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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

亜米利加で 日本の車の 良さを知り ついでに日本の良さも知るなり

2014-07-22 | アメリカ

アメリカでは車がないと何も出来ないため、旅行者は必ず
空港でレンタカーを借り、 そこから出発します。

それが普通なので非常にレンタカーのシステムも合理化されており、

空港バスでレンタカーセンターに行けば、あらかじめインターネットで
予約しておいたレンタカー会社のカウンターに行き、
クレジットカードと免許証を見せ、あとは車の停まっているロットに行き、
駐車場を出るときにもう一度契約書を照合するだけでおしまい。

さらにわたしがここ何年か利用しているハーツゴールデンクラブは、
前もって全て予約しておいた車がすでにロットに用意されているので、
専用駐車場に行けば大きな電光掲示板で自分の名前を見つけ、
名前の横にあるナンバーが表わすロットに行くだけでOK。

つまり、全く人と会話せず車をゲットすることが出来るのです。

しかし(笑)

システムこそとことん合理的ではあるが、一旦何か問題が起こった場合、
あなたがそれを
訴える相手は、アメリカ人のレンタカー会社社員です。
これがいかに恐ろしいことか、あなたはご存知でしょうか。

愛想だけはいいが労働意欲と能力に異常なくらいのバラツキのある
アメリカ労働現場で、いざとなったときに相手がとんでもない愚か者か、
やる気がない奴か、あるいはその両方であるパーセントは
ほぼ2分の1くらい。

2回に1回は相手の対応にムカつき、間違いに呆れ、要領の悪さに辟易し、
まあつまり日本人であれば滞在中一度は

「アメリカ人ってもしかしたらばか?」

という呪詛の言葉を飲み込む羽目になるのです。

さて、という話をマクラにしたからには、そういう話なのですが、
今回、わたしはアメリカ滞在中にレンタカーを返品交換した数で

今までの最高回数を記録してしまいました。

この10年、一度借りたらそのまま1ヶ月乗って返してきたものなのに、
今回はまず、最初に予約していたプリウスに3日乗ったところで

1、GPS(カーナビ)が付いていないため交換。


プリウスにはGPSは付けられない、という謎の理由で

アップグレードするしかなくなったため、
わたしはボルボを選択しました。
後から考えるとこれが不幸の始まりだったのです。



ここまではお話ししましたよね?

ボルボはなかなかいい車だと思ったのですが、走り出してこれも3日目、

2、フロントパネルにタイヤチェックの警告ランプが付いた

ためまたもや交換する羽目になりました。


一つの滞在地で2台乗ることすら初めてだったのに、なんと3台目です。
交換のため訪れたハーツのカウンターで色々と感慨に耽っていると(笑)
アフリカ系のカウンター係員が、

「何難しい顔してるの。笑って笑って」

笑ってじゃねーよそっちの整備不良ってことじゃねーかよ。
誰のおかげでこんなに何度もハーツに来ないといけないと思ってんだよ。

と思わず心の中で不良になってしまうエリス中尉。
しかし外面のいい穏やかな日本人としては、内心はどうでも
とにかくニッコリと彼に笑ってみせ、さらにこの係員が

「いい靴履いてるね!バレリーナが履いてるやつみたいだね」

とお愛想をいうのにニコニコと相づちを打っておりましたorz
憎い。おのれの日本人のDNAが憎い。



そしてこのときにスィッチした車はキャデラック。
日本ではキャデラックはあまり見ませんね。

アメリカでもあまり見ません(笑い)

昔は歌にも贅沢の象徴としてよく歌われていた車ですが、
今のアメリカでは影の薄いレアな車です。

どうしてアメリカ人はビッグスリーの車を買わないのだろう、
パトリオットならばもう少しアメリカ企業を応援しそうなものだけど。
とわたしは当初思ったものですが、アメリカの道路を毎年コンスタントに走り、
そして時折はこういう「アメ車」に乗って
その理由が今ではわかります。

だって日本車の方が断然いいんだもん。

シートピッチや空調、オーディオシステムやタッチパネル、
そして何よりも燃費と取り回しの良さ。
メンテナンスが少なくて良く、信頼性がある。

一度日本車に乗ったことのある者は、わざわざ大金を出して
アメリカ車を買うことはないでしょう。

愛国とかなんとか以前に、日本車という選択は彼らにとって
最も合理的で適正な判断だってことに過ぎないのです。

おそらく皆さんが思っている以上にアメリカの道は日本車が席巻しています。
小型車も最近は大型車も殆どがトヨタでありニッサンでありホンダであり・・。



この車も決して悪くはないとは思いましたが、もしこれが日本車より
高いのであればわたしは躊躇なく日本車を選ぶでしょう。

わたしが今までここで乗ったクルマで燃費の点でまあまあだと思ったのは
サターンだけですが、そのサターンも日本車に対抗したものの
日本車に打ち勝つことが出来ずに失墜しましたね。



そんなある日、TOがボストンにやってきました。
夜の到着なので迎えにいったときのマスパイクで撮った写真。
向かいに見えるのはプルデンシャルタワーです。

実はこのとき、キャディラックのフロントパネルには

3、エンジンマークの警告ランプが点いていました(笑)

危急性はないものの、これが点いたら点検すべし、と
面倒くさいけど読んだマニュアルに書いてありましたし、
何かあっても嫌だし、TOが来たため空港に帰るのに
トランクが全部乗るだけの大きな車に代える必要があったので
わたしは
TOと一緒にまたもや次の日ハーツレンタカーに突撃。


このときのカウンターの係員が、いわゆる

The worst salesclerk in the world

だったのです。まじで。

40台後半(前半かも)のその白人女性は、まず

「どうして交換したいの?」

とため息をつきながら実に不機嫌そうに車のところに行き、
ガソリンタンクの蓋をいきなり締めなおして

ここが空いているとランプが点くのよ!
(自分で運転席に座ってエンジンをかけ)
ほら、ランプ消えたでしょ!」

と言い放ったそうです。
つまりこのまま乗って帰れという趣旨です。
そうです、というのはわたしはそのとき化粧室に行っていたからで、
このときにもう一度運転手であるわたしがチェックしていたら

ランプは実はまだ消えていなかった

(つまりおばちゃんの勘違い)ことに気がついたはずでした。

運転のことがわからないTOは、しかし

「わたしたちは最終日大人三人でトランクを乗せて
空港に行かないといけないので、大きな車にアップグレードしたい」

と食い下がりました。
彼女は面倒くさそうに

「でもないのよね~大きな車って。
いっそメルセデスのワゴンはどう?」



メルセデスはいわゆるアップグレード対象車です。
ブースの横にはこの写真のようなアップグレード車
(これはポルシェのオープン)が飾ってあります。

差額は一日150ドル(とおばちゃんは言ったけどこれも後から調べたら間違い)。
さすがに一日1万5000円の差額はもったいないね、と日本語で会話し、

「これしか大きな車が無いのなら元の車でいいです」

と彼女に返事すると、彼女はわざとらしく大きくため息をつき、
そんなら最初からごちゃごちゃ言うんじゃないわよ、
とばかり忌々しそうにパコパコキーボードを叩きます。

しかしここでわたしは嫌な予感がしたので、

ちょっと待って!
わたし、本当にこのおばちゃんの言うように

警告ランプが消えてるのかどうか見て来る。
だってランプはガソリン入れる前からついてたんだもの」

とキャディラックのイグニッションを入れてみると、
・・・・

警告ランプは全く消えてないじゃないですかーやだー。


というかふざけんなよおばちゃん。

「ランプ消えてないんですけど!♯」

デスクに帰って彼女に告げるとかすかに彼女は狼狽し、
すぐさまキーボードを叩き、

「大きな車ならシェビーのSUVがあるけど・・・」


なぜどうして最初からそれを出さない。




というわけでシェビーのエキノックスに車を交換しました。

「・・・・どうしてこういう不毛な言い合いをしないと
こういう結論に最初からたどり着かないのかねえ」
「アメリカ人ですから」

そんな会話をしつつ息子を迎えにいきました。



ロータリーに並ぶ車はどれも同じような大型車ばかり。



翌日になってTOがハーツの明細を見せてほしいといいだしました。

「なんか昨日の晩寝ながら嫌な予感がしたんだ。
あのおばちゃんにちゃんと料金の切り替え作業なんて
出来るのかと思うと・・」

言われてみればそうです。
我々が車を借りていたのは28日間ですが、そのうち6日だけを
アップグレードの差額プラスで計算するなどというパソコン操作が、
あのいかにも頭の悪そうな、そのくせ舌打ちしたりため息をついたり、
とにかく客の神経を苛立たせることだけは平気でやってのける、
勤労意欲の薄いおばちゃんにできるものか?

限りなく答えはノーです。

そしてTOによると切り替えは全くできていないらしく、
料金が異常に高くチャージされていました。


「よく気がついたね」
「もっと早くあの場で気づくべきだったんだけどね。
おばちゃんがあまりに酷いので疑いが生じたようなもんだ」

確かにもっとテキパキと微笑みを欠かさないような店員ならば、
おそらく間違いを疑わなかったかもしれません。

そしてわたしたちはまたもや空港のハーツレンタカーへ。

昨日のおばちゃんがまたもや座っていたらどうしよう、
とわたしは怯えたのですが、幸運なことに今回は、
至極マトモなアフリカ系男性が対応しました。

どれくらいまともかというと、TOが要点を言っただけで
SUVの料金が全日にカバーされていることに気がついたくらいまともです。

「これが前の料金、これが改正後の料金です」

彼の計算を見てわたしたちは目を丸くしました。
その差額約2000ドル。

何がどうなったのかわかりませんが、あのおばちゃんは
わたしたちのチャージに20万円もの上乗せをしていたのです。

驚き呆れたわたしたちは言葉の通じないのをいいことに、彼の前で

「なんなのあのおばちゃん!もしかしてすごいバカ?」
「しかも態度悪かったしね」
「アメリカの労働現場っていったいどうなってるの?」
「チップの出ないところなんてこんなもんですよ」

と言いたい放題。
普通に対処しただけのその黒人店員がとても優秀に見えました。
最後にわたしが小さく両こぶしを握ってガッツポーズすると、
彼はにやっと笑って同じようなガッツポーズを返してきました。
そして、驚くことに一番最後に

「とにかくすみませんでした」

と謝ったのです。

「アメリカ人でこういうときに謝るなんて珍しいね」

日本なら普通のことでもこの国ではこれだけで評価される。
さても不思議な社会です。


さて、というわけでレンタカーに乗るのもあと5日。
心安らかにカーライフを満喫できるのか?

と思ったら好事魔多し(笑)

このシェビーのSUV、異常に燃費が悪い。
3日目にガソリンケージは半分を指し、試しに
そこから満タンにしてみると8ガロン、30リッターで
ガソリン代は30ドル。

「5~6日で給油か・・・」
「誰もこんな車借りないし、ましてや買うなんてありえないよ」
「タイヤ半転がりごとにガソリンをまき散らしている感じ?」
「しかも運転し難い。トップヘビーで安定悪いし」
「そりゃ皆大型車ほど日本車に乗るよなあ」

車に乗りながら散々アメ車の悪口が出るにつけ、
比べたくなくても日本車との比較になります。

「アメリカの車会社の人だって乗りたくないんじゃないこんなの」
「全然工夫が足りないよね」

レンタカー会社の係員の質などを見ても、日本っていい国だなあ、
と改めて思わずにはいられません。

「だが待ってほしい(笑)
こんなレベルの低い人間が殆どなのに、こんな社会をつくりあげた、
アメリカのすごい人は本当にすごいん
じゃないだろうか」

「ごく一部の頭のいい人がそうでないその他大勢を科学的に
動かすことの出来るマニュアルってものを発明したからね」 

アメリカの車とついでに労働現場に対する非難はとどまるところを知らず。
ついには

 

「エキノックスって名前もイマイチだよね。
エキノコックスみたいで」
「エキノックスって何だっけ」
「春分の日?」
「ほらー。やっぱり変な名前だ」

坊主にくけりゃ、で名前にまで文句をつけるわたしたち。

しかもここでめでたしめでたしとはなりませんでした。
事実は小説よりも奇なりとはよくぞいったものです。
明日はボストンを発つという日、TOとボストン美術館に向かう
高速の道中、このエキノコックスの警告ランプがつき、

4、左後ろのタイヤがパンクしている

らしいことが判明しました。
後は飛行機に乗るだけとはいえ、いやだからこそ何かあっては困ります。
そのまま我々は4度目の交換にまたハーツに向かいました。



選択の余地なく(笑)今度の車はジープ。
もう怒る元気も失せ、力なく我々は

「じーぷのったことなかったしよかったんじゃない~?」(棒)
「そうだねーいろいろのれておもしろいねー」(棒)


次の日、われわれはそのジープにトランクと大人3人が乗り、
無事に空港に着いてやっとのことで5台目の車を返却しました。
そしてサンフランシスコに飛行機で向かいます。

「サンフランシスコのハーツではどんな苦難が待ち受けているのだろうか」

心配しつつサンフランシスコのハーツに着いたら、驚くことにロットには予約していた

GPS付きのプリウスが

ちゃんと停まっていて(日本では普通のことでもアメリカでは略)
しかもそのプリウスには 、 

大型車でないと積載不可能と思われた大小計10個の荷物と
大人三人がまるで魔法のように余裕で収まったのです。


わたしたちは絶句し、

「ボストンの最初のプリウスにGPSさえついていれば・・・・」

あるいは2台目がもし日本車であったなら、
おそらく5台も車を乗り換えることはならなかったに違いありません。


日本と日本人と日本の技術の素晴らしさをあらためて認識しました。




 





 


「あるくうた」~ボストンを歩く

2014-07-17 | アメリカ

あるけ あるけ あるけ あるけ
 南へ 北へ あるけ あるけ
  東へ 西へ あるけ あるけ
   路ある道も あるけ あるけ
    路なき道も あるけ あるけ

(高村光太郎作詞 歩くうた)

「ゆうせん」で「戦時歌謡」のチャンネルを聴いていると
ほんの時々ですがこんな曲が流れます。
最初に聴いたときインパクトが強くていっぺんで覚えてしまいました。

歩けという言葉がゲシュタルト崩壊起こしそうな(笑)
しかも陰惨なメロディで、とても読んだ通りの意味には
思えない(つまりネガティブなイメージの)歌なのですが、
なんとびっくり、今調べたところ、昭和15年に
当時国民の体力増進のため「歩け歩け運動」が提案され、
このテーマとしてNHKで作られた国民歌謡であったことが分かりました。

いやー・・・・これ、皆さんどう思います?
なんだかロシアの労働歌みたいじゃないですか? 
三番なんか、

身をやく 日照り あるけ あるけ
  塩ふく 背中 あるけ あるけ
   身を切る 吹雪 あるけ あるけ
    凍てつく 目鼻 あるけ あるけ

なんですよ?
なんで体力増進のためとはいえそこまでして歩かなくちゃならんのか。

つくづくこういうセンスが今とは違うなあと
隔世の感があるのですが(昭和15年ならそりゃあるよな)、
この話題はたんなる「つかみ」ですのであまり気にしないで下さい。



それはともかく、この「 体力増進のために歩く」、
皆さん実践していらっしゃいますか?

わたしは一日のうち必ず最低4~50分は歩くことを目標にしていて、
用事で歩かないときには公園を散歩したりするのですが、
アメリカ滞在時にはいつもより時間もあるし、
積極的にこの期間に体力を付けることを旨としています。

歩く場所を車で探しながら走り、州立公園や緑の多い地域で
気軽に車を停めてそこで歩いてみたり・・。

それがわたしにとっての「観光」ともなっています。



州立公園、という看板を見つけて車を停めてみたら、
そこは「ボート乗り入れ専門公園」だったことがあります。
駐車場からボートが引っ張れるように
こんなスロープがつけられているのです。




前にもこのブログでご紹介したことがある

「ホプキントン州立公園」。

車一台につき5ドルが駐車料として徴収されますが、
9時に係員が来るまでに入場すれば無料です。



去年からいつも同じところで見る人。
近くに車を停め、いつも無料の時間に入り、
このテーブルでコーヒーを飲みながら仕事しています。

静かでほとんど人のいない時間なので贅沢な書斎ですね。



ここでこのシマリスを見たのは初めてです。





おなじみトウブハイイロリスも発見。
テーブルの上に残された残飯を食べているようです。

このリスは、わたしに見つかったと知るとぢっと固まって
置物のようになっていました。
リスはだいたいそうやって身を守ります。
近づいてきたら脱兎の?速さで逃げます。



湖の岸の砂浜でじっとしていた二羽の白鳩。
こっちを見るのですが近づいても全然逃げませんでした。



カミツキガメが道路を渡るのを見ていたら、

「あなたこれが車にひかれないように見てなさい」

と命令したおばちゃん、ドリス・オグラディ(65・仮名)を目撃。
服装と、なんといっても体型が全く変わっていないので
遠くからでもすぐわかりました。



この「ミスター・チャン」も、三年前くらいからのおなじみです。
いつも三匹の犬を連れてこの土手に来ては右側の湖に、
そして左側の土手にボールを投げ、犬達は臆せずそれを拾いに行きます。

坂で吠えている茶色い犬は去年水に入るのを怖がっていましたが、
今年はちゃんと泳げるようになったらしく、果敢に飛び込んでいました。



今泳いでボールを取りにいっているのは茶色くんです。
近くを通ったとき、初めてミスター・チャンと挨拶を交わしました。
それはいいけど、チャンさん去年よりお腹が出てるような・・。



この湖は水泳禁止ですが、勿論そんなことを守るアメリカ人ではありません。
この5人は、お揃いの赤い水泳パンツを入って土手から入水し、
泳いでいました。
同じクラブの団体かなんかかな。 



それを岸から眺める体重1トンの女性。

さて、息子のキャンプが変わり、住むところが変わったので、
新しい「歩き場所」を求めて、少しホテルの近くを探してみました。



ホテルの隣にあったのがこのトレイル。
給水塔等のある小山なのですが、麓には幼稚園がありました。

 

住宅街にいきなり入り口があります。
ゲートには地図があり、ついでに愛犬家用の袋も完備。
アメリカではこの「落とし物」は全くといっていいほど見ません。



殺人現場発見。



頂上まで車で上がれます。
何処に停めていいのか迷いましたが、近くで赤ちゃんと小さな女の子を
遊ばせていたお母さんがグッドモーニング、と声をかけてくれたので

「ここに停めていいんですか」

と聞いてこのベンチの手前に停めました。



さっそく山道を下るコースを歩き出したのですが、
この緑のトンネルが災いして?顔の周りに虫が寄ってきます。
ここではよくあることなので、わたしは歩くときに
必ず携帯用のハーブスプレーを使って追い払うのですが、
このときはあまりに頻繁だったため、ボトルがほとんど
空になってしまいました・・。

日本では街中では望めないくらい恵まれた環境ですが、
おそらくここにはもう来ないと思います。



木の溝にはまり込んで擬態している(つもりの)リス。

 

この日は息子の行っているウェルズリー周辺を探検してみました。
オーガニックスーパーのホールフーズの周りにトレイルが出来ているのを発見。
スーパーの駐車場に車を停めて歩き出しました。
まず小さな野球場が現れます。



駐車場の出口から見た光景。
あぜ道のようなトレイルが繋がっている模様。
ここを歩いていきます。



右側は広大な球技場、左は野球場とテニスコート。
コートは無料で使えるようです。
この日は独立記念日の朝で、お年寄りがテニスに興じていました。
少し離れたコートにいる一団がやたらやかましいと思ったら中国人でした。
あの人達、たぶん嫌われてると思う。



途中に自然石に刻まれたこのフィールドの寄贈者の名前がありました。
学校の建物もそうですが、アメリカではこのように資産家は、
地域や出身校にグラウンド、あるいは校舎を寄贈して、そこに自分の
名前を刻むのをステイタスにすることがよくあります。

庶民でも簡単にできる「後世への名前の残し方」です。



この辺りの「中流くらい」のよくあるタイプの家。
ボストンの郊外でも結構経済レベルの高い地域のようです。
集合住宅がそもそもあまりないので、「庭付き一軒家」に住むのが当たり前。

加えてアメリカ人は衣食住のうち「住」を飛び抜けて重視しますから、
どこの家も外観や庭を情熱を込めて設え、手入れを怠りません。
芝生を刈るのは一家の主人の重要な役割となっています。



トレイルがどこまで続いているのか分からなくなったので、
一般道を歩いていくと、ウェルズリー高校(公立校)がありました。



道の反対側にはアスレチックタワーが。
高校のアクティビティで使用するために作られたようです。
アメリカの学校には必ずと言っていいほどこういうのがあり、
息子は前半のキャンプでもウォールクライミングをしたそうです。



また再びトレイルに戻り、角を曲がると
柵にとまっていた小鳥と目が合いました。



こっち見てますね(笑)
この小鳥の名前は分かりませんでした。

 

