今回の「橋下発言」を巡る騒動は海外にまで大きく発展してしまった。が、橋下氏が外国特派員協会での会見で、沖縄米軍基地司令官に申し入れたことについて、米軍だけでなくアメリカ人すべてを侮辱した行為だったと謝罪して、一応騒動は収まりつつあるようだ。
だが、大阪市議会では自民、民主、共産の3党が橋下大阪市長に対し問責決議を行う姿勢を見せている。これに対し公明は、問責決議するほどの問題ではないとの立場を明らかにし、問責決議案は否決される見通しとなった。
しかしこの間、橋下発言を支持する立場からの声は一切出ず、「女性蔑視」「人権無視」といった「ためにする批判」ばかりが大手を振って横行していた。
橋下発言のどこが「女性蔑視」に当たるのか。
また橋下発言のどこが「人権無視」に相当するのか。
具体的な指摘は一切ないし、フェアで論理的な検証も一切行われていない。
おおよそ見当がつくのは、「売春・買春」を肯定しているかのように受け止められかねない部分を指しているのだろうということだ。だが、橋下氏が沖縄の米軍基地司令官に申し入れたことは、米兵による性犯罪が頻発し、米軍自体が米兵に対し、基地外での飲酒を禁じざるを得ない状況になっている現状に踏まえ、米軍兵士の性欲を発散させる方法として、「日本の法律で認められている範囲での」(※この表現は橋下氏の意図を明確にするため私が付け加えた)風俗営業を「活用」(何度も書いてきたが、この表現には私も違和感を覚える)したらどうか、と申し入れたに過ぎない。
米軍基地司令官は、橋下氏によれば(25日の日本テレビ系ニュースショーでの発言)「苦笑いを浮かべて、アメリカでは禁止されている」と拒否したようだ。だが、橋下氏は米軍兵士に「買春」を勧めたわけではない。
言うまでもないが、日本も現在は「売春・買春」は法律で禁止されている。
日本には「自分のことは棚にあげて」という常套句がある。橋下発言に金切声をあげたアメリカ、韓国、中国の政府要人にこの言葉を、のしをつけて差し上げたい。私は世界の売春・買春事情について詳しくないので、基本的にウィキペディアの記述をベースに、友人たちの体験談を踏まえて簡潔に述べておきたい。より詳しく知りたい方はウィキペディアだけでなくインターネットで調べる方法はいろいろあるのでお調べ願いたい。
まず近年における売買春の合法化は世界的な流れとなっているようだ。アジアではタイが完全に合法化され、台湾でも合法化が検討されているという。ヨーロッパでは売春が合法である国がほとんどである(ウィキペディアには「欧米では」とあるが、アメリカはネバダ州を除き禁止されている)。ただ売春のあっせん業は違法としている国も多いが、現在はオランダを皮切りにドイツ、オーストラリア、ニュージーランドなどは合法化している。
問題は従軍慰安婦問題で日本と対立している韓国の事情は知っておく必要がある。いわゆる「河野談話」は、私は事実に基づいていないと思っているからだ。あるいは世界中に誤解をばらまいた稚拙な表現が盛り込まれている、と言い換えてもよい。
実は韓国は売春大国なのである。韓国では、チケット茶房、ルームサロンなどを通じて売春が行われているという。売春業の規模は2003年時点で24兆ウォン(約2兆4000億円)でGDP比で約4%、20歳以上の韓国女性の25人に1人が娼婦であるという調査結果を韓国の刑事政策研究院は公表した。なお2007年に韓国政府の女性家族部が実施した実態調査では、韓国の風俗営業の経済規模はGDP比で約6%、約27万人が従事している。また外国人女性を騙して入国させ、監禁して売春を強要する事件も生じている。日本の暴力団もそこまではしない。
こうした状況を無視できないと、韓国政府も2004年に「性売買特別法」を施行したが、このとき約3000人の売春婦がデモを行い「売春させろ」「「職業の自由を守れ」と騒いだという。その後も、取り締まりが強化される旅に売春婦によるデモが続発し、2011年には売春婦による規制緩和を求める大規模なデモがソウルで行われ、裸になった売春婦たちが商店などに火を放ったり自らガソリンをかぶって焼身自殺を図るなど(※結果は不明)の示威行為を外国メディアの前で行ったという事実もある。
