性能とデザイン いい家大研究

こちら 住まいの雑誌・Replan編集長三木奎吾です 
いい家ってなんだろう、を考え続けます

【ZEH論議〜電気暖房が“家電”に含まれている?】

2017年07月31日 07時05分33秒 | Weblog
一昨日のわたしのブログについて小山ZEH協議会代表理事とも意見交換。
氏の誠実で熱意あふれるこうした対応には深く共感するものです。
で、わたしはセミナーで一般質疑がなかったことをも書いたのですが、
実はキックオフセミナーではいくつか、知りたい情報がスルーされていたのです。
そのなかで、わたし的に一番興味深かったのは、早稲田大学・田辺教授から
「発表されているデータでは日本は暖房エネルギーが少ないことになっているが、
どうも“家電”エネルギー消費のなかに電気暖房が含まれているのではないか」
というきわめて重大な指摘がされていたのであります。

このことについては、上のようなデータがよく示され続けてきていた。
国交省などでの住宅省エネ論議のベースになっていたデータで、
日本はドイツなどと比べて「暖房」エネルギー消費が圧倒的に少ない、
人口規模で8割近い「温暖地域」において(図の一番下の棒グラフ)見れば、
ほとんど「暖房エネルギー」消費はそもそも極小であり、
そういう意味ではすでに省エネ先進国なのだ、という論拠になってきた。
「だから」暖房エネルギー削減の「断熱重視」だけではダメで
総体としての「エネルギー削減」には設備導入、
創エネ・太陽光発電によるトータルな省エネが不可欠だと説明されてきた。
で、われわれ寒冷地域の人間は、そうか、そんなに違うのかと
国全体論議としての前提条件としてこれを受け入れてきていた。
しかし田辺教授からは「家電」とは「コンセント電力利用」ということであり、
その内容の「用途分析」は実は行われていないという指摘があったのです。
たしかに技術的にコンセント電力を仕分けするのは、
難しいだろうことは理解出来るのですが、
まさか国レベルの「省エネ」論議の土台としてそうした検証が
まさか、行われていませんでしたということはにわかには信じられなかった。
考えてみれば温暖地域の住宅では確かに暖房という概念自体がない。
北国では当たり前の設備的工夫、インテリアの条件としての暖房設備がない。
寒冷地では利用エネルギーもほかの家電などとはまったく別系統のものとして
一般ユーザーレベルで、仕分けがなされている。
そうかと、彼我の距離感をそのように受け止めてきていたのですが、
そういう温暖地での部分間歇暖房の最重要熱源が電気ヒーターだろうことは
誰にでもカンタンに推測がつくものと思われる。
しかし温暖地住宅研究者でありかつ国レベルのこうした調査データにも
関与する立場である早稲田大学の田辺教授からのそうした指摘。
「これは質問したい、ホント?」と率直に思った次第なのです。
それじゃぁそもそも前提条件が違うじゃないですか、という気分だった。
部分間歇暖房地域に於いて、電気ヒーター電力が「家電」に仕分けされるのでは、
そもそも論議の基本自体が成り立たないではないか、
そのように大きな疑問が生まれていたのです。
こういうエネルギー削減には設備の導入こそが効果的だとされてきていた。
暖房エネルギーへの錯視があるのでは、正確な論議ができない。
ちょっと看過できないと思っていました。みなさんどうお考えでしょうか?

