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映画「ハワイ・マレー沖海戦」~立花中尉と友田二飛曹の会話

2014-01-10 | 映画

昔「海軍短剣」というエントリのために描いた兵学校の学生の絵を出してきました。
元画像になったのは、兵学校を撮影した真継不二夫氏の写真からで、彼は70期の学生。
その後戦艦乗組になり、戦死したそうです。

本日お話しする立花忠明が、やはり同じように教育参考館の東郷元帥遺髪の前に
頭を下げて立つ、あの構図そのままです。

この写真が撮られた頃、映画「ハワイ・マレー沖海戦」は公開されており、
「ヒット映画として殆どの国民が当時観た」
と言われるこの映画の有名なシーンを、写真家の真継氏が意識してこの構図を決めたことは
ほぼ間違いないのではないかと思われます。

モデルになった兵学校生徒も、もしかしたら映画のシーンを思い出していたかもしれません。


さて、いよいよ主人公(というものはいないですが一応)友田義一は、
二等飛行兵曹として、ある空母に着任します。


真珠湾攻撃に参加した空母であるからには「赤城」「加賀」始め、6隻の空母のどれか、
というのは間違いないと思われますが、そこはこの空母がセットであるためわかりません。




そして転勤報告をする義一。
14名の代表になるくらいだから優秀だったという設定ですね。

この母艦の艦長を演じているのが大河内伝次郎。
出演者中一番の大物です。

・・・・なのですが、この報告を受けているのは
大河内に似ているだけの俳優です。
袖章が桜三つなので、彼の身分は飛曹長であろうと思われます。


この映画のポスターなり宣伝なりを見ると、大河内伝次郎と藤田進が

まるで主演のように大アップになっているのですが、
実際には「主演」というような演技をするわけではありません。

前にも書いたように、この映画は「海軍の宣伝」なので、俳優は誰もが、
「海軍的理想世界」の一員を構成するに留まっているからです。

ただし、映画の目的の一つ「予科練の宣伝」を重視したらしく、
ポスターには敬礼する友田の飛行服姿を使用したバージョンもあります。



自分のハンモックは自分で担いで持ち込みます。
この艦内も、全てセットが作られそこで撮影されました。



予科練時代の級友と再開した義一は皆でここの分隊長である山下大尉に挨拶に行きます。

「立派になったなあ」

とこちらも再会を懐かしむ山下大尉。



「フネがガブったら(時化で揺れたら)着艦は手荒い(難しい)ぞ。
じゃじゃ馬の背中に飛び乗るようなもんじゃ」

彼らの指導をするのは百戦錬磨の兵曹長、田代。
着任挨拶を受けていたのはこの人のようですね。

このおじさんが、実にいい味を出しております。

軍もの、ことに戦中のものでは「兵曹長」とは必ずこのような世慣れたベテランの、
ユーモアもある古参兵で、若い部下を労り叱咤しつつ導くという役どころですが、
戦後の左翼監督の戦争映画になると、とたんに「古参の兵曹」というのは、
新参兵を陰湿に虐め、リンチをするというイメージで語られるようになります。



着艦の難しさに友田たちは不安を感じます。

しかし、本ブログ「母艦パイロットの着艦訓練」というエントリにも書いたことですが、最初は

「大海に浮かぶ一枚の木の葉のように見える母艦に降りるような気がする」

着艦も、慣れればいつ降りたかわからないくらいの作業になってしまうそうです。
田代飛曹長も

「なーに、わしがすぐにどんなときでも降りられるようにしちゃる!」

と太鼓判を押してくれてます。
日本海軍の場合、空母にはちゃんとグライドパスを確認するバーが備えてあり、

それに入射角を合わせて着艦のガイドにしたそうです。

旧海軍軍人に言わせると

「アメリカ海軍のうちわみたいなので指示するよりずっと科学的方法だった

とのこと。



彼らの最初の着艦訓練を見守る艦長と分隊長。




これ、本物です。
友田の乗った九七式艦上攻撃機。
訓練なので前に二人しか乗っておらず、さらに着艦の際風防を開けたままにしている
(海に落ちたときに脱出できるように)のがいかにも本物ぽい。




