性能とデザイン いい家大研究

こちら 住まいの雑誌・Replan編集長三木奎吾です 
いい家ってなんだろう、を考え続けます

神社ってなんだろう

2013年08月31日 05時21分43秒 | Weblog



さて、ここんところ、というかこの10年以上前くらいから、
全国の神社をよく散策して歩くようになっております。
それぞれの地域に「鎮守」として、
個性豊かな神社が存在する。
日本には、西欧的な概念としての「パブリックスペース」というものは
そのままでは存在しないように見えるけれど、
鎮守の森が果たしてきた役割自体は、語の本来的な意味でパブリックそのものだと思う。
神社の数はいま全国に8万を数えるのだそうです。
これほどの規模で日本人のこころに根ざしてきた文化は、
GHQによる「国家神道」という一刀両断で決めつけられるような存在とは思われない。
いや、むしろ、その国家神道という指摘の流れを代表するような
「靖国」の方が、きわめて異端な神社だと思う。
靖国は、明治の陸軍創設者・大村益次郎の銅像が巨大に鎮座することから
明らかなように、薩長政権がその将兵の鎮魂のために
征服王朝としての軍事的誇示のために首都に造営した特殊な社だと思う。
このきわめて異質な1社の存在が、
全国の神社のパブリック性を見えにくくしてしまい、
国際的な関係を危機に落とし込んでいると思う。
神社の本質は、むしろこの列島社会に根付いていた自然崇拝の残滓に近い。
Wikipediaの「神社」条項の「起源」を見ると,以下のよう。

神社の起源は、磐座(いわくら)や神の住む禁足地(俗に神体山)などでの祭事の際に
臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、本来は常設ではなかった。
例としては沖縄の御嶽(ウタキ)のようなものだったと考えられる。
創建が古い神社には現在も本殿がないものがあり、
磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿があるのみの神社、社殿が全く無い神社がある。
「神社には常に神がいる」とされたのは、
社殿が建てられるようになってからだと言われる。
古代中国にも土地神などを祀る「社」が存在したが、
屋根が付いた社を建てるのは「喪国の社」(『礼記』郊特性)とされ、
日本の社とは異なる。そのため、多くの神社に社殿が造営された背景について
諸説が述べられた。
社会の発展により自然から人格神へと信仰の対象が変わったためとする説、
7世紀後半から盛んに造営された仏教寺院の影響とする説、
武器や貢納物を納めた神庫(ほくら)が先行して存在したとする説、
7世紀後半以後に律令国家が祭祀のため建設したとする説などがある。
古社はそれぞれの縁起により御神体の近くに社殿を構える事が多い。
新しく神社を造営するときは、適当な場所に分霊や氏神を祀った。
場所の選定の仕方は様々で、縁起から選ぶ、清浄な場所を選ぶ、
参拝のしやすさで選ぶなどがある。
社殿を海上・山頂、現代ではビルの屋上などに祀ることもある。

っていうような意味合いの方が、
日本的感受性として受け入れやすい。
ヤマト朝廷という存在も、こうした列島住民の価値認識に沿うように
神社文化を利用してきたのだろうと推測する。
縄文以来の根強い自然崇拝をかたちにしてきたものの残滓が
そこに投影しているのではないか。
そんな思いを強く感じてきている次第です。


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熱田神宮神楽殿

2013年08月30日 06時08分46秒 | Weblog



大きな神社になると、「神楽殿」という付属建築がある。
聞くと、普通の御祓いの規模が大きくなると、
「神楽」を催して、神さまに願い事をお伝えするようになるのだそうで、
そのような場所として、神楽殿という施設が使われるのだそうです。
残念ながら、北海道神宮には神楽殿はないはずであります。
出雲大社の神楽殿には、日本一の大注連縄が張られているので有名。