トレイルはこんな踏み分け道の部分もあります。
ブルックパス、という名前の通り、横を小川が流れています。
勿論護岸工事がされたようなのではなく、自然の小川。



右側が小川で小川の向こうが民家の庭です。
勿論庭に柵などありません。



1928年からここにあるらしい。
何なのかはわかりませんでした。

 

元々森だったところなので、至る所にトレイルとオープンスペース、
つまり車が簡単に停められて、湖などがあって、ピクニックも出来るような
空間がこれだけ残されているということです。

週末の朝には、「歩こう会」のようなイベントも催されるようです。



この辺ではスズメ並みにたくさんいる鳥。
これも名前は分からず。
何か御馳走をくわえているようですが、なんでしょうか。
空挺レンジャーで隊員の皆さんがかじっていたもののようですが。



逃げました。



さらに歩いていくと野うさぎ発見。
この辺は野うさぎがどこにでも生息していますが、大きさは
どれもだいたい掌に乗るか乗らないかのミニサイズ。



こっちにロックオンされたことに気づきました。



こういうとき、彼らはひたすら息をひそめてじっとしています。
それをいいことにそっと近づいていってシャッターを切りまくりました。



急に逃げたら追いかけて来られる、と思っているようです。
向こうもそーっと向きを変え、逃げる準備。



一旦立ち止まってこちらを確認。
この後文字通りの脱兎となってものすごい速さで走っていきました。

 

灰色リスが木の陰からこちらを窺っています。

 

ハイイロリスと同じところにシマリスの夫婦もいました。



トレイルはこのように緑のトンネルになっているところもあります。

 

ウォーキング中ではありませんが、ドライブ中にワイルドターキー発見。
一昨年、学校の帰りにこのつがいの写真を撮り、

「この鳥何だか知っていますか」

と聞いたところ、リュウTさんとmizukiさんに教えてもらいました。
バーボン好きならすぐわかるのだそうです(笑)

そのときとまったく同じ場所で同じ道路を横切り、
民家の庭に入っていきました。

「これ絶対付近住民に名前付けられてるよね」
「マーサとジャックとか」
「快適なんだろうね。なまじ森の中みたいに天敵がいないから」



さて、ウォーキングから帰ってきたある日、ホテルのロビーを歩くと
タップシューズのような音がするので靴底をみたら、
ナイキの独特のヒールの穴にちょうどいい大きさの石が
このようにはまり込んでいました。

この夏ここをあるいた記念に、この石は持って帰ることにします。




 


アメリカ東部のサマーキャンプ

2014-07-11 | アメリカ

ボストンに到着して早くも2週間が過ぎ去りました。
いつもいつも来たと思ったらあっという間に帰る日が来て、
さらに帰国したと思ったらあっという間に次の年が来て・・。

つまり月日の経つのがこのアメリカ滞在によって
さらに早く感じているのではないだろうかと思う今日この頃。

息子のサマーキャンプも最初の週が終わり、
次のキャンプを控えてホテルを移りました。

 

キャンプを行う学校はボストンの東部にあるウェルズリーで、
ホテルは車で20分くらい離れたウォルサムという町にしました。
キッチン付きのホテルというのは、アメリカでもありそうでなかなかないため、
場所とホテルの種類も限られてきます。 

今年はハイアットハウスという、ハイアットリージェンシーのコンドを
初めて利用してみることにしました。
本家のハイアットと比べると長期滞在客をターゲットにしているので
宿泊料もかなり安めです。

部屋は二つのコンパートメントに分かれており、このソファは
シートを取って下部を引き出せばベッドになるというもの。



メインの寝室には大きなキングサイズのベッドがありますが、
息子が大きくなってからはソファベッドを使っています。

日本の宿泊施設ではまず望めないこの広いキッチン付き。
下手したら分譲マンションのキッチンより広かったりして。

レイアウトも大変使いやすく、使いやすいキッチン。
手前のカウンターテーブルは
息子が勉強&パソコン机に使うことにしました。



アメリカのホテルは程度の違いこそあれ、モーテルでなければ
朝食がついてくることが多いです。

ここは、アメリカ式のバッフェ式朝食と、
月曜から金曜日までの毎夕、ちょっとした食事が出されます。
チキンブリトーとか、ピザとかをメインに、スープとサラダ。
どうしてもその日のメニューがいやなら部屋でご飯も炊けますし、
オーガニックスーパーで材料を買ってくれば味噌汁でも何でも作れます。
というわけで、食生活に困ったことはまずありません。

この写真は最初の朝、学校に行く前に朝ごはんを食べているところ。

向こうのテーブルに座っている母親と二人の女の子ですが、
ティーンエイジャーの長女はすらりと背が高く素晴らしいスタイル。
思わず見とれてしまうくらいなのに、お母さんは典型的な
アメリカの中年体型で、前から見ると顎もないくらい太ってしまっています。

でも、よく見ると二人はそっくりで、つまり30年くらい前は
お母さんもこのスタイル抜群の娘みたいだったのだなあと・・。
逆にいうと、この娘30年たてばこうなってしまうのか、と思われます。
ああ諸行無常。
なんともやるせない「ビフォーアフター」です。

アメリカ人ってある年齢から極端に太ってしまうんですよね。
まあ、食生活が食生活ですから、逆に言うとあんなものを毎日食べていて、
この娘さんのようなナイスバディを(瞬間とはいえ)
キープできるというのもすごいなあとも思ったりするのですが。



ラウンジの壁にあった飾り皿。

さて、今日は来週から始まるキャンプを前に、
オリエンテーションが行われるのでそれに参加します。



ホテルの周りは企業が多く、ホテルも乱立といった感じで立っています。
I-95というフリーウェイは文字通りフリー、無料です。
5車線ある広大な高速道路ですが、午後にはよく混んでいます。

高速脇に池があるので、このあたりにはガチョウが住んでいて、
よりによって朝の通勤ラッシュの時間、団体で道路を横切ったりします。

アメリカでは都市部でない限り結構よく見る光景ですが、
リスやタヌキが轢かれているのはよく見ても、
ガチョウが轢かれているのはいままで見たことがありません。
皆ガチョウの行進の時にはおとなしく通り過ぎるのを待つのです。

おそらく、故意に轢けば犯罪として罰せられる州法もあると思います。

かくいうわたしは今までリスが飛び出してきてブレーキを踏んだことが
2回ありますが、なぜか同じ日の20分違いの出来事でした。




冒頭写真は今回のキャンプ会場、ウェルズリーカレッジ。

この名前に皆さん、覚えはありませんか?

そう、あの蒋介石夫人、宋美齢が留学した大学ですね。
東部セブンシスターズといわれる女子大学の名門の一つで、
このシスターズがいずれも1800年代に創立されているように
ウェルズリーも創立は1875年。
いまだに合格率28パーセントの難関大学でもあります。

ちなみに全米最難関といわれているのはバーナード・カレッジで、
コロンビア大学と提携しています。

「ある愛の詩」で、主人公のハーバード大学の学生の恋人は
ラドクリフ卒でしたが、これもセブンシスターズの一つです。



息子には将来も全く関係のない大学ではありますが、
今回興味のある内容を備えたキャンプがたまたまここにあったので、
去年までのキャンプを1週間で切り上げて、こちらに
3週間参加することに決めました。

以前の学校からはボストンに向かって20分ほど戻ったところにあります。

なんといっても、この町はわたしの行きつけのブティックが
2軒もあり、滞在期間必ず立ち寄っていただけに嬉しい(笑)



歴史の古い町なので、町全体が「東部アメリカ」の矜持を感じさせるような
一種いかめしい雰囲気を持っています。
わたしはこういうのが好きですが、息子は西海岸の自由な雰囲気が好きで
こういうところは

「辛気臭くて好きじゃない」

そうです。

この石造りの立派な建物は、大学わきにある消防署。
左に回れば消防車の車庫があります。
昔の設備をそのまま使っているので、消防車はぎりぎりの大きさで、
ここの「ファイアーファイター」は、まずこの車庫に消防車を
こすらずにいれることが試練の第一歩ではないかと思います。



構内に入りました。
このロータリーに車を走らせ、子供をドロップオフ、
ピックアップします。



オリエンテーションの日は、いたるところでスタッフが待ち構えていて、
いちいち大げさな挨拶に始まり、握手をして、
手続きが行われる建物を案内します。



どこまで続いているのか、広大な緑のキャンパス。
どうも向こうの方には湖もある模様。



ホールには、貢献のあった卒業生の写真が掲げられていました。
1930ごろ卒業した日本女性の、着物姿の写真があり、
日本人として感動しました。



キャンプ期間中胸に下げるIDの写真を撮ってもらう息子。
当キャンプのイメージカラーはオレンジと紫のようです。



インターネットでメディカルレポートも送ったはずなのに、
なぜか「スクールナースに話を聞いてください」と
隣の部屋に行かされました。

「アレルギーがあるということだけど、どうやって日ごろ避けてます?」

みたいな当たり前の質問をされたので息子は

「食べない」

と当然の答えをしています。
それから、コンピュータをぱこぱこと叩いて、

「昨年、DPTの予防接種受けました?」

受けていない、というと、

「当キャンプは世界中から参加者がいるのですが、
それぞれの国の予防注射の規定と、マサチューセッツのは
少し違っていることもあります。
それでいうと、これは受けていないといけないのですが」

えー、今更そんなこと言われても。

「ここに、万が一のことがあったら責任を負う、
という文言を書いてサインしたらそれでいいですよ」

万が一って何かしら。
まあ、それでキャンプに参加させてもらえるのはわかった。
しかし、英語で教育を受けていないものの悲しさ、
こういうときに何をどう書けばいいのかわかりません。

「あの、何て書いていいのかわからないので書いてもらえます?
サインだけしますから」

白紙にまずサインをしてナースに渡すと、息子が情けなさそうに

「文章書く前にサインすんなよ・・・」

情けない母親でごめんよ息子。
でも、わたしの英語力でこれは無理だわ。



なんとかスクールナースから解放され、外に出ました。

 

このキャンプはウェルズリーの施設を利用して、オーバーナイト、
あるいは9時半終了のコースもあるのです。
9時半まで何しているんだろう・・・。

テーブルに、それらのコースへの短期参加に必要な
申込用紙が備えてあり、皆取っています。

オレンジのテーブルではスナックやフルーツが振る舞われていました。
小袋に入ったポテトチップスやクッキーなどです。



そして、この円形劇場のようなところで待機。
親はここで説明を聞くようです。
その間、息子は泳力テストを受けに行きました。





日陰に人が集まり、説明開始。
東部の学校なので、西海岸と違って圧倒的に
コケイジャン、白人の家庭が多いです。
西海岸ではうじゃうじゃいる中国人も、さすがにここにはあまり来ていません。

キャンプではどのようなことをやるかとか、ピックアップの方法とか、
だいたいそんな説明でした。

週末も希望すればトリップに参加することもできます。
ニューヨークに一泊して「オペラ座の怪人」を観る、というプランだそうです。

また、独立記念日の前夜には花火も行う、ということで、
息子に「行きたい?」と聞いてみたところ、

「別にいいや。俺アメリカ人じゃないし、どうせしょぼい花火でしょ」

しょぼいって・・。
まあ、世界一と言われる花火大会に毎年参加している我々としてはね。
っていうかそういう問題じゃないんですけど。


説明は早々に終わりましたが、そのあと「質問タイム」になりました。

皆さんにもお見せしたかった。
アメリカの親というのが、こういうときいかに張り切るか。


些細なことでも聞かずにいられないのか、もらった書類に書いてあることも
わざわざ手を挙げて聴く聴く。
一人の人が何回も手を挙げて、しかも手を挙げる人が一向に減りません。

せっかくの機会にできるだけ聴かないと損!という感じでしょうか。
こういうのを見ても、日本人とは違うなあと思います。




これだけ抑えていれば情報としては十分だと思われるのですが・・。

なんと、みんなと朝ごはんを食べるコースもあるようです。

子供のためというより、忙しい親のためにあるコースですね。

さあ、ここで息子はどんなキャンプ生活を送るでしょうか。
初日にピックアップした時、どうだった、と聞くと

「面白かった」

それだけ?ほかには?

「ご飯がおいしかった」

それは・・・・よかったね。 




 


古都ボストンにて

2014-07-04 | アメリカ

Happy 4th!

この時期街に出るとそこここでこんな会話が交わされます。
今日7月4日はジュライ・フォース。独立記念日です。
毎年この日にはアメリカに関することをお話しするのが常ですが、
今年は先週までいた古い町と息子のキャンプのことを書いてみたいと思います。


夏の間、我が家は1ヶ月をボストンで過ごします。

今年も6月下旬から10日間の間ボストンの西部にある
ウェストボローという古くて小さな町に滞在しました。

ここはもう10年以上夏になると訪れており、第2の故郷というくらい
なじみの深い一帯です。



滞在していたキッチン付きスイート。
安いので前半は必ずここに泊まっていますが、
来るたびに経費縮減の痕跡があちらこちらに見え、
なかなかアメリカのホテル業界も大変そうだと窺い知る
基準のようになっています。

たとえばコインランドリーの値段。
最初に来た年はクォーター3つ、75セントで洗濯できたのに、
だんだん25セントずつ上がって行き、今年はついに2ドルになっていました。
洗濯して乾かしたらそれだけで4ドルです。
しかも、3つあるうちの洗濯機の2つは「アウトオブオーダー」
の貼り紙が10日間貼られたままでした。

キッチンに備えられた食器は最初に比べると半分以下になり、
鍋に蓋も付いていないありさま。
キッチンのコンセントから電気は来ないし、インターネットは
無料だけど(アメリカでは必ず無料)異常に遅いし、
1ヶ月いるのなら気が狂いそうなところですが、所詮
何日間と割り切っているので、わたしはそれも含めて楽しんでいます。



車はこのときボルボでした。

当初オンラインで「GPS付きのプリウス」と頼んだのに、
やってきたプリウスにGPSが付いていません。

「プリウスにはGPSは付けられない」

というのが向こうの言うその理由。
そんなこと言われなかったら分からないんだから、
配車のときにちゃんと説明してくれるかな。

「1日14ドルプラスでこれを貸します」

と、携帯用の玩具のようなGPSを持ってきたので、

「いや、GPS付きの車にスウィッチしてください。
アップグレードでいいから」

(こういうときにはチェンジではなくスウィッチというようにね)
と可能な車種を聞いてみると、

「ニッサンアルティマ(ティアナ)、トヨタカムリ、シェビー、
ボルボってとこですかねー」
「ボルボは乗ったことがないから、じゃあボルボで」
「へいボルボ一丁!」

という流れでボルボに乗ることになりました。
インテリジェントキーだし、走りも悪くはないけど燃費が悪い。
1週間でガソリンが無くなってしまいました。
おまけにアメリカでもガス代の高騰は凄まじいもので、
20ドルいれても3割くらいしかタンクを満たせません。

これは失敗だったかも。




ちなみにこれがアメリカのいわゆる「ETC」、
E・Zパスの機械。(一応説明しておくとイージーパス。
先日雷蔵さんに聞いた84=AT−4みたいなノリ)

ゲートを通過するときにはこの引き出しをスライドして
このように開けた常態で通過します。


わたしが最初にアメリカに来た頃には、料金所には
大きな籠があって、そこにクォーターを2枚投げ込むシステムでした。
一度手元が狂って入れ損なったまま通過したとき、
後ろからパトカーが追って来るのではないかと怯えたのは
もう遠い昔の想い出です。




無人ゲートは紫です。
ボルボにスイッチして最初にゲートを通ったとき、
信号が黄色に点滅したので慌てました。

何と、引き出しの中にリーダーが入っていなかったのです。
車をUターンさせわざわざもう一度ハーツに戻し、そのことをいうと係員は
だまってダッシュボードからリーダーを出して取り付けました。

・・・・・・すみません、は?
ごめんなさいもなしですか?

接客業としてどうなのよその態度は。 

まあ、アメリカ人は絶対にこういうとき謝らない、
というのは知っていますが、(本当に謝らないよね)
やっぱりこういうことがあるといらっとせずにはいられません。

でも、取り付けて「これでOKだよ」にっこり笑った係員に、
ついつい
サンキュー、などと条件反射で言ってしまう、
美しい日本のお人好しなわたしです。



さて、高速に入りました。
前を走っているのは「ペン助」という名前の(漢字は当て字です)
トラックレンタル会社のトラック。
アメリカでは引っ越しのときにトラックだけ借りて
あとは全部自分たちでやってしまう人が多いのです。
 
走っているのはマサチューセッツターンパイク、通称マスパイクです。 



今日は1ヶ月だけ借りられるシステムでチェロをオーダーしたので
それを取りにいきます。
しかし、合流地点で急に渋滞が始まってしまいました。

週末渋滞です。

アメリカでは金曜になると皆午後の仕事を適当に切り上げて
そのまま週末のバカンスに出かけてしまううちが多いので、
この時間(3時過ぎ)になると幹線の高速はどこも大渋滞になります。

もしかしたらアメリカ人は金曜の午後、全く仕事をしないのではないか、
そう思われるくらいこの現象は全米どこにいっても同じで、
サンフランシスコなどは皆が同じ時間にブリッジから外に出ようとするので
街中にまで渋滞の尻尾が出来てしまうくらいの阿鼻叫喚となります。

そんなにしてまでバカンスに行くのかアメリカ人・・。

何時間か走れば保養地や海岸やキャンプ場など近隣にいくらでもありますから、
週末はとにかく町を出てそこで過ごすもの、とみんなが思い込んでいるようです。



合流地点の先はさらに渋滞が激しくなりました。
こんなとき大抵前に追突して事故を起こす人がいるのは
車社会のアメリカでもよくある話。
「脇見渋滞」で対向車線が混むのも日本と同じです。



高速を降りると、ちょっと気になる通りの名前が(笑)



到着しました。
このジョンソンミュージックという弦楽器専門の楽器屋は、
去年まで小さいところにあったのですが、引っ越しして
広いスペースで営業を始めたようです。

雰囲気のあるれんが造りの家は、おそらく築100年は超すでしょう。
地震のないボストンではレンガの古い建築物が多く残っています。
アメリカ人の常として、建物は決して取り壊さず、中だけを
リノベーションして使い続けるのです。

テレビの番組には、古いうちを購入し、全てを取り壊して
まるで新築のように内装を変えてしまう(階段さえも壊す)
「ビフォーアフター番組」が毎日放映されています。



チェスナット通り。
名前もおしゃれです。



商談室や練習室、楽器調整室などがいくつも設けられていました。
チェロは息子が小さくて分数楽器だったときには持っていき、
飛行機ではクローゼットに入れてもらっていましたが、
フルサイズになってそれが不可能になってから、夏の間だけ
月単位で借りています。

 アメリカならばこのようにオンラインで簡単に、
しかも楽器のグレードも「マスター」「エクセレント」「スタンダード」
と松竹梅とお好きなものを選ぶことが出来るというわけ。
こういうのがアメリカと言う国の合理的かつ文化的なところです。

ちなみに日本は文化的な国なので楽器を借りることは出来ますが、
お値段は大変高く付きます。
こちらで2ヶ月上級チェロを借りても140ドルくらいですが、
日本で2ヶ月借りればある楽器屋のサイトによると7万円くらいだそうです。

さて、楽器も手に入ったし、息子を迎えにいかねばなりません。
渋滞も始まったことだし早めに出発せねば。



信号待ちで停まったときの前の車。
よくメッセージを後ろの車に向けて貼っている車がありますが、
この人のメッセージは

「予防注射を強制しないで」

だそうです。
日本でもよくいわれていますね。
子供を持つ親なら一度は悩んだことがあるのではないでしょうか。
予防注射で子供を亡くした親が中心になっているグループと思われます。



この日の渋滞は、対向車線で事故を起こした人がいて、
その脇見渋滞でもありました。



隣の車から視線を感じてふとみると、見られていました。
まさか、シートベルトしている?

 

高速を降りるところにボーズの本社があります。
ボーズはボストンのMIT出身の科学者が作ったそうです。
武器製造会社のレイセオン(ファランクスを作っている)と並んで、
ボストンの企業としては最も有名です。



渋滞していたので道路脇の「不要品ポスト」を
撮ってみました。
アメリカにはところどころにこういうポストがあり、
洋服と靴だけを入れるようになっています。
わたしも過去このポストに買い替えて不要になった息子の靴や、
Tシャツ等を入れたことがあります。

教会等を通じてホームレスや施設の子供たちに配られるようです。



日本でもそうですが、いつも混雑する場所は同じです。
ここはこの先で2車線になるのでいつも混んでいます。





この辺りは湖が多いのですが、湖畔にこんな看板があります。
宗教団体だと思うのですが、自殺志願者に向けて

「自暴自棄ってやつですか?」

と聞いた上で(ちょっと違うかな)あなたの悩みを聞かせて下さい、
わたしたちが聞いて差し上げます、とあるのはいいのですが、
すぐその下で

「ボランティア求む」

悩みを聞く人、足りてないのかいっ! 

