三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

人間と職業

2013年06月30日 08時12分30秒 | Weblog



歴史などを知るほどに、現代という時代の不可思議さを認識します。
わたしは、日本という社会のなかで
北海道と東北地域で出版業、
それも住宅に関連する領域を中心にして生きているのですが、
そういう職業について、
別に親はなにも関与はしていなかった。
まったく自分の自由意志で、こうした仕事を始めて
30年以上を生きてきたのですが、
最近、そもそも職業ってなんだろうかと立ち止まって考えることがあります。

人間社会って不思議で、
たとえば、イスラムの都市、フェスでは、
人口がおおむね30万人規模が長く維持されてきたそうで、
どうしてその数なのかという,ひとつの理由に
人口社会規模が、そのサイズであれば、
自然的状態でそれぞれの人間がその類的存在の中で、
優位的機能性を発揮しうるからだ、
という説を聞いたことがあります。
30万人くらいの多様性があれば、それぞれ個性を発揮して生きる、
ということが人間社会全体として可能になる、という説。
この考え方が頭に残り続けているのですが、
そういうふうな考え方で見ていると、
北方日本の北海道・東北での「地方中核都市」はおおむねその規模。
旭川、帯広・十勝、函館、青森、盛岡、秋田など、
大体その人口規模が維持されていることに気付く。
そういった人口規模のなかでは、
多様性を持った人間の可能性が、おおむね納まって居場所があるということなのか?
こういうことの研究って「社会学」というようなことになるのかどうか。
きっと、人間存在って言うのは、
類的な、あるいは社会的な関係性で生存していく、
アリやハチのコロニー、社会に似たような面を持っていると思います。
そしてこれまでは、人口拡大の方向だけが社会の規定要因であった。
30万人というコロニー社会はひとつの単位にはなっていただろうけれど、
国という規模では、一貫して人口拡張が大前提で考えられていた。
そうすると、人間の可能性の「拡張」が可能であった。
「職業」というものも、そのようななかで多様化してきたけれど、
さて今後は、このことはどうなっていくのか。
すでに、「技術の伝承」ということが
難しくなっている職業領域が増えてきている。

休日の一日、
ごくなにげない買い物や食事作り、その準備などにかまけながら、
そんな妄想が膨らんでおりました。ふむふむ・・・。


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リーグ戦で全員勝ち越し?

2013年06月29日 05時10分30秒 | Weblog



どうも密かに期待している事態が現実化寸前であります。
それは、プロ野球パリーグで起ころうとしています。
「リーグ戦」というのは、そもそも
そのなかで優勝劣敗を決めるものなので、
どこかが勝てばどこかが負けて、
勝ち負けというのは同数になるのが、当たり前というゲーム。
そういう競技において、
こういう「ありえないこと」が、いまや実現寸前になって来たのです。
まぁ、それはセパ交流戦というシステムが生み出した産物なわけですが、
これは笑える珍事態だと、密かに「ことあれかし」と願っているのであります。