当局による取り締まりが強化された結果、日本やアメリカなど海外への「出稼ぎ売春」(※ビザは観光目的で取得したと思われる)が急増し、韓国政府関係者によると日本で働く売春婦は3万人に達するとされている。またアメリカではロサンゼルス警察当局関係者によると逮捕した売春女性の9割が韓国人であると伝えられている。いうなら韓国は売春輸出大国なのだ。
こうした現在の状況から考えても、いわゆる従軍慰安婦問題は無実無根であったと考えてもいいのではないか。
私は関東軍が従軍慰安婦を公募した事実まで否定はしない。が、韓国女性の売春行為に対する考え方の現段階での状況をみると、売春が法的に認められていた当時、大多数の慰安婦は自らの意志で応募したと考える方が論理的ではないかと思う。もちろん、中には関東軍の規律に違反して民家に押し入り強制的に女性を連行して慰安婦にしたケースも少なくはなかったと思う。が、そうした行為は明らかに軍の規律に違反した行為であり、場合によっては部隊の責任者が厳正な処罰をせず黙認したケースもあったのではないかとまでは推測できる。が、規律を非常に重んじていた当時の日本の官憲が、組織的に従軍慰安婦を強制連行したとは到底考えられない。
もし、軍の規律に違反した兵士が行った違法行為について韓国が日本に国家としての責任を要求する権利があるとすれば、同じく米軍の規律に違反して日本女性をレイプした米軍の沖縄基地に配属されているアメリカ兵士の犯罪行為に対し、日本政府はアメリカに国家としての責任を求める権利が発生することになり、そういう権利が国際的に承認されるということになると、おそらくアメリカは全世界から駐留兵士を引き上げざるをえなくなり(ということは韓国からも米兵は一人もいなくなることを意味する)、世界の平和と安定をかろうじて維持してきた現在の体制が根本から崩壊し、世界中が大混乱に陥ることは目に見えている。それでも韓国は従軍慰安婦問題について、違法行為を行った日本軍兵士ではなく、日本の国家責任を問うというのか。また問えると思っているのか。世界に名だたる売春輸出大国として、さんざん他国に迷惑をかけているのにだ。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の風潮にいつまで日本は屈し続けなければならないのか。
日本が梅雨の時期に入った。梅雨が明ければ、暑い夏が来る。そして8月になれば、毎年の恒例行事化している先の大戦を巡っての論争が再開される。テレビ局も、年末の忠臣蔵ドラマと同じく戦争ドラマを競い合って放映する。
先の大戦の悲惨さを後世に語り継ぐことは大切なことである。それは、日本だけが同じ過ちを二度と繰り返さないためではなく、二度と世界が同じ過ちを繰り返さないためにも、必要なことだと思う。
そのためにも、先の大戦とは日本にとってどういう戦争だったのかを、これまでの視点とは別の視点から検証する必要があるのではないかと思う。
先の大戦は、いったい「侵略戦争」だったのか。それとも「自衛の戦争」だったのか。
こんなばかばかしい論争が、間もなく戦後68年になろうとしているのに、いまだ延々と続けている。
私がなぜ「ばかばかしい論争」と断言したのか。
そもそも0か100かという極論で論争しても、まったく意味がないからである。先の大戦には間違いなく「侵略」的要素もあったし、これまた間違いなく「自衛」的要素もあったからだ。
「侵略戦争」派は侵略的要素だけを強調するし、「自衛戦争」派は自衛的要素だけしか見ない。これでは論争が噛み合うわけがないのは当然である。
日本には「盗人にも三分の理あり」ということわざがある。このことわざの解釈は一般的なものと違うかもしれないが、私は相手の話にもきちんと耳を傾けたうえで、自分自身の理論武装をしろという意味だと考えることにしている。自分にとって都合のいい事実だけを重視して、都合の悪い事実は無視するか、あるいは「でっち上げだ」と根拠も示さず一方的に否定するような主張は論争相手だけでなく、第三者に対してもまったく説得力を持たないことを知るべきである。
