性能とデザイン いい家大研究

こちら 住まいの雑誌・Replan編集長三木奎吾です 
いい家ってなんだろう、を考え続けます

日本女性の座り方

2014年06月30日 05時09分52秒 | Weblog


先日の北陸の旅の時、
ふと訪れた復元竪穴住居にはマネキンが置かれていました。
まるでそこでそのまま暮らしているかのようで
たいへんほほえましたかったのですが、
でも暗いなかでみたら、ちょっと不気味だったかも(笑)、という印象。
で、歴史家の網野善彦さんの著作で書いてあった
日本女性の伝統的な座り方として、立て膝が一般的だった、
という記述通りの様子が再現されていたのです。
「おお、ついに」というような驚きの出会いでした(笑)。
なかなか考証がしっかりされている遺跡だなと感心もさせられた。

そうなんです、この座り方が伝統的なんだそうです。
なんとも不思議というか、お行儀が悪い感じがします。
そして実は、朝鮮女性も同じような座り方をしていた、とされているのです。
一汁一菜が基本であるという食習慣とあわせて
半島社会と列島社会は、基本的な文化を共有していたに相違ない
ひとつの証のように書かれていた。
男性は、朝鮮も日本も胡座が基本であったようです。
食事は、基本的に火のある場所を囲むようになされ、
車座のようになって、座ってしていたのですね。
で、女性はどうして立て膝だったのか?
これの理由はよくわからない。
インターネットで調べてみましたが、韓国での例で以下のような記述くらい。

女性は片膝を立てるのが韓国式です。
女性の立て膝はチマチョゴリを着ている際に
きれいなシルエットに見えるという理由なので、
最近は減っているとも聞きますが、ある人が韓国に行った時のこと、
目の前の若い女性がミニスカートで立て膝をしたので
びっくりしたという話を読んだことがあります。
その人は意を決して「パンツが見えてますよ」と注意したそうなのですが、
女性の返答は「2枚はいているから大丈夫」とのことだったそうです。

というような、あぶない(笑)記述があったのですが、
たぶん衣類との相関関係があるに違いないようですね。
半島と列島、高松塚古墳の女性衣装を見ても
これは間違いなく文化共通性を持っている。
でも日本の縄文文化でも、このような衣類が一般的だったでしょうから
どのように考えるべきなのか、迷うところです。
いまでいえば、ミニスカートに近い意匠ですよね。
一方で体動作的に考えると、いろいろな食器や食材やらの用意など、
すぐに立ち上がったりしなければならないので
機能的に考えて、合理性を優先させていたのかも。
こういう文章として残りにくいことがらや
あまりにも基本的なことがらには、証明がむずかしいものがある。
このこと、実は長年、考え続けているのですが
だれに聞いても、腑に落ちる答を聞いたことがありません。
なにか、ヒントでもご存知の方、いませんか?