「あの~サマリタンズですか?」
「はいこちらサマリタンズ。声が暗いですね。お悩みですか」
「はあ、いや、仕事を首になって・・」
「気を落とさないで下さい!早まらないで!」
じゃなくて暇になったからボランティアでもしようかと・・」

同じ電話番号だとこんなやり取りにもなったりして。




はい、というわけで学校に到着。
ここは下級生の送り迎えに使われるロータリー。
息子も昔はここでした。
屋根のあるガゼボのような建物は、ロータリーを親の車が
ピックアップのために通り過ぎるのでそれを待つ場所です。 



遡ること一週間前の写真。

キャンプ開始の前の週末には恒例のバーベキューが行われます。
土曜日のお昼に学校に行けば、キャンプのスタッフが名簿を確認し、
その年の特製Tシャツが配られます。
息子はもうすっかりキャンプのディレクター(校長先生)とも
顔見知りで、むこうから声をかけてきてくれました。



アメリカ人は日向が平気なのですが、わたしたちは
迷わず日陰のベンチに場所を取ります。
日本のように湿気はないので、日陰に入るとひんやりしますが、
陽射しが強烈なので日向にいると肌がいたく感じるほどです。

向こうに見えている建物は、前にも一度このブログで紹介しましたが、
1867年に建てられたもの。
日本で言うと江戸末期ですね。
勿論今でも現役で学校の施設として使われています。




ここはボストンの中でも特に歴史があり、
全米でも最も古い学校の一つです。




この前で生徒達がカウンセラー(バイトの先生)と一緒に
親の車が来るのを待っています。



この学校に行くのは今日が最後。
最後のピックアップになります。
手前のアフリカ系は去年からのおなじみ。
車の中を覗き込んで、親のわたしにも「良い一日を!」
というのを欠かさない感じのいい青年です。



最後なので、息子にこの町の史跡を見せてちょっと歴史の
話(わたしが知っていることだけ)をしてやることにしました。

学校の裏には、この町の創設者の記念碑があります。



1727年にサウスボローは町として成立したという碑があります。
向かいに見えているのは学校の校舎。



これについても前に書いたことがあります。
「ハウイッツァー」と読むのだと思い込んでいたところの
「ハウザー砲」(Howitzer)。
日本語で言うところの榴弾砲です。 

学校と教会の間にさり気なく置かれています。




教会の前には町が出来たときからの古いお墓がそのまま。



アメリカの13独立州の☆がついたの国旗が立てられている墓石は、
独立戦争で亡くなった戦士のお墓で、墓石には
ヴェテラン、と書かれています。
もう字がすり切れて、読めるものの方が少なくなっています。



この一帯には墓所がたくさんあるのですが、そこに
新たに葬られる人はいても、この場所には
死者をふやすことはないようです。

200年前の死者の霊を祀るため、この一角は
おそらく永遠にこのままなのに違いありません。

 

学校のあるところはサウスボローという町で、
アメリカでも古い町の一つですが、この町のヴェテラン(戦争従事者)が
独立戦争の戦死者を顕彰して建てた碑です。 

1778年、というのは独立戦争も終結に向かっていた年ですから、
この近くの「レキシントンの戦い」や「タイコンデロガ」
で亡くなったのではないことは確かです。

こういうとりとめのないわたしの説明を、
実に気のない様子で聞いていた息子ですが、


「じゃ、最後だからウルマンズのアイスクリーム食べて帰る?」

と聞くと、急に元気になって

「食べる食べる!」



学校からホテルまでの道中においしいアイスクリーム屋さんがあるのです。
最後の食べ納めをしたいということで、お金を持たせて買いにいかせました。

この日はミントチョコと無難な選択でしたが、



別の日に買ってきたアイスクリーム。

なんなんだよこのいろいとりどりの物体は・・・。
文句の一つも言いたいところですが、我慢です。
お金を持たせて一人で買いにいかせたからには選択を尊重してやらねば。

ちなみにこれは「キディサイズ」つまり一番小さい子供用で、
4ドル25セント。
サイズも大きいですが(大人用はこれの2倍くらい) 
結構お値段もアメリカにしては高いことに気づきました。

でも、このアイスクリーム屋さん、いつ行っても大繁盛。




ちなみに、現金しか使えないのでATMがあります。
しかしトイレはありません。
テイクアウトも出来ません。



皆、車で食べるか、ここにあるテーブルに座って食べます。
ゴミ箱がホルスタイン柄ですが、



隣の牧場にいる牛はニュージャージー種です。 



町創設以来建っている町の教会。
アメリカの歴史とともに、あらゆる祈りが捧げられてきました。
独立戦争に始まり、あまりにも多くの戦争を戦って来た国。


その度、その戦いに身を投じる「ヴェテラン」を生み、
その度、碑石の言うところの


『Supreme Sacrifice』

最高位の犠牲、つまり命を賭けて戦った者への栄誉が与えられてきました。
その栄誉の影には、常に愛する者を失った涙と祈りがあり、
この古い教会は、200年以上もの間、それらの人々の祈りを受け止めてきたのです。 

それを今現在、目のあたりにしているという不思議・・。
こういう瞬間、わたしは今立っているまさにその場所を行き交う
いにしえの人々の姿を想像し、感慨に耽ります。

そして今、このときも、いずれは誰かの想像の中にのみ存在する過去となるのだ、
という想いに、しばし呆然と立ちすくむのです。



学校の近くの家ですが、去年は見なかったこのポスト、
白地に赤い丸がつけられ、玄関から見えるポーチには
漢字の額が飾ってありました。

新しく越してきた住人は日本人かもしれません。





 


ボストン到着~WELCOME TO AMERICA!

2014-06-21 | アメリカ

表面上は何事もなく30時間ごとの更新を行っている当ブログですが
(24時間ごとだったのを骨折以来6時間延長しました)
実はここのところブログ主は大変な毎日を送っていたのです。

文中でも少し触れましたが、恒例のアメリカ移住の時期を前に
朝霞の陸自駐屯地に遊びにいったり、会員特典を消化するため
都内のホテルに宿泊したり、国際免許を作りにいったり、
息子の学校行事に参加したり、大掃除したり、預かりクリーニングに
冬物やベッドカバーを全て出したり、そしてその合間に寸暇を惜しんで
エントリ作成したり、戴いたコメントと裏コメントに返事を出したり、
つい気晴らしに「陸上自衛官整理整頓ゲーム」をやってしまったりorz

特に毎年慣れているはずのパッキングを甘く見て今年は
3日前に始めたため 最後の最後まで4つあるトランクの蓋が
どれも閉められなかったり、とにかく遅々として進まないので
母としてなんとかギリギリ間に合わせました。

「今年は運転免許持ってるね」
「まさかESTAのの有効期限切れてないね」

まるで子供に聞くようにTOには念を押されて、(どちらも前科あり)
空港に着いてチェックインをしたところ、

・・・・・・わたしのESTAが切れてましたノ)゜Д゜(ヽ

「息子さんのは来年まであるんですが」

「去年切れてたので空港で手続きしたんですよ~」
「今年はお客様のが切れてます」

どうでもいいけど、どうしてESTAって2年置きなの。

「切れてることに気づかない方が多いです」

ならもう少し改善しようよ。
もういっそ国際免許と一緒で1年でいいじゃない。
それなら皆忘れないって。
などとつぶやきながら向かいのスターバックスで去年と全く同じ作業をしました。
時間に余裕を見てチェックインするって大事なことですね。

というかいい加減学習しろよわたし。



というわけで機上の人となりました。
航空会社は鶴丸飛行機。
ボストンまで直行する飛行機は今のところこれしかありません。
トランジットで時間がなく2年連続で空港を全力疾走した苦い経験から、
出来るだけ乗り換えをなくそうとしてこうなりました。



後ろの飛行機はAA、アメリカン航空です。



前のJALが飛び立っていきました。
機種が滑走路を向く直前に撮った写真。



去年もその前もこんなものを食べた記憶が・・・。
本当は魚の洋食を2人で頼んだのですが、良くある話で

「お魚は数が少ないのでお一人別のものにしていただけませんでしょうか」

と頼まれてしまったので、快く和食に変えてあげたのでした。
彼らとしても「あまりうるさくなさそうな」、
たとえばわたしみたいな母子2人連れなんかには言いやすいのか、
今まで何度か同じことを頼まれたことがあるのですが、
それはいいとして、
フライト中クルーが入れ替わり立ち替わり、
しかも忘れたころになってもなお、


「お食事の変更をお願いしてすみませんでした」
「変更をお引き受け下さいましてありがとうございました」

と言いに来るのです。
当然みたいにされたらそれはそれでちょっとサービス業としてどうよ、
ときっと思うでしょうけど、そんなに何度も謝られても・・。

JALの人、もし見てたらこのような場合、
フォローはせいぜい1回でいいと現場に言ってあげて下さい。




まあそれが日本の航空会社の体質というか いいところでもあるんですけど。



前にも写したことがありますが、この路線はずっと太陽が沈まず
水平線の上に出たまま浮いたり沈んだりしているのが見られます。
これが本当の「沈まぬ太陽」・・・・はっ、なんて不吉なタイトルを、
よりによって鶴丸飛行機に乗っているときに思い出したりするんだ。

飛行機の窓は二枚のガラスの層の間にジェルが挟まれていて、
その化学反応で暗くなるシステムのもので、
ずっと外の景色を見ることが出来ました。
ガラスが暗いだけで、実は外は明るいままです。




湖かなと思ったのですが、どうもまだ海の上のようです。

太平洋の上を飛んでいたとき、晴海で見送った練習艦隊が

今ちょうどこの下を航行しているんだなあと考えました。
後で調べたら、この日はサンディエゴを前日出航していて
南米に向かっているところだったようです。



どうも少し気味が悪い・・・。

機内で見た映画は「ホテル・ブダペスト」「レイバーデイ」(捕われて夏)。
あとはテトリスやってました(笑)

「ホテル~」のレイフ・ファインズ(シンドラーのリストのナチ将校)
「レイバーデイ」のケイト・ウィンスレット(ご存知タイタニック)いずれも芸達者。
特に「レイバーデイ」は不思議な印象を残す佳作だと思いました。




フライト時間は11時間。
2度目の食事は自分が食べたいときに個別にメニューから注文します。
和食が多すぎてほとんど残してしまったせいで、
適度にお腹がすいて美味しくいただけました。



ボストン上空にさしかかってきました、
こんな島にも必ず住んでいる人がいます。
白く点々と見えているのは個人所有のヨット。
東部のセレブリティが好んで別荘を構えたりするからで、
バナナリパブリックの社長もこんなところに別荘を持っていると
聞いたことがあります。




そしてローガン空港に到着。
降りたところに世界各国の旗が飾ってあり、
アメリカの旗と並んで日の丸がありました。
そういったウェルカムポスターは他にもあり、
アメリカ国旗を何カ国かの旗が囲んでいる意匠で、
その中には全てを圧するようば存在感で目を引く日本の旗が。



日本航空の出口なので当然かもしれませんが、日本語で
・・・・日本語だけで「ようこそ」と書かれています。
これも随分新鮮な感覚だなあと思いながらその理由を考えたのですが、
つまり、ないんですね。中国語と韓国語が。
滅多にこういう空間を日本で見なくなったということなのです。

そういえば田母神俊雄氏が

「日本国内の表示に簡体字やハングルはいらない、英語だけでいい」

と言っていたと思いますが、最近の両国語の公的な場所での増殖は
「ここはどこの国?」というほどです。
先日はついに「日本語表記のない日本の観光地」が報告されていました。
「ゴミを捨てるな」とか「紙はトイレに」とかの迷惑事案に関しては
表記してほしいという立場の人もいるとは思いますが、わたしも最近の東京は
明らかに「やり過ぎ」(しかも目立ち過ぎ)だと思います。 


これについては多くは言いませんが、ボストンで「日本語だけ」の表示を見て、
そして、日の丸以外の日本の近隣国の旗が全く無いポスターを見て、
理屈ではなくすっきりした気分になった、とだけ言っておきましょう。


さて、この後予約していたレンタカーをピックアップしたのですが、
去年まで工事中だった「レンタカーセンター」が完成したのはいいとして、
バスを降りた後荷物を運ぼうとしたらカートが全く無く、
合計6個+手荷物をレンタカーロットまで運ぶのに大変苦労しました。
暇そうな係員はただうろうろしているだけで、客が困り果てているのに知らん顔。
チップをくれそうな老夫婦に付きっきりの若い男(黒人)に

「カートが欲しいんですが」

っときいたら、

「 おーるごーん!」

の一言ですませやがりました。 

「ハーツはどこですか」
「この階です」

これも全くの嘘でした。
というか、従業員のくせにどこに何があるかも覚えてないのかその頭は。


イライラしながらもなんとか車に乗り込み、ホテルにチェックイン

・・・・・しようと思ったらフロントに人がいない。
「銀行に行ってます」

とお知らせの紙を残して。
通りかかった体重1トンのハウスキーパー、パトリックが、
電話でフロント係に聞きながらチェックインさせてくれました。
いわば入国するなり

「ウェルカム・トゥ・アメリカ!」

の洗礼を受けたというところです。
本当にアメリカ人って終わってるよ。 
まあ、パトリックはいい奴でしたけどね。

「長い間お待たせしてすみませんでした」

これが言える、しかもハウスキーパーはこのアメリカでは稀少種です。



さっそく食べ物を買いに「ホールフーズマーケット」に行きました。
この辺には中国人が少ないのか、スイカは無造作に外においてあります。
一玉800円くらいでした。安っ。

右側の袋はバーベキュー用のチャコールと薪です。
自動販売機のようにみえるのは、リサイクルするカン、瓶、
ペットボトルの自動回収機。
どうもすこしだけお金が返って来るみたいです。

部屋に帰ってテレビをつけてみました。



いきなり重傷を負った海兵隊員(右目が義眼)が
名誉勲章をもらったというニュースが・・・。
どこで何をしていて怪我をしたのかまでは分かりませんでした。



続いてフードチャンネルを。
これは実に不愉快な食べ物番組でした。
「マンvs,フード」という、挑戦ものです。

このすし屋は、なんとスシに赤唐辛子を仕込んだ激辛の
「ヘル・スシ」を客に挑戦させるというとんでもない店です。

店の名前が「神戸」という時点でオーナーが日本人ではないと
我々は
自信を持って言い切ることが出来るのですが、
さらにスシに赤唐辛子で「5倍」までの激辛味をつけるというのを見れば、

「ああ・・・」(察し)

でわかってしまいます。
というかもし日本人がそんな趣向で「ヘル・スシ」をするなら
使うのはまず間違いなく「わさび」でしょう。 


「目が回ってきた」

と言いながらただ辛いだけでおそらく味もへったくれもない
インチキスシを食べる挑戦者の横でお莫迦アメリカ人共と共に
「いえーいえー」と拳を挙げて踊っているのが、反日国の人間のくせに
日本人と思われたい「神戸」のインチキシェフでございます。 

そもそも本当に日本人の寿司職人ならば、しかも海外で、
こんな寿司を冒涜するような真似は死んでもしますまい。



挑戦達成のご褒美は「神戸」と書かれたTシャツ。
こんなシャツ、お金貰ってもいらん(笑)



おつぎは大量のカニの足を時間内に食べきる挑戦。



断言してもいいけど、この人は後10年以内に糖尿病になるか、
ハートアタックでぽっくり逝くか、胃がんにかかるとおもいます。



ホテルの部屋。

昨年改装を済ませ、
この一年の間に家具や空調も全部取り替えたようです。
猛烈に音がうるさくて寒くなるクーラーだったのでこれは嬉しい。





今年はプールとは反対側で、これも静かなので大歓迎。

この写真を撮ったときには夜の7時半くらい。
日が当たっていれば猛烈に暑いですが、陰るととたんに
空気は冷たくなり、今は寒いくらいです。

今年もこのボストンから一ヶ月、いつものエントリに加えて
時々は現地で見つけた物や事共についてお話ししていきますので、
どうかお付き合い下さい。

 

 



 


米軍基地ツァー参加記10~オネイダ号の悲劇

2014-01-23 | アメリカ




横須賀の米軍基地歴史ツァー、まだまだ終わってません(笑)
ようやくお昼ご飯が済んで、後半に突入しようというところなのですが、
お昼ご飯を食べた後の集合地になっている桜並木のゾーンには
気がつくとこのようなメモリアルがありました。

ご存知ですか?

「米艦船 オネイダ号の悲劇」を。

この碑には英文でこう書かれています。

 

USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

The USS Oneida distinguished herself during the American Civil War 
and foughtbravery in the New Orleans,Vicksburg and Mobile Bay Navel Battles.

It during the Mobile Bay Naval Battle where her heroic crew 
earned 8 Medals of Honor.

During the Meiji Restoration she served the best interests of the United States 
and the Emperor of Japan by having a part in putting down a Warlord uprising
near Osaka.

This is dedicated to the 115 Sailors and Officers of the USS Oneida whose lives
were lost in the service of their country.

May her legacy continue to inspire all Sailors;
past, present and future in the pursuit of freedom and international peace.

"Greater love has no one than this; to lay down one's life for his friends."

John 15:13

Memorial maintained by Yokosuka Chief Petty officer's Mess

Erected 2007

 
オネイダ号は、南北戦争始め幾多の功績を挙げた栄誉ある船でしたが、
1870年1月24日、滞日のあと東京湾を出航したとき、
横須賀沖でイギリスの貨物船「ボンベイ号」に激突され、その後15分の間に沈没しました。

碑の最後の言葉は、

「友のために命を投げ出すより偉大な愛:何物もこれに如かず」

ってとこでしょうか。
”ジョン”が、15:13に記した、おそらく最後の言葉。
最後を悟り、急いで鉛筆でしたためられた紙が遺体から見つかったのか・・。
ついそんなことを想像します。


水兵、海兵隊員、そして中国人を含む115人の全乗組員は死亡し、
そのうち回収された遺体はわずか3体だけであったそうです。
その三名のうちの一人が「ジョン」であったということなのでしょう。 



全員の名前が記されたモニュメント。

最後の言葉を残した”ジョン”が誰なのだろうと探してみたのですが、
この中にざっと見ただけで”ジョン”は1ダースいました。

さらに碑の右下には中国人船員の名前も一応記されているのですが、
名簿にも残っていなかったのか、名前を呼ばれる必要もないので誰も知らなかったのか、

全員がなんと、Ahという名前にされてしまっています。

Ah Wang 、Ah Tang 、Ah Chang・・・・。


「亡くなった人々の思い出に敬意を表し、また過去、現在、未来と、
歴史的かつ継続的な日米の協力関係を表すものである」

とありますが、少なくとも当時の中国人船員たちは「個人」としては
扱われていなかったってことみたいですね。


ともあれ、この碑が2007年に建てられたときには、なに人であろうと
その魂を悼むため、とにかくも彼らの名前は記されることになったようです。

海の男たちが安らかに眠らんことを。



集合時間を待っていると、時間差で前の団体が集合を始めました。
セーラー服の水兵さん二人が待機してます。



わがツァーも集合時間になり、全員が集まったところで

「米海軍軍人とのふれあいターイム!」

今まで何をするでもなくツァーの列にくっついて来ていた海軍軍人二人。
おそらくツァー客の狼藉がないかどうか見張る役目であろうと思われます。

見張りというと参加者もあまり気持ちがよくないだろうと関係者が気を回し、
彼らは、日米親善のために米海軍を代表して、日本人たちと交流を深めるため
こうやって付き添っている、ということにしたのです。たぶん。

つまりこのふれあいタイムは、アリバイ作りというか、ソフトな偽装!

