ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

日系アメリカ人二世~「メリルの匪賊」と「アーロン収容所」

2016-06-05 | 日本のこと


 


日系二世部隊であるMIS(Military Intelligence Service) 、
14人の諜報部は、そのうち一人だけが白人の部隊で、
ビルマ戦線では「マローダーズ」のために任務についていました。

この写真はMISのヘンリー・ゴウショ軍曹と、「マローダーズ」のウェストン中尉。
ゴウショ軍曹も日系人収容所からMISに参加した組で、戦線で娘の誕生を知りました。
戦後は、1977年に「レンジャー・ホールオブフェーム」にその名を加えられています。





日系米人シリーズを書くために、山崎豊子の「二つの祖国」をもう一度読みましたが、

改めて思うのは、我々が想像するよりずっと、彼ら二世は「日本」に対して複雑な、
むしろ愛憎で言えば「憎」の側が勝った感情を持っていたのではないかということです。

日本人の両親から生まれても日本を見たことがなく、日本人というだけで
酷い差別を受けてきた上、アメリカ的には「スニーキーアタック」である
真珠湾攻撃によって一層自分たちの立場を悪くした日本。


アメリカが自分たちを非人道的に扱うのは「日本のせい」だと、むしろ

自分たちの不幸の責任を「日本」にすり替えて憎悪するものすらいたのではないかと。

日系人の中には、日本がミッドウェーで負けたというニュースを知らず、
快進撃を続け、そのうち勝つに違いないと期待を続けた者もいる、
と小説ではかかれていましたが、それは少数派ではなかったのか、と、
たとえば占領後の日本で、占領軍の先に立ち、

日本人に侮蔑的に振る舞う二世などの話を聞いて思わずにはいられません。

特に戦後の日本側の媒体で、この日系二世が良く描かれることは稀ですが、
特にアメリカ政府が日系人に対する迫害などを謝罪してからというもの、

アメリカ側からこの視点で日系アメリカ人を描くことはタブーでもあるようです。

前述の傲慢で無礼な日本人に対する態度、そして東京裁判における稚拙な日本語が
裁判の進行を甚だしく妨げた、などということはあくまでも日本側からの視点で、
現在のアメリカでは日系二世たちはアメリカのために日本やドイツと戦った
アメリカ合衆国のヒーローということになっています。



どうもわたしは日本人のせいか、442部隊は素直に賞賛できても、MIS、

特に沖縄で宣撫工作を行った日系二世兵士たちに対しては、感情的な部分で
「よくそんな立場に立てたなあ」というか、虎の威を借る狐を見るような、

わずかな嫌悪を交えずには見ることができないのですが、この複雑さもまた、
当事者である彼らが一番苦しめられたジレンマそのものでもあるのでしょう。





ところでみなさんは「メリルの匪賊」という言葉を聞いたことがありますか?

ない?それでは「メリルのマローダー」は?

「マローダーなら知ってるよ、飛行機の名前になっているし」

と思った方はわたしと全く同じです。


「メリルの匪賊」、というキャッチフレーズが日本では全く知られていないのも、

このビルマ戦線で苦労した、フランク・メリル隊長以下第5307編成部隊についての逸話が
日本では有名に成るべくもない(どうでもいい?)ものであったからに他なりませんが、
アメリカでは「Merrill's Marauder's」という映画にまでなっています。

Merrill Marauders (Original Trailer)

ビルマ戦線では、アメリカも結構大変だったんですねよくわかります。(適当)
映画では状況が悪くなって、隊の中で仲間割れして殴り合いなんかになってますね。

戦況を簡単に説明しておくと、もともとイギリス領だったビルマに日本が侵攻し、
イギリスを追い出して全土を制圧していたのですが、これを取り戻すために連合軍が、
終戦までに多大な犠牲を払ったというのがビルマの戦いの全容です。



「メリルの匪賊」というのは、1943年に日本の補給線を断つための戦闘に、
ブーマに投入された第5307隊のニックネームですが、
これは戦後になって、隊長だったメリル准将自身がつけたものです。

自分の名前をちゃっかり入れたあだ名を後からつけていることにご注目ください。

それはともかく、ジャングルに展開した「マローダーズ」は、重機も戦車もなく、
1000マイル以上を歩いて進軍し、日本の陸軍第18部隊と戦い、
これを倒してシンガポールとマラヤを散々苦労して制圧しました。


この戦いにおいては日系アメリカ人二世が多大な功績を上げたわけですが、
その働きはメリル将軍(最終)の言葉に要約されています。

「君たちがいなかったらどうなっていたかわからない」

はあそうだったんですか。

諜報部隊の二世たちには、その勇気と武功を評価され、
全員にブロンズスターメダルが与えられています。



真ん中、フランク・メリル将軍。
なんだかフライングタイガースのシェンノートみたいな人ですね。




このときのMISの隊長は、ウィリアム・ラフィン大尉といい、日本語学者でした。
父親がアメリカ人、母親が日本人で、1902年、日本生まれです。
日米が開戦となった時に彼らは日本にいましたが、収監を経て国外追放となります。
アメリカに帰国することを余儀なくされた彼は、ニューヨークに着いたその足で
MISへの入隊を決めています。

彼の場合は母の国から拒絶された思いが、日本と戦うことになることも承知で
軍へとその身を駆り立てたのでしょう。

隊長としてメリルの「マローダー」に配属された彼ですが、 乗機が零戦に撃墜され、
1944年5月にビルマのブーマで戦死しました。



ところで、日本はビルマ方面作戦に参加した303,501名の日本軍将兵のうち、
6割以上にあたる185,149名が戦没し、帰還者は118,352名だけでした。

この地で捕虜になった日本軍の将兵には、連合軍による非人道的な報復が行われました。
 敗戦により捕虜になった日本兵が大多数だったため、連合軍は、勝手に

「降伏日本軍人」(JSP) という枠を設け、(捕虜とすると扱いが国際法に準じるから)
国際法に抵触しないギリギリで、現場ではリンチまがいのことも行われ、
この結果、半数が収容所の労務で死亡しました。



終戦になっていため、本来は条約により、多くの日本兵を一年以内に帰国(帰還)

させることが決まっていたにもかかわらず、英国軍主体の東南アジア連合国軍 (SEAC)
日本兵から「作業隊」を選び、意図的に帰国を遅らせました。

兵士の労役の賃金は、連合国(英国)からは支払われず、日本政府が負担しています。


それだけではありません。


連合国軍は秩序の維持の為と称して、暴力・体罰を用いたり、銃殺を行いました。

窃盗などの軽い犯罪であっても処刑されたり、泥棒は即時射殺されたりしました。

連合国軍兵士は、日本兵に四つん這いになることを命じ、一時間も足かけ台にしたり、
トイレで四つん這いにさせてその顔めがけて小便をしたり、
タバコの火を日本兵の顔で消したり、顔を蹴ることも楽しんで行いました。

また、『戦場にかける橋』などで知られる泰緬鉄道を敷設した
「鉄道隊」に対する英国軍の報復について、
「アーロン収容所」の著者会田雄次はこんな話を聞いたそうです。


「イラワジ川の中洲には毛ガニがいるが、カニを生で食べるとアメーバ赤痢にかかる。
その中洲に鉄道隊の関係者百何十人かが置き去りにされた。
英国軍は、降伏した日本兵に満足な食事を与えず、飢えに苦しませた上で、
予め川のカニには病原菌がいるため生食不可の命令を出しておいた。

英国人の説明では、あの戦犯らは裁判を待っており、狂暴で逃走や反乱の危険があるため、
(逃げられない)中洲に収容したと言う。
その日本兵らの容疑は、泰緬国境で英国人捕虜を虐待して大勢を殺したというものだが、
本当なのかはわからない。
その中洲は潮が満ちれば水没する場所で、マキは手に入らず、飢えたらカニを食べるしかない。
やがて彼らは赤痢になり、血便を出し血へどを吐いて死んでいった。

英国軍は、毎日、日本兵が死に絶えるまで、岸から双眼鏡で観測した。
全部死んだのを見届けると、

「日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、
生ガニを捕食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である」

