三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【繰り返す災害と日本人の心性】

2019年10月31日 06時50分03秒 | Weblog
先般の台風19号の猛威については、諸外国とくに中国でも
その情報が逐一SNSで活発にやり取りされ高い関心を持たれていたという。
旺盛な民間交流で日本に在住、または滞在している中国人も多い。
そういった意味では自然のことでしょう。
今回の台風についてはアメリカの情報機関も「地球史上最大」というような
情報を流してもいたので、関心が高かっただろうことはわかる。
しかもそれが首都直撃コースであることが明確になって来て
より一層切迫感を持っていたのだろうと思われます。
心配していただけることはありがたいことだと思います。感謝。

そういう情報から、しかし日本とほかの国、国民性の違いにも気付いた。
日本人であれば繰り返す災害に対してのある「心性」を持っている。
他国民というモノサシ情報から、そのことに気付かされた次第。
図は、関東大震災の被害状況を報せた絵巻風のイラスト表現。
<横長画面だったので上下に分割しました。富士山が左・西側>
1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒ごろ発生した
いまも永く日本人に刷り込まれた民族記憶としての大災害。
このような災害との遭遇が、いったい日本人にどんな「特殊な」心性を
植え付けているだろうか、という分析が求められている。
そんな風に思われてならないのですね。
悲しいことだけれど日本人であれば、災害は必ずやってくると諦観している。
備えておく必要は常にあるけれど、しかし災害自体は不可抗的であると。
この自分自身の「諦観」に実はわたしたちは普段あまり気付いていない。
外国の目から見たら、こういう心性というものの根拠はわからないだろう。
日本人は、どうもこのことに気付いていない。
日本が他国と摩擦を生じる場合のひとつの要因として
むしろこういった日本人的心性が関与しているのではないかと思えてきた。
日本人は他人を思いやるというか、おもんばかるという心性が強い。
それは繰り返される災害から日本人が獲得した「無常心」の発露ともいえる。
諸行はつねに無常であるのでせめて人間同士はいたわりあう、みたいな。
自分がそうであるから他者もそうであると思い込んで止まない。
しかし、日本人同士であれば通じ合えるこうした部分だけれど、
対外的な国・国民相互ではメンタルには違いがあるのが国際常識。

こういった地理的・民族的体験からの「特殊心性」が由来での
対外的相互理解の欠如、相互フラストレーションもあるのかもと、
中国からの情報メッセージを見て考えさせられていた。
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【写真とマンガ表現力の違い in屯田兵屋 】

2019年10月30日 07時01分00秒 | Weblog


写真とイラストでそっくりな構図を発見した(笑)。
北海道住宅の始原を探るシリーズですが、
当然歴史事実の発掘がたくさんありすぎて興味深さが加速する(笑)。

この屯田兵屋は、わが家のすぐ近くに総数208戸が1875年に竣工した。
いまから144年前ということになりますが、
明治以降ということなので、写真という情報基盤が現代と共通する。
写真が残されていると、その「表現力」の奥行きの深さに驚く。
それまでも瓦版や、大和絵から出自の筆絵での表現はあったのですが、
そこには主観の余地が大きすぎて「事実」感覚は一歩後退している。
この2枚の写真とイラストの表現内容の違いでしょうか。
写真からは、その時代の人々の写真というものへの「好奇」の視線も感じられる。
社会に写真が導入された当座、精神が「吸い取られる」みたいな
そういった反応があったとされていますが、
明治初期の写真に写った人々の表情からはそういう雰囲気もつたわる。
それに対して、大和絵を起源とする日本の筆絵表現、
その現代版といえるマンガ・イラスト表現には、掻いた人間の
内面性がそこに付加されて、諧謔性やぬくもりのようなものがつたわる。
このイラストで言えば、お父さんの表情には
「ああ、いやだいやだ、きょうも兵隊訓練かよ」
という表情が見て取れるし、目をこすりながら父親を送り出す子どもの
体表現に、時空を超えるかわいらしさが感じられる。