きのう終了時点現状では、パリーグで負け越しているのは
わが北海道日本ハムと、オリックスバファローズの2チームだけ。
しかしその2チームとも、負け越し数はそれぞれ1と2。
もし、きょう両チームが勝つと、
その時点で、パリーグでは負け越しチームはオリックスだけ。
そうなると、わが日ハムと西武が勝ち負け同数で並ぶので、
日曜日の結果でどっちかが「負け越す」確率は高くなりますが、
日曜日に、オリックスが勝ち、日ハムー西武が引き分けると、
これが実現してしまうのです。
きっと、この「大記録」、笑える記録として長く記憶に残るのではないかと。
で、その確率ですが、
きのうの両チームの勝ち方を見ていると
かなり勢いを感じる。
きょうも負け越し組2チームは勝つ方の可能性の方が高そうだと見ています。
そうなると、日曜日にこの大記録?にリーチがかかる。
まぁ、「日本中が大騒ぎ」にはならないでしょうが(笑)、
ワクワクしながら、ことあれかしと期待している次第であります。
こういう事態は、セリーグ側のふがいない現状を表しているわけですが、
こういう事態を生み出した「交流戦」について、
セリーグ球団側からは、廃止や縮小への意見が強いそうです。
プロのスポーツでのことなので、
興行的な部分での事情というものもあるとは思うのですが、
このままその論議を続けていると、
「負けるから止める」みたいな、負け逃げを際だたせるのではないかと
他人事ながら、密かに危惧させられます(笑)。
こういったパリーグの拮抗状態と、セリーグの精彩の無さを見ると、
どうもコミッショナーさんの役割、
こういったところにメスを入れたりすることの方が
大きい意義があるのではと思ってしまいますね。
ぜひ頑張って欲しいものだと思います。
事なかれ主義を世間にまき散らすのではなく、ファンに「面白い野球」を
提供する「番人」のように颯爽と活躍して欲しい。
というところですが、
こういった事態の渦の中心は、わが北海道日本ハムファイターズであります。
ここのところ、最大10あった借金がみるみる減ってきている。
素晴らしい!
きょうもあしたもあさっても・・・って、あさっては試合ないか(笑)
頑張れ、北海道日本ハムファイターズ!!
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住まいの「気品」

2013年06月28日 06時37分52秒 | Weblog



写真は、沖縄・美ら海水族館に隣接する民家園から。
「地頭代の家」という住宅の正面からのたたずまいです。
沖縄の伝統的な家には、「ヒンプン」と呼ばれる外部自立壁があります。
これは、一般的にはこんなふうにいわれている。

琉球建築の民家における典型的な様式のひとつで、門と母屋との間に設けられる「目隠し」をいい、中国語の屏風(ピンプン)に由来するといわれている。「魔除け」という役割もあるが、通りからの目隠しと、南風が屋敷へ抜けていくように設計されているという。

なんですが、
わたしには、「家格」を表現して、
住む人の人格などを表すと同時に、「かくあれ」という
いわば教育的な、人間の生き方を教え諭すような表現に受け止められる。
世間から帰って来て、そこで世俗的な関係から遮断させられ、
内省的で、心静かな空間に身も心も戻す、
そんなふうな「暮らしの精神浄化装置」のように思えてならない。
まぁそれが、「気品を持ったたたずまい」ということに繋がる。
家というものに、ある精神性を込めていた時代を
わたしたち現代は、記憶として持っている。
しかし今建てられている住宅を振り返ってみれば、
「気品」という精神性概念がいかに欠如しているかを痛感する。
残念だけれど、そういう気分がどうしてもぬぐえない。
わたしは、住宅について取材している人間だと自己規定していますが、
その取材には,当然ながら、空間的なばかりではなく、
時間的な幅も持っているべきだと思っています。
現代の最新知見を家づくりに生かすのは当たり前だけれど、
そういった精神性についての部分は
なかなか論議されることが少ないのだと、なんとなく気付き始めています。
それはきっと「現代」という時代が、
大量生産・大量消費を前提として、資本主義が世界を席巻している
そのような時代を映し出していることを表している。
そういう時代に、少なくとも100年以上、いや、基本的には
永遠にその「家」が続いていくように祈念して建てられるような
「祈り」のような概念は想像しにくいのかも知れない。
歴史的な住宅を見続けてきて
その根底には、そういった「家の永続への祈り」が普遍的にあると確信します。
きっとそういったものが、
「気品」のあるたたずまいとして、
いわば生き抜いていこうという人間の知恵として、
そのまま表現されているのだと思われるのです。
社会全体が、資本主義的競争に勝つことを目的にしたものになって、
日々の株価の動きに一喜一憂するようなものになっているなかで
こういった建物を見ると
雷に打たれるような思いがいたします。
さて、ひとが幸せに生きるとは一体なんなのでしょうか?