・・・・・・・・・。

・・よい子のみんなはこんな裏ばかリ見る心の汚い大人になっちゃだめだぞー。



さて、ふれあいタイム開始。
真ん中にいるのが通訳で、これから参加者の質問を受け付けます。
ただし、

「政治的に微妙な問題に関しては質問は絶対にご遠慮下さい」

いたんですかね。
唯の見学のふりして参加し、いきなり

「イラクで罪も無い人たちを殺戮したカーティスウィルバーは
平和な日本にいるべきではありません」

とか

「憲法9条がある限り日本は戦争にならないのだからアンタたちは必要ない帰れ」

とか言い出した人が。

このグループは、撮るなと言われた写真を盗撮する人もいなければ、
(このツァーでは禁止だったのは自衛隊の潜水艦だけでしたが)
文句を言う人もおらず、カップル一組を除いては全員が時間厳守、
この質問コーナーでも、

「どうして海軍にはいったんですか」
「日本でお休みにはどうして過ごしていますか」

などの無難なもので、至極和気藹々のうちに終了しました。

そんなものかと思っていましたが、たとえ「米軍基地反対」と思っている人でも
日本人である限り参加する資格はあるのだし、
このツァーガイドのボランティアの皆さんの最大の苦労というのは、
実はこういう可能性にまで配慮しなければいけないということにあるのかもしれません。

あらためて、この方々の奉仕精神に感謝する気持ちになりました。






NEX NAVY EXCHANGE

基地に在留するネイビーたちの生活必需品、たとえば車とか家具とか、
日本での任務が終わって移動になるときに不要になるものを引き取ってくれて、
あらたな赴任者が必要なものを購入する、というシステムだと想像します。
日本人の留学生や赴任者も、同僚や知り合いの中でこういうことをしますが、
アメリカ人はこの点じつに合理的なので、それを業者が商売にしているのです。



ランチタイムが終わってまた移動が始まります。
先頭を切っているのが解説員の方。
解説員はここでも目立つ赤いジャケットを着用しています。



「サスケハナ」(Susquenhanna)

というのはどうも「佐助と花」みたいで、おそらく当時の日本人には
非常に親しみ易かったのではないかと思います。
我々の祖先が「黒船」と呼んだ ペリー提督のあのフネ、
あれが「サスケハナ号」だったんですね。

もともとはペンシルバニアを流れる「サスケハナ川」から取られていて、
その名はネイティブアメリカンの言葉で「広く深い川」の意味です。 

 

病院の看板を見つけました。

 

このときはサンクスギビング前でした。
ターキーのディナーをテイクアウトできますよ、という食堂のポスター。

アメリカ人が一年のうち唯一「食べ物」そのものにこだわるのが
このサンクスギビングかもしれません。
皆日本の盆正月のように郷里に帰って、お母さんの作った
ターキーやパンプキンパイのディナーを食べるのです。

アメリカから遠く離れたここ日本でも、故郷と変わりなくターキーを食べたい、
そんな海軍軍人たちにとって有り難いサービスかもしれません。 





さて、あまりにも前のことで前回の「米軍基地ツァー」

がどうだったか、もう皆さんは忘れてしまったと思うので、
一応繰り返して書いておくと、米軍軍人が利用するダイナーで
ドルを使用して中華もどきを食べ、その後、何を思ったか

「シナボン」

という、おそらく使用している角砂糖をそのまま横に並べたら、
本体よりも大きな山ができるのではないだろうかと思われるくらい
甘いシナモンロールの擂鉢山に果敢にも挑戦し、そして破れたエリス中尉。


ああひでえ目にあった、と水を飲みながら周りを見回すと、

そこには悩めるアメリカ海軍軍人の姿が。
雨が降っているのに傘もささず(あ、軍人は傘ささないんだっけか)、
濡れたベンチに座って何事かを考えている風。


何があったかしらないけど、思い詰めるなよお若いの。


 

 


米軍基地歴史ツァー9~ネイビーベースで昼食を

2013-12-30 | アメリカ

基地ツァーの解説は、横須賀市観光協会のボランティアの方々です。
全行程の米軍、そして歴史についての知識もさることながら、
ことカメラを持つと決していつも大人しく言うことを聞くわけでもない(らしい)
時として非常識な見学客相手を率いて、無償で奉仕する方々の熱意には誠に頭が下がります。

しかし、この「無償の行為」については、当ブログにも同じことが言えます。
この、人によっては「呆然とするほどの」長文を、毎日アップし続け、
しかもその代償どころか毎月サイト維持料まで払って何のためにやっているのか。

先日、当ブログを通じてご縁を戴いた方から、わたし、エリス中尉が当ブログ、
「ネイビーブルーに恋をして」を運営している「動機」
に関する考察を戴きました。

自分を表現したい、ということだと思うのですが、
自分を表現したい、という熱情だけではここまでには至らないのではないかとも思う

時々、激烈に、自分は生きている、ということを感じなければ
自分が自分で無い、と感じる人間もいる

そしてわたしがそういう人間の一人である、というご意見です。

自己表現。

それは全くその通りで、インターネットという言論空間で何かを発する人々の
動機というのは、わたしに限らず誰でも「自己表現」であると思います。

ネットという手段が無い頃は、自分の頭で考えたことと世間の接点は一方通行で、
ただそれをインプットするのみであったのが、今の時代はそれをアウトプットし、
同時にオーバーフローすることをリアルタイムで実感できます。
一言でいうとメディアが「インタラクティブ」に変わったのです。


つまりだれでもインタラクティブ・メディアを通じて自己発現が可能になりました。


たとえばこのgooブログだけで190万人以上が自己のブログを持っており、
毎日数百の単位で増え続けています。
ブログという媒体で何かを訴えよう
と思う人がここだけでもこんなにいるのです。

しかもその内容には法律的なもの以外の制限は何も無く、
いかに他愛も無い、稚拙な、あるいは低劣な、さらに常識派が目を背ける内容であってもOK。

そしてインターネット空間に「垂れ流された」情報には必ず受け手が表れ、
何らかの反応があります。


昨今ツィッターで始終自分の居場所ややっていることを報告し続けているうち、
それが「世界に発信されている」という自覚のないままにプライバシーや、
あるいは企業秘密の暴露、守秘義務違反などの法を超えてしまい、
文字通り「人生オワタ」になる若い人がいるそうです。

このことからツィッターは「バカ発見器」「バカッター」と言われることもあります。
つまりこれはたとえどんな情報であっても、必ず「どこかで誰かが見ていて」
かつ「それに対するリアルな反応が(良くも悪くも)ある」ということでもあります。


さて。
わたしことエリス中尉は 

「なぜ一文にもならない文にこれだけの熱意を注ぐのか」。

わたしと当ブログに対する考察を戴いた方は、

自分が何事かに感じた時に心が躍るのみならず、
他に共鳴者を得た時に、震度が格段に高まる人でおられるのではないか

とおっしゃいました。


自己発現の一手段としてのネットでの発言は、
ツィッターのように内容の如何を問わず、必ずなんらかの手応えがあるわけですが、
わたしは必ずしもその手応えが、「共鳴」とイコールであると思うほど
おめでたい考えは持っておりません。
しかし、一定の閲覧数や、エントリのツィートなどのソーシャルメディアの動きから、
「共鳴者」がいるのを察知することはできます。

わたしは一般人であり、世間的には無名の市井の一個人で、
しかも「エリス中尉」という架空の存在として発言している限り、

「実社会における自分自身をこのように思われたくて表現している」

という三次元的な欲望はそこにまったくありません。



一つのエントリを書くために勉強し、調べ、写真を撮り絵を描いて、
一方では読者の方と会話しつつ、そうやって作成したブログという
「自分の世界」がインターネットに生み出され外の世界と交わる。
そしてそこに「共鳴者の存在」を感じる。

それだけです。

考えようによってはこんな時間の無駄、あるいは単なる自己満足はないと思うのですが、
どうしてこの時間潰しの道楽によって、わたし個人が、
エリス中尉という架空の存在を通して与えられる喜びは、なかなかに得難いものがあります。

つまり金銭的には無償でも、精神は計り知れない充足を得ているというわけです。

ここで歴史ツァーのボランティアの方々の話に戻ります。
この日一日ツァーに参加して、
解説員たちの様子を見る限り、この方々も、
わたしがブログで得られるのと同じような充足をこの仕事の糧としておられるのではないか、
そのように感じた次第です。


・・・とここで終わってしまってもいいのですが、ついでに話を続けます。
(この『ついで』が、当ブログの長文の元凶なんですねわかります)





さて、ツァーは朝に始まりお昼を挿んで全行程約6時間(だったかな)。
ツァー参加者への注意事項として、

「決してツァーの列を離れて単独行動しないで下さい」

というのがまず一つ。
基地内にはこの看板のような、「オフリミット」、つまり立ち入り厳禁の場所が
いたるところにあって、うっかり迷い込んだら銃殺されても文句はいえない
というまではいかないまでも、スパイ容疑で拘束されかねないからですね。

それから、

「長距離を歩きますので、くれぐれも歩きやすい運動靴等を履いて下さい」

という注意事項もありました。
わざわざことわるだけのことはあって、この行程の移動距離は大変なものです。
団体でぞろぞろとあっちこっちを歩くので、決して激しい運動ではありませんが、
ボランティアの解説員は予定を時間通りに消化するという目的があるので、
どうしても先導が早足になってしまう傾向にありました。

普段身体を使っていない人なら、午後には脚が痛くて辛い、というレベル。
つまり、歴史を知り在日米軍の現状を垣間見ると同時に、

「身体を鍛えることが出来る」

という得難いイベントであるといえます。

さて、こんな基地の内部を(前を通れないなりに見ながら)午前のおよそ3時間を歩き通したあと
ボランティアが

「皆さんお待ちかねの昼食とさせていただきたいとおもいます」

といったときには、わたしも少しほっとしました。



今年の3月、まだ少し寒いころに「フレンドシップデー」に参加しました。
その頃はちょうど早咲きの桜が満開で、この芝生の地帯にたくさん出店が並び、
その合間をそぞろ歩く人々の頭上には花びらが舞っていました。

ここにある東屋で、今から食事をするフードコートについての説明を受け、
集合時間を言い渡されたのち約45分の自由時間です。



説明を聞きながらふと目に留まったのは・・・。
そう、防衛大学校の学生さんの姿。
誰に見られていると思っているわけでもないのに、姿勢がいいですね。
自衛官は総じて私服のときでも姿勢がいいのでわかる、と、
アニメ「レスキューウィング」で言ってましたっけ。

自衛官の方にこの話をしたところ、基地内に自衛隊の関連部署があって、
そこに用事でいくのだという話です。 
 
さて、フードコートに入ってみました。
雰囲気はまさにアメリカのフードコートそのまま。
このツァーの日は土曜日で、軍服を来た軍人よりも、彼らが家族で訪れ
昼ご飯を食べている姿を多く目にしました。

日本でもおなじみとなった「サブウェイ」などもあります。
わたしがアメリカに行った頃、つまり12年前は、信じられないでしょうが
東京都内でもまだスターバックスがこれから急増していこうという頃で、
禁煙のコーヒーショップというのがまだ珍しかったくらいです。

勿論サブウェイなど当時の日本には影も形もなかったので、アメリカで最初に
サブウェイの注文をしたときには、順番が来るまでドキドキしていたくらいです。
なにしろその頃は、こういう店で最初に聞かれる

「To go?」(テイクアウトですか?)

の一言の意味を知ったばかりで、テーブルのレストランと違い、
カウンター越しにぞんざいな英語で度々質問が飛んでくるこの対面式の飲食店は、
アメリカに行ったばかりの日本人にとってキョーフのひとときでもありました。

そのサブウェイで「野菜は何を入れますか」と聞かれたとき、
あまり何も考えず、

「All  vegetables please」

と言ったところ、無神経なアメリカ人にハラペーニョを入れられたことがあります。

今でこそこのハラペーニョも、特に都市部ではメキシコ料理が一般的になり、
これが「殺人的に辛いメキシコ唐辛子」であることをご存知の方も多いと思いますが、
当時は「JALAPENO」という単語もどう読むかわからなかったころで、
ましてやその破壊力など極東の日本にはまだ伝わっておりませんでした。

それはマイアミ旅行中のことです。
運悪くそのときうちの家長は、腰を痛めて移動中の車の中で動けないままでした。
わたし一人でサブウェイに食料を調達にいき、激辛のハラペーニョ入りと知らずに
車に戻り、まずお腹をすかせた息子に一口食べさせたら、彼は

「からい~!」

と大泣き。
本場物のハラペーニョは、まさに幼児なら火がついたように泣くくらい辛いのです。
勿論わたしもTOも一口食べて「うっ・・・・」。

以降、サブウェイでは

「ハラペーニョだけは入れないで下さい」

と断るのが習慣になりました。



何にしようかと思いましたが、日本でも今や食べられるサブウェイはやめて、
この「中華もどき」にしました。
これもアメリカでは「パンダエクスプレス」などの有名どころに代表される、

「やたら甘い酢豚みたいなものやソテーした野菜、プラスチャーハンかそば」

これらをチョイスするシステム。
金額によって選べる品数が変わります。

ところで、ツァーの説明によると、店員さんは日本語が通じるということになっていました。
この「マンチュー・ウォク」(wokは中華鍋のこと)に並んだ参加者は多く、
わたしの前後の人たちは日本語でオーダーしていましたが、残念ながら
店員さんあまり堪能とは言えない日本語の対応に四苦八苦しており、
わたしが英語で注文したらわりとほっとしていたように見えました。

そして、これも説明によると「日本円は使えます」とうことで、
わたしの前後はやはりお代金を日本円で払っていたのですが、
まずレジにレートを入力して、それからレジを打つので、時間がかかるかかる。
しかも返ってくるおつりはドル。

「おつりはドルで返ってきますのでご了承下さい」

そう言えばこんな注意もあったわね。
そんなこともあろうかとわたしは抜かりなくドルを持ってきているのよ。

「12ドル40セントです」

ふむ。
こんなときには住んでいたものの強みで、ささっと12ドルを札で、そして
クォーター1つ(25セント)に小さな10セントダイム、茶色い1セントを5つ。
瞬時にしてこれだけをトレイに並べたわたしに店員さん、

「Sorry, we don't accept 1-cent coin」
(すみません、ここでは1セント硬貨は扱ってないんです)

なんと日本では1セントは流通していなかったのか。
全てのモノの値段は切り上げか切り捨てなのね。
というわけで代わりに5セント硬貨を出しました。



オレンジチキンと野菜炒め、そしてチャーハンをセレクト。
お味は・・・
やたら甘い酢豚風チキン、妙にパサパサしたチャーハン、全く火を通さないブロッコリ、
まさにアメリカのショッピングモールの中華もどきそのままです。
ある意味ここまであのチープな味を異国で再現できるのはすごい。
シェフは天才ではないだろうか。

わたしがアメリカを懐かしみながら()この中華もどきを味わっていると、
隣のテーブルのツァー参加客が、フードコートの中の「シナボン」で、
冒頭写真のシナモンロールを食べているのに気づき、何となく

「それ、おいしいですか?」

と訊ねてみました。

空港でこの「シナボン」があると、辺り一帯がシナモンの匂いに満たされるのですが、
これまで一度も食べたことがありません。
食べなくても十分想像できる味ですし、日本人としての感性がその味を一度も欲しなかったからです。

ところが、この日、ツァー参加客がこの問いに対し「美味しいですよ」と答えたことで、
ふとこの「シナボン」を食べてみる気になりました。




外側からロールを剥がして、おそるおそる食べてみます。
一番外側からかなりの甘さで、それでもなんとか制覇しましたが、
上からたっぷりと得体の知れないクリームがかかっている中心部分に入ったところで限界。

結局外側を剥がしたところで状況終了です。
この擂鉢山は、日本人の状況制圧を断じて阻む手強いものでした。

結論:二度と食べない


 

 

続きます。


米軍基地ツァー参加記7~チェスター・ニミッツとペリリューの碑

2013-12-28 | アメリカ

横須賀の米海軍基地ツァーシリーズです。



パーキング棟の前にあったやたら立派な植え込み文字。

Ship

Rpair

Facility

アメリカ海軍の船舶補修施設のことです。
ドックを使用するような団体がこの辺りに集中してあるということですね。



「艦隊映画館」。
あまりにも寂れた雰囲気なのでもう営業していないかと思いました。
よく見たら映画のポスターがあるので、おそらく週末だけやっているのだと思われます。

手前の

SECOND HAND ROSE

というのは、

バーブラ・ストライサンド等も歌っているアメリカのポピュラーソングの題名で、
内容は、

家がセカンド・ハンド(中古ショップ)をやっていて、
小さい頃から服は勿論、靴も、パジャマでさえも違うイニシャルが入っているものを
着せられ、あだ名が「セカンドハンド・ローズ」になってしまった女の子。
指輪さえも中古で、結婚した相手はご丁寧にも再婚だった。
たまにめかしこんだつもりでリッツに行けば、「わたしのお古を着ているわ」と
他の女の子に指差して言われてしまう・・・

という悲惨なものなのですが、この「セカンドハンド・ローズ」
は時々アメリカのリサイクルショップの名前になっています。
ここのも間違いなく、米海軍基地内のリサイクル品を扱っているお店でしょう。
 

NAVSUPとは

Naval

Supply

Systems 

Command


つまり海軍補給部隊
補給科というのは地味な部署に思われがちですが、
実は補給というのは戦線に取ってまさに命綱であるわけで、
彼らもその使命に誇りを持っています。

その気概がよく表れているかっこいいNAVSUPのHP。
このページのウェルカム・ビデオで彼らのかっこよさを観て下さい。



消防車がサイレンを鳴らして行くのに遭遇しました。
消防車の仕様も日本のとは全く違います。
消防士もアメリカ人なのでしょうか。

車の交通に関しては、混乱を避けるため基地内でも左通行です。




おお、見慣れたアメリカの郵便システム、USPSのポストが!

 

オリエンタル、つまり日本やもしかしたら中国の製品のバザールがありますよと。
キモノや和風の家具などを日本在住中に買い求め、
本国にもって帰るアメリカ人のための催し?

このバナーにUSOとありますが、



United 
Service 
Organizations

つまり、アメリカ軍軍内部向けサービス機関のことです。
一時、息子がDJ風に

「ユー・エス・オー、USO!」

とか

「エム・アイ・エス・オー、MISO!」

となんでもスペルをいうのが流行っていたことがあり(というか今でも言う)
これを見るとどうしても「U・S・O、ウソ!」と読んでしまいます。


ところで、本日冒頭画像は、皆さんも薄々お気づきのように、

チェスター・ウィリアム・ニミッツ(1985~1966)海軍元帥の若き日の姿です。 



というのも、この基地内でこんな住所を見ましたもので。

いざ来いニミッツ・マッカーサー
出ないと地獄に逆落とし

なんていう面白い?歌(比島決戦の歌・西条八十作詞)が戦時中あったのをご存知ですか?
映画「日輪の遺産」では、この曲を「醜い歌」と言いたいばかりに、

全編に渡って8回くらい登場人物に歌わせ、げんなりしたものですが、
寄り道ついでにこの歌詞を挙げておきます。

決戦輝く亜細亜の曙 
命惜しまぬ若桜 
今咲き競うフィリピン 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし

陸には猛虎の山下将軍 
海に鉄血大川内 
見よ頼もしの必殺陣 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし

正義の雷世界を震わせ 
特攻隊の往くところ 
我等一億共に往く 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし

御陵威に栄ゆる兄弟十億 
興亡分かつこの一戦 
ああ血煙のフィリピン 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし

ニミッツとマッカーサー、この歌で並べられているのは「米海軍」「米陸軍」
と言いたかったからだろうと思われます。
実はこの二人、ミッドウェイ海戦のあと、太平洋に置ける指揮権を巡って

いずれもその全権を主張してかなり仲が悪かったんですよ。

その仲の悪さは子供じみてすらいて、マッカーサーはニミッツを
「ニーミッツ」と呼び
(ドイツ系の名前であることを強調する発音。アメリカ人がよくする『民族差別』)
ニミッツはニミッツで
マッカーサーの写真を執務室に置き、

「こいつの顔を見て謙虚になるべきだといつも自分を戒めているのだ」 

などと公言していたそうです。

日本もそうですし、陸海軍の仲が悪いのは世界的傾向ですが、
米陸海軍の場合はこの二人の不仲も多いに関係ある、とわたしは思っております。 



マッカーサーについては、日本人の一人として正直わたしは決して好意的ではいられませんが、
現在トミー・リー・ジョーンズがマ元帥を演じた「EMPEROR」(終戦のエンペラー)を観ているので、
この映画の出来によっては、またマッカーサー個人について見直す点もあるかもしれません。

しかしその人物功績に毀誉褒貶あるマッカーサーはさておき、ニミッツは、
戦後、特に日本人にとってはどちらかというとその名は好意的に取られています。


その理由の一つは、彼が 若き日に東郷平八郎に憧れたため、
戦後、戦艦三笠の保存や、東郷神社の存続に尽力した、ということにあるでしょう。




アナポリス時代のニミッツは、かなりのハンサム。
この制服を見てあっと思ったのですが、海軍兵学校の制服と
当時のアナポリスの制服はまったく上半身は同じだったんですね。
海軍は英海軍をお手本にしたことから、全てが英国からの輸入だと思っていましたが、
錨のマークの襟章とか、テープ式の前立てとか、

おそらくネイビーカラーであることも考えると、まさに瓜二つです。



冒頭写真は海兵隊時代の若きニミッツですが、任官後からもうご覧の通り。
のちに奥さんになる女性は彼を一目見て

「こんなハンサムな人は見たことがない」

と恋に落ちてしまったとか。

しかも愛妻家で、子供たちは喧嘩をしている夫婦を一度も見たことがなかったそうです。

わたしがニミッツという軍人に対し、イメージ的に好意を持ってしまうのは、
一体何故だろう、と今回改めて考えてみたのですが、
まずやはり前述の三笠に対する尽力の件でしょう。

日本海海戦にした日本は、戦勝祝賀会を行ったのですが、そのときたまたま、
少尉候補生であったニミッツが乗り組んだ「オハイオ」が横須賀に寄港していました。

その祝賀会に他の候補生とともに招待されて参加したニミッツは、

東郷平八郎大将を他の候補生と一緒に胴上げ

し、その後10分ほど当たり障りのない会話を楽しみました。




ちょうどそのころ、士官候補生のニミッツです。


東郷は若い頃イギリスに留学していましたから、その英語は流暢で、
アメリカ人が密かにコンプレックスをいだくところの「キングスイングリッシュ」。

おそらくですが、彼はこのことにも非常に感銘を受けたのだろうと思われます。
(たった10分の会談ですから、ファンになる理由なんて第一印象だけでしょう)