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読書傾向と人間性

2014年06月29日 07時56分21秒 | Weblog


きのう、わたしの読書体験履歴というか、
よく読んだ作家履歴をふり返って見ましたが、
おおむね「作家」としては、大江健三郎・埴谷雄高・司馬遼太郎、という
この3人だったことは事実だと認識しています。
時間的に言えば、高校~大学までで前記のふたりは卒業しましたが、
短かったとはいえ、青春期に沈み込むように読んでいたし、
影響を受けていた、という意味では長く心に残り続けている。
そんな高校時代からの読書傾向を抱え続けて学生生活を過ごし
その後、東京で就職すると同時に、そういった世界から離脱したように
思えてなりません。
明るい顕教の支配する仕事の世界では、大江健三郎・埴谷雄高的な
密教的世界観ではまだるっこく、精神を支えきれなかった。
というか、現実感覚との乖離がすさまじすぎたと感じていました。
わたし自身は商家の末裔であり、基本体質として違うのかも知れません。
その後の長い年月は、司馬遼太郎さんの歴史文学、エッセイを耽読してきた。
それは司馬さんの生い立ちを知るにつれて、
体質的にも親しいと感じ始めた部分も大きかったように思う。
一時期は思惟の袋小路にハマったけれど、結局
歴史が大好きだった少年の日のこころに戻ったような、
そしてそれが深い人間洞察に繋がっていく、
大きな部分だと認識できたのだと思っています。
司馬さんの描き出す歴史のなかのひとびとは、
市井と現実感のなかで生き生きと呼吸していると感じた。
密教的に人間の不条理を見て批判的な内面分析に耽溺するよりも、
もうすこし人間肯定的な、理性的な知性のなかにいたいと思った。
そのように思い至ったとき、歴史を生きた人びと、
先人たちの生き様を、深く知っていきたいと思ったのだと思います。
それは、現実のビジネスの世界で、
いま現実にドラマを紡いでいる実感を感じていたことも大きい。
ひとと話すとき、やはり顕教的な普遍性にこそ
人間世界の真実の大部分はあると思えたのですね。
そしてその流れから、現在では歴史書を耽読するようになり、
網野善彦さんなどの歴史家の本を読むことが多くなっている。
網野さんも左派系のひとであり、埴谷雄高さんとも関わるような
そういった知の系統ではないかと思うのですが、
わたし自身は、そういった人から多くの影響を受けてきたことは間違いない。
歴史分析の手段として、やはり史的唯物論的な見方は正解だと思う次第。
ただわたしは、日本および日本人、そして人間そのものが好きなのであって、
そこから、明晰に歴史を知っていくことが必要だと思っているのです。
そんななか、最近大江健三郎さんが「9条の会」などで、
左派系・人権派の砦のような役回りになっていることについては
大きな違和感を感じております。
いや、あなたは生まれ故郷の四国の森の番人として、
空海以来の日本的密教世界に盤踞していることがふさわしい。

結局人間は、なにを読んできたかで大体のことはわかるのだろうと思います。
それは、なにを食べてきたかが肉体だ、というのに近い。
そのことをしっかり認識して、
より冷静に現実を見ていきたいと思う次第。

<写真は青森で食べた薩摩揚げの逸品料理>


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わたしの読書経験について

2014年06月28日 08時02分15秒 | Weblog


きのうは生煮えのままの思いを書いてしまったかと反省しています。
実は最近、大江健三郎さんや埴谷雄高さん、司馬遼太郎さんとかの
自分が愛読者であった時期のある作家について
いろいろと考えることがあるからです。
わたしは小学校から高校と、ずっと出版文化周辺に強い興味を持っていて
それで、同時代性の感じられる作家として
華々しく取り上げられていた大江さんに、処女航海的に強い興味を持ちました。
まぁ、はじめて「文学」に触れたのが大江さんだった。
「万延元年のフットボール」という当時の話題作で、
まるで「密教」的な世界だと、強く目を開かせられるような思いを持ちました。
読後、つよい酒を飲みたくて仕方なかった。高校生なのに(笑)。
そんなふうなことは、ひとに言ったこともないし
書いたこともないのですが、自分の肌で感じていた実感です。
それまで読んだ文章は、「顕教」的な、
理性的な無味乾燥な道具としての文章であり、
そういった文章に対して、新しい表現手法ではないかと
まだ高校生なのに、すっかりそうした表現手法にハマってしまった。
見よう見まねというか、その文体で自分も考えるようになってしまった。
若者はやはり影響されやすいのは事実だと思います。
そして当然のように、「沖縄ノート」や、「持続する志」「厳粛な綱渡り」
といった時事的なエッセイ集も読むようになり、
社会へのスタンスとしても、ある共有感をもっていた。
ただ、沖縄ノートで書かれた内容について
極悪非道のように書かれた方から大江さんは訴えられて、
3年前に最高裁まで争われた末に結審したという事実を最近知りました。
裁判は大江さんが勝利したそうですが、最高裁まで争ったという方の
「持続する志」の所在も、心して読み取らねばならない。

