を求める大規模なデモがソウルで行われ、裸になった売春婦たちが商店などに火を放ったり自らガソリンをかぶって焼身自殺を図るなど(※結果は不明)の示威行為を外国メディアの前で行ったという事実もある。
 当局による取り締まりが強化された結果、日本やアメリカなど海外への「出稼ぎ売春」(※ビザは観光目的で取得したと思われる)が急増し、韓国政府関係者によると日本で働く売春婦は3万人に達するとされている。またアメリカではロサンゼルス警察当局関係者によると逮捕した売春女性の9割が韓国人であると伝えられている。いうなら韓国は売春輸出大国なのだ。
 こうした現在の状況から考えても、いわゆる従軍慰安婦問題は無実無根であったと考えてもいいのではないか。
 私は関東軍が従軍慰安婦を公募した事実まで否定はしない。が、韓国女性の売春行為に対する考え方の現段階での状況をみると、売春が法的に認められていた当時、大多数の慰安婦は自らの意志で応募したと考える方が論理的ではないかと思う。もちろん、中には関東軍の規律に違反して民家に押し入り強制的に女性を連行して慰安婦にしたケースも少なくはなかったと思う。が、そうした行為は明らかに軍の規律に違反した行為であり、場合によっては部隊の責任者が厳正な処罰をせず黙認したケースもあったのではないかとまでは推測できる。が、規律を非常に重んじていた当時の日本の官憲が、組織的に従軍慰安婦を強制連行したとは到底考えられない。
 もし、軍の規律に違反した兵士が行った違法行為について韓国が日本に国家としての責任を要求する権利があるとすれば、同じく米軍の規律に違反して日本女性をレイプした米軍の沖縄基地に配属されているアメリカ兵士の犯罪行為に対し、日本政府はアメリカに国家としての責任を求める権利が発生することになり、そういう権利が国際的に承認されるということになると、おそらくアメリカは全世界から駐留兵士を引き上げざるをえなくなり(ということは韓国からも米兵は一人もいなくなることを意味する)、世界の平和と安定をかろうじて維持してきた現在の体制が根本から崩壊し、世界中が大混乱に陥ることは目に見えている。それでも韓国は従軍慰安婦問題について、違法行為を行った日本軍兵士ではなく、日本の国家責任を問うというのか。また問えると思っているのか。世界に名だたる売春輸出大国として、さんざん他国に迷惑をかけているのにだ。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の風潮にいつまで日本は屈し続けなければならないのか。
 
 日本が梅雨の時期に入った。梅雨が明ければ、暑い夏が来る。そして8月になれば、毎年の恒例行事化している先の大戦を巡っての論争が再開される。テレビ局も、年末の忠臣蔵ドラマと同じく戦争ドラマを競い合って放映する。
 先の大戦の悲惨さを後世に語り継ぐことは大切なことである。それは、日本だけが同じ過ちを二度と繰り返さないためではなく、二度と世界が同じ過ちを繰り返さないためにも、必要なことだと思う。
 そのためにも、先の大戦とは日本にとってどういう戦争だったのかを、これまでの視点とは別の視点から検証する必要があるのではないかと思う。
 先の大戦は、いったい「侵略戦争」だったのか。それとも「自衛の戦争」だったのか。
 こんなばかばかしい論争が、間もなく戦後68年になろうとしているのに、いまだ延々と続けている。
 私がなぜ「ばかばかしい論争」と断言したのか。
 そもそも0か100かという極論で論争しても、まったく意味がないからである。先の大戦には間違いなく「侵略」的要素もあったし、これまた間違いなく「自衛」的要素もあったからだ。
「侵略戦争」派は侵略的要素だけを強調するし、「自衛戦争」派は自衛的要素だけしか見ない。これでは論争が噛み合うわけがないのは当然である。
 日本には「盗人にも三分の理あり」ということわざがある。このことわざの解釈は一般的なものと違うかもしれないが、私は相手の話にもきちんと耳を傾けたうえで、自分自身の理論武装をしろという意味だと考えることにしている。自分にとって都合のいい事実だけを重視して、都合の悪い事実は無視するか、あるいは「でっち上げだ」と根拠も示さず一方的に否定するような主張は論争相手だけでなく、第三者に対してもまったく説得力を持たないことを知るべきである。
 最近、中国の新聞が「沖縄の領有権は未決着だ」という主張を始めた。私は、その主張にも「盗人にも三分の理あり」という立場をとっている。もともと琉球は独立王朝であり、かつては中国に「従属」的立場をとっていた時期もあるのは紛れもない歴史的事実である。
 また朝鮮はかつて琉球王朝以上に中国に「従属的」立場をとってきたことも紛れもない歴史的事実である。たとえば豊臣秀吉が朝鮮征伐に乗り出した時、朝鮮は中国に助勢を頼み、中国軍の力を借りて日本軍と戦ったことも紛れもない歴史的事実である。中国が沖縄の領有権をうんぬんするならば、より「従属」的関係が深かった韓国・北朝鮮の領有権を国際社会に訴えたらどうか。
 日本としてはそう主張すれば、中国は何も言えなくなるはずだ。と同時に、尖閣諸島の領有権主張も同様に荒唐無稽にすぎないと、国際社会に訴えればいい。中国は自ら墓穴を掘ってしまったことを知るだろう。
 先に述べた「盗人にも三分の理あり」ではないが、戦争や喧嘩(あるいは決闘)にも、戦争(喧嘩あるいは決闘)を仕掛ける側にもそれなりの言い分はある。その典型的な言い分(「口実」といってもいい)の一つに「やらなければやられる(と思った)」というのがある。
 戦争論で有名なのは中国の孫子と旧プロイセン(中世にドイツ騎士団によって建設された王国で、第二次世界大戦後解体された)のクラウゼヴィッツの二人だ。いわゆる「孫子の兵法」は、戦争とは何かという本質論を追求したものではなく、戦争に勝つための戦略・戦術の体系を記述したもので、現代でも日本では経営学理論として読まれるケースが少なくない。孫子に対しクラウゼヴィッツの「戦争論」は、戦争(あるいは決闘)とは何かという本質的定義から始めているのが大きな特徴と言えよう。
 実は私の学生時代、クラウゼヴィッツの『戦争論』がベストセラーになったことがある。とくに新左翼の学生たちがむさぼるように読んだようだ。非常に難解な書で、戦争に勝利するための戦略・戦術論というより哲学書的要素のほうが強かったと記憶している。もちろん純文学ではないから、難解であればあるほど高く評価されるといった意味で世界的評価を得ているわけではない。もっとも最近の芥川賞の受賞作品の傾向を見ると難解な文章よりわかりやすいが新鮮な目線で書かれた作品が選ばれる傾向が強くなっているようだ(私の個人的感想)。
 クラウゼヴィッツが後世まで高く評価されているのは、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」という戦争についての本質を突いた定義にある。この表現自体が難解なので、私なりにわかりやすく再定義してみる。すると、こうなる。
「戦争とは外交手段の最終的形態である」。つまり通常の手段による外交(たとえば首脳会談など)によっては、他国と対立している問題が解決できなくなった時に行使される最後の手段が戦争である、という意味だと私は解釈している。
 この解釈ならだれでも理解できるはずだ。この解釈に基づいて先の大戦を総括すると、日本だけでなく戦争に参加した当事国すべての侵略的要素と自衛的要素が見えてくる。
 そしてこの観点に立てば、先の大戦についての検証は、日本にとっては明治維新を実現した運動(「革命」と呼んでもいい)エネルギーの延長上として位置付けるべき日本の近代化への歩みの必然的なプロセスだったという結論が生まれるはずだ。朝日新聞も読売新聞も昭和の時代をそれ以前の時代と切断して検証作業を行っているが、そうした検証作業から生まれるのは何の歴史的教訓にもならない。
 これまでも何度も書いたので繰り返さないが、明治維新を実現した最大の運動エネルギーだった「攘夷」運動が、いつどういう過程で討幕運動に変質したのか。その検証作業が歴史家たちの間でまだ行われていない。この検証をきちんと行わないと、明治維新によって近代化への道を歩みだした日本が、昭和に入ってから「突然変異」的に軍国主義に傾斜し始めたわけではないことが見えてくるはずだ。
 
 
 
 
 