最近、中国の新聞が「沖縄の領有権は未決着だ」という主張を始めた。私は、その主張にも「盗人にも三分の理あり」という立場をとっている。もともと琉球は独立王朝であり、かつては中国に「従属」的立場をとっていた時期もあるのは紛れもない歴史的事実である。
また朝鮮はかつて琉球王朝以上に中国に「従属的」立場をとってきたことも紛れもない歴史的事実である。たとえば豊臣秀吉が朝鮮征伐に乗り出した時、朝鮮は中国に助勢を頼み、中国軍の力を借りて日本軍と戦ったことも紛れもない歴史的事実である。中国が沖縄の領有権をうんぬんするならば、より「従属」的関係が深かった韓国・北朝鮮の領有権を国際社会に訴えたらどうか。
日本としてはそう主張すれば、中国は何も言えなくなるはずだ。と同時に、尖閣諸島の領有権主張も同様に荒唐無稽にすぎないと、国際社会に訴えればいい。中国は自ら墓穴を掘ってしまったことを知るだろう。
先に述べた「盗人にも三分の理あり」ではないが、戦争や喧嘩(あるいは決闘)にも、戦争(喧嘩あるいは決闘)を仕掛ける側にもそれなりの言い分はある。その典型的な言い分(「口実」といってもいい)の一つに「やらなければやられる(と思った)」というのがある。
戦争論で有名なのは中国の孫子と旧プロイセン(中世にドイツ騎士団によって建設された王国で、第二次世界大戦後解体された)のクラウゼヴィッツの二人だ。いわゆる「孫子の兵法」は、戦争とは何かという本質論を追求したものではなく、戦争に勝つための戦略・戦術の体系を記述したもので、現代でも日本では経営学理論として読まれるケースが少なくない。孫子に対しクラウゼヴィッツの「戦争論」は、戦争(あるいは決闘)とは何かという本質的定義から始めているのが大きな特徴と言えよう。
実は私の学生時代、クラウゼヴィッツの『戦争論』がベストセラーになったことがある。とくに新左翼の学生たちがむさぼるように読んだようだ。非常に難解な書で、戦争に勝利するための戦略・戦術論というより哲学書的要素のほうが強かったと記憶している。もちろん純文学ではないから、難解であればあるほど高く評価されるといった意味で世界的評価を得ているわけではない。もっとも最近の芥川賞の受賞作品の傾向を見ると難解な文章よりわかりやすいが新鮮な目線で書かれた作品が選ばれる傾向が強くなっているようだ(私の個人的感想)。
クラウゼヴィッツが後世まで高く評価されているのは、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」という戦争についての本質を突いた定義にある。この表現自体が難解なので、私なりにわかりやすく再定義してみる。すると、こうなる。
「戦争とは外交手段の最終的形態である」。つまり通常の手段による外交(たとえば首脳会談など)によっては、他国と対立している問題が解決できなくなった時に行使される最後の手段が戦争である、という意味だと私は解釈している。
この解釈ならだれでも理解できるはずだ。この解釈に基づいて先の大戦を総括すると、日本だけでなく戦争に参加した当事国すべての侵略的要素と自衛的要素が見えてくる。
そしてこの観点に立てば、先の大戦についての検証は、日本にとっては明治維新を実現した運動(「革命」と呼んでもいい)エネルギーの延長上として位置付けるべき日本の近代化への歩みの必然的なプロセスだったという結論が生まれるはずだ。朝日新聞も読売新聞も昭和の時代をそれ以前の時代と切断して検証作業を行っているが、そうした検証作業から生まれるのは何の歴史的教訓にもならない。
これまでも何度も書いたので繰り返さないが、明治維新を実現した最大の運動エネルギーだった「攘夷」運動が、いつどういう過程で討幕運動に変質したのか。その検証作業が歴史家たちの間でまだ行われていない。この検証をきちんと行わないと、明治維新によって近代化への道を歩みだした日本が、昭和に入ってから「突然変異」的に軍国主義に傾斜し始めたわけではないことが見えてくるはずだ。