たぶんこの両方があって過去という「人間と時間」がつたわってくるのでしょう。
いまでは人間も写真というものに慣れて「ヘン顔」映りを自慢したりする。
そのような人間の対応変化もあるけれど、
同時に写真撮影の側も、大いに変化してきていると思う。
モノクロからカラーに変わったということももちろんだけれど、
それ以上にアナログからデジタルに変わり、しかもそれが
カメラだけでなくスマホというツールに変化したことで、
写真点数というものが、たぶん幾何級数的にビッグバンしている。
そう、それこそ「ビッグバン」ということに近いのだと思う。
現実ということの「記録」について、
人類はまったく未踏の領域にいま、立ち至っているのでしょう。
この写真とマンガイラスト世界とは、また違う地平で
いま大きな「情報の転換点」を迎えているといえるのでしょう。
アナログの写真雑誌と、デジタルのWEBメディアの両方で
ビジネス展開しているわが身として、現在進行形でいつも考えることです。
でもやっぱ、マンガの子どもの愛らしさには、負けてしまいます(笑)。
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【浸水など災害からの住宅防衛と復旧】

2019年10月29日 07時16分29秒 | Weblog
もうすぐ11月ということで、さすがに台風の発生は
ニュースとして聞かれなくなってきている。
しかし今年はながく記憶に残りそうな災害の年。
とくに千葉県の度重なる被害には深くお見舞い申しあげますとしか、
まことに言葉もありません。
住宅の「安全」というものの範囲、領域がすべて再検討されてくる。

1 強風への対応というのは、住宅自体としては瓦などの葺き方への
再検討を余儀なくさせている。しかし千葉での倒木被害に見られるように
戦後の経済成長で内外価格差が発生し自国木材資源有効利用がはかられず
海外材に押され続けてきた市場構造問題が浮かび上がる。
うち続く災害から住宅を復元させる後世への遺産、知恵として
先人たちが杉などの木をたくさん植えてきたけれど、
経済原理からうち捨てられてきた結果が、風倒木被害につながった。
それが停電復旧の妨げになって長期間の被災になってしまった。
こうした国内資源の木の管理問題は、ながく続きそうな問題。
ひとり千葉県だけの問題ではなく、全国に同じ問題は大きく横たわっている。
たまたま台風は千葉県を直撃してクローズアップさせただけだと。
2 さらに深刻なのが「治水」問題。
自治体が整備した「ハザードマップ」に即して
そこで起こりうる災害への備えを家づくりに生かしていく必要が高まった。
古くからの地名で、水に関係のある地名では注意が必要とか。
そもそもの立地条件についての注意は不可欠になる。
ただ、日本は古くから「水運」が発達して商業が発展してきたので、
商業繁盛している地域というのはほとんど水利のよい都市。
そこに人口は大集積している。その上での安全確保ということになる。
写真は床上浸水した住居の様子。床板は剥がしている状態。
基礎部分には大量の泥が入り込んで、水の引くのを待って
ドロを掻きだして、薬剤を散布してから乾燥させている。
高断熱住宅では断熱気密との取り合いをどう調整していくのかの問題もある。
また、基礎断熱と床下断熱での復旧の方法に違いも留意事項。

こうしたテーマが、これからの家づくり相談で大きな要素に
なっていく可能性は高いだろうと思われます。
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【明治3(1871)年建設の札幌官舎】

2019年10月28日 08時03分12秒 | Weblog
北海道開拓期からの住宅事跡探訪であります。
上のような写真が、記録として北海道大学に保存されている。
今から148年前の住宅外観写真です。
このような開拓初期の様子について多くの写真が残されているのは、
開拓使側の用として写真記録の要請がカメラマンに対してあったのか、
あるいはカメラマンが自費で他日の用を期して撮影したのか、
まずはこういった状況も調査する必要はある。
たぶんカメラという「舶来文化」はまだ希少だったはずなので
日本人の民間でそのような数寄に生きた存在は考えにくい。
開港して海外公館も存在していた箱館からは陸路で1週間程度なので
カメラ機材をもって「北海道開拓・札幌首府建設」の記録を
残そうと考えた、そのような意志が存在したということでしょう。