大江さんの「思考回路」から紡ぎ出される独特の言語表現、
とくにタイトルネーミングの独創性には強く惹かれていました。
たぶんこういう部分はわたし自身、
良い悪いは別にして、身体化しているところがあると思う次第。
「顕教」と「密教」というのは、もちろん当時そんな仕分けが
出来ていたわけではなく、まぁ後付けでの解釈ではありますが、
その後、「顕教」と「密教」ということの意味を深く知ったとき、
自分自身の問題として、この仕分けがもっともふさわしく感じられたのです。
ただ、こういう密教的世界観は、若者には重たすぎて
あまりにも暗すぎる世界観だと思う部分がありました。
現実世界感覚が徐々に鈍磨していく危機感が大きかった。
一方で、戦前戦中の共産党活動家で獄中で転向し、
戦後、作家活動を開始した埴谷雄高さんの、
いわば明晰な難解さの文体にも強く惹かれていった。
そんな学生時代を過ごし、社会人になるとともに必然的にと言うか、
当たり前の「顕教」的な世界に生きていくことにならざるをえず
こうした文体の世界とは否応なく離れていった。
なにより、時間的にとても付き合っていられない、というのがホンネ。
でも、大江さんは読まなくなったけれど、
埴谷雄高さんが、「死霊」の続編を書いたときには、
さすがに徹夜して読んでしまった記憶がある。
かれの文章は、表現すべきことが明晰であるように感じられた。
というか、作家としてある表現すべき対象が明確だと思っていたのです。
そんなふうに埴谷雄高さんを普通に読んでいて、
ふとしたときに、「戦後文学でもっとも面白い作品は?」という
読書新聞とかの特集記事にふと接したら、
なんと、埴谷雄高の「死霊」が文学評論家たちの一番人気であることを知った。
そのような記事を見たときに、「そういうものか」と頓悟した経験がある。
そしてやがて、読みやすい文体で日本人を考え続ける
司馬遼太郎さんと出会って以降、
大江健三郎作品とはまったく離れ続けてきたのです。

で、いま、こういう自分自身もしっかりと振り返ってみたい
あらかじめ肯定でも批判でもなく、冷静に考えてみたいと
そんなふうに考え始めている次第です。
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言語芸術ってなんだろう

2014年06月27日 07時44分11秒 | Weblog


なぜか最近、そんなことが頭を離れません。
とくにテキストの芸術、ようするに「文学」というものが見えにくくなっている。
明治までの日本の芸術状況とはどんなものだったのか。
そもそも日本には各地域で話される方言差が大きく、
統一的な言語が存在していなかった。
司馬遼太郎さんの残された逸話に、明治維新の頃、
各藩が京都で政治会合を持っていたとき、
薩摩と津軽とが対話するとき、
演劇の表現を通辞として使った、という一節すらあった。
それでは明治国家が目指した欧米列強に後する「国民国家」創設は難しい。
そこで、さまざまな論理構成や、欧米の科学概念をも表現可能な
「日本語」を生み出すことが緊急課題だった。
まずは擬制的に東京の山の手地域で話されていたことばを基礎にして
概念を厳格に表現可能にする「日本語」が生まれてきたといわれる。

だから、明治期に「文豪」と呼ばれる人々が輩出した。
そして出版活動と報道活動が活発化していった。
とくに出版では、このような新たなジャンル開拓に近かったので、
「こんな内容でも文章で読める」という新鮮な驚きが
多くの読者を獲得していったのだと思う。
やがて「内面世界」的な部分すら、多くの人々の共通の話題に出来るようになり、
作家たちは、競って「私小説」のようなものに向かった。
しかしそれは、ひとびとの読みたいものへの欲求の高まりとともに
作家自身の内面を切り刻むような傾向に傾いていった。
芥川龍之介さんとか、太宰治さんとか
作家と言えば、自殺するものみたいな傾向になっていった。
一方で、出版の発展と言うことでみれば、
このような「言語表現物のマーケット」が出現し、拡大したので
そうしたマーケットを狙って、さまざまな新人発掘が行われた。
芥川賞とか、直木賞とか、
文藝春秋社創業者菊池寛さんって、
日本のメディア事業者として、特筆すべき人物だと思います。
わたし自身は、この菊池寛さんのことが大好きです。

わけなんですが、文学の衰退が言われて久しい。
そもそも言語それ自体の「芸術」というのはよくわからない。
物語ストーリー、その展開の仕方などなどの部分では
やはり今日、映画やテレビの方が優れていて
時間節約的でもある。
また、さまざまなテーマジャンルについての紹介とかは理解出来る。
それらは、確立した日本語の最大の恩恵であると思います。
日本語創出において「文学」は大きな産婆役は果たしたけれど
いま、言語として確立してしまえば、
それ以上の底掘りすべき対象であるのかどうか、
どうも疑わしいと思っています。
どうなんでしょうか?