だが、大阪市議会では自民、民主、共産の3党が橋下大阪市長に対し問責決議を行う姿勢を見せている。これに対し公明は、問責決議するほどの問題ではないとの立場を明らかにし、問責決議案は否決される見通しとなった。
しかしこの間、橋下発言を支持する立場からの声は一切出ず、「女性蔑視」「人権無視」といった「ためにする批判」ばかりが大手を振って横行していた。
橋下発言のどこが「女性蔑視」に当たるのか。
また橋下発言のどこが「人権無視」に相当するのか。
具体的な指摘は一切ないし、フェアで論理的な検証も一切行われていない。
おおよそ見当がつくのは、「売春・買春」を肯定しているかのように受け止められかねない部分を指しているのだろうということだ。だが、橋下氏が沖縄の米軍基地司令官に申し入れたことは、米兵による性犯罪が頻発し、米軍自体が米兵に対し、基地外での飲酒を禁じざるを得ない状況になっている現状に踏まえ、米軍兵士の性欲を発散させる方法として、「日本の法律で認められている範囲での」(※この表現は橋下氏の意図を明確にするため私が付け加えた)風俗営業を「活用」(何度も書いてきたが、この表現には私も違和感を覚える)したらどうか、と申し入れたに過ぎない。
米軍基地司令官は、橋下氏によれば(25日の日本テレビ系ニュースショーでの発言)「苦笑いを浮かべて、アメリカでは禁止されている」と拒否したようだ。だが、橋下氏は米軍兵士に「買春」を勧めたわけではない。
言うまでもないが、日本も現在は「売春・買春」は法律で禁止されている。
日本には「自分のことは棚にあげて」という常套句がある。橋下発言に金切声をあげたアメリカ、韓国、中国の政府要人にこの言葉を、のしをつけて差し上げたい。私は世界の売春・買春事情について詳しくないので、基本的にウィキペディアの記述をベースに、友人たちの体験談を踏まえて簡潔に述べておきたい。より詳しく知りたい方はウィキペディアだけでなくインターネットで調べる方法はいろいろあるのでお調べ願いたい。
まず近年における売買春の合法化は世界的な流れとなっているようだ。アジアではタイが完全に合法化され、台湾でも合法化が検討されているという。ヨーロッパでは売春が合法である国がほとんどである(ウィキペディアには「欧米では」とあるが、アメリカはネバダ州を除き禁止されている)。ただ売春のあっせん業は違法としている国も多いが、現在はオランダを皮切りにドイツ、オーストラリア、ニュージーランドなどは合法化している。
問題は従軍慰安婦問題で日本と対立している韓国の事情は知っておく必要がある。いわゆる「河野談話」は、私は事実に基づいていないと思っているからだ。あるいは世界中に誤解をばらまいた稚拙な表現が盛り込まれている、と言い換えてもよい。
実は韓国は売春大国なのである。韓国では、チケット茶房、ルームサロンなどを通じて売春が行われているという。売春業の規模は2003年時点で24兆ウォン(約2兆4000億円)でGDP比で約4%、20歳以上の韓国女性の25人に1人が娼婦であるという調査結果を韓国の刑事政策研究院は公表した。なお2007年に韓国政府の女性家族部が実施した実態調査では、韓国の風俗営業の経済規模はGDP比で約6%、約27万人が従事している。また外国人女性を騙して入国させ、監禁して売春を強要する事件も生じている。日本の暴力団もそこまではしない。
こうした状況を無視できないと、韓国政府も2004年に「性売買特別法」を施行したが、このとき約3000人の売春婦がデモを行い「売春させろ」「「職業の自由を守れ」と騒いだという。その後も、取り締まりが強化される旅に売春婦によるデモが続発し、2011年には売春婦による規制緩和を求める大規模なデモがソウルで行われ、裸になった売春婦たちが商店などに火を放ったり自らガソリンをかぶって焼身自殺を図るなど(※結果は不明)の示威行為を外国メディアの前で行ったという事実もある。
