性能とデザイン いい家大研究

こちら 住まいの雑誌・Replan編集長三木奎吾です 
いい家ってなんだろう、を考え続けます

【木彫仏の隆盛と木造建築技術進化の相関】

2019年08月31日 07時37分36秒 | Weblog


さて今週は比較的に取材ネタが多かったのですが、
このブログでテーマにして行きたい木造建築技術の原初期を探る探究。
きょうは、木造技術の周辺領域についてです。

日本は東アジア世界の文化圏に長く位置してきて
この歴史経緯のなかで揺籃された模範的な「仏教国」ですが、
他国ではその信仰対象としての仏像は石造や金属製、粘土加工などが
主流であるのに対して、圧倒的に「木像」が多いのが特徴とされる。
写真は木でつくる仏像制作のプロセスの様子と、
この仏像制作の技術者たちの「道具」が下の写真なのですが、
まず一見して、そのまま建築技術に転用可能なものばかり。
たぶん「造作大工」の道具だと言われても疑問は湧かない。
あきらかに相互に緊密に影響し合っていただろうと思えます。
日本史では聖徳太子の「四天王寺」建設を嚆矢として、
当時の世界宗教の本格的導入が始められ、仏教寺院建設が隆盛した。
それは同時に本格的に「木組み」の加工造作技術発展を意味した。
やがて「一木彫り」というような発展もするのですが、
基本的にはいくつかのパーツが接合されて木像は作られた。
先般来ブログ記事で探究してみた、木造構造の架構部での
木組み、仕口技術の起源ですが、
このような仏像制作の精緻な加工技術をみれば、そこで
いわゆる建築の木組み技術が、活用されただろうことは自明。
三内丸山から吉野ヶ里と縄文中期から弥生時代当時の技術発展状況も見える。
日本で仏像制作が盛んになった時期には、木造架構の建築の側でも、
もちろん精巧な接合部技術が存在し進化していただろうことは明白。
ほかのアジア圏では多用されなかった仏像の木造化ですが、
日本で異常に盛り上がったのは、仏教を受容する社会の側で
相当広範な「技術基盤」が存在していたことも容易に想像できる。
三内丸山の縄文期から出雲大社の「高層建築」まで、
その軌跡は簡単にたどることができると思います。

どうもこのあたりの木造技術発展のミッシンクリンクは、
仏像制作技術史の探究が、きわめて近縁的ではないかと思われますね。
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【家を操作するスマホ?「自立的」タッチパネル】

2019年08月30日 07時13分14秒 | Weblog
こちらの写真も、地域工務店グループ・アース21の見学会から。
住宅にはどんどんと便利な設備が導入されてくる。
玄関先に来る訪問者との応答対話、各種設備機器の調整コントロール。
太陽光発電での発電状況把握、いちばん身近な照明スイッチなど、
電気設備の制御パネルというものは増えていく一方。
で、こういう設備は配線の関係などもあるので、
一般的には「壁付け」という方法が多いだろうと思います。
無意識的に「面倒なものだから、隠しておこう」みたいな心理かと。

ところがこちらのモデル住宅では、
あえて、家での暮らしやデザイン性の中心の階段・吹き抜けに面して
コントロールボックスがニョッキリと自立しているではありませんか。
ふつうであれば、視界の抜けが優先されて
こういう場所に設置させるという発想は出てこないでしょう。
この設置場所は2階階段を上がったすぐの位置であり、
プラン的には2階リビングダイニングということで、
ちょうど写真撮影手前側がダイニングコーナー。
ふだんの「家族団欒」の定位置に当たっています。
そういう意味では、家族が在宅している時間で、
家中でももっとも誰かがいる確率の高い場所に相当している。
吹き抜けに面してもいるので、頼む場合の声の通りもいい。
「あ、ちょっとお客さんだから、話して〜」みたいなコミュニケーション。
そういう「利便性」ということで考えれば位置的には理解出来る。
でもここまであからさまな配置というのも刺激的。
また、このような位置に置くとしての「デザイン性」も気になるもの。
わたし的にはパッと見た目、
吹き抜けの景観がスマホの表示画面のようで、
それに対してタッチパネルのように「操作する」という感覚を持った。
というか、常設してある「家全体のスマホタッチパネル」。
そう思うと、逆に背景の吹き抜けの風景ともそう違和感はないかも。
考えてみれば、現代人の情報との接点はスマホがもっとも普遍的。
そういう「ふつう」がデザイン的に昇華してくるという
そんな「進化」というものもあり得るかも知れない。
スマホとのコミュニケーションが一般化して
住宅のデザインでも、それがイマジネーションの起点になってくる、
そんなイメージを持った次第です。さて、どうなっていくのか?
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【北海道R住宅利用 古家「昭和」風改装】