と上司に報告した。


会田にこのことを伝えた人物は、

「何もかも英軍の計画どおりにいったというわけですね」

と話を締めくくったそうです。


この収容所の地獄から生きて帰ってきた会田雄次は、「アーロン収容所」という著書で
日本が手本とした英国のヒューマニズムは英国には無かったとする主旨を著し、

「少なくとも私は、英軍さらには英国というものに対する
燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきた」


「イギリス人を全部この地上から消してしまったら、世界中がどんなにすっきりするだろう」

「(もう一度戦争した場合、相手がイギリス人なら)女でも子どもでも、
赤ん坊でも、
哀願しようが、泣こうが、一寸きざみ五分きざみ切りきざんでやる」


と怨嗟の思いを書き残しています。



さて、終戦後日本からビルマを取り戻し、そこで散々日本人捕虜に虐待しておいて、
東京裁判では人道に対する罪と称して日本を「有罪」にしたイギリスはじめ連合国は、

最終的にはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失いました。


ビルマは1948年に独立を達成しましたが、戦後、同国と最も良い関係を築いたのは、
アメリカでももちろんイギリスでもなく、戦後補償をきちんと行い、
合弁事業によって国家の振興に協力し、
戦争により破壊された鉄道通信網の建設、
内陸水路の復旧や、沈船の引き上げなど、
2億ドル(720億円)の戦争賠償と
5,000万ドル(180億円)の経済協力を行った日本でした。


ネ・ウィンをはじめとするBIA出身のビルマ要人は日本への親しみを持ち続け、
大統領となった後も訪日のたびに南機関の元関係者と旧交を温めたと言われます。
1981年4月には、ミャンマー政府が独立に貢献した南機関の鈴木敬司
旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉である、

「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」

を授与しています。



日系二世たちは国家から忠誠の踏み絵を踏まされ、その結果、
選びとった祖国アメリカのために命を捨てて戦いました。

なんどもわたしが言うように、戦争に「どちらが正しい」はありません。

しかし、彼らが忠誠を誓ったアメリカはじめ連合国の大義は、少なくとも
ビルマやインドネシアなどアジア諸国において戦後否定されるという結果となったのです。




自分たち日系人が結果として、日本を叩き潰す、すなわち

大国側に立って植民地支配と人種差別を維持するための戦いを幇助していたこと

を、大抵の二世兵士たちは、おそらく考えてみることもなかったでしょう。



彼らのなかには、米国における日系人の立場を悪くした真珠湾攻撃を起こした国として
日本を純粋に憎み戦った者がいたかもしれないし、ラフィン大尉のように
「日本から裏切られた」という苦衷の思いで戦った者もいたでしょう。



日系アメリカ人たちは、激しい人種差別の中、よきアメリカ国民になるため、
祖国のために血を流し、遅かったとはいえ戦後それが国家から認められるに至りました。
しかしその祖国は、皮肉なことに、戦後、1966年に人種差別撤廃条約が締結されるまで、
日本がかつて国連で提唱した「人種差別撤廃提案」を拒否したこともある差別大国だったのです。



どれくらいの日系アメリカ人たちが、アメリカという大国の二面性を表す

この痛烈な皮肉に気づきながら、その旗のもとに戦っていたのでしょうか。






デッカー司令官の「黒船再来航」〜横須賀歴史ウォーク

2016-05-10 | 日本のこと

さて、ボランティアガイドに案内されてみる横須賀の街。
そこここにある歴史のよすがを見て歩くツァーですが、
ある意味このレベル?の「遺跡」であれば、都心のように
作りかえられてしまったようなところでなければ、どんな県のどんな地方にも
残っているものではないかと思われました。

横須賀市のえらいところは、そういう、地元の人なら見慣れて
何の関心も持たないであろう歴史的遺跡を、あらためてこのように取り上げ、
ツァーを企画するというところです。

このように紹介されなければ一生知ることのない「小さな歴史」を、
砂浜でガラスのかけらを拾うように拾い上げるという試みは、
たとえ重大なことでなくても少なくとも忘れないで未来に残すことになります。

そしてこの試みのために、横須賀観光局はガイドのボランティアを
常に募集しております。
この日のツァー説明の紙とともに「ガイド応募用紙」が挟まれており、
担当のガイドさんが「この程度ならわたしでもできそう、と思ったらぜひ」
と募集していることをアナウンスしていたので知ったのですが。

坂道を登りながらガイドさんの近くを歩いていて聞いたのですが、
ボランティアのガイドは、1年間の研修を受けないといけないそうです。
何時に講習会が行われるのかは知りませんが、少なくとも仕事があるとダメでしょう。

というわけで、勢いガイドはリタイアした人ばかりになってしまうのですが、
そうなると今度は高齢化で人がどんどん辞めていき、
慢性的に足りない状態なんだそうです。

参加費は300円なので、ガイドにも交通費くらいは出るのでしょうが、
いっそもう少し集めてギャラを出せればもう少し人が来るような気もします。

さて、日蓮上人が3週間座っていた「お穴様」から、次は中央公園へ。



中央公園、別名「砲台山」というそうです。
というのも、ここには昔旧陸軍の米が浜演習砲台があったからで。
今では小綺麗に白いフェンスなど立ててしまっていますが、
この向こうには土塁が広がり、掩蔽壕が二つ並んでいます。

ガイドさんが子供の頃は、何もしていなかったので穴に入って遊んでいたとか。

去年の観艦式の帰りに見た海堡をテーマに、東京湾防衛について書きましたが、
ここもまた東京湾要塞の一つとして、明治24(1891)年に砲台演習場となりました。

ここに据えられていた砲台は以下のとおり。 

28センチ榴弾砲台 6門 明治24年据付完成
24センチ加農砲台 2門 明治24年据付完成

旅順要塞攻撃にはここから運ばれた28センチ榴弾砲が使われました。
昭和2年、田戸にあった演習砲台が関東大震災で破損したため、
その代わりに 二十八センチ榴弾砲4門の演習砲台として改築されています。



未だに石積みの残る砲台跡。
土塁の上に上がってみたところです。
かつてはもっと高いレンガの壁に囲まれていたそうです。

演習場として使われていたものの、戦争になったときにも
ここは演習砲台だったので、結局ここからは一発の実弾を
発車することもなく、昭和20年に取り払われました。

このときにガイドさんが

「空襲のときには実弾を撃っていない」

というと、参加者の一人がなぜかバカにしたように

「どうせ一発も当たらなかったんだろう」

みたいなことを言うので、わたしが内心ムッとしていると、

「ここではないけどB29が来たときには結構な数高角砲で落としてます」

と言ってくれたのでほっとしました。
この年代(団塊の世代)には、何も知らず調べず、戦後の「日本はダメだった」
論調に簡単に賛同して意味もなく昔の日本人を見下したような発言をする人がいます。
判で押したように彼らは日本が一方的に侵略戦争をしたなどと信じていて、
ついでに戦後日本に戦争がなかったのは9条のおかげ、などと思っているのも
この世代に多いことが「シールズ」のデモの年齢層をみてもおわかりでしょう。

ところでこの画面の右側に立っているさびた鉄の柱、
これも昔からあるのでしょうか。
時間があればそこここを細かに見学して歩きたいと思いました。



そして、そんな団塊の世代が元気だった頃、
(ガイドさん曰く、横須賀にお金があった頃)作られた
得体の知れないオブジェ。
人をイラッとさせる不安定なシェイプは、いかにもアーティストの
意味ありげで実は自己満足なだけの”創造の残渣”そのものと言った態です。
(言いすぎてごめんなさいなんていうもんか)

わたしがこれを気に入らないのは不格好なシェイプだけでなく、
全体に配された四角の升目いたるところにプリントされている文字。

核兵器廃絶、平和都市宣言」

これが、耳なし芳一のお経の文句みたいにいくつもいくつも。



核兵器廃絶も平和都市もそうあるべきだとは思うけど、一言。
まず、そういうことは核を持っている国に向かって言ってくれるかな。

無慈悲な国の核は神奈川に落とされるとイルミナティカードも予言しているし(笑)
いくら平和都市宣言したって、核を持ってる国は照準外してくれないと思うな。
耳なし芳一みたいに核兵器廃絶とそこらに書けば核弾頭は外れてくれるとか?

あ、今思いついた!