<図は早稲田大学田辺教授のプレゼン画面ショット>
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【間口2間「狭小変形」マンション in 東京曙橋】

2017年07月30日 08時28分09秒 | Weblog


写真は、今回の東京出張でのある会議のあった「曙橋」周辺の景観。
向かい側には防衛省施設もある立地ですが、
歩いていて、その形状の想定外ぶりに深く驚かされた建物。
2枚目の写真はこの建物の2階の窓をクローズアップしたもの。
窓が規格的な1間間口約1.8mで開けられている。
そのほかの「壁」部分の総和は、見たところ、窓の左右幅とほぼ相応している。
ということは、この建物の「間口」は2間と推定できる。



で、建物は細長く、道路側に長大な壁面を見せているのですが、
そこにはいくつかの窓が開口されていました。
このフラットな道路側にはエントランスを思わせる「入り口」はなく、
どうやら奥の方からこの細長い建物には入っていくように思われた。
たぶん、間口が2間3.6mで奥行きが10間くらいある、細長い間取りのよう。
こんな建物に思わず視線が向かったのは、
ちょうど竹橋の東京近代美術館で開催中の展覧会、
「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」展で、
いわゆるアバンギャルド風住宅建築をみる機会があったのと、
ちょうど新住協札幌支部が中心になって、2.5間間口のプロトタイプも
検討しているというような流れがあった。
そのイマジネーションとして、このマンションが象徴的に視界に飛び込んできた次第。
新住協プロトタイプ研究でも、いわば与条件としての「敷地」の検討があるのですが、
日本の住宅を考えるときに、この条件はきわめて大きい。
敷地条件で間口何間で、奥行き何間ということの想定を決める必要があるけれど、
ハナから東京などの密集地域は除外せざるを得ない現実がある。



で、これが「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」の展示会パンフ。
こういった日本の特殊な住宅建築を芸術鑑賞の美術館で展示するという
世界巡回展の「里帰り」展覧会だと言うことでした。
で、はじめの方ではいわゆる戦後「プロトタイプ」住宅への興味も展開されていましたが、
以降は、ひたすら「芸術」視点での住宅「作品」集的な展示構成。
「欧米の多くの国では建築家の仕事の中心は公共建築なのですが日本の場合は、
一人の建築家が、公共建築も個人住宅も手がけることが相当数あります。
建築界で最も栄誉ある賞といわれるプリツカー賞の日本人受賞者が多数の
住宅建築を手がけているというのは、実は結構驚くべきポイント」
という解題でしたが、日本の場合、この写真のような住宅敷地の混乱ぶりが
こういった特殊解の爛熟を支えてきた「与条件」だったと、
まざまざと思い知らされるような気がしておりました。
面白いというか、なんと言えばいいか。
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【7.27「ZEH推進協議会」キックオフセミナー】

2017年07月29日 06時58分52秒 | Weblog
どっちかというと、ZEHにはニュートラルというのが、
多くのユーザーや作り手の平均的なところではないかと思います。
ただし国の「住宅施策」としては、IBEC・村上理事長が冒頭で言われたように
「ここまではたいへんうまくいっている」という認識だろうと思われます。
多くの地域工務店はまだ様子見をしているけれど、
大手ハウスメーカーでは積極的に対応している企業もあり、
総数として一定の市場規模を獲得できているという意味では、
滑り出しとしては順調な施策であるということは言えるのでしょう。
とくにこの施策では従来の国交省だけではなく、経産省が大きく関与して、
ZEHビルダー登録という枠をはめていることがポイント。
いろいろな条件を付けて「業界誘導」のテコにしようとしてきている。
こういう手法は、エコカーとかの業界誘導実績を持った経産省の知恵かと。
ただしそれは大きくは当初125万円、ことしは一律で75万円とされる
補助金というアメのもたらす効果であり、
これから本格的にユーザー側、市場からのふるいが掛かってくるのでしょう。
「それはわたしたちをシアワセにしてくれるのか?」が問われてくる。

7月27日の「ZEH推進協議会講演会」には、250名定員のところ、
400名を超える申込みがあったということで、その関心の高さは見えた。
会場でもあちこちに知り合いの姿が見られ、北海道からも数名の参加。
講演会進行は、IBECの村上理事長が6分ほど冒頭挨拶され、
その後、順に国交省、経産省、環境省の各担当者が20分ずつ講演。
休憩を挟んだ後、協議会の顧問の芝浦工大・秋元、東京理科大・植田、
早稲田大・田辺の各先生がそれぞれ十数分の講演。で、小山代表理事の
工務店の立場からの講演があったあと、パネルディスカッションへ。
・・・というような進行形式で進められていました。
非常に盛りだくさんで、取材内容をおおまかに整理するだけで1日かかった(笑)。
なのでまぁ徐々に内容について触れていきたいと考えます。