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これで「橋下発言」問題の終止符を打とうではないか。

2013-05-23 07:46:30 | Weblog
「橋下発言」を女性蔑視といまだに反発している政治家や女性団体がいる。
 その感覚は、少しおかしいのではないだろうか。
 まず性欲は男性だけが持ち、女性は持っていないことを前提に主張しているように聞こえるが、だとしたら、夫にかまってもらえない妻が不倫に走るのはなぜか。女性はそれほど性に関して清廉潔白と言えるのか。
 一般論として言わせてもらえば、男性にも性欲があるし、女性にも性欲がある。人によって強弱の差はあるにしてもだ。
 その性欲を男女関係で発散させる場が皆無の戦場において、兵士の性欲をどうコントロールするかは、橋下氏の言う通り、軍幹部の悩みの種だと思う。確かに沖縄の基地は戦場ではないが、基地内で自分の性欲をコントロールできるのは家族と同居できる一握りの特権階級の軍人たちだけだ。
 沖縄での米軍兵士による性犯罪の多発は、単に性欲のはけ口の問題だけではないことは、すでに私はブログで書いたが、少なくとも現状で米軍兵士の性犯罪を防止する策として風俗営業に従事する女性を「活用」(※橋下氏の表現。私自身はこの表現には違和感を感じるが)するよう、軍司令官に要望したことが、なぜ女性蔑視や人権無視問題になるのか。そういう批判を、私は「ためにする政治的批判」と定義している。
 アメリカの国務省が怒っているという。私が前回のブログを投稿した日のテレビニュースで知った。風俗営業の店で働く女性の大多数は、少なくとも現在は自分の意志で働いている。そういう女性を相手に性欲を解消することがなぜ女性蔑視や人権無視になるのか。買春行為を禁じて、レイプする方が女性蔑視や人権無視にならないと言っているように、私には聞こえる。では売春している風俗業の女性は家族や友人たちに隠す必要がない立派な職業なのか。
 アメリカでも大都市のダウンタウンにはストリートガールと呼ばれる売春婦が大勢いる。日本のような個室付きの風俗営業店が禁止されているから、売春婦は街頭で客を拾う。街頭で直接売春行為をしているわけではないから警察も取り締まれない。それが女性尊重、人権重視のやり方だというのか。
 それならTPPも含め、すべてアメリカの法律を世界中に強制してみたらどうか。アメリカの命令に背く国にはいろいろなタイプの原爆を投下して人体実験を行い、無条件にアメリカの属国になることを強制したらいいではないか。そんなことが許されるならばだ。
 私は前回のブログでも書いたように「橋下発言」を支持しているわけでも同調しているわけでもない。しかし「橋下発言」の言葉尻をとらえて政治問題化する社会的風潮に、民主主義の危機を感じたから、橋下発言を問題視した側の問題点を指摘した。
 みんなの渡辺党首が参院選での選挙協力を解消することにした。どの党とどの党がくっつこうが離れようが、それは自由だが、いったん選挙協力の約束をした以上、まず渡辺氏は橋下氏および石原氏の維新共同代表と3人で話し合い、橋下発言のどこが問題なのか、「橋下発言のこの部分については同意できないから撤回してほしい。それができないなら、これは選挙協力の根幹にかかわる問題だから協力関係を解消せざるを得ない」と、維新に対して協力関係の解消を求めるのが筋ではないか。これでは「ハルノートの要求は到底のめないからと宣戦布告なしに(実際には日本政府はアメリカ大使館の野村・来栖両大使に「宣戦布告を米政府に通告せよ」との暗号電文を送っていたのだが、大使館の馬鹿げた事情で間に合わず、結果的に国際条約違反になってしまったのだが)無防備状態の真珠湾を攻撃してしまった旧日本軍以下のやり方と言われても反論できまい。誤解がないように言っておくが、私はみんなの政策を批判しているのではない。日本の政党の中では、私は一番まともな政策を打ち出していると評価している。
 維新は野合民主と同じような政党としての危うさを持っており、もし政権を担える状況になった時、二人の共同代表の主導権争いが表面化することは避けられない。まだ少数政党だから「小異を捨てて大同につく」などと言っていられるが、政権の座についたらそんなことを言っていたら何も決められない状況になり、民主政権の二の舞になることは必至だ。
 とくにみんなと維新が将来連立政権を作れるような状況になった時、政府として外交上最も重要な歴史認識において、渡辺氏は石原氏より橋下氏に近かったはずだ。ある意味では橋下発言を契機に渡辺氏は維新と歴史認識をすり合わせる好機にすべきだったのではないか。
「宣戦布告なき真珠湾攻撃」と同じようなやり方で一方的に維新との選挙協力を解消したことによって生じた傷は決して小さくない。もしそう遠くない将来、自民政権を倒すチャンスが訪れた時、渡辺氏が橋下発言に子供じみた反発をして一方的に選挙協力を解消したことが、再度手を握ろうとするときの大きな壁になることは必至だ。新人政治家の橋下氏と違って代々政治家の家系で育った熟練政治家の渡辺氏としてはあまりにも軽はずみな行為ではなかったか。
 事のついでにアメリカの歴史的「人権重視」主義の自分勝手さについて書いておく。
 もう大方の日本人は知っているが、日本政府がアメリカの日本大使館に送った暗号電文を解読していた。にもかかわらず、真珠湾に集結していた米艦隊総司令部にそのことを伝えなかった。だから米海軍兵士や真珠湾周辺の住民は退避・避難行動をとらず、被害が拡大した。被害を拡大させることによって反日感情をあおり、自国民の戦意を高揚させるために現地に通報しなかったのだ。そのことを米政府はいまだに米国民に公表していない。だから年配のアメリカ人の多くはいまだに「リメンバー・パールハーバー」の反日感情を持ち続けている。
 すでに何度も書いてきたが、リンカーンはもともとは奴隷解放論者ではなかった。大統領就任演説で(南北戦争が始まったのはその後)リンカーンは「私は奴隷制度を維持する」と表明している。また南北戦争が始まって以降、南部での奴隷黒人の反乱を引き起こすため奴隷解放論者に転向したこと、戦局を有利にするため西部を味方に引き入れる策として徹底的に原住民のインディアンを弾圧し虐殺まで命令したこと。それがアメリカの「人権重視」の原点であることを私たちは忘れてはいけない。
 なお私は反米論者でもない。アメリカから学ぶべきことは多く、とくにフェアであることを重視する国民性は日本にも根付かせるべきだと思っている。そのこともこれまでブログで何度も書いてきた。
 しかし、確かに「橋下発言」は軽はずみな表現も多少あり、揚げ足を取られかねない要素は確かにあった。だが、橋下氏はそうした表現のつたなさについては深く反省しており、今後誤解を招きかねないような発言はしないようにしたいと謝罪もしている。それなのに、いつまでも橋下氏の片言隻語をこれでもかこれでもかと、重箱の隅を突くように問題視し続けるのは、橋下批判を続けることで何らかの政治的意図を達しようという感じが透けて見える。
 蒸し返すようだが、性的欲望は健康で相応の年齢の人間なら男女を問わず持つのは自然である。橋下氏の発言を女性蔑視、人権無視と主張する方たちは、女性は性的欲望を持たず、常に男性の性的欲望の犠牲者になっているとでも言いたいのか。
 だとしたらホストクラブはなぜビジネスとして成り立つのか。女性のよこしまな性的欲望を満たすためにあるのがホストクラブだ。男性は1日に何人もの女性の性的欲望の相手をすることはできない。だから、もてるホストに対する女性たちの争奪戦は想像を絶するものがあるようだ。ベンツやフェラーリなどの高級外車を贈られるのは当たり前という世界だそうだ。そういうホストクラブが存在することを明言すると男性蔑視、人権無視ということになるのか。いつまでも女性は弱者で常に男女の関係においては被害者だという間違った既成概念でものを言わないでほしい。現に性を売り物にしている女性がいるから、そういう女性を「活用」すればレイプという犯罪が減少すると考えた橋下氏の発想は確かに短絡しすぎだと私も思うが、そういう発言を即「女性蔑視」「人権無視」に直結した批判のほうが、私に言わせればはるかに短絡の度を越えている。
 米国務省は、橋下氏の発言の片言隻句をとらえてくだらない非難をするのでなく、沖縄の米軍基地に配属されている米兵の性的モラルの低下を謝罪すべきではないのか。現に相次ぐ米兵の性的犯罪に沖縄米軍基地の幹部自身が頭を抱えており、基地外での飲酒を禁止しているくらいではないか。また橋下発言を受けて米オバマ大統領自身が全米兵士に綱紀粛正を厳命したという。橋下氏の発言の真意を米大統領は理解したということを、米軍兵士の性的モラル低下を証明していると言ってもいいだろう。
 こういうばかばかしい話をいつまでも話題にするマスコミもマスコミだ。もっとも全国紙やNHKはさすがにこの問題に終止符を打ったようだが、民放の日本テレビ系列の人気ニュースショー「ミヤネ屋」(制作は大阪の読売テレビ)がいつまでも面白おかしく橋下氏や渡辺氏のコメントを追いかけるものだから、維新とみんなの関係がますます抜き差しならない状態になってしまった。
 いつまでアベノミクス・マジックが続くかわからないが、本格的な景気回復の見通しがまだ付きかねる中でミニ資産バブルだけが先行しており、アベノミクスの実現に不可欠な内需拡大は今後の課題として残ったままだ。そういう状況の中で自民党支持率だけが高止まり状態になっていて、夏の参院選も自民党の圧勝がすでに予測され始めている。
 本来なら、衆議院議員定数の0増5減法案が事実上成立した後、抜本的な選挙制度改革に入るはずだった自民政権は、私が予測した通り「これで選挙制度改革は終わり」を決め込んでいる。とくに0増5減法案の先行成立を社説で支持した読売新聞や朝日新聞は、「どうした、選挙制度の抜本改革は」と金切声をあげて追及すべきなのに、自民と同様、頬被りしたままだ。特に政策提言が大好きな読売新聞は二大政党政治が定着しているアメリカやイギリスなどの選挙制度を検証し、日本の政情も加味した抜本的選挙制度改革案を提案してもらいたい。日本の議員数は先進国の中では有権者数(国民数?)との比率では少ない方だという調査結果は発表したが、そういう国に政党助成金制度や公設秘書給与の国費負担をはじめ議員特権がどの程度あるのかも調査して公表していただきたい。日本に健全な二大政党制を定着させるには不可欠な作業のはずだ。二大政党制を理想としている読売新聞には当然行うべき責任があるだろう。
 