9条で日本が核の攻撃を受けないと思っている人って、9条を
芳一の体に書かれた魔除けの経文みたいに思っているのでは・・・。



ツァーガイドは全くスルーして通り過ぎたのですが、
この中央公園のガイド案内にはこの戦没者慰霊塔が載っています。

船の形のようだなあと思ったらやっぱり船の舳先を象っていて、
中には横須賀市内の日清、日露、第一次、第二次世界大戦での
戦病死者の遺影約3600枚が納められているのだそうです。

塔の内側に金属の銘板が埋め込まれていて、その銘文は

「日本が 世界の夜明けに目覚めてから 今日の栄光をかちえるまで 
多くの戦争において 国のため尊い命を捧げられた 
諸霊よ 横須賀市民は 諸霊の遺族とともに この地を定め塔をたて 
熱いまごころをもって み霊を慰めたてまつる 
昭和四十四年三月誌す 横須賀市長 長野 正義」

平和都市宣言・核廃絶より、ずっと意味があると思うのはわたしだけでしょうか。





海上にぼんやりとかかっているのは黄砂ってやつなんでしょうか。
かつては海だったところに林立するビル越しに猿島が見えます。



アップしてみました。
砂浜に建物があるのが見えます。




ベントン・W・デッカーは、最初の横須賀アメリカ海軍基地司令官でした。
つまり最初の横須賀鎮守府庁舎のアメリカ人住人ということになります。
最初に日本に着任したときには少佐だったそうですが、
英語のデータによると最終的にはリア・アドミラルまでいったようです。

なぜデッカー少将の像があるかというと、横須賀市にとっては
戦後横須賀の復興の
恩人であるとされている人物だからだそうです。
この碑にはこのような碑文があります。

頌徳
ベントン・W・デッカー司令官は、横須賀米国海軍基地司令官として、
大戦後混沌たる昭和二十一年四月着任せられ、爾来四ヶ年に亘り本市経済の復興に
絶大な同情と好意とを以て吾々市民を指導された偉大なる恩人である。

軍港を失った本市を民主的な経済都市として更生させるために
新しい商工会議所、婦人会、赤十字会、福祉委員会等の設立を促され、
更に本市の文化、教育、救済等凡ゆる社会的事業にも適格な指導精神を指示せられ、
殊に新規転換工業の育成に対しては最大の援助を与へられ、本市諸産業が
今日の復興を見るに至ったことは偏えに同司令官の有難き徳政の賜であって
吾々は哀心深い感銘と敬意とを表するものである。
玆に同司令官の頌徳を永く偲びつつ今後不断の努力を続けるため
玆に巨匠川村吾蔵氏畢生の力作になる記念胸像を建立した次第である。

昭和二十四年十一月

社団法人横須賀商工会議所


昭和24年というとデッカーが任務を終えて帰国したときでしょう。

穿った見方をするわけではありませんが、アメリカが日本をどのように占領するか、
横須賀にどのような占領政策を布くかは一海軍少佐の胸先三寸で決まることでは全くなく、
デッカー少将は司令官としてGHQの意向に添って任務を行っていたにすぎません。

アメリカ海軍軍人として星条旗に忠節を誓ったからには
戦争で手に入った日本の一地方の統治にアメリカ全権として邁進するのは
いわば当然の義務だったといえます。

もちろん、デッカー司令官本人の人徳というものが当時の日本人を感服せしめ、
このような碑を退任早々(昭和24年)わざわざ建てるに至ったの事実でしょうけど。

ここでわたしは「マッカーサー神社」のことを思い浮かべずに入られません。


日本が戦争に負け、昨日までの敵であるアメリカに占領されるとなったとき、
日本人のほとんどは絶望に打ちひしがれ、

「男は苦役、女は皆手篭めにされるそうだ」

という流言飛語が飛び交いました。
ところが、横田基地にマッカーサーが降り立ち、アメリカ軍が進駐してきても
少なくともおおむね彼らは友好的で、聞いていたような乱暴狼藉もなく、
それどころか子供にチョコレートを投げたりする陽気で明るいその気質が
人々をまず安心させただけでなく、本国からは日本にふんだんに物資が投入され、
経済の復興も彼らの援助によって目に見える形で推進されます。

かてて加えて、東京裁判でアメリカは日本国民に「悪いのは軍部」
「あなたたちは騙されていた」と刷り込みショーをおこない、ラジオ番組
「真実はかうだ」などで戦時中の内情の暴露をして、
敗戦に遣る瀬無い思いをしていた日本人の怒りを「日本の軍国主義」に向けました。


敗戦国の貧しい日本人にふんだんに物資を与えてくれるアメリカ人。
「昨日の敵は今日の友」という言葉を日露戦争以来尊ぶ日本人にとって
占領軍が自分たちの救世主のように映ってもそれは当然だったでしょう。

このデッカー司令官も職務に忠実に、誠意を持って当たったがため、
横須賀の日本人に救世主のように慕われたようです。
何しろ当時の日本にはマッカーサーの熱烈な信奉者があふれ、
「マッカーサー神社」
を作ろうという話がでるくらいだったのです。

デッカー司令官は確かに横須賀の経済復興に多大な力を発揮したのでしょう。
たった3年の任期のあと離任するにあたって日本人が像まで作るからには、
時々は本国とぶつかってまで横須賀のために尽くしてくれた、というのも
あながち過大評価でもなかったのだろうとは思います。


しかし、それなら現在、このアメリカ軍人の名前が少なくともあの

アーレイ・バーク提督ほど人々の記憶にも、横須賀市の歴史にも残っていないのは
いったいなぜなのでしょうか。

ベントン・W・デッカーは帰国後本を出版しています。


「RETURN OF THE BLACK SHIPS」(黒船再来航) 

読んだわけではないのでなんとも評価できないのですが、
この日本語訳を出版したらしい団体の紹介によると 

ペリーの黒船から日本人は、民主主義を受取らなかったために無益な戦争に走ったが、
今度こそ、日本が民主主義になってもらうため、われわれは再びやってきたのだという
タイトルなのです。 民主主義については、未知であり、無知の日本人に、さまざまな
指導と努力で、短期間に見本を示していった実践の記なのです。

・・・おいおいおいおい(脱力)

そもそも黒船って日本に民主主義をもたらしに来たのかい?
あれは当時の世界の植民地獲得競争に乗り遅れていた米国が、
アジアでの覇権を握るため日本を無理やり開国させて市場を獲得することと、
捕鯨船の太平洋航路の拠点を獲得するためだったというのが定説なんですが。


そもそもこの紹介、この短い文章の中に三回も民主主義を繰り返しておりますが、

これを書いた人も、そしてデッカー少将も、

「日本が黒船から民主主義を学ばなかったから戦争になった」

と心から信じているとしたら、真実の歴史に対して

「未知であり無知」であるのはそちらだと言わざるを得ません。

そもそも民主主義とはなんだ!

とまるでどこぞの偏差値28集団のようなことを
言わないといけないのですが(笑)
その基本が議会制民主主義であり、
その根拠が選挙制度のあるなしだと仮定すると、
日本は遥か昔、
西暦700年頃から選挙制度を取っていますし、
近代の選挙制度は1878年ペリー来航から25年後、明治政府の発足後11年で
制限選挙ではありましたが、政治に取り入れられています。

この人たちのいう「戦前の日本が民主主義でなかった」というのは
いかなる根拠によるものなのでしょうか。


前にも言いましたが日本は天皇という存在があったため独裁政治になったことがなく、

さらに制限選挙がどうこうというのなら、アメリカはデッカーが日本にいた当時ですら、
黒人に公民権はなく、参政権は与えられていませんでした。 

お前らごときが日本に上から目線で「民主主義を与える」などとは
ちゃんちゃらおかしくておへそがお茶を沸かすわ!(独り言です)
 

概して当時の進駐軍はほとんどが

「日本を民主化する」

という態度で占領政策を行っていたのも確かです。

大方が日本人を対等な人間としてみていなかった当時の戦勝国の人間の中では
デッカー少将は甚だ高潔でフェアな人物であったようで、
わずか3年の司令官の任期で戦後日本人の心を鷲掴みにし、
おそらく離任するときには最大の敬意を払われ日本を後にしたのでしょう。