占領後の(他ならぬアメリカのせいですが)三笠の荒廃を知ったニミッツはこれに激怒しました。

自分の権限で海兵隊を三笠の歩哨に立たせ、それ以上の「東郷元帥の軍艦」への陵辱を防ぎ、

その後「文芸春秋」に「三笠とわたし」という一文を寄稿し、
その原稿料を、まず全額三笠の保存のために寄付することを表明します。
ポケットマネーを出しただけでなく、米海軍を動かして廃艦を寄付させて日本に運び、
そのスクラップ代を復興費の一部(それだけで2割くらいの予算になった)に充てさせることもしています。

「いざ来いニミッツ・マッカーサー」

という歌でしかその名前を知らなかった日本人が、こんな米軍人、
いや、アメリカ人もいるということを知ったきっかけが、この「三笠復興運動」だったのです。

「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」 

という、三笠復興記念に三笠公園に植樹された月桂樹の木に
添えられた文言は、おそらく本人の偽りのない言葉だったのでしょう。

そして、空襲で消失していた原宿の東郷神社の再建にも、晩年のニミッツは
東郷を偲ぶ文章を上梓し、印税をアメリカ海軍の名で寄付しているのです。
 

そういった断片的な情報が、詳しくは知らないままに、ニミッツ元帥への
漠然とした好意となっていたわけですが、最近、
パラオのことを調べていてここでもその名前を発見することになりました。

スティーブン・スピルバーグ監督で、トム・ハンクスが製作をし、大変話題となった
アメリカのテレビドラマ「ザ・パシフィック」が、12月31日に動画配信サイト
「HULU」で観られなくなってしまうというので、今集中的に観ています。
ご存知かもしれませんがこのドラマは、米海兵隊の太平洋地域での戦闘つまり

日本軍と戦っていた


アメリカ兵士(下士官)たちの、リアルな戦闘を描いたもので、トム・ハンクスは
ここで、かつて主演した「プライベート・ライアン」をさらに進化させた
「戦場のリアリズム」を表現したかったのかと思われます。

つまり、米軍兵士たちをヒロイックに描き、日本兵を醜悪に描くことで、アメリカ人の
贖罪意識から目を背けさせるような従来の戦争映画とは違い、
戦場での異常心理から残虐行為を行うアメリカ兵の真実もきちんと描いています。

もしHULUを申し込んでおられる方は、もうすぐ配信が切れるので(HULUは月一定レート)
ぜひ観てみて下さい。

さて、その「ザ・パシフィック」ですが、今ちょうどわたしが差し掛かったのが
「ペリリュー」。


大東亜戦争末期、日本軍はこのペリリュー島を、米軍のフィリピン侵攻の防御線として、
そしてグアム・サイパンの後方支援基地として死守していましたが、
米海軍は

「 マリアナの後、フィリピン、台湾を目指し、台湾を拠点として海上封鎖し、
アメリカ陸軍航空隊による戦略爆撃で日本を降伏に追い込む」

という計画を立てており、これを立案したのがニミッツ提督でした。

両軍は1944年9月15日から二ヶ月に亘って激しい戦いを行い、
兵力にも物量でも劣る日本軍は最終的に全滅します。
最後の万歳突撃前に、守備軍は玉砕を伝える

「サクラサクラ」

という電文を打電しました。

上陸前、米軍の師団長は

「このような小さな島であるから2・3日でかたはつくだろう」

と豪語したのですが、実際は日本軍の激しい抵抗に戦いは長引き、
アメリカ軍も多量の戦死、戦傷者、そして精神に異常をきたした者だけでも
8千人に上ると言う甚大な被害が出ました。

(『ザ・パシフィック』でその辺りをどう描くかが楽しみです)

このときに、ペリリューの島民に被害が殆どなかったことから、

島の男たちが日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時
「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に懇願したところ
「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂された。
今までの好意は偽物だったのかと落胆しながら彼らは島を離れる船に乗り込んだ。
が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。
若者たちその瞬間、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。
 


という美談?が生まれました。

これが事実であったのかどうか、今となっては確かめるべくもありません。

しかし、少なくとも戦後もペリリュー(今のパラオ共和国)の人々が、
日本という国を敬愛してくれているらしいことは、1982年になって、
ここに「ペリリュー神社」を日本が創建したとき、
パラオの人々がそれに多大な協力を惜しまなかったことにも表れています。

ペリリューの戦いで命を失った1万695人の日本軍将兵の魂を慰める
(おそらく日本人のことであるから、そこには米軍の戦死者も祀っているにちがいありません)
ために創建されたこの神社の境内には、このような文言の碑があります。


"Tourists from every country who visit this island
should be told how courageous and patriotic were
the Japanese soldiers who all died defending this island.
Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz"

この文章の出所は先ほどの島民の語る美談のように、長らく不明でしたが、
もと陸軍中佐で、戦後空幕長になった浦茂氏が、アナポリスを訪れ、
教官から「ニミッツの詩である」として、全く同じ文章を提示された、という話もあります。

いずれにせよ、これに類する資料は米国の公文書にあるわけではなく、
米国の公刊戦史に、ニミッツ提督の言葉としてこんな文章があるそうです


“ペリリュー島攻撃は、米国の歴史に於ける他の如何なる上陸作戦にも見られない、

最高の損害比率(約四〇パーセント)を出した。

既に制空、制海権を手中に納めていた米軍が、死傷者併せて
一万余人を数える犠牲者を出して、ペリリュー島を占領したことは、
今もって大きな疑問である。

━元太平洋方面最高指揮官C・Wニミッツ著『太平洋海戦史』より

○一行空白○

旅人よ、日本の国を過ぐることあらば伝えよかし、
ペリリュー島日本守備隊は、祖国日本の為に全員忠実に戦死せりと”

 

 

 

 


キャッスル航空博物館~カワサキ・ドローンとドローン・パイロットの憂鬱

2013-12-12 | アメリカ

KAWASAKI KAQ-1 DORONE

このカワサキKAQ-1ドローンを検索すると、英語のウィキでも
この、キャッスル航空博物館の映像しか出てきません。

もしかしたら、これが世界でただ一つ残ったカワサキ・ドローンでしょうか。

だとしたら、非常に貴重なものを実際に見たことになります。

ドローン、という言葉を今まで聞いたことがない、という方も、
「無人機」という言葉は、防空識別圏の一件以前にニュースで頻繁にお聞きになったでしょう。

何ヶ月も前のことになりますが、国籍不明の機体が尖閣諸島上空での領空接近を行いました。
空自の戦闘機がスクランブルをかけたところ、確認されたのは無人機。
後日、中国国防部の無人機であることが判明したものです。


それを受けて、防衛省は無人機が日本の領空侵犯をした際には撃墜すると発表。
とたんに、黙っていればいいものを中国国防部、防衛省に対し

「憶測が前提であり、意図的に挑発することが目的でアル」

と反発してしまいました。

憶測ってことは、中国は「領空侵犯してない」って言いたいわけですか?
だったら何もそこまで怖がらなくてもいいはずなんですけどね。


さらに語るに落ちて中国さんたら、

「日本が中国軍の無人機を撃墜すれば、戦闘行動とみなす」

あくまでも訓練活動というなら、領空侵犯しなきゃいいんじゃないかな。
安倍政権はそれに対し、

「脅しには屈しない」

と、毅然とした対応をすることを表明しましたが、当時はさすがの左巻きメディアも
「国籍不明の領空侵犯機撃墜」を批難することは、語るに落ちた中国の矛盾を
さらに肯定するに過ぎないと珍しく悟ったのか、これに関しては沈黙していましたね。

その後、国内で何が起こったのか、防空識別圏のいきなりの設定で
中国はアメリカ始め世界を敵に回して自爆してしまいましたが、
今にして思えばこの無人機問題あたりから、すでに中国内部では意見が分裂しており、
伝統の内輪もめもあって、今回最悪の選択へところがり落ちていったのではなかったでしょうか。


永世中立国のスイスは、第二次世界大戦中、領空侵犯する航空機を全て撃墜しました。
ときには連合軍戦闘機との空戦も行ったわけですが、
つまり何人たりとも我が国の領空に入ることは許さん、という原則を貫いたわけです。

海保の巡視船に体当たりした中国船の船長を、司法介入して釈放させたり、
「中国船に15カイリ以内には近づくな」と自衛隊に指令を出したり、
さらに尖閣領海に入ることを禁じたり、(自衛隊にですよ)スクランブルを自粛するように
要請したりするようなどこぞの人治政権とは違い、これが本当の国防です。

日本から民主党という人治政権が去り、
ようやく法原則に則って防衛権を行使する当たり前の状態に戻った途端、
中国がこのたびのように攻撃を始めた、というのは、いかに前政権の「配慮」があったか、
ということの証明となっているような気がいたします。

もちろんこういう前政権が秘匿して来たことについてマスコミはだんまりを決め込み、
今回成立した「スパイ締め出し法案」たる特別秘密保護法案では、

「今世の中では『ひみつのアッコちゃん』をもじって、
『ひみつのあべちゃん」という歌が口ずさまれている」

などという、反吐が出そうなでっち上げまでして、
何とか『独裁安倍』を印象づけようと必死です。

昔「わたしアベしちゃおかな」というでっち上げを流行らせるのに失敗し、
良識あるネット閲覧者の白眼視を浴びたと言うのに全く懲りておりません。
安定のアサヒは

「法案に反対なら記事にするからインタビューさせろ」

と東国原議員に申し入れたところ、それをツィッターで暴露されていましたしね。
全くマスゴミは、

恥を知りなさい。(三原じゅん子議員の声で)


さて、今日は無人機についてのお話です。

このカワサキKAQ-1ドローンは1950年代に生産開始ししました。
無線でコントロールする微塵機で、打ち上げられた後はパラシュートで降下してきます。

おもに対空砲や、空対空ミサイル(air-to-air-missle、AAM)の標的、
または偵察機などとしても使用されました。

ミサイルの標的なのですから、いくらパラシュートで降りてくるといっても、
使用後は必ず修理しなければリサイクルできません。
それに、クリーンヒットしてしまったら、回収しようがないですよね。

この現物が今現在、たった一機ここにあるだけなのも、ほとんどは
標的として消耗されてしまったからではないかと思われます。


ところで、このドローンは、アメリカ軍と自衛隊で使用されていました。
カワサキ製ですが、研究開発は防衛省です。

防衛省の公報に、「防衛省航空装備研究所」のHPがあります。

このHPの26ページを見ていただければ、1950年代から始まった
無人機の開発の歴史がまとめられています。

一番左端が、このターゲットドローン。

後は年代を追って、

VTOL(垂直離陸)の無人機、

遠隔操縦観測機、

高高度対空型無人機など。

今のところ最新式のドローンは、携帯型のものみたいですね。


確かに、無人機というのはパイロットがいないため、特に

領空を侵犯してでも適地を偵察したい

というような目的にはもってこいです。
人間が乗っていないのですから、たとえ捕獲されても、
どこの国のものか証拠は無し。
また、昔のように「標的機を間違って撃墜してしまう」
という、うっかりさんが起こす人的被害も避けられます。

もちろん、わが防衛省でも無人機をそういう位置づけて開発しているわけですが、
武器兵器では常に世界の先端を行くアメリカでは、
とっくの昔にドローンによる戦闘、つまり殺傷が行われているわけです。

この記事をご覧ください。

The Woes of an American Drone Operator


アメリカ軍ドローン・オペレーターの不幸、とでも訳しておきましょうか。

クラスでも最優秀で卒業した成功者は、ニューメキシコにある空軍基地の
「ドローンパイロット」とよばれる特殊部隊の任務に就く。
そして、何ダースもの人間を殺すのだ。
しかし、彼はある日突然、それを行うことができなくなる。


もう5年以上、ブランドン・ブライアントは、摂氏17度に空調された
トレーラーくらいの大きさの楕円形の窓のない部屋で働いている。
彼と同僚は、14のモニターとキーボードの並ぶ前に座る。
ニューメキシコの彼がボタンを押した瞬間、地球の裏側で誰かが死ぬ。


コンテナにぎっしりと満載したコンピュータは空軍用語でいうと
「ドローンの脳」だ。
ドローンのパイロットは空を飛ばない。座っているだけだ。

アフガニスタンの空を、8の字を描いて1000キロの高度で飛ぶ
「プレデター・ドローン」のことを覚えているのはブライアンだけではない。
彼の記憶によると、そこには土でできた平たい屋根の家、
山羊のための囲いが斜線のなかに見えた。
「撃て」の命令があり、彼は左手でその屋根を目標にレーザーを放つ。
彼の隣に座っているパイロットはヘルファイアー・ミサイル搭載のドローンを起動し、
その操作レバーに付いたトリガーを押した。

インパクトまで16秒だった。

スローモーションのようだったよ」

彼は言う。
ドローンに取り付けたカメラが人工衛星を通じて2~5秒遅れで
彼のモニターに映像を送ってきた。
7秒が過ぎたとき、地面には誰もいなかった。
そのときにはブライアンはすでに次のミサイルを発射していた。
それは三秒後に落ち、ブライアンは、あたかもモニターの画素が
一つ一つ数えられるかに感じられた。

そのとき急に、子供が角を曲がってきたんだ、と彼は言う。

彼の行った二回目の照準は、バグランとマザリシャリフ村の間で、彼の
「電脳世界」と現実が衝突した瞬間だった。
ブライアンは画面に閃光を見た。爆発だ。建物の一部が崩壊した。

子供は消えていた。

ブライアンは胃に悪寒のようなものを感じた。

「今殺したのは・・・・・・子供だよな」

隣に座っている男に尋ねた。

ああ、子供だったと思う」

パイロットは答えた。

それは子供だったか」

彼らはこうモニターのチャットウインドウに書き込んでいる。
そのとき、彼らが全く知らない誰かが、この世界のどこかの軍司令部で、
彼らの攻撃を座って監視していた。
そしてその人物はこう書いてよこした。

「違う。それは犬である」

彼らはビデオでそのシーンを見直した。

「二本脚なのに?」


このストーリーでインタビューを受けたブランドンは、ある日、
仕事の後に大量の血を吐き、ドクターストップを命じられます。
しかし療養生活から彼が仕事に復活することはありませんでした。
医師の判断は post-traumatic stress disorder
PTSDつまり心的障害です。

彼が空軍をやめることになった理由は、ある一日の出来事にありました。
いつものようにコクピットに入っていった彼に、同僚がこういったのです、

「おい、今日はどの間抜け野郎(Mother fucker)が死ぬんだろうな」

ドレスデンや東京爆撃のパイロットも、広島と長崎に原子爆弾を落としたパイロットも、
その被害を、つまり自分の手で殺した人間をその時は見ずに済みました。

しかし、動かぬ証拠としての被害を目にする頃には、その行為は

「自国を護るために行った英雄的な行為である」

という理由によって正当化され、それを以て彼らは心的外傷から自分を護ろうとしました。

ポール・ティベッツは「軍人だから同じことを命じられればもう一度やる」
と公言しましたが、それはそんなことには決してならないからこそ言ったにすぎません。

この言葉は彼が

「何十万人もの無辜の人間を殺戮した」

という事実から目をそむけ、彼自身の精神を防御しようとするシールドのようなもので、
それは、彼が生涯広島に訪れることは無かった、ということが証明していると思います。

いかに公言しようとも、ポール・ティベッツは、きっと、
一晩ならず苦悶に眠れない夜を過ごしたはずなのです。

まともな、善良な一人の人間である限り。


あるいは、自分が殺している人間を「ろくでもないマザーファッカー」や「人間以下のジャップ」
「殲滅するべき下等なユダヤ人」、そのように思うことによって
良心の呵責と「自分がろくでもない殺人者だ思うこと」から身を守ろうとする。


ブランドンのように精神をやられなかった者は、おおよそこのように思うことで
自我の崩壊から身を守ろうとするするもので、程度とやり方の違いこそあれ
これはすべての人間に備わっている自己防衛の本能というものではないでしょうか。


無人機による殺戮は、「殺人者が誰であるか」をあいまいにするどころか、
逆に自分の行っている殺戮を、全く安全なところでコーヒーを飲みながら仔細に眺めることになり、
そのため、昔の爆撃などとは桁違いの精神的打撃をパイロットに与えることになりました。

パイロットたちの精神的「敗退」がもっと大掛かりになってくると、
アメリカという国はそのうち「攻撃の意思決定」さえ、コンピュータにやらせようとするかもしれません。


そして、いつの間にかそのコンピュータたちは意志を持ち、
ある日人工知能を持つ存在が人間に造反し、
「ターミネート」(終結)させんと・・・・。




・・・・・あれ?

どこかで聞いたなこの話。








 




 


岩国海兵隊基地~F/A-18レガシーホーネット

2013-12-06 | アメリカ

岩国の海兵隊基地にご招待いただいたのは、
F/A−18ドライバーのブラッド(仮名)を夫にもつ、TOと同じ大学を卒業した妻、
アンジー(仮名)のお誘いによるものです。

見学者を案内して戦闘機を見せる、というのは、 自衛隊ではおそらく禁止でしょう。
しかし、それは自衛官から一般人に対する「個人的な利益供与」
を禁じるという観点からの規則になっていると思われます。

しかし全ての機体は国民の税金により賄われているわけですから、
日本国民である限り、わたしたちにはその実物を見る「権利」があるわけで、
自衛隊は大変な警備体制を敷き、全基地隊員を動員してでも、
定期的に航空祭などを開催し、広報活動として装備を公開します。

しかし、日本に展開しているアメリカ軍の軍人が、
日本人にこのような個人的便宜をはかることは果たして許されているのか?


今回の写真をアップするにあたって、まず考えたのがそれです。

インターネットを当たると、このホーネットの写真、山ほど出てきますし、
過去行われた岩国基地のフレンドシップデーなどのものもあり、
取りあえず機体の写真をアップすること自体はまずいことではなさそうです。

何事にも慎重なTOは
「ブラッドがもしこっそり見せてくれていたのだったら、立場が悪くなる」
と言うのですが、建前のないアメリカで、もし本当にダメなら、
最初から一般の日本人に基地を案内することからして禁止になるはずです。

そして今回、ブラッドは最初にわたしにこう言いました。

「撮ってはダメなところはそういうから、撮らないでね」

因みに彼が「ここはダメ」と言ったところは、

●整備のために機体から外されたエンジン。
周りをメカニックが囲んでいた

●ハンガーに入る経路

●シュミレータ棟の出入り口、その外観

●シュミレータ棟内部全部、勿論シュミレータは厳禁

●滑走路に駐機したオスプレイ(これはアンジーが言った)

以上。
「撮っていいよ」と言ったところは、つまり「機密ではない」と。
このように解釈しました。



そもそも、「絶対に秘密」という部分は、
このように立ち入り禁止になっているわけで。

これ、今更ながらに見れば見るほど怖いですね。
ここには一体何があるのか。
そして、もし入っていったら、どうなるのか。
スパイ疑惑で尋問はまず間違いないでしょう。



という殺伐とした?話題は置いておいて、
前回一項を割いてお送りした「部隊記念ボード」シリーズで、
ご紹介しそびれたハートウォーミングなこのボードをご覧下さい。

「俺たちイケてるぜ」感を出そうとするあまり、ついつい
中二っぽい方向へと突き進んでいる感のある最近の部隊章ですが、
そういう傾向に背を向けて、この部隊は・・・。

まるで黒板のような・・・って、これまさに黒板なんですね。
なんてシャレが効いてるのこのスコードロンは。

しかしずらりと並ぶ「生徒たち」の名前には・・・・
ん?

