
サンノゼのジャパンタウンにある日系アメリカ人博物館の展示を
彼らが日米開戦時に置かれた状況を盛り込みながらお話ししています。
1942年の3月から始まった強制移動は、通知が来てからわずか1週間から
10日以内に今の住居からアッセンブリーという集合センターに
移らなくてはいけないというものでした。
携帯を許されたのは、自分で持って行けるトランクだけ。
少しでも多くの私物を持って行こうと、皆は出来るだけ
大きなトランクに必要最小限の荷物と、貴重品を詰め込みました。
持って行くことが出来なかったものは、知人に預けたり、
あるいは教会の地下に隠しましたが、戦後になって帰ってみると、
それらは姿を消し、自宅や農園も略奪され、あるいは横取りされていて
一世たちが苦労して作り上げた資産財産は全て無に帰していたのです。
収容所で手に入れたらしい鉛筆セット。
1940年のものだそうですが、ほとんど使われていません。
子供用の絵入り図鑑。
実際に収容所に持ち込まれ、戦後解放されたときに
再び手荷物を携えて帰ったトランクの数々。
日系人の、特に一世たちの戦後は酷いものでした。
差別の激しい西海岸は諦め、東海岸などに新天地を求め
移住していった人々もいました。
意外なことに、そこでは歓迎されることもあったということです。
強制収容所に送られる日系人たち。
その服装が、彼らの豊かな生活を表わしています。
西海岸で日本人が疎まれていたことの理由に、勤勉な彼らが一代で財を成し、
成功したことが、アメリカの中産階級の嫉妬を誘ったという構図があります。
博物館の中には、在りし日の収容所が再現されていました。
この部屋の中で、赤の他人の何家族もが共同生活をするのです。
この鏡付きの箱のようなものは、携帯式のストーブ。
ローラ・アベの私物であったものを、中国系のアーティストが
オブジェにしたようです。
アイロン台、薬棚。
小さなホーローの桶で入浴をするとき、
自分たちで吊ったカーテンを引いて目隠しをしました。
一部屋に男も女も一緒に収監されていたのです。
何も努力しなければ、まるで囚人のように動きの取れないこの空間では
たちまち全てが無秩序になってさらに精神を蝕んだでしょう。
彼らはその中でも精一杯清潔を保ち、人間の尊厳を守ろうとしました。
「日系の囚人が入ったあとは前よりも綺麗になる」
ということで、他の国のインタニーと、
収監場所がローテーションされていた収容所もあったくらいです。
こんな生活でも、いやこんな生活だからこそ、絵を描き、
それを飾るための額を作った収容所の日系人たち。
写生するべき景色がたとえバラックの並ぶ殺風景なものであっても・・。
ツールレイクに収監されていたノリオ・ヤマモト(多分一世)が
作ったクローゼット。
ユダヤ人たちのように囚人服を着せられなかったのは
まだしも幸運だったといえましょう。
大抵の収容所は山間部の、冬は極寒の地にあったからです。
タンスの中に貼られた「日系人追放のお知らせ」。
部屋を出ると、外に見学路は続いていました。
納屋のような展示場所が設えてあります。
日系人たちが農場などで使用した道具が展示されているのです。
写真は、エイイチ・サカウエ(一世)が発明した、
「梨の選別機」。
ベルトコンベアの上に乗せると、大きさを選別する仕組みです。
農民や市井の人々ですら、こういった工夫発明を楽々とやってのけ、
しかも真面目で勤勉、骨身を惜しまぬ労働ぶりが、
アメリカ人たちに取ってはさぞ脅威でもあったでしょう。
農場で使われていた木製コンテナ。
イチゴ農家はオフシーズンにはこういったクレートを造っていました。
できるだけ釘を使わない方法で作られた箱は需要があったのです。
ブロッコリーを同じ大きさにカットする機械まで・・・。
トラクターや鋤などの農耕機具。
馬に引かせて農地を耕す器械。
驚いたことに、当時の車も全く手入れをされていない状態で
展示されていました。
リパブリックモーター製のトラック。
1913年に発売されていたものです。
1916年から18年にかけて使用された車のナンバープレート。
フォード車の「Tフォード」。
1918年発売されたもので、この車の登場によって、
アメリカの中産階級が自家用車を持ち、それで旅行をするという
ライフスタイルを手に入れました。
ラインのある工場で組み立てられ、大量生産された最初の車でもあります。
前に二人しか乗れないのに、どうやって家族でドライブするかって?