この形式スタイルそれ自体が、この動きの総体をはしなくも表現している。
ひとことでいえば、国による業界指導という姿がクッキリ浮かび上がる。
ユーザー側、あるいは作り手側発想がなかなか明瞭に見えてこない。
からくも写真のような基本認識を、協議会としては持っていることが伝わった。
また、早大・田辺教授のコトバに「作り手側は、採用する工法や材料選択について
それが長期の市場条件に適合するかどうか、非常に慎重」とあった。
まったくその通りだと思います。
温暖地ではまだしも、とくに寒冷地ではどうしても設備機器よりも
「断熱仕様」の方がはるかに長期的メリットをユーザーにもたらすというのが
作り手の共通認識であり、ZEHの必要条件としての設備に対して
コスト配分で、より慎重な姿勢になっていることは自然だと思われます。
小山代表も、自社の方針としてZEHを表面には出していないとされていた。
また、これだけの規模の業界人が集まっているのだから、
一般質疑、会場参加者との意見交換なども企画すべきだったのでは?
たしかに盛りだくさんの内容でバランスにも配慮することは分かるけれど、
せっかくZEH推進のそれこそ中心的な主体者が集まっている中で、
残念ながら「お上からの指令伝達」的な運営のきらいを感じた次第。
結局ユーザーと向き合う主体者は、全国の現場のビルダー。
協議会の中心はそういった作り手のホンネに突き刺さっていく必要があるし、
さらには、ユーザー心理にも「刺さる」ものでなければならない。
「地球にいいことを進めているんだ」意識が押しつけに繋がってはいけない。
ZEHがより「民主的」なカタチになっていくことを祈念します。
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【日々参詣八百万神 in 東京・太田姫稲荷神社】

2017年07月28日 06時55分43秒 | Weblog
さてあれこれの要件があって東京出張。
朝1番に家を出て、早朝便でのフライトです。
そうすると、毎朝の散歩のはじめにお詣りする北海道神宮に行けない。
なんとなく心のこりという次第なんですが、
そういう気持ちを推し量ったように、半蔵門周辺を歩いていて
写真のようなかわいいお社を発見いたしました。
これ幸いと、参詣させていただき、こころの平安をいただくことができた。
でも、どういう神さまなのか、さっぱりわからない。
で、最近の情報利器、インターネットで検索したら、
以下のような記述にで出会った。by Wikipediaであります。

太田姫稲荷神社
所在地 東京都千代田区神田駿河台1-2
主祭神 倉稲魂神、菅原道真、徳川家康
創建 長禄元年(1457年)
太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ)は、東京都千代田区にある神社。
社伝によると、室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って
生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁に
まつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に
娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、
長禄元年(1457年)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を
築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた。
徳川家康の江戸入府後、慶長11年(1606年)に江戸城の改築により、城外鬼門に
あたる神田川のほとり(南側・右岸)(現在の東京都千代田区神田駿河台四丁目、
後に架けられた聖橋南詰の東側)に遷座した。
1872年村社に定められ、名も太田姫稲荷神社と改めた。
1923年の関東大震災では社殿が焼失、湯島天神に避難したが、1928年に再建された。
1931年に御茶ノ水駅の総武線拡張により、現在地に遷座した。淡路坂上の旧社所在地で
御茶ノ水駅臨時改札口脇に残された椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られている。

