メア・アイランド海軍工廠跡の展示には、一見海軍工廠となんの関係が?
と思われるようなテーマのものもあるのですが、それも辿っていくと
「船」や「海」に関係のあることだったりします。
「アメリカ彦蔵」と言われ、日本人で初めてアメリカの市民権をとった
ジョセフ・ヒコこと濱田彦藏の写真を見たときもはて?と思いましたが、
よく見ると、こんな・・・
「KANRIN MARU」コーナー?
隣にはここメア・アイランドに寄港した事があるあの
咸臨丸についての紹介があるのですが、ヒコは別に咸臨丸とは関係ないのに・・。
まあ、遠い国日本から船でやってきた、ということでまとめたのでしょう。
ここに書いてあることをそのまま翻訳してみます。
ジョセフ・ヒコ(播磨国に浜田彦藏として生まれる)は、
1837年9月20日生まれ。
自然発生的にアメリカ合衆国の市民となった最初の日本人であり、
また日本で最初の新聞を発行した人物である。
彼の父親は地方の地主で、亡くなった後彼の母は再婚した。
彼は寺子屋(temple school)で学んでいたが、12歳になった時
その母親も死亡したため、エリキ丸という貨物船に乗っていた
継父に養育されることになった。
彼らが船で江戸(東京)に観光に行ったときのこと、
太平洋で台風に見舞われ、乗っていた船が難破した。
17名が助かって海で漂流していたところ、彼らを通りすがりの
アメリカの貨物船「アウックランド」が発見し、救助したのである。
そのまま彼らはアメリカに連れてこられ、カリフォルニア、
サンフランシスコににやってきた最初の日本人となった。
時は1851年2月のことである。
貨物船の料理人だった「センタロー」という人物は、
写真を撮影された最初の日本人となった。
まず、彼が寺子屋で学んでいたことですが、裕福な家の子弟は
普通寺子屋に行くことはありませんでした。
これは、おそらく彼の父が亡くなり、母が再婚した相手が
船員であったことと無関係ではないでしょう。
それから「センタロウ」という料理人が最初に写真を撮られた日本人、
という記述ですが、これは仙太郎ではなかったという証拠が近年出てきました。
平成18年(2007年)3月27日放映の『開運!なんでも鑑定団』
にてスイスの写真研究家、ルイ・ミッシェル・オエールから
彦蔵(ジョセフ・ヒコ)の写真の鑑定依頼が寄せられたのです。
鑑定した結果、彦藏がサンフランシスコ到着後に撮影されたものと断定、
これが日本人を撮影したダゲレオタイプ写真の
最古の記録を塗り替える大発見となったのでした。
当時14歳の彦藏の肖像です。
しかし、濱田彦藏、決して美青年というのではありませんが、
怜悧さがその目の光に見て取れ、冒頭画像に選んだ写真でも
不鮮明ながら彼が魅力的な人物であったらしいことが想像されます。
今なら雰囲気イケメンと言われるタイプかもしれません。
関係ないですが、こんなページが見つかりました。
こんなの誰が着るの。
翻訳の続きです。
1852年、一行はマシュー・ペリー艦隊司令官にマカオに同行した。
日本の鎖国解放交渉をする手伝いに抜擢されたのである。
ヒコはその時に出会った通訳(アメリカ人)に、一緒にアメリカに戻り、
彼の手伝いをするために英語を勉強してくれないかと頼まれた。
当時彼は15歳で、一般的にいうと、語学習得にはもう年齢が経っていますが、
おそらく滞在期間の1年で、彼は相当英語が喋れるようになっていたので、
それを見込まれアメリカに連れて帰られた、ということになっています。
しかし、これは日本語のWikipediaとは大きく内容に相違があります。
ウィキ記事をまとめると、
アメリカ政府より一行を日本へ帰還させるよう命令が出る
