アメリカは移民の国です。
当たり前のことなのですが、国家は他民族の集団で成り立っています。
我々日本人はアメリカ人といわれて金髪だったり赤毛だったり、
要するにああいう「白人」を思い浮かべるわけですが、白人といっても
金髪はドイツ系かもしれないし、赤毛はアイリッシュのことが多いし、
イタリア系は黒い髪が多いといった具合に、民族は様々です。
アングロサクソンが国の中心だったことから、アメリカも区分的には
「アングロサクソンの国」という位置づけですが、だからといって
アングロサクソンネームが大多数かというとそんなことはない。
独立当時は、確かに60%がアングロサクソンでしたが、いまや
その割合はアメリカ全体の11%に過ぎず、
なんと今一番多い人種はドイツ系だといわれています。
そして現在進行形でヒスパニックと中国系が急増しています。
というわけで、ここでは何系であっても国民としての権利が保障され、
社会はダイバーシティを謳っているわけです。(建前上は)
その特性の上に生活の活路を見出す移民の子孫はたくさんいます。
たとえばこの、わたしが住んでいる頃から贔屓にしていた
フランス人の経営するベーカリーカフェ。
フランス本場のパンを売り物にしているので、自らを
『ブーランジェリ』
と称して、アメリカ人にとても人気があります。
初代の女主人はどうもこの10年の間に亡くなってしまったようですが、
その亭主(カウンターの中)がフランスなまりの達者な英語で
「クイニーアマンが今焼けたけど、試してみないかい?」
などとセールストークをしてきます。
昔はこの隣の小さなスペースで営業していたのですが、
人気が出たので隣のレストラン跡を買い、
4年くらい前に移転して、さらにご繁盛の様子です。
メニューはフランス語表記で書かれ、壁には
ロートレックのポスターなどを貼って雰囲気もたっぷり。
外の狭い歩道に無理矢理いくつかテーブルを置いて、
おそらくフランス人は国を思い出すに違いありません。
オープンサンドイッチに付け合わせは
グリーンサラダかクスクスか選べます。
この欠けたお皿といい、ドンブリで飲むカフェオレといい、
細かいところまでフランス風(笑)
アメリカ社会の中のフランス人、というのは、
フランス人ではないので実のところは分かりませんが、
非アングロサクソン国のわりには優遇されてきたのではないか、
と思うことがあります。
戦時中はドイツに占領され、つまり敵の敵は味方で、
料理やファッション、芸術の分野で新興国のアメリカの
コンプレックスみたいなのを微妙にくすぐる立ち位置だし。
立ち位置といえば、日系アメリカ人というのが、今アメリカの中で
どんな立ち位置にいるのかが、日本人としては気になります。
そして、彼ら日系人は我々が思うほど日本に帰属意識がない、
という話も聞いたことがありますが、どうなのでしょうか。
たとえば韓国系米人が、米人政治家を抱き込んで慰安婦像を建てたとき、
彼らは我々日本人のように憤りを感じたのか、それとも
今はアメリカ人でありルーツがそこであるというだけの彼らは、
単に「別の国」が非難されているに過ぎないと感じているのか。
それを少しでも想像するには、彼らの過去から知らねばならないでしょう。
というわけで、わたしは一度行ったら閉まっていて見られなかった
サンノゼの日系アメリカ人博物館を訪ねてみました。
サンノゼに向かう道の途中で楽しそうなお店ハケーン。
どうもミリタリーコスチュームのお店、
アメリカの「中田商店」であるようです。
右から水兵帽の海軍さん、トップガン、
ファイアファイターの防火ジャケットもあるぞ。
ずらりと迷彩服。
右から2番目はもしかして、スカート?
