官庁は今日が御用納め。
私も30日は休暇を取る予定なので、仕事も年内あと一日だ。
さあ、頑張っていきましょう。
さて、最近読んだ吉田秀和氏の「フルトヴェングラー」という本の中に、次のような言葉が出てくる。
「何を語るか」「どう語るか」
この2つの言葉がとても印象に残ったので、少し書かせてもらう。
吉田さんは、概ね次のような意味でこれらの言葉を使っていた。
「何を語るかは作曲家の領域、どう語るかが指揮者の仕事」と割り切って考える指揮者が多いようだが、フルトヴェングラーは楽譜の中に封じ込められた生命を解放し、作品の語ってきかせる王国を音を通じて私たちの前に目に築き上げようとしていた。
つまり、フルトヴェングラーはどう語るかだけではなく、何を語るかについても自分の領域だと考えていたのだと。
私は、なるほどと大きく頷きながら読ませてもらった。
そこが、フルトヴェングラーの音楽における魅力の根源だったんだ。
逆に、何を語るかを持たずに(=自分の心の奥底から湧き出てくる何かを持たないまま)、楽譜に書かれた音符をそれらしく音として響かせることを目標にしているような演奏に出会うことがある。
聴いたときは耳に心地よく響いていたにも関わらず、しばらく経つと殆んど何の印象も残っていないような演奏等は、まさにその代表格だろう。
これでは聴き手に感動を与えられるはずがない。
仕事でも全く同じことが言えるわけだけど、やはり語るべきものをしっかり持って、それを自分の言葉で表現することが最も大切なのではないだろうか。
「どう語るか」という表現方法はフルトヴェングラーとまったく違うけど、オットー・クレンペラーもまさしく「語るべきもの」を持っていたマエストロだった。
そのクレンペラーによるマーラーの演奏を集めたボックスセットがリリースされたので、早速聴いてみた。
とくに印象に残ったのが第7番。
正直に告白すると、マーラーの全交響曲の中で、この7番が私にとってもっとも遠い作品だった。
まず劇的な場面が少ない割にやたら長い。
そして楽しいのか悲しいのか、はたまた怒っているのか笑っているのか、聴きながらだんだん分からなくなってくることも、この曲が縁遠くなっていた原因だった。
誤解を恐れずにいうと、この曲を聴いていると、何やら得体のしれない動物と格闘しているような錯覚を覚えるのだ。
しかし、今回久しぶりにクレンペラーの演奏を聴いて、その「得体のしれないもの」に惹かれるようになってきた。
得体のしれないものを、クレンペラーは何の加工も施さずに、むしろ彼一流の接写レンズを使って大写しにしてみせる。
その結果、グロテスクで生々しい印象をうける箇所も出てくるが、それがかえって独特の快感につながっていく。
一方、4楽章のマンドリンとギターが参加する「夜の歌」あたりは、これ以上ないくらいチャーミングだ。
美しいものは美しく、グロテスクなものは変に化粧を施さずそのままの姿で表現されるクレンペラーのマーラー。
私はとても魅力的だと思った。
年末年始、きっと何回も聴きなおすことだろう。
苦手だったマーラーの7番が、少しだけ私に近づいてきたような気がする。
マーラー:交響曲第7番ホ短調『夜の歌』
<演奏>
オットー・クレンペラー(指揮)
フィルハーモニア管弦楽団(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)
<録音>1968年9月
私も30日は休暇を取る予定なので、仕事も年内あと一日だ。
さあ、頑張っていきましょう。
さて、最近読んだ吉田秀和氏の「フルトヴェングラー」という本の中に、次のような言葉が出てくる。
「何を語るか」「どう語るか」
この2つの言葉がとても印象に残ったので、少し書かせてもらう。
吉田さんは、概ね次のような意味でこれらの言葉を使っていた。
「何を語るかは作曲家の領域、どう語るかが指揮者の仕事」と割り切って考える指揮者が多いようだが、フルトヴェングラーは楽譜の中に封じ込められた生命を解放し、作品の語ってきかせる王国を音を通じて私たちの前に目に築き上げようとしていた。
つまり、フルトヴェングラーはどう語るかだけではなく、何を語るかについても自分の領域だと考えていたのだと。
私は、なるほどと大きく頷きながら読ませてもらった。
そこが、フルトヴェングラーの音楽における魅力の根源だったんだ。
逆に、何を語るかを持たずに(=自分の心の奥底から湧き出てくる何かを持たないまま)、楽譜に書かれた音符をそれらしく音として響かせることを目標にしているような演奏に出会うことがある。
聴いたときは耳に心地よく響いていたにも関わらず、しばらく経つと殆んど何の印象も残っていないような演奏等は、まさにその代表格だろう。
これでは聴き手に感動を与えられるはずがない。
仕事でも全く同じことが言えるわけだけど、やはり語るべきものをしっかり持って、それを自分の言葉で表現することが最も大切なのではないだろうか。
「どう語るか」という表現方法はフルトヴェングラーとまったく違うけど、オットー・クレンペラーもまさしく「語るべきもの」を持っていたマエストロだった。
そのクレンペラーによるマーラーの演奏を集めたボックスセットがリリースされたので、早速聴いてみた。
とくに印象に残ったのが第7番。
正直に告白すると、マーラーの全交響曲の中で、この7番が私にとってもっとも遠い作品だった。
まず劇的な場面が少ない割にやたら長い。
そして楽しいのか悲しいのか、はたまた怒っているのか笑っているのか、聴きながらだんだん分からなくなってくることも、この曲が縁遠くなっていた原因だった。
誤解を恐れずにいうと、この曲を聴いていると、何やら得体のしれない動物と格闘しているような錯覚を覚えるのだ。
しかし、今回久しぶりにクレンペラーの演奏を聴いて、その「得体のしれないもの」に惹かれるようになってきた。
得体のしれないものを、クレンペラーは何の加工も施さずに、むしろ彼一流の接写レンズを使って大写しにしてみせる。
その結果、グロテスクで生々しい印象をうける箇所も出てくるが、それがかえって独特の快感につながっていく。
一方、4楽章のマンドリンとギターが参加する「夜の歌」あたりは、これ以上ないくらいチャーミングだ。
美しいものは美しく、グロテスクなものは変に化粧を施さずそのままの姿で表現されるクレンペラーのマーラー。
私はとても魅力的だと思った。
年末年始、きっと何回も聴きなおすことだろう。
苦手だったマーラーの7番が、少しだけ私に近づいてきたような気がする。
マーラー:交響曲第7番ホ短調『夜の歌』
<演奏>
オットー・クレンペラー(指揮)
フィルハーモニア管弦楽団(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)
<録音>1968年9月