三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

北海道住宅文化の系譜~釧路の和風商家

2015年06月16日 05時38分23秒 | Weblog


北海道の住宅は、開拓の初期から官の主導する部分が強く存在し、
北米からの技術導入という側面が大きかったと思います。
メインの流れは、どちらかと言えばそちらなのですが、
それ以外にも、さまざまな住宅建築の動きはあったことと思います。
しかし現在、純日本風の古建築というのは、あんまり見ることが少ない。
北海道内で、それこそ瓦葺きの古建築というのはきわめてレア。
そういった建物は建てられたとしても厳しい気候条件から、
長期にわたっての存続が、難しかったと言えるでしょう。
それと同時に、札幌というのは明治開拓期から、
国家の威信をかけたパビリオン的な計画都市であって、
そもそもからして官主導型の発展を見せてきた経緯が色濃くあります。

そういう一般的な思い込みが強かったのですが、
この写真の住宅を道東・釧路で見学して、目からウロコでありました。
釧路発祥の地・米町地区に遺されている最古の木造民家・「田村家住宅」
現在は「米町ふるさと館」として公開されています。
端正な町家造り、屋根には瓦が載せられていて
建物左右には防火壁・うだつ壁が立てられている。
内部には、商家としての伝統的日本建築の趣が造作されている。
土間が出迎えてくれて、米屋さんとしての「みせ」空間が広がっている。
そこから通り土間が、建物右側を占有。
左手には、畳敷きの座敷がしつらえられている。
結構な床の間、書院、欄間飾りなど、正調日本家屋の趣が感じられる。
言われなければ、北海道の住宅建築とは思えない造作なのであります。
釧路が代表的な北海道太平洋側の港町は、
明治以降の「開拓」の歴史時間とはまた別の、
江戸時代、それ以前からの漁業を中心にした発展形態があって、
色濃く、明治以前までの民の建築、暮らしようがこうして明瞭に遺されています。
北の漁業基地として栄えた釧路の街は
この地では生産されない主食のコメが、最大の商品だったことでしょう。
安定的なビジネスとして、先行者利益を享受してきたことと思います。
そもそも「米町」という地名自体がそのことを証している。




こういった和風住宅建築では、北海道西海岸地域では
漁家の豪放な「番屋建築」が見られるのですが、
こちらの太平洋岸地域では、むしろこうした商家建築が遺っているのですね。
こういう和の雰囲気のデザインは、どのように仕事されたかという疑問に
展示で、上の写真のような和風住宅大工棟梁の名が明かされていました。
秋田から流れてきた大工棟梁で、釧路に多くの建築を遺したのだそうです。
防火壁・うだつとか、通り土間、漆喰の壁、座敷のしつらいなど、
和風の高級建築デザインを実現する匠として、技量を発揮したのでしょう。
釧路は寒冷とはいえ、冬期の積雪はほとんど見られず、
こうした和風建築もそう劣化が進まずに保存されてきたものでしょうか。
たぶん、寒冷対策だったのでしょうが、本州地区の商家建築とは違って、
すべての居室に天井が張られていて、構造は顕れていません。
ひとくちに北海道とくくって語ってしまうことが多いのですが、
やはりそれぞれの地域で発展の仕方には違いがあるものだと脱帽。
現在、どちらも洋風建築が多く遺っている札幌と函館でも
その作り手、手法には大きな違いが見られるとも言われます。
函館の洋風建築は優美さに力点があるのに対して
札幌のそれは、より実用的な力感・合理精神を感じるのだそう。

こういった文化の氏素性が明らかな古建築、
地域のなりたちを伝える大切な文化的地域資産として、
次世代に伝えていく必要があると思った次第であります。
コメント
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