島義勇一行という最初期の札幌入地者たちは、
「北海道開拓使」の官人たちと、主に測量や土木整備、建築の
雇用された職方たちの一団というような構成だったのでしょう。
前年の新暦11月になってようやく開拓拠点・銭函に入って
そこから創成川周辺を起点にした工事に着手していった。
判官・島義勇は明治3年1月19日(旧暦)に解任され3月にはこの地を離れる。
そこから11月までの期間にこの建物は建てられたとされる。
「使掌」「小主典」というのは判官同様、王政復古の明治期の官人職制。
「小主典」は戸建て住宅が与えられ、それ以下の職制である「使掌」は
長屋建築に住居することになったということでしょう。
当時の真壁木造工法では外壁押し縁〜外壁板のタテ方向押さえ材〜は
基本的に「半間」ごとに建てられているので、
左手の「小主典」邸宅は妻側は4間と見て取れる。
その対比で見ると平入り玄関側壁面は5間程度。
それに奥行き半間の玄関が加えられ、さらに妻側両側に「下屋」が
各半間で張り出されている。
この下屋は室内から出入りできるように考えられるだろうから、
本体部分約20坪、下屋部分4坪の総計28坪面積の平屋とみえる。
手前平側に玄関と並んでもうひとつの「開口部」がみえる。
これは内部の「土間」につながる出入り口と想像できる。
その右手の妻側下屋には「窓」もあるので、
その後の明治7年建築の屯田兵屋と同様に「無双窓」だったと思える。
(雨戸仕様であれば外壁側に戸袋が必須だけれど写真では見られない)
屋根はこけら葺きか、柾葺きのように見られる。
屋根傾斜がゆるやかで一寸勾配程度。
木で屋根を葺いていてクギでしっかり留めているかどうか。
開拓のまったく初めの建築で十分にクギを使えたか、もっと調査が必要。
ですがこのような仕様でこの4年後にも屯田兵屋は建てられているので
屋根積雪荷重にはそこそこ対応できていたということなのでしょう。
写真奥には「使掌」の長屋建築も見えているのですが
建て方はたぶん同様のつくられようだろうと思います。
手前側には「草屋根」と後に岩村判官が名指した「倉庫」がある。
岩村判官も「官舎でもそういうものはあるが・・・」と言っているので、
物資の保管場所として、この程度の小屋がけは必須だったでしょう。
というか、開拓使としての必要備品類がこのように収納されていた?
春からは乾燥気候の札幌では、火の用心は不可欠だったことでしょう。
建築用材は基本的に「現地調達」だったとされるので、
この建物群はたぶんいまも北大植物園に残っているような樹種で
建築構成されたに違いありませんね。
いまは植物園の樹木は伐採御法度なので、復元不可能(笑)。
さらに写真の一番手前には、重厚に薪が積み上げられている。
煮炊き暖房のバイオエネルギーは開拓地では豊富に得られただろう。
また、生活用水は創成川がすぐ近くに流れている。

・・・これ以上は内部に入って「取材」したくなる(笑)。
住宅取材ってやはり生活の実相の「掘り起こし」という要素が強い。
こういう写真資料があると時空間を超えて想像力は膨らんできますね。
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【漢文記述公文書から開拓期事実の読解】

2019年10月27日 08時47分12秒 | Weblog
「北海道ノ内九郡兵部省支配被仰付置候得共、諸事手々ニ相成候テハ
双方共開拓ノ手紛ト相成ニ付、兵部省支配被差免、開拓使へ被相属度事」
・・・相当に根性を入れて読み進むか、あるいは読解アンチョコでもないと
読み下してその事実を正確に把握することは難しい。

