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映画 勝利の礎

2010-09-12 | 海軍
本日画像は、映画「勝利の礎」で飛行訓練をする兵学校70期生です。

このフィルムは戦後占領軍の命により一本を残して焼却処分になり、その一本は日本海軍を研究する資料としてアメリカに渡っていました。
その後返還され、幻の映画として関係者だけがコピーを所蔵していたのですが、今ではDVDで購入することができます。

この映画で要所要所生徒がアップになります。
監督もアップにする生徒をちゃんと選んでいるようで、関行男生徒を始めきりりとした面構えの青年ばかりです。
「海兵七〇期生徒の受難」の日に関生徒のアップを画像にしましたが、砲術の時間下を向いていてそのうち目を教壇に向けるこの生徒が関生徒だというのはあくまでもエリス中尉の「自己判断」です。
「それ関行男違う」というご指摘は受け付けておりますのでよろしく。

ところで画像の生徒さんは、飛行練習中教官の前に報告のため立たされるのですが、あまりにカメラ目線なので、兵学校の注文でヤラセがほとんどないと言われているこの映画における数少ない演出か?と思いきや、当時日本に二台しかなかった三倍ズームレンズを駆使したものだそうです。しかし監督があえてかれのズームを選んだ理由が分かるような気がする実に憂いを含んだ甘い顔立ちのイケメンで、思わず再生を止めてスケッチしてしまいました。

彼はどんな道を選び、戦争をどう生きたのでしょうか。


いわば兵学校の紹介映画であるこれは、昭和17年海軍省の後援によって制作されました。兵学校の生活と、そこに柱となる「五省」など、基本精神の紹介も兼ねています。
勿論のこと、座学で居眠りしていたり、一号が四号を殴っている様子もありませんから、映像は「よそ行き」の顔である感は拭えませんが、それでも芋の子を洗うような風呂場の浴槽や、食事中にもはじけるような笑い顔が見え、非常に貴重な記録となっています。

映画の、というより兵学校生活を垣間見ての感想を。

まず、みんな実に「男前」です。
勿論、ひとりひとりの顔はいろいろですが、集団となったとき、特に水泳や体操の授業で服を脱いでいると、その均整のとれた鍛え抜かれた肉体の美しさにため息が出ます。
当時の日本人は今ほど背も高くないし、戦後ですら「日本人離れした」が褒め言葉だったというくらいフィジカル的には西洋コンプレックスがあったはずですが、彼らの体は皆しなやかでバランスも良く、全くそんなことを全く感じさせません。
そして、集団になればなるほど、知性や精神の緊張が全体を覆うように、造作など気にならないのです。

兵学校の写真を撮ったカメラマンの眞継不二夫氏が「最も印象付けられた」として、生徒の顔の端正さを挙げています。曰く「これほど揃って整った容貌をもつ生徒が他の学校にあるだろうか。精神的なものの現れた美しさである」


特筆すべきは兵学校の設備です。

当時、一つ一つ焼かせたレンガをイギリスから取り寄せて作ったという校舎には莫大なお金がかかっていました。
授業で使う教材だけでなく、校舎の設備全てが最新鋭でした。
皇族の子弟も学ぶのですから、当然と言えば当然ではあったのでしょうが、入浴のときに映るシャワーからは、ものすごい勢いでお湯が出ています。トイレも勿論水洗でした。

生徒心得には「トイレの水洗の鎖を引っ張りすぎて切らないように」というお達しがあります。勢い余って引きちぎる生徒さんが多かったのでしょうか。

量が少なくて問題となっていた「パンと味噌汁と砂糖」の食事にしても、パンなど食べたこともない日本人もいたことを考えると贅沢なものだったはずです。


それから、服装で気づいたことをいくつか。

このブログ上の画像で「軍帽」というものを何度か描いたとき、鍔の上部、帽子本体部分にプラスティックの細い紐が掛っているのを、飾りだと思っていたのですが、これは艦隊上で顎にかけているのを見て、実用だったのだと知りました。
映画でも艦橋上の士官は必ず顎紐を架けています。

また、江田島名物棒倒しのときに着ている大きく開いたVネック(ラインがお洒落です)の服は、「日本の軍装辞典」によると「棒倒し服」といい、このときだけ着用するものだったようです。
週一回、土曜日だけの恒例行事だったのですが、わざわざこのために制服を作るというのは、兵学校が棒倒しをいかに重く見ていたかということでしょうか。

この棒倒し、いわば「無礼講」なため、日頃殴られている憎き一号に仕返しするチャンス!だったはずですが、実際はローテーションやポジションの関係で下級生徒は一号を殴るどころではなかったそうです。

兵学校ではありませんが、予科練で下で棒を支えていた者が圧死したということもあったそうですから、それは激しいものだったようですね。


日常生活では、朝目が覚めた次の瞬間がばっとはね起きて起床動作をしています。
起床動作は入学当時はどんな早くても5分、遅くて15分かかるようなものですが、すぐに2分半に短縮されるそうです。
眞継氏の写真集の起床動作の写真は、動きが速すぎて人体の動きがぶれて写っています。
なぜここまで限界に挑戦するかのごとく急がせるかというと、全ては「戦闘」を想定しているとのこと。
戦地で朝のんびりしていればあっという間に敵にやられてしまうからだそうです。

起きてしばらくはぼーっとしているのが人間の自然な姿だと思いますが、寝起きの悪い生徒さんはさぞ毎朝、冬などは特に辛かったこととお察しします。


そしていよいよ七〇期の卒業式の日がやってきます。

「裏門(海軍兵学校と書かれた門)から入ってきて正門(船着き場)から海に向かって卒業していく」少尉候補生を見送る草鹿任一校長の目にはなんと隠しきれない涙が浮かんでいるのです。
草鹿校長は、生徒から「じんちゃん」と呼ばれて親しまれていたそうですが、自分が送り出した70期生徒には特に思い入れを持っていたのでしょう。
この年恩賜の短剣を受け最優等で卒業した平柳育郎生徒(賞状が映ります)が、その後ラバウルで駆逐艦文月の砲術長として被弾、戦死したとき、病院に駆けつけて葬儀を見守り、早すぎるその死を惜しむ文を贈っています。

この映画は、拡大する戦線を見越し、足りなくなる士官の早期育成を意図した海軍省が、いわば求人広告の意味で作成したものでした。
海軍兵学校の生徒数は、この映画公開後、倍々のように増えていきます。

72期―625名 
73期―902名 
74期―1024名 
75期―3378名

最後の78期になると、なんと4048名となります。


この中の少なくない人数の青年は、この映画をきっかけとして兵学校生活に憧れ、国家に身を捧げんと海軍を志したのではないでしょうか。




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