 
 
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橋下発言なぜ問題になったのか。橋下発言を問題視した側には問題がないのか。

2013-05-17 06:56:14 | Weblog
 橋下徹・日本維新の会共同代表の発言が問題になっている。
 もちろん従軍慰安婦についての発言である。
 確かに歴史的事実としては、間違ったことを言ったわけではない。だが、政治家は事実だからといって、軽々しい発言が許されるわけではない、というイロハのイを橋下氏はまったくご存じないようだ。
 つい最近のブログで「勝てば官軍、負ければ賊軍」の話を書いた。勝者はどんな酷いことをしても咎められることはなく、一方敗者は重箱の隅を突くように有ること無いこと、いつまでも非難される運命にあるのが世の常なのだ。
 ちょっと考えれば、すぐわかることだ。いや、考えなくてもわかることだ。
 たとえばアメリカは、もう戦局が最終的段階に来ていたのに、広島と長崎に原爆を投下した。
 何のためか。
 アメリカは今でも「戦争を早期に終了させるため」「米軍兵士の犠牲を増やさないため」と言い訳しているが、本音は違う。
 日本が降伏してしまうと、原爆の人体実験ができなくなるからだ。だから、日本が降伏する直前に、何が何でも人体実験で原爆の威力を実際に確かめたかったのだ。それが証拠に広島に投下した原爆はウラン型、長崎に投下した原爆はプルトニウム型。つまり二つのタイプの原爆が大都市の壊滅にどの程度の威力を発揮するか、砂漠での地下実験では確かめることができない人体実験を行うのが原爆投下の目的だったのである。そう考えなければ、広島で日本に壊滅的打撃を与えた直後に、わざわざ別のタイプの原爆を長崎に投下した理由の説明がつかない。
 しかし、この世界史的大虐殺人体実験が国際社会から非難されたことはかつてない。アメリカが戦争に勝ったからだ。人体実験の対象にされた日本の政治家も、腹の中ではどう思っているかわからないが、アメリカ政府に面と向かって抗議した人はだれもいない。
 アメリカが戦争で非難されたのは、ベトナム戦争で、ダイオキシンを大量に含んだ枯葉剤散布や、ものすごい高熱で周辺を一瞬で焦土に化したナパーム弾の投下だけである。なぜ枯葉剤散布やナパーム弾投下が問題にされたのか。アメリカが唯一負けた戦争だったからだ。アメリカがベトナム戦争に勝っていれば、うやむやになっていたはずだ。
 しかし負けたため、枯葉剤作戦やナパーム弾作戦が国際的に非難を浴び、以降、枯葉剤作戦は行えなくなり、ナパーム弾作戦も極めて限定された範囲でしか行使できなくなった。極めて限定されたナパーム弾作戦も、まれに投下地点を間違えて少女にやけどを負わせたりすると、たちまち国際的非難を浴びる。
 イギリスが中国に仕掛けたアヘン戦争で、イギリスは国際社会から非難を浴びたことがあるか。もしイギリスが中国に負けていたら、いまでもイギリスは国際社会から非難され続けているだろう。
「勝てば官軍」……勝者はどんなことをしても国際社会から非難を浴びることはない。それが国際社会における政治的原則である。
 一方「負ければ賊軍」……敗者はいつまでも根掘り葉掘り、有ること無いこと非難され続ける。抗弁は許されない。とくに政治家は、いかなるいわれなき非難に対しても抗弁すれば、たちまち国際世論の総攻撃を受ける。当該国(このケースの場合は韓国)からはなおさらだ。
 日本が戦争に負けた途端、政府あるいは軍の責任者の誰かが指令を出したのか、または地方自治体のトップが命じたのか、あるいは自然発生的にそういう状況が発生したのか、私には調べる手段がないが、妙齢の女性たちは米兵が駐留する地域では全員頭を丸刈りにして男装をしたようだ。もちろん米兵によるレイプを防ぐためだ。
 そういうことは今ではほとんど見られないが(インターネットで事実がたちまち世界中に知れ渡ってしまうからだ)、かつてはそういうことが日常茶飯事だった。
 妙な言い方になるかもしれないが、日本軍が従軍慰安婦を公募したのは、日本軍兵士による規律違反のレイプを防止するための方策であったことも、今は事実として明らかになっている。
 かつて読売新聞が調査し、検証して記事にしたことがあるが(いわゆる「河野談話」に関連して)、慰安婦を強制連行したという事実はほとんどなかったという。沖縄の集団自殺にしても、軍(実態はその地区に駐屯していた部隊)が地元住民に集団自殺を命じたケースは2件だけだったことも読売新聞は検証している。
 マスコミは一般に流布されている風評の真偽を明らかにし、検証した結果を公表する権利と責任があるが、政治家がマスコミと同様にふるまうと、おかしな話ではあるが国際世論の総攻撃を受ける。
 実際、当時の日本軍の兵士に対する規律はかなり厳しかったようだ。しかし、現在でも学校の女性教諭が売春したり、警官が万引きしたりする不祥事が絶えることはない。まして戦時下で、公募しても慰安婦の応募が少なかったりした場合、その地区の部隊の兵士の一部(あるいは部隊の責任者の指令もあったと考えられる)が、民家に押し入って妙齢の女性を慰安婦として強制連行したことは事実として間違いなくあったと思う。だが、個々のそういう犯罪をすべて軍の行為として認定してしまうと、では現在も絶えない警察官の不祥事が生じるたびにその警察官が所属する警察署の署長から県警本部長、さらに警察庁長官に至るまでいもづる式に警察組織の犯罪行為として責任を取らなければならなくなってしまう。
「河野談話」の一億総懺悔的謝罪発言は、実はそういうことを意味しているのだ。安倍政府が「河野談話」の見直しをするのは当然である。だが、安倍政府が見直すとしているのは慰安婦公募(あるいは調達と言ってもいいかもしれない)を否定しようとしているわけではなく、「軍の行為として行ったわけではない」ということを検証するという意味だと私は解釈している。一部の部隊や兵士の集団による強制連行があったことも事実として明らかになっており、そうした行為に対して軍の規律が末端まで行き届かなかったことについては謝罪すべきだろうが、「河野談話」についての見直しはそれ以上でもそれ以下でもあってはならないと思う。
 現に日本軍は朝鮮(当時)においてだけ慰安婦を公募していたわけではない。タイヤビルマ(現ミャンマー)などの進駐先でも兵士の性的欲求がレイプのような形で暴発するのを防ぐため慰安婦公募を行っていたはずだ。そして応募者が少なかった場合、一部の部隊や兵士による強制連行もあったと考えて不自然ではない。にもかかわらず、タイヤビルマでは慰安婦問題が生じていないのはなぜか。韓国だけで慰安婦問題が政治化して、いまだに尾を引きずっている意味を冷静に考えてみてほしい。韓国政府の政治的意図が透けて見えてくるはずだ。
 そこを、慰安婦問題を正当化もせず、かといって卑屈にもならず、謝罪すべき点については謝罪し、言いがかり的な要求に対しては毅然として撥ね付ける。安倍総理にはそうしたスタンスで「河野談話」に正面から向かい合ってほしい。
 橋下氏の発言が問題になったのは、確かに事実ではあったが、当時の戦争では当たり前のことだったということをあまりにもあからさまにして慰安婦公募を正当化してしまったことによる。
 橋下氏が、自分が正しいと思うことをそのまま発言してしまうことに、私は従来の政治家には見られない新鮮さを、実は感じている。
 政治家がすべて本音で国民と向かい合える社会が、民主主義政治をさらに成熟させていく道への大きな一歩だとさえ思っている。
 しかし、国民の意識も、政治家の意識も、まだ橋下氏の率直さを好意的に受け止めるところまで成長していない。政治家は、そうした国民の意識のレベルを前提に考え、発言しなければならない。
「敗軍の将、何も語らず」
 という格言もあるではないか。それがいいことだとは私も思わないが、「勝てば官軍、負ければ賊軍」のような価値観が否定され、「敗軍の将、大いに語れる」社会を実現していくための道はまだ遠い。

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混迷する改憲論議――今こそ憲法を国民の手に取り戻すべき時ではないか。

