劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

瞬間芸術~写真の永遠性と演劇の詩~

2011年05月14日 | 演劇
 言うまでもなく、俳優は演劇にとって中心的存在である。戯曲に登場する人物を体現するにしても、筋運びの道具であってはならない。しかしともすると、観客の印象に残るのは物語であったり劇の筋であったりして、肝腎の俳優の演技そのものが心に焼きつくことは稀である。そこで私は、劇から一貫したストーリーや筋を無くすことを試みた。東京ドラマポケット上演の「オフィーリアのかけら」や「Shadows<夏の夜の夢>に遊ぶ人々」は、物語の断片であり、世界の多重構造であり、人物が置かれた状況の切り取りであった。観客に、物語全体を提供する代わりに、場面場面での一瞬の詩情や面白さを差し出すことで、俳優の演技を<筋運びの道具>でないものにしたかったのである。
 かなり以前のことになるが、日本橋高島屋8階ホールで、立て続けに二つの写真展を観た。その折のチラシや新聞の切り抜きに、<昭和の光、リフレイン。時代の顔 大竹省二写真展>・<カメラで切り取った「昭和」の日本。土門拳 全仕事・傑作展>とある。
 日本を代表する写真家の仕事に私は釘付けになり圧倒された。なんという力強さと美しさであろう!時代に寄り添い、人間を見つめ、撮影者自身の思いがその世界に投げられている。被写体に対するふくよかな愛と気品の高さ、日本人の在り方に対する誇りさえも感じさせる。その作品に定着された深さと時間を止めた永遠性は鑑賞者の心をとらえて放さない。
 演劇は空間芸術でありと同時に時間芸術である、そこが絵画や写真とは異なる。では、演劇という舞台芸術はやはり写真に匹敵する瞬間芸術を担えないのだろうか?俳優は、物語を運ぶ時間の僕(しもべ)にしかなれないのだろうか?いや、そんなことは無い。劇の筋から独立して、観客を捉えて放さない演技というものがかつてあった。
 京橋にある国立フィルムセンターで学生時代に観たTNP(フランス国立民衆劇場)ジャン・ヴィラール演出「マクベス」の記録映像。マクベス夫人を演じたマリア・カザレスが、罪の意識におののき、無表情のまま流す涙。わずか数分の映像だったが、今もなおその美しさと迫力が胸に迫ってくる。精神の深層部にあるキリスト教の原罪意識が生み出したもので、日本の女優には不可能な演技といえる。また、これもモノクロの記録映画であるが、歌舞伎公演「勧進帳」七世松本幸四郎の弁慶。花道でのゆったりした動きと躍動的な跳び六法による引っ込み。決して体の軸がぶれないその所作は足腰の安定感によるのもの。関守富樫への感謝と主人義経に対する思い、安堵と喜びが、その顔と全身から発散されるのだ。昭和初期の名優だからこそ、日本人の美意識も底流に流れていて、自然と醸し出すことができたのであろう。
 こうした俳優の演技は、劇の主題をも体現した瞬間芸術であり、演劇の詩がそこにあった例である。

※写真は、左側が土門拳氏、右側が大竹省二氏の作品。会場で販売されていたハガキを筆者が複写撮影しため、「本物」とは異なります。


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