ということで、熱田神宮では本殿右に、立派な建物が建てられている。
JIA日本建築家協会の作品集的なサイトでも紹介されていて、
上田徹さんという建築家が設計された建物のようです。
民俗的な取材で見学していたので、
そういった「作品」的な見方の準備はしておりませんでしたので、
予備知識はありませんでした。
エントランスの、柱がなく屋根だけが懸かっている場所に引き込まれ、
「おいおい、これが「方持ち」かよ~~」とびっくり。
出張っている部分が10mくらいの奥行きがありそう。
こういう空間には、なにか、安心感というか、郷愁を感じる。
屋根だけがあって、外気に直接抱かれているというシチュエーションに
「温暖」を体感できるという意味合いなのか。
札幌育ちのわたしなど、北国でこういう空間に痛く憧れを持っていた。
しかし、構造的には大変難しいだろう。
ということは、と見ると、構造の柱、梁の太さが半端ではない。
で、スタッフの巫女さんに聞いてみたら、
その娘さんも建築的な興味を持っているのか、
いろいろ親切に教えてくれる。
なんでも、これは米ヒバという樹種だそうで、
太さは、直径で1mを越すような材料がふんだんに使われている。
当然、日本の自然林にはこのような太さの樹木はないということで、
北米から切り出してきて利用しているそうです。
ヒバなので、香りが半端ではなく、
建築直後は、その香りが評判になっていたということ。
まだ建築してから4~5年だそうです。
さもありなん、であります。
まぁなんにせよ、大迫力の巨大軸組空間が展開しておりまして、
その素材の圧倒的質感には、打ちのめされるばかりであります。
思わぬ場所で、不意打ち的に面白い建築に出会うことが出来た次第。
う~~む、熱田神宮、なかなか奥が深いなぁ・・・。
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熱田神宮 信長寄進の塀

2013年08月29日 06時26分26秒 | Weblog



わたしも、日本史の中で好きな人物を上げろといわれれば、
やはり信長さんは、かなり上位に来るというごく普通の一般人であります(笑)。
歌舞伎者であったとされる青年期までの
時代精神に鋭敏な感受性を持っていたところ、
あの徳川家康が、最後まで同盟関係を止めなかったこと、
たぶん、自ら神になるという強い思いを持っていただろうことなど、
日本人が生み出してきた個性の中でも、飛び抜けて面白い。

たぶん、日本の「政治史」では、
古代国家が「律令制」をこの列島社会に導入したことと並んで、
封建主義に基づく中央集権的な絶対権力を確立しようとした信長以降の2つが、
画期的だったことなのだろうと思います。
明治以降は、それを上回る大変革でしたが、
それは、もっと世界史的レベルでもあろうと思います。
律令体制確立については、日本の「貴族階級」による
列島支配の道具だったのですが
その基本になった、漢字の社会への本格的導入・文書主義の確立
そのことの徹底的推進が、列島社会に大きな変革をもたらせたと思います。
しかしそれは、やはり長期にわたって破綻し続けていき、
信長の出現を持って、本格的に権力機構としては清算された。
「天下布武」という単純明快な戦争主義への純化はむしろ清々しく受け止められた。
楽市楽座・兵農分離などの政策などを持って、
信長という人物は、わかりやすい大変革をどんな敵対者をも徹底的に叩いて
その政治信条を実現していったのでしょう。

で、かれは徹底した合理主義者のようにも見えるけれど、
飛躍を獲得した,対今川家との桶狭間戦争での勝利に当たっては
この熱田神宮で「出陣式」を開催して、
戦勝祈願後、社殿奥から鳥をたくさん放させて奇瑞を演出させ、
全軍の士気を大いに高めた、というような説話が伝わっている。
かぶき者としての信長、およびそのスタッフたちには
ありえると思わせるエピソードですね。
で、その一事のあとのエピソードを今回知りました。
写真のように立派な塀を熱田神宮に戦勝御礼として寄進したそうなのです。
瓦がたっぷりと挟み込まれていて、なかなか実用としてもデザインとしてもいい。
すべて消えてしまったという死に方も劇的で、
信長という人物の痕跡ってあんまりないように思うのですが、
ひとつの痕跡が得られて、すこしうれしい。
若いときにはかぶき者であったということや
外人宣教師が送った南蛮帽子を気に入ってかぶっていたという説話。
そして、秀吉の妻・ねねに対して送っていた手紙の
思いがけない優しさに満ちた気遣いようなど、
面白いヤツには違いなかったのだろうと推測します。
こんな歴史と人間の機縁に触れられて、
やっぱり本州地域の旅はすばらしいなぁ、と羨望する次第です。


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熱田神宮 草薙剣に代わって

2013年08月28日 06時55分31秒 | Weblog



熱田神宮って、なぜか「尾張国一の宮」ではないのであります。
あ、一の宮というのは、神社の格式序列のようなものでして、
確かに名古屋の北の方には「一の宮」という街があり
まぁ、地名通りに「真清田神社」という神社が「尾張国一の宮」になっている。