ということなのですが、こちらは本社のことで、
わたしが参詣したのはどうやら出張所のようなお社のようです。
のぼり旗の林立がなければ、お社だけではほとんど気付くことはなさそう。
お稲荷さんらしい赤いのぼり旗の列が、いかにもという感じがして、
なんともかわいらしい。
ニッポン社会はこういういかにも八百万感が随所に満ちていて油断できない(笑)。
そしてこういった何気ない神社にも、500-600年の年季がある。
縁起にも親子の情愛が籠もっていて、なんとも人間味がある。
ありがたく合掌であります。
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【伝統芸能に残る日本人的「体動作」への郷愁】

2017年07月27日 05時48分07秒 | Weblog
上の写真は合成であります。
先日、小樽市内にある「小樽市公会堂」を見学して来たのですが、
その折りに離れのような位置に移築された個人所有だった能舞台があったのです。
北海道は日本人文化の歴史が浅く、このような伝統芸能への興味は
ほかの地域と比較して格段に少ない地域なのだろうと思います。
北海道、能舞台というように検索しても、この小樽市公会堂のことくらいしか出てこない。
「歴史的能舞台」としては北海道唯一というように記載されているから、
能という日本的伝統芸能への北海道人の興味の幅というものが知れる。
現状でも能の公演というのはごく稀だということです。
数年に一回あれば、ということのようですね。
写真は、自分で撮影したいまのこの能舞台の様子に、
かつて所有者だった岡崎さんという小樽の商家の方が、
能舞台建築当時に行った能の公演の様子の写真をサイズを調整して、
イタズラ的に嵌め込んでみた合成写真なのです(笑)。雰囲気を感じてください。
現状のこの能舞台は、右側に工事用のシートが張られているのがご愛敬です。
岡崎さんという方は、まことに好事家だったようで、
本格的に衣装も整えられての能興業だった様子が偲ばれます。
すごい巨費を投じた「数寄」であったことは間違いありませんね。
今に至るも、北海道ではほかに能舞台が存在しなかったというのですから、
こういった孤高でのありようは、一種奇観だと思わされる次第。
参考までに元写真は以下の2枚です。




わたしは岡崎さんのように自分で興行したいとか、演じてみたいとかには、
興味もその資金もまったくありませんが(笑)、ただ、歴史に興味を持ってくると
日本人の体技を活かした芸能というものに興味が深くなってくる。
古くは雅楽とか神前での舞、神前神楽などが芸能の源流なのでしょう。
天皇の前で貴族の娘たちが着飾って踊る宮廷行事があったとされ、
で、その場で天皇の恋が芽生えたというような故事もあったようです。
そういう非日常性世界、いわば「劇的なるもの」への偏愛は自然に存在する。
そこから里神楽というように進展していって、徐々に民衆の娯楽の一種として
日本に「芸能」という文化が根付いていったのでしょう。
戦国期の出雲の阿国のようなのは、やはり体技が基本での視覚娯楽だったのでしょう。
伝統芸能を見ていると、いかにも日本人的な体動作のカリカチュアを見ることがあり、
そういう体動作が、忘れられずに伝統芸能には残されていると、
そんな気付きに至ることがまことに多い。
日本人は身体的に感情を表出することに、非常に感受性の高い民族ではないかと、
そんなふうに思えてきてならないのです。



そんなことを考えていて、能の世界でも
写真のような現代化に取り組んでいる動きがあるようです。
野村萬斎さんが踊る体動作をCGアートとして視角化させて舞台背景として
その動作からのイマジネーションの広がりを映像化した。
それを背景として野村萬斎さんが踊った様子が放送されていた。
ことしの正月に東京で公演が行われ、その記録のテレビ番組をBSで見た次第。
伝統は常に革新されていくことで継続していくのでしょう。
日本人独特の体動作への興味、意識させられるなぁと思わされますね。
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【ニセコ屏風絵続報。蝦夷地・義経≦琉球・為朝?】