2013-05-12 11:47:07 | Weblog
 憲法96条改正論議がおかしな方向に進み出した。
 その最大の理由は、二つある。
 一つは言うまでもなく民主、社民、共産などが、96条を改正したら自民は「平和憲法」の9条に手を付けようとするに決まっているという理由で反対しているからだ。自民と連立政権を組む公明ですら、やはり9条を守るという立場から憲法96条の改正に慎重な態度を崩していない。すでに96条改正に賛成を表明している維新やみんなを加えると衆院では3分の2を超える勢力になっているが、参院では維新やみんなが賛成しても3分の2に到底及ばない。この状態を変えないと国会が憲法改正の発議ができない。
 もう一つの大きな理由は、マスコミが政党と同じく96条改正問題と自民の新憲法草案をいっしょくたにして論じているからだ。そして朝日新聞や毎日新聞がそうした立場から反対に回っていることも、国民の判断をおかしな方向に導きかねないことである。賛成派の読売新聞や日本経済新聞、産経新聞も同じ発想で賛成論をぶっており、96条改正=9条改正という議論に結びつきかねない状況にある。
 こうして憲法論議の状況を何とか打開しない限り、国民主権の憲法をつくることができない。
 まず憲法96条は、憲法を改正するための手続きを定めた条文である。憲法の全部ではなく一部でも改正するためにも二重の手続きを踏まなければならないことを定めたのが96条である。
 具体的には、まず衆参両院でそれぞれ改正案について3分の2以上の賛成を得なければ、国会は憲法改正の発議(国民に賛否を問うこと)ができない。このハードルの高さが、日本の憲法は「硬性憲法」と言われるゆえんである。
 戦後日本の政治はほぼ一貫して保守陣営が政権の座についてきた。特に1955年には保守、革新両陣営がそれぞれ合同し(10月に日本社会党が統一、11月に自由民主党が結成)、以来ほぼ一貫して自民党が政権を担ってきた。その自民党は結党以来憲法改正を党是としてきたが、硬性憲法のハードルの高さに行く手を阻まれ、自民党党是はこれまで「夢のまた夢」だった。
 だ、先の総選挙で自民が294と議員総数480の単独過半数を占め、維新54、みんな18を加えた96条改正賛成グループ366は衆議院議員総数の76.25%を占め、3分の2以上というハードルをすでに突破している。が、参議院では自民が84と総数242の約3分の1しかなく、維新やみんなを合わせても100と、過半数にも達しない。そのため今夏の参院選が、がぜん注目を集めることになったのである。しかし参院で3分の2以上の賛成を集めるには3党で162に達しなければならず、そのため自民は慎重派の公明に対する説得や、賛成派が党内に少なくない民主の分裂を画策しているというわけだ。
 確かに自民は憲法96条の憲法改正発議要件を改正した後、9条の見直しを目指していることは間違いない。9条は一言でいうと「不戦条項」である。一般にはこの9条を指して「平和憲法」と解釈している人たちが多いが(マスコミでも朝日新聞や毎日新聞はその立場に立っている)、そう解釈する人(団体)は「平和憲法」なる言葉の定義すらはっきり言って、していない。
 いわゆる市民団体の「憲法9条を守る会」なるものは全国に無数に存在するが、彼らの主張は「戦後、日本が平和だったのは9条のおかげだ」という全く根拠のない非論理的解釈に過ぎない。彼らの主張が正しいとすれば「犯罪を犯したら罰せられる」という法律さえ作っておけば、警察も刑務所も不要なはずだ。
 彼らの主張は非論理的であるだけでなく、より正確に言えば宗教団体の思考法とまったく変わらない。日本の法律は、基本的なことは小学校や中学校でも教えているので、たとえば殺人を犯せば死刑になることもあるとか、万引き(窃盗)すれば警察に捕まるなどと、憲法が保障している自由にも一定の制約があることを学ぶが、日本の憲法9条の「不戦条項」を学校で教えてくれている国が世界に一つでもあるだろうか。「日本にはこういう憲法があるから攻撃してはいけないよ」などといった教育は、最大の同盟国であるアメリカでさえ行っていない。(私のこの指摘によって朝日新聞は最近「平和憲法」という表記はあまり使わなくなったようだ)

 なぜ日本の基地に駐留している米兵だけが、基地周辺で頻繁に性犯罪を起こすのか、彼らは考えたことがあるだろうか。米軍基地は世界の至る所にあるが、どの国の基地でも日本ほど性犯罪は頻発していない。なぜか。日米地位協定のせいでもなければ、アメリカがとくに悪質な兵士を日本の基地に配属しているからでもない。
 はっきりしていることは、もし日本が他国から攻撃を受けたときは米軍兵士は血を流して日本を守る義務があるが、アメリカが攻撃されても日本の自衛隊は知らん顔をする、と 駐留米軍兵士は上官から教えられており、そうしたことに対するストレスがたまりにたまり、何か面白くないことがあって憂さ晴らしの飲酒をした時などに暴発したのではないかと私は思っている。
 私は日本が自国の平和を維持するためにも、また日本が世界の中で占める地位の高さから考えても、世界の平和を守るために応分の貢献を果たす義務があると思う。集団的自衛権を、解釈改憲を無理に無理を重ねて行うのではなく、憲法に明確に盛り込むことで世界平和に貢献する日本の毅然たる姿勢を示すことが、なぜ「平和憲法」の理念に反するのか、私にはまったく理解できない。
 解釈改憲によって、すでに日本は現行憲法に厳密な意味では違反していることは国民が等しく認めるところだ。もし違憲状態でなければ「解釈改憲」ということばが公然と使われることはありえない。現行憲法9条は極めて明確に「戦力の保持と行使」を禁止しているからだ。一応全文を記載しておこう。

  1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の
   発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決す
   る手段としては、永久にこれを放棄する。
  2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
   国の交戦権は、これを認めない。

 この短い条文は、短いがゆえに様々な解釈の余地を残した。この憲法の条文を作成した人たちは、解釈によって将来「戦力の保持と行使」が可能になる余地を意図的に残したのであろうか。実際、この憲法9条の条文を無理に無理を重ねて拡大解釈することで自民党政府は9条を事実上有名無実化してきた。
 現行憲法は連合国による占領下(実質的にはGHQ=連合国軍最高司令官総司令部、総司令官は米ダグラス・マッカーサー元帥)の1946年11月3日に公布され、翌47年5月3から施行され、今日に至っている。
 実は9条をめぐる国会での議論は条文の作成過程からあった。衆議院における審議で日本共産党の野坂参三議員は、侵略戦争と自衛戦争は別だと主張し、「自衛権を放棄すれば民族の独立が危うくなる」と警鐘を鳴らし、共産党は議決にも賛成しなかった。「えっ、ウソ!」と思われる方もいらっしゃると思うが事実である。
 野坂議員だけでなく、自衛権についての議論は国会で避けて通れない問題だった。当時の吉田茂総理は「憲法9条は自衛権も否定しているのではないか」との相次ぐ質問に対し、以下のように答弁している。これが日本政府の最初の公式見解である。
「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定してはおりませぬが、第9条第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」(46年6月26日)
 つまり、自衛のための軍隊は、憲法9条制定時には政府は認めていないのである。その後、なし崩し的に自衛力についての拡大解釈が行われるようになる。54年7月1日の自衛隊設立時における鳩山一郎内閣が定めた定義「第2項のいう『戦力』とは自衛のための必要最小限度を超える実力」が今日に至るまで一応政府の公定解釈とされている。なおあとで詳述するが、日本が国連に加盟を承認されたのは56年12月18日の国連総会によるものであり、国連憲章によって固有の自衛権が国際的に認められたのもその日からである(ただし独立国家が自衛権を有するのは国連憲章によらずとも当然の権利である)。
 では「必要最小限度を超えない実力」の限界はどう定めるのか。57年5月13日の衆院予算委員会における岸信介総理の答弁はこうだ。
「今日核兵器と言われておるところの原水爆やその他これに類似したようなものが、これはその性格から申しましても、もっぱら攻撃的なものでありまして、こんなものを日本が持つということは、これは憲法の自衛権というものの解釈からいってもこれは許せないことであろう。(中略)憲法に核兵器は禁止しておるという私は明文はないと思うのです。ただ自衛権の内容というもの、自衛というもののワクでもって、われわれが持ち得る一つの実力といいますか、力というものは、限定されなければならないというのが私の憲法の議論でございます」(※つまり憲法は核兵器を持つことを禁止していないが、自衛という枠の中で持ちうる戦力は限定されるべきという意)
 その10年後の67年3月31日には佐藤栄作総理が衆院予算委員会で、こう答弁している。具体的に「核兵器」という言葉は使用していないが、自衛力についての以下のような考えを述べている。
「わが国が持ち得る自衛力、これは他国に対して侵略的脅威を与えるようなものであってはならないのであります。これは、いま自衛隊の自衛力の限度だ。かように私理解しておりますので、ただいま言われますように、だんだん強くなっております。これはまた武器等におきましても、地域的な通常兵器による侵略と申しましても、いろいろそのほうの力が強くなっておりますから、それは、これに対応し得る抑止力、そのためには私のほうも整備しておかねばならぬ。かように思っておりますが、その問題とは違って憲法が許しておりますものは、他国に対し侵略的な脅威を与えない。そういうことで、はっきり限度がおわかりいただけるだろうと思います」
 さらにその12年後、79年3月16日、大平正芳総理は衆院本会議において次のように答弁している。
「自衛のために最小限度を超えない実力を保持することは憲法によって禁止されておらない。したがって、自衛のための必要最小限度の範囲を超えることになるものは、通常兵器でありましてもその保有は許されないと解されるのが憲法の精神だろうと思いますが、その精神は、一方、核兵器でございましても、仮に右の範囲内にとどまるものであれば、憲法上はその保有を禁ずるものではないという解釈を政府は取っておりますことはご案内のとおりであります」
 この発言と同時に大平総理は国是としての「非核三原則」を持ち出し、「一切の核兵器を保有し得ないとしていることは言うまでもないところでございます」とも述べている。非核三原則は、米国から返還が決まった小笠原諸島に核兵器が持ち込まれるのではないかとの、67年12月11日の衆院予算委員会における成田知己・社会党委員長の質問に対し、佐藤栄作総理が示した日本は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という国家方針(国是)である。
 しかし沖縄の米軍基地に核兵器が装備されていることは、いわば公然の秘密とも言われている。現在、北朝鮮の核による脅威が現実的になりつつある。もちろん北朝鮮が日本を現在標的にしようとしているわけではないが、あの国のありようから考えて、日本に核の矛先を絶対に向けないという保証はない。「抑止力」としての核について、いまから考えておく必要性は現実的になりつつあると私は思っている。平和志向の理念との整合性を維持することを前提にだが。