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ひとを呼ぶ木陰

2013年06月27日 07時17分49秒 | Weblog



きのうは、札幌のオフィスに宮城県の工務店さまご一行が来社。
行ったり来たりしている身にはやや面はゆい面もあるのですが、
お迎えして、最近の北海道の住宅事情などをお話ししておりました。
なんですが、小型バスを仕立てられたご一行様、
わが社のアプローチの木陰でしばし、たむろしている。
どうもきのうは日中暑かったので、
木陰にみんな吸い寄せられていくのですね。
その上、帰られる暖になっても、ご丁寧にみなさんもう一回、
その木陰でゆったりされている。
その木陰を生み出しているのは、2本の「カツラ」の木。
10年ほど前に植え込んだときには、高さも2mくらいしかなかったのですが、
今や、6m以上になっておりまして、
枝がどんどん伸びて、お隣にかかる部分は伐らせていただいたりしている。
まぁ、管理している方はハラハラもする存在なのですが、
でもまぁ、みなさんご了解はいただいている。
こういうふうに訪ねてこられるみなさんには、ほっとする空間にもなる。
オアシス、という言葉がぴったりだと思うのですが、
緑が元気にしている様子は、
その豊かなグラデーションや、枝振りの見事さ、
風がわたっていくすがすがしさなど、
人間の五感をここちよさヘと誘う要素に満ちあふれているのでしょう。

ちょうどアプローチはこの緑の屋根を伝って,玄関ドアに至るので、
見た目にも、心理的にも、よきナビゲーター役を果たしてくれている。
緑という,誰もが癒される存在を活かして使うのは
家づくりとか,建築を考える人間には不可欠な要素だと思います。
どんなにステキな家でも、緑の衣装がまとわれていない建物には
なにか不完全な部分を感じてしまう。
これまで見てきた心に残る建築や住宅には、
やはり、かならずと言っていいほど緑との共存での映え、という要素があった。
京都の名所旧跡で、緑の衣装のない建築ってほとんどないと思う。
とくに日本文化では、緑はきわめて重要な位置を占めるバイプレーヤーなのでしょうね。

さて、そういうカツラの木ですが、
いまや成長しすぎて、「これ、30mにもなるんだよ」と
知人たちから脅かされております。
いまのうちに「成長点を止める」ようにしていないと庭木としてコントロール不能に
なってしまいかねない。
しかし、6m超の樹高なので、さてどうやって刈り込むか、
頭を悩ませてもいる次第です。
ふむふむ、さて困ったなぁ・・・。
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ナゾの四字熟語~「請勿打鼓」

2013年06月26日 07時43分11秒 | Weblog



いつも散歩する北海道神宮の本殿の門脇に、大きな太鼓があって、
毎朝6時には、神職さんが出てきて
時報のように太鼓を叩いてくれます。
これが楽しみでして、なるべくその時間に間に合うように行きたいのですが、
なかなか都合が合わないことが多い。

この太鼓というのが、
打たれるとその鼓膜の振動が、近づいていると強烈に響いてくる。
まさにはらわたを波打たせてくれるのですね。
あ、これってわたしの皮下脂肪の厚さのせいなのかなぁ(笑)。
やや恥ずかしい・・。
でも、この全身を打たれるような感覚は、一度味わうとクセになる。
神さまが鉄槌をくれているようで、ありがたいのです。
で、どうも密かなファンが多く、寄り集まっております。

さて、そのありがたい太鼓なんですが、
よくみると、文字が書いてありまして、右側のようなんです。
その2文字目、勿~たぶん、ふんと読む~の意味がわからなかった。
そこで調べたら、勿というの文字には、禁忌的な意味があるそうです。
~~するな、というような意味なんだそうです。
勿来の関~なこそのせき~というのは、古代の蝦夷の国と、関東を分ける関だったのですが、
その勿というのは、ここを通るな、来るな、という意味だと言われるとおりなんですね。
そうすると、勿に「請」をつけているのは、
ものを頼んだりするな、依頼心を断て、というような意味になるのでしょうか?
そういう心を込めて打つ太鼓、ということになるのかなぁ。
なかなか、謎を秘めて心を試すような4文字熟語で、
毎日、その謎が頭のなかを駆け巡っている次第。
だれか、この謎を明解に解き明かしてくれないかなぁ・・・。
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古参PCユーザーとIT進化

