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帝国海軍の武士道

2010-09-05 | 海軍人物伝

八月二五日の日経新聞朝刊に、このような記事がありました。

旧陸軍将校による『ユダヤ人 命のビザ』

外交官杉浦地畝が亡命するユダヤ人のためにビザを書いたその二年前。
旧満州国と旧ソ連領国境で立ち往生した大量のユダヤ人の受け入れを、当時赴任中だった
旧陸軍少将樋口季一郎が指揮した、というものです。
このときの受け入れルートはその後もユダヤ人難民の命綱となり、救われた総数は数千人に及んだ
と言われています。

外交官と違い、軍人であったため、樋口氏の功績は全く秘匿されたまま今日まで来たわけですが、
なによりもそれは本人が生涯その事実を黙して語らなかったためでした。
サイレント・ネイビーという言葉がありますが、武士道の体現者たる日本の軍人には
陸海問わず「功を語らず」という精神を重んじる人が多くいました。



戦争は人間のもっとも醜いものを露わにしますが、人間の最も美しい部分を浮き彫りにすることがあります。
そして、海の上にも海軍の武士道精神がいかんなく発揮された事件がありました。


昭和17年、英国極東艦隊はジャワ沖にて日本帝国海軍と激突。
帝国海軍の勝利により、連合国艦隊は壊滅しました。
このとき駆逐艦エンカウンター、旗艦重巡エクゼターは沈没、両艦艦長以下500名は海に投げ出され、
漂流していました。

体力と気力の限界に来ていた集団の前に日本の駆逐艦が近接したのは、
沈没から一日が経った3月2日のことです。
エンカウンターの砲術士官であったサムエル・フォールが機銃掃射を受けることを覚悟し、
両手で頭を庇ったとき、彼の目に入ったのは駆逐艦のマストに上がる「救難活動中」の国際信号旗でした。
まさか、と目を疑う思いのフォールは、続いて帝国海軍の水兵が全速力で縄梯子を下ろし、
救命ボートの準備をしているのを認めます。
帝国海軍駆逐艦「雷」が、艦長工藤俊作中佐の命令でスクリューを全力逆回転させ停止し、
さらに敵兵を艦に助け上げるために必死の救助活動を行っていたのでした。



当時、戦闘海域での救助活動がいかに困難で危険を伴うものだったか。

艦を停止することによって敵戦闘機、潜水艦の格好の標的となるのはもちろんですが、
艦の人員が増え、、重病人の看病で戦闘活動が制限され、かつ敵兵の反乱の可能性も起こり得るわけで、
味方の救助ですら軽傷者のみ、というのが戦時の海では常識だったほどなのです。
実際、救助活動中に攻撃を受け沈没した事例も少なくなかったといいます。

さらに言えば、米国海軍の多くは、救助中の艦はもちろん、病院船まで攻撃、
脱出し漂流する看護婦にまで機銃掃射を加えています。


 しかし、基本的に帝国海軍は違う立場をとっていました。
雌雄を決した後は敵残存艦船による救助活動はいっさい妨害せず、極力敵将兵を救助し、
かつまた、敬意を以て遇しました。

雷に収容されたフォールはさらに甲板の上で信じられないものを見ます。
それは、自力で船に上がれない者のため、水兵が海に次々と飛び込み、ロープを巻いて引きあげ、
さらには重油にまみれた彼らの体を洗浄し、衣服や食べ物を与えて慰労する敵兵でした。

日没直前、前甲板に集められた英国海軍士官の前に工藤艦長が現れました。
彼は端正に海軍式敬礼を行い、さらに次のようにスピーチします。

" You have fought bravely.
Now you are the honored guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy."


(諸氏は勇敢に闘った。今や諸氏は我が帝国海軍の名誉あるゲストである。
英国海軍に敬意を表する)

このことを、工藤中佐は終戦後も、家族にさえも黙していました。
中佐は昭和54年、78歳で世を去ります。
砲術士官フォールがサー・サミュエル・フォールとして66年後、日本を訪れ
「あのときの駆逐艦雷の艦長に逢いたい」と申し出なければ、
この事実は誰にも知られることはなかったでしょう。


それにしても、この話を語るとき、いかにもあの非道な戦争の中で、この工藤艦長だけが特別であった
というような言い回しをする論調が今のメディアにあるのには不満を感じます。

日本のシンドラー杉原千畝、さらに冒頭新聞記事における樋口少将。
彼らは決して「非道で無情だった日本の軍や政府の中での反乱分子」ではなく、
我が日本の武士道精神を受け継いだ継承者ではなかったでしょうか。

実際、ユダヤ人の救済に対し抗議を申し入れたナチス・ドイツに対し
「特定の民族の迫害は八紘一宇の国是に反する」と彼らの送還を拒否したのは
他でもない日本政府です。


工藤艦長は海兵時代、鈴木貫太郎に教えを受けています。
鈴木校長は
「四海同胞」
(四方の海にある国々はみな兄弟と思う世に何故波風が騒ぎ立てるのだろうという
明治天皇の御製からの言葉)の精神を引用し、敵を尊重する精神を工藤らに教え込みました。

そのときかれが工藤らに特に強調した、
水師営の会見における敗将ステッセル以下ロシア軍への帯刀の許可を引くまでもなく、
鈴木自身が武士道における「惻隠の情」の体現者であったことは、鈴木が首相時代死去した
ルーズベルトに対してその死を悼む談話を発表し、トーマス・マンを始めとする世界に
感銘を与えたことにも現れています。



我らがサイレント・ネイビーが彼らの墓まで持って行った武士道精神の賜物は、
たまたま拾いあげられ人の目にふれた工藤中佐の話だけにはあらず、そしてそれは、
あまたの美しい貝のように、今はひっそりと海底に眠っているものと私は信じます。






「海の武士道」 恵隆之介著 産経出版 
「敵兵を救助せよ」恵隆之介著
「ありがとう武士道」サム・フォール著 麗澤大学出版会
「世界に愛された日本」激論ムックより「命がけの武士道」
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