祭神は天火明命(御本社)天照大御神の孫神。
当社の鎮座は、社伝によれば神武天皇33年。
古代悠遠の当国の開拓と日を同じくするものと伝わっています。
文化は古来、大河の流域に発達するといいますが、尾張国一宮の文化も、
木曽川の流域とその開拓によって開けたものです。
当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、
神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。
鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。
その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。
江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。
また、尾張藩主徳川義直は、
寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。
明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。
戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、
尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。

ということなんですね。
で、名古屋にある熱田神宮は、「尾張国三宮」ということになっている。
まぁなぞですね。
熱田神宮には、天皇の三種の神器のひとつ草薙剣がご神体とされている。
そのような「一宮」「二宮、三宮」というような社格を競うような必要がない。
そんなことから、あえて別格として扱ったものなのか、
まぁよく経緯はわかりませんね。
しかし、この草薙剣は、「この神宮に置かれている神器」というだけで、
その存在自体は不明であり、
そのようなことを詮索すること自体、はばかられることなのだそうです。
なにやら、神代のことであって、
そうした神聖な霧の中のようなのであります(笑)。
神職には、「ぜひ見たい、レプリカでもないものか」という
問い合わせもあるんだそうです。
しかし、畏れ多くて答えられないというところなのでしょうね。
代わりに、といってはなんですが、
「宝物殿」には、超巨大な剣が展示されておりました。
写真下は、この長い刀と普通の刀が比較のために展示されている様子。
で、越前朝倉氏の家臣が
実際にこの長刀を戦場で使っている様子の絵巻物の一部が上の写真。
すごい。
振り回せないくらいですが、まぁ敵も身震いしたのでしょうね。
この刀が戦争の戦勝側、織田側の神宮に置かれているのは、戦利品のひとつだったのでしょう。

なかなか、この熱田神宮、見どころ満載でしたので、
何回か、ご報告させていただきます。
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頸椎ヘルニアと長時間運転

2013年08月28日 03時33分13秒 | Weblog



今回は、飛騨高山から名古屋を抜けて、伊勢神宮、
さらに伊勢から名古屋へと折り返したのですが、
やっぱり無謀だったと思います。
というのは、以前から出てきていた長時間運転での疾患症状が再現してしまったのです。

この疾患症状は、
なんとも名状しにくい症状を来すのです。
長時間運転をしていると、どうも三半器官に疲労がたまるような感じで
ちょっとした体動をするだけで、平衡感覚が乱れ気味になり、
運転を継続することに困難が襲ってくるのです。
ここ7~8年前くらいから発症していまして、
長時間運転はなるべく避けて
こまめにパーキングで休憩を取るように心がけていた次第ですが、
今回は、ちょっとムリをしてしまって、
というか、慣れない道でつい「また次のパーキングで休めばいいや」と
パスしているうちに、パーキングがなくなってしまって、
連続走行が180kmくらいになってしまったことが引き金になったのです。
で、いったん発症すると、なかなか回復はしない。
それでも休み休みしながら、伊勢には行ったのですが、
そこでたっぷり見学で歩きまわったので
体調が元に回復したと錯覚して、
名古屋までの長距離運転をしてしまい、途中、渋滞に巻き込まれて
症状を加速させてしまった。
ほうほうの体で、ようやく名古屋のホテルにたどり着いたときには
疲労が極限まで達していて
通常の判断力にも、大きなダメージが加わっておりました。
ホテルの駐車場にクルマを収容する作業、
自分でやらなければならないシステムだったのですが、
その程度のことが、かなりの困難を伴っておりました。いや、情けない。

この症状、医者に言ってもなかなかわからないだろうし、
と諦めております。
というか、長時間運転する場合は、とにかく休憩をしっかり取るように
しっかり心がければいいということなのですが、
ついチャンスを失うようなこともあるワケですね。
ただ、最近異常が発見された頸椎椎間板ヘルニアが、どうも疑わしいと思っています。
必ず、首のあたりに疲労のしこりが出る。
それから徐々にダメージが蓄積していく感じなのです。
まぁ、そういう自覚を持って、自分を律していくしかなさそうなのですね。
やれやれ、情けない加齢症状だと諦念しております。ふ~~~む。
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伊勢神宮式年遷宮取材

