Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

ゴールデンウィークという意識はないものだが

2024-05-08 | Weblog

ゴールデンウィークというのは不思議なもので、後半はあっという間に終わってしまうものだな。

職業柄、ゴールデンウィークという意識はあまりないのだが。

ゴールデンウィークに上演してお客が入るという人も、入らないという人もいる。

「ゴールデンウィーク進行」というのは、編集業務に携わる者にとっても、原稿締切を気にする者にとっても、納期というか締切についてはピリピリするもので、お盆進行や年末年始進行とは、ちょっと違うんだな。相手によって決まるわけなのだが、その幅がずっと拡がるというか、相手によって振り幅が違いすぎるというか。

「節目のゴールデンウィーク」というものも、過去にはあるような気がする。

長期で海外に行っていたときとか。海外にいたために、件の締切のこと以外ではゴールデンウィークなどとはまったく気にしていなかったりとか。

ゴールデンウィークでブログを検索して思いだしていくと、切りがない。

昨年はこの時期、野中友博さんが亡くなったのだった。

2年前は、父が死んだ直後で、ただバタバタしていた。

3年前には熊本にいて、なぜか球磨川流域の調査などしていた。

4年前は、コロナの猛威に茫然としていた。

5年前は、信州上田から奄美大島に移動する時期だった。

6年前は、フィリピン・レイテ島で取材していたが、まだ仕事として実っていない。

7年前は、ひたすら共謀罪に憤り、有明防災公園での憲法記念日集会にPANTAさんらと一緒に出演した。

8年前は、燐光群アトリエの会の主催で、清水邦夫さんの『楽屋』を二十団体近くが上演する〈『楽屋』フェスティバル〉を開催していた。

9年前は、『屋根裏』の梅ヶ丘BOXでの8回目の公演をしていた。この時、国際バージョン『裏屋根裏』を除いても、オリジナル版だけで、国内通算二百ステージを越えたのだ。

10年前は、〈城崎国際アートセンター〉のオープニングにあわせて、豊岡にいた。

12年前は、坂本長利さんと『冬眠まんざい』をやっていた。憲法記念日は那覇で憲法講演会をした。UAと一緒に出た。

13年前は、震災のダメージの中に居た。

15年前は、清水弥生作『京都から二千匹発送しました。』の幕を開けた時期。

と、思いだしていくと、切りがない。

それ以前のゴールデンウィークのことはさすがにきちんと憶えていない。

ぴったり30年前は、『神々の国の首都』で初のヨーロッパ公演に行く寸前の時期で、大わらわのゴールデンウィークだったのは憶えている。……そして、なぜか鮮明に記憶にあるのだが、親しくしていたシナリオライター・劇作家の内田栄一さんが亡くなった直後だった。内田さんのお通夜で、演劇人が私一人だけなのが寂しかったが、藤田敏八、大山勝巳両氏といっぱい喋ったことを思いだす。他は若い映画人だらけで、石井聰亙さんもいたが、初対面の園子温という人が大騒ぎしていたのを思い出してしまった。どうでもいいが内田栄一さんは私の父と同い年であった。

40年前のゴールデンウィークには、そう、新宿で内田栄一さんが脚本を書き(神波史男さんと共同)藤田敏八さんが監督した佐木隆三原作の映画『海燕ジョーの奇跡』を観たのだった。まだ行ったことのないフィリピンと沖縄が海で繋がった場所なんだと感心したのを憶えている。三船プロの映画で三船敏郎が密航船の船頭だった。時任三郎も藤谷美和子も若かった。こちらも二十代前半の若者だった。そして、バブルの前であった。どんどん思い出してきたのだが、この頃はなぜかヤクルトホールの試写を観る機会が重なって(つまり試写の券を貰って)、池田敏春監督の『人魚伝説』やデ・パルマの『スカーフェイス』をそこで観た気がする。ゴールデンウィークじゃないと思うけど。当時の映画はまだ、最近の映画とは肌触りというか、温度が違っていた気がする。フィルムに写る肌と汗。

映画の記憶というのは面白いもので、あの映画を観た年だから××年、というふうに明確に憶えている期間の記憶がある。不思議なものだ。『カッコーの巣の上で』と『タクシードライバー』の年だから1976年、みたいに。……なんだい、そのあたり、もう五十年近く前になってきたじゃないの。

夜中に書き始めて放置していたが、まあ別にいいやと、ブログに上げる。

 

写真は今年のゴールデンウィークの新宿御苑の薔薇シリーズ。

 

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