TACネームがない。

さらによくチェックすると、書かれた名前が、まず教頭先生が
「シャノン」。
女性ですね。

生徒たちは

ワンダ、クレア、ナンシー、キム、ローリ、ゲイル、ダイアン・・・。
お、「ヒデコ ナガイ」。

男性もいますが、ほとんどが女性です。
そこで真ん中の「部隊章」を見ると、

DODEA

Department Of Diffence つまり、国防総省がやっている
Education Activity、教育プログラム。すなわち
在外米軍の家族の教育のために基地にある学校。

シャレじゃなくて本当に学校の先生だったんですね。
失礼しました。



バーの片隅にあった不思議なゲームボード。
「これはなに?」と聞くと、実際にやってみせてくれました。
これはすなわち「ミニカーリングボード」。

向こうからカーリングを投げ、白い砂を敷いたボードの上を滑らせ、
横にあるブラシで滑走面を擦ってその行き先を調整します。
日本なら卓球テーブルを置くところですか。

そしてゲーム機と壁に挟まれて、やはり何枚もの部隊章が・・・。 



建物を出るときに通り抜けたボールルームには、
ハロウィーンパーティの準備らしき飾りつけが。



わたしたちはずっと全員がアンジーの車にのり、
ブラッドは自分の車で、二台連なってこのあと移動しました。

どちらも国産車で、アンジーの説明によると、こういう車は、
赴任が終わりどこかに移動が決まると、新任の誰か、知り合いなどに売っていくので、
いずれも何万円単位で手に入れたのだと言うことです。

そう言えば我々がアメリカにいたときも、その年に卒業して日本に帰る人から
安く譲り受けた車に乗っていました。
そのトヨタカムリには、どでかいへこみ傷があって、前の持ち主は、

「これはわたしたちがつけた傷ではない。前年度の誰それだ」

と言い訳していましたっけ。

このときも岩国は雨が降ったり止んだりで、わたしたちは傘をさしましたが、
ブラッドはご覧のように軍人ですから傘無しです。

「制服じゃないときくらいさせばいいのに、ささないの」

とアンジーは呆れていました。
でも、軍人に限らずアメリカ人は、
よっぽど土砂降りでないとささない人が多いんですよ。

雨傘でもそうなのですから、日本女性なら夏の必需品である日傘など、
きっとものすごく奇異な目で見られるでしょう。



決定的瞬間。

と言うほどのものでもありませんが、

ハンガーに続く回転ドアの向こうから出て来た女性下士官が、
士官である(大尉です)ブラッドに敬礼した瞬間。
アンジーの陰に隠れて見えませんが、ブラッドも敬礼しています。

このドアは、ご覧のようにIDカードを指したあと、
一回転しか動かないようになっています。
つまり、カードを持っている本人しか入れない仕組み。

こう言うときどうするかというと、ブラッドが一回カード挿入、
一人突入、またカード挿入、もう一人突入、という具合に
人数の分だけその作業を繰り返して全員を中に入れてくれました。



全員が中に入ったので、最後に自分のためにカードを入れるブラッド。

一旦入った人間がなんども繰り返しカードを使う、
ということに関しては、問題はないようです。

そして、このゲートをくぐり終わってから、まず最初にブラッドの

「しばらく写真禁止ね」

という注意がありました。
そして、ハンガーの中の確か4機のホーネットを見せてもらい、
説明を受け、むき出しのエンジンを撮らないようにもう一度言われてから、

「こっちから向こうのは撮ってもいいよ」

言われて撮ったのが冒頭の写真。
因みに、うちの(軍)モノを知らないTOは、わたしに

「スーパーホーネットなんだって」

と前もって言っていたのですが、これはスーパーホーネット、
つまりライノといわれるF/A-18E/Fはなく、F/A-18の、
いわゆる「レガシーホーネット」です。

余談ですが、この人は、一応米国の、ちっとは人に知られた大学を出ているくせに

ときおりとんでもない単語を間違えたり知らなかったりします。

ましてや軍事関係の、すなわちわたしの詳しい分野においては、日本語であっても
時々とんでもないことを言い出して驚かせてくれるのですが、 
アンジーがこの岩国行きについて彼とやりとりをしていて、

「彼のスコードロンは11月には別の基地に行ってしまうので」

という一文を書いて来たところ、それをわたしに伝えるときに

「アンジーの旦那さんの飛行機って、ホーネット以外にも別の愛称があるみたいよ」

(しかも覚えていないし)と言ったくらいです。


「あのー・・・スコードロンって、飛行中隊のことなんですけど」
「初めて見たもんこんな単語」

うーん、確かに 

squadron

という単語は、航空機の愛称と言われればそんな感じがしなくもないが・・・。
メガロドンの烏賊バージョンのことだと言われても信じるかもしれないなこの人は。


さて、そんな「一部」モノを知らないわたしの連れ合いの話は置いておいて、
スーパーホーネットと、レガシーホーネット、どこで見分けるのか。



「一緒に撮ろうよ」

と、見かけによらず愛想のいいブラッドが言ったので一緒に撮ってもらった写真。
携帯の待ち受け画面にしたい写真ですね。しませんけど。
急に言われたのでマフラーがほどけてだらんとしているままです。

ブラッド大尉とエリス中尉はともかく、そのうしろ、
ホーネットのエアインテークの形を見れば、これが「スーパー」ではなく
レガシーの方である証拠に、楕円をしているのがわかります。

この変更は、ステルス性を高めるためなのだそうです。

あと、ライノとレガシーの違いは機体の大きさ。
全長が17.07mから18.38mへと1メートルも延長されたほか、
レドームや翼も一回り大きくなっています。


ここにある機体は2000年に海兵隊のものとなり、以降は生産されていず、
「最後のレガシー」ということになるのでしょうか。



複座なので、このタイプはF/A-18Dといいます。
この、全体のバランスの割に翼が横に張っていず、
この角度から見ると凄く翼が短く見えるのは艦載機だからだと思われます。

複座というのはパイロットと後席にもう一人が乗務します。
現代の戦闘機は仕事が多いので、二人1チームで役割を分担するのです。

映画「エネミーライン」で、スーパーホーネットが地対空ミサイルを避ける際、
後ろの航法士が操縦士に指示を与えるシーンがありましたね。


ここで相変わらずどうでもいいことが気になるエリス中尉、ブラッドに、

「ペアを組むのはいつも同じ人?」
「いや、いつも違うよ」
「こいつだけは合わない、とか嫌な奴、とかいる?」
「いないよ~(笑)」



機体にはこのようにパイロットの名前とTACネームが書かれます。
ベイルアウトのための装置ですが、ブラッドによると、

「ベイルアウトするときには、同時に熱線でコクピットが爆破されるから、
脱出そのもので失敗することは絶対にないけど、
そもそもベイルアウトするということはもう終わり(That's it)のとき」

終わり、つまり脊椎損傷とか・・・どちらにしても、一生に一度あるくらい。
なぜならそのあとは死ぬか動けなくなるかってくらいのことだから、とのこと。


そう言えば昔、隣国空軍の少将だかなんだかが、自分で脱出レバーを引いて、

自分自身をラストチャンスのときに打ち上げた事件がありましたが、
今にして思えばよくこの人無事だったですねえ。

こんなことをしでかしておいてその後現役で元気に仕事をするなんて、
(しかも学校の校長だったらしいので、士官に訓示をしたりとか)

そんな恥をさらすくらいなら、軍人としてこのときに再起不能になっていた方が
ずっとましだったのではないか?

と人ごとだと思って簡単に言ってみる。



エアインテークの専用カバーには、
部隊の印コウモリ君と稲妻のワンポイント入り。

カバーをつけたまま飛んだりしたら、どうなるかはわかりませんが、
少なくともエアーがインテークしないわけだから(当たり前だ)、
たぶん飛行機は落ちると思います。

というわけで、飛ぶ前に、というかエンジン始動前に絶対これ外せよ、
という警告を、目立つ赤いリボンに書いてつけてあります。

こんなもの忘れる人はいないだろう、と思うでしょうけど、
案外人はとんでもないミスをしてしまうものですからね。

ピトー管のマスキングを外すのを忘れたまま離陸した民間機が
それが原因で自分の機位を見失い、墜落した、という事故もありましたし。
(アエロペルー機墜落事故)



で、またまたいらんことが気になるエリス中尉、
このペイントを見て

「どうしてこんなに薄い色なの?
やっぱり相手から識別し難いように?」

と聞いたところ、意外な返事が。

「灰色のペンキは安いんだよ」

「灰色のペンキは安いんだよ」


「灰色のペンキは安いんだよ」



・・・・本当か。


米軍よりもっとお金の使えない(はずの)自衛隊機が、

赤いペンキで日の丸を描いているのに?

この話を音楽まつりの日に同行していただいた元自衛官にお聞きすると

「それは、嘘ですね」(きっぱり)

そうなの?
全く真面目な顔で言っていたけどなあブラッド。
からかわれたの?わたし。


やっぱりこれはわたしの予想通り、ステルス性のためなんでしょうね。


あと、機体に乗り降りするはしご。
写真は撮れなかったのですが、
コクピットの外にはしごを出してぐいっと引っ張ってのばすだけ。

科学の粋を集めた戦闘機(レガシーだけど)でも、
どうでもいいところは思いっきり原始的でした。




エンジンの周りにいたメカニックの一番偉い人(士官)に、
ブラッドが頼んでシャッターを押してもらいました。

ホーネットの鼻先が写ってないけど、まあいいか。



続く。




 

 


岩国米海兵隊基地3~「白人航空隊」とトガリネズミの謎(NHK問題少々)

2013-12-05 | アメリカ

海兵隊の戦闘機ドライバーであるTACネーム”ハップ”ことブラッドに、
岩国海兵隊基地を案内してもらっております。

士官用のバーの壁を埋め尽くすほど掲げられた部隊章。
というか、このアメリカ軍特有の彫刻されたこの看板ですが、
正式名称は何なのでしょう。
ご存知の方おられますか?
相当する単語がどう検索しても出てこないので、先日から困っています。

今日もこの彫刻されたボードの話に終始しそうなので。

ところで、冒頭画像、凄いでしょう。



一富士戦鷹三なすび。
禁止マークが空母らしきシルエットに被せられてるのはなぜ。

戦鷹ってボード下部の「ウォーホークス」の直訳なんですね。

ところで昔、戦闘機操縦者のことを、日本軍というのは「鷲」と称したじゃないですか。
「荒鷲」とか「海鷲」とか、「陸鷲」とか。

そのなかでも学徒飛行士官のことを「学鷲」(がくわし)なんて言いましたけど、
なんとも言えず無理矢理な感じの言葉ですよね。

この「戦鷹」も「せんたか」?
と読めば読めないこともありませんが、見た目はともかく妙な語感です。
アメリカ人だから別に語感はどうでもいいのだと思いますが。



 

前にも書いたように、海兵隊のシンボルアニマルはブルドッグ。
そのブルドッグが甲冑の兜を被っています。
ブルドッグの上下には「サムライ」「ブシドー」。
犬の足元の白い部分には、分かりにくいですが「侍」と漢字が書かれています。

そして、下の標語ですが・・・なんて訳しましょう。

「チクショー!俺らイケてるぜ」・・・とか。

イケてるのはわかったけど、たぶんこれ、飾りの飛行機が取れちゃったんですね。

 

右から二番目のが、有名な「レッドデビル」。 
レッドデビルズのトレードマークですね。


"アメリカ海兵隊岩国基地は2012年3月17日に、
第232海兵戦闘攻撃飛行隊(VMFA-232)レッド・デビルズが、
カリフォルニア州ミラマー海兵航空基地から岩国に到着したと発表しました。
VMFA-232はF/A-18Cホーネットを約10機装備する約200人の部隊です。"


というニュース記事が見つかりましたが、赴任する航空隊って何年かで交代するんですね。 
このボードによると、その10年前にもレッドデビルズはここ岩国基地に赴任していたようです。


 


これはほかでもないブラッドの部隊であるVMFA(AW)-242。
もう14年前の部隊なので、もちろんブラッドの名前はありません。
その頃、現在28歳のブラッドはまだアメリカ南部に住む中学生で、
「将来はエンジニアになりたい」と夢見る優等生だったそうです。

このボードの仕様は、「海中に投下された瞬間の爆弾」かな。





CH-46シーナイトの部隊、HMH263。
ヘリ部隊のボードで、こんな凝ったのはこれだけでした。

この部隊なんですが、
「SHITPANTS」なんてとんでもないTACネームをつけられてしまった人がいます。
 これは酷い。
隊長は「ハリウッド」がTACネームで、ファミリーネームが「シズル」(SHIZURU)。 
もしかしたら日系アメリカ人かもしれません。

そこでふと気になったのですが、今回ここで海兵隊ドライバーの皆さんや、
あるいは過去のチームの写真などを見ると、メンバーは見事に全員コケイジャン、
つまり白人男性(海兵隊のパイロットには女性もいますが彼女も)なんですね。
名前を見るとアングロサクソンとイタリア系、ドイツ系でほとんどを占めています。

たとえば



この十字軍をモチーフにした力作の中隊ですが、

パワーズ、ベル、ゲイトリー、グリフィス、ジョンソン、キング、ワッツ、マッカーシー。

このような典型的なアングロサクソンネームの中に、

カウファー、ショーンベック、ハウツ、のドイツ系、
オルセンの北欧系、
アンドラスのスペイン系(メキシコではないと思われる)

と、見事なまでに白人系国らしい名前が並びます。
おかしいなあ。
「アイアンマン」とか、アフリカ系が白人部隊の隊長になっている、
という映画はいくつも観たような気がするんだけど・・・・(棒) 

差別とかなんとかいうより、はっきりと「住み分け」って感じですね。
「アメリカに制度上人種差別はない」
という建前でも、有色人種がルーツのアメリカ人があえてここに入ってくることがない、
という厳密なラインが引かれている、といった感じ。

閉め出している、のではなく、最初から皆「入ってこない」と言った方がいいかな。


ここで、少し恒例の時事問題を語ってしまうわけですが(笑)

少数民族にごね得の特権を与え、それを「逆差別だ」と糾弾すると、
メディアがこぞってそれをレイシズムだと非難する昨今の我が国ですが、
白人国家というのは最初から可能と不可能がはっきりして、
ここから先は絶対にダメ、というオフリミットの「聖域」があるんですよね。

どんなに運動神経が良い黒人でも水泳選手にはならない、とか。

ヨーロッパだと乗馬競技にアフリカ系はいはい、とか。

これらをいちいち「差別」だと騒いでいたら、世の中の伝統的なものは
すべてその形を変えざるを得なくなってくる訳ですが(相撲のように)、
「差別」以前に、この分野は絶対に「外国人」を入れるべきではない、
ということって、国家という枠組みが存在する限りどの国にもあるはずなんですよ。

すなわち政治であり、教育であり、報道です。



先日の国会でNHKの経営体質や偏向報道が俎上に上がり、維新の会の議員が、
外国籍を持つ職員がNHKには何人いるのか、と訪ねたところ、NHKは

「把握していません」

と答えたのですが、たちまち三宅議員に

「そんなわけあるか!」

と一喝されていましたよね。
帰化した職員であっても違う国民の立場からはその報道姿勢に影響が出るのは当然で、
どこの国の放送局も、通常職員には国籍条項が設けられているはずです。

が、日本ではそうではない。

外国籍を持ったままの人間が日本の政治や歴史番組に関わることができるなんて、
そんな異常なことが許されているばかりか、その実態を糊塗しようとする公共放送局。
これははっきりと異常事態であり、国会でこれが取り上げられたことは、
画期的な第一歩ではなかったかとわたしは思っています。

先日「JAPANデビュー問題」について一項を設けましたが、
あの裁判が敗訴したのと同時にNHKは、

「テレビの有る無しに関わらず全国民から視聴料を徴収する」

という盗人猛々しいとでも言うべき傲岸な方針を提出した、
というニュースを耳にしました。

三宅議員の

「不払いしているのは払えないとか勿体ないからではなく、
NHKのその体質や偏向報道に対し『払う価値がない』『払いたくない』
と考えている人がほとんどだと思いますよ」

という言葉に、深く頷いたわたしです。
国民全員から課金?
よくぞヌケヌケとそんなことを言えたものだ。

三宅議員が言うように、NHKは一度解体して職員を全員日本人にしてから出直すべきです。

 

相変わらず、ちょっとしたネタから時事問題に流れ込んでしまう当ブログですが、
次に参ります。

凝っているような手抜きのような。
槍に太平洋地域の同盟国と部隊旗をつけただけ。




戦闘機のノーズアートのノリですね。
この夏、あちこちの航空博物館でこのノーズアートをもつ航空機を観ました。
いちど、ノーズアート展をやる予定です。

で、セクシーポーズの女性が描かれたノーズアートが多いのですが、
どれもこれも、酷いんだなこれが。

もう少し絵心のある人がせめて一人くらい部隊にいなかったのだろうか、
と絶望的になるようなブサイクな女の人ばかりで、
こんなので搭乗員たちは「やる気」が無くなったりしなかったんだろうか、
と心配になるくらいです。



アップにするとさらに酷い(笑)
「セクシーさ」だけはなんとか伝わってくる気がしないでもありませんが。




テーブルにこの部隊記念を彫り込んだ例を前回お見せしましたが、これを見て驚け。
なんとドアに直接彫ってしまいました。

超大作なんですが、この時には一体何を表すのか全く分かりませんでした。
この写真をまじまじみてもわかりません。

「これ、どこの地図だと思う?」

頭が柔らかく発想のフレキシブルなはずの息子に聞いてみると、



「こうじゃない?」

おおおお、さすがはダテに若くはない。
やっぱり若いって素晴らしいですね。
彼は、これが環太平洋の地図であることを南アメリカの形からわかったそうです。

で、これ、例の「ブラックシープ」の部隊記念ボードなのですが、
地図にいろんなことが書かれてあって、



SOMEDAY WE HOPE TO SEE HERE
「いつの日かここを見たい」

いやだからここあんたらの基地ですから。

VMA-214航空隊、通称ブラックシープの本拠基地はアリゾナ。
矢印はここを指しています。
何のことはない彼らの故郷なのですが、「帰りたい」を
こういう風に言うのがマリーンコーア流。
 
ONE OR TWO DAYS HERE
「一日か二日ここで」

はい、ここはハワイですね。
ハワイでの休暇。一日二日じゃすまない気もしますが、
彼らの言う「一日二日」は、ここに海軍基地があることを指しています。 
 

HOPEFULLY WAKE HERE 
「ここで起きられたらいいな」

これ、意味が分からなかったんですよ。
で、その辺りをグーグルマップで探してみたところ。

WAKE ISLANDが・・・・。

ここを旧日本軍は「ウェーキ島」と言っていたようですね。
大東亜戦争中、ここは日本軍が占領していたのはご存知ですか?
そのときの名前は「大鳥島」となっていました。

あまり知らされていませんが、実はこの「ウェーク島の戦い」で、
日本軍は勝利し、この島を終戦まで統治していました。

ここで海兵隊の彼らがわざわざここをポイントしたのは、
ここで海兵隊が日本軍と戦ったからだろうと思いますが、
ここに駐留していた日本軍が補給を絶たれどんな悲惨な目にあったか、
それを考えると、日本人に取っては実に暗い気持ちにさせられる場所です。

ウェーク島の戦い




WE SAW IWO JIMA HERE
「ここで硫黄島を見た」

はいそうですね。
我々日本人はよく知ってます。
「父親たちの星条旗」にも描かれた、「海兵隊の6人」は、
あの戦闘のみならず第二次世界大戦の最も有名な写真となりました。 
 

TOO MUCH SOREX HERE(沖縄)

A LITTLE HERE(変だけどたぶん九州)

これは悩みましたよ。

なんでこんなものを解明するのにこんなに悩むのかって話ですが。
そもそも、写真が鮮明でないため、これがSODEXなのかSOREXなのかわからないのですが、
もしSOREXで合っているとすれば、これは「トガリネズミ」。



かわいいじゃないかおい。
ドアのところに置いておいて、靴の泥を落とすブラシみたい。

たしかに沖縄にトガリネズミ、いるらしいですけど、
なぜここにわざわざ書くことかわかりません。
考えられるのは、沖縄には海兵隊の基地があるので、これが何らかの隠語で、
それを指しているということ。

そして、なぜか、九州を指して

「ここに少しいる」

 これはもしかしたら佐世保の海軍基地のこと?
 トガリネズミが何の隠語か、ご存知の方おられたら教えて下さい。

あ、ちなみにこのトガリネズミが、お母さんを先頭にして、
小ネズミが連なって歩く「キャラバン 」は萌え死に必至っす。

JAPANESE WILD ANIMALS←ご参考までに

そして、

NOT ENOUGH OF HERE
「ここには十分でない=
居足りない?」


どこに居足りないかというと・・・グアム
グアムにもあるんですよね。マリーンコーアベース。

ブラッドはこの直前までグアムに行っていたらしいですが、
家族同伴が出来ないので、奥さんは岩国でお留守番。

「ちょっとしたリゾート地だから一緒に行けたら良かったのにね」

そんなことを言っていましたが、
他のマリーンコーアたちもここでは「長居したい」と思うようです。




その他、ドアに彫り込んでしまった大作にはこんなのもありました。







昔のボードは、実に地味です。
だんだん仕様がエスカレートして来てるんですね。



ボードでは飽き足りなくて?鳥居のレプリカを利用した中隊も。
だからそこは看板を掛けるところではないと何度言ったら(略)

貯金箱のようにお金を入れるスリットがないかと探してしまいそうです。




じゃーん。

これを見ていただきたかった。
これは、海上自衛隊製作の、第8航空隊の寄贈。

ドイタカシ、コウシンスミオ、ヒラタアキフミ、
クラモトケンイチ、フジタミチカズ、

これらの歴代司令(コマンディング・オフィサー)の名が書かれています。
(鷲さん、もしかしたらどなたかご存知ですか?)