2017年07月26日 06時04分58秒 | Weblog


さて先日、7月20日にニセコの旅館・ZABORINで見た屏風絵について
みなさんからのご意見を求めたところ、札幌在住の御園生 眞さんから、
きわめて論理的な推論をいただきましたので、ご紹介させていただきます。以下要旨。
〜先日の屏風絵について小生の解釈を述べさせていただきます。結論としては、
蝦夷地の絵ではなく琉球であると思われます。蝦夷地と解する根拠は、
おそらく右側の二人の人物がアイヌの人と推定されることにあると思われます。
しかし、半裸のアイヌ人の絵は見たことがありません。札幌の古書店弘南堂の
古書目録などで見るアイヌの絵は、ほとんどアイヌ民族特有紋様の衣服を着ている。
半裸状態で描かれているのは、温かい地域の住民だからと思われます。
他方、騎馬武者は鎮西八郎と称した源為朝と思われます。
為朝は保元の乱で平清盛に敗れ伊豆大島に流されその後自刃したとされます。
しかし、源義経の伝説に似た「為朝伝説」があり、その「為朝伝説」では、
為朝は伊豆大島から琉球に渡り、琉球王朝の祖になったということです。
屏風絵は、以上の事から琉球の風景と解釈できるように思われます。〜

源為朝とは、Wikipediaの記述要旨は以下の通り。
〜源為朝は、平安時代末期の武将。源為義の八男。頼朝、義経兄弟の叔父。
身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。
生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集め暴れ、
一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、
強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。
しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配、追討を受け自害した。〜
●さらに「為朝伝説」として以下の件が有名。
〜琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』『鎮西琉球記』『椿説弓張月』などで、
源為朝が琉球へ逃れその子が初代琉球王・舜天になったとしている。
来琉の真偽は不明だが正史として扱われ、この話が曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。
日琉同祖論と関連づけられ、この伝承に基づき1922年には為朝上陸の碑が建てられた。〜

・・・っていうような展開を見せてきている。
で、この屏風絵は「銀屏風」という画面形式になっている。
これは江戸期の江戸琳派、酒井抱一などの一流がよく制作したとされるスタイル。
江戸期に財をなした商家などが、琳派の絵師に依頼して
銀屏風を描いてもらった。画題についてヒアリングがあって、
「わたしは為朝伝説が興味深いと思っている。ひとつそれを・・・」という推測。
いや想像をたくましくすると、この商家というのは江戸期に盛んだった琉球ものの
商売で儲かった商家で、もっと琉球に取り入りたいという下心から、
江戸の絵師たちに、こういった画題を描かせて貢ぎものとした可能性もある。
色彩の濃厚な感じはたしかに南国的だとも思われます。
また武家の錦絵のようなカラフルないでたちも、平安末期らしさを感じる。
そういった想像だとすると、制作年代はおおむね200-300年前の頃で、
画題テーマは、平安末期の源平争乱期というように想定されることになります。
う〜〜む、なかなかに合理的な推論で、ほぼ同意できますね。
さて今後、もうすこし探求を進めてみたいと思っています。
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【アングロサクソン的「わびさび」古民家FUJION空間】