「POLICE」のキャップと共にあるのは、SWAT
(Special Weapons And Tactics)つまり火器戦術部隊の制服。
アメリカにもこういうのを買って趣味で着る人がいるんだなあ。
冷やかしで入ってみたいけどこれは勇気がいる・・。
閑話休題、約15分でサンノゼに到着。
この間来たばかりなので高速も降り口を間違えずに到着しました(T_T)
受付で記名を求められるのですが、それを見ていた女性が
綺麗な日本語で
「日本から来られたのですか」
と訊ねました。
そうだ、というと、彼女は
「それは嬉しいです」
といい、解説が要るかどうかとまた訊ねてきました。
解説員として呼ばれたのは、その受付ホールに座っていた若い男性で、
どうやらボランティアであろうと思われました。
眼鏡をかけてヌーボーとした、秋葉原にたくさんいそうなタイプ。
わたしはすっかりバイリンガルだと思い込み、
まず日本語で話しかけてみたのですが、やはりというか
かれは三世で、日本語は全く理解できないようでした。
というわけで、日本人に見える説明係と、日本人の見学者は
どちらもなまった英語で会話しながら
(彼の英語もパットモリタ氏のようにアクセントがあった)
日系人についての資料を見て歩くことになったのでした。
日系アメリカ人の最初の入植は、1880年(明治13年)に始まりました。
展示はまずこの頃の日本人が渡航の際荷物を入れた行李から始まります。
彼らは横浜と神戸から出航し、シアトル、サンフランシスコ、LAに着きます。
当時、明治維新の土地や税制の改革で、特に地方ではますます貧困に拍車がかかり、
アメリカに職を求めて渡った日本人たちでした。
最初に書かれたmiyagawa という表記は
「これでは荷物が紛失するから大文字で大きく書け!」
とでも言われたのでしょうか、わざわざ消して書き直しています。
多分小文字でも大丈夫だったと言う気がしますが。
出航前にまず神戸の港町にある、客船の客専門の旅館に泊まったようです。
旅館でありながら、外国汽船貨物取り扱い所を兼ねていたようですね。
電話は元町六六六番、などと言う表記も見えます。
このころアメリカに渡った「イッセイ」たち。
彼女たちは、渡米後すぐに着物で写真を撮り、
現地で洋服を調達してから皆でもう一度同じ配置で
「使用前使用後」の写真を撮りました。
真面目な顔をして写っていますが、若い女性達らしくこの後は
きゃっきゃうふふと写真を見て盛り上がったのに違いありません。
日本から持って行った着物と、それを収納した洋風のタンス。
「沖田兄弟商会」と漢字で書かれた店の名前。
3人兄弟はここでファニッシング、すなわち家具などをセットする
インテリア関係の会社を持ったようです。
窓際にはたくさん皮のトランクが見えていますね。
タイプライターはこちらで購入したものらしい。
当時の高額商品(でも必要)ではなかったでしょうか。
アメリカにもあった紀伊国屋商店。
全員ぱりっとしたコートやスーツに身を固め、
ハットに口髭とダンディです。
後ろに「マーケット」とありますが、関東にあるあの「紀伊国屋」と
同じ店でしょうか。
勿論歯医者さんもおります。
歯科助手の仕事は患部を電球で照らすこと。
博物館に歯科医師から寄贈された治療台。
グロサリー。
ひびの入ったガラスをテープで止めているのが慎ましやか。
自家用車を持つほど経済的に成功する一世も現れてきます。
新車が来たので、娘たちと記念写真。
娘3人はガールスカウトのいでたちです。
車のノーズにはちゃんとアメリカ国旗が飾ってあることに注意。
日系移民は日本で農民だったため農業に就く者が多かったという話ですが
彼はその収穫を馬車に乗せて搬送しています。
この博物館には、日系一世たちが農作業や運搬に使った道具も
納屋のようなところに展示してありました。
移民の中心になったのが若い男性たちです。
彼らは家族でアメリカに渡り、「兄弟会社」を作りました。
トラックに積んであるのは小麦粉でしょうか。
