三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

写真文化がもたらした住宅デザインの惑乱

2015年06月06日 04時18分29秒 | Weblog
Facebookに、拙ブログの公開を始めてから、
たいへん多くのみなさんから、コメントを随時いただけるようになりました。
自分が感じて、思っていることを毎日書き続けると
さまざまなご意見が、頻繁に寄せられます。
コミュニケーションが、こんなにしやすくなるというのは、
やはりパソコン、インターネットの力と言うことをまざまざと体感します。
きのうも、「軒の出や庇」について書いたら、たくさんのご意見。
で、会話を進めていると、ふとひらめきも湧いてきます。

写真という映像文化が全世界的に始まった近代工業化社会から、
デザインはビジュアルにばかり向かってしまったのかも。
住宅というものに、個性表現とでも言えるような要素が加わって
本質が変化してしまったのかも知れませんね。
わたしどものような住宅雑誌というものも、
そういう存在であることは否めない。
考えてみると、写真の登場以前の住宅建築では
「見られることの価値」よりも、
「共同体としての美しきあり方や機能性」こそが
住宅デザインの本質だったのではないかと思います。
写真と個人主義全盛の時代以前の「いい家」という日本的文化も掘り起こし、
価値認識を深めていかなければならない。

っていうような思いが思わず募って、自己レスしておりました。
人類史っていうような大きな流れの中で、
現代社会というものを再度見直してみると、コミュニケーション手段が
圧倒的に即時性と臨場感を持って進化した。
「写真」という映像文化が人類にもたらされてから、
実にさまざまな物事が革新されてしまったのだろうなと、
その渦中にいると気付きにくいけれど、
かなり圧倒的なのだなと、あらためて「気付いた」のであります。
政治も、交易も、コミュニケーションも、なにもかもが、
この臨場感、リアル感によって一変してしまった。
絵やスケッチなどで伝達していたものが、露わに伝わってしまうようになった。
たぶん、インターネットが革新したのと同等レベルの革新が、
写真という表現文化はもたらせたのではないか。
しかし、だからといって、写真は万能ではない。
伝えられにくいものごとが、やはりあるのです。
わたしどもは住宅の雑誌を作っていて、「住宅性能」ということに
大きなテーマを持って発行してきています。
このテーマは優れて「五感」領域全部を使って「感受」するもの。
決して「視覚」だけで理解出来ることではない。

しかしメッセージパワーとしては、見る驚きに訴える方がはるかに有利。
住宅デザインというものも、そういった過誤に陥って、
拘泥し惑乱してしまうケースも多いのではないかというのが実感。
だから、いろいろな表現手段を動員して伝達を考えるのですが、
写真はやはり明解でわかりやすい。
結局は、さまざまな表現の試行錯誤を積み重ねていくしかない。
そういったジレンマをかかえながら、日々、住宅の表現と向き合っています。


写真は、能登の古民家、時国家住宅です。
コメント
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