2013年08月26日 04時48分17秒 | Weblog



さてきのうは、今回の出張の大きなテーマである
表題の取材に行って参りました。
とはいっても、別にそういう宗教関係のメディアではないので、
特段取材許可云々というようなことはしておりません。
むしろ、民俗的な視点と、建築文化的な視点から、一度は確認したかったのです。
スケジュール的に日曜日は避けたかったのですが・・・、
やはり大失敗だったようです(笑)。
北海道にいると、伊勢神宮の式年遷宮と言っても誰も話題にしません(笑)。
わたしはそういう中では、特異的にその価値観を認識していたつもりですが、
しかし何分、イマイチ現実感はない。
どれほどの「注目度」があるのか、というような実感はまったく持っておりませんでした。
第一、伊勢、という土地の場所すら、
なんとなく名古屋の近くで、まぁひと足だろう、くらいにしか考えていなかった。
で、きのうは大雨をついて、途中何度か
「こりゃぁ、遭難の危険まであるかも」と、心配しながら、
恐る恐る「伊勢道」を走って参りました。
本当に地面を叩き付けるような土砂降りの箇所もあって、
運転の疲労も極限まで達したりもしておりました。

なんとか、伊勢の外宮近辺の駐車場に到着しましたが、
土砂降りの雨は一向に止む気配もない。
まぁやむなく、旅行用の小さな傘を差して、土砂降りの中を10分以上参詣。
身も心も(?)清らかな雨に打たれて無常の心根に達した頃(笑)、
ようやく、お社に到着。
まぁ、その人数の多さにたまげました。
土砂降りの中、全国から奉仕ボランティアなのか、
許可されて新しいお社境内に参詣を許されたみなさんの長い行列と、
一般参詣客のみなさんの蝟集ぶりはすさまじい。
でも土砂降りなので、きっと普段の日曜日の人出は、こんなものではないのでしょう。
やっとの思いで正宮にたどり着きまして、お参りさせていただき、
内部も垣間見させていただきました。
その後、「せんぐう館」という今回の式年遷宮を記念して建てられた記念館を見学。
実物大の模型も見学し、その説明も聞かせていただきました。
神明造り、総檜造であること、デザインの隅々まで
「コメの神聖王」である天照大神のコンセプトが貫かれていることなど
大いに「取材」させていただけた次第。
説明員の方に、いくつか、そのヒノキについて質問もさせていただけました。

荘厳な雰囲気が漂っていた「外宮」に比較して
「内宮」のほうは、至って開放的というか、
まことに日本的な「門前町」の賑わいを通り抜けての「参詣観光文化」の博覧会。
天候もすっかり回復して、空腹も名物のうどんでのどかに癒されました。
こちらのほうこそ、日本文化そのものである気が致しますね。
外宮の方では、厳重に写真撮影が禁止されていましたが、
こちら内宮では、新社のほうも写真のように明瞭にかいま見えていて
しっかり見えていて撮影も可能になっている。

ということで、写真もいろいろに撮影できて
また、情報もたくさん得ることが出来て有意義な取材が完了致しました。
しかし、この式年遷宮、
まさに全国から参集されているようで
名古屋までの帰りには、高速道路で9km走るのに1時間ほどかかるという渋滞も発生。
クルマのナンバープレートもまさに全国各地からでした。
名古屋までに引き続き,関東までの高速でも渋滞が発生とか、
関東からも関西からも、すごい参詣客の幅の広さを実感させられました。
とりあえず、ありがたく参詣も出来た次第です。 合掌。
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経済活動の進化と交易

2013年08月25日 04時13分18秒 | Weblog



店舗って、そのエントランスのたたずまいで
一瞬のうちに「すべてをメッセージ」する必要がある。
建築のなかでも、とくにそういった面が必要とされるものですね。
わたしたちは日本人なので、日本的な訴求ということには
オーナーと建築人対ユーザーという長い対峙関係の経験値をひとりひとりが持っている。