2019年08月29日 07時46分03秒 | Weblog



もう5−6年経っているのですが、国が「長期優良住宅」事業を行って
その「補助金制度」を利用しての北海道での受け皿的な
制度設計として「北海道R住宅」というリフォームシステムを作りました。
内容については、WEBで検索していただければ、
道庁のHPや、当社ReplanのHPなどの詳細説明ページも
上位で閲覧可能になっていますので、ご確認ください。

一昨日、北海道の地域工務店ネットワーク・アース21例会で
この制度を利用して札幌市内の古い家を改造した店舗を見学しました。
札幌市西部の手稲山系からのなだらかな丘陵傾斜地の住宅街に
幹線道路に面することもなく、手作りケーキとカフェを提供している。
どうやら「わざわざ店」的な口コミだけで頑張っているようでした。
敷地は旗竿的ですが駐車場も含めるとけっこうな大きさのようです。
駐車場はたぶん全部で10台分くらいはありそう。
外観をみればわかるように、敷地は左右で1m以上の傾斜がある。
その傾斜に沿ってパラペットが3つに分かれていて、
それもデザインに取り込んでいてかわいらしくて、悪くない。
経緯を聞いたら、たまたま親御さんの遺した住宅を相続し、
そのときにたまたまこの「北海道R住宅」の制度が合致して、
獲得できた補助金が大きな支えになって、この店舗併用住宅が
計画起動したのだということでした。
もし、そういう制度利用ができなければ実現しなかったプロジェクト。
建物の奥側を中心に親御さんが遺した庭があって、
その庭木に対して大きく開口させて、落ち着きのある「離れ」的な
都市の中の「一服できる」空間が出現した。
コンセプトとしては「昭和的なノスタルジー」を狙ったとされていた。
きのうも触れましたが、北海道ではいわゆる「古民家」的な存在として
もちろん江戸期にまでさかのぼるものはなく、
明治や大正期建築も、いわゆる擬洋風建築的なものが多くて
いわゆる「民家」的なたたずまいを求めるとしたら、
昭和の、ちょうどわたしのような50-70代の年代が生まれ育ったような、
そういう住宅が回帰可能なデザインイメージなのだろうと思います。
既存の昭和期の木造住宅に対して、構造をしっかり補強し、
現代の基礎的な断熱性能で改修して、シンボリックな開口部には
木製3重ガラス入りサッシを使い庭との応答、性能デザインを可能にした。
長く使い続けていく「愛着」に対し力強い存続価値を付加した工事。

制度設計にかかわっていた者として、
こんな風な建物の存続・再活用の役に立ってくれたことがうれしい。
店舗なので北海道R住宅制度のランドマークに育って欲しいと思います。
喜茶ゆうご 札幌市西区宮の沢3条4丁目6−8 011-555-5870
<設計施工/ヨシケン一級建築士事務所 011-641-4906>
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【開拓の歴史「石山軟石」を現代住宅で生かす】

