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『大国の萌芽此処に在り』〜メア・アイランド海軍工廠と咸臨丸

2018-11-20 | 日本のこと

このブログでも咸臨丸については一度、横須賀の博物館で
資料展示を見たことをご報告したときに、その概略と、
なぜか咸臨丸に敵意を持っている団体の存在まで紹介した記憶があります。

メア・アイランド海軍工廠という名前をそのとき記憶したことが、
今回のヴァレーホにある工廠跡の博物館訪問につながりました。

ここで、まさかの咸臨丸展示を発見しました。

「 KANRINMARU」の横にある「JAPANESE INFLUENCE 」、
「日本の影響」というボード。

まず、アメリカ側からの記述による咸臨丸のサンフランシスコ到着について
全て翻訳しておきます。

以降、青文字は全て当博物館の記述となります。


咸臨丸の航海

サンフランシスコ到着 1860年3月17日

咸臨丸は少量の銃を搭載した百馬力の小さなコルベット船である。
港湾においては蒸気推進による小さなプロペラを動力とした。

1859年、太平洋探検調査ミッションのために日本近海に来ていた船が
難破するということがあり、その船長であったジョン・ブルック大尉は
その後横浜で幕府海軍の指導をしていたが、ちょうどその頃、
幕府はアメリカに咸臨丸を送る計画をしていたので、彼は
アドバイザーとして咸臨丸に乗り込むことになった。

ブルック大尉

日本政府はアメリカ行きのために熟練の乗員を必要としていたので、
ブルック大尉は9名のアメリカ人を難破した船の船員から、
そして、もう一人、E.M.カーンという民間の製図工を選んだ。

ブルック大尉は船の名前をちゃんと「カンリンマル」と言っていたが、
スペルは

「Candin-marruh」

と綴っていたと言われる。

まあアメリカ人がこれを読んだら確かにカンリンマルになります。

咸臨丸はドイツで建造され、日本に1857年に回航されてきた。
この時の航海では、日本からカリフォルニアから37日かけて、
ノンストップで渡っている。

日本人乗員の一人、木村喜毅(よしたけ、のちの芥舟 かいしゅう)
武士であり、公的任務で船に乗り込んでいた。

木村のタイトルは提督に相当する

「Magistrate of Warships 」(軍艦執政官=軍艦奉行)

でありながら、同時に地方の執政官摂津守を務めていた。

咸臨丸の艦長は勝麟太郎、帝国海軍の「チーフアーキテクト」
(海軍伝習重立取扱のことと思われる)であった。

ただし、勝は航海の間中船酔いで倒れていたため
操艦などは
初級士官が実際に行なっている。

それまで日本には「水兵」というものは存在していなかった。

一行が横浜を離れた途端、大きな嵐が船を見舞う。

公式通訳として乗り込んでいたナカハマ・マンジロー(ジョン万次郎)

彼はマサチューセッツで教育を受けた人物であるが、捕鯨船でとはいえ
航海の経験があったのはこのマンジローただ一人だったのである。

しかしながら、彼が漁師の息子であったため、日本人たちは
彼から命令を受けることを良しとしなかった。

おいおい。

海の上で身分なんて言っている場合ではないと思うんですが。
あの福沢諭吉先生もおっしゃっているではないですか。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、況や海の上においてをや。

最後はちょっと独自に付け足してみましたが、実はこの船には
若き(25歳)福沢先生も乗っていたりするんですねー。



この写真はあまり若くは見えませんが。

まあとにかく福沢先生も後年こんなことを言っている割に、
漁師の息子の命令を受けるのはプライドが許さなかったと見えます。

そこで、ブルック大尉はジョン万次郎にまず船乗りの掟と、
海の上での儀礼、つまり世界共通である「シーマンシップ」を、
サンフランシスコに到着するまでの間に叩き込み、彼から皆に
その旨通訳して伝え、感化させることにしました。

ちなみにブルック大尉は彼の日誌で万次郎のことを高く評価しています。

「オールド・マンジローは夜もほとんど寝ていなかった。
彼は自分の人生について満足しているようだった。
昨夜は彼が自分の人生についてのストーリーを歌を交えて語るのを楽しんだ。

マンジローは私がかつて見た中で最も印象深い人物だ。
船上の日本人たちの中で唯一彼だけが、将来日本海軍が
どう変わっていくべきかについての明確なアイデアを持っていた」


さて、万次郎経由でご指導ご鞭撻を行なった後、

ブルック大尉は、以降日本人たちが自分たちで
船をマネージすることができた、と報告を上げている。

あ、もしかして福沢先生のあの名句はこの時の反省から生まれたとか?

