「アジール」という言葉や概念はご存知でしょうか?
世俗的な権力や法規制が、その空間には及ばないような
自由空間というか、江戸時代の「縁切り寺」のような空間のことを言う。
そこは「解放区」のような空間であり、
ひとびとの古い人類的な制度記憶のなかにしっかりと存在した。
歴史学者・網野善彦さんの著作で何度も触れられた、人間社会の記憶空間。
近代社会では、国家の法規制というのは一円的に及ぶものだけれど、
しかし、国家成立以前の人類社会の残滓のようなものとして、
広く民族を超えて普遍的にこういう社会観念が存在すると言われる。
たぶん、江戸期までの社会では、生きがたい俗世への不適合者を救済する
そういった社会装置としてのアジールがあったように思うのです。
ある中東の社会では、殺人者まで救済される「アジール」地域があったりする。
宗教性のある空間などでは、その神仏の及ぶ力が、
なんとはない自由感をもたらしているように感じさせられる。
長い伝統を有している宗教施設の空間では、こういう雰囲気の残滓を感じる。
たとえば出雲大社などでは、わたしは非常に強くこうしたアジール感を感じた。
そもそも参拝方法自体、一般的な2礼2拍手に対し2礼4拍手というように、
ほかのヤマト朝廷の支配が及ぶ神社が持つ
国家神道的な規範性・日常感を離れた、非権力的・異空間的なものを感じる。
中世の一向一揆の参集した広場空間などにも、そうしたニオイがある。
わたしが訪れた場所では、一向宗の西の活動拠点だったという
播州・英賀神社境内や、京周辺の越前・吉崎御坊などにもアジールを感じた。
人間の社会に普遍的な社会装置としてこういうものがあったり、
あるいは戦いの活動の結果獲得された、空気感のようなものがあると思う。
なんですが北海道では、このような空間はあんまり想像が湧いてこない。
わたしは、そういった空間性が大好きであります。
こうした空気感の実態って、なかなか表現しづらいのだけれど、
先日、夏休みに入った北海道神宮境内で、
恒例のラジオ体操参集後の子どもたちに、ある女性が紙芝居を見せていた。
上の写真のように、神宮の神域を体感できる杉木立の中、
青空天井で、高い自由感を感じさせる人間交流を見たように思ったのです。
そもそも神社の境内という場所は、いつもひとびとの自主的な清掃活動によって
清浄感が保たれている。
強制力と言うよりも、ひとびとの善意に依ってある空間性が担保されている。
そういう空間で、おもしろおかしく子どもたちに紙芝居を見せている。
あきらかに非営利的であり、内容もたぶん、人間の善意を伝える内容。
そういったことで成立していた「空間性」には、
あるアジール性がそこで成立しているのかもしれないと、
強い「気づき」感が襲ってきたのであります。
そして一方で、夏の大通公園で見る光景は
こうしたアジール感をまったく感じられない。
ここには装置としての水辺が演出され、公共としての空間があるけれど、
やはり「ひとびとの思い」のようなものがまったく希薄。
そんな感覚を、この夏、考え続けております。
きっとこうした自由感、アジール性というものを求めて、
ひとびとは自分たちの巣、住宅に、その根源的な夢を託しているのではないか。
ひとびとが家に持つ夢の大きな要素に、
こういった人類的な空間性記憶が、知らず知らず仕込まれているのではないか。
家族を思い、いたわりあうという初源的な人間感情、
そういった無私性のある相互信頼感がうみだす解放感というものが
人間の想像力が生み出した空間としてのアジールに通じているのかも。
そうした妄想が沸き上がってきて仕方がないのであります。
・・・ちょっと、理解不能なわたしだけの特異な妄想でしょうか(笑)?
世俗的な権力や法規制が、その空間には及ばないような
自由空間というか、江戸時代の「縁切り寺」のような空間のことを言う。
そこは「解放区」のような空間であり、
ひとびとの古い人類的な制度記憶のなかにしっかりと存在した。
歴史学者・網野善彦さんの著作で何度も触れられた、人間社会の記憶空間。
近代社会では、国家の法規制というのは一円的に及ぶものだけれど、
しかし、国家成立以前の人類社会の残滓のようなものとして、
広く民族を超えて普遍的にこういう社会観念が存在すると言われる。
たぶん、江戸期までの社会では、生きがたい俗世への不適合者を救済する
そういった社会装置としてのアジールがあったように思うのです。
ある中東の社会では、殺人者まで救済される「アジール」地域があったりする。
宗教性のある空間などでは、その神仏の及ぶ力が、
なんとはない自由感をもたらしているように感じさせられる。
長い伝統を有している宗教施設の空間では、こういう雰囲気の残滓を感じる。
たとえば出雲大社などでは、わたしは非常に強くこうしたアジール感を感じた。
そもそも参拝方法自体、一般的な2礼2拍手に対し2礼4拍手というように、
ほかのヤマト朝廷の支配が及ぶ神社が持つ
国家神道的な規範性・日常感を離れた、非権力的・異空間的なものを感じる。
中世の一向一揆の参集した広場空間などにも、そうしたニオイがある。
わたしが訪れた場所では、一向宗の西の活動拠点だったという
播州・英賀神社境内や、京周辺の越前・吉崎御坊などにもアジールを感じた。
人間の社会に普遍的な社会装置としてこういうものがあったり、
あるいは戦いの活動の結果獲得された、空気感のようなものがあると思う。
なんですが北海道では、このような空間はあんまり想像が湧いてこない。
わたしは、そういった空間性が大好きであります。
こうした空気感の実態って、なかなか表現しづらいのだけれど、
先日、夏休みに入った北海道神宮境内で、
恒例のラジオ体操参集後の子どもたちに、ある女性が紙芝居を見せていた。
上の写真のように、神宮の神域を体感できる杉木立の中、
青空天井で、高い自由感を感じさせる人間交流を見たように思ったのです。
そもそも神社の境内という場所は、いつもひとびとの自主的な清掃活動によって
清浄感が保たれている。
強制力と言うよりも、ひとびとの善意に依ってある空間性が担保されている。
そういう空間で、おもしろおかしく子どもたちに紙芝居を見せている。
あきらかに非営利的であり、内容もたぶん、人間の善意を伝える内容。
そういったことで成立していた「空間性」には、
あるアジール性がそこで成立しているのかもしれないと、
強い「気づき」感が襲ってきたのであります。
そして一方で、夏の大通公園で見る光景は
こうしたアジール感をまったく感じられない。
ここには装置としての水辺が演出され、公共としての空間があるけれど、
やはり「ひとびとの思い」のようなものがまったく希薄。
そんな感覚を、この夏、考え続けております。
きっとこうした自由感、アジール性というものを求めて、
ひとびとは自分たちの巣、住宅に、その根源的な夢を託しているのではないか。
ひとびとが家に持つ夢の大きな要素に、
こういった人類的な空間性記憶が、知らず知らず仕込まれているのではないか。
家族を思い、いたわりあうという初源的な人間感情、
そういった無私性のある相互信頼感がうみだす解放感というものが
人間の想像力が生み出した空間としてのアジールに通じているのかも。
そうした妄想が沸き上がってきて仕方がないのであります。
・・・ちょっと、理解不能なわたしだけの特異な妄想でしょうか(笑)?