2019年08月28日 06時37分07秒 | Weblog


北海道では「開拓期」移民・移住が、本土社会で行き詰まった
生活上の困窮からの止むにやまれぬ苦渋の決断だったことで、
その必然的な貧しさゆえ住居がより始原のカタチに戻らざるを得なかった。
わたしたちのほんの2−3世代前の先人のスタートはそこからだった。
しかしこの地が積雪寒冷という極限地域だったことで、
そこから母体の「ニッポン住宅」とはまったく別の発展
〜高断熱高気密が始まったという事実がある。
開拓から150年近い年月が経過し「経験したこと」をふり返って見て、
さらに一歩進めて日本社会に還元していくことというのも、
心がけて行かなければならないのだろうと思います。
基本的には、開拓から日が浅いので地味が他地域以上に豊かで
より自然に近しく、日本全体の食料生産拠点として地の利がある。
IT化が進行する現代世界ではバーチャル化発展が進むけれど、
食料というリアルの世界で、アメリカ的農薬管理大型農業ではない、
知恵と工夫と、この地の利を生かした日本農業の先端性が
大きな発展可能性を持っているだろうと思います。
さらに次いでの領域は「あたたかく住みごこちの良い家」
という住宅建築についての技術開発だろうことは明確でしょう。

3−4代とはいえ、積んできた歴史蓄積に対して
建築ランドマーク的に意識的でなければならない。
そんな明示的な「素材」というものはあるのだろうか、
そんな意識に気付きを与えてくれたのが、きのう見学した家。
北海道開拓時期「木骨石造」という建築が多く建てられ続けていた。
札幌市の南部の「石山」地域から、支笏湖カルデラ噴火での
噴煙堆積物としてやわらかくて加工しやすい「石材」が豊富に産出された。
これに最初に目をつけたのはアメリカからこの地の開拓に
助っ人として来てくれていた「建築技官」たちだったと言われる。
石で建築を作るという文化はそれほど根付いていなかったニッポンで
構造骨格は木造で作って、壁を石山軟石で作るという建築が多く作られた。
初期の開拓民にとってそれらの建築は、ほとんど始原的住居に暮らす日常から
坂の上の雲のように見ていた憧れだったのかも知れない。
ある時期までの札幌の景観のエキゾティシズムの一部分を彩っていた。
この家ではその石山軟石を薄くスライスした素材を
外壁材としてあらわしていた。
重厚な色合いのレンガと対比させていて永続性を感じる。
この素材はその後の「ブロック住宅」とも組成が近しく、
やはり短いとはいえ、北海道150年の歴史の証人ともいえる。
こういう素材を意図的に使っていく住宅には、
いかにも「この地に建つ」というアイデンティティが感じられる。
そんな思いを持って、見学させていただきました。
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【「仕口」接合以前の木造架構を考える】

2019年08月27日 09時51分34秒 | Weblog


「仕口」は、構造部材である柱や梁、桁など2つ以上の部材を
組み合わせ接合する方法。 またはその接合箇所。
仕口はかかった力の伝達が的確に行われるようそれぞれに
「ほぞ」(突起)と「ほぞ穴」をつくり組み合わされる。

ここのところ、ライフワークの住宅取材について
過去20年間近い「遺跡復元建築」「古民家(移築や復元)」などの
追体験的な取材写真・整理整頓をしてきております。
そうすると見学取材撮影時に気付いていたけれど、それほどには
立ち止まって考えるのを忘却していたことがあらためて盛り上がる。
表題のようなことについて、根源的な疑問が湧いてきています。
きのうも書いた次第ですが、秋田の西方設計さんから
「吉野ヶ里を見ましたが、貫の復元が出土例がなく問題視されています。」
という指摘。興味を強く持たれたコメントをいただきました。
氏もこの「仕口」の初源について強い興味を持っているとのこと。
飛躍して「Replanでシンポジウム企画して」と想像を超える提案まで(笑)。
こういう「復元」プロセスについて吉野ヶ里を管理する佐賀県などの
該当ページなどでも、このあたりのことについての詳述はない。
おおむね3世紀を想定した復元で、卑弥呼と想定される「女王」の
居館をイメージした大型木造建築、物見櫓建築が復元されていますが、
貫という仕口の基本構造事例がこの時代「出土例」がないという。
日本の酸性土壌特性から考えると、そういう材の保存・出土が可能かどうか
大いに疑問ですが、あきらかに物証には乏しいのでしょうね。
一方できのうご紹介した竹中大工道具館展示では、「縄文中期」からは、
こうした仕口加工が認められているともされていました。
あるいは物証以外の証明から歴史認証されているのかも知れません。
このあたりの「仕口」の起源についてと、それ以前の架構について
どんどんと興味が深まってきている次第。
で、写真は三内丸山の高層櫓と大型木造建築の「構造材接合部位」。
仕口発達以前には、縄、もしくはつる状植物での縄接合で
「載せる・重ねる」という架構の固定化が図られている様子がわかる。
三内丸山はおよそ5,000年前が復元ポイントとされているので、
こういう架構方法を想像して復元したのでしょう。
まぁおおむね常識的に理解可能だと思いましたが、
よくみると櫓建築では柱に対して斜めの太い「枝」状の突起部位がある。
そこに太い横架材が載せられ、上階架構構造の起点になっている。
2階以上の「高層」建築の設計を想像すると、こういう「架構方法」が
初源により近いイメージなのではないか。
柱と横架材の組み合わせでより高層の建物を構想したら
最初に浮かんでくるアイデアは、こういう「枝」を利用して
そこに横架材を載せる方法が、自然観察からの人間思惟的に無理がない。
こういった架構であれば、石斧だけの道具段階でも建築可能だった。
ただし、少なくとも4−6本の同様の太さ、枝ぶりの自然木を
探し出して伐採、移動させてくる必要がある。けっこう太くて重い・・・。
さらに目をこらすと、補強として楔の初源のような端材も散見される。・・・