福沢はのちに近代日本の進歩的知識人として世界的に知られるようになる。
彼は日本という国がその独自の文化を西欧の技術と結合してこそ、
強い国家になると信じていた。
彼はのちに東京にある慶應大学を創設することになる。

木村と咸臨丸の乗組員は、日本の世界的なランクの低さを考慮した。
彼らは東京に本拠を持つ軍事組織の長である将軍の全権大使であった。

故に彼らはサンフランシスコでは熱心に市内をみて回った。
日本という国の初めての大使としての使命をもって。

福沢は文化の違いに目を見張った。
”アメリカでは馬に車を引かせている。
アメリカ人は部屋中に敷き詰められたカーペットの上を靴で歩く”

木村は木村で、カリフォルニア知事が紹介もなしに飛び込みで
訪れた彼らに会ってくれたのに、大いに驚いている。

彼らの知識の吸収を助けたのは、ブルック大尉の力も大きかった。

市内視察の間、日本様ご一行はフェリー船「シェリソポリス」
ここメア・アイランドで建造されている様子を見学しています。

この時の彼らの様子をアメリカ人は大変興味深く描写しています。

当時はカメラもありませんから、日本人たちは船について詳細を学び、
構造など全てを測量し、スケッチを行い、
このスケッチを持ち帰った彼らは日本で同じものを建造したのですが・・、

この時日本人たちは船の細部までメジャーで測りまくった。
近代になって、サンフランシスコに団体旅行で訪れる
好奇心旺盛な日本人観光客たちは、
細かいところを
測る代わりに観たもの全てを熱心に
カメラで撮りまくっている。

いや、あのね(笑)

それこそ細かいところをこれでもかと撮りまくっている最中のわたしは、
この文章の前で思わず赤面してしまいましたよ。

というか、あっちこっち目の色変えて巻き尺で測りまくる日本人に、
さぞアメリカ人は異様なものを感じたんでしょうね。


サンフランシスコのレディたちは、皆この変わった客人たちに会いたがり、
異国からやってきたこの船に乗ることを希望した。

しかし木村は彼女らを咸臨丸に乗せることそのものを拒否した。
木村の基準では彼のほうが女性たちより「身分」が上であるため、
「礼儀は自分に払われるべき」と信じて憚らなかったのである。

女性は船に乗せない、ということになってたんじゃなかったですか?
日本では。


日本人たちはサンフランシスコで大歓迎を受けた。

レセプションが現地の関係者によって開かれ、彼らは正装で参加した。
通訳は、とにかく日本紹介を全部通訳しなくてはならず大変だった。

彼らはまた、ここまで連れてきてくれたブルック大尉とアメリカ人乗員に
手厚くお礼を言ったという。
いわれている方は日本語はさっぱりわからなかったが、とにかく
彼らが大変礼儀正しいということは十分に伝わった。


そして日本人たちはアメリカ海軍の設備について大変興味を示した。

また食べ物についてもこだわりなく、コールドターキー、
サラダ、甘いものやシャンパンなどを喜んで食べた。

咸臨丸のメア・アイランドでの修復は至極順調に進んだ。
しかしながら、二人の水兵が航海中に病気に罹り、これが元で
この地に到着してから死んだため、
彼らはコルマに葬られた。

コルマには現在でも日本人墓地が残されていて、
このときに亡くなったという峯吉、
源之助、富蔵の3名は
勝海舟の名前で建てられた墓に眠っています。

源之助は享年25歳、富蔵は27歳という若さでした。
残りの一人、峯吉は病気で動けなくなってしまい、やむなく咸臨丸は
彼を現地の病院に残してサンフランシスコを出発したのですが、

その後彼はやはり回復せずにやはり亡くなっています。

咸臨丸一行がメア・アイランドに着いたとき、ロバート・カニンガム司令は
彼らに咸臨丸をドライドックで無償で修理することを申し出ました。
日本とアメリカとの友好を深めたいという善意からだったということです。

修理の間日本人たちは二つのレンガの建物に士官と水兵に分かれて住んだ。
咸臨丸は5月までここにとどまったため、乗員たちは
サンフランシスコにしげく通い、芝居を見たり買い物をしたりした。

お金はやっぱり日本の全権ということでたくさん持ってたんでしょうか。
というか、日本のお金をどういう計算でドルに変えたのか・・・。

5月8日、新しく付けた二本のマストにこれも新しい帆を張り、
内外の塗装も真新しい咸臨丸は、日本に向けて出発した。

船が出航するとき、21発の礼砲が撃たれたという。

ただし、乗員のうち10名は入院していたため現地に残った。
彼らは一名を除き全員回復して8月に帰国している。

この一人というのが先ほどお話しした峯吉のことです。

咸臨丸に乗っていた5名のアメリカ人船員は、全て
冒頭に示した難破事件で生き残った人たちで、ベテランばかりでしたが、
最終的に日本人たちは全ての航法も操艦も、彼らの手を借りず
自分たちだけで行うことができるまでになっていました。


彼らはハワイに5月23日に到着し、その一ヶ月後日本に帰国を果たした。
福沢は生涯サンフランシスコでの暖かいもてなしを忘れなかったといい、
アメリカからもっと多くのものを学べると信じていたという。

遠い日本からアメリカにやってきて、帰っていった日本人たちは、
実に冷静な眼で、正しく我らの国(アメリカ)を見ていた、といわれる。

日本がいつの日か、国力的にも、軍事的にも、
我が国を脅かすほどの
競争力を持つことになろうとは
この時アメリカ人の何人たりとも予想していなかったが、

その萌芽はここにあったのである。

 

誰が書いたのか知らないけど、なんか、ありがとう(笑)

 

続く。