ペリーの艦隊に同乗し帰国することになり1852年香港に到着
しかし、ペリーがなぜか現れない
待っている間、香港で出会った日本人・力松(モリソン号事件での漂流民)
の体験談を聞き自分達がアメリカの外交カードにされるかもしれないと懸念
10月に亀蔵・次作とともにアメリカに戻る←今ここ
この時、一行の中でサスケハナ号に乗って日本に行ったのは仙太郎だけで、
ヒコ三人以外は皆香港で日本人に匿われ、のちに清国船で帰国しています。
とにかく、この博物館の説明は無茶苦茶で、彦藏が
日本に戻ってペリーの通商交渉の手伝いをしたことになっています。
しかし気を取り直して続きを翻訳します。
ヒコは1853年アメリカに到着した。
彼はボルチモアにあるローマカトリック教会の学校に入学し、
1年後「ジョセフ」という洗礼名を与えられた。
1957年西海岸に移った彼は、当時のカリフォルニア議員だった
ウィリアム・M・グィンの秘書としてワシントンDCに同行。
1858年までグィンの仕事をする中、ジェイムズ・ブキャナン大統領に会い、
日本の紹介を行なった史上初めての日本人となった。
その後彼はジョン・M・ブルック少佐に同行して中国並びに日本の
沿岸部を調査する航海にも参加している。
同年6月、彼はアメリカ市民となる権利を付与された最初の日本人となった。
さて、この部分、Wikiではどうなっているでしょうか。
サンフランシスコに帰国後、税関長のサンダースに引き取られた。
その後、ニューヨークに赴く。
んん〜?
議員秘書の話はどこに行ってしまったの?
ウィリアム・グィン
この部分は日本のwikiが無茶苦茶です。
英語のウィキではグィン上院議員のことはちゃんと書かれています。
1853年、日本人として初めてアメリカ大統領(ピアース)と会見した。
おそらくボルチモアにピアースが来た時に会ったのでしょう。
またサンダースによりボルチモアのミッション・スクールで
学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けた。
1858年にはピアースの次代の大統領ジェームズ・ブキャナンとも会見した。
そして1858年、日米修好通商条約で日本が開国した事を知り
日本への望郷の念が強まった彦蔵はキリシタンとなった今では
そのまま帰国することはできなかったので、帰化してアメリカ国民となった。
上院議員の秘書になったという話を省略してしまうと、ヒコが
どうしてブキャナンと会見できたかわかりませんね。
最後の段では、ヒコがなぜアメリカ国籍を取ったかが説明されています。
当時日本人が渡航で海外に行くことは禁じられていました。
漂流していたのを助けられ外国に連れていかれたただけならともかく、
現地で洗礼を受けてジョセフという名前になってしまった以上、
再入国拒否どころか国禁を犯したかどで逮捕される恐れがあったのです。
これを避けるには、日本の法律が適応されないアメリカ人として入国するしかありません。
つまり、彼は、
日本に帰国するために日本人であることを捨ててアメリカ人になった
ということになります。
このパラドックスはさぞ若い彼を苦しめたことと思われます。
お次は英語版Wikiです。
1859年ヒコはUSS「ミシシッピ」で日本に帰国した。
彼はアメリカ領事であったE・ドアーに会い、通訳の仕事を得る。
1860年横浜で貿易商館を開き、そこで
サンフランシスコからパートナーがくるのを待っていた。
日本のウィキではこの「ドアー」がタウンゼント・ハリスとなっています。
どっちが正しいのかもうわかりません(投げやり)
ところで、本日冒頭に描いたヒコは、日本に帰国した頃のものですが、
何歳くらいだと思われますか?