当局による取り締まりが強化された結果、日本やアメリカなど海外への「出稼ぎ売春」(※ビザは観光目的で取得したと思われる)が急増し、韓国政府関係者によると日本で働く売春婦は3万人に達するとされている。またアメリカではロサンゼルス警察当局関係者によると逮捕した売春女性の9割が韓国人であると伝えられている。いうなら韓国は売春輸出大国なのだ。
こうした現在の状況から考えても、いわゆる従軍慰安婦問題は無実無根であったと考えてもいいのではないか。
私は関東軍が従軍慰安婦を公募した事実まで否定はしない。が、韓国女性の売春行為に対する考え方の現段階での状況をみると、売春が法的に認められていた当時、大多数の慰安婦は自らの意志で応募したと考える方が論理的ではないかと思う。もちろん、中には関東軍の規律に違反して民家に押し入り強制的に女性を連行して慰安婦にしたケースも少なくはなかったと思う。が、そうした行為は明らかに軍の規律に違反した行為であり、場合によっては部隊の責任者が厳正な処罰をせず黙認したケースもあったのではないかとまでは推測できる。が、規律を非常に重んじていた当時の日本の官憲が、組織的に従軍慰安婦を強制連行したとは到底考えられない。
もし、軍の規律に違反した兵士が行った違法行為について韓国が日本に国家としての責任を要求する権利があるとすれば、同じく米軍の規律に違反して日本女性をレイプした米軍の沖縄基地に配属されているアメリカ兵士の犯罪行為に対し、日本政府はアメリカに国家としての責任を求める権利が発生することになり、そういう権利が国際的に承認されるということになると、おそらくアメリカは全世界から駐留兵士を引き上げざるをえなくなり(ということは韓国からも米兵は一人もいなくなることを意味する)、世界の平和と安定をかろうじて維持してきた現在の体制が根本から崩壊し、世界中が大混乱に陥ることは目に見えている。それでも韓国は従軍慰安婦問題について、違法行為を行った日本軍兵士ではなく、日本の国家責任を問うというのか。また問えると思っているのか。世界に名だたる売春輸出大国として、さんざん他国に迷惑をかけているのにだ。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の風潮にいつまで日本は屈し続けなければならないのか。
日本が梅雨の時期に入った。梅雨が明ければ、暑い夏が来る。そして8月になれば、毎年の恒例行事化している先の大戦を巡っての論争が再開される。テレビ局も、年末の忠臣蔵ドラマと同じく戦争ドラマを競い合って放映する。
先の大戦の悲惨さを後世に語り継ぐことは大切なことである。それは、日本だけが同じ過ちを二度と繰り返さないためではなく、二度と世界が同じ過ちを繰り返さないためにも、必要なことだと思う。
そのためにも、先の大戦とは日本にとってどういう戦争だったのかを、これまでの視点とは別の視点から検証する必要があるのではないかと思う。
先の大戦は、いったい「侵略戦争」だったのか。それとも「自衛の戦争」だったのか。
こんなばかばかしい論争が、間もなく戦後68年になろうとしているのに、いまだ延々と続けている。
私がなぜ「ばかばかしい論争」と断言したのか。
そもそも0か100かという極論で論争しても、まったく意味がないからである。先の大戦には間違いなく「侵略」的要素もあったし、これまた間違いなく「自衛」的要素もあったからだ。
「侵略戦争」派は侵略的要素だけを強調するし、「自衛戦争」派は自衛的要素だけしか見ない。これでは論争が噛み合うわけがないのは当然である。
日本には「盗人にも三分の理あり」ということわざがある。このことわざの解釈は一般的なものと違うかもしれないが、私は相手の話にもきちんと耳を傾けたうえで、自分自身の理論武装をしろという意味だと考えることにしている。自分にとって都合のいい事実だけを重視して、都合の悪い事実は無視するか、あるいは「でっち上げだ」と根拠も示さず一方的に否定するような主張は論争相手だけでなく、第三者に対してもまったく説得力を持たないことを知るべきである。