 一方、集団的自衛権についてはどうか。
 実は自衛権は、51年9月8日、日本がサンフランシスコ講和条約に調印し、翌52年4月28日に発効して独立を回復、56年に国際連合(国連)に加盟し、国連憲章51条によって国際的に認められた固有の権利である。同条を引用する。
「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響を及ぼすものではない」
 日本が国連に加盟し、国連憲章による権利と制約を受けることを承認した時点で、占領下において定められた憲法9条の制約はいったん消滅し、新たに国連憲章が定めた「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を日本が保有することになったと考えるのが自然であろう。
 過去の世界の歴史を見ても、占領下あるいは植民地下にあった国が、独立を勝ち取った時点で、占領下あるいは植民地下で制定された憲法は無効になり、新たに独立国家としての誇りを持って新憲法を制定するのが当たり前の話である。仮に占領下における憲法を独立後もそのまま維持する場合も、その手続きを法的に整備することは言うまでもなく必要不可欠である。それを怠ったことが、そもそも今日の憲法改正論議が混迷している根っこにあるのだ。

 よく「憲法三原則」と言われる。憲法をどのように改正しようと、三原則は不可侵、というのが日本憲法についての国民共有の基本認識である。その三原則とは、①国民主権 ②基本的人権の尊重 ③平和主義、の三つである。96条改正反対派は、この憲法三原則が脅かされるがごとき主張を繰り返している。
 だが、一体どの政党が、この憲法三原則を否定しようとしているのか。自民党の新憲法草案もこの憲法三原則を尊重していることは、冷静に読めば誤解を招く余地がない(ただし、私は自民党草案のすべてに同意しているわけではない)。96条改正に賛成している維新やみんなも自民党の新憲法草案を支持しているわけではない。とりあえず、憲法三原則の①「国民主権」の憲法にするには、憲法改正手続きを定めた現行憲法96条のハードルが高すぎるから、そのハードルを低くしようという話のはずだ。
 さらに国会での発議のハードルを低くしようというだけで、両院の過半数の賛成で憲法改正案が発議されたとしても、国民の同意(有権者による国民投票で過半数を得ない限り、国会での改正案は否決される)を絶対要件にしている。両院での3分の2以上の賛成がなければ憲法改正の発議ができないというのは、それこそ「国民主権」の否定ではないか。
 各政党は、国会での発議のハードルを低くしたうえで(つまり両院の過半数の賛成で発議できるようにする)、それぞれ憲法三原則を単なる空理空論にとどめるのではなく、憲法三原則を現実的に守れるような条文を考えて国民の信を問えばよい。それが真の民主主義というものだ。またそれが真の意味で「国民主権」を実現する唯一の方法ではないだろうか。
 
 
 
 
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憲法改正手続きのハードルを低くすることは国民主権の政治への第一歩だ(社説読み比べ)

2013-05-05 09:14:15 | Weblog
 実は、このブログの前に私は「日本国憲法について考えてみないか」と題するブログを憲法記念日の前日(5月2日)に投稿した。そのブログで、「憲法記念日には各新聞が社説で憲法について今日的課題について主張をぶつけ合うであろう」「(各紙社説の)読み比べを書く」とお約束した。ちょうどゴールデンウィークの真っ最中なので、いつもより訪問者は少ないだろうと思っていたが、予想に反して意外に多く、しかも日を経るごとに増えている状況である。いつこのブログを投稿しようか迷っていたが、あまり日を置くと前回のブログを読んでくださった方に申し訳ないと思い、きょう投稿することにした。まだ前回のブログをお読みでない方は、お手数をおかけすることになるが、前回のブログにざっと目を通していただきたい。前回のブログは比較的短いから、そう苦にならないと思う。

 日本国憲法は硬性憲法と言われる。憲法改正の発議には衆参両院でそれぞれ3分の2以上の賛成を得なければならないからだ。「発議」という言葉は通常ほとんど耳にしたことがないだろうが、「可決」ではなく、さらに国民(とりあえず有権者による有効投票総数と解釈されている)の過半数の同意を得るための手続きを経なければならないからだ。つまり憲法改正のハードルがきわめて高く、現に日本の場合、現行憲法が制定されて以降66年間、憲法条文の1条1句改正されたことがない。ゆえに日本国憲法は「硬性憲法」と言われている。
 硬性憲法という言い方がある以上、当然、軟性憲法と言われる憲法もある。つまり憲法改正のハードルが低く、国会の過半数による決議で発議できる性質の憲法のことである。
 世界的な視点で言えば、硬性憲法の代表的なのはアメリカ合衆国の憲法であり、軟性憲法の代表的なのはイギリスの憲法とされている。さらに硬性憲法に分類されているフランスやドイツなどヨーロッパ諸国の憲法も、実質的には軟性である。
 また硬性憲法であっても、憲法の条文を極めて基本的なことに限定し、改正そのものが議論になったことさえない硬性憲法もあり、一概に硬性憲法が国民にとって有利なのか不利なのかの議論に直結することは基本的にはない。が、日本の憲法は硬性憲法であり、かつ細部にわたって規定されているのが大きな特徴と言えよう。
 日本国憲法が硬性憲法であるゆえんは憲法96条に起因している。その憲法96条改正の発議を今国会で決定しようというのが安倍内閣の方針である。
 憲法改正の手続きを定めたのが憲法96条であって、この条文はGHQが草案を作成し、日本側で検討して原案を策定、GHQが許可して国会で承認されたという経緯をたどった。GHQによる草案はこうだった。

此ノ憲法ノ改正ハ議員全員ノ三分ノ二ノ賛成ヲ以テ国会之ヲ発議シ人民ニ提出シテ承認ヲ求ムベシ人民ノ承認ハ国会ノ指定スル選挙ニ於テ賛成投票ノ多数決ヲ以テ之ヲ為スベシ右ノ承認ヲ経タル改正ハ直ニ此ノ憲法ノ要素トシテ人民ノ名ニ於テ皇帝之ヲ公布スベシ