横須賀の司令官を以って軍を退役したデッカー少将は、アメリカで本を出し、
アジアでの珍しい体験をあちこちで講演して回っていたようです。


演題「アジアにおける我々の未来 わたしが日本で学んだこと」
ベントン・デッカー少将講演会



ところで、マッカーサーが「死なず消えゆくのみ」という言葉を残して帰国後、
彼が日本を「わたしの国」と呼んでいたり、例の「日本は12歳」発言によって、
日本人のマッカーサー崇拝はあっさり冷めました。


実はマッカーサーはこのとき、「日本の戦争は自衛だった」というあの発言を始め、


「勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方が良い結果を生むことはない」

「交戦終了後は懲罰的意味合いや、特定の人物に恨みを持ち込むべきでない」

「広島・長崎の原爆は虐殺は残酷極まるものだった」

と語った聴聞会での一説に「欧米が45歳なら日本は12歳」と述べたのです。
実はマッカーサーはそのあと、

「学びの段階に新しい思考形式を取り入れるのも柔軟だ。
日本人は新しい思考に対して弾力に富み、受容力がある」

と続けているので、これは日本のこれからの将来性を期待し、
硬直性のある欧米と比べて褒める意味で使ったとも考えられます。
しかし、多くの日本人は例によって「12歳」だけの部分を切り取った
報道しか耳にせず、非難に便乗してマッカーサーを嫌悪しました。




同じく、現在の横須賀の街で、この銅像以外に当時の熱い
「デッカー崇拝」を思わせるものはすでにどこにも残っていません。

聞けばこの胸像も、かつては横須賀のメインストリートにあったそうですが、
いつの間にかここに移されて今日に至るのだそうです。



日本人は大国アメリカを震撼させるほど勇敢に、自分の命すら捨てて
国のために戦ったのに、一旦敗戦後となるとこんどはそのアメリカ人が驚くくらい
従順で、
マッカーサーとGHQの治世を賞賛し、熱狂すらしました。

この変わり身の早さは「逆もまた真なり」であったことを、この、
恩人であったはずの
デッカー司令官の扱いにも見るような気がします。

さすがにデッカー少将が民主主義を日本に教えたとはわたしは全く思いませんけど。



続く。





 


極東国際軍事裁判の址と「山河燃ゆ」~防衛省見学

2016-04-25 | 日本のこと



タイトルはここ市谷法廷で行われた

極東国際軍事裁判、通称東京裁判の様子。

先日市谷でこの法廷跡を見学した時に、同じ位置から撮った写真と並べてみました。
大きな違いは天井に埋め込まれている従来の照明以外に、

吊り下げ式の灯りが裁判のために(裁判長の意向だったらしい)つけられていることです。

ご覧のように、右側に裁判団の席、左が被告席。
二階バルコニーには傍聴人(おもに被告家族)が座り、
そのバルコニーの下が報道陣の席です。
報道陣席は右側が海外プレス、左側が日本人報道記者と分けられていました。



この玉座は当然のことながら、ここが士官学校であった時代には
天皇陛下および皇族方のご臨席を賜るときに使用されました。

この部分に貼られている壁布は、当時のもので手織りです。



菊の御紋が入り、さらに意匠は菊(と藤?)の精緻な刺繍ががあしらわれています。


この組木の床ですが、「からくり箱」で有名な箱根細工の職人の手によるものです。

うちは箱根旅行のときこのからくり箱を一つ買い求め、
たしか「37ステップ」を経て開けるという行程に挑戦しましたが、
行き詰ったときに

そこで放置したまま置いておく人がいて、

いったいどこまで進んだかわからないままになってしまい、
そこから押しても引いてもびくとも動かなくなり、
そのうち部屋の隅でホコリを被りだしたので、泣く泣く処分しました。

玉座につく天皇陛下のためにわざわざ一般用の隣に作られた

天皇陛下専用階段

年に何回ご光臨賜るかわからないその機会のために、
わざわざ専用階段を設けているのです。

江田島の海軍兵学校にもやはり玉座がありますが、
確かここに上るための専用階段まではなかったような。



その階段画像もう一度。
といっても、こうやって二つの階段を比べてもその違いはわかりません。
が、実は陛下がそのおみ足を乗せた途端、

膝を動かすだけで勝手にすいすいとその御体を押し上げてくれる

ような仕掛け、つまり、階段の踏み板のの中央にわずかな凹みがあり、
さらにほんの少し手前に傾斜をつけてあるのだということです。



さて、極東軍事裁判のとき玉座は取り壊され、同時通訳席が作られました。


このときに通訳モニターとして働いた日系アメリカ人、アキラ・イタミと
太平洋戦線で宣撫工作を行っていたハリー・フクハラについて先日書きましたが、
つまりここに設えられたガラスのブースから、イタミは裁判を見守ったのです。
そのときにもお話ししたようにイタミはその後拳銃自殺をしますが、
そのガラスブースから、彼は東京裁判の通訳を通して何を見ていたのでしょうか。


児島襄の「東京裁判」では、いよいよ刑言い渡しのとき、
当初、東条英機の判決通訳をアナウンスすることになっていた二世が
文官で死刑はありえないと言われていた広田弘毅の担当通訳に、

「死刑の言い渡しを通訳するのは嫌だから、代わってくれ」

と頼み込み、頼まれた方は快く

「俺はビッグネームをやりたいから歓迎だ」

と引き受けたので通訳を交代したところ、
その広田が誰もが驚く「デス・バイ・ハンギング」の判決だったので、
わざわざ広田に変えてもらった通訳は真っ青になった、
というエピソードがありましたが、日系アメリカ人の悲劇を描いた
山崎豊子の小説「二つの祖国」でもこのシーンがありました。


「二つの祖国」はいまでは信じられないことですが、NHK大河ドラマ化されました。
「山河燃ゆ」、この配役、今見るとすごいです。

天羽賢治(松本幸四郎)天羽の父(三船敏郎)母(津島恵子)
天羽の弟1(西田敏行)戦死する弟(堤大二郎)
梛子(島田陽子)チャーリー(沢田研二)天羽の妻エミー(多岐川裕美)
天羽の妹(榊原郁恵)天羽の日本の恋人(大原麗子)


東郷茂徳(鶴田浩二)昭和天皇(高橋昌也)

弟の恋人マリアン(ヒロコグレース)米人記者(ケントギルバート)

中華料理屋の娘(アグネスチャン)


日系1世のクリーニング屋のオヤジに、三船敏郎って・・。

最後の三人は原作には全くでてこないキャラクターで、単なる顔見せですが、
このケントギルバートの記者の設定がすごい。

戦艦大和の建造を探る中で右翼の青年に暗殺される。
彼の暗殺後、賢治も日本から追放されて入国できなくなる。

まあ、当時戦艦大和の建造をアメリカ人が調べちゃまずいかもしれんね。

しかし皆さん、これはこれで(笑)観たくありませんか?


なんでも当時「山河燃ゆ」は「史上最低の大河視聴率」と言われたそうですが、
それでも平均視聴率21.1%、最高視聴率30%。

同じ燃ゆでも「花燃ゆ」がこの度歴代最低視聴率を更新したため、今となっては
この「山河燃ゆ」など、歴代ワースト20位以内にも入ってきません。


映画でもいいから是非一度、変な改変なしで「二つの祖国」を
映像化してくれないかなあとわたしはずっと思っています。



冒頭の裁判中の写真と実際の写真をもう一度見比べてください。
裁判中の写真には天井から「吊り照明」がたくさん見えますね。

これは進駐軍、軍事裁判法廷の意向で

「昼のように明るく法廷を照らすこと」

とされたので、そのために急設した灯です。
画面の右側が裁判官席で、その後ろのカーテンを閉めていたため、
そして主にアメリカからは映画の撮影班も来ていましたから、
まるでハリウッドの映画撮影のように過度な照明がされました。



こんな明かり取りじゃまったく足りない!というわけです。



しかしこの過度な照明、夏は大変でした。
何しろ当時、

クーラーがここには備わっていなかった

のですから。
暑さの上に過剰な照明で報道陣は勿論のこと裁く方も裁かれる方も、
だれてしまった時期があった、と児島襄の「東京裁判」には描かれています。



これは前回の見学の時の写真ですが、この前から2番目の長椅子の角の部分。
ここに証言台がありました。


各被告が個人反証のときに座った、あの証言台です。

ここに・・・。

さて、ここには写真でもお分かりのようにガラスケースがあり、
そこに実際の資料や写真が展示されています。



極東国際軍事裁判は、東條英機らA級戦犯7人の絞首刑という
驚愕すべき厳しい判決が下されました。
この写真は最終判決を聞いたのち正面から出てきた被告たちです。



今市ヶ谷記念館となっている建物の正面5段の石段の上でこの写真は撮られました。

南次郎大将(前列左端)のお髭が立派です。
それにしてもさすがは一国の政治指導者だった人々。
カメラの放列の前に立つ様子は悄然とした様子はなく皆堂々として見えます。