着艦訓練の初歩は、タッチアンドゴー、すなわち着艦したらそのまま離艦することからです。
本当は一番最初は近づいたらそのまま上昇することを繰り返してからですが、
これは映画ですから、この「接艦訓練」から始まります。

飛行機は着艦用フックを下ろさず、母艦も着艦ワイヤーを立てない状態で行います。

以前、この着艦訓練について詳しく書いたのでそのエントリからの引用です。


第4旋回を終わり、グライドパス(降下率)に乗って艦尾に接近、艦尾上方でエンジンを絞ります。
同時に操縦桿をじわっと引き、尾輪から先に甲板に着くように操作し、
3輪ともスムーズに甲板に着いたのを確認したら直ちにエンジンを全開して発艦します。

これを何度も繰り返し、接艦に問題が無くなって、初めて着艦訓練です。

接艦を何度も行うわけは、具合が悪いと思ったらどの段階でも
すぐパワーを入れてやり直しができるので、心理的に負担の少ない方法だからだそうです。

着艦の場合はぎりぎりの判断では失敗の危険が増大するので、このような訓練をまず行い、
十分な心の余裕を与える、というわけです。
 (当ブログ 母艦パイロットの着艦訓練 接艦から着艦へより)

ところで、この時のシーン。
なぜタッチアンドゴーの場面にしたかというとこういう理由があります。

まず、この飛行機はまぎれもなく本物です。
しかし、モノの本によると

「スタッフは本物の空母を見せてもらうことも出来なかった」。

つまり、ここで飛行機が着艦しているのは空母ではなくセット。

実物大セットの上を実機がタッチアンドゴーしていた

ということがわかってしまいました。

ひょええええ。
どんだけ丈夫なのよこのセット。
というか、この映画、もしかしてものすごいお金がかかっていたのでは・・・。




さて、この訓練は夜間も変わりなく行われるのですが、この夜間訓練シーン、

いきなり「われは海の子」が、サスペンス調アレンジで流れ不穏な空気となります。

それもそのはず、ここで事故発生


ガブる母艦に、友田は着艦せず通り過ぎるのですが、
続いて着艦しようとした同期の林が着艦に失敗し殉職してしまうのでした。



義一が夏期休暇中の友明に事故について報告します。

「わたくしが思い切って着艦すれば林はあんなことにならずにすんだと思います。
わたくしは林が身代わりになってくれたような気がして・・」


義一は友明に自分のことを「わたくしは」といい、
以前は「義一君」と彼を呼んでいた友明が、
「友田」「お前は」
と、お互い軍隊調の上下を感じるしゃべり方に変わっています。
「兄さん」「義一君」ではなく「立花中尉」「友田二飛曹」の関係になったということです。
それはともかく、この友田の後悔とは

「自分が着艦していれば自分が殉職してその代わり林は助かった」

あるいは

「自分が成功していれば林もきっと成功した」

という意味なのか・・・どちらにしてもよくわかりません。
自分の着艦と事故を因果づけて思い悩むという気持ちはわからないではありませんが。

そこで友明、じゃなくて立花中尉は、

「戦友の死を悼むのもいいが個人的感情に溺れてはいかんぞ」

と叱責して、海軍軍人としての「腹の性根の据え方」について話します。



それは立花中尉が兵学校時代の想い出。
今もこの教育参考館はこのままの形で残っています。
今と違うのは階段の下に置かれた大砲。
おそらく、兵学校生徒の訓練用であろうと思われます。