会社の名前は「オクダ・ブラザーズ」です。
日本から持って来られなかったものでも、現地で作ってしまいます。
餅つき用の杵とうす、和太鼓は・・・ちょっと日本のと作り方が違うかな。
今いるジャパンタウンの古い地図、
解説員の手があるところから下には中華系がいたそうですが、
中華系は日系が住み着くと同時にいなくなってしまったとか。
移民の中には職人もいますから、こういうものも作ってしまいます。
ザルと風呂桶。
ホーロー引きの台所用具。
日系社会のスポーツ事情に関する写真のコーナーです。
まげを結った相撲取りですが、褌の下に下着をつけています。
米国では褌一丁でスポーツをするのは憚られたということなのでしょうか。
合気道教室。
サンノゼにあったバスケットボールチーム。
サンノゼには「アサヒ」という本格的な野球チームがありました。
日系社会にはいくつか野球チームがあって、リーグを構成していたのです。
「アサヒ」はそのリーグで何度も優勝した強豪で、何度も日本ツァーを行い、
1925年には明治大学野球部に勝ったこともありますし、
なんと1935年には東京ジャイアンツに3対2で勝ったこともありました。
1936年、最強だった頃のアサヒナイン。
ジョージ・イチシタ、ハリー・ヨシオカ、ジャック・オータ・フジノ・・。
顔もファミリーネームも日本人ですが、全員がアメリカ風の名前です。
彼らはすでに二世世代で、殆どがバイリンガルであったと思われます。
子供も野球をして遊びました。
本当に日本人は今も昔も野球が好きな民族ですね。
本格的なユニフォームを着ていますから、
リトルリーグのようなものもあったのではないでしょうか。
アメリカの地で亡くなり、アメリカの土に還る一世も出てきました。
日系アメリカ人の葬儀における記念写真。
正面の建物は寺らしく、花輪の影に石灯籠が見えます。
中央に置かれた棺の上にはたくさんの花が置かれ、欧米風。
池上サダメという名前から、亡くなったのは入植した一世でしょうか。
周りを取り囲む日系米人たちは、棺の正面にいる僧侶以外全員洋装です。
二階に入り口のある不思議な造りの建物ですが、二階はお寺、
一階は寺付属の小学校であるらしいことが看板から分かります。
日系人の宗教生活。
仏教だけでなく様々な宗派の教会が生まれ、
コミュニティごとに彼らは精神的なよりどころをそこに求めて集いました。
日系人の作った金光教教会。
決してアメリカ人から歓迎される存在ではなかった日系人たちは、
コミュニティを作ってそこで生活して行くしかなかったのですが、
勤勉で才覚のある一世たちはおもに農業などで成功し、
全体的に生活レベルが低く蔑まれていた中国系より豊かな生活をしていました。
しかし、そのことがアメリカ人たちの反感と恐れを生むことにもなります。
当時日本は中国に兵を進め、そのことがアメリカ社会には大いなる脅威として
取りざたされ、ついには「黄禍論」なる言葉も生まれました。
真珠湾攻撃は彼ら日系人を迫害するきっかけに過ぎなかったのです。
ジャパンタウンの再開発のときに土中から発見された、
和食器のかけらを含む土隗。
こんなに古くからここには日系が住んでいたということの名残りです。
1977年の再開発の際、1931年当時の街並の記録を残そうと、
このような地図が書かれました。
当時は半分がチャイナタウンだったため、中華系の人々が建てた建物もあります。
漢字で説明がありますが、鮮明でないのでよくわかりません。
「教会」「行列」という字が読み取れます。
ボンネットに乗って兄弟二人の記念写真。
お揃いのセーターを着ています。
おそらく、農場で働く青年でしょう。
彼がまたがっているのはバイクです。
バイクというより電動アシスト自転車に見えますが。
アメリカでは外国人土地法というのがあり、国民ではないとされた
日系人は土地の取得を制限されていましたが、
彼らは規制をかいくぐりながら農園、牧場、苗木のための土地を
何とかして手に入れ、そこで懸命に働いて財を成したのです。
