劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

あの日がなかったら~駆け付けてくれた先生(2)

2016年04月06日 | 随想
 親子三人であったため三食に事欠くということは無かったが、母による微々たる収入では生活はひっ迫していったのだろう。父は緑が丘の家を売却し当座の生活資金に充て、坂本坂上の魚屋の裏に引っ越すという手に出た。一日中陽が当たらない六畳一間の暮らし…横須賀市立坂本中学校に入学して一年後のことだった。
 母は芯の強い人だった。細身だったが丈夫で寝込むことは一度もなかった。どんな状況でも明るさを失わず、息子と夫のために働いた。住居が変わるたびに、幼稚園の給食係、食堂の住込み店員、社長宅の住込み家政婦…。一方、父は相変わらず外に出て働くことは無かった。お坊ちゃん意識が抜けず、人に使われる立場に身を置けなかったのだ。好転しない生活環境の中で、父は追い詰めらていきやがて精神病院に入院するようになった。小説家・宮本輝氏が父親の入院している閉鎖病棟に面会に行った思い出を語っていたが、その体験は私のものでもあった。映画監督・小栗康平による『泥の河』(原作:宮本輝・1980年モスクワ映画祭銀賞)に私は泣いたが、両氏とも私と同世代で、父と子の関わりにおいてどこか通底するものがあり、昭和30年代を少年として過ごし父親世代を見つめていた点を共有していたからかもしれない。
 私は、いったんはあきらめかけた高校進学を母親に訴え、昭和34(1959)年、かろうじて横須賀市立商業高校に進むことが出来た。戦後のバラック校舎であった中学校では2,500名の生徒数だったが、わが横須賀商業(現:横須賀市立横須賀総合高校)は各学年4クラス、600名が集う白い木造建築の学び舎だった。校風は自由で、勉強はほどほどに、文科系と体育系の一つずつの部活動に参加することが当たり前とされた。就職した際に、応用力のある人材を育成しようという実業高校としての方針だったのだろう。
 私は1年D組、英語部(後に文芸部へ)・バドミントン部に所属し、“夢の高校生活”がスタートした。作曲家・遠藤実が高校へ進学できず、その憧れを曲にぶつけた『高校三年生』がヒットしたのは昭和38年である。住込み先ではあったが母との同居が叶い、アルバイトしながら送る高校生活は楽しかった。担任は、新婚間もない鈴木和昭先生。新潟県出身で横浜の国立大学へ進まれた先生は、善悪の区別には厳しかったが、苦学されたこともあって人間味があり、横浜鶴見のご自宅をお訪ねすることもあった。
 高校二年になり、小学生の時に抱いた「外交官」の夢が頭をもたげてきた。教科書に載っていた新渡戸稲造の『太平洋の懸け橋になりたい』が忘れられなかったのだ。父が若い頃欧州航路の船会社に勤め、ロンドンから持ち帰った毛布やインド象の置物が身近にあったことも影響したのだろう。私は大学進学を模索し始めた。経済的には学費の安い東京外国語大学を目指そう…横須賀久里浜から東京北区にあった外大まで出かけ前年度の入試問題を入手し、また、東京大学のウィンタースクール(大学院生による冬期講習)にも通った。手ごたえを覚えると同時に、実業高校の学習レベルとの差を感じた。この学校にこのまま通い時間を無駄にしてよいのか。そんな疑問が湧いたとき、文部省主催の「大学入学資格検定試験」が開始されることを知った。『これに合格すれば、大学を受けられる』―私は、職員室へ行き、先生に『僕は学校を中退して、「検定試験」を受けます』と告げた。その日の夕方、ペリー記念碑横の家に先生がいらした。『お母さん、佐野君が学校をやめると言っていますが…』と問いかけると、息子の意思を尊重する母は、反対はしなかった。『でもなあ、佐野。もしその「資格試験」に失敗したらどうする?大学入学資格なら、あと一年学校にいれば取れるんだぞ』その一言を聴いて、数学など不得手科目がある現実を思い起こした。私は『…そうですね。分かりました。学校に残ります』と頷いた。
 その後、大学はいったん断念することになった。経済的なこともあったが、外交官とは全く別の「演劇」や「上演行為」に関心が向くようになったからである。その原動力となったのが、文芸部への途中参加でありそこで企画上演した劇であり、卒業後も継続した文芸部仲間とのつながりであった。
 もし、あの日、鈴木和昭先生が駆け付けてくれなかったら、今の私は無い。高校時代からの「生涯の友」にも恵まれなかったし、「演劇」というライフワークにも出会えなかったに違いない。学校に残ったからこそ得られた「宝」は先生の差し伸べた手の賜物である。先生は、その後、横浜市立の高校を経て、東京家政学院大学教授を最後に退官され、現在は書家としてご活躍である。

※写真上…高校卒業アルバムから/3年C組教室(1962年)
写真中…先生と教え子たちの小旅行/長瀞・養浩亭(1963年)
写真下…佐野英(母)お別れの夕べでのご挨拶/新横浜グレイスホテル(2009年)


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