漁業経済学者のひとりごと in 小浜

東村玲子のWebsiteはこちら → http://www.s.fpu.ac.jp/reiko/

甥が交番に行った話

2024年07月04日 23時32分35秒 | Weblog
もう中学生になりましたが
彼が保育園児だったころの話。

彼はおでかけ保育だったかの時間に
100円玉を拾いました。
彼はこれで何かおもちゃを買えると思って
こっそり持って帰ったのです。

お金があれば何か買えることは理解していても
100円で買えるものはほぼないということが分からないあたり
保育園児の浅知恵ですね。
彼もいけないことだと分かっていたのか
お金を拾ったことを秘密にしようと思っていたのですが
耐えられずに母親(=私の妹)に打ち明けました。

母親はものすごく怒り
「そんなことをしていたら泥棒になって牢屋に入ることになる」
と言ったそうです,(ちなみに強烈な関西弁)
それで保育園の園長先生にこの後どうしたら良いかと
相談したということでした。

園長先生のアドバイスは父親(母親は既に怒っているので)と
交番に行ってはどうかというものでした。
交番に行くと警察官はたった100円のために公的な書類を作ってくれたそうです。。
もし落とし主が見たかった場合には
10%(10円)御礼金がもらえますがどうしますが
どうしますか?と聞かれたとのことで
それは辞退しますと言って帰って来たようです。

これってやはり警察官が偉いよねって話です。
日本は平和な国だ。

間人ガニのタグ問題

2024年04月14日 16時15分38秒 | Weblog
先週かな?京都新聞の間人ガニのタグ偽装問題に関する記事に
私のコメントを取り上げてもらいました。
とは言え,内容的にはズワイガニ関係者なら誰でもできる
内容のコメントです。
「もっと間人ガニのブランドについての責任感を持つべき」
とかそんな内容です。

だいたい新聞とかテレビとかでコメントを取り上げてもらう時って
「関係者なら誰でも言えることだから…」という内容が多いです。
私のオリジナリティーはあまり発揮されない。

私自身は間人ガニが非常に高いものであることは知っていましたが
漁獲しているのが5隻しかないとは知りませんでした。
5隻しかないならちゃんとタグ数の管理しろよーと
はっきり言って呆れかえってしまいました。

取材の過程で「福井県の越前町漁協なんか厳しい管理していますよ」
とか言ってしまったので
越前町漁協の担当者のコメントも載っていました。
担当者の話によると…と書いてありましたが
Aさんかな?Bさんかな?と思いましたが
とにかくお手数を増やしてしまって申し訳ないです。

日本海A海域(富山県沖~島根県沖)のズワイガニは
本当に値段が高いです。
1ハイ数万円とか珍しくもないですよね。
でも,そこに至るまでの産地の漁業者,仲買人の努力は
見逃せません。
ざっくり言って輸入カナダガニの6倍の価格です。

あまり以下のような取材にはコメントを出さないのですが
「もっと安くなって消費者が手に取りやすくして欲しい」
という内容のことを言われるのですが
だったら買わなければ良いじゃん。
日本海産のカニを食べなくてっも死ぬ人はいないし~
と思っています。

これで本当にさようなら

2024年03月20日 22時43分44秒 | Weblog
今日,小浜キャンパスに行って
少しばかり残っていた荷物を片付けてて
鍵を事務職員に返して
私は着任以来慣れ親しんだ513号室に別れを告げました。

決して本意ではなかった
かつみキャンパスへの引越し。

私の部屋にあったネームプレートは持って帰ってきました。
そのうち捨てるでしょうけどね…。・

でも,急速に研究費申請をしようと思い立ち
(締め切りはなんと3月22日)
明日と明後日に電話とSMSを駆使して情報収集します。

加藤先生は「そろそろ野球見たいけれど」と
おっしゃっていましたが有益なアドバイスを頂けました。
(野球なんてご覧になるんだ…と思いました)

なお,先日家族のグループLINEで大谷選手の話が出た際に
私が「大谷って誰?と思いつつ調べた」と書くと
妹が「大谷選手を知らずに日本にいるなんて信じられない。
   私は全試合観ている」とのいるとのこと。
母が「両極端な一家だね」と呆れていました。
昔からですけどね。

ミャンマーの今

2024年03月04日 02時26分58秒 | Weblog
今日(現在は日本時間2:28)というか昨日の昼に
ミャンマーの調査助手とライン電話で20分ほど話しました。