世界的にも稀有な木造構法である日本の柱梁建築技術。
弥生からだけではなく、もっと初源の縄文から訪ね歩く、
すっかり人類史・古代建築探偵団のモードになってきております(笑)。
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【縄組み構法から「木組み」への木造技術過渡期】

2019年08月26日 07時36分01秒 | Weblog
どうもこのテーマ周辺のことが頭からなかなか離れません(笑)。
人文系の歴史とかが好きなタイプの人間が、
理系の建築技術について興味を持つと、
このあたりの自然の知恵から「建築工学」への過渡期に意識が集中するのか。
きっと納得するには、ある種の発想の「飛躍」が必要なのかも(笑)。

一昨日も触れていた「与那国の家」では、
柱梁の基本構造部分で縄で「縛り上げる」構法が使われていた。
たぶん100年前くらいまでは南方での「民家」として
初源的な「家の建て方」としてふつうに存在していたのでしょう。
それも、人口も少ない離島社会での伝統的家づくりとして
専門職が関与しない「家づくり」の「伝統工法」だったのだと思います。
写真は、下が先日もご紹介した「三内丸山と吉野ヶ里」の構造部分詳細。
で、この間には3000年ほどの時間差があり吉野ヶ里は3世紀推定。
この時間差のなかでどのように社会での変化があったのか、
そこが非常に興味深いなと思っています。
写真の上の方には、神戸の「竹中大工道具館」で見学したときに見た、
いわば「軸組」構法のはじまり、始原の説明図を組み合わせた次第。
で、説明図真ん中で石斧での「穴開け・仕口」加工が始まったという説明。
こういう建築工法「革命」があったけれど、
その時代以降の遺跡、北海道に遺された遺跡では近世のアイヌ期建築でも
こういった「軸組」構法採用は民家レベルでは寡聞にして知らないし、
沖縄の与那国島では、ごく100年前くらいまで採用されない住宅が残っていた、
ということがわかるのだと思うのです。
こういう建築の構法進化に伴って、社会的「分業」が明確化した、
というのがいちばんわかりやすい理解なのだろうと思う。

建築の「匠」世界というのはこの段階から、
いわばわかりやすくまっすぐに「発展して」いったのだろうと思う。
社会発展と人口増加に伴って、建築の需要はどんどん高まっていって、
いろいろな領域での技術発展も相互に影響し合い、
さらに中国から仏教建築が導入され、大阪四天王寺建立などで
聖徳太子が半島社会から「大工」職を招聘して技術加速がされたりした。
そこからはいわば歴史史実で後追いできるような世界がつながった。
この写真と説明図のところの「ミッシンクリンク」が
ムダに興味深い(笑)のであります。
こういうことに興味を持つ人間って、絶滅危惧種なのでしょうか(笑)?
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【与那国の家 「分棟」という南方的イエ概念】