ご安心下さい。
車の後部にはちゃんと3人くらいなら乗れる引き出し式のシートが。
というか、これじゃあまりご安心できない気もしますが。
一旦事故ったら、まず後ろに乗っている人たちはアウトです。
種まき機。
車の後ろに入れられた種が少しずつ下から撒かれる仕組み。
レタス、ナス、ブロッコリ、アスパラガス・・・。
種まき機に入れて撒かれた種。
イチゴをピックアップして収納する棚と、販売するときのコンテナ。
昔はイチゴは必ずこのケースで売られていたそうです。
ふと上を見上げると、当時使われていたカートンのボックス、
子供に作ってやった玩具の車などが天井から吊り下げられていました。
これも当時の規格であったイチゴ用ケース。
アメリカではこの頃からプラスチック製品が一般的だったのですね。
蒸気式?動力のトラクター。
これはおそらく荒れ地用のトラクター。
農耕用に使われた固定エンジン。
4頭立ての馬車で、市場に出す農作物を搬送します。
全員ベストにネクタイ着用。
農地に腰掛けているので作業中だと思うのですが、
なぜに皆このような格好を・・。
耕作は馬に鋤を引かせて行いました。
農作物用の秤も勿論手作りです。
日系人たちの大規模勾留は、それまで築き上げた彼らの
こういった農場も、全て人手に渡るかあるいは荒廃するままに
放置されてしまうということを意味していました。
もともと、外国人土地法というのは、日本人移民に
アメリカ西海岸地域での農地を購入、または借入を禁じたもので、
その理由というのは人種差別的なものと、経済的理由の双方でした。
白人たちは西海岸地域は自分のものであるとして、一世が荒地を
次々に実り豊かな農場に変えていくのに敵意を抱いたのです。
しかし、法律であからさまに日系人を対象にするわけにもいかず、
土地法は非常に欺瞞的な表現がなされました。
「市民権を取得できない外国人は農地を購入、または借り入れができない」
連邦移民法によると、市民権とは
「自由身分の白人」と「アフリカ人の血を引いた者(元奴隷)」に与える
ものでした。
市民権を取得できない外国人とは、アジア系とヒスパニック系です。
しかしヒスパニック系や、アジア系では中国系その他の場合は、
そもそも土地を取得して農地を開墾しようなどという者が皆無でした。
つまり、実質この法律は、日系人だけを対象にしたものであったのです。
一世がそれを回避するためには、親日家のアメリカ人から土地を借りるか、
あるいはアメリカ国民である二世の、つまり子供の名義で
土地を買うしかありませんでした。
しかも、そういう「抜け道」を塞ぐため、外国人土地法は一層厳しくなり、
そしてついには追放令によって、住み慣れた土地すら追われることになるのです。
真珠湾攻撃に続く日米開戦は、西海岸の白人たちに取って
ある意味日系人を駆逐する素晴らしい大義名分となったのでした。
ユダヤ人への嫌悪からその排除を謳うナチス党とヒットラーを
熱烈に支持したドイツ国民と、この時代の西海岸のアメリカ人は
公平な目で見ると、全く同罪であったといえます。
収容所から解放された日系人たちが再び土地を取得できたのは
1950年台になって、外国人土地法が撤回されてからのことでした。
続く。
イスラエルに行ったことがあるのですが、テルアビブでは時々、テロがありますが、現場は直ちに封鎖され、ものの一時間もあれば跡形もなく整理されてしまいます。
毎朝8時くらいになるとガザの方向にヘリコプターが飛んで行き、夕方5時になると帰って来ます。最近はガザからロケット弾が飛んで来ますが、被害を出さない様、全部落とそうとイスラエル側も24時間365日待機しています。
あれだけ毎日毎日きちんきちんと戦争出来るのは、いいか悪いかよくわかりませんが、大したもんだと思います。平和志向の日本人だとあんなに続かないですね。
戦後日本経済が世界を席巻した頃、日本人を「エコノミックアニマル」と揶揄したように、
自分たちの座を脅かすパワーが正攻法であればあるほどアメリカというのはこうやって
自分たちの座を守ろうとするものなのだと思います。
ユダヤ人と日本人の違いはおっしゃる通り「選民意識」の有る無しでしょうね。
日本人は海外に行ってまでそこに「日本」を作ろうとせず、良民として溶け込むことを選びます。
しかし日本人が「グッド・マイノリティ」であったことにアメリカ人が気づいたのは、
最近のことのような気がします。
「テルアビブでは時々テロがありますが」
・・・・・軽くおっしゃってますがそんなものなんですか・・。
日本にいると日本がいかに平和な国なのか気づきませんが、世界にはこんな場所があるんですね。