<写真は中村好文さんの「小屋」in21世紀美術館>



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平衡感覚

2014年06月26日 06時26分19秒 | Weblog


先日、某所にて思わず撮影した家であります。
まぁなるべく特定できないように配慮してみましたが、
いかがでしょう、なにかがおかしいとおわかりでしょうか?

そうなんです、家があきらかに傾いているのです。
建築では「不同沈下」というように表現します。
木造では、家の水平が保たれるように細心の注意が払われます。
そのために鉄筋コンクリートで基礎が打たれ、
その上に土台としての横架材が渡されて、そこに柱が立てられていく。
基礎は、建築年代によって置き石や束基礎などの変遷を経て
いまの鉄筋コンクリート布基礎に至っているのですが、
古い家ではいまだに束基礎が見られることがあります。
そのような基礎が経年の地盤面の変化で
ゆがみを生じ、バラバラに高低差が生じてしまって
「不同」な「沈下」状況が発生してしまう。
その典型的な事例だと思います。
なかなか見られないので、つい興奮を抑えきれなかった。
地盤面というのは一定の形状・状況を保っているように思いがちですが
寒冷地などでは冬場の地盤凍結、春になってのゆるみを
経年で繰り返すことで、平坦な地盤面に変化が生じやすい。
そのような被害を防ぐために、「凍結深度」以下にまで基礎を深く打ち込む。
凍結深度というのは、その深さからは凍結しないという地盤の深さ尺度で
地域によって違いがあり、札幌では60cm、道東では100cmという地域もある。

この事例では、まちがいなく束基礎で、
それがバラバラの高低差を生んでしまっている。
その結果、建物自体が傾いてしまったのですね。
まず第1に危険なのですが、
見逃せない大きな健康被害として、平衡感覚のマヒがあります。
わたしも水平が維持できていない建物の取材経験がありますが、
入っている間中、名状しがたい苦痛が感じられる。
目に見えない不安をもたらす疼痛とでも言うのでしょうか、
たぶん三半規管が異常信号を発し続けて、
脳に負担を掛けるのではないかと推定しています。
結果としては吐き気が襲ってきたり、目眩に似た感覚が出たりする。
わたしの体験では、ここにもう1時間いてくれと頼まれても
ムリ、という気持ちを抱きました。
このような家でずっと暮らしていると、どうなるのか、
ちょっと想像できません。
家と人間の関係、
こんな事例も含めて、奥行きが深いものがありますね。

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青森ー札幌交通事情

2014年06月25日 06時40分58秒 | Weblog


きのう夜に札幌に帰ってきました。
今回の青森出張は、当初のJRでの往復計画が脱線事故の影響で
飛行機での往復に変更した次第。
JR北海道の方については、きのう書いたのですが、
きのうは朝には復旧していたのだそうです。
まぁ苦言も呈したわけですが、なんとかJR北海道のみなさんには、
信頼回復の努力を続けていただきたいと思います。

で、きょうはもうひとつの移動手段である
飛行機の方であります。
今回は稲盛和夫さんの大車輪の働きで企業再生に成功したJALでした。
予定ではわたしの要件は月曜日だけで済むハズだったのですが、
急遽きのう火曜日にも一件、ずれ込んだ。
で、それは午前中いっぱいギリギリの時間でした。
予定では朝一番の便で帰還するつもりだったのですが
やむなく次の便に変えたいと思ったのです。
朝一番は、11時半。1日3便ということは知っていましたが
3便目は最終20時半。ということで、2便目は当然14時か、15時くらいと
常識的に信じ込んでいて気にも留めずにいたら、
なんと、2便目は12時40分だというのです。
青森市内で午前中に仕事を片付けたら、
空港まで、間に合う移動手段がないのです。
ちょっと驚きの事態。
今回の日程は、最初から変更に次ぐ変更だったので、
汽車や飛行機会社の変更ももうイヤになって
ほぼ諦めの心境になって、仕方なく最終便で帰ることを選択しました。
なんやかや、考えるのが面倒になってしまった次第(笑)。
まぁ、参りましたね。