2013年06月25日 06時44分12秒 | Weblog


きのう、中学校時代からの親しい友人とある機会があって話していた。
かれはそれこそMacの創成期からの個人ユーザーで
いまでも家と職場とで何台もMacを使い続けている。
けれど、Facebookなどのサービスは利用していない。
「個人情報を軽々に渡してしまうのは、どうも・・・」という意見。
「友だち5000人超」などと自慢げなひととは
いまや、人種的な違いも感じさせられる。
それと、Macについても、いまだにPowerPCチップの「G4」を使い続けていたりする。
Macが業界標準のインテル製品チップに移行してからは
それまで購入してきたAdobe製品のアップグレードにも付き合わなくなっている。
それで、きのうある仕事を頼まれたのだけれど、
それもかなり古い環境で制作したデータを渡された次第。
こちらは、そういった仕事がメインなので、ある技術情報をお知らせしたりしたが、
なんとなく、彼が抱いている疑念というか、わだかまりはよくわかる。
PC革命の第1世代であるひとびともそろそろ老年期を迎え
「技術進歩」というものとの距離感をかみしめ始めている。
「わかるけど、それはどうなんだろう?」という疑念がぬぐえないのですね。
わたしなどは、相当にこういった技術変化について行っているかも知れないけれど、
技術を覚えさせられることには少し、疲れを覚えてもいる。
体の中から、新しいことへの「あぁ、またこういうのかよ」という
内語が沸き起こって来ることを抑えられない。

結局、何度目かの欧米主導の「技術革命」のはじまりから安定期への移行期に
いまわたしたちは、世界史的に見ているのでしょうが、
あまりにも変化のスピードが速すぎて
人間の柔軟性の側で処理しきれなくなってきているのかもしれない。
パソコンの発明はすごい人類史的な事件だと思うし、
それは、人類の向かっていく方向性をあきらかにしている事象だと思っている。
けれど、その道筋は、もっと柔軟なものであるべきなのではないか。
そんな思いを、共有させられたと言うことです。
さてまぁ、そんな中高年のため息などは吹っ飛ばしつつ、
「友だち5000人」の人たちが、
イニシアティブを取っていく社会に、本当になるのでしょうか?

<写真は、創建140年の北海道神宮境内の「開拓神社」社殿>

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夏至の好天・好日

2013年06月24日 05時11分16秒 | Weblog



この時期は、北海道はさわやかさに満ちた好天が特徴。
しばらくジメジメが続いていましたが、
きのうは1日、すばらしい好天に恵まれておりました。
この調子で、本来の北海道らしい季節を楽しませて欲しいものだと思います。
写真は、朝の散歩のときに遭遇した北海道神宮境内に棲んでいるリス。
かれらは生存のために捕食活動に余念がないのでしょうが、
人間との接触領域での行動で、好感度が高い。
ネズミに近い動物だけれど、
ネズミは嫌われているのに、かれらはあの独特の動作が好感を呼ぶのか、
まぁ嫌いな人はあまりいないようであります。
北海道神宮は、人工物が森の中に調和しているので、
こうした野生小動物には生きやすいのでしょう。
しばしの間、カメラを通して遊んでもらっていました。

ここしばらく休日と言っても完全に休みという日は少なかったので
やや、体力が落ちてきていましたので、
きのうは意識的に「なにもしない日」と決めていました。
そんなふうに思っていたら、
もうかれこれ35年くらい前に購入して、
わが家でも一番古株の冷蔵庫がおシャカになっておりました。
先日から、ややコンデンサーの音がうるさいかなぁとは思っていたのですが、
ふと気付いたら、どうも冷凍庫の中に入れていたものが
融けだしていて、その雰囲気に気付いた次第。
中のモノを片付けて、丁重に冷蔵庫としての寿命の完遂に感謝していました。
わが家では、壊れないモノは買い換えたりせず、
必要に応じて、大型のものに主役は譲らせつつも、
バイプレーヤーとして、頑張ってもらっていました。
キッチンの主役冷蔵庫の位置は、もう30年も前に譲っていましたが、
その後も、2台目・3台目の冷蔵ストックとして現役だったのです。
さすがここまで長寿命になると、一瞬、修理しようかなぁとも考えましたが、
ここまで古いと、電力使用量も大きいタイプでしょうし、
二の足を踏んでしまいます。
第一、修理と言っても部品供給があるのかないのかも不明。
たぶん、ない確率のほうが高そうであります。
そんなことで、きれいに中を掃除してやって、
役割を終えた戦士として、処分の仕方を考え始めております。
こんな休日の過ごし方も、いいかなぁと思っておりました。

