漁業経済学者のひとりごと in 小浜

東村玲子のWebsiteはこちら → http://www.s.fpu.ac.jp/reiko/

1996年の漁業経済学会

2012年04月18日 22時21分05秒 | Weblog
タイトルにある,1996年の漁業経済学会の記憶は,
非常に鮮明にあります。

漁業経済学会に出席したのは3回目でしたし,
この時は確か報告していないはず。
(修論を書き終わってすぐだったし)

ただ,シンポジウムテーマがTACだった
ということで非常に興味を持って参加しました。
(他にもちょっと印象深いアクシデントがあったし)

で,さっきまで当時のシンポジウムの特集号を
探してあちらこちらとごそごそしていました。

当時の「漁業経済研究」はA5版だったので,
現在のB5版とは別の場所にあるはず・・
でも,それなりの巻数があるから
どこかにまとめて置いてあるはずなんだがなぁと
思いながらようやく見つけ出しました。

途中で,自分が初めて書いた論文に対して
レフェリーが実名で送り付けて来たコメントも
発見しました。
まぁ,随分ときつい言い方をされています。

それだけ,私の論文のできがひどかったということでしょうが・・・

実は,このレフェリー結果が私ではなく
私の指導教授のところへ直接送られて来たため,
教授が抗議してくれたというか,したというか,
そういう記憶があります。
助教授もそれに賛同してくれました。

つまり,いくら院生の論文でも,
著者である限り,レフェリー結果は院生に直接送るべきであるということ,
指導が必要であるなら,その旨,別途指導教官に伝えるべき
という様な内容でした。

当時は,酷評されて落ち込んでいた方が大きかったし,
教授・助教授のおっしゃることは至極当然くらいに思っていました。

でも,思い返してみると,
それだけ,両先生は私(だけではないが)のことを
「自立した研究者」とみなしてくれていたのだなぁと。
なんともありがたい気持ちになりました。

はっきり言って,その論文を書くに書くにあたって
廣吉教授は,かなり指導をして下さいました。
「論文ってのは,こうやって書くんだよ」という具合に。

当時はよく分かっていなかったとは言え,
初めて書く論文を好き勝手にやり始める
ろくでもない院生でしたし,
そもそも廣吉教授が私を大学院に合格させたわけではなかったし。
前任の増田先生が合格させてくれて,
そのすぐ後(9月?)に増田先生は亡くなられました。

廣吉教授が着任されたのは,翌年の7月でした。

私が「再婚したと思ったら前妻が知らない子を連れて来たって感じですか?」と
言うと「上手いこと言うね~」と言われたのを覚えています。

まあ,そんな状況で廣吉先生は私の指導をして下さったのですが,
セカンドネームに名前を入れることは決してなさらなかったので
私の院生時代の論文は全部単著です。
自然科学系の研究者に不思議がられたこともあります。

まあ,状況は変化し,
今では私にも共著の業績がいっぱいありますが。

北大時代のことは,本当に色々な思い出が尽きません。

さっきもごそごそやっている途中で
先輩が大学を去る時に「これ,やるよ」とくれた資料が
ごそっと出てきました。
この先輩が,また面倒見が良くて。

とは言え,月日は流れ,
研究室も実質的には函館からなくなり,
北大のことは思い出となってしまいましたが。

さて,当時ぼろくそに言われた論文を
レビューする様な形で,
今執筆作業をしている訳ですが,
分量にしては倍になりましたね。
(書き殴っている分をさっぴくと倍とまではいかないか)

ちょっとは成長したんでしょうか。

うーん。さすがに今日は疲れて来たのですが,
明日は午後ずっと会議なので,
今日中にいったん書き上げるという目標もあることだし
もうひとがんばりです。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« FAOのページが重い!! | トップ | 完成!帰宅! »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事