横浜に着いたとき彼はまだ22歳。
アメリカで上院議員の秘書をしていたのはその2年前なのです。
二十歳の若者が一度ならずアメリカ大統領に謁見し、祖国について話す。
これは彦蔵が決して凡庸な人間でなかったことを意味します。
ところで、赤字にした部分に「パートナーを待っていた」とありますね。
(日本語のWikipediaには記述なし)はっきり書かれていないのですが、
彼が待っていた「パートナー」とは、次の記述から女性だったと思われます。
「しかしながら、その関係は1861年3月1日に解消(dissolved)された」
サンフランシスコから恋人を呼び寄せたものの、彼女は
日本の生活に馴染めず、3月1日付でお別れをしたってことじゃないでしょうか。
なんで日付まではっきりわかっているのかわかりませんが。
「失意の一年を送った後(after doing poorly for a year)
ヒコはUSS「キャリントン」でアメリカに戻る」
つまり、彼は「失恋帰国」をした、というのです。
ところが日本のwikiではこれが、
「当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており、身の危険を感じて帰国」
となっています。
どちらが正しいというより、どちらも正しかったのではないでしょうか。
この帰国中の1862年には、なんと彦藏、ブキャナンの次の大統領、
アブラハム・リンカーンとの会見を果たしました。
政治家でもないのに、三代にわたる合衆国大統領と公式面会した日本人は、
現在に至るまで濱田彦藏ただ一人だと思うのですがどうでしょうか。
帰国後、彼は「漂流記」という体験記を日本で出版しています。
漂流したときのことのみならず、アメリカでの体験もそこには描かれていました。
そして、その流れで、彼は「海外新聞」という日本語の新聞を出版し、
これが日本における2番目の(最初はその2年前に発刊された『官報バタビヤ新聞』)
新聞となりました。
これを「国内初めての新聞」として、彼を
「本邦民間新聞創始者」「日本新聞の父」
とする向きもあるようです。
ただし、赤字だったせいで海外新聞は数ヶ月で廃刊となっています。
この数ヶ月の間にリンカーン暗殺が起こり、「海外新聞」では
このことを記事として取り上げた唯一の日本の新聞となりました。
彼はその後も京都と大阪での想い出を綴った「困難の時」、また、
1869年起こった米騒動についての見聞記も書き残しています。
33歳で造幣局の創設に関わり、35歳で大蔵省で国立銀行条例の編纂に関り、
茶の輸出、精米所経営を行うなど、語学力と人脈を生かして
公私にわたり大活躍を続けた彼ですが、もっとも大きな彼の功績は、
木戸孝允と伊藤博文に薩摩藩に非公式に呼ばれ、合衆国憲法と
英国憲法について彼らの質問に答えたことではないかとわたしは思います。
これは、大日本帝国憲法制定の20年も前から、木戸らが世界の憲法について
調べるなどしてその準備を始めていた、ということを表します。
彼らは彦藏を長崎に呼び寄せて彼をエージェントに据え、
彼は、ほぼ2年間、無償でその仕事をしていました。
しかものちに彼は伊東博文が英国に訪問することになった際、
その英語力を生かしてHMS「サラミス」の手配を行うなど、
私心のない働きを日本政府に対して行なっているのです。
HMS Salamis
このように彼は自らの数奇な運命から得ることになった技能と経験を生かして
祖国のために粉骨砕身働き、かつ国政に限りなく近い場所に居ながら、
決して政治に携わることはありませんでした。
なぜなら彼はアメリカ人だったからです。
ジョセフ・ヒコ、濱田彦藏が心臓病のため61歳で亡くなったのは
1897年のことでした。
アメリカ市民であった彼の亡骸は青山墓地の外国人区域に葬られました。
墓石には、横書きで刻まれたアルファベットの彼の名前の下に
「浄世夫彦之墓」
と当字のジョセフ・ヒコの名が刻まれています。
彼の日本名は、墓石に刻まれている碑文の冒頭の
浄世夫彦ハ元名ヲ濱田彦蔵ト云フ
という一文に残るのみです。
アメリカ国籍を取得した時、つまりアメリカ人となった時に、
彼は日本の名前、濵田彦藏を完全に捨て去ったのです。
アメリカ人である彼は日米のどちらに住むことも可能でしたが、
両国間を往復しながらも結局日本に骨を埋める選択をしました。
日米の伝記には決して出てこない当時のアメリカでの過酷な体験が
彼にそれを選ばせたのではないかと思うのはわたしだけでしょうか。