2017年07月25日 05時55分25秒 | Weblog


昨日外観を紹介した北海道ニセコでの栃木県から移築再生日本古民家です。
入って見ると、一部ロフト的「茶室」もありますが1階レベルは移築古民家フロア。
しかし傾斜を見せる敷地なりに、その地下部分がコンクリートで作られている。
上の写真2枚は、その地下部分の様子です。
敷地は窓側が傾斜地になっていて、鋭く崖地で眼下には渓流が流れている。
内部に入ってこの開口部に至るまでこういう周辺環境立地に気付かされなかった。
そういう地形メリットをここで一気に見せるという演出効果はなかなか。
ご馳走は、出すタイミングこそが重要だと言わんばかり(笑)。
こういったロケーションに移設させたセンスも十分に感じさせられます。
考え方としてはこのフラットな床壁天井のRCボックスの上に
古民家の木造架構が乗っかっているイメージです。
開口はその渓流側にだけ1方向に開けられている。
3方向を閉じた構造的にも安定する建築で、
渓流が生み出す四季折々の色彩世界だけに心象が向かうようにデザインしている。
いや逆に、閉じた空間3方向の陰影世界が強調されていると言うべきかも。
1枚目の写真の壁面にはまるで墨絵のような壁面画がありますが、
これは施主、ShouyaP.T.Grigg氏による「墨絵的モノクロ写真」です。
2枚目の写真壁面にも正面にそうした墨絵的表現が飾られている。
かれは、究極的な表現としてモノクロ写真に魅せられているそうです。
侘びサビ、ですが、イギリス人は青い目ながら直感的把握力がある。





かれ、ShouyaP.T.Grigg氏にはじめて出会ったとき、
かれがDIY的に建てた札幌市西区小別沢の家を見たけれど、
最初からこういった空間への志向性をもったアーティストだと感じていた。
住宅雑誌に対してそのような自己であるというプレゼンテーションをしてくれた。
自己紹介がてら、自宅に来て欲しいということだった。
そういうプレゼンテーションをするのも、ビジネスセンスがあるなと感じた次第。
日本の「オールド」に対しての芸術インスピレーション的リスペクトを持っていた。
聞いたらカメラマンとしての仕事をしたいということだったので、
その場を提供させてもらったというのが、出会いの経緯だった。
雑誌編集者とカメラ表現者という関係が続いたわけだけれど、
ときどきオーストラリアにも帰ることがあり、
彼の地の住宅写真を雑誌に掲載したりもした。
その後、オーストラリア人たちがニセコのパウダースノーを再発見し、
彼の地の資本などによるニセコ地域への投資が盛んになって、
かれは、自らの「表現」の場を大きく拡大させてきた。
ひさしぶりに先日、当社事務所を訪れてくれて、この古民家のことを熱く語っていた。
そんなことから、今回の見学ツアーが実現したのですね。
日本の古民家とかれの表現者的インスピレーションが、
みごとなコラボレーションを魅せていると感じられました。
それにしても、この栃木県にあったという古民家のスケールはすごい。
木造の架構の荒々しい柱梁の力強さには、民族を超えたメッセージ力がある。
こういう日本建築の良さをまっすぐに受け入れてくれるかれの感受性に
たいへんうれしく楽しい気持ちを持っておりました。
建築的にはこういう古民家は採光が最大の問題ですが、
回廊的な渓流側外周を水平的な開口部として開放し、きのう触れたように
軒下外周に「水盤」を装置させての「反射光」の工夫もされていた。
また屋根頂部からの「ほのかな」採光も魅力的でした。
なお、メインテーブルの面材に採用した樹種はたぶん針葉樹素材だと思うのですが、
その使い方の意外さにやや驚かされもしました。
けっこうフラットではなく、木目に沿って凹凸感があったりする。
なんとまぁ大胆な、と思わされた次第です。さすがアングロサクソンですね(笑)。
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【イギリス人的Japan古民家再生-外観篇】