東条英機の左斜め下が木戸幸一、壁際で一人だけ左を見ているのが荒木貞夫。
海軍大臣だったことで訴追された嶋田繁太郎大将は南大将の右上の粋なコート姿。
この被告のグループの中で英語が堪能であったこともあり、米軍との折衝を行うなど、
リーダーシップを発揮していました。


左に立っているMPは、


オープレー・S・ケンワージー中佐。

市谷法廷における被告たちの世話と監視にあたった
この下士官出身の憲兵隊長は、東京に赴任する前にマニラにいて、
あの山下泰文、本間正晴の処刑を見届けています。

「山下は軍人として立派に死んでいった。
わたしも軍人としてあのように死んでいきたい」

二人を畏敬していたケンワージー憲兵隊長の気持ちは
そのまま市谷のA級戦犯たちの扱いに表れました。
彼らを尊敬し、手厚く儀礼を以て接し、時には接見のときに
家族と少しでも長い時間会えるように計らいました。

それを日本人である被告たちがありがたく思わないわけがありません。

判決が下り、ケンワージーと別れることが決まったとき
被告たちは相談して、彼に全員の揮毫を贈呈しています。



ここには「東京裁判は無効であり被告は全員無罪である」
と独自の判決書を出したラダビノッド・パル博士についての
少しの資料も見られました。



わたしたち日本人との関わり合いで、
パル判事は偉大な知識の光明をこの世に遺してくれた。

決してわたしのこの評価は大げさなものだとは思いません。


パル博士がいなかったら、東京裁判の欺瞞性が戦後の日本に膾炙し、
同時に自虐史観から抜け出そうとする動きは

今よりさらに遅れたであろうことは、火を見るより明らかだからです。

しかし、そのパル博士がインド代表判事に選出されたのは
ちょっとしたアクシデントによるものでした。

2009年と言いますからごく最近分かったことですが、パル博士は
休暇中の裁判官の穴を埋めるために、短期間裁判官代行を務めただけで、

インド総督府の認める正式な判事ではなかったと言うのです。

全体的にこの裁判は事務手続きにいい加減なところがけっこうあり、
一番ひどい例は用意された被告席に全員が座れないことが分かった時、
二人(陸軍大将だった阿部信行と226で青年将校たちに担がれた真崎甚三郎)
を訴追しないことにして帰らせたりしています。

パル判事の人事も国内手続きのミスと言うべきだったのですが、

ともあれこの偶然が日本にパル博士を与えることになったのです。


このミスに「神の配慮」を感じるのはわたしだけでしょうか。




この写真は珍しくカラーですが、誰かの(処刑された7人のうちの)
遺族が、GHQにもし見つかったら叱責没収になることを覚悟で
こっそり写したものなのだそうです。

証言台にいるのは広田弘毅元外相のように見えますが・・・・・・。




写真自体は特に変わったものではありませんが、
この提供者の名前を見てください。

森山真弓元法務大臣。

森山元法相は当時津田塾女子大を出て通訳のアルバイトで
極東国際軍事法廷の現場にいました。



翻訳業務中の森山真弓(たん)。
彼女はこの後東京大学に入学し、官僚をへて政治家となり、
自民党から法務大臣、文部大臣、内閣官房長官などを歴任します。

どうでもいいことですが、彼女と結婚することになった男性は
「君は飯は炊けるのか」と聞いたとか。

「相撲の土俵に女性を上がらせろ!」とか夫婦別姓推奨とか、
なんだかフェミ臭い政治家でしたが、ご飯くらいは炊けたんじゃないかな(適当)





前回の防衛省見学ツァーの記事からも抜粋再掲してお送りしました。

続く。



 


私は怒っている。”高市発言”を捏造する人たちに。

2016-04-21 | 日本のこと

ここのところ、震災関連のニュースに気を取られて更新の間が空き、
さらには頂いたコメントにお返事も滞りがちですが、
エントリ製作しようとしても、あの東北大震災のことを考えると
こちら(関東)で九州のことを高みの見物を決め込むような
呑気なタイトルでお話しするのがはばかられたと御理解ください。

書きたいテーマはたくさんあるのですが、今パソコンに向かっても
「それどころではない」感が罪悪感のようになって押し寄せ、
どうしてもこのような内容になってしまいました。

高市大臣の発言に対する野党とマスコミの狂乱ぶりについては
いろんな人が意見を述べているので後追いになりますが、
先日ポストに入っていた一冊の通販雑誌を見たことから
これはわたし自身の理解のためにも一度ちゃんと検証するべきだと思い
取り上げることにしました。 



さて、前からそうだそうだとは思っていましたが、左に傾きすぎて、
昨今では完璧にオルグ雑誌(通販はおまけ)に成り果てた通販生活。

震災後特に原発ゼロを前面に打ち出すオルグ雑誌の実態を隠そうともしなくなり、
菅直人さんにインタビューして「あの時の苦労」を語ってもらい労をねぎらう、
などという目眩のするような読み物を載っけているうちは笑って見ていましたし、
左翼の陣容とその主張を知るためにも、むこうが勝手に送ってくるうちは
これを拒まず通販も時々利用していたわけですが、今回、この表紙をみて、
わたしは
「ああもうだめだわ」と限界を感じ、電話を取り上げて
VIP専用ラインのオペレーターにカタログの即時停止を申しつけました。

makitaの掃除機紙パックや老舗のおかゆなど定期購入していたせいで
いつの間にやらわたしはVIP会員にまで出世していたんですけどね(笑)

「何かご不満な点でもございましたか」

丁寧に聞くオペレーターに、

「原発ゼロまではまあこういう考え方もあろうと思ってみてられましたが、
今回はもうダメですね。限界でした」

「それは誠に申し訳ありませんでした。
カタログはお送りしませんが、VIPメンバーにお名前を残してもよろしいでしょうか」

あー、別にどうでもいいです、ってわけでもないですが、オペレーターと
カタログハウスの思想について議論したり況してや文句を言う筋合いでもないので
かまいませんよ、がんばってくださいねと心にもないことを言って電話を切りました。

いやーこれ・・どう思います?
ISISの人質事件に次いでクソコラ大会にもなった「私たちは怒っている」。
岸井成格、田原総一郎、鳥越俊太郎ら煮しめたような左翼の言論人が
高市総務大臣の電波停止発言が「憲法と放送法の精神に反している」
としてみんなで怒っておるわけです。

通販生活の2016年夏号の凄まじさはこれだけではなく、なんと
メインの読み物は

『自民党支持の読者の皆さん、
今回ばかりは野党に一票、(ココ超大文字)
考えていただけませんか」

ですよ?