お寺に併設されていた二世のための日本語学校。
印刷屋兼時計製造。
従業員一同の記念写真でしょうか。
子供たち。
下の写真はオーチャードスクールの小学生。
この学校は元々アメリカ人のための学校でしたが、この近辺の
農場の子供たちは日系人であってもここに通っていました。
一つのクラスに色んな人種がいるのはそのためです。
ブラスバンドも盛んだったようです。
下は1934年に撮られた「ブディスト・チャーチ・バンド」のメンバー。
彼らの持っている旗らしきものに、卍の模様が見えます。
「黄禍論」は、最初中華系が対象だったのですが、日系人が成功し、
裕福な層が現れて来ると、次第にその矛先はそちらに向かいました。
取りあえず中華系より脅威であったということなのでしょう。
折しも大陸での緊張状態があり、「信用できない人種」であると
アメリカ人たちは反感を強め、日本からのスパイのように見なしたのです。
連邦政府はそのころ、日系移民一世と二世について
「開戦の際危険であるか否か」
の報告書をまとめましたが、その結果は意外なことに
「日系移民は他のどの団体と比べても、特に危険度は高くはない」
というものであったそうです。
ほどんとの一世は、合衆国に少なくとも消極的ながらも忠実で、
二世は、アメリカ市民としての強い自覚を持っている、
というのがその報告書の内容でした。
しかし、実際に1941年12月7日がやってきた後、
そう言った報告があったにもかかわらず、日系人たちは
アメリカから手酷い迫害を受けることになります。
続く。
私の知人はほとんど日系四世か五世ですが、全く日本語を話せません。しかし、韓国系や中国系は何世でもたいてい韓国語や中国語を話します。回りに合わせる(溶け込む)意識が低いからだと思います。
アメリカの大都市では、今でも韓国系や中国系は固まって住んでいることが多いですが、日系人はバラバラが多いようです。顔は日本人ですが、中身はアメリカにしっかり溶け込んで、アメリカ人になっていると思います。
初回でいきなり大正論で結論をだされては・・・。
そうなんですよ。
帰属意識が異様に薄いといわれています。
これからお話ししていくつもりですが、日系アメリカ人は、戦争となったときにまず
「今住んでいる国に忠誠を尽くす」と言う考えで出征していったわけで、
日系人社会の中であくまでも日本に忠誠を尽くすことを選んだ一派を、むしろ
彼らは疎んじていたという話があるくらいです。
これは、東条英機などが日系アメリカ人社会に向かって出した手紙にも書かれていたように、
武士道の考え方でもあるといわれています。
「武士とは主君『家』に仕えるものである」という意識ですね。
昔、泊まったフロリダのリッツホテルに日系のフロントマンがいたのですが、
雑談していて、わたしがつい(今なら聞かなかったでしょうけど)「日本語はしゃべれる?」
と聴くと、ぴしゃりと一言「NO!」と答え、それまでのにこやかな調子が
瞬間強ばったものに変わったので驚き、かつ不思議だったことがあります。
日系アメリカ人の中には、マイク・ホンダのように積極的に反日を謳って日本政府を非難する人物などもいるようですが、
彼らの中では日本という存在は非常に「捩じれた」感情の上にあるのかもしれません。
小松左京に有名な「日本沈没」という作品がありますが、彼はあの小説を書く前から「日本がなくなる」というネタを持っていて「日本沈没」より前に書かれた「果てしなき流れの果てに」に35世紀の日本人移民団が登場します。
20世紀に日本がなくなってしまい、流浪の民となった日本人は世界中で辛酸を舐めながら、1500年後にやっと見つけた遠い宇宙のある星に約束の地を求めて旅立つ。その移民団の出発が描かれます。
移民団はちょっと音程も怪しい「君が代」を歌っています。初めて読んだ高校生の頃は「さもありなん」とスッと入ったのですが、日系四世や五世を知ってしまった今は「う~ん」と思います。彼らを見ていると、たった50年もすれば「君が代」は歌えなくなると思います。