 先に述べたような経緯を経て日本側が策定し、国会で成立した憲法96条は以下のようになった。

この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 GHQ草案と日本側の草案に大きな差異はないが、仔細に読み比べると国民の承認を経る手続きについてGHQ草案は「国会ノ指定スル選挙ニ於テ賛成投票ノ多数決」としているのに対し、日本側の草案では「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成」と訂正している。明らかに日本側草案のほうが明瞭である。ただし、これは私論だが「国会の定める選挙の際行はれる投票」は事実上無意味であり「特別の国民投票」だけでよかったのではないかと思う。国会の定める選挙には衆議院選挙(総選挙)と参議院選挙があり、かつ参議院選挙は議員総数の半数ずつを3年ごと2回に分けて行うことが憲法で定められている(総選挙は45条、参院選挙は46条)。憲法改正を「国会の定める選挙の際行はれる投票」で、その都度(つまり3回)賛否を問わなければならないというのはハードルの高さを超えて非現実的である。当時の日本は多少GHQ草案に配慮して、こういう草案にしたのではないだろう。
 ところが、いろいろ調べたが、現行憲法がいつ国会両院でそれぞれ三分の二以上の可決で発議し、いつ「特別の国民投票」が行われ、「過半数の賛成」が得られたのか、全く不明なのだ。つまり現行憲法は、現行憲法が定めた手続きを経ず効力を持続しているということを意味する。
 歴史的事実としてわかっていることは、ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した日本は連合国軍(事実上米軍)の占領下におかれ、連合国軍総司令部(GHQ)の指示に従って「憲法改正草案要綱」を作成した(GHQ自身が草案を作成した条文もある。今回問題になっている憲法改正の要件を定めた96条もGHQが草案を作成し、日本側が修正草案を作成してGHQの承認を得たケースである)。そして最終的にGHQの承認を得て新憲法は、敗戦前の大日本帝国憲法73条の改正手続きに従って1946年5月に開かれた第90回帝国議会の審議を経て(若干の修正があった)、同年11月3日に公布され翌47年5月3日から施行された。
 つまり、現行憲法は現行憲法が定めた改正手続きを経ず、旧憲法の改正手続きによって制定されたのである。それは、日本が占領下におかれていた特殊な状況下で制定されたため、というのであれば、サンフランシスコ講和条約によって日本が独立を回復した時点で、この憲法を存続させるべきか否かの国会審議を改めて行い、衆参両院で三分の二以上の賛成を得たうえで発議し、国民投票で過半数の賛成を得なければならないはずではなかったのか。私はその手続きを経ていない以上、憲法改正の賛否は別として、現行憲法は法的に無効ではないかという疑問を持たざるをえない。
 そのことはさておいて、なぜGHQは憲法改正にすでに述べたような高いハードルを設けたのか。実はアメリカ自体が憲法改正の手続きについて日本以上に高いハードルを設けているのである。アメリカでは憲法を改正するためには両院(上院・下院)でそれぞれ三分の二以上の賛成と、全州議会の四分の三以上の支持を得たうえで発議し、国民の過半数の賛成を得なければならない超硬性憲法なのである。GHQは日本の憲法もアメリカのような硬性憲法にしたほうがいいと考えたのであろう。
 アメリカ人は、これまでブログで何度も書いてきたが、自国の制度やシステム、社会的規範が最も正しく普遍であるべきだと考えており(そのこと自体は「誇り」を持つすべての国の人々がそう信じている――敗戦によって「誇り」を失った日本人を除いて)、他国に対しても自国の制度やシステム、社会的規範を採用させようと「善意に満ちた」努力を重ねてきている。「誇り」を持つ国々にとっては余計なお世話でしかないのだが……。
 私はアメリカの様々な制度やシステム、社会的規範を全面的に否定しているわけではない。民主主義という政治システムは古代ギリシャ人が発明したが、何事も多数決で決めるという民主主義政治の最大の欠陥を「フェアネス」という概念を発明することで、現代世界で最も成熟した民主主義社会に作り上げることに成功したのはアメリカだと考えており、アメリカが作ったいろいろなシステムやその基盤となっている社会的規範の多くは日本も導入すべきだと考えている。ただアメリカの最大の欠陥は、国内においては世界で最も成熟した民主主義システムを構築していながら、他国に対しては必ずしもフェアではないという問題を抱えており、それは国家というものも人間の集団である以上、アメリカも世界最大の軍事力と経済力を擁した「驕り」から抜け出すことができないからではないか。
 余談だが、日本人もかつては世界に誇ってもいい「誇り」を持っていた(すべての日本人が、という意味ではない)。「武士は食わねど高楊枝」という死語になった格言があったが、その誇りは、戦後、「法の順守を国民に求める立場にあるものが、法を破ることはできない」と、闇米に手を出さずに餓死した判事を最後に、私たち日本人は失ってしまったようだ。
 憲法改正の話に戻る。現在さしあたって問題になっているのは憲法改正の手続きである。憲法改正のための手続きのハードルを低くしようというのが安倍総理の、いわば執念である。その執念は、彼の祖父、岸信介首相が60年安保改定によって日米安全保障条約をそれまでの一方的な片務的関係から、少し双務的関係に変えたことが、当時の国民から理解されず、安保改定を成し遂げながら無念の降板を余儀なくされた思いを、当時はまだ幼かった安倍が多分友達たちからいじめられ、悔しかった気持ちをずっと引きずって政治家になって以来の、日米安保条約をより双務的なものに近づけるために「集団的自衛権は固有の権利であることを認めながら、日本はその固有の権利を行使できない」という論理的に成り立たない現行の憲法解釈の問題を一気に解決するための手続きとして、まず憲法96条を改正しようというのが最大の目的である。
 だから96条の改正は、即9条の「不戦条項」の改正につながるとだれもが考えるのは当然で、9条改正問題と切り離して96条改正問題を論じてもあまり意味はないのだが、一応そうした事情を考慮しながら各政党の主張と全国紙の社説について論じることにする。

 まず各政党の姿勢を明確にしておく。 
 自 民……賛成。改正し、集団的自衛権を明文化。
 民 主……賛否両論。政党の体を成していないため。
 維 新……賛成。自衛のための戦力保持を明確化。
 公 明……慎重。集団的自衛権の明文化には疑問。
 みんな……賛成。自民とほぼ同じ。
 生 活……不明。賛成もできず、かといって反対もできず。投票はその時の
      小沢の気まぐれによる。
 共 産……反対。自衛隊は認めたが、違憲の主張は変えず。精神分裂状態。
 社 民……反対。旧社会党時代の「非武装中立」主張の総括なし。

 次いで全国市各紙の社説はどうか。
 読 売……無条件賛成。衆参ねじれ状態を考慮し、参院で否決されたら衆院
      に差し戻し過半数で可決を提案。(※だったら一院制を主張したら)
 朝 日……反対。(※最近までの「平和憲法」の定義は取り消したのか ? )
 日 経……賛成。ただし、96条改正後、自民は具体的憲法改正案を出せ。(※
      実際には出している)
 毎 日……反対。(※はっきり言って「反対」のための「反対」)
 産 経……賛成。同紙提案の新憲法要綱を強調。(※一考に値しない)

 大体、皆さんが予想された通りの社説だったと思う。私も各紙の社説を読んでいて、賛否の予測はしていた。だが、どういう論理で主張をするかに多少興味があった。というのは、この1年ほどの短い間に日本を取り巻く安全保障の環境が一変したため、その環境激変が社説にどう反映されたかが関心事だったのだ。
 だが、各紙の社説を読んで、すべてとは言わないが、論説委員の鈍感さには呆れるばかりだった。いたずらに原則論を並べるばかりで、現行憲法が現実に対応できない状況になっているという意識が、とくに反対論を展開した朝日新聞や毎日新聞に皆無だということがはっきりしたのは、皮肉ではないが検証しただけの甲斐があった。まず賛成派から検証しよう。

 日本で最大発行部数を誇る読売新聞。社説氏はこう主張する。
「現行憲法は占領下、連合軍総司令部(GHQ)の草案をもとに制定された」「世界でも改正難度の高い硬性憲法と言えるだろう。GHQは、日本で民主主義が確立するには時間がかかると考えたようだ」
 すでに書いたようにアメリカ自身が超硬性憲法にしている。アメリカ人は自分たちの制度やシステムが世界最高だと勝手に考えている国だ。「日本に民主主義が確立するには時間がかかると考えた」わけではなく、自国の硬性憲法が最高の憲法だと考えているからにすぎない。読売新聞の社説氏は不勉強だ。
 アメリカはなぜ超硬性憲法にしたのか。アメリカはご存じのように大統領制をとっている。大統領制をとっている国の多くは、大統領にきわめて大きな権限を与えている。アメリカの場合、大統領は議会の決議に対する拒否権を持っている(大統領が拒否した法案を成立させるためには、両院で三分の二以上の賛成を必要とするほどハードルが高い)。単に所属政党のトップというだけでなく、国民から直接選ばれたという事情が特別の権限を持つようになった理由である。その代り、大統領の長期政権による独裁政治体制を防ぐため、憲法を修正して大統領の3選を禁止した。強大な権限を持つがゆえに、高いハードルを超えて超党派で大統領の3選を禁止することにしたのである。選挙権・立候補権を女性や白人以外の黒人などにも与え、満18歳から選挙権を持つようにしたのも修正憲法によってである。
 それはともかく読売新聞の社説氏が、憲法改正案の一つとして衆参ねじれ国会対策のため、憲法が定めている、衆院で可決した法案が参院で否決された場合の成立条件である衆院での三分の二以上の再可決はハードルが高すぎるとして、衆院で過半数で再可決すれば成立するように憲法を改正するという提案はいただけない。それなら参院は必要ないわけで、衆院の優位性を高めるより一院制を提案したほうがよほどましである。
 実は私も日本の二院制には大いに疑問を感じている。NHKはしばしば衆参両院での重要法案を審議する予算委員会を中継するが、与野党が両院の予算委員会で全く同じやり取りを行っている。時間と費用の浪費ははなはだしいと言わざるをえない。ねじれ対策については産経新聞や日本経済新聞も独自の主張をしているので、それぞれの社説検証で再度触れる。
 読売新聞は最近、衆院議員の「0増5減」法案に関連して、他の先進国における議員数と人口の比率を調べ「日本の議員数は他の先進国より少ない。民主の議員大幅削減提案はポピュリズム(大衆迎合主義)だ」と批判したが、他の先進国が議員にどれだけ歳費を支払っているかの調査はしなかったようだ。一体政党助成金のような大盤振る舞いをしている先進国がどこにあるのか、また事実上選挙活動しかしていないか、何もしていない家族に対してすら「秘書給与」を税金で支給している国がどこにあるか、そういったことも調査してほしい。そうでないと、もっともらしい批判が「為にする批判」と同じになってしまう。