一番先に出てくるのが、橋下さんにコテンパンにやられて涙目だった
山口二郎(「安倍、お前は人間じゃない!叩き斬ってやる」の人)、



半世紀前にはお色気DJ()として一世を風靡し「レモンちゃん」と呼ばれた
フェミ活動家落合恵子、(すっぱいという意味では今もその存在感は現役)
毎年経済崩壊を予想している浜矩子(今回の落合恵子との対談では
『安倍政権が支持されているのは経済がいいからだけど、経済成長をすれば

幸せになれるという幻想からそろそろ目覚めましょう』だそうです。
それならもう経済学者なんていりませんよね)などの豪華執筆陣。



そして極め付け、なんと驚くことに「どこにでもいる政治的無知な劣等生」と
ソフトバンクの副社長にレッテルを貼られたシールズの奥田くんが
『投票したい野党がないと諦めている場合ではありません』とありがたいご意見を・・。

じゃー、自民党以外のどこに入れろっていうのかね奥田君(とカタログハウス)。


とにかく通販生活にもう今回で愛想も尽き果てたのですが、今日はこの、
周回遅れでわざわざ「私たちは怒っている」を表紙にしたセンスのなさを
論うついでに、彼らの高市発言への非難がいかに的外れで
わざと論旨をずらしてただ政権批判しているだけなのか検証したいと思います。

わたし自身かなり気が進まないだけでなく、
なぜ今のこの時期に、というご意見もございましょうが、
熊本の地震におけるマスコミ各社の態度、そして
この件で高市総務大臣を叩いている民進党始め野党の、地震を利用して
政権を叩こうとしている下心が眼にあまったからです。

たとえば、関西テレビがガソリンスタンドの横入りをツィッターで拡散されて、
非難が集まったとき、それを身内が嘘の情報で庇い立てしたり、仕返しに
(関係者かどうか確定してませんが多分)ツィートした人の個人情報を晒したり、
というニュースもありましたしね。

思うに、高市大臣への非難は、結局はこのガソリンスタンドの件と同じ構図です。
自分たちはやりたい放題やる、しかし自分たちを非難することは許さない、
政権には野党と協力して発言者に『恥ずかしい思いをさせる』(ホントーにこういった)
個人のツィートには情報を晒して『恥ずかしい思いをさせる』・・・。

いやはや、電波ヤクザとはよく言ったものです。
これではマスコミという権力の監視は一体誰が行うのですか。

さて、この電波雑誌(電波の意味違い)、この表紙に書かれたことを読んでみましょう。

「(高市大臣は)電波停止を命じる可能性について言及した。
誰が判断するのかについては
『総務大臣が最終的に判断することになると存じます』と明言している」

これは酷い印象操作だとわたしは思いましたね。
まるで高市大臣が恣意的にその法律を行使する意思を示しているみたいです。

では実際はどうだったのでしょうか。
この件でいろいろ調べてみたのですが、問題とされた答弁の前後を
曲解することなく抜粋するのが一番わかりやすいと思いましたので、
長くなりますが書き出してみます。
奥野というのはこのとき高市大臣に質問した民主党の奥野総一郎氏です。


奥野 最近、古舘伊知郎、岸井成格、国谷裕子など、
いわゆる政権にものを申してきたとされる
キャスターが降板となった。


たとえば『報道ステーション』では、一昨年の衆議院選挙のときに、
「アベノミクスの恩恵が富裕層にしか及んでいないかのような報道をした」
として、自民党から名指しで文書で注意がいっている。
『NEWS23』に対して、安倍総理が出演した際に、アベノミクスに批判的な
街の声が紹介され「街の声の実態が反映されていない」と指導の文書がいっている。

(批判的な声ばかりが紹介、と言っていないのに注意) 

昨年は、テレビ朝日の古賀問題、あるいは『クローズアップ現代』の問題で、
自民党の幹部が、テレビ局に対する停波、放送の停止について言及した。

昨年9月16日の『NEWS23』で、岸井アンカーが、
「メディアとしても安保法案の廃案に向けて、声をずっと上げ続けるべきだ」
と主張したことに対し、「放送法順守を求める視聴者の会」が
「一方的な意見を断定的に視聴者に押し付けることは、放送法に明らかに抵触する」

と質問状を送り、これが降板のきっかけになったという報道もある。
 
籾井会長は放送事業者として、公共放送の代表として、
「政治的公平性は1つの番組の中で求められている」のか、
「放送番組全体、NHKの番組全体で求められているのか」どうお考えか。


籾井勝人氏
 それぞれの番組の中でバランスを取っていく。


奥野 放送法4条1項の2号、政治的公平性は誰が一体判断するのか。
会長が政治公益性が取れてないと判断した時に、
編集権を行使して、変更を命じることはあるのか?

籾井 実務は分掌されているので各役員並びに現場の局長が判断する。

奥野 その権限でバランスが取れていない時は(会長権限で)変えることもあると理解する。

(・・・・えっ?)

バランスが取れている、取れていないの基準は何か? 誰が判断するのか?

籾井 その放送法に則って判断をする。つまり最終的には視聴者である。

奥野 それは視聴者なのか? 会長か会長の腹心が判断するのではないか? 
放送法の理解が間違って居る。

籾井 放送法に則ってバランスをとることを心がけるが、
万が一それに外れた場合もわたしが裁くのではなく、判断は視聴者の反応に委ねる。

奥野 個々の番組で政治的公益性が保たれているかどうかを最終的に判断するのは
最終責任者の会長ではないのか?極めて無責任な答弁だ。



(高市大臣に)
「放送法遵守を求める視聴者の会御中」として高市大臣の回答がなされた。
「基本的には、1つの番組というよりは、放送事業者の番組全体を見て
判断する必要がある」というものである。

しかし
「殊更に特定の候補者や候補予定者のみを、相当の時間にわたり
取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に
明らかに支障を及ぼすと認められる場合」

「国論を二分するような政治課題について、放送事業者が、
一方の政治的見解を取り上げず、殊更に、他の政治的見解のみを取り上げて、
それを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合のように、
当該放送事業者の番組編集が、不偏不党の立場から逸脱している場合」

には政治的公平性は確保されていないと考える。

これは従来の答弁を変更したということか?

(変更したというより、全く別のカテゴリの話題だと思うんですがわたし。
こんなあほな質問に真面目に答えなければいけない大臣って大変・・。
ましてやこの議員、これで誘導尋問しているつもりですからね)


高市早苗氏 政治的な問題を扱う放送番組は
「不偏不党の立場から特定の政治的見解に偏ることなく、
番組全体としてバランスの取れたものであること」であるべきで、
「1つの番組ではなく事業者の番組全体を見て判断すること」である。

民主党政権時代も同じ答弁がなされている。
NHK会長は放送法第51条において、責任を果たしていただきたい。


 まったく同感だ、さきほどの会長の発言は職務放棄である。
ところで補充的答弁とは解釈が変わったのか。事情が変更したのか。

高市 事情の変更はない。
わかりやすく整理をしていくという意味で申し上げた。

奥野 電波法174条では総務大臣の権限として、放送を止めることができる。
個別の番組の個別の内容しだいで、業務停止処分はありうるのか。

高市 電波法上はその規定は存在する。
しかし実際は、放送法第4条に基づいた業務改善命令ですら行われたことはない。

奥野 特定の政治見解のみを取り上げて、相当な時間繰り返すというのは
極めて曖昧な概念だ。相当な時間って一体誰が判断するのか?

(これ、高市大臣に”大臣権限で停波もありうる”と言うように誘導しているんですね。
やっぱりこれも”日本史ね”と同じで、マスコミとのタッグで揚げ足をとるため
”仕掛けた”疑いが
このセリフで濃厚になったとわたしは思いました)


政権に批判的な番組を流したということで、総務大臣が恣意的に業務停止や、
番組を潰したり、キャスターを外されるということが起こりうるわけだ。
”一方的な政権批判は気に食わないから第4条をたてに停波もある”とはっきり言え。

(この部分、あまりにも発言者の頭が悪くて言ってることが無茶苦茶でしたが、
結局こう言いたいんだと解釈しました。原文はどこかで確かめてください。
つまり何としてでもこう言わせて言質を取るために誘導しとるわけです)

高市 民主党政権時代から第4条は法規範性を持つものだという位置付けだ。
その法規範性でいうと、もしある放送事業者が偏向報道を繰り返し、
それに対して
行政指導(実際には要請)をしてもまったく改善されなかった場合にも、

罰則規定がまったく行使されない、という約束はできない。

(ここで高市大臣は、規範性を担保するために法律には罰則を伴う、という
法治国家の大臣として当たり前のことを、聞かれたから答えているに過ぎません)


奥野 今回、この解釈の変更で、個別の番組についても責任を問われるということか。

(さすがは元民主。奥野選手、まったく人の言うことを聞いておりません)

自民党幹部が、個別の番組の停波について言及したそうだが、
それは報道の萎縮を生む。だから発言撤回しろ。

キタ━━━(;´Д`);━━━━!!!