2017年07月24日 06時08分35秒 | Weblog


きのうからの続篇です。というか、ちょっとニセコ地区の住宅状況を
数日間、シリーズにしてお伝えしようかと思っている次第。

この建物は、きのうもご紹介した英国人Shouya P.T.Grigg氏による
日本の栃木県から移築させた古民家の再生利用レストランです。
ずっと日本の古民家を探してきていたという。
北海道内ではなかなかないので、はるばる栃木まで出向き、豪壮な
柱梁の力感あふれる古民家を購入してニセコに移築再生させた。
かれらには、古美というものへのリスペクト文化が濃厚にある。
たぶん、そういったオールドへの偏愛の方が強くて、
日本文化にある白木の伊勢神宮式年遷宮のような簡素さへの志向は
あんまり強くないように思われます。
で、そういうアングロサクソンの嗜好性から日本の古民家への
思い入れというのも、理解出来ると思っていました。
ただし以前見た、同じアングロサクソンのドイツ人の建築デザイナー、
カール・ベンクスさんが新潟で行っている
日本の古民家のドイツ風改装については、あまり同意しにくかった。
かれの場合には、断熱などの性能向上には興味がないようで
日本の古民家を素材材料として、その古さを故郷であるドイツ風に
デザインアレンジして見ました、という異国情緒の域を出ないように思われた。
それに対して英国人・Shouya P.T Grigg氏は屋根の萱葺きはすっぱり諦めるなど
単純な表面的アレンジではなく本格的な再生利用を志向している。
「このニセコの豪雪地帯では茅葺き屋根はムリ」という合理的判断。
そういう雪対応など建物としての性能への気配りは明確に感じる。
インシュレーション(断熱)工事について詳細は確認していませんが、
外壁はいったん本来の土壁を落としての左官仕上げ。
外壁真壁の柱間に面材として構造用合板が施工されていた。
さらに内側はプラスターボード張り+漆喰仕上げになっているので、
その両方にサンドイッチされて断熱層の確保はされているようでした。
ちょうど洋風真壁構造ともいえるポスト&ビームスタイルの断熱手法か?
また内部床面は土間仕上げされ、温水循環床暖房がパイピングされている。
そういった居住環境性能志向は持っているようでした。
一方、デザイン面ではエントランスに赤サビた厚板鉄板の囲い。
さらに、同素材で床レベルの外周部に水盤が装置されている。
この水盤という発想はあまり北海道ではみられないものだと思います。
冬場にも軒の出でこのまま水が張っているか微妙ですが、
夏場にはこのように水がたたえられていて、室内に反射光を差し込ませる。
古民家の「暗さ」への合理的な対応策とも考えられる装置。

周囲はロックガーデンとして仕上げられる予定。
日本の古民家がロックガーデンの中に浮かんでいるような外観は
あんまり日本人には思い浮かばない発想かも知れませんね。
インスピレーションは、きっと京都龍安寺などの「石庭」があるようだと推測。
屋根やエントランス、水盤外周装置など、
建物本体の素材の古美とモダン&シャープを対置させている。
しかし色合いや素材感で、古民家の素材感とも似合っている。
あしたはこの建物の内観をご紹介したいと思います。
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【イギリスDIY精神のDNA in 北海道ニセコ】

2017年07月23日 05時50分25秒 | Weblog



先日の当社スタッフのニセコ建築群見学のなかから。
Shouya P.T Griggさんによるリノベーション店舗の様子です。
かれは20年前くらいから数年、当社のReplan誌でカメラマンをしてもらった。
父親・母親は、イギリス人で何度も家を住み替えながら、
それに手を加えては購入時よりは高く売って、
いわば住宅をリノベーションして「わらしべ長者」のように過ごしてきた、
という話を聞いたことがあります。
で、イギリスからオーストラリア・パースに移住して
Shouyaは12才くらいまでイギリス、24才まではオーストラリアで育った。
家族がそんなふうに家に手を加え続けてきたことを見て育った。
たぶん、思春期のかれもそれを手伝っていた、自分でも手を掛けてきていた。
よく欧米人、とくにアングロサクソンの人間は家に手を掛ける、
DIYの伝統を持っていると言われますが、
今回、そんな実例を見させてもらいました。
写真3枚目のように、この店舗は倶知安市内のスポーツ用品店の
倉庫として使われていた建物のリノベーションです。
構造は鉄骨造で2階建ての大きな建物。これに手を加えて
いまは飲食店として再生利用している。
1枚目の写真は今回2階の床を一部撤去して、吹き抜けを造作し、
その2階から階段コーナーを「見せ場」にした変更をみたところ。
とくに階段は既存のものに上り初めの数段を角度を振って、
さらにカーペット状の敷物が踏み段に敷かれていたのを剥がした。
剥がしたところ、その剥がした表情がそのままでインテリアとしていいと感じて、
そのインスピレーションから、階段上り手左側の壁面も壁紙を剥がした。
そうしたら、やや経年変化した素材の古美の表情も「味があった」。
そこからインテリア全体を、そのイメージを膨らませていって再構築した。
要するに古びた階段の造作変更から全体の店舗イメージを想像し、
鉄骨のフレームに黒くペイントさせたりして、全体の基調となる空間を作った。
そこに無垢の厚板、十数センチの厚みのあるメインカウンターテーブルを据え付け
重厚感のあるメインディスプレイとした。
そういうなかにワインセラーをガラスで造作して吹き抜け空間に据えた。
空間への好みはむしろ日本人の禅的な志向性も感じられる。
そういえばイギリス人と日本人って、やや暗め(笑)という共通性はある気がする。