 次に産経新聞の社説について検証する。産経新聞は憲法改正の独自案を打ち出しており、それは別にかまわないが、恐れ入ったことに3日の社説でこうのたもうた。
「改憲が現実の政治日程に上り、国民投票が行われる。その時、羅針盤になるのが現行憲法の問題点を摘出し、新たな国家像として『独立自存の道義国家』を打ち出した本紙の『国民の憲法』要綱である」
 恐れ入りました、と言うしかない。テレビ放送の時代劇で水戸黄門が印籠を高々と掲げ「この紋所が見えぬか !」と恫喝しているような感じだ。
 社説氏によれば『要綱』の特徴は、衆参ねじれ現象の下で重要法案の成立が阻まれるのを防ぐために二院制にメスを入れた点にあるという。具体策は参院選に直接選挙だけでなく、間接選挙(有権者が議員を直接選ぶのではなく、まず選挙人を選び、選挙人が議員を選挙する方法)を導入すること。なんとなくアメリカの選挙方式をイメージさせられるが、それで果たしてねじれ現象が解消するのか。間接選挙で選ぶ「選挙人」はアメリカの「代議員」と同様顔がない。つまり「選挙人」という名目の数を獲得するための戦いは立候補者自身が行わなければならない。大変な労力と金がかかる。アメリカの場合、そういう制度が定着しているのは「代議員」を獲得するための選挙運動の主体が基本的にボランティアの支持者によって支えられているからだ。日本でもボランティアが選挙運動の担い手になるケースが徐々に増えてきてはいるが、まだまだアメリカのように定着しているとは言い難い。国民や県民・市民などの声を代弁してくれるのが議員であるという認識が薄い日本では議員を選ぶのは権利ではなく義務だという意識が育っていない。そういう状況の中に間接選挙を持ち込んだら困惑するのは選挙民のほうだ。
 そのほか社説氏は思い付きとしか言いようのない『綱領』の数々を並べ立てているが、そのどれもが評価に値しない非現実的なものばかりだ。産経新聞の『綱領』にこれ以上貴重なスペースを割くのは読者に苦痛を強いるだけなので、この辺でやめる。いずれにせよ産経新聞の提案ではねじれ対策には全くならないことだけははっきり言っておく。

 賛成派のトリを飾るのは日本経済新聞だ。発行部数で産経新聞よりはるかに上回る日本経済新聞をトリに持ってきた理由は、日本経済新聞の主張が一番まともだと思ったからである。日本経済新聞の社説氏は言う。
「忘れてはならないのは、改憲手続きをへて条文を改める明文改憲だけでなく、その前の段階で、国家がきちんと機能するよう法改正により対応が可能な立法改革もしっかり進めることだ」「96条改正によって改憲しやすくしたあとに、何をテーマにどんな段取りで進めていくのかを示さなければならない」「自民党は憲法改正草案をまとめ、具体的なメニューを提示しているとはいえ、焦点の9条についてどんな手順を想定しているのかがはっきり見えない。入り口が96条で出口が9条なら、もっと堂々と改憲論議を挑むべきだろう」「日本周辺を見回した場合、とくに北朝鮮の出方など、急いで検討しておいた方がいいものがある。行使を禁じていると解釈している集団的自衛権がそうだ」
 高校生にも理解できる平易な文章で、かつ論理的である。さらに社説氏はねじれ問題の解消策も提案している。
「国会法では、衆参両院の議決が異なった時、両院の代表者各10人からなる両院協議会で協議し、3分の2の賛成で議決することになっている。これを2分の1に改め、同時に議席数に応じて各党の代表者を出すようにすれば、機能不全の両院協議会が動くようになるはずだ」
 憲法とは何か、という基本的概念についても再確認を読者に求めている。
「日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)が『憲法は特定の価値を国民に押し付けるものではない。国家権力をしばる法規範だ』というのは、その通りだ」「憲法のそもそも論をいま一度確認し、立法改革と明文改憲による道筋を示して、新しい日本につなげていくことが改憲論議の基本でなければならない」
 スペースさえ許せば、全文を転載したいくらい平易でありながら論理的で格調も高く、100点満点を差し上げたいほどの社説である。これ以上付け加えることがあるとすれば、両院協議会での協議での可決条件として提案している3分の2の賛成から2分の1にハードルを下げることで参院の在り方がどう変わるかの想定がなされていないことくらいである。衆院と同じ機能を持っている参院の在り方について国民的議論を経て、参院の制度改革を提案してほしかった。

 今度は反対派の社説を検証する。まず朝日新聞。憲法についての基本的考え方は間違っていない。私には朝日新聞がなぜ憲法改正に反対するのか、よくわからない。条件付きで賛成してもよかったのではないかと思う。
「憲法には、決して変えてはならないことがある。近代の歴史が築いた国民主権や基本的人権の尊重、平和主義などがそうだ。時代の要請に合わせて改めてもいい条項はあるにせよ、こうした普遍の原理は守り続けねばならない」「そもそも、憲法とは何か。憲法学のイロハで言えば、権力に勝手なことをさせないよう縛りをかける最高法規だ。この『立憲主義』こそ、近代憲法の本質である」「憲法99条にはこうある。『天皇又(また)は摂政および国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ』。『国民』とは書かれていないのだ」(※米国やデンマークの憲法改正に設けている高いハードルを紹介したうえで、自民などの改正論はこのハードルを低くしようとしていると指摘)「これでは一般の法改正とほぼ同じように発議でき、権力の歯止めの用をなさない。戦争放棄をうたった9条改正以上に、憲法の根本的な性格を一変させるおそれがある。私たちが、96条改正に反対するのはそのためである」
 私が注釈を加えた前の主張は全面的に支持できる。改憲賛成派も、この主張には異を唱えまい。ところが、注釈のあとの主張は論理が飛躍しすぎている。自民の憲法改正草案には、確かに国民の基本的人権や言論の自由を脅かしかねない個所があり、私も自民の改正草案を全面的に支持しているわけではない。また96条の改憲について共同歩調を明らかにしている維新やみんなも自民の改正草案を支持しての共同歩調ではない。朝日新聞の社説氏も認めているように「時代の要請に合わせて改めてもいい条項はある」のだ。もちろん社説氏が続けた(国民主権や基本的人権の尊重、平和主義などの)「普遍の原理は守り続けねばならない」のは当然である。
 社説氏はこうも言う。誰も否定できない主張だ。
「日本と同様、敗戦後に新しい憲法(基本法)をつくったドイツは、59回の改正を重ねた。一方で、触れてはならないと憲法に明記されている条文がある。『人間の尊厳の不可侵』や『すべての国家権力は国民に由来する』などの原則だ」
 そういう正論はだれも否定していない。だから時代の要請のよって改正すべき条項は改正しやすくし、絶対不可侵の条項を改めて新憲法に明記すればいいのではないか。第一、憲法改正は国会の過半数の決議だけでできるわけではない。国民の過半数(実際には有権者の有効投票の過半数)の賛成がなければ改正できないのだ。朝日新聞は国民を信じず、朝日新聞の反対が通らないような憲法改正は認められないと言いたいのか。何度読み返してもそうとしか読み取れない。朝日新聞の独善性は創刊以来、戦前・戦中・戦後を通じて一貫して変わっていない。日清・日露戦争で国民の軍国主義化への傾斜を煽りに煽ったことには目を瞑り、先の大戦での報道姿勢だけを、軍部の圧力に屈したと責任転嫁しながら、しおらしく「反省」してみせる独善性は、もう「体質的」としか言いようがない。