(いや、そういう法律がある、という発言の何を撤回しろというのか。

マスコミがやりたい放題やって椿事件のようなことをまた起こしても、
法の執行は絶対にしないと約束しろ、とでもいうんでしょうか)

高市 撤回はしない。

将来にわたってよっぽど極端な例、放送法の、それも法規範性があるものについて、
何度も行政のほうから要請をしても、まったく遵守しないという場合には、
停波の可能性がまったくないとは言えない。

(全文読んでいる人にはなんの不整合もないこのラインですが、まさにこの部分を
取り出して言質を取ったつもりで騒いでいるのが『怒っている』のおじさんたちと
ガソリーヌ山尾を中心としたミンスィン党とカタログハウスなのです)



奥野
 今までそういう指導はBPO(放送倫理・向上機構)がやってきた。

BPOが改組されて、こうした問題を扱う検証委員会があるのだから
総務大臣が行政指導をすることはおかしい。

(公衆の面前で中指立てていた人が委員だったりするBPOね。
お友達同士でなあなあでやって監視の意味があるの?)



高市 BPOはNHKおよび、民間の放送事業者の団体だ。
総務省には行政としての役割がある。

昨年4月のNHKの事例(クローズアップ現代のやらせ)では放送法4条に
明らかに抵触する虚偽の放送が行われており、その後出された改善案についても、
誰が、いつ、どのように、という具体性に欠けていたので、行政指導を行った。

(これに対しNHKは約5時間半にわたり監査員の『文書警告』の受け取りや
局への
立入をを拒否した)

しかし、行政指導は法的に処罰するものでもなく、相手を拘束する権限もない。

こちらからの要請に放送事業者の協力を仰ぐという形だ。

奥野 停波とか業務停止命令を振りかざせば言うことを聞かざるを得ない。
行政指導もするべきではない。
キャスターの交代も結局そういうことなんだろう。そうだな?(ドヤ顔)


『さあ、これで責めるネタゲットじゃあ!』

という内心の奥野の声が聞こえてきそうですね。
案の定この後、高市大臣の発言をめぐって野党とマスコミは大騒ぎしました。

ところが、辛坊治郎氏が、この件についてこんなことを言っています。


【辛坊治郎】 言論弾圧報道の嘘と高市発言の経緯を辛坊治郎が懇切丁寧に解説w 【高市発言】


長すぎて観る気になれん、という人のために3行でまとめると、

「こういう答弁は官僚が前もって質問通告に応じて答弁を書くもので、
民主時代に平野大臣に同じ質問がされているのであらかじめ答えがわかっている。
民主はこの想定された答えを高市大臣に言わせて言論弾圧だと言質を取った」

ね?

わたし、これを見たのは何を隠そうたった今なんですが、辛坊さんの意見、
わたしと全く同じですよね。
「あちら側」に与せずちゃんと物を言ってくれる人がマスコミにいてよかったよ。
遭難事件の時は厳しく言いましたけど。ま、あのときはあのときってことで<(_ _)>

それにしても、こんなお粗末なネタでみんなが騒ぎ立てるなんて、
辛坊氏に言わせると「頭おかしいんじゃねえか」ということになりますが、
こういうことをやっている人たちって故意犯、誤用の方の「確信犯」なんですよね。

通販生活ももちろんそう。
周回遅れとはいえ、表紙にバーン!と載せれば、ネットを見ない人
(うちの母とか)
なんかはとりあえず騙せるはず、と思っているので、
印象操作で一人でも多く「自民以外に投票」するよう洗脳できればいいんです。
高市発言の真偽なんて検証されては逆に困るんですよ。

わたし、この通販生活が届いたとき、改めてその悪質さにショックを受け、

まず世間ではこの夏号のことをどう言っているか調べてみたのですが、
不自然に「すごい!ここまでするか」と自画自賛する?ツィッターとか、
この号に寄稿している人ご本人のツィートしかでてこなくて(笑)

まあ、普通の人ならこんなのわざわざ買って読まないよな。

悪質なのは、高市大臣の件のようにあえて物事を検証せず、

特定の政党の主張する偏向した内容だけを取り上げつつ、
通販を餌に無自覚な無党派層を刷り込もうとしているというところです。

ていうか通販の記事抜きでだれがこんな雑誌買ってくれるか一度やってみろっての。


民主→民進党も、自民を叩くことだけが存在意義の泡沫野党に成り果てました。
ブーメランが幾度刺さりまくっても立ち上がるそのガッツだけは評価できますが、
今回の左翼言論人を取り込んでの高市叩きはだいぶ無理があります。

国民は覚えていますよ。

おたくの三日震災復興大臣が、東北で知事相手にゴーマンかましまくった挙句、

「書いたらその社は終わりだから」

と報道陣を恫喝したことを。

また輿石東幹事長(当時)が番記者とのオフレコ懇談で

「間違った情報ばかり流すなら、電波を止めてしまうぞ! 
政府は電波を止めることができるんだぞ。
電波が止まったら、お前らリストラどころか、給料をもらえず全員クビになるんだ」

と語ったということがありましたが、 カタログハウスは、
どうしてこの「言論弾圧」に怒らなかったのかなあ(棒) 


ところで、7人の怒れるおっさんたちのその後について。
作曲家のすぎやまこういち氏が代表呼びかけ人を務める団体
「放送法遵守を求める視聴者の会」が、放送法をめぐって、
この7人に公開討論を呼びかけたのですが、結局期日までに
誰からも受けて立つとの意思表示はなく、逃亡したと世間では見られています。

ホームグラウンドでお山の大将みたいに好き勝手言うのは得意だけど、
アウェイどころか討論にすら、7人もいて誰一人勝つ自信がなかったってことですよね。
ここで「視聴者の会」を論破できれば賛同者も少しは増えたかもしれないのに・・。


そもそも本人たち、会見で「政府から直接・間接の圧力を受けたことはない」(岸井氏)
なんてバカ正直に言っちゃってるし。
結局「怒っている」アピールして、世論を焚きつけるだけが目的だったってことでしょうね。

笛吹けど踊ったのはカタログハウスくらいだった(しかも周回遅れ)ようですが、
まあとりあえずがんばってくださいね。





”BABYSAN”~進駐軍の恋人

2016-03-21 | 日本のこと

「ホーネット博物館」の空母「フィリピン・シー」のコーナーに
展示されていた謎の本です。

「個人的な目で見た日本占領」

とあり、ナイスバディの下駄を履いた日本娘が、にこやかに
アメリカ兵の前で手をあげて、あたかも、

「私たちの国、日本へようこそ!」

と歓迎しているようです。
この「BABY SAN」という題名を手掛かりに調べてみたところ、
こんなことがわかりました。

作者はビル・ヒューム
1942年から1945年まで海軍におり、結婚で一旦退役しましたが、
1951年に占領軍の下士官として占領下の日本に滞在しています。

彼の駐留していたのは、横須賀の追浜で、彼はここで進駐軍のための
機関誌「OPPAMAN」の編集長として活動をしていたと言います。

そのときに見たもの、アメリカ海軍軍人が、駐留していた日本の
異文化に触れて受けたカルチャーショックなどを、ヒュームは

「BABY SAN」(ベイビーさん)

という日本女性のキャラクターを創造し、最初のうちは
追浜の米軍基地の掲示板に発表するピンナップ画として発表していました。

最初、米海軍の120航空隊の水兵たちの人気を博し、そのうちそれが
「ネイビータイムズ」に取り上げられてアメリカ本土でも有名になったので、
ヒュームは帰国して4冊の「Babysan」を出版しました。
(Babysan's World, Anchors are heavy, When we get back from Japan)

このピンナップガール「ベビさん」は、漫画家としてのヒュームの足がかりになり、
彼を有名にし、これが代表作ともなっています。




それでは、「ベビサン」をちょっと覗いてみることにしましょう。

「ベイビーサンはクリエイトされた存在ではない。
どのエピソードも、あのとき富士山の国でアメリカ男たちが経験した
大なり小なり本当のことに基づいている。」

とヒュームは言っています。



「日本の女の子ってこんなのだと思ってた?」

このカートゥーンには、踊るベビさんをみながら、水兵がうっとりと、

「国にいる彼女とそっくりなんだよなあ」

と呟くというものもあります。
占領国に進駐するかつての敵国軍人として日本にいるアメリカ軍人たちですが、
どこにいっても若い男が考えることはただ一つ。

問題は、たいていの軍人は結婚していて、日本娘との恋愛を
決してそういう前提で考えていなかった、ということです。

つまり、彼らが知り合い、ましてや恋に落ちることのできる相手は、
当然ながら当時の言葉で言うところの「パンパン」ということになります。

そう、つまりベビさんは・・・・・



「なんでいっつもキャンディなの?なぜオカネ持ってきてくれないの?」

アメリカ男にすれば疑似恋愛のつもりでも、ベビさんにとっては
「仕事」なのですから、当然ですね。




「日本の女の子はアメリカの女の子と違うっていうの?」

うーん、水兵さん、ベビさんにメロメロですが、随分貢がされた模様。



「アメリカに連れてってくれるなら、全部の州に連れてって”ネ”?」

ベビさんはよく疑問形の後ろに「ne?」をつけます。
日本語の「ね?」が英語でもでてしまうようです。

彼女はモテモテなので、すべての州に付き合った男がいるんですね。
中には「Ohno」という日系アメリカ人もいるようです。



「ジョーさん!今夜は勤務だって言ってたと思うけど?」

ベビさんの勘違い?それともジョーがディックと「交代」したのかな?