最近、中国の新聞が「沖縄の領有権は未決着だ」という主張を始めた。私は、その主張にも「盗人にも三分の理あり」という立場をとっている。もともと琉球は独立王朝であり、かつては中国に「従属」的立場をとっていた時期もあるのは紛れもない歴史的事実である。
また朝鮮はかつて琉球王朝以上に中国に「従属的」立場をとってきたことも紛れもない歴史的事実である。たとえば豊臣秀吉が朝鮮征伐に乗り出した時、朝鮮は中国に助勢を頼み、中国軍の力を借りて日本軍と戦ったことも紛れもない歴史的事実である。中国が沖縄の領有権をうんぬんするならば、より「従属」的関係が深かった韓国・北朝鮮の領有権を国際社会に訴えたらどうか。
日本としてはそう主張すれば、中国は何も言えなくなるはずだ。と同時に、尖閣諸島の領有権主張も同様に荒唐無稽にすぎないと、国際社会に訴えればいい。中国は自ら墓穴を掘ってしまったことを知るだろう。
先に述べた「盗人にも三分の理あり」ではないが、戦争や喧嘩(あるいは決闘)にも、戦争(喧嘩あるいは決闘)を仕掛ける側にもそれなりの言い分はある。その典型的な言い分(「口実」といってもいい)の一つに「やらなければやられる(と思った)」というのがある。
戦争論で有名なのは中国の孫子と旧プロイセン(中世にドイツ騎士団によって建設された王国で、第二次世界大戦後解体された)のクラウゼヴィッツの二人だ。いわゆる「孫子の兵法」は、戦争とは何かという本質論を追求したものではなく、戦争に勝つための戦略・戦術の体系を記述したもので、現代でも日本では経営学理論として読まれるケースが少なくない。孫子に対しクラウゼヴィッツの「戦争論」は、戦争(あるいは決闘)とは何かという本質的定義から始めているのが大きな特徴と言えよう。
実は私の学生時代、クラウゼヴィッツの『戦争論』がベストセラーになったことがある。とくに新左翼の学生たちがむさぼるように読んだようだ。非常に難解な書で、戦争に勝利するための戦略・戦術論というより哲学書的要素のほうが強かったと記憶している。もちろん純文学ではないから、難解であればあるほど高く評価されるといった意味で世界的評価を得ているわけではない。もっとも最近の芥川賞の受賞作品の傾向を見ると難解な文章よりわかりやすいが新鮮な目線で書かれた作品が選ばれる傾向が強くなっているようだ(私の個人的感想)。
クラウゼヴィッツが後世まで高く評価されているのは、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」という戦争についての本質を突いた定義にある。この表現自体が難解なので、私なりにわかりやすく再定義してみる。すると、こうなる。
「戦争とは外交手段の最終的形態である」。つまり通常の手段による外交(たとえば首脳会談など)によっては、他国と対立している問題が解決できなくなった時に行使される最後の手段が戦争である、という意味だと私は解釈している。
この解釈ならだれでも理解できるはずだ。この解釈に基づいて先の大戦を総括すると、日本だけでなく戦争に参加した当事国すべての侵略的要素と自衛的要素が見えてくる。
そしてこの観点に立てば、先の大戦についての検証は、日本にとっては明治維新を実現した運動(「革命」と呼んでもいい)エネルギーの延長上として位置付けるべき日本の近代化への歩みの必然的なプロセスだったという結論が生まれるはずだ。朝日新聞も読売新聞も昭和の時代をそれ以前の時代と切断して検証作業を行っているが、そうした検証作業から生まれるのは何の歴史的教訓にもならない。
これまでも何度も書いたので繰り返さないが、明治維新を実現した最大の運動エネルギーだった「攘夷」運動が、いつどういう過程で討幕運動に変質したのか。その検証作業が歴史家たちの間でまだ行われていない。この検証をきちんと行わないと、明治維新によって近代化への道を歩みだした日本が、昭和に入ってから「突然変異」的に軍国主義に傾斜し始めたわけではないことが見えてくるはずだ。