2019年08月25日 07時13分28秒 | Weblog
北海道で住宅の情報を扱う仕事をしていると
逆に南方での家の成り立ちとか、発展形態とかに興味を持ちます。
いろいろな機縁が重なって、沖縄にはたびたび訪問「取材」してきた。
古民家として、中村家住宅などは5-6回見学している。
写真の「おきなわ郷土村」の古民家群も数回見学して来ています。
もちろん現代住宅も見学していますが、
現代住宅は衣食住すべてにおいてグローバル化が進んでいて
地域オリジナルの基底的「文化様式」とは変容している部分がある。
やはり地域固有のありようは、古民家から浮き彫りになってくる。
少なくとも、そこで暮らす人間のライフスタイルとしての重要な要素が見られる。
そういうものが知らず知らずに、現代住宅にも「色づく」ものでしょう。

この家は年代特定はなかったのですが、
与那国島で「かつて建てられていた」住宅の移築という説明。
写真下に「間取り図」も付けましたが、2棟の建物で居住空間が構成されている。
いわゆる「分棟」形式ですね。
現代の北国住宅では基本的に「外皮表面積」を最小化方向で考える。
それは、熱損失を最小化させるという合理性志向からの選択。
暖房が基本になるけれど、家の中の温度をコントロールするためには、
必然的になるべくシンプルボックスである方が合理的。
家の機能も、当然、あるボックスのなかに詰め込む方向で考える。
わざわざ機能ごとに棟を分けるという発想を持たない。
伝統的には馬小屋までも一体空間で取り込む「南部曲がり家」的方向。
しかし、人類の住宅の中には南方系で「分棟」という形式もまた多い。
この与那国の家では、植栽樹木や「ヒンプン」という
ウチソト仕切り装置内部のなかに「イエ」という結界領域があって、
「屋敷には主屋(ダ)、炊事場(チムヤー)のほか、周りに家畜小屋、
小さな野菜畑が配置されて一般的な与那国の農家」が構成されている。
大阪住吉では現代コンクリート住宅で安藤忠雄さんが家の中で
傘を差して室内移動する住宅を建てたことが、センセーションを呼んだワケですが、
ここでは食事をするたびに外部を通ることになる。
まぁ、ほとんど距離はないのだけれど、空気環境は外部と一体型。
平均気温では冬場1月でも18度前後、最低でも16度程度なので、
着衣程度で過ごせることが大きく、むしろ煮炊きする熱気と湿気を
通常生活とは完全に切り離す方が合理的であるという「暮らしの知恵」。
また一般的に敷地が90坪程度あり、菜園なども含めた空間が
「屋根はないけどイエ」という意識になっているのだと知れます。
だから、ヒンプンという住の装置が結界装置として機能するのでしょう。

寒冷地でもたしかに「敷地」概念はあるけれど、
ヒンプンというようなものが結界を構成するという考えは少ない。
それよりは、より重厚に「壁を作る」方向に向かう。
でも寒冷地人間にすると、こういうあいまいな住空間意識というものに
強く憧れを持つ部分がある(笑)。
こういう「融通無碍」な建築が、どういうライフスタイル精神を生むか
その、得も言われぬ「開放感」に強く惹かれるのです。
意思疎通が普通にできる言語文化を共有しているのに、
ここまで「イエ」概念に違いがあることに強く刺激されます。
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【柱梁をつる性植物で結束する架構】

2019年08月24日 07時09分22秒 | Weblog
きのうは「たたみ」の発展過程の探究を考えましたが、
写真は同じ、おきなわ郷土村に建てられている復元古民家・与那国の家。
で、本日はほとんど製材していない柱と梁を縄、もしくは
つる性植物で結束させている「架構」を見たいと。