明治の北海道開拓と同時に進んだ北海道住宅始原への探究。
いろいろな資料を参照しながら、オモシロく進めております。
別に戦国期の合戦模様とか、幕末の動乱というものとは違うのですが、
記載される内容のひとつひとつが北海道の基本的な成り立ちように直結する。
歴史と言うよりも、どうももっと血肉的な温度感がハンパない。
なんですがこれは「開拓使」という、省庁と同列の政府機構での推移。
幕末戊辰戦争や、日露の樺太を巡っての外交的対峙という
のっぴきならない事態との同時進行状況での政府内部のやりとり。
複線的な動きがどうしても一体的に進行した。
そして電話もインターネットもない時代での東京、京都から遠隔の
北海道が現場である事態。しかも国家意志との複雑な絡みもある、
というようなことで、まるで巨大交響楽を見るような思いがしてきます。
主にいまは、札幌市が編纂した非売品の「新札幌市史」という本を参照している。
この本は昭和56年発刊なので、現代用語で書かれているのですが、
どうしても明治初年の「公文書」に基づいて書かれるので、
その公文書記述は江戸期の漢文尊重気風が残っていて、
はじめに書き記した「兵部省から太政官への上表文」のような記述の山。
〜ちなみにこの文書では、当時樺太での対ロ緊張から北海道の防備強化として
軍を管轄する兵部省が複層的支配だったものが、現地で軋轢を生み
開拓使が北海道一円支配としたい「手打ち」の上申書が書かれている。〜
表現される意味性の高い漢字と、候文のような慣用句、
一部に漢字仮名のような表現もあったりするので、
現代口語文に慣れたわれわれを挑発するような文体が提示されてくる。
官庁の使う言語は基本は漢文的表記で書かれ続けた日本。
それは基本的にアジア世界に限定された世界観だったのが、
明治の開国によってほとんどが欧米列強との対応に変化した。
結果、現代にいたる「日本語の再構築」が進められた歴史事実を
いやになるほどに思い知らされる(笑)とともに、
現代口語文を創造した先人たちの努力に深く感謝の思いを持ちますね。

しかし明治以降の近現代史は高校までの歴史授業では
ほとんど触れられなかったのが事実だということに今頃になって
ようやく気付かされます、なんとも口惜しい。
明治の始め頃にはこういった北海道経営の基本問題があったこと、
基本的には対ロシアの軍事的脅威に対応して、
兵部省・軍が北海道を掌握・経営したかも知れなかった、
そういった経緯があったことを初めて知った次第であります。
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【「知はタダ」はどこまで拡大するのか】

2019年10月26日 07時22分42秒 | Weblog
わたしは図書館というものはごく最近までほとんど利用したことがなかった。
生きてきて、知に対してお金を使わないということを
なんとなく「それでは知を身に付けることはできない」のでは、と
固く信じ込んでいたような気がする。
だからこそ、新聞を定期購読して本を買い続けてきたように思う。

最近、わが家のすぐ近くの「札幌山の手図書館」をよく利用する。
たくさんの知の集積とタダで接することが出来る。
そのように得られた知見をもとにインターネットで再確認しながら
思惟を進めている自分がいる。
総じて「知はタダ」という世界にどっぷりと浸かり始めている。
インターネットの普及に先駆けて、図書館という存在は
基本的にこういう「知はタダ」の世界を広げてきているといえるのだろう。
現代世界のスタートの時に教育の「機会均等」のようなことがあったのか、
知の拡大に経済的な差を設けてはいけない、みたいな
そういった思想が根強くあったのかも知れない。
いま、基本的にはインターネットの世界ではかなりこの「知はタダ」が
世界中で大きく拡大し、常識化してきている。
しかし、当然だけれど知はタダではない。
それを提供するためにひとは膨大な「生産コスト」を支払っている。
そのうえで多くの人に「拡散」するためにメディアなどが存在し、
その維持コストはさまざまな形で負担されてきていた。
しかし、膨大な知の蓄積はいまほとんど、タダで得られるようになってきた。
少なくとも、これまでのように本という流通形態で取引されることが
基本的には減少する局面を人類は「はじめて」見ていると思う。
この趨勢が進展していった先に、どのような知の循環システムが出現するか、
まだまだ先は見通せていないように思う。