インテリアへの日本人の無関心さを、
「立派な料理を作っているのに、ワインがない」みたいなものではと、かれは言う。
たいへんいい指摘だなぁと心に留めさせられた次第です。
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【女から母へ、オシドリ生態の野次馬観察】

2017年07月22日 06時17分05秒 | Weblog



わたし最近、ある異性個体に強い興味を持っております。
どうも、彼女の放つ魅力のトリコになっているのですよ。
・・・っていうような心境であります。
あ、彼女は人間ではありませんので誤解のないように(笑)。
写真のオシドリ個体でして、ことし繁殖期にたまたま遭遇したとき、
彼女はことしのペアである3枚目写真の右側のオスと結ばれたようなのであります。
これはふたりのデートをたまたま見留めたときのもの。
で、その後彼女は6羽のヒナの母親になっていて、子育てしていた。
その順調な様子もなんども確認していたのですが、
どうやら、その同じ個体とおぼしきオシドリが、
また3羽のヒナを引き連れているように思われたのです。
きのう朝の散歩路で、2枚目写真のこういった状況に遭遇した。
こんなことがあるのかどうか、オシドリたちの生態に詳しくはないので、
どうもよくわからないのですが、個体としては見覚えがあるように思われる。

インターネットで検索したら以下のようなオシドリの生態が記載されていた。
〜繁殖期は4-7月。一夫一妻。つがいで分散するがコロニーにはならない。 
抱卵期につがいを解消する。巣づくり:♀のみで巣をつくる。巣は大木洞穴内や、
地上の窪みにつくる。巣場所の選定は♀が行い巣づくりの間♂は縄張りの見張り役。
♀が巣に♂の胸・腹の綿毛を敷いて産座をつくる。
産卵:1巣卵数、7-12個。
抱卵:♀のみで28-30日間抱卵する。雛は早成性の離巣性。
育雛:母親のみで行う。雛は母親に促されて樹の洞穴から飛び下り、
かなり(2kmの記録)歩いて水に入る。雛は40-45日で親元を離れ独立する。〜
っていうことなのですが、続いてこんな記述に遭遇した。
〜<抱卵期につがいを解消した♂は、第2の♀に求愛することもある。>〜
おお、であります。
この記述のような経緯があって、彼女はことし2度目の出産、子育てに
邁進しているということなのでしょうか?
そういえば、この札幌円山公園のコロニーは非常に小さいコロニー。
こういうケースもあり得るのかも知れないと推測が湧いてくる。

最近、人間世界では船越英一郎と松居一代さん「オシドリ夫婦」の
危険なバトルが大混乱を呈しているようで話題ですが、
ホンモノのオシドリの世界でも、こういった話題には事欠かないのか?
なんとも可笑しい謎解きに、野次馬根性を募らせている次第です(笑)。
おっと、ちょっと話題が飛びすぎかも。明日以降、マジメに住宅ネタに戻ります。
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