私が病院でかかった経費やスーツケース破損の
保険金請求に使った書類を参考までに送りましょうか
という口実でかけた電話です。
本当は彼女がどうしているか知りたかった。

現在,ミャンマーは軍事政権の外国人への統制が厳しくなり
ヤンゴンで働いている日本人は仕事場以外には
うろうろ観光したりするのが事実上できないらしい。
(まあ,実際には現地の日本人は観光する必要はなく
 ティワラ工業団地なんかの仕事場で普通に働いていると思います)

また,別の国の人の話だったけれど
通訳を連れてうろうろ出来なくて観光ガイドの資格保持者の帯同が必要らしい。

ちなみ私の調査助手は観光ガイドの資格保持者だけど通訳の資格はない。
私自身は通訳の能力や現地企業とのアポ取り能力を重視して
彼女に調査助手をお願いしているので
観光ガイドの資格と通訳の資格の優劣とか両方必要なのかとか
そういうことは全然意識したことがありませんでした。
彼女も明るい時代には,あまり意識していなかったのではないかな?
昨年8月に通訳としてお仕事お願いしている時に
「私も通訳の資格を取ろうと考えている」と言っていたし。

ミャンマーはイギリスの統治下に長らくあった影響らしく
結構な単語が英語のまま使われているらしいです。
分かりやすい例として電話に出るときの最初の言葉は「Hello」です。
(日本語の「もしもし」ですね)

今日調査助手と話した感じでは日本語を最近使っていないらしく
ミャンマー語になっている英語を日本語にするのに少々苦慮していました。
「警察官」が出てこないでPoliceと言ったり
おそらくは拳銃と言いたかったのを「鉄砲」と言ったりしていました。

仕事,あまりないのかな。
でも口調はわりと元気そうだったかな。
体のあちらこちらが調子が悪いと言っていたけれど
平均寿命65歳のミャンマーでアラフィフの彼女ならそんなものなのかな。

私が彼女の観光ガイドの資格に全く関心がなかったのは理由があります。
私がミャンマーの最大で唯一の世界遺産である「バガン遺跡」を含め
仏教寺院に全く興味がなかったからです。
世界最大の仏教国の1つであるミャンマーですから
どんな小さな村にもバガン(寺院)があり
そして,それぞれに「伝説」があります。

その割には寺院そのもの作りが結構似ていて
私は3つ行ったところで「お腹いっぱい」でした。
3回もミャンマーに行ってバガン遺跡に行っていないのは
相当な変わり者らしく踏査助手は腕の見せ所である遺跡に私が興味がなく
それよりもダ・ラー(水のない村)に行きたい。
という私に呆れかえっていました。
まあ,コロナ疑惑でホテルで2泊の足止めがなければ行っていたかもです。
(過去の記事をご覧下さい)

2~3000人の日本人観光客を裁いていた彼女が驚いた私からの情報。
日本のスーパーマッケットではポテトサラダなどの惣菜を売っている。
私の所は20時閉店なので18:30になると半額なるから
お客はそれを待っていて次々買うんだよ,という話をしました。
彼女はミャンマーにはそもそも惣菜を売っていないことから
この話をミャンマー語で運転手と共有し2人で相当うけていました。
「ミャンマーだったら翌日にそのままま売るよ」だそうです。

ここだけの耳寄りの話。
昼ご飯でミャンマー料理を出すところはホテルの朝ご飯の温め直しが
まあまあ,あるらしいです。
彼女,昼ご飯を考えるのにミャンマー語でつぶやいていたつもりでしょうが
日本語だったので私はしっかりと聞き取りました。
私はそれでも良かったのですが別のちゃんとしたレストランで何か食べました,
(何を食べたかは忘れました)

今日の電話で「次に行ったら,またルビーのピアスを買いたい」と言うと
彼女は「あの時(昨年8月)に買ったのは駄目だったの?」と言いました。
「違うのよ。凄く気に入っている。
でも,人間は1つ持っていれば2つ欲しい,2つ持っていれば3つ欲しい,
そういうものでしょ?だから,きりがないのよ。」
という説明をしたら納得してもらえました。
この言い回し,どこから出てきたのか全く分からないけれど
私には中国人の親友を含め外国人の友人がそれなりにあるので
こういう説明が出来たのかもしれないです。

ちなみに私は電話に出るときに「もしもし」は言わないです。
名字が「ヒガシムラ」と長めなので
幼少の時に母に「もしもしは不要。はい,ヒガシムラです,で応答せよ」と躾けられました。
今でも,その当時のまま応答しております。

私は世界で一番不幸な人間だとしばし思っておりましたが…
別に世界で一番でなくても私が不幸だと思えば不幸だとも思っておりましたが…

ミャンマーよりは恵まれているかも。

ちなみに保険請求の書類は欲しいそうです。
他のお客様で同じようなことが起こった際に参考にするとのことで。
ですよねー。彼女のお役に少しでも立てれば幸いなりです。


久しぶりのやりがい!