中国の共産党専制独裁では、AIを徹底活用する「顔認証」システムが
盛大に進行しているとされている。「顔パス」が実現しようとしている。
たしかに「便利」ではあるだろう。
全国民を監視するシステムが完了寸前になってきていて、
こういう方向が人類進歩の基本趨勢だという論説まである。
しかし香港ではこうした情報支配に対して「マスク」での人権防御が
先端的に進んでいるともされている。
「知はタダ」という趨勢の先に、どうもこのような深刻な事態が
未来予見的にみえてくるのではないかと、不安がよぎることがある。

<写真は鹿島神宮です。>
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【140年前、わが家近所での開拓屯田兵の暮らし】

2019年10月23日 07時04分24秒 | Weblog


住宅の取材というのは、必然的にその家での「暮らしぶり」に密着する。
どうしてこのような家になったのか、ということ。
言い換えれば、家というイレモノは暮らしのために存在すると思う。
いまで言えばまことに寒々とした140年ほど前の、
札幌市西区琴似での生きた暮らしぶりとの相関関係への想像力が
いつも求められるし、なるべく生き生きとした情景を思い浮かべたい。

この琴似屯田兵村は、わが家から1kmも離れていない距離。
歩いていけば7-8分の場所にあります。
地割りは基本的にそのままと言ってもいいほど。
これほど近い位置に日本人なら誰でも知っている歴史痕跡があることに
今更ながら気付かされている次第。
残存している「清野さん」の入居した屯田兵屋には、
ごらんのようなイラストまで掲示されているのでわかりやすい。
一番上にはクマさんが繰り返し集落を襲った様が描かれている。
この屯田兵村は200戸の集住として最初から1,000人単位の村落形成がされた。
この事実は、初期の北海道移住の困難への「対応策」だったと考えられます。
江戸期以来、散発的な「移住」「開拓」の試みはされたけれど、
やはり人間生活というのは、ムラという共同体の存在が大きいのだと思う。
縄文以来のこの列島での人間の営みでは、最低400人程度の集落が
基本生存要件を満たしていたとされています。人間というのは
集団・ムラのような共同体なくしては存在し得ない。鉄則なのでしょうね。
たぶん明治国家もいくばくかの試行錯誤の結果、
そうした人類的共通性に気付き、まずは移住のためのコアとしての
集落・ムラを造営したのだと思われるのです。
この琴似屯田兵村は1,000人規模であり、さらに「軍隊組織」でもある。
共同の危険姓に対して対応できるだけの基本組織だったと思う。
一番上にはクマさんの襲撃の様子がありますが、
実際にクマの襲撃で恐怖に陥れられた記録は北海道内で相当数に上っている。
屯田兵村は、そういった安全保障の基本で地域の「カナメ」を形成していた。
実際に周辺の集落にクマ駆除のために動員された記録が多数残っている。
クマ1頭を駆除すると現在貨幣価値で10万円弱の「報奨金」まで支払われている。
クマ撃ちの名人は弾丸3発で仕留められた、みたいな話も伝承している。
こんなくらしが主に東北の維新戦争敗残諸藩の旧士族によって営まれた。
そんななか、くらしが始まって1−2年後、西南戦争が勃発して
この屯田兵たちも仇敵・薩摩討伐の機会を得た。・・・



マンガ表現では、こんなくらしの句読点のような光景も。
夏場は集住の力もあって、比較的暮らしやすかっただろうけれど、
冬場の寒さへの「戦い」はいまの時代の想像を遙かに絶するものだった。
マイナス20度、30度といった寒冷気候に対して、
断熱の知恵もなく、ただ囲炉裏の暖だけで立ち向かう過酷さは
クマの恐怖の比ではなかっただろうと思います。
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【北海道開拓最初の住宅施策は大量生産志向】

2019年10月22日 06時03分46秒 | Weblog


北海道庁は少し前まで「試される大地」というキャッチフレーズを
アピールしていました。
けっこう反響があったように記憶していますが、
北海道は開拓初期のはじめから確かに「試され続けてきた」のは事実。