アルジェリアのイスラム原理主義が元気でフランス国内で爆弾騒ぎがあった頃、パリの空港で飛行機を待っていたら、短機関銃を持った武装警官が「ほにゃららS'il vous plait.」と言いに来て、どうも身振りで「下がれ」と言っているようなので、回りの人に合わせて下がったら、かばん?を持って警官が人がいない場所に入って行ったのです。
五分くらいしたら「ボン!」というくぐもった爆発音がしたので、警官が持って行ったかばんを爆破処分したんだなと分かりました。日本なら一大事ですよ!空港毎避難で、危険物は広い場所にでも持って行って処分だと思いますが、かの地では到って普通で「ボン!」の後、五分くらいしたら、件の武装警官が戻って来て「大丈夫です」らしきことを言って去って行き、飛行機を待つ人達も何事もなかったようにわさわさ戻って来ていました。
御嶽山で山頂付近から命からがら帰って来られた方は「噴火の兆候から火山弾が来るまで五秒くらいだった」とおっしゃっているので、人生何があるかわからない。日本も似たようなもんですね!
というか、爆破処理を空港でやってしまうんですか。
自衛隊の爆破処理が千円単位の手当だということで「酷すぎないか?」って話になってましたが、
こんな簡単にやってしまうのなら、おそらくフランスでも手当はそんなものかもしれませんね。
雷蔵さんには裏コメで御岳山に出動したヘリのことから艦上でのヘリのミイラの写真まで
頂いてしまったのですが、その御岳山に出動したチヌークさんの話。
チヌークの上昇限界高度は確か2500くらいなのに、御岳山を飛ぶのに3300?は越してるはずで、
変じゃないのかという話が出たんですよ。
これも「長門」が関東大震災のときに公表された速度を上回る速さで現地に赴いたのと同じで、
軍用機のスペックは常日頃「低めに公表」されていたということなんでしょうか。
ぜんぜんエントリの内容と関係ない話題に突入してしまってますが。
戦時中、バンクーバー近郊に、強制収容されていたらしいですが、祖父から詳細を聞く機会は無かったですので、まさに、このような経験をしたのでしょう。
戦前は、バンクーバー市内で、ホテルとレストランで荒稼ぎしたそうですが、戦後は、郊外(といっても、市内から車で5~6時間)のカナディアンロッキーが望める片田舎で、細々と、ドライブインをやっておりました。
エリス中尉の報告通り、戦後、バンクーバーの資産は、無くなったんですね、きっと。
その村には、日系人が多く住んでいたので、強制収容所が、その近くにあったのかもしれません。
その事に、今気付きました!
(`・´)ゞ
アメリカって国は「自由の国」とは言いますが、決して「平等」を謳わないじゃないですか。
いつもあの国は「不公平を叫ぶ誰かがいる」国なのです。
多民族国家というのは結局「声の大きなものが生き残る」という構図なので、
日本人のような謙譲を美徳とする精神では決して得をしないんですよ。
でも、アインシュタインが言ってますよね。
長いですがあげておきます。
近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。
この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならない。
果たせるかなこの国の、三千年の歴史がそれであった。
この長い歴史を通して、一系の天皇をいただいているということが、
今日の日本をあらせしめたのである。
私はこのような尊い国が、世界に一カ所位なくてはならないと考えていた。
なぜならば世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か戦いは繰り返されて、
最後には戦いに疲れる時がくる。
その時人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主を挙げねばならない。
この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた、
最も古くまた尊い家柄ではなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。
それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
吾々は神に感謝する、吾々に日本という尊い国を、作って置いてくれたことを。
この言葉に恥じない日本人でありたいとは思います。
って話からそれてしまいましたが(笑)