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ラッキー「O」のジャガイモ事件〜駆逐艦「オバノン」DD-450

2018-11-17 | 軍艦

 

先日、メア・アイランド工廠で艦体の修復を行い、
テニアンに日本に落とすための原子爆弾して出撃し、
日本の伊号潜水艦に撃沈された「インディアナポリス」について、
ここメア・アイランドの博物館の展示を受けて書いてみました。

 

今日は、同じく博物館の展示から、

駆逐艦「オバノン」USS O'Bannon, DD/DDE-450

についてお話しすることにします。


画像は当メア・アイランド海軍工廠沖を航行する
「オバノン」で、戦後1951年に撮影されたものです。

「オバノン」はフレッチャー級駆逐艦の何番艦かで(笑)
(175隻あるのでナンバーはなし)1942年の6月に就役しました。

 

 

「フレッチャー級」は従来の駆逐艦より大型化された艦体を持ち、
大変汎用性もあったので大量生産されただけでなく、戦後は
我が海上自衛隊にこのうち2隻が貸与され、

ありあけ DD-183
(USS DD-663 ヘイウッド・L・エドワーズ)

ゆうぐれ DD-184
(USS DD-664 リチャード・P・リアリー)

として運用されていたこともあります。

ちなみに「ありあけ」は戦後日本の海上自衛隊が所有することになった
最初の駆逐艦となりました。
建造された時にDD-663に命名された

ヘイウッド・L・エドワーズ

は、第二次世界大戦の戦死者第一号である海軍士官の名前です。

フレッチャー型駆逐艦は、基本

「艦長や指揮官の名前」

であることが多いのですが、エドワーズは戦死した時中尉でした。

兵学校時代のエドワーズ

エドワーズ中尉の乗務していた、

USS「ルーベン・ジェームス」DD-245

は1941年10月31日、大西洋上で船団護衛中Uボートに撃沈されました。

なぜ艦長でもない中尉の名前が駆逐艦に残ったかというと、
彼がレスリングの選手として1928年のアムステルダムオリンピックに
出場し、4位入賞していたからではないかと思われます。

「ゆうぐれ」となった「リチャード・P・リアリー」は海軍少将で、
南北戦争と米西戦争の指揮をとった人物でしたが、戦死はしていません。

 

「エドワーズ」も「リアリー」も、大戦中太平洋戦線に投入され、
日本軍と戦った経歴を持ちます。

特に「ゆうぐれ」はエニウェトク環礁およびサイパン、ペリリュー島上陸支援、
レイテ島の戦いに参加していますし、あのスリガオ海峡海戦では
戦艦「山城」に魚雷を発射し、敵機1機を撃墜するという戦果を挙げています。
その後もルソン島、硫黄島、沖縄とガチンコで日本軍と対峙してきた艦でした。

海自の所有する潜水艦第一号「くろしお」となった「ミンゴ」もそうですが、
これらの米軍艦は、アメリカ海軍にとって古くなって必要がなくなったので
同盟国となった日本に貸与されたわけです。

言うなれば日本人をたくさん殺めた軍艦なのですが、
これに乗り組み運用することが、旧海軍軍人がまだまだ存在していた自衛隊で、
どのようにとらえられていたのか、つい考えてしまいます。

 

さて、寄り道が長くなりました。
「フレッチャー級」駆逐艦「オバノン」についてです。

「オバノン」とは、第一次バーバリー戦争で活躍し、
「ダーネの英雄」と異名をとる

プレスリー・オバノン海兵隊大尉

であり、この名前を持つ艦としては3隻のうちの2番目となります。

オバノン大尉

「海兵隊讃歌」ではその活躍が歌詞になっているという軍人です。

「オバノン」は第二次世界大戦において17個の従軍星章と殊勲部隊章を受章した
大変な殊勲艦でした。
この記録は第二次大戦中のアメリカ海軍駆逐艦では最多で、
海軍艦艇全体でも三番目に多い記録です。

しかも第二次世界大戦・朝鮮戦争・ベトナム戦争全てを経験しているのに、
パープルハート章(名誉死傷章)を受章するような戦傷者を全く出していません。

このため、彼女は「ラッキー O」(Lucky O)の愛称を与えられました。


冒頭写真は、ベララベラ島の戦いで損傷した「オバノン」(右)と、
同じく「セルフリッジ」の損傷した姿です。

「オバノン」はベラ湾で上陸援護、日本の増援輸送とその護衛の阻止、
敵機への防空任務に従事していました。
第二次ベララベラ海戦では、「オバノン」は「セルフリッジ」(DD-357)、
「シャヴァリア」(DD-451)と共同で駆逐艦「夕雲」を撃沈しています。

しかし「シャヴァリア」「セルフリッジ」が被雷し、「オバノン」は
「シャヴァリア」の後方に接近しすぎていたため避けきれず艦尾に衝突し、
艦首を破損してしまいました。

しかし、負傷者はゼロ。
「オバノン」はこののち損傷した2隻の僚艦を護衛し基地に帰還しました。

 

さて、以前、

「米海軍アイスクリーム事情〜ハルゼー提督とアイスクリーム艦」

というエントリで、これも余談として、「オバノン」と帝国海軍の潜水艦の
ちょっとユーモラスな遭遇について少し触れたことがあります。

航行中ばったり帝国海軍の呂潜と遭遇した「オバノン」乗員が、咄嗟に
相手にジャガイモを投げつけたのを、呂潜の乗員は手榴弾と勘違いして投げ返した、
という心温まる?戦時中の逸話ですが、もう少し詳しいことがわかりました。