青森ー札幌間、移動手段選択は現状では、ほんとうに難しい。
それくらいビジネス的に交流がないということなのでしょうか?
お金は高いけれど、早くてラクと飛行機を信じ込んでいたのですが、
まさか、こんな時間設定とは思わなかった。
JR利用であれば、札幌まで6時間ほどはかかるけれど、
乗車の時間はある程度、自由が利く。
時間は大体2時間おき程度なので、そうは狂いも生じない。
それとなんといっても、わたし、函館とか道南が好きなんです(笑)。
駒ヶ岳や函館山を眺めながら移動するのは好き。
それに、時間はパソコンで仕事していたらあっという間。
かえって、まとまった時間なのでエクセル仕事とかには都合がいい。
出張の仕事について、あれこれの進行を車中でまとめることも多い。
ということだったのであります。
で、一方、きのうの飛行機利用での思わぬ空き時間(笑)。
結局家に帰れたのは、午後10時半過ぎでした。
JRであれば、たぶん、午後7時くらいなので、
3時間半は損させられた。しょがありませんね。

ということで、あれこれと思い悩む
青森ー札幌間移動事情なわけであります。みなさんはどうなんでしょうか?

<写真は青森で人気のお店の「お通し」。美味、きれい>





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ああ、JR北海道

2014年06月24日 05時11分18秒 | Weblog


きのうから青森に来ております。
わたしはちょこちょこと青森出張があり、
そのたびに、JRでの往復を繰り返しています。
青森以外に行くには、やはり仙台に飛行機で行って
そこからいろいろ各地に移動を考える、というのが普通ですが、
青森の場合には、JR利用がいちばん合理的。
まぁ、移動に時間がかかるのが難点とは言えますが、
費用との見合いではほぼ適当かと思っています。
なんですが、最近のJR北海道の問題点の噴出で
函館ー札幌間の特急の本数が削減されたままになっていて
急に出張予定が入ると、その区間の指定席がまず取れない。
まぁやむを得ないなぁと諦めざるを得ない。
大体帰りの、函館からの便の指定が取れません。
自由席利用になりますが、通常大体は座って帰ってこられる。

そんなふうに利用していましたが、
今回の貨物列車の脱線事故では、HP上では
「江差線で運転見合わせ」というアナウンスなんですが、
実は影響の最も大きい「津軽海峡線」がまったく不通になっている。
この間のJR北海道の発表は、まことに不明瞭なものに終始している。
HPでは、先述のように「江差線が・・・」という書き方になっていて
一番多くの利用者の関心事である「青森ー函館」間のことが
まったく触れられていないのです。
やむなくインターネットのニュースとか、当事者外の情報にしか頼れない。
そのうえ、22日の時点では
「津軽海峡線も運転を見合わせている」と書かれていたのに
23日にはその部分が抜け落ちてしまっていた。
ですからわたしなどは、「あ、津軽海峡線は復旧したのか」と思ってしまった。
ところが事実は全然違っていて復旧のメドは立たなかった。
で、企業の明確な発表のないまま、誤解した人が札幌から函館まで移動し、
多くの人がフェリーに乗り換えざるを得なくなって
ターミナルには大勢のみなさんが押し寄せたということです。
青森のタクシーは突然のフェリー客で大忙しになっている。
たぶん、このHPの書き方を見て、
わたしのように誤解してしまった人は多いのだろうと思います。
函館に着いて、はじめて津軽海峡線の不通を知ったのでしょう。
JRの券売所窓口でも、22日日曜日の時点で、
翌日の運行についてはまったく状況の発表アナウンスがなかった。
「明日になってみなければわかりません」という対応でした。
わたし自身は、その時点でJR北海道に事故対応当事者能力がないと判断し、
即座に飛行機に変更して、仕事はきちんと片付けることが出来たのですが
北海道と名前が付いているインフラ企業で、こういう状況はちょっと困りもの。

で、きのう23日中に復旧させるというメディア情報が流れていたのですが、
きょうの早朝4時過ぎに、HPを確認したら、
「発表時間外(24時から5時まで)」ということで、なにも情報開示がない。
おいおいであります。まぁ、まったくどうなっているのか?
ユーザーへの情報提供が使命であるHPが
このような企業としての非常事態の時に時間外だから開示していないって、
企業ガバナンス能力を疑うような事態になっています。
たしかに広大な北海道で人口も少ない中で保守すべき鉄路は
企業規模を超えるような範囲になっているだろうことは理解出来るけれど、
それにしても、対応がずさんすぎる。
人口減少社会が本格化する中で
このようなインフラ企業は、今後ともきびしい状況に追い込まれていくでしょうね。
かつての北海道拓殖銀行のような事態が
北海道と名付けられたインフラ企業で起こらないとも限らないと
不安な気持ちがよぎってくる昨今であります。
なんとか信頼回復に努めて欲しいと祈念します。