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あまちゃんブーム

2013年06月23日 12時01分34秒 | Weblog



坊主が、なぜかNHKの朝ドラを見ているのを
不思議なことがあるもんだなぁと思いつつ、ついいっしょに見ていたら
すっかり中高年お父さんもハマってしまった(笑)。
原作と脚本の「宮藤官九郎」さんという人の名前もまったく知らず、
だいたい朝ドラマなんて、いったいいつ見たことあったかなぁ、というわたしが、
すっかり能年玲奈ちゃんの大ファンになってしまっております(笑)。
アイドルという、わたしたちの年代ではあまり存在しなかった概念に
一般性を与えて、その中心的概念として「小泉今日子」さんを持ってきて、
彼女に母親役をさせて、AKB48時代に立ち向かっている。
まったくといっていいくらい、興味次元が違う年代からすると
そうか、すでにこういうことが、ある社会的普遍性を獲得しているのだと
そんな驚きの思いがしてきますね。

時代の進行スピードが速くなり、高齢化社会もあっていくつもの時代感覚が共存している。
奈良時代という歴史時代がありますが、
あれって、たかだか74年しかなかった。
それに対して、現代は昭和というひとつの年号時代だけでも63年にもなっている。
そして、奈良時代の平均寿命に比べて、
現代はたぶん2倍近いし、
情報の流通量は、万倍に近いくらいに隔絶しているに違いない。
ちょっと、話が逸れてしまったけれど、
時代の流れで、ひとびとの興味分野は大きく変遷していくのでしょう。
ちょっと前までのNHK朝ドラで、アイドルという存在自体に着目するドラマは
想像すらしなかったように思われるのですね。
大衆社会化というのは、加速度的にいま、進化拡大しているのでしょうね。
そういった時代にあって、アイドルという現象も
ほんとうに面白い社会現象として、相対化の段階に至っているように思う。
いうまでもなく坊主が興味を持ったのは、
AKB48の時代を生きている若い感受性として、
そういった時代感覚にビビットに反応したに違いないと思うのです。
ただ、このドラマ、東日本と西日本で視聴率に大きな開きがあって、
西日本ではイマイチ、反応が鈍いと言うことだそうですね。
そういうのも興味深い。
さて、ドラマは岩手北三陸から舞台を東京に移して、
本格的に「アイドル」という存在に肉薄していくようです。
これまでは、北三陸というローカル性、エスニシティへの
国民的な興味もあったに違いないのですが、
さて、純度の高いアイドル、という社会現象論に迫っていって、
どのような視聴率的な推移を見せるのか、注目しております。
むむむ、がんばれ、あまちゃん!

写真はまったく無関係の北海道神宮・社殿。御神輿です。
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蝦夷梅雨なのかなぁ