 最後に毎日新聞だ。いきなりスピルバーグ監督の映画『リンカーン』の鑑賞感から入った。社説氏はこの映画にいたく感銘を受けたようだ。
「(映画は)リンカーンが南北戦争のさなか、奴隷解放をうたう憲法修正13条の下院可決に文字通り政治生命をかけた物語だ。彼の前に立ちはだかったのは、可決に必要な『3分の2』以上の多数という壁だった。反対する議員に会って『自らの心に問え』と迫るリンカーン。自由と平等、公正さへのゆるぎない信念と根気強い説得で、憲法修正13条の賛同者はついに3分の2を超える。憲法とは何か、憲法を変えるとはどういうことか。映画は150年前の米国を描きつつ、今の私たちにも多くのことを考えさせる」
 これまで私はブログで何度も「伝説は実像を虚像に変える」と書いてきた。その一つの例としてリンカーン伝説のウソも暴いた。リンカーンはもともと奴隷解放論者ではなかった。彼は大統領に選ばれた時の就任演説で「私は奴隷制度を廃止する意図を持っていない」と明言している。ただリンカーンが所属していた共和党内部の奴隷解放主義勢力はかなり強く、リンカーンがいずれ奴隷解放に踏み切るのではないかと考えた南部諸州が連邦国家からの離脱を宣言し、独立国家「アメリカ連合国」を建設したのが南北戦争勃発の原因だった。戦況は当初南部が有利だったが、南部諸州で黒人奴隷たちがゲリラ的に反乱して戦況は一進一退の状態になった。これを好機として共和党の奴隷解放主義勢力がリンカーンに「奴隷解放主義」への転向を迫ったのである。戦争に勝つためリンカーンは自らの信念を捨てて奴隷解放主義者に転向、リンカーンを大統領の座につけるべく協力を惜しまなかった反奴隷解放勢力を今度は説得せざるを得ない立場に追い込まれたのである。それだけではない。南北戦争で勝つため牧畜を主産業にしていた西部諸州を味方につけるべく、西部諸州の牧畜業者にとって目障りだった原住民のインディアンを徹底的に弾圧し、ペンペン草も生えない土地をインディアンの居住地と勝手に定め、その命令に従わなかった部族に対して大虐殺さえ行っている。そういう人物を、娯楽映画を見ただけで「自由と平等、公正さへのゆるぎない信念」の持ち主と信じてしまうようでは、そもそも憲法を語る資格がない。
 社説氏の無知蒙昧さはその辺で止めておく。改憲についての主張を検証する。
「その時の多数派が一時的な勢いで変えてはならない普遍の原理を定めたのが憲法なのであり、改憲には厳格な条件が必要だ。ゆえに私たちは、96条改正に反対する。確かに、過半数で結論を出すのが民主主義の通常のルールである。しかし、憲法は基本的人権を保障し、それに反する法律は認めないという『法の中の法』だ。その憲法からチェックを受けるべき一般の法律と憲法を同列に扱うのは、本末転倒というべきだろう」
 いったいどの政党が、憲法と一般の法律を同列に扱おうとしているのか。私が知る限り、そんなことを主張している政党は一つもない。どの政党がそう言うバカげた主張をしているのか教えてほしい。「反対のための反対」論と言わざるを得ない。

 いちおう以上で全国紙5紙の改憲問題についての社説を検証してきた。結論から言えば、一番大事なことを、どの社説も視野に入れていないことがはっきりした。
 一番大切なこととは何か。国民主権の憲法にするにはどうすればいいのか、という視点である。
 憲法改正の発議権限が国会に限定されていることはやむを得ないだろう。国民主権という基本的概念からすると、可能ならばすべての国民に憲法改正(一般の法律改正も)の発議ができるようにするのがいいのだが、そんな制度にしたら収拾がつかなくなる。だから国民が権限を付託した国会に憲法改正の発議権限を限定するのはやむを得ない処置だ。国民主権とは、そういうことだということを皆さんお忘れではないか。
 だから、可能な限り、国民が主権を発揮できる機会を増やすべきなのだ。それが、欠陥だらけの民主主義を少しずつでも成熟させていく唯一の方法なのである。そういう意味では、衆参両院の過半数の賛成で憲法改正の発議ができ、国民が自ら主権を発揮できる機会を増やすことは非常に大切なことなのだ。
 一般の法律についても、衆参両院で一定の割合で賛成が得られれば、国民投票で国民に選択させる「国民投票法」も作るべきだ。その割合は憲法改正の発議の新ハードルとして議論されている衆参両院における過半数の賛成より低くした方がいい。なぜなら一般の法律は現行憲法によれば衆参両院の過半数の賛成で可決されてしまうのだから、国論を二分するような重要法案は国民が直接選択できる機会をつくるべきだろう。
 そうすれば国民も、政治家任せではなく、自ら国政に参加できる機会が増え、真剣に国の在り方について考えるようになる。これは民主主義が宿命的に抱える欠陥を多少なりとも改善する一里塚になるだろう。
 憲法改正議論を通じて、国民主権はどうやって実現すべきか、国民全体で考える機会にしたいと思う。
 私も疲れたが、この長文のブログを最後まで読んでくださった方々も、たぶんかなりお疲れになったと思う。感謝申し上げる。
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日本国憲法について考えてみないか。

2013-05-02 06:29:22 | Weblog
 明日は憲法記念日。もちろん現行憲法が制定された日である。全国各地でいろいろな式典や大会が催される。皆さんもご存じのように、これらの行事は大きく分けて二つに大別される。もちろん一つは憲法改定を目的とする集会。もう一つは憲法を守ろうという目的を訴える集会。
 つい最近までは、皆さんもそうだろうが、私も憲法の持つ意味についてそれほど深く考えたことがなかった。というより、考える必要性を感じなかった。
 しかし、今年はこれまでとは違う意味合いで憲法が果たしてきたこと、これから果たさなければならないことについて考えざるを得ない状況にある。
 明日の憲法記念日には各新聞が社説で憲法について今日的な課題について主張をぶつけ合うであろうし、各政党も憲法を改定する立場から、また現行憲法を守る立場から国民に政党としての主張を訴えるだろう。できるだけ早く(少なくとも1週間以内に)各新聞社や各政党の主張の読み比べをブログで書きたいと思っている。私のブログ読者の皆さんも、国民の一人として現行憲法にどう向かい合うべきかを考えてほしい。
 その前提として、これまでの憲法論争について若干、整理をしておきたい。
 現行憲法は、先の大戦(私はこれまで「あの戦争」と定義してきたが、これからは「先の大戦」と定義を変える。定義の意味に変化はない。「先の大戦」としたほうが、より明確になると考えただけのことである)のあと、GHQ(連合国軍総司令部……実質的には米政府が設置した対日占領政策の実施機関)の強制力のもとで制定された憲法である。そのため「アメリカから押し付けられた憲法」という主張が憲法改定論の大きな柱になっているが、簡単に考えると学校の教科書の出版社(著者を含む)が作った教科書原本に対する文部科学省の強制力を持つ関与のようなもの。だから減法憲法はGHQが作成して押し付けたものとも言えないし、かといって日本人が自主的に作った憲法とも言えない。教科書が文科省の認可を必要とするのと同様、現行憲法もGHQの認可が必要だった。つまりGHQの強制力のもとで制定された憲法と考えるのが論理的である。現行憲法の各条文の1条1句をGHQが作成したわけではない。そのことは基本的認識として共有しておきたい。
 過去自民党は(今も自民党議員の多くは)「押し付けられた憲法だから自主的憲法を」とお経の文句のように唱え続けてきたが、その主張が説得力を持ちえなかったことが理解できない。日本国民が過去も現在も「押し付けられた憲法」か「自主的憲法」かなどということに、ほとんど関心を示したことがないのはそのためである。
 憲法は言うまでもなく国民の安全や生活、権利と義務、国のかたちや国際関係の在り方についての基本的姿勢を定めたものであり、それが脅かされたり、危うくなったりしない限り意味のない議論をしても国民が関心を示さなかったのは当然である。だから「自主的か押し付けか」の議論はもう卒業してほしいというのが私の基本的立場である。
 次にもう一つ卒業すべき議論がある。それは憲法9条を指して「平和憲法」と位置付ける主張である。「憲法9条が日本の安全を守ってきた」という主張は全くの空論である。私は憲法9条の平和主義を否定するものではないが、憲法9条という、いわば「紙切れ」のような条文が外国に対していかなる強制力を持ちうるか、小学生でもわかる話だ。
 第一「憲法9条が日本の安全を守って来た」と主張する方たちは、アメリカやイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、中国、韓国、北朝鮮など日本といろいろな意味で関係の深い国々の憲法を一度でも読んだことがあるだろうか。日本人の中で私一人だけが勉強不足なのかもしれないが、私は先に述べた国々の憲法の1条たりとも読んだことがない。世界中の人々、とくに国家の政治を動かせる立場にある政党や人物が、果たして日本の憲法9条の条文と不戦主義をどれだけ知っているだろうか。
 少なくとも言えることは「永世中立」を国際社会に向かって宣言している国(過去宣言した国も含む)はスイスだけではなく、いくつもある。そういう国は中立を守るためにどういう努力を重ねてきたか、また宣言そのものが外国から無視されてきた例をいくつか述べておこう。
 まず「永世中立国」は単に宣言するだけでは他国に対して何の拘束力を持たない。他国が中立を保障・承認することが前提である。永世中立国は中立条約締結国によって中立の法的地位を保障されなければならない。他国に保障されて初めてその国に対する拘束力を持ちうるのである。そこが、他国に承認を得る必要もないし、得たところで何の意味も持ちえない憲法とは全く異なる点だということをご理解いただきたい。
 さらに過去にこういう例もある。ベルギーとルクセンブルグは列強が独立を承認するロンドン条約(1839年)により、永世中立が定められた。しかし両国とも第1次世界大戦でドイツ帝国の侵略に会い、ベルギーは国土の大半を占領されながら抵抗し、非武装だったルクセンブルグは全土が占領された。
 「平和憲法」などと「青い鳥」を夢見て平和が保障されるなら、世界中から戦争がなくなるはずだ。
 明日の憲法記念日を迎えて、憲法というものにまともに向かい合ってみようではないか。それは国民の権利であり、義務でもある。
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