いま、網野善彦さんの「日本の歴史を読み直す」を読みつづけています。
そのなかで、「交易」と「市場」という経験の積み重なりについて
いろいろな研究を読み進めています。
このテーマ、本当に奥行きが深く広くて、ドツボっぽいのですが(笑)
しかし、死ぬまで楽しんで思索し続けて行くには格好。
たぶん、というか、当たり前ですが、
結論なんて出るわけもないし、移ろいゆくものでしょう。
とくに貨幣というものが、わたしたちのこの列島社会に根付いたのは
ようやく14-15世紀と言われています。
しかし、それより前から「交易」ということは行われてきたわけで、
その交易のなにかの発展が、貨幣の必要性を生み出したのだと言えるのでしょう。
日本社会は、米作を社会単位として請け負う
「ムラ」が基本だということは間違いがない。
そのムラは、庄屋などの支配的管理者が存在し、かれらが
支配階級への「租税収入」を現地で請け負って納税してきた。
かれら階層は識字率も高く、非常に「自治能力」もきわめて高かった。
そして経済活動がどんどん活発になってくると、
自分たちの生産物の「交易」による収益の高度化を図りたくなってくる。
ただ単に、基本生産物であるコメの納品だけでは、もったいないとなっていく。
そのコメなりを「交易」を通してより付加価値を高めて貨幣価値に換算して、
少しでも自分たちに有利なようにしたい、という欲求が高まったのだろう。
だから、単純なモノとモノとの交換である「交易」ではなく、
ビジネス的に頭を使って、貨幣での「納税」をした方がはるかに有利だったのだろう。
江戸期の、こうした庄屋階層と武士階級との関係をつぶさに見れば、
こうした社会の様相がくっきりと浮かび上がってくる。
「貨幣」をこの列島社会にきわめて目的的に導入してきたのは
平清盛を中心とした平氏政権と、その政策を基本的に支えた「金の産出」を
請け負っていた平泉独立政権だったのだと思います。
12世紀のこの変化がどんどん社会に浸透していって
爆発的に社会を転換したのが、14-15世紀だったのではないか。

交易と貨幣経済こそが、
基本的にこの列島社会の進化の基本因子を構成してきたのではないか。
そんな思いが、こうした店舗デザインを見ていて、
強く感じさせてくれるのです。
きのうから、取材で本州中部地区・飛騨高山などを巡っていますが、
そのいっとき、ふと足が止まってしまった店舗のたたずまいに
そんな妄想を抱かせられていた次第であります。

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穂多木神社

2013年08月24日 05時30分25秒 | Weblog


北海道神宮にはいくつかの「末社」があります。
「開拓神社」の方は,先日このブログでも紹介しましたが、
ほかにもありまして、今日ご紹介するのは、穂多木神社であります。
ほたぎ、というように発音するのだそうですが、
かつて北海道にあった「都銀」で破綻した「北海道拓殖銀行」が建てた神社のようです。
Wikipediaによると、

昭和25年(1950)拓銀法廃止により特殊銀行としての使命を終え、
民間の普通銀行として再スタートした時に、この地に遷座されました。
 変わった社名の由来は、
一説によると、北海道の頭文字の発音「ほ」、
拓殖の頭文字の発音「た」、
銀行の頭文字の発音「ぎ(き)」に、
漢字を当てはめたものと言われていますが、真偽の程は不明です。

 御祭神:北海道拓殖銀行物故役職員の御霊
 祭礼日:合祀祭(三年毎)
 由緒:穂多木神社は、北海道拓殖銀行に永年勤務功労のあった物故役職員の御霊を
お祀りするため昭和13年(1938)同行本店に建立されました。
 北海道拓殖銀行は明治33年(1900)北海道の拓殖事業に資本を供給する特殊銀行として
設立されその後北海道経済の発展にともない、昭和25年(1950)には普通銀行へ転換しました。
同年、穂多木神社も札幌神社(現北海道神宮)境内のこの地に御遷座され、
現在に至っております。
 合祀祭(三年毎)には、新たに物故せられた方々を奉祀するほか、
例祭も関係役職員およびご遺族の参列の下、厳かに執り行われています。

まぁ、北海道開拓は国を挙げての大事業だったので、
その民間資金を確保し、開拓の実を上げるには銀行は欠かせなかったとは言え、
だからといって、一銀行のために
神社が建てられている、というのは、日本人と神社の関係をよく物語っている。
いま、全国に建っている「八幡」社というのも、
武家政権時代の「大企業」とも言える「源氏」が成立に関わっていると言われるし、
王朝時代の藤原氏と春日神社などの例もある。
「一族」の繁栄を願って、このような祭神を奉っていくというのが、日本的なのでしょう。
しかし、明治以降の近代社会の中で
北海道拓殖銀行という一企業がこのような扱いを受けたというのもすごい。
その「奇観」にいつも不思議な気持ちが湧いてきます。