 

1943年4月5日の夜。

第21駆逐隊の僚艦と共に沿岸砲撃任務から帰投中だった「オバノン」は
ラッセル諸島付近で日本の潜水艦呂34の姿をまずレーダーで発見し、
接近して潜水艦が充電中なのか海上に浮上しているのを認めました。

呂34の乗員は就寝中で、甲板上に横たわる青い帽子をかぶった乗員の姿を
発見した「オバノン」の乗員が確認しています。

「オバノン」に装備されていた「ラム(衝角)」を使って相手を沈めようと、
潜水艦に向かっていった艦橋の士官たちは、衝突直前、叫びました。

「いかん!これはマインレイヤー(機雷敷設艦)だ!
衝突したら搭載した機雷が爆発して巻き込まれるぞ!」

 

急転舵を行なったその結果、「オバノン」は「バツの悪いことに」(本人談)
呂34の真横にきっちり艦体を平行にして並んでしまいました。

予想外の展開に、両者は至近距離で暫しお互い相手を呆然と見つめ合いました。
呂潜甲板で寝ていた乗員は、なぜこの駆逐艦が攻撃もせずにいきなり
真横に艦体を付けてきたのか、全く理解できず、さぞ混乱したことと思われます。

「みすぼらしい青い帽子をかぶり、ダークな色のショーツをはいた呂34の乗員は、
いきなり隣にやってきた(ように見える)アメリカの駆逐艦に
不躾に眠りを覚まされてさぞ驚いたことだろう」

と元乗員はこの瞬間について後に語っています。

 

にらみ合った次の瞬間、先にアクションを起こしたのは呂潜の乗員でした。
甲板の three-inch deck gun(8インチ高角砲)に飛びつき、操作しようとしたのです。
体当たりしてラムで相手を沈めようとしていた「オバノン」側は、
近すぎて主砲は使用することはできず、さらに小火器も持っておりません。

その時一人の乗員が、咄嗟に近くの保存容器に入っていたジャガイモを投げつけました。

次の瞬間、今にも銃撃しようとしていた呂34の乗員は銃から手を放し、
投げつけられたジャガイモを素早く拾って投げ返してきました。

「オバノン」乗員は後からこの時のことを

  Apparently the Japanese sailors thought the potatoes were hand grenades. 

と書き残していますが、駆逐艦から何かが投げつけられたら、
最初は誰でも手榴弾だと思いますよね。
まさかここに書かれているように、投げ合いをしている最中にもそれが
手榴弾だと思い込んでいるような日本人がいるはずないのですが。

さらに不思議なことに、当事者の記録によると、その後

 A potato battle ensued. (ポテト戦争が勃発した)

つまり、しばし両者の間でジャガイモの投げ合いがあった、というのです。
どちらもポテトだと知って投げ合っていたってことになります。

 

この時の銃手が、ジャガイモの投げ合いに応じることなく
銃座に戻り銃撃を継続していれば、「オバノン」に打撃を与え、
その後「ラッキーO」は生まれなかった可能性はあります。

しかしジャガイモといえども、ヒットすれば結構なダメージですから、
元野球選手なんかが「オバノン」にいて、正確に銃手に当ててきたのかもしれません。

呂潜の銃手が手を取られているその間に「オバノン」は
射撃可能な距離にまで艦体を離して呂34を攻撃し、まず艦橋に損傷を与えました。

呂34はこれで動揺したのか、潜航するという最悪の選択をしたため、
結局「オバノン」から投下された爆雷によって撃沈されてしまったのです。

 

「USSオバノンの士官と兵を顕彰して」

このプラーク(記念銘板)にはこう書かれています。

1943年春、彼らが今や我々の誇りとなったポテトを使い、
ジャップの潜水艦を「撃沈した」、その発想の妙を讃えて

このふざけた銘文を作ったのは、他でもない
ジャガイモの一大産地メイン州のジャガイモ生産者協会でした。

この「ポテト・インシデント」(ジャガイモ事件)が起こってから
2ヶ月で、こんなものを作っていたと見えます。

このプラークは、その後「オバノン」のクルー・メス・ホールに、
皆がいつでも見られるように掲げてあったということですが、
それほど有名な話でもなく、歴史に埋もれていたのを、誰かが
リーダーズダイジェストに掲載されていた元乗員の座談会の記事から
見つけだしてきたということです。

その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争の期間を通じて銘板はずっと
兵員の食堂に掛かったままになっていましたが、「オバノン」の乗員は
誰一人としてこの内容に興味を持たず、その意味を知ろうとする者は
誰もいないようだった、と言われています。

この記事を書いた人は、それをこんな風に解釈しています。

「駆逐艦のクルーは歴史を作ることに興味があるが、
過去の歴史に固執することには全く関心はないのだろう」

最後に、当の現場の人たちには全く関心を持たれなかったこの事件ですが、
日本の萌え系はこのストーリーを見逃さず、きっちり食いついております。

戦艦少女wiki 「オバノン」

・・・・・・・・・エプロンにジャガイモ持ってるし。