写真上は開拓当時一般的に建てられていた小屋、もしくは簡易な住宅。
だいたいこのように萱葺き・草屋根というのが常識的な建て方だった。
こういった屋根の建物に対して開拓使としてはどうも批判的で
その後、下の写真の「琴似屯田兵屋群」を始原の「公共住宅」として
建設したときには「柾葺き」の屋根としたのですね。
いわば開拓使初源の「住宅政策」であったように思われます。
江戸期には都市住宅に対して間口の広さによる税負担を基本政策にして
火災延焼の危険防止のため屋根を瓦葺きにさせたりしている。
この北海道開拓・札幌本府創設に当たって、測量などの作業進行で
まずは「街割り」を行った。で、大量動員された一時的「出稼ぎ」労働者たちの
簡易な草屋根「小屋がけ」が、かれらの退去後放置されていて
ほかの永住的な建物に対して火災延焼の「火だね」になっていたので
強制撤去させるのが目的で「御用火事」まで仕掛けたといわれる。

たぶんこのようなプロセスから北海道の「住宅政策」は始まっていった。
初源的な官の政策としては合理的大量生産の屋根問題だったかと思える。
柾屋根というのは、薄くスライスした木板片を屋根に張っていく工法。
草屋根が繊維質で空気を内包したストロー状の萱などを使うのに対して
いわば紙のように処理した板材で被覆させる工法。
北総研の建築研究者・高倉さんからの情報では、
「開拓使は、明治4年にシングルマシン(柾板の製造機)をアメリカより購入し、
器械柾を製造し始めます。」との情報が寄せられた。
草屋根がいかにも自然的な非大量生産的なつくられようであって、
そういった自然環境依存型ではなく、機械的な合理的均質性を優先させたのだ。
開拓使としては最初期の最大政策は定住人口増の推進だったから
その生活基盤である住宅については、まずは大量生産志向で
プレファブ的な志向を強く持っていた可能性がきわめて高い。
「シングルマシン」による製材がどの程度のコストだったかは不明ですが、
草屋根のように、どっかから調達する「粗雑」なつくられ方は良しとしなかった。
琴似屯田兵屋は明治7年に一気に200戸ほどが建設されたので、
この住宅を「モデル住宅」事始め的に仕掛けたように思われる。
ただし、当時北海道に滞在していたアメリカのもと農務次官ケプロンは
「薄紙のような」というように表現している。
すでに北米の寒冷気候に対して住宅の気密断熱の重要性に気付いていた北米人には
初源の開拓使の「住宅政策」に奇異の念を抱いていたことがうかがえます。
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【堤防決壊広域被災、宮城大崎市・進まない復旧】

2019年10月21日 06時53分01秒 | Weblog
昨日、いつもお米を直接購入させていただいている
宮城県大崎市鹿島台の農家の方から緊急のSOSがメールなどで来た。
「今回の台風19号での当地での吉田川決壊により浸水した水が引かず
避難所生活をされている方が150名近くおります。
みなさん決壊を予測できず、着の身着のままの避難だったので
今に至っても、着替えもなく過ごしております。
日々寒さが増してきております・・・。あつかましいお願いですが、
古着でよいので防寒着・防寒下着などを送っていただけないでしょうか?」
という切実極まりないお申し出。
こういうふうに直接頼まれたのは初めての経験でもありました。
たしかに急に堤防が決壊して氾濫して家が浸水すれば、
対応する用意を事前にしておけるという人は少ない。
命を守ることはできたとしても衣類が全滅する事態までは想定できない。
季節的に寒さに向かっていくのに、当然防寒着は心許ないだろう。
こういった事態なのに今回はあまりにも広域同時多発的なので
地元自治体の事実把握・対応すらきちんとされていないようです。
この地域は広域行政合併で「大崎市」に統合されたのですが、
浸水家屋の数自体も行政側での把握が遅れてしまっていたようです。
ご存知の通り、台風による決壊は12-13日ですが
地元テレビ局TBC(東北放送)16日報道ニュースでは
「大崎市は14日現在6軒の浸水被害と発表してきましたが、
実際にはそれを大きく上回る200軒以上に上っています。」
ということだそうです。以下、報道の抜粋。
「濁流で台所の冷蔵庫を押し倒された赤間浩子さん(53)。
被災後15日に初めて住まいの様子を見て愕然とした様子。
片づけの見通しが全く立たず、り災証明発効のために必要な
被害の様子を写真に収めるのが精一杯だと話します。
吉田川の堤防決壊では大郷町で水が引いている一方、大崎市鹿島台では
浸水したまま。土地が低く大郷町側から水が流れ込み
水位は引くどころか上がった場所もあったといいます。
15日になり、ようやくポンプ車による本格的な排水作業が始まりました。
約30年前に大崎市鹿島台を襲った豪雨で1週間、水は引きませんでした。
住民は落胆と憤りの顔色を見せています。」(抜粋終わり)