<写真は神頼みのため(?)の北海道神宮内宮です、よろしく>
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初夏の消えた北海道

2014年06月23日 04時54分41秒 | Weblog


2週間から3週間ほど前には
全国一に暑い日が続いたりしていた北海道ですが、
その後、6月の観測ではもっとも長雨に突入。
まぁまぁ、来る日も来る日も雨ばっかりという憂鬱な天候続き。
いちおうわたしはゴルフ、お付き合いくらいはするんですが、
ことしはまったく行く気が起きない。
忙しいし、ちょうどいいからこれを機会にきっぱり止めてしまおうかと
まで、考えている次第であります、まぁそんなことはないでしょうが(笑)。
そんな雨模様がようやくきのう上がって、
カラッと晴れ渡ったのですが、夕方からふたたび曇りがちに。
どうにも、あの北海道の爽やかな初夏が消滅している。
地球上でも稀有な「天国に一番近い」北海道の初夏が、なくなった。
どうにもさみしくてなりませんね。

わたしは北海道で生まれ育ったので、
小さいときの記憶の中に、真っ赤な夕焼けとか、奇怪な形状の雲とか
あるいは、乾燥気味の空気感とかの身体記憶があります。
東京生活を始めた頃に
東京で知り合ったひとたちと話していて
「地平線って、見たことがない」みたいな人たちが多くて
おいおい、と呆れていた記憶があります。
人間は自分にはないものに深く焦がれるものだろうと思います。
わたしの場合には、北海道の自然がもたらしてくれる体感は好きだけれど
一方で人文の乏しさ、その積層感のなさがいやで、
本州地方の、たっぷり人文痕跡がある地域に憧れ続けた。
それが原因なのか、結果なのか、
わからないけれど、歴史が大好きというのは、
そういった部分が大きいのではないかと思っています。
自然が豊かであるって言うことはうれしいことではあるけれど、
でもそう「誇らしい」ことでもない、みたいな、
そんな心情を抱き続けてきた。
しかし、その自然が変調を見せているようになると
なんともいたたまれないような、豊穣さを失った気分に襲われる。

梅雨がないと言われていた北海道の
この今の時期のすばらしさが、消えてしまった喪失感は
心理の奥底に沈殿するかのようであります。
まぁ、神さまのきまぐれである天気に、
人間がどういってもムダではありますが、
もうちょっと、初夏らしい季節を取り戻して欲しいと念願します。
火の恋しい季節は、この時期の北海道、どうもふさわしくない。

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武士と禅 永平寺 3

2014年06月22日 06時52分03秒 | Weblog


歴史に興味を持ち続けているわたしですが、
日本史を習っていて、いつも持ち続けていた疑問が
武士が政権を握って、ほぼ同時期に禅宗が導入されていったこと。
武士の発生と禅の興隆の2つのことには、
どんな内在性共有性があったのか、ということです。
鎌倉に政権ができて、日本が本格的な2重政権状況になり、
承久の変を経て、武家政権の優位性が確立した。
それとほぼ時期を同じくして、建長寺という年号を寺号とする禅宗寺院が
鎌倉に創建され、国家鎮護仏教として禅が導入された。
それは、当時中国大陸で最新の宗教として隆盛していたから
というような単純なことであるのか、
仏教は、奈良時代の大寺院たち、平安時代の比叡山と高野山、
といった天皇・貴族階級のためのものからダウンサイズして
武権にとって、より都合のいい教義を備えた禅がもてはやされたものなのか、
たぶん、そういったタイミングとかすべてを含んで禅が興隆したのでしょうが、
そんなことを永平寺見学をしながら、解明のよすがを求めていた次第。