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ハチの巣殲滅

2013年08月23日 16時21分20秒 | Weblog


さて、お待ちかねの(笑)、ハチの巣続報です。
今週水曜日に早朝、待望の駆除屋さんにお願いしました。
アシナガバチですね、という開口一番のご託宣。
どうやら、スズメバチの仲間なんだそうで、
スズメバチまでどう猛ではないけれど、
やはり差されると、かなりヤバいんだそうです。
特定すると、以下のようなヤツなんだそうです。
キアシナガバチ(黄脚長蜂、学名:Polistes rothneyi)
体長20-26mmで、セグロアシナガバチと並ぶ大型種。日本全国に分布する。黒の地に黄色が目立つ。攻撃性はアシナガバチとしては強い方である。(以上Wikipedia)
巣の作り方が乱雑な感じで
どうしてこんな場所に営巣するのか、わけわかんないブロック塀などに
好んで営巣するのだそうです。
当社社屋の木製サッシと外壁の合間にフックを作って
そこから営々と住宅を作り上げていたわけです。



で、そんなには大きくない巣なんですが、
やはり完全に武装して、巣を壁から撤去し、すぐにビニール復路に入れ、
そこに殺虫スプレーを噴射いたしました。
残骸になったハチの巣を観察すると
多くの羽化寸前の幼虫が見られたそうで、
これから放って置いたら、かなり大型のコロニーに育ったことが確実なのだそう。

とりあえず、この局地戦では、
人類が、このハチの巣コロニーに対しては,無事、平穏に勝利致しました。
やれやれ。
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痛い、中田骨折欠場

2013年08月22日 07時08分21秒 | Weblog



いやぁ、痛いですね~~。
こりゃぁ困った。
わが北海道日本ハムファイターズ、今シーズンはここまで
なかなか波に乗れないきびしい戦いの毎日ですが、
そのなかでも唯一と言っていいくらいのドンピカの活躍を見せてくれていた
4番打者・中田翔クンが昨日の試合で手指に死球を食らって
病院で検査の結果、亀裂骨折となってしまいました。

野球は1人の力だけでは勝てないでしょうが、
しかし、ことしの中田クンの進境は素晴らしいものがあった。
現在2位の同僚・アブレイユ選手に2本差の28本塁打を放って
パリーグ本塁打王。
かれの一振りで決まった試合も多く、かれの打席を見ることが、
下位に低迷するチーム状況の中、ファンの唯一の楽しみでもあったのですが・・・。
まことに残念でなりません。
野球の成績はやはり打者よりも、堅実な投手を中心にした
守りの総合力が大きいと思います。
その守りでも、かれの守るレフトからの返球で走者を刺す,捕殺率も高く、
大きな見せ場要素を試合にプラスしていた。
たいへん魅力的な選手に育ってくれて
いまや、プロ野球界の大きな宝物に近づいてきていた。
ことし、タイトルを取ることは、かれの今後にとって大きな意味を持つと
ファンの多くがそのように思っていたに違いありませんでした。
そういう意味でも残念ですが、
しかし、起きてしまったことはしょうがない。
相手投手も、3戦連続本塁打の打者に、甘い球も投げられない。
この悔しさをふたたびバネにして、大きく飛躍して欲しいものです。

さて、中田クンを欠くことになったわがチームの戦い。
栗山監督と首脳陣、どのように打開していくのか、いけないのか。
ひとつの希望的観測としては、残ったメンバーが大奮起して
一致団結の精神的な強さを発揮する、というパターンがある。
首脳陣も、ここで中田という飛車に相当する大駒を失って
いい意味での「開き直り」を見せてくるかも知れない。
こうなったら、やれることは全部やってみる、くらいの勝負を仕掛ける可能性が高い。
手負いのヒグマになって他チームに襲いかかる、
というような展開を夢見たいと思います。
中田クン、無念だろうけれど、将来は長い、骨折をじっくり治せ!
残されたメンバーでの全力の戦い、意地を見せる戦いを期待します。
がんばれ、北海道日本ハムファイターズ!
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