先日も、三内丸山の縄文復元建築と吉野ヶ里の弥生復元建築の
「木組み構法」の違いを見たのですが、
あれは年代的にはそれぞれ、5,000年前とか1,800年前とかの想定。
それに対してこちらの建物は、基本的には移築復元とされているので、
ごく近年まで実際に建っていた住宅ということ。
どんなに古く考えても、100-200年程度の過去ということになる。
であるのに、木組みの構法として結束がつる性植物。
しかも構造の建材・木も未製材の自然木が使われていました。
壁や床、屋根の骨格についても、竹を組み上げて造作していた。
製材した材料ではないので、直線的な均整感よりも、
それこそ竪穴住居的なバイタルな印象に近い建てられよう。
自然派志向的には究極的なエコロジーを感じる(笑)。
しかし、きっと建てた人たちには止むにやまれぬ選択だったのでしょう。
こういった「民家」は、構造部分だけは大工職人が基本を作って
そのあとは建て主・住まい手が材料集めも含めて
DIYとして「施工」まで行ったのが普遍的なありようだったのでしょう。
もちろん近代国家が「建築基準法」的に制約を加えたものでもなかった。
しかしその「依頼」には当然「手間賃」費用負担は当然あっただろう。
また、与那国島にそういった大工職人が定住していたとも考えにくい。
そこに住むことを人生選択した人間が自分自身のため、家族のため、
手作りで挑戦していたに違いない。
そういうことで考えれば、主体構造である柱と梁を結合させるのに
複雑な工具・建築知識を必要としない建て方として、
こういった「構造」は、自然発生的でわかりやすかったでしょうね。
たぶん材料の類は、その建物周辺から自分ですべて探し出してきたのでは。
アイヌのチセの場合も、家を新築するのは結婚の時点が多く、
材料は新郎が自分で集めてくるというのが「しきたり」だったとされる。
定かではないのですが、想像としてはそのように考えられる。
その時点で建てられていた家の構造を見て、
それを「モデル」として「見よう見まね」で建てたというのが自然。

施工についても、近縁者が労働奉仕していっしょに作ってくれた(笑)。
きっと新婦はそういう助けに来てくれた人に手作りの食事を作って
感謝の気持ちを表した、っていうような風景が思い浮かびます。
現代のように、ひたすらお金に換算した建築のありようと、
どっちが家づくりで「楽しいか」は、なんとも言えないでしょうね(笑)。
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【畳の祖形? 吉野ヶ里と200年前の沖縄】

2019年08月23日 06時33分32秒 | Weblog


見学していたそのときに、ふと気付いていたことってたくさんある。
そういうことはしかし、通常の仕事の流れの中で、あるいは
スケジュール的な時間進行に埋もれてしまって、その場だけの
気付きに留まってしまうことが多い。
取材写真の再整理によって、そうした「点」が「線」になることがある。
提示した写真は、上の写真が2006年沖縄の「おきなわ郷土村」で見学した
「王国時代の民家」の室内の一隅に置かれていた「敷物」。
琉球王国時代(1737~1889年の間)の住宅ということなので約200年前ころ。
下の写真は、2005年に見学した吉野ヶ里の「権力層の人間の家」寝室。
吉野ヶ里は、だいたい3世紀(200~300年)頃を復元想定しているよう。
その両方で見た、畳の祖形とおぼしき敷物であります。
どうもその「類似性」に気付かされていた次第なのです。
しかし、時代としては1500-1600年くらいの間隔がある。
九州と沖縄、社会発展には多少の差異はあったとはいえ、
この時代、琉球は薩摩藩の実質支配という歴史時間に相当する。

自然にある植物繊維質を「編み上げて」敷物として利用する、という発想は
人類に広く存在しているけれど、
日本でだけ、畳という敷物が発達して主流になった。
その祖形がムシロのようなものから発展したことは、自然でしょう。
この写真の両方から、ムシロをさらに重層化させている様子がみえる。
琉球王国の時代というのは、江戸期の身分制規範が連動した時代で、
庶民の住宅にはいろいろな「建築制限」が設けられていたという。
〜身分によって屋敷や家屋の大きさが制限され、
農村では屋敷(敷地)が9間角(81坪、265平方m)、
家屋は4間に3間の主屋一棟と、3間に2間の台所一棟に限られました。〜
この時代、当然「畳」というものは開発され流通もできたであろうことは
明白ですから、この「制限」によって畳が禁制されて、
その法令逃れのため「いや、これはムシロですよ」という便法をとったのか?
よく見てみると、骨組みも木材や竹で組まれているようで、
その表皮としてムシロ状の素材によって被覆構成されている。
吉野ヶ里の場合には床は土間が想定されていて
その土間に段差を付けて一段高くした箇所を「寝室」としている。
その土間上に、こうした寝具敷物が敷かれていた。
一方の沖縄では、この家の床は竹で仕上げられています。
壁も植物繊維を組み上げて壁面を造作していると同時に
床面も土間から少し上がっていて空気流動が仕掛けられている。
蒸暑気候に対しての室内環境制御として、なんとなく「うっとり」するいごこち。
そこでの寝具・敷物として、こういう装置があったようです。
やっぱり、土間や竹の床だけよりも、こういう繊維素材の方が
カラダにとって、就寝時には好適な環境を作ったのに違いありません。
どちらでも「掛布団」状のものがありませんでしたが、
まぁ一般的に考えて、ムシロ技術で応用造作されたのでしょうね。