2013年06月22日 07時06分37秒 | Weblog


一昨日、仙台・秋田から帰ってきましたが、
今週は北海道、ずっと雨模様の日々が続いております。
梅雨というのは、どんな季節感なんだろう、不思議な季節なんだろうなと
北海道に生まれた子どもとしては思っていたのですが、
東京での暮らしも体験して、そして北海道に帰って来て
この季節感を体感してきてみて、
やはり北海道にも、梅雨はあるように思います。
というか、北海道では春夏秋冬だけでは捉えきれない
さまざまな「季節」があるように思います。
春は、ほとんど印象に残らないのですが、
考えてみると、北海道の春は雪が残っていて、
それがなかなか融けてくれない期間が、春なのかもと思えます。
ときどき冬がぶり返してくるけれど、
じっと雪解けを待つ、あの時期が春ではないかと。
そして雪が融けると、一気にさわやかな晴天が続き、
ほとんど初夏のような季節が一気に訪れてくる。
そのあと、「ぐずついた日々」は、結構ある。
春が完全に終わって、夏がなかなか来ない時期ってある。
ちょうどいまがそんな時期ですね。
場合によっては、このような状況が延々と続く場合がある。
また、こういう状況と、さわやかな初夏が交互に現れるとも思える。
そんなオセロゲームが続いた後、一瞬、本州地区と似た蒸暑の気候が訪れる。
この時期は、本当に短いけれど、年によっては異常に長い年もある。
一貫して、湿度は低いけれど、
オセロゲームのように好天とじめじめが交互に訪れるように思う。

なんですが、本日も北海道神宮周辺を散歩させていただきました。
曇天でも、多少の雨でも、
やはり森の中をあるくのは気持ちがスッキリします。
さて、今日もがんばるぞ、っと。

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上下階窓での「温度差換気」

2013年06月21日 08時51分37秒 | Weblog



先日の秋田県仁賀保での住宅取材から。
なかなか各地の工務店さんは頑張っているなぁと実感させられました。
というのは、夏の冷房対策についての取材でのひとこま。
北海道を中心に発行している住宅雑誌の側としては、
夏の室内気温のコントロール、涼房というものは新しい気付き分野。
頭では理解したつもりでも、なかなかとっさには実感を伴っては出てこない。
そういう取材の中で、1階の階高がやや高く3.5mくらいある居間に
高い位置に「排煙窓」が開けられていまして、
それの電動のセンサーが取り付けられていた。
ややごつくて、これはどうかなと思わされたのですが、
その機能面のメリットを教えていただいたとき、
「2階の窓といっしょに開けていると、この1階の高窓からは冷気が下りてきます」
と言われて、そううまくうくかなぁと思ってしまった。
で、そんな表情を浮かべてしまったのを、めざとく見つけられ
「温度差換気ですよ」と咄嗟に言われ、はっとさせられた次第。
そうなんです、
この「温度差換気」が日本の通風換気の基本要素なんだと再確認させられた。
北海道でも、冬の内外温度差を利用して、
「パッシブ換気」という名称をつけて普及が進んでいますが、
むしろ、日本の温暖地・蒸暑地ほど、
この「温度差換気」を活用しなければならない。
屋根のある建物の中では、空気は上に行くほど温度上昇するのは物理の基本。
で、その基本をわきまえていれば、
2階が高温になるのを利用して、
そこからは暑い空気を排出させ、下の階からは外気の新鮮空気を導入すればいい。
そうすれば、風のない日にも通風を呼び起こすことが出来る。
先日見学して来た沖縄の中村家住宅でも、やはり基本は同じ考えで
屋根頂部に空気抜きをしつらえ、室内空気の排出経路を明確にしていた。
いまから少なくとも250年ほど前の建築で実現させている
非常にパッシブな工夫であります。
中村家では日中にセラミックである屋根瓦に「蓄熱」させ、
夜間には、その屋根頂部に向かって、
開放的な室内をわたった空気が、どんどん上昇気流を起こしていた。
自立循環型住宅の研究では、
ひたすら方位にこだわった「卓越風」の分析が多かったけれど、
どうもそれでは解決はしないのではないかと思わされていました。
風は、その地域で確かに方位に卓越性はあると思うけれど、
その方位にこだわるよりも、
建築実務では、やはり通気の仕掛け、それも「通気」という言葉のイメージが
どちらかといえば、平面図的であるのに対して、
そうではなく、建築物理的に、見えない「温度差」に注目すべきなのではないか、
そんな風に思っております。
さて、どうなんでしょうかね?


写真は、いいのがなかったので、
涼やかな水の中を泳いでいるなまず、じゃなく、「みたいな」ヤツです。

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