2024年03月03日 03時34分34秒 | Weblog
私は現在,
福井県立大学かつみ事業場職場委員代表
というものを務めております。

職場委員会というのは平たく言うと
労働組合のマイルド版で(平たく言い過ぎか?)
今回かつみキャンパスが出来たのに伴い
「事業場代表」という存在が必要になったのです。

大学業務に関しては縦のものを横にもしないくらいの
仕事のさぼりっぷりなのですが
うきうきわくわく事業場代表に立候補して無事に就任致しました。

そして「基幹教員制度」が職場委員会の喫緊の問題となっております。
あれやこれやとメールが飛び交っています。
(具体的な内容は一応伏せます)

昨年8月のミャンマー以来
やる気もなく過ごしていた私にとって久しぶりのやりがいのあるお仕事。
毎週土曜日はゴロゴロしながらYoutubeを見ている私が
今日はメールも何本か書いたしタラのムニエルも作った。

でもそろそろ寝ないといけませんね。
おやすみなさいです。

能登の状況(少し)

2024年02月10日 13時16分05秒 | Weblog
私が卒業論文を指導している学生が
先日,能登へがれき撤去のボランティアに行って来ました。
卒業論文発表会の練習の前日に
「能登に行くことになりましたので練習は無理です」と
言ってきました。
卒業論文よりボランティアの方が重要だよねと
がんばってね,気をつけてねと言って練習はキャンセルしました。

昨日が卒業論文発表会でしたが
その際に10秒ほどの現地の動画を見せてもらいました。

私が一番ショックだったのは
全ての家が倒壊している訳ではなく
普通に建っているように見える家と完全に倒壊している家が
混ざっているという状況でした。

テレビとかだと倒壊している家ばかり映すのですが
現実はこうなんだと。
もちろん普通に建っているように見える家も危なくて
そのまま住めるという訳ではないはずですが。

彼はアメフト部なのでがれき撤去には最適で
たぶんそれ関係でボランティアの声がかかったのではないかな。

数日後にある小浜での4年生のお別れ会に出席するのか聞くと
「能登次第っすね」と言っていました。

もちろんお別れ会よりも能登の方が大事。
彼がケガをしたりせずボランティアに参加してくれることが
一番嬉しいですね。

私は何の役にも立ちませんので。

新年の1日

2024年01月01日 22時44分11秒 | Weblog
午前中は家族揃って新年の挨拶を
みんなで賑やかなお正月を過ごしていました。

が,こちらでも揺れたかと思うと
続々と石川県能登地方の地震のニュースが入りました。

それからは学生に注意喚起を促すメールを打ったり
対応をしていました。
私が担当している学生は祖父を連れて山に避難しているところでした。

石川県の大きな津波のニュースはまだ届いていませんが
誰もみんな無事でありますように。

ミャンマーの思い出 in 2023 Ver.5

2023年12月30日 04時06分19秒 | Weblog
ミャンマーの思い出はこの記事で終わりにします。

せっかくミャンマーに来たので
ルビーのピアスを買って帰りたいと思いました。
第2の都市マンダレーはルビーの鉱山に近く
ヤンゴンで買うより割安で良い物が入手出来るそうです。
(調査助手談)

いざ宝石店に行こうとすると
まず調査助手が30分前にお店に電話して車のナンバーを伝えて
実際にお店に着くとこっそり入れてもらえるシステム。
あまり治安が良くないのでこんな感じだそうです。
私は「これだ!」と気に入ったものがあったので
調査助手が値切り交渉をして価格が決まりました。
私の持っていた米ドル,日本円では足りず
ミャンマーの現地通貨チャットは調査助手に借りることになりました
という訳で,結局そのピアスがいくらだったのかよく分かっていません。

基本的にクレジットカードは使えないので困っていると
調査助手に「あなたはピアスを買うといわなかったよね。
もし買うと言っていたらもっと必要な現金の額を教えたのに」と言われました。
私は事前に必要な米ドル,日本円を調査助手に聞いていて
それよりは多い金額を用意していました。
でも私はそれで足りなかったと調査助手に文句を言ったことはありません。
自己主張強いんだな…と思いながらATMに連れて行ってもいました。