飾るところが無くなって、床の近くにかけられているのが残念な感じではありましたが、



まあ、こんなことになってしまっていますし、年々増えていくわけなので、
飾る場所に文句は言えないかもしれませんが。

そもそもこの岩国基地の海兵隊には、
第1海兵航空団の第12海兵航空群が駐留していますが、
ブラッドの部隊であるVMFA (AW)-242以外の部隊は、
基本的に6ヶ月のローテーション配備が行われているため、
時期によって岩国基地に所属する飛行隊が変わっていくわけです。

で、その駐留ごとに一枚ずつこの看板が増えて行く・・・・と。 



さて、ここを出て、わたしたちはいよいよハンガーに。
ブラッドの愛機であるF/A−18戦闘機を実際に見るときがやって来たのです。

続く。

 


横須賀米軍基地ツァー4~百年前の景色

2013-12-03 | アメリカ

さて、昨日はついつい米軍つながりで時事問題を語り始めたのはいいとしても、
それだけに留まらず、民主党政権下、日本の議員に手引きさせて米軍基地に入り込み、
基地司令からネガティブな言葉を引き出したうえ、それを一方的な記事にして、
侮辱したいだけ日本を侮辱しただけでなく、おそらく共産党の意を受けて日米離反工作、
ついでにジョージワシントンの機密を何とか盗もうとしたに違いない中国人の書いた記事に
つい我を忘れてしまいました。
(説明っぽいな)

基地主催のフレンドシップデーには、一般人であっても日本人以外立ち入り不可だというのに、
反日中国人をわざわざ米軍基地に送り込んだ売国議員。
この議員は、おそらく民主党が政権を取ったとき、
小沢一郎にくっついて
「朝貢外交団」として中国で「接待されて来た」
にわたしは100人民元賭ける。

しかし、我々がが思う以上に民主政権下では日本は「危ないところだった」ようですよ。

民主党福山議員「機密文書が34000件も無断で破棄されてるんですよ」 
自民党小野寺防衛大臣「34000件のうち30000件は民主党政権で無断で破棄されてました」 
民主党福山「・・・・」

なんて、ブーメラン戦隊ジミンガーシリーズのネタも最近ありましたし、
何と言っても内閣府の「中の人」からつい先日伺った証言によると

「民主時代には見るからに人品卑しからぬい悪相がいるはずのないところにいた」

そうですからね。
人は見かけではない、といいますが、一目でわかるものもあるってことですよ。


こんな話をし始めると、またもやエントリのスケジュールが進みません。

今日は出来ればその話題にならないようにいきたいと思います・・・が、
昨日ワンポイント解説した韓国の防空識別圏拡大の件で、
こんな続編が飛び込んできました。


韓国「・・・防空識別圏拡大したニダ
日本「どさくさにまぎれて中国側じゃなくて日本側に拡大してんじゃねーかコラ♯」
アメリカ「何してんだ韓国! 皆が何で中国非難してるのかわからんのか」
世界「何しれっと中国と同じことしてるんだよ」
  「空気読めや」 
中国「 中立を守るとか言ってたアルな。どちらにつくつもりアルか」
アメリカ「そもそも防空識別圏の線引きしたのって誰だと思う?それは、わ・た・し!」

韓国「ガクガクブルブル」 

なーんかキャラがはっきりしすぎ。
中国=ジャイアン、日本=のび太、韓国=スネ夫、アメリカ=きれいなジャイアンで。




911同時多発テロのモニュメント。


「ビルディング倒れるとも、自由はいまだそびえ立つ」

どこかで聞いたなあと思えば
「板垣死すとも自由は死せず」ですね。

アメリカから遠くはなれたここ日本の米軍基地で、彼らが事件をどのように見、
どのように心を痛め、どのように悼んだのか・・・。
中には親族や知人が犠牲になったというアメリカ人もいたかもしれません。

右の黒曜石の二本の柱は、倒壊した貿易センタービルです。
モニュメントが五角形をしているのは「ペンタゴン」でしょうか。 





古めかしい建物の前に金色の錨が。





ここは昔、横須賀工廠の庁舎として使われていました。

横須賀工廠は幕末にここに建設された「横須賀製鉄所」が源流です。
このツァー参加記でもお話しした、フランス人技師ヴェルニーの総指揮によって
日本はここに近代化の足がかりとするための製鉄所を設け、
その後1871年(明治元年)に「横須賀造船所」と改称されました。
日本の軍備拡張が本格的になったため海軍省の管轄下におかれ、
この地で軍艦の建造・修理を中心に稼働しました。

ここにある「1号ドック」はこのときに完成。
当ブログでも以前お話しした初の国産軍艦「清輝」は、
この5年後、1876年にここで竣工されました。


黒船を作ってしまった日本




現在は米海軍の「CPOクラブ」となっています。

CPOとは「チーフ・ペティ・オフィサー」、つまり下士官のこと。

軍組織というのは階級によって立ち入る施設がはっきり分かれています。

将校と下士官、そして下士官と兵というのも厳密にその間に線が引かれ、
例えば旧海軍では、士官がその妻に、

「下士官の妻と親しくしないように」

とわざわざ言い渡すほど、個人的な交わりは禁じられていました。
軍隊という組織の指揮系統が「情」で乱れるようなことがあってはならないからです。

これは世界的なスタンダードです。
我が日本国自衛隊においても士官と曹、そして士の施設はきっちり分かれています。






こう言っていいのかどうか分かりませんが、わたしは「建築物」
という観点だけで考えた場合、ここが米軍のものになって良かったと思うのです。

アメリカに住んでいるとよくわかりますが、アメリカ人というのは一般に
一旦建った建物はよほどのことがない限り、そのまま手入れをして長年使い続ける、
という文化を持っているので、このように100年前の建物でも、
外壁はしょっちゅう塗り替え(ペンキ塗りを趣味にする人も多い)、
中は
定期的な改装を繰り返します。

新しく家を買って、そのまま何も改装せずに住むということは

彼らにはまずあり得ないことで、自分好みに全て(しかも業者を頼まず)作り替え、
自分らしいインテリアを作り上げることにこだわる人が多いのですが、
だからこそその「入れ物」である家については、築何年であろうが気にしません。


ここも、現存する往時の建物のおかげで鎮守府時代そのままに時間が止まったようで、
だからこそ我々日本人は、歴史ツァーなどと称してわざわざそれを見に行くわけですが、
彼らにしてみれば、「相手に敬意を払って」などという特別の意識ではなく、
「アメリカでも普通はそういうものだから」
建物を使い続けているに過ぎないのだとわたしは思います。




もしここが日本の、私企業などの所有地になっていたら、
たちどころに古い建物は新しく建て替えられ、

しかもそれが耐久性がないので建て替えのサイクルも早かったでしょう。

「アメリカ軍で良かった」と言うのは、つまり、

100年経った今、戦前と同じ景色を見ることができるのも、
アメリカ人のこの住居に対する慣習のおかげであると思うからです。






こういう壁の飾りも、おそらく建ったときのままなのでしょう。

年月がその彫刻をぼやけさせ、線を不明瞭にしても、決して手を加えず、
ペンキでトリミングまでして保存しています。

江田島の海軍兵学校の建物は、アメリカは占領後使うことを予定していたため、
決して建築物を破壊させなかったそうですが、この横須賀鎮守府も、
どうやら米軍は占領後の軍施設にしようと計画していたらしいですね。



昔は国旗掲揚台だったのではないでしょうか。




倒壊する可能性があるから近寄れないようにしているのでしょうか。

この不安定な碑は、横須賀工廠の建物が関東大震災で倒壊した後、
新たに作った新庁舎が完成した記念に建てられました。

柵越しに見えるレンガの部分は、建物に使われたのと同じ素材。
このレンガはフランス人が作ったとのことで、黒い黒曜石の部分には
フランス語で

année 1871


と書かれ、上には「明治明治辛未年建」と彫られています。



今にも倒れそうで、危険なのはこれを見ても分かりますが、
補修などの手をつけるわけにも行かず、仕方がないので
日本人なら絶対に作らないような無粋な柵を設けたように見えますね。

件の中国人記者ならこういうのを見ても

「アメリカ人が日本を軽蔑している証拠」

と嘲るのでしょうが、これはどちらかというと、

「こういう領域にはできるだけノータッチでいる方が無難」

というアメリカ海軍の配慮であるような気がします。




手前の建物はアメリカの駅などで良く見るタイプ。
向こうの立体駐車場とこの売店らしきのに挟まれて、
海軍工廠時代の庁舎は未だ健在です。



建物は100年前と同じですが、こんな人たちが闊歩することになろうとは。
海軍工廠や横須賀鎮守府の人たちがタイムスリップしてこれを見たら、
さぞかし驚くでしょうね。

それを言うなら、

「中国が日本を侵略しようとするのをアメリカの恫喝で食い止めている」

という今の世界情勢を見たら、彼らはもう一度憤死してしまうかも。


横須賀米軍基地ツァー、まだまだ続きます。


 


岩国米海兵隊基地潜入記2~”マリーンズベースで昼食を”

2013-11-21 | アメリカ

なんだかハンバーガーの写真が続くなあ、と思われた方、あなたは正しい。
アメリカ人と言えばハンバーガー、ハンバーガーと言えばアメリカ人。
先日の横須賀ネイビーバーガーに続き冒頭を飾る本画像は、岩国海兵隊ベース、
オフィサーズレストランで出されている本格的なアメリカンバーガー。

実際にアメリカで食べるハンバーガー、サマーキャンプが始まる前とか、
仲間が集まってするバーベキューのハンバーガー。

わたしはこれ、実は結構好きです。


某マクドナルドのハンバーガーなどはっきりいって食べ物だと思っていないので、

この人生で思い出せるほどしか食べたことがないのですが、
あれとはまた違うんだな。この「バーベキューのハンバーガー」は。

まず、 パテが固い(笑)。

なぜ固いかというと、おそらくですが、ネイビーバーガーのレシピと同じく、
パテの肉がビーフ100%だからです。
それにお好みにもよりますが、レタスの葉っぱ一枚、
トマトのスライス一枚、なまタマネギの輪切り、スライスチーズを乗っけて、
ケチャップとマスタードを付けて食す。
バンズは、勿論のこと真っ白でフワフワした、あれ。
カロリーだけは高く、栄養素などほとんどなさそうな、つなぎとしてのパンです。

はっきり言ってケチャップやマスタードがなければ食べられたものではないのですが、
これにピクルスなども挿んで豪快にかぶりつきすべてを一度に味わえば、
何ヶ月に一度は食べたくなる、くらいの味にはなるのです。 


さて、前回、岩国空港でアンジーと落ち合い、海自の売店でカレーを買い、
P3−C(正確には違うけど)の基地を横目で見ながら、
ベース内のオフィサー専用レストランまでやって来たところまでお話ししました。

アンジーの説明によると、F-18ドライバーのブラッドは土曜日、しかも雨が降っているというのに、
(雨が降っているから、という説もありますが)シュミレーターに入っているとのこと。

うーむ、さすがは戦闘機パイロット。
お休みの日もトレーニングをかかさないのだわ。

「あとであなたたちにも(こっそり)やらせてあげるっていっていたわよん」

ほ、ほんとですかー?
いや、わたしに戦闘機パイロットの適性があるとは全く思ってないけど、
それでもちょっとならやってみたいじゃないですか。

ブログネタにもなるし。 

というわけで、ブラッドが来るまでの間、レストランでランチを食べながら待つことにしました。



JDのグリル。という、実にアメリカンぽい佇まいのお店です。
ここはドレスコードがあるらしく、このような表示がありました。



何でもないですけど、これ、結構シリアスなんですよね。
後半の文によると、あなたがたは一人一人がアメリカ合衆国の信用を担って
日本にいるわけだから、いつも日本勤務のときは一人一人が大使のつもりで
プライドを持って欲しい、みたいなことを、基地司令の名で厳命しています。

シャツをタックインしないときは、シャツは裾がちゃんとまっすぐにカットされていて、
外に出して着るようにデザインされたものならOK、だそうです。



どっちかっていうとこっちの方がアメリカではよく見るような気がするけどな(笑)

ちょっと面白いので全部訳してみますね。

●緑、白、茶のユニフォーム用の下着、あるいは下着用にデザインされたTシャツは、
ユニットのロゴが有る無しに関わらず、適切ではなく、禁止です。

●タンクトップタイプのTシャツ、袖のない『マッスル』シャツ、スケスケのメッシュやネットのシャツ、
アメリカンスリーブ(肩が大きくえぐれている、あるいは無いホルタータイプ)、
チューブトップ(肩の無いトップ)は不適切です。

●淫らだったり刺激的、挑発的なトップス、露出が多くお腹を見せるデザインのもの厳禁。

●タンクトップ、ダブダブの大きな服、カットオフスリーブ(袖をハサミで切ったもの)禁止。

●カットオフしたショーツ、短パン、水着は問題外。

あとはおのおのの写真に「正しくなく被った帽子」とか「ベルト無し」などの禁止理由が。
アメリカではまるで夏の間の国民ファッションのような「シャワーシューズ」、
つまりビーチサンダルもここでは「シャワーシューズ」とされ、禁止です。

これははっきりいって普通のアメリカ人には結構厳しい規則かも。
夏の間ボストンやカリフォルニアで見る人たちって、ほとんどは下と同じようなスタイルなんですよ。


「ここはアメリカじゃないんだからくれごれも気を遣えよ、
俺たちそれでなくても
色々と見られているんだからさ」という軍上層部の声が聞こえてきそうです。



メニューはほとんどアメリカのレストランと同じ。
・・・というかアメリカのレストランなんですよねここは。

「エイジアン・フェイバリット」のコーナーには焼き飯、野菜炒め、
そして「トラディッショナル・ヤキソバ」が。

オーダーを取りに来たのはフィリピン系のおばちゃんでした。



飲み物を聞かれたので、アメリカ人がよくやるようにアイスティーを注文。
アンジーも同じものを頼みました。
日本ではあり得ない大きさのグラスに注がれたアイスティを、
お砂糖を入れずに飲む人(特に女の人)が多いのです。

彼女が「ピクルスのフライ、食べる?」と聞くので、
そんな食べ物は初耳だった我が家全員は「は?」
ジョージア出身の彼女ですが、南部では非常にポピュラーなのだとか。
お母さんが作るような料理ではないそうですが、どこのレストランでも食べられるそうです。
彼女の好物だというので、来たのをつまんでみました。



ピクルスを小麦粉で挟んで揚げてあります。
ピクルスそのものが加工品なのに、さらにそれをフライ・・・。
確かに日本にもたくあんをコロッケに入れたりする店がありますが、
はて、これは面妖な。

しかしね。これ、なかなかいけましてよ。
ピクルスの歯触りをかりっとした衣で包んでいるので、ビールのおつまみに最適。
ピクルスが好きではない、という人もこれなら食べる、かも知れない。

冒頭のネイビーならぬ「マリーンコーアバーガー」は、TOが頼みました。
なぜかアメリカでは蓋をする前の状態で持ってこられることが多いです。



息子が頼んだサーモン・テリヤキジャパニーズ風。
ライスの上に照り焼きを乗っけるあたりがアメリカ。
この、醤油を使った甘い「テリヤキ」ソースが彼らは大好きです。
スーパーでは普通に「テリヤキソース」が売っています。
大抵チャイニーズが作ったもので、「何か違う」って味なのですが。

息子が「これ美味しい」と盛んに食べていました。



わたしは日本ではあまり食べられないターキーハムのクラブハウスサンドイッチを。
必ずベーコンとハムというダブル攻撃で来られるので、
わたしはこっそりいつもベーコンを外してしまいます。
外したベーコンは息子が食べました。

こう見えてものすごいボリュームがあり、わたしは半分食べてギブアップ。
ウェイトレスが、「テイクアウトしますか?」と聞いてくれたのですが、
持って歩くわけにもいかないのでお断りしました。



日本独特の缶ミカンを使用したココナッツ・チキンサラダ。
アンジーとブラッド、どちらもこれが好きだそうで、彼女はもうすぐ来る夫のために、
これを注文してあげていました。

いろんな話で盛り上がっていると、隣のテーブルが食事を終えて立ち上がり、
しきりの上からアンジーを見て声をかけてきました。
全員見るからにパイロットの雰囲気。
アメリカ人のパイロットって、身長制限は無いみたいです。
これは、ブラッドと同じスコードロンの同僚だわ!と判断したエリス中尉、
耳をダンボにして彼らの会話を聞き取ろうとしたのですが、
どうも同僚はブラッドのことを「ブラッド」と呼んでないんですね。
で、わたしが話が全く読めないまま会話は終わり、彼らは行ってしまったのですが、
アンジーに「彼らはブラッドのことなんて呼んでたの?」と聞くと、

「ハップよ。かれのTACネームなのよ」

と教えてくれたというわけです。
自衛隊のパイロットがTACネームを公然と名乗るのは、米軍の風習を輸入したんですね。
なんというか、いかに現代と言えども、日本人としてはこれ、恥ずかしくない?

チャイニーズやコリアンがアメリカで「レイチェル・チャン」とか「リチャード・キム」
とか名乗っているのすらはたで見てよくやるよな、と顔を赤らめるのが日本人の感性なのに、
自分で、しかも公式に「ライトイヤー」とか「ジョー」とか「無頼」とか名乗っちゃうんですぜ。

あとでアメリカ人パイロットのTACネームの実例を挙げて行くつもりですが、
本家はどちらかというと「ネタ」が多く、かっこよさよりも「互いのコミニュケーションのため」
という本来の目的に沿ってつけられている気がします。


そんな話をしていると、長身で肩幅の広い体躯をベージュの海兵隊つなぎに包み、
軍帽を被った男性が颯爽とレストランに登場。

キター*・゜゜・*:.。..。.:*・゜(゜∀゜)゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*!!!!!

現役の戦闘機パイロットを間近で見たのは初めてです。
形のいい頭を坊主刈りにし、物腰は柔らかでにこやかだけど、決して眼が笑っていない。

アメリカでも戦闘機のパイロットになるのは簡単なことではないと思いますが、
一旦なったとしても脱落することもあり、大変厳しいものだそうです。
そんな中で現在進行形でどこに攻撃を命じられるか分からない状態。
彼が一種凄みを感じるほどの眼の光を持つのも当然かもしれません。

彼の所属中隊はしょっちゅう太平洋地域の要所を移動していて、
日本に帰ってきてもしばらくしたらまたどこかに行ってしまうのだそうです。
現にこの後、つまり今頃は移動になっていて日本にいないそうですが、
(これはどこか聞いたけど内緒) 彼女は、結婚して三年にもなるのに、
久しぶりに会った夫の顔を見て「あれ?こんなひとだったっけ」と、
不思議な気持ちになるのだ、と笑っていました。

自衛官の妻、というのもそうだと思うのですが、彼女はいつも夫が
危険と隣り合わせの任務をしていることについては
「あまり考えないようにしている。心配しても仕方が無いから」
と割り切って、夫のいない生活をせめて中隊の同僚の妻同士で
「日本観光」をしたりしてすごしているのだそうです。

この食事中、彼女に写真付きのメールが来ました。

「いま、YOUME(ユメ、という中国地方一帯でポピュラーなモール。
呉の大和ミュージアムの近くにもあった)にいて、ランチにラーメンを食べてるんだけど、
これ、何だと思う?」

という内容です。

「わかんないわ。これ、なんなの?」

彼女が見せたのは、ラーメンの上に乗ったカマボコ。
ピンクのカマボコが、折り畳んで花の形になっています。

「フィッシュケークだよ」
「ええ?そうなの!面白いわ」

彼女は笑いながら返事を送りました。
TOは

「MSGとか気にする人なら食べない方がいいって言ってあげて」

なんて余計なことを付け足していました。
ま、いいんじゃないですか。一度食べるくらいは。
アンジーの話によると、彼女もパイロットの妻なのだとか。

眼が笑っていないブラッドですが、アメリカ人の知的な人らしく、
非常に如才なく会話をし、息子にもサマーキャンプのことなど聞いて、
和気あいあいです。

そして、結婚三年になるというのに実質あまり一緒にいられない妻については
愛しくてしょうがないらしく、わたしたちの前でも時々惚気ては抱き寄せ、
アツアツぶりを見せてくれました。

そして、わたしがさり気なく観察をしていた所によると、さすがは肉体労働者、
しかもアメリカ人の若い男性。
食べるのが早い!
先ほどのココナッツチキンサラダは、アンジーのですら凄いボリュームなのに、
さらに妻は夫のためにその1・5倍の「大盛り」を注文し、ブラッドはそれを
遅れて来たのにも関わらず誰よりも先に平らげてしまいましたからね。


さて食事が終わり、

「じゃ、ビルディングの中から案内しようか」

と立ち上がったブラッド。
あわてて食事代を払おうとしたTOに

「いいですよ。せっかくここまで来てくれたのに」

と彼は財布を出させません。
ありがたくごちそうになることにして、レストランを出ました。



こっそり後ろから彼らを隠し撮り。
ブラッドが左手に持っているのは伝票です。
うしろのアンジーがベルトをしているのにご注目。

アメリカでこのようにきっちりとウェストマークの服を着て、
しかもちゃんと胴がくびれている一般人は少数派です。
東部有名大学の大学院で勉強したほどの人で、
なおかつ金髪のスマートな美人ですから、
「マッチョなフライング・オフィサー」
なんて、アメリカ女性が眼の色替えて追いかけ回すようなタイプであるブラッドが
「一目惚れで射止めた」
というのもうなずけるというものです。



レストランを出たところで、もう一度チュールレースを巻いた仏陀にご挨拶。
よく見るとこの仏陀、ネックレスまでしてるし。



飛行機の模型部分をぐるぐる回して尾翼を壊した奴がいる・・・。
因みにこの下部分でファイティングポーズをしているブルドッグですが、
これが実は「海兵隊」を表します。
ドイツと戦争していたときには、ブルドッグがダックスフントを
追いかけ回して
噛み付いているポスターなどが描かれたりしました。

翼があるのは「海兵隊航空隊」という意味です。 



アメリカの航空博物館でもこういうのを見ましたが、米軍というのはどうも、
いちいちこのような木彫りのメモリアルを製作するのが慣例になっているようです。
誰が作るのか知らないけど、その数が半端じゃない。

至る所に飾られ、あるいは彫刻されたこれらの記念板を見せてもらいました。

大尉の名前が、TACネームを頭に刻まれています。

「Rusty」錆びた、「Rude 」横柄な、「Meat」「Big Guns 」「Blacky」・・・

これだけでどんなパイロットなのか想像できそうですね。

アイリッシュ系のO'hara少佐は「Asia」というあまりありがたくなさそうなネームをつけられています。

部隊名「チェッカーボーズ」。

「ブレード」「ファルコン」なんてかっこいいTACネームを付けてもらった人もいますが、
ファイター・クヮック」(ガーガー戦闘機?)、
Fungus」(菌類)「バッドニュース」とか、変なのもありますね。

名前が似ている、というだけで
「Mocio」さんが「Macho」になったり
「Hoover」が「Hooter」、「Hautara」さんが「Hut」
「Giacoma」は名前を省略して「Coma」。

移民の国でいろんな変わった名前があるので、結構それをネタにしてしまうと見た。



こんな風に、部隊の使用飛行機と爆弾に名前を書いて、非常に凝る年もあるようです。



やっぱり入り口にあったのはA-4みたいですね。
部隊名はバンブルビーズ。ハチさんです。

モットーは・・・「究極のベスト?」
ベストの中のラスト、つまり最上級だと思うのですがどうでしょうか。



ところせましとかざってあるこのボード、
今後はどこに飾るのか心配になるほどです。
毎年増えて行っているわけですしね。



にゃんと、木製のテーブルに彫り込んでしまったりとか。


ここはオフィサーズクラブ。
将校用の社交場で、夜はバーになるようです。
しかし、ここはアメリカですから、建物の中の喫煙は許されません。

休憩しているのは皆日本人で、どうやらここのスタッフのようでした。



おお、そういえばマローダーなんて飛行機もありましたね。
で、それが「将軍」「武」ねえ。
全くラバウルでマローダーと死闘を繰り広げた海軍飛行隊の皆さんに、
是非聞かせてあげたいものだ。
今やこんなものを日本の国内で見る時代なんですからね。

そしてこういったものをイケてると彼らは認識しているらしい。




勝手にお酒を飲まれないように?バーカウンターはクローズ状態。
酒保開けは毎晩でしょうか。
ん、しかし、タバコのパッケージがあるような気が・・・。
喫煙所が外にあるのかな。



かっっこいいい!