結論から言うと
そんな大きなテーマは、浅学の一市井の門前の小僧の身には持ちがたく、
あえなく帰路に着くのみでありました(笑)。
まぁ当たり前であります。
武士という存在の出自にはいろいろな考え方があるようです。
が、一般的には地方の開墾地主が自らの権益を守るために
武装し、同時に中央政権側の認証を得たいという動機に駆られて
より政治力の強い源氏・平氏という武門を担ぎ上げていった、
というのが、多くの見方と言えるでしょう。
間違いはないと思います。
最近では、平将門の乱というのが中央政権貴族にとって未曾有の恐慌だったようで、
それを鎮圧した家系が、源満仲と平貞盛であり、
この両家が、清和源氏、桓武平氏であったことから、
地方の武家が祭り上げるのに貴族社会からの認証も得やすかった、という説があります。
で、頼朝という革命的な策略家が関東に武権を樹立した。
禅というのは、個人の内面世界的な安寧をもとめる部分があって、
このようなリアリズムに身を置く武士たちにとって
殺し合いの現場的な精神性の部分で
リアリティがあったのではないかと思っています。
「葉隠」に、殺し合いの時に極度の集中感から「周囲が暗くなる」という
描写があったのを記憶しています。
たぶん、相手だけが見えて周囲がまったく見えなくなる状態になるのでしょう。
そう極限的ではなかったけれど、類似した体験は身にも覚えがあります。
そしてそういう局面に立ったときに、どのように自由に体を動かすか
というような武芸者としての実践的な行動哲学が語られている。
そういった武士にとって不可欠な、「明鏡止水」というような心理描写は
それまでの仏教に比較して、格段に実践的だと認定されたのではないか。
そんなふうに考え続けています。

でもまぁ、なかなか禅問答のように
答は一発では出てこないものなのでしょうね、きっと。

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食も修行 永平寺 2

2014年06月21日 05時30分39秒 | Weblog


永平寺でいちばん感じたことは、すべてが修行であると言うことです。
この寺は禅のお坊さんたちが修行する場なので当然なのですが、
われわれ庶民にも直接関わることとして、
食事について、こういった禅の考え方が日本人には刷り込まれている不思議さです。
わたしたちは食事にあたって「いただきます」と唱えて、感謝の心を表している。
それは食を通して「いのちをいただく」という禅の教えに根ざしている。
あれは、まごうことなく禅の教義であるワケです。
修行のためのたくさんの伽藍を巡ったあと、
あるお部屋で、永平寺の「食」についての考えをまとめたビデオが上映されていた。

なんでも、典侍という永平寺でも3番目にエラい役のお坊さんって
食事の係なんだそうです。
で、エラいからと言って奥に籠もっているのではなく、
毎日毎日、3度3度、200人からの大人数の修行僧のための食事を
先頭に立って、作り続けているのだそうです。
開祖、道元さんは、食は大切な修行の機会であると説いて
その責任者に高い地位を与えていたのだそうです。
それが「精進料理」という文化を生み出し、
そして庶民隅々に至るまで、食文化伝統に染みわたっていった。



食を作ることの隅々にまで、こうした考え方は貫かれていて
どんな食材も、そのすべてを「いただく」ことに精魂が傾けられている。
それぞれの素材の「いのち」をそのままに感受出来るように
細心の配慮が施されて、ひとの口に入るように考えられている。
そして一方、食べることについても
そういった考え方を受容できるように作法として考えられている。
ひとハシ、ひとハシに行動の意味と、合理性を調和させている。
食事は早すぎても、遅すぎてもいけない、
そのような呼吸を得ることも大きな修行であるというのですね。
日頃、毎日のように自分でも食事を作っていて
しかもダイエットとかに取り組んでいるので、
こういった考え方に触れて、まことに一言一句がストレートに入ってくる。
宗教と言うこと、生き方と言うことが、
非常にわかりやすいかたちでひとびとに示されるという意味で
まことにすごいシステムを道元さんは考えつかれたものだと感心させられます。
雑念と煩悩にまみれた穢れた身でありますが、
永平寺に行ってから、ときどきその食事作法をまねてみようと試みています。
日常のもっともなにげない局面で、
「どうしなければならないのか」をしっかりと考えさせられる。
まことに実践的なシステムだと思います。
食への敬虔な態度を構築できれば、それが本然の修行の本質に関わってくるのですね。

まぁ、数週間が経って
すっかり習慣は忘却されていくのですが(笑)
それでも、こころの片隅には
食を思い知るよすがだけは残っていると思います。
たいへんありがたい体験を得させていただきました。
感謝。

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