ということで、とりあえず冬用衣類の古着を昨日送らせていただいた。
発災直後カンパなどは送っていたのですが、復興に忙しい中で
いちいち連絡してはそれへの対応も迷惑だと考えてしまいます。
都合7つの段ボールで物資を送付したのですが、今回はこうした送料も
まったく全額自費負担のようです。ふつう支援物資の場合、
配送料には減免処置が取られるのではと勝手に想像していたのですが、
まったくありませんでした。
どうも今回の被災地支援の行政対応は後手後手のように思われます。
っていうか、情報の把握自体もきちんとされていないのは、
どうにも疑問が膨らんできてしまいます。
それにしても、12-13日の堤防決壊からすでに8日経過なのに、
写真のような状況だと言うことに驚かされます。・・・
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【わが家直近の「歴史」屯田兵屋再探訪】

2019年10月20日 09時22分56秒 | Weblog
きのうは、最近わたしのライフワークに強力な助っ人をしてくれている
娘とわが家のすぐ近く1kmほどにある「有形文化財」
琴似屯田兵屋を再探訪しておりました。

わたしは人生でいろいろなところに住んできました。
各地をめぐって39歳の年に現在地・札幌市西区山の手に住み始めた。
なので人生時間30年近くを今の場所で住んでいる。
っていうか、札幌市西区琴似周辺という意味では40年以上。
最近、北海道の住宅始原の探究をテーマにしてきて
ようやくにして、地元のことに思いが至るようになって来た。
まことに恥ずかしながら、であります(笑)。
屯田兵というこの地域の基盤になった歴史事実にも、
こういう興味が向いてきてようやく気づき始めているという愚かさ。
図は琴似地域の屯田兵入地の配置図と、現在の地図とが
ほとんどピッタリ重なっていることを示しているもの。
図の真ん中あたりの⬇は、都下鉄琴似駅1番出口で、
現在はよくお世話になっている北洋銀行琴似中央支店。
で、その面している左右が現在メインストリートの琴似栄町通り。
軍隊組織形態の指揮命令系統所在地も現在の「札幌西区役所」に
ほぼ相当する位置に当たっている。
屯田兵村の「街割り」が約150年後のいまでもその原型のママ、
今の時代までつながってきていることが一目瞭然であります。
この屯田兵村は、明治8年・1875年に総戸数198戸、
約1,000人規模の集団移住によって開かれたという
北海道でもごく最初期にあたる「街の造成」事業だったのですね。
探訪している「屯田兵屋140号」という建物も、清野さんという方の
お住まいだったそうですが、その家系の方とおぼしき高校同級生も
いることに今更ながら気付いたりしている。
屯田兵の末裔と思われる友人も数えられるほどいるのです。

灯台もと暗し、歴史が大好きなのですが、
こんな150年ほどの身近で事実発掘が容易である街にいることに
あらためて驚かされながら、大きな「テコ」を手にできた
そんな思いが強まってきております。
歴史把握は行ったり来たりすることと言われますが、
ちょうど寸法の基本が人間の肘から手までの長さであることと
似たような把握感覚として、この歴史時間150年間がテコになれる。
ふ〜む、と深く気付かされるところであります。
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