社会人としてスタートを切った職場は、羽田空港の貨物倉庫だった。英国海外航空会社(BOAC)の貨物課の搭載係(Cargo Section/loader)。高校の親友の義兄がPassenger Sectionに在職していて、その方の口利きだった。学歴の差別はなく、実力次第では紺の制服(金ボタンのついたサイドベンツのジャケット)に身を包み旅客カウンターに立つことも夢ではない。しかも、搭載係でさえ月給は23,000円の高給で、大手銀行に就職した同級生の2倍であった。外資系の日本IBMでさえ、15,000円の頃である(1$=360円の固定相場)。
52年前、成田空港はなく羽田は唯一の国際空港で、貨物倉庫は旅客ターミナルから離れた場所にあった。当時は騒音問題などおかまいなく、ホノルルや香港からの到着便は深夜になるのは日常化しており、われわれ肉体労働者は出回り始めた即席ラーメンをすすり、埃だらけの倉庫の二階でわずかな仮眠をむさぼった。
やがて、その職場を去る日がやってくる。三交代制で飛行機への貨物や手荷物の積み込みや荷下ろしの仕事から、灰色の作業服にベレー帽から、いつかは夢見た…。ところが突然その夢は消え去る。ロンドンからの通知(Notice)が職員掲示板に張り出され「今後欠員が生じても補充はしない」との合理化案が示されたのである。19歳になっていた私は転機を迎え、英字新聞(‘The Japan Times’)の求人欄(help wanted)を頼りに、貿易会社の事務職に応募した。給料はやや下がったが、それでも一般の大卒の手取り額よりはるかに高かった。
ところがまもなく、再び人生の岐路に立たされることになる。肉体労働から事務労働に変わったものの、周囲は語学堪能の大卒がほとんどで、自分の将来像が霞んでしまったのだ。リア王はつぶやいた。‘Who am I?’―社会における自分、その存在価値、自分が自分であること。私は半年ほど悩みに悩んだのち、ある晩、正座して母に頼んだ。―『一回だけ大学を受験させてほしい』『…お前がそれほど言うなら』―母子が暮らしていた洋裁店社長宅の奥まった六畳一間での会話だった。
私は「大卒(当時は学歴は価値があった)」の肩書きが欲しくて、進学しようとしたのではなかった。正直なところ、考える時間が欲しかったのだ。自分を生き生きと生きるにはどうしたらいいのか。高校卒業後、仲間と演劇を中心とした公演活動をやっていたこともあり、演劇の理論的な勉強はしたかった。けれど、それが生計を立てることに結びつくとは考えられない。でもともかく4年間あれば、自分なりの結論は出るに違いない。社会の激流に押し流されそうになった自分を留める一本の杭が大学という別世界だった。
21歳の新入生から見ると、社会経験のない同期生は子どもに映った。もっとも彼らから私はオジサンに見えたらしい。類は友を呼ぶで、大学で親交を結んだのはほぼ同年齢の数人で、他学部からの転入者だったり休学明けの学究だったりの個性派たちだった。
4年間は素晴らしかった。古典から現代、伝統演劇から西洋演劇まで見て回り、自らも公演活動に明け暮れた。大学構内は学園紛争の渦中だったし、アルバイトも忙しく、キャンパスライフを楽しむなどというムードは一切無かったが、充実感をもって卒業期を迎える。ところがいざ就職という段になって、壁にぶち当たるのである。今思えば、これがダウンシフターとしての一生を送る「事始め」になった。ある日、今は亡き河竹登志夫先生の研究室でのことだった…。
※写真は、羽田の航空会社の親睦旅行・銀座の貿易会社の親睦旅行・早稲田卒業式当日文学部構内での記念写真(母と学友たちと)。
52年前、成田空港はなく羽田は唯一の国際空港で、貨物倉庫は旅客ターミナルから離れた場所にあった。当時は騒音問題などおかまいなく、ホノルルや香港からの到着便は深夜になるのは日常化しており、われわれ肉体労働者は出回り始めた即席ラーメンをすすり、埃だらけの倉庫の二階でわずかな仮眠をむさぼった。
やがて、その職場を去る日がやってくる。三交代制で飛行機への貨物や手荷物の積み込みや荷下ろしの仕事から、灰色の作業服にベレー帽から、いつかは夢見た…。ところが突然その夢は消え去る。ロンドンからの通知(Notice)が職員掲示板に張り出され「今後欠員が生じても補充はしない」との合理化案が示されたのである。19歳になっていた私は転機を迎え、英字新聞(‘The Japan Times’)の求人欄(help wanted)を頼りに、貿易会社の事務職に応募した。給料はやや下がったが、それでも一般の大卒の手取り額よりはるかに高かった。
ところがまもなく、再び人生の岐路に立たされることになる。肉体労働から事務労働に変わったものの、周囲は語学堪能の大卒がほとんどで、自分の将来像が霞んでしまったのだ。リア王はつぶやいた。‘Who am I?’―社会における自分、その存在価値、自分が自分であること。私は半年ほど悩みに悩んだのち、ある晩、正座して母に頼んだ。―『一回だけ大学を受験させてほしい』『…お前がそれほど言うなら』―母子が暮らしていた洋裁店社長宅の奥まった六畳一間での会話だった。
私は「大卒(当時は学歴は価値があった)」の肩書きが欲しくて、進学しようとしたのではなかった。正直なところ、考える時間が欲しかったのだ。自分を生き生きと生きるにはどうしたらいいのか。高校卒業後、仲間と演劇を中心とした公演活動をやっていたこともあり、演劇の理論的な勉強はしたかった。けれど、それが生計を立てることに結びつくとは考えられない。でもともかく4年間あれば、自分なりの結論は出るに違いない。社会の激流に押し流されそうになった自分を留める一本の杭が大学という別世界だった。
21歳の新入生から見ると、社会経験のない同期生は子どもに映った。もっとも彼らから私はオジサンに見えたらしい。類は友を呼ぶで、大学で親交を結んだのはほぼ同年齢の数人で、他学部からの転入者だったり休学明けの学究だったりの個性派たちだった。
4年間は素晴らしかった。古典から現代、伝統演劇から西洋演劇まで見て回り、自らも公演活動に明け暮れた。大学構内は学園紛争の渦中だったし、アルバイトも忙しく、キャンパスライフを楽しむなどというムードは一切無かったが、充実感をもって卒業期を迎える。ところがいざ就職という段になって、壁にぶち当たるのである。今思えば、これがダウンシフターとしての一生を送る「事始め」になった。ある日、今は亡き河竹登志夫先生の研究室でのことだった…。
※写真は、羽田の航空会社の親睦旅行・銀座の貿易会社の親睦旅行・早稲田卒業式当日文学部構内での記念写真(母と学友たちと)。
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