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小園安名大佐~若葉の頃訂正

2010-09-03 | 海軍人物伝
やってしまいました。

若葉の頃の題で、漢口攻撃における小園安名を、若葉マークだと書いた記事ですが、これは全くの事実誤認でした。

1938年の漢口での中華民国軍との空戦のとき、小園安名は少佐。
そして、1902年生まれの小園少佐はこのときすでに36歳。

小園少佐をこのとき「隊長」と呼んだ相生高秀氏は海兵56期、小園少佐は51期ですから、大村航空隊、「赤城」佐伯航空隊と分隊士、分隊長を歴任してきた少佐もこのときすでに「現役で飛行機にはほとんど乗っていない」時期でもあったわけです。

ゆえに、当時新型の九六戦に乗り慣れていない。
相生大尉(当時)が、「やめてくださいよ」と笑った、というのは、そういう隊長であるにもかかわらずはりきって実戦に出ようとしていたのでかなわんなあ、と・・・まあ、そういうことです。

年表も確かめず書いてしまったので、相生大尉との年齢差が合わないな、と思ってはいましたが、ご指摘があり、ここに訂正とお詫びをさせていただきます。

若葉の頃の初々しい小園中尉ではなく、もうすでに「あの」小園安名だったわけで、そう思って読むと、それはそれで微笑ましい?エピソードではあります。
ではなぜ画像を相変わらず若葉の頃の小園中尉にしているのかって?

この画像が好きなんです、単に。


小園安名は鹿児島生まれ。
「ぼっけもん」の本場に、まさにキング・オブ・ぼっけもんとして生まれました。

怖ろしく頭がよく、しかし、勉強はほとんどしない、という直感型の天才タイプだったようです。
海軍兵学校には四年で合格。
「背が低いから潜水艦か飛行機乗りになれ」
と海兵二号生徒のとき教官から言われたそうですが、その後ワシントン軍縮会議で日本の主力艦隊の保有量が米英両国の六割に抑えられたため、海軍の兵力低下を補うために航空兵食を充実させる、という世論が沸騰したこともあり、航空へと進みます。

勉強より偉人伝を読みあさり、そこから猛然と「国体維持」を至上とする思想問題に早くから頭を突っ込んでいたという小園は、教え子が五・一五事件に連座していたことから上層部に睨まれ、大尉から少佐への昇進を六年間もストップされています。

そして、思想問題とともに傾倒し、彼が早くから訴えていたのが「戦艦無用論」でした。

訓練の最中、視察に来た山本大将と大西滝治郎の後を追いかけてまわり、
「閣下、戦艦大和の建造は即時中止すべきであります。これだけの建造費を戦闘機に回せば、優に一千機が作れます」

高官が来るたびこれを繰り返すので、ついに彼らは小園が近づくと体のいいことを行ってその場を逃げ出すようになりました。
しかし、その気骨と気概は山本五十六の目には特別なものとして映っていたようです。

教官としてはどうしてもうまく操縦できない生徒がいると、一人乗りの機の後ろに無理やり乗り込み指導をするなど、熱心というより非常に「熱い」教官だったようです。
そして「若葉の頃」、副長時代の山本大将が「気を引き締めるため下士官以下全員坊主」を命じると、士官である小園少尉は真っ先に坊主頭になって、山本副長が「士官の貴様に坊主になれと言った覚えはない」というと
「長髪は操縦の邪魔になりもす。坊主頭の方が勇ましく、カッコよかです」
と言った、と伝えられています。

ちなみにかれは36歳で結婚をしますが、夫人は「まるで女優」と言われた絶世の美女でした。

台南空飛行長、斜め銃の発明、そして厚木飛行隊事件、一人の軍人でこれほどのセンセーショナルな話題をもつ人間もあるまいと思われるほどその存在は特異です。


山本長官が、自らは見ることがなかった小園少佐のその後を、このような言葉で予言しています。

「今の海軍はあの男には小さすぎる。あれだけの男を使いきれなくなって、みすみす反逆児へ追いやってしまわなければよいが」―


小園安名は昭和35年に故郷の鹿児島で農業をしながら静かにその生涯を終えました。
死後に家族や関係者の働きかけにより「反乱」という言葉については名誉回復がなされているそうです。



参考:厚木航空隊事件 阿久根星斗 高城書房出版
  海軍厚木航空基地 岡本喬 同成社
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