今この場所には「菊水」という名の特攻兵期回天が展示されています。







このシーンのBGMは、「海行かば」。
現在ここの階段には赤い絨毯が敷かれ、見学者はその上を歩いていきますが、
当時は何も無く、従って全ての見学者は靴を脱ぎ入っていくことになっていました。
冬はさぞ足が冷たかったでしょう(笑)


感覚の違い、というのか、欧米では「靴を脱ぐのは寝室だけ」という文化なので、
こういうしきたりは彼らからはずいぶん不思議に思われるかもしれません。

日本では

「靴を履いたままでは失礼」

欧米では

「靴を脱ぐのは失礼」

という文化の違いです。



階段を上り、東郷元帥の遺髪前に礼をする立花生徒。

このモチーフは、そのまま戦後の映画「ああ江田島 海軍兵学校物語」に引き継がれ、
この映画では本郷功次郎演じる小暮生徒が全く同じように教育参考館を遥拝するシーンがあります。



現在の見学では見ることが出来ないのがこの「東郷元帥遺髪」。
この球体の中に埋めてしまっているのでしょうか。

見ることが出来ない、といえば、この教育参考館には展示していないかなりの数の
兵学校出身者の遺品もあったようです。

・・というのは、兵学校67期だった元学生の回想録によると、

「笹井醇一少佐の遺品が展示してあり見ることができる」

と確かに書いてあるのです。
もしかしたら、二階級特進した卒業生の遺品を展示していた頃があったのかもしれません。


とにかくこの立花中尉の話は、


「兵学校二年間毎日ここに通い、第3学年になるとき豁然と感ずるものがあった。
自分は自分ではない。自分は無だ。
自分の悉くは畏くも大元帥陛下のために捧げ奉ったものであると
腹の底からはっきり悟ったのだ。
これが自分と腹を作る土台になった。
この信念を腹の底にでんと据えてかかると、何を為すにも自信を持ってできるようになった。
これは日本人なら誰でもあるべきだ。
三千年の昔から脈々として伝わった日本人の血だ。
その血が大和魂だ。軍人精神だ。国民感情だ」

戦後、日本に勝ち、日本を統治することになったアメリカが、最も理解に困難を要したのが
この「自分を無だと考えるに至るほど峻烈な天皇への忠誠」であったと言われています。

たとえば特攻のように自分の命を失うことも厭わないというその忠誠は、
君主が恐怖政治を敷いて謀略的な支配をしていたわけではない日本において
その発生の過程すら君主を持たないアメリカ人には理解できないことでした。

そこで彼らは日本人が「狂信者である」と結論付けをしてこれを理解しようとしました。

つまり「天皇は神」であり、その「神」を「絶対神」とすれば辻褄があうからです。

映画「終戦のエンペラー」では、昭和天皇を訴追しないことを決定する報告をした
ボナー・フェラーズ准将が主人公となっています。

知日派といわれていた彼ですが、彼が本当に日本人を理解したのは

まず天皇が欧米諸国で考えられていたような「狂信的な現人神」ではなく、
権威の象徴であり、しかも日本人の「神」とは「ゴッド」とは違うことを知ったからでした。

明治時代以前は天皇は実際には国を治めておらず、最強の武家が天皇の上にいて
国を統治していながらも、各武家は天皇を自らの味方につけようと戦った
しかし、どの武家が天皇を味方につけようとも、国民が最大の敬意を払うのは天皇であり、
天皇以上に国民から愛着を持たれる者はこの国には存在しない

ということをフェラーズが知っていたからこそ、 天皇は訴追並びに処刑を免れた、
この映画ではそういうことを言っています。

天皇が「国」そのものを象徴するものであったからこそ、「天皇への忠義」
とはすなわち戦う意義となったのでしょうし、それを「絶対権力」への狂信的な忠誠、
としか理解できない外国人には、おそらく今後も日本人と天皇の関係性はわからないままでしょう。



さて、ここで映画は後半に入り、いよいよこの二人が戦場に赴き、
真珠湾攻撃並びにマレー沖海戦に参戦するというストーリーが始まります。