どちらも復元住宅ではありますが、
それぞれの地域の気候風土を考え合わせると、
人間居住環境への最大限の努力追求の痕跡があきらかだと思えます。
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【古絵画から建築のオドロキを追体験する】

2019年08月22日 08時07分09秒 | Weblog
ブログ執筆を通して自分の興味分野を再度、探訪しています。
デジタルデータに残っている取材「写真類」は膨大で
とりあえずはその写真データの点検、チェックから徐々に進めている。
おおまかに時間経過、探訪年順に整理整頓しようとしていますが、
少なくとも18年分くらいあるので、
まことに膨大なチェックが必要です。たぶん写真店数は数万点はある。
お盆休みを利用して集中的に時間を掛けたのですが、
なんとその作業をしていると、パソコンに向かい続けるので
背中中央部に激痛が発生してしまった(泣)。
どうも猫背っぽく姿勢が固定されるので、カラダからの悲鳴でしょう。

人間は住宅というものをどう作ってきたのか、
その興味に即していろいろな取材をしてきていることが再確認できる。
いろいろな学究のみなさんの知見にも導かれながら、
具体的な「見える化」可能な表現を考え、手掘りしていく作業。
建築ジャーナリズムというようなものが、
わたしが選択した領域なのだと考えると、
きのうも書いたような建築工事現場の古絵画記録などに
非常に近縁感を持ってしまいます。
きのうはどちらも鎌倉期の春日権現験記と松崎天神縁起を見た。
春日大社には2度ほど見学に訪れている、その体験記憶も重ね、
建築取材というようなバーチャル「体験」を構築してみる。
あるいは青森の三内丸山にはそれこそ4−5回行っていますので
そういう具体的な空間記憶蓄積が濃厚にある。
空間の把握体験があることで、徐々に思惟が膨らんでいく。
木を加工するということの推移、経過、歴史のようなこと、
そうしたことが、非常に興味深くなってきています。

写真絵画は、江戸時代後期の「木挽」たちの仕事姿で、
葛飾北斎『富嶽三十六景』の「遠江山中」1830年ころ。
この絵は大鋸で太い原木から幾枚かの「板」を製材・木挽きしている。
材の上に乗って木挽きする人と、下から見上げながらの2人組。
この材をどうやって立てかけたかも興味津々だけれど、
板に製材加工する大変さに北斎も驚いていることが伝わってくる。
きっとコストも考えた職人としての技量向上から
なるべく用を足せるギリギリの薄さ、軽さを追求したように思える。
木の属性・性質を知って良さを際だたせることも考えただろう・・・
たしか、千葉県の歴史民俗博物館での展示でもこの大鋸による木挽きの
様子が大きくジオラマ展示されていました。
歴史発展は、技術の進化と拡散が同時進行したのでしょうから、
表面の政治史の裏側で、こうした技術革新が基盤を作ったという表現。
鎌倉期の図を見ていて、製材作業の様子にも気付いた次第。
「板」というものの製造の歴史というものに興味が深くなる。
鋸や工具がどのように進化して、工事現場がいかに変化してきたのか、
その結果から、工事のコストを推定して、
その歴史社会のなかで当該建築が占めていた重要度なども
大きく想像することが可能だろうと思います。
たぶんそれぞれの歴史年代の人々は、そうした建築に「驚かされた」。
そのオドロキをしっかりとジャーナリズム的に再構築したくなるのです。
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