この、旭日旗がデザインされたボードは、部隊名「黒羊」
なんだかイマイチな気がするけどまあいいや。
逆さまになっているのはこれもA-4と向こうは・・・まさかバッファロー?



そして、ジャーン!

このコウモリがシンボルの部隊が、
何を隠そう”ハップ”ことブラッドのスコードロンマークなのだった。

Mors ex Tenebris。
ラテン語で意味は「暗黒よりの死を」
んもー、中二病満開なんだから。
でも、コウモリがどうにも可愛らしすぎると思ってしまうエリス中尉であった。


この部隊VMFA AW 242部隊のことに触れながら、基地潜入記を続けます。






 


 


米軍岩国基地潜入記~岩国海軍カレーと米軍基地の鳥居

2013-11-02 | アメリカ

例年秋頃というのはイベントが目白押しのうえ、わたし自身、
息子が秋期休みになってお出かけが多くなるので、全てを報告していては
とてもではないけど、針小棒大に物事を語る傾向のあるこのブログでは
今年中にイベント関係の事を報告し終えることもできません。

しかるにやったこと見たこと、全てエントリにアップしているわけではありませんが、
この岩国基地訪問についてはぜひ詳しくお話ししたい。

というわけで、本日は例によってこの日の「導入部」をお送りします。


夏頃、岩国の米軍基地にF-18パイロットを訪ねて行く「かもしれない」
とコメント欄にて予告をしたわけですが、その後、スケジュールを調整し、
彼のスコードロンが移動と移動の合間にたまたま息子の休みが一致したので、
伊勢参りをして一泊し、帰ってきたその次の日に日帰りで行って参りました。

その週の前後には観閲式もあったわけで、まさしく怒濤の一週間。

これらの間隙を縫ってダンブライト氏が驚いて下さるくらいの長文で
内容の濃さはともかく、とにかく毎日エントリをアップし続けているのですから、
我ながら呆れます。

さて、今回の岩国行きは、全て我が家の米国留学に端を発します。
TOの留学した大学は世界中にそのネットワークを持っており、
日本でもしょっちゅう「OB会」が、日本人の卒業生有志によって開かれます。
TOがたまたまその幹事となったときに、そのOB会に出席していたのが、
夫が米軍岩国基地に勤務している大学院卒業生の女性、アンジーさん(仮名)でした。

そのOB会で彼女が「興味があるなら夫と会わせてあげるから、基地に遊びに来てね」
と言ってくれたのです。
日本人と違い社交辞令でこういうことを決して言わないのがアメリカ人なので、
わたしたちはご好意を素直に受け取り、今回の訪問をしたというわけです。

もしかしたら大抵の日本人は「遊びにいきます」と言っても忙しさに紛らせ、
心ならずも結果的に社交辞令になってしまうのかもしれませんが、
ところがどっこい、そんなお誘いは猫にカツオブシ、エリス中尉に戦闘機。

あれよあれよと話は決まり、当日になりました。



ところが。
当日は雨。
前日伊勢参りをしたときにはなんとか崩れなかったのですが、
この日は朝から結構な雨量で雨が降って来てしまいました。

「うーん・・・・大変だね」
「え?何が大変?土砂降りの中地面に座っているわけじゃないし、
傘もさせるし、移動はアンジーの運転する車でしょ?
先週の観閲式の事を考えたら、大変なんて言ったら罰が当たるって」

人間、一度底を見ると、大抵の事には我慢できるものです。
ときどき、あえて自分を過酷な状況に追い込み、日頃の生活で享受する
便利とか安全とか快適とかの価値を再確認する事は、
ともすれば感謝の気持ちを失くしてしまいがちな傲慢な人間には必要かもしれません。



岩国空港は非常に新しい空港でした。
ほとんど岩国基地の敷地内にあるような空港で、もしかしたら
米軍の関係者の強い要望でもあったのかと思われました。

ちなみに愛称は岩国錦帯橋空港。ゆるキャラはソラッピー。
使用航空会社はANAだけです。

外に出ると、アンジーさんが迎えに来てくれていました。
彼女は大学では建築を勉強し、こちらでデザインの仕事をしています。
夫のブラッド(仮名)の転勤に伴って、日本に来て三年目。
来年の春にはまたどこかに転勤になりそうだとのこと。

二人は結婚してまだ三年。
子供はまだ無く、アメリカ生まれの4歳の犬を連れて来ています。



基地の入り口に到着。

彼女がわたしたちを招待することになったとき聞いて来たのが

「あなたたち、日本人よね?」

岩国基地や厚木基地で行われるフレンドシップデーにパスポートを忘れて、
入り口で追い返される、という悲劇が表すように、
基地に入ることが出来るのは、米軍軍人と日本人だけなのです。
在日外国人はセキュリティの関係で入ることが出来ません。

これすなわち、通名使用の在日外国人もシャットアウト、という意味です。
こういうことに「差別だ」と文句を言う人たちも、アメリカ軍には
怖いのか言っても無駄だと思っているのか、何も言いませんね。

というか、これが普通の国の対応ですよね。
「差別」という言葉におろおろして、その場を丸く納めたい、あるいは
自分の任務を波風立てずやり過ごしたい、などという理由で妥協し、
結局母屋を乗っ取られることになった団体だらけの日本は、
本当に「甘ちゃん」で世間知らずだなあと思います。

「ダメなもんはダメ」

これでいいのにね。


さて、潜入にはまずゲートにある受付の小さな部屋でパスポートを出し、名前を記入。
入場に際してはバッジを渡されます。
基地内では関係者と必ず一緒に行動しなければなりません。

ひそかに機密部分に入り込めば、見つかり次第射殺されても文句は言えません。(たぶん)



えーと、これは・・・・
スカイホークA−4かなあ。

近づいてみれば説明板があるのですが、勿論雨なので降りてみることもしませんでした。

 

基地の中は完璧にアメリカ。
建物の中に入ったら息子が「アメリカの匂いがする」とつぶやきました。
食べ物の匂い、洗濯に使う洗剤の匂い、何かは分かりませんが、
わたしも「アメリカの匂い」だと思いました。
サンフランシスコの中華街が、中国人が住み着くことで「中国」になって、
悪臭漂う(これ本当)小汚い町になるように、
どんな人が生活しているかによって空気は作られるのだと思いました。

 写真の看板は、岩国基地の求人募集のようです。
中には日本人らしき従業員もたくさん見られました。
二つほど大学もあり、「国内留学」ができるようです。
一時流行ったインチキ国内留学の聞いたことも無い学校とは違う模様。



基地内は移動のためにバスが巡回しています。
この日は土曜日で、みなお休みモード。
スナックなどをを買い込んで、これからテレビでスポーツ観戦でしょうか。



雨でも自転車移動の人もいます。
ちなみに、世界基準に則して、海兵隊の軍人さんも傘は使いません。
アンジーにそれを言うと、

「そうなのよ!どんなときも傘ささないのよ。へんよね」

と笑っていました。
彼女はブラッドと結婚するまで軍関係の人間は周りにいなかったので、
軍人だけの慣習やしきたりなど、驚くことばかりだったそうです。

自衛隊でも航空隊はやっているようですが、米軍の飛行隊は、
「TACネーム」を持っていて、互いをそれで呼び合うそうです。
特に同期はそのあだ名を互いに付け合うのが慣習で、たとえ自分で
「俺はマーヴェリックな」
とか言っても、その男が「マーヴェリック面」をしていなければ却下。
大抵は周りが勝手に名前を付けてしまうそうです。

ブラッドのTACネームは「ハップ」(英語で書くと検索にかかるからカタカナ)
で、スーツの胸にはなんとブラッドではなく「ハップ」と書かれていました。
ハップが一体どのようなイメージで付けられたのか、残念ながら
日本人であるわたしには皆目分かりませんでしたが・・・。



基地の中には住居部分があって、士官とそれ以外は場所も別。
独身寮と家族用も別です。
これはたしか独身用だったかと。

ブラッドとアンジーは「基地の中とは違う空気も必要だと思ったから」
外に日本家屋の一軒家を借りています。



基地に入るなり、このような鳥居の形の建物案内が、しかもあちらこちらに
目につきました。
ここは昔岩国海軍基地で、末期には海軍兵学校の岩国分校もあったところです。
1945年に戦争が終わるとすぐに海兵隊に接収されてそのままなのですが、
当時からこのような「日本」のイメージの鳥居を看板にして来たようです。

「神様」に非常にこだわるうちのTOが、

「日本ではこの鳥居というのは神様に会いに行くため、
神様のいる場所と人間界を隔てるこの鳥居をくぐるので、
このように鳥居に看板を吊るして標識にするなどとは考えられない」

と彼女に説明したところ、アンジーは

「そうなの。
アメリカ人はきっと何もわかってないで失礼なことやってるわね。
ごめんなさいね」

とマジで謝ったので可笑しくなりました。
アンジーはインテリで決して大抵のアメリカ人のように無神経ではないので、
そういう「アメリカ人の無知」について日本人がどう思うか、十分理解しているのでしょう。





彼らにすれば「日本文化に敬意を表して」みたいな、
つまりよかれと思ってやっている確信犯なので仕方ありません。



基地の中は本当に広く、滑走路を騒音で迷惑にならないように
海を埋め立てて沖に作ったという経緯もあり、
このような「人口の湖」のようなものもありました。



そして、彼女が

「ここから向こうはJSDFよ」(すごく言いにくそうだった)
と言った柵の向こうに・・・・・・

このシルエットは!



(正確には違うけど)P−3Cが。

機体にはしごがかかっていて整備員らしい人影が見えますが、
この日の午後にP-3Cが飛んでいるのを目撃しましたから、
このときは始業点検をしていたものと思われます。



アンジーが最初に連れて行ってくれたのは、
海上自衛隊基地。
売店で自衛隊グッズを買うために寄ってくれたのです。

アンジーさん、あなた分かってますねえ。


第81航空隊はこの売店の向かいにありました。
エントランスには(正確には違うけど)P-3Cの写真が飾ってあります。

第81航空隊は第31航空群の隷下にあり、
P-3CをベースにしたEP-3で電子戦および情報収集
OP-3Cによる画像任務とする部隊です。



この「電子整備場」も、第81飛行隊が「電子戦部隊」であることを知れば
納得です。
 



そんな海自の皆さんがお昼を食べる食堂の一つ、「アクアマリン」。
今日の定食は唐揚げ定食とおさかな定食。
中をちらっとみたら、なぜか全員米軍軍人でした(笑)

毎日のことなので、アメリカン・ダイナーばかりでは飽きるのでしょうか。
こういう「日本風定食」はどうやら海兵隊の皆さんにもおなじみのようです。



岩国基地飛行艇カレー。
これ、買ってしまいましたよ。



二式大艇バージョンは辛口。

 

US-2も海軍ですかそうですか。

つまり伝統の「海軍カレー」という名前を死守しているのね。



プレミアムキーマカレーは、

世界唯一の救難飛行艇を所有する岩国で発案されたご当地カレー」

しかも、ひき肉が通常の1・5倍入っているプレミアム。
この「岩国基地発案」とは、なんと、カレーに


「レンコンが入っている」

のです。
なんでもレンコンはこの辺の名産だそうで・・・初めて聞きましたが、
もっと大事なことは、この岩国レンコン入りカレーを発案したのは、
畏れ多くも畏くも、大谷祥治前群司令なのだそうです。

でっていう話ですが、とにかくこのレシピは、レンコンを1センチ角に刻み、
さらにそれをバターで炒めて風味を出しているのだとか。
帰ってから一つ「辛口」というのをいただいてみました。

レトルトカレーには珍しく、これは合成・化学調味料を使っていません。
その意気や良し。

はっきり言って、レンコンの口触りがカレーとミスマッチというか、そもそも
「なぜレンコンをカレーに」と言う根本的な疑問を感じないわけではありませんでしたが、
柔らかいだけのカレーに歯ごたえとかを求める向きには、非常によろしいかと存じます。
 
最初にここに来たため、あまりゆっくりと自衛隊土産を買う時間がなく、
このカレーと、レンコン素麺、そしてお約束のTシャツを購入。



これ、US-2のファンにはたまらんデザインでしょ?
アンジーが「ナミノリタツジン?」(彼女は日本語が読み書きできる)
と聞くので、

「グレート・サーファーまたはサーフィン・マスターのこと」

と説明しておきました。 



売店を出ると、やはりここでも傘をさせない人たちが・・・・。
セーラー服に士官、やっぱり海自の制服ってかっこいい。









不思議な半月状のドームがありました。

「これはゼロファイターの格納庫なのよ」

・・・・・何っ。

昔海軍基地だった頃の掩体をそのまま保存し、中には21型零戦があるのだそうです。
見たいけど・・・残念、鍵が閉められブラインドまで閉められて・・。

あとでブラッドに中を見られるかどうか聞いてあげるわ」

ああん、なんていい人なの、アンジーさん。
格納ドームの壁には凄まじい数の銃弾の痕があるのがおわかりでしょうか。




もう一度入り口のスカイホーク(推定)前を通り過ぎて・・。



アンジーはわたしたちのために、一日スケジュールを組んでくれていました。
午前中は海自の売店で買い物、基地内を一周して、そのあと
米軍のレストランで昼食。
朝からミッションについていたブラッドは、仕事を終えてそこで合流し、
食後はブラッドにホーネットを見せてもらう、という段取りです。

少し分かりにくいですが、この建物はマーケットで「サクラ」といいます。

食事のため、米軍基地のビルディングに入って行きました。
すると、

 

ビルのエントランスの飾り付け。
なんだなんだ、この微妙なジャパネスクは。
松とか鶴の絵は日本風ではあるけれど、屏風って言うのが、やっぱり中国風。
しかも、



なぜ仏像がチュールのレースを巻いている(笑)
しかも、なぜそれがトランクの上に乗っている。

極めつけがこれ。



赤い大きな扇子って、これは間違いなく中国風だし、
そもそもこの家具一式、みな中国風だし、
黒の縁取りのカラフルな屏風も中国風だし、

わたしとTOでアンジーに向かって

「日本人はこういう飾りに赤とか金色は使わない。
大きな扇子はさらに使わないし、赤い花を花瓶に入れたりしない」

と正しい日本風というものをレクチャーしてあげました。
なんというか、アメリカ人って、日本と中国の違いがやっぱり全然わかっていないのね。
アメリカのテレビや、以前さんざん突っ込んだ映画「パールハーバー」などは、
所詮アメリカ在住のアメリカ人が頭で考えた「日本風」なので、無茶苦茶でも
割と当然かなという気もするのですが(許しませんけどね)、ここは日本。
日本に住んでいてどうしてこうなるかな。

チュールをまとった仏像といい、看板を掛けるために立てた鳥居といい、
無論悪意があってやっているのではないですが、文化の壁を感じます。



さて、このあとレストランで、いよいよF-18ドライバーであるところのブラッドと
ご対面することになったのですが、続きはまた後日。
 





 




 


車上から撮るサンフランシスコ~ゴールデンゲートブリッジ

2013-10-09 | アメリカ

先週、ゴールデンゲートブリッジに行くと言いながら息子の幼稚園の話で終わってしまいました。
今日は、淡々と、ブリッジの写真を貼ります。



といいながら、これは太平洋に面したアウター・サンセットという地域にある風車。
昔は実際に使われていました。
いま「風車」と言えば風力発電ですが、このころは・・・・。

これ、何のためにあったんでしょう。

そういえば、わたしたちが住み始めたころには風車は二つあって、
一つは観光用に回っていたのですが、いつの間にか一つになってしまいました。





サンフランシスコ側から橋を渡ります。
霧が濃くて、橋が全く見えません。



こんなに霧の濃い寒い日なのに、アメリカンという連中は、
どこにでもショートパンツでやってくるんですね。
さすがに上にトレーナーを着込んでいますが、
わたしは昔オアフのハレアカラ火山の頂上で、Tシャツと半パンのアメリカ人を見て、
「この人たちの皮膚感覚はいったいどうなっているのだろう」
と絶句したことがあります。

日本でも、冬に観光に来てTシャツ一枚で歩いているアメリカ人を、
大抵の日本人は奇異な目で見ているわけですが、
わたしの鍼灸の先生に言わせると

「彼らの体は、自覚がないままに冷え切っている」

ということでした。

ブリッジの両端にはパーキングがあって、そこの車を停め、橋を渡っていきますが、
いずれにしても車まで帰らなくてはいけないので、皆真中まで行ったら引き返します。



サンフランシスコの不思議な気候。

さっきの天気から数十秒でこのような青空が見えます。
橋を渡ったところはサウサリートという地域なのですが、
不思議なことにこちらはめったに霧がかかりません。



車で橋だけ渡って帰ってきたい、という観光客のためか、
ブリッジを渡り切ったらすぐにUターンできる道があります。
そこからサンフランシスコ市街地をみると、このように・・・。
まるでそこだけ綿を敷き詰めたように、霧がかかっていました。





一旦フリーウェイを降り、もう一度橋に向かいます。

 




今からブリッジをもう一度わたります。



自転車で来ている人も多数。
このバイクはおそらくレンタルしたものでしょう。



むかし、ちょうどここを渡っているときに、車のタイヤがパンクしたことがあります。
ブリッジを渡り終えるころ、猛烈にゴムの焦げる匂いがして、
生きた心地がしませんでした(笑)

降りたところにあるミュージアムの駐車場に止め、
そこからレンタカー会社に電話して待っていたら、
スペアタイヤを取り付けに修理係が来てくれました。
アメリカのレンタカー会社のシステムは、実に合理的です。

免許をお持ちの方は、「海外だから」と怖がらないで、
アメリカではぜひ車で動くことをお勧めします。

ヨーロッパ、とくにフランスはやめておいた方がいいかもしれません(経験上)




ゴールデンゲートブリッジには、料金所があります。
サンフランシスコ側からは徴収しませんが、サウサリート側から
入っていくときだけ5ドルくらい必要です。

この日もお財布を用意していたのですが、料金所はクローズしており、無料でした。
もしかしたら、日曜日は徴収しないのかもしれません。





先ほどの厚い霧のなかにまた突入です。

ほんの数メートル単位で天気が全く変わる、
これもサンフランシスコの気候の大きな特色です。