調査助手はATMでキャッシングが出来ると思っていなかったようですが
実際にはできました。
しかもレートは現金でやりとりするよりかなり良かったです。

でも必ずしもATMで現金を引き出せる訳でななく
「ATM内の現金がなくなりました」という理由で引き出せなかったこともありました。
さらにはATMコーナーは開いているものの
肝心の機械が停電で使えないということもありました。

停電は昔からミャンマーで深黒な問題ですが
調査助手の家では1日2~3時間しか電気が使えないそうです。
それに備えて携帯,モバイルバッテリーは最優先で充電するそうです。
(現代的ですね)

私はホテルに滞在していたので自家発電に切り替わって
停電の影響はほとんど受けなかったのですが
「あ…停電。自家発電に切り替わったな」ということは
1日に何回もありました。

最後は調査助手が空港まで送ってくれました。
「次に会うときは明るい時代になっていて欲しい」と
お互いに言いながらお別れでした。

また2~3年後にミャンマーに行きたいですね。
とてもとても魅力的な国だから。

ミャンマーの思い出 in 2023 Ver.4

2023年12月29日 22時13分25秒 | Weblog
ミャンマーが軍事政権下にあろうと
若い人達はそれぞれの生活を楽しんでいるようでした。

ヤンゴンからダ・ラーという水のない村
(水道がないので池の水をくんで生活している)
にフェリー行くときに大学生くらいのグループ4名に遭遇しました。
そのうち1人の女性は韓国のアイドルの影響を受けたのか
お腹が見えるようなトップを着ていました。

それでインスタにあげるのでしょうか…
色々なポーズをそれぞれとって
それを別の友達が撮影していました。
そのポーズも韓国アイドルの真似なのかなぁと思っていました。

ミャンマー人の多くは民族衣装を着ているので
びっくりして調査助手に耳元で「ミャンマー人?」と聞くと
「そうだよ。ニュースタイル」とのことでした。

2014年に行った時はほぼ100%が民族衣装でした。
民族衣装は女性が長い丈の巻きスカート
男性は日本のはかまをもっとカジュアルにした感じです。

2018年にはごく一部の若者がジーンズをはいていました。
男女問わず,イケてる自分を
アピールする感じですね 。

そして,今回は…
かなり多くの若い人が伝統的な民族衣装ではない
洋服を着ているのを目にしました。

高校の制服でも男性は民族衣装の他に
ズボンが認められるようになったらしいです。

ミャンマーの思い出 in 2023 Ver.3

2023年12月28日 15時17分29秒 | Weblog
タイトルと異なり,ちょっと古い話を。

ミャンマーには2014年,2018年に行きました。
2014年のミャンマーはまだ開発途上国にもなっていない状況。
それが2018年には,これから発展するなという印象が強かったです。

私が最初にミャンマーに行きたいと思った理由は単純です。
加藤先生が私が行く前にミャンマーに調査の下準備に入られて
「列車の中に鶏をいっぽい連れたおばあさんが乗ってきた!」という話を
聞いたのがきっかけです。

この2014年はシットウェーにも調査に行きました。
広大なエビの養殖場。
調査助手も漁業の通訳ははじめてだったらしく…
「これから養殖場に行きます」と言われ
加藤先生と私は,あの堤防の向こうに養殖場があるのだなと解釈して
堤防の写真をたくさん撮りました。
でも実は堤防に行くまでが全部養殖場だったと判明しました。

そして新しい養殖場を作っているところにも行くと
手作業でペッタンペッタンと泥を積み上げているところでした。

ああ,でもやがてこの作業は重機にとって代わられて
どんどん開発が進むのだろうなと思いました。
そしてその発展の状況を自分の目で見たいというのが
私がミャンマー研究を始めるきっかけとなりました。

なお,2回目の調査の2週間前に後にロヒンギャ問題になるいざこざがあり
訪問することはできませんでした。
この養殖事業自体が試験的なものであったことも2023年に判明し
もうシットウェーに行くこともないかと思います。

今でもはっきり覚えている懐かしい場面。
シットウェーのそこ(具体的な名前は不明)は焼き鶏のもっと大きいのが名物で
加藤先生がお世話になった人たにご馳走するとおっしゃると
本当にお世話になった仲買人などの他に
「あんた誰?」みたいな人も参加して
焼き鶏とビールでちょっとしたパーティになりました。
お天気も非常に良く幸せだったひとときです。
もう二度と帰ってこない時間です…