「今日、故郷に帰らないといけないの。母が病気で」

ダブルブッキングもの、もう一つ。
しれっとお母さんを病気にしていますが、男物の大きな靴が玄関に。

彼女も口ではこういっているけど、ばれても平気って感じですね。

戦後、敗戦でショボーンとしてしまった男たちに比べ、ある種の女たちは
たくましく、進駐軍が来るなり、彼らのニーズに応えてたちまち
「日本の恋人」になる代わりに・・世間からは眉をひそめられる存在となります。



「母の写真、弟の写真、妹の・・・お給料日には仕送りをしなきゃ!」

問題は「誰のお給料日」のことなのかってことなんですが。
この絵の左側に付けられたキャプションによると、大抵のベビさんは
働き手のいない家族を一人で養っていて、稼いだオカネを仕送りしていました。

まあそうですね。

家族の誰かが働いて、皆が食べていけるのなら、外人男相手の
「パンパン」になど
誰が好き好んで身を落としたでしょうか。
当時の貧しい女性が家族を養って生きていこうと思ったら、
そして少しでも楽をしようと思ったら、この選択もやむなしだったということです。

現在お隣の国の人権団体とやらが言い張るように、
無理やり連行されてではなく、
あくまで彼女たちが選んだ道ではありましたが。

そして、かつての敵国だった国の男たちにとっては、彼女らがこの日本で知る
唯一の、「生きた日本女性」であり、その付き合いが日本文化を知る
機会の一つであり、ギブアンドテイクの世界で彼らはそれを楽しんだのです。



「だっておかしらがないと縁起が悪いでしょ?」

カルチャーギャップもところどころでネタにされています。
「(靴を玄関に置いておいても)誰もそんなもの取らないわよ?」とか。



「ノーノー、ベビさん、FULL ルテナントって言ったんだよ、FOOLじゃなくて」

彼女の「恋人」はセイラーだけでなく、もちろんヤングオフィサーもいました。
「Full Lieutenant」というのは公式の階級呼称ではなく、海軍全体で
少尉(Ensign)、中尉( Lieutenant Junior Grade)と大尉(Lieutenant)
の違いをはっきりさせるときに使います。 

O-1 Ensign

O-2 LTJG Lieutenant Junior Grade

O-3 LTLieutenant ( Full Lieutenant)

ということなので、「役満中尉」ってことだと思います。(適当)

ビル・ヒュームは幾つかの「日本占領もの」を書きましたが、彼は
一度として日本男性を描くことはなかったそうです。
彼が日本を見る目は、ベビさんというキャラクタライズされた日本女性を
通してだけで、それは「狭い世界の狭い視点」からの日本にすぎません。

しかもベビさんは当時ですら非常に特殊に類する女性だったのですから、
本人が気づかずとも、そこに偏見が満ちているのはごく自然のことです。

Anything but political, the comic plays on misunderstanding and sexuality. 
(政治的でないのはもちろん、それは偏見とセクシュアリティに満ちている)wiki




有吉佐和子の「非色」という小説をお読みになったことがあるでしょうか。
進駐軍の兵士として日本に駐留していた黒人のトムと結婚した笑子。
彼女はベビさんのような種類の女ではなく、職を求めてPXで働いていた
「カタギの女」です。

彼らは結婚し、アメリカに渡るのですが、そこで彼女は日本にいるときに
潤沢に物を買い与えてくれた夫が、アメリカに帰ったら「貧しい非差別人種」
であることの現実を思い知ります。

日本にいるあいだは、黒人兵にとってそこは「自分より下の人種がいる天国」で、
とにもかくにも色の黒くない肌の子供を産んでくれる日本女性は、まるで
自分の地位を上げてくれ、アメリカでは最下層の自分をも頼りにしてくれる
天使のような存在であった、ということが描かれていました。

主人公、笑子のような女性を「戦争花嫁」(War bride )といいます。

 

終戦直後のアメリカでは、法の下で有色人種に対する差別が保証されており、
アメリカ軍では異人種間の結婚は禁止されていました。

アメリカ軍人が、被占領国民でかつ黄色人種である日本人女性に産ませた子供を
認知する義務はなく、そもそもまだまだ排日移民法がアメリカでは生きていたため、
日本人妻子のアメリカ入国は不可能だったのです。

これはどういうことかというと、日本で女性とどうにかなって、日本で一緒に住み、
子供までなしても、任務の期間が切れて帰国したらあとは音信不通、
残された女性と肌の色の周りと違う子供は路頭に迷う、という例が多々あったのです。


1946年6月29日、アメリカ軍は「GIフィアンセ法」を制定し、
日本人女性とアメリカ軍兵士・軍属との結婚が可能になり、
1950年、GIフィアンセ法が改正され、アメリカ軍兵士の妻子が
人数制限なしに、アメリカに入国可能ということになりました。

「非色」のトムと笑子は、1950年以降に結婚したということになります。


戦争花嫁、というwikiページをみていただけるとわかるのですが、
戦争が起きると、進駐した外国人兵士と現地の女性が、戦後結婚し、
男性の国に共に移住する、という例はどんな戦争にも一定数あります。

戦争花嫁

あきらかに宗教などの障害の大きいとおもわれるアメリカ軍兵士と
イラク女性のあいだにもあったのですから、占領時代に日本女性と
恋に落ち、アメリカに連れて帰った例はいうまでもなく多数ありました。

ある統計では、第二次世界大戦後、アメリカ軍兵士が世界中の戦地から
連れて帰ってきた戦争花嫁は30万人だとされています。
この中には、日米のように敵国同士であった国ではなく、米英のような
同盟国同士の婚姻例も含まれています。


しかし、結婚してアメリカに渡米することのできた笑子のような例は
まだしも(あとのことはともかく)ましで、やはり中には
「現地妻」「占領地の恥はかき捨て」というけしからん輩もいて、
(そもそもアメリカでは妻帯者だったりするわけですから)
従ってあちらこちらに「マダム・バタフライ」を生むことになりました。

この漫画の「ベビさん」は、ともかくも今日明日食べていくために
アメリカ男たちを手玉に取っているだけのように見えますが、
そんな商売をしていても、どこかで自分が虜にした男は、いつか
必ず自分をアメリカに連れて行ってくれる、と信じている風でもあります。

 

これが「BABYSAN」のラストシーンです。
思いっきりそれらしく訳してみたかったのですが、ここは
「He wonders」のリフレインの雰囲気を壊したくなかったので
皆様の読解力にお任せすることにしました。

かつての恋人を乗せた船に手を振りながら、埠頭を歩いてくる
かっこいいセイラーに早速目を奪われているベビさん(笑) 



「ベビさん」シリーズは、進駐軍の兵士たちに大人気であり、まるで

ガイドブックのように進駐を控えた兵士が日本に赴任する前に読む、
という活用のされ方をしていたようです。
彼らはベビさんが特殊な女性であることを知ってかしらずか、
こんな女の子に会えるとワクワクしながら日本にやってきたフシもあります。

美人で、奔放で、エキゾチックで、なんといっても男に都合のいいことに
彼女は決して男に金と情熱以外のものを要求しません。
短期間異次元ワールドに旅行するつもりの男にとって、理想的な恋人といえます。

そして、作者は

Babysan disarmed the sailors and soldiers with her beauty
and ability to adopt new things 

(ベビさんは彼女の美しさと新しいことに適応するその能力etc.で、
水兵やソルジャーを武装解除した)

という「平和的効果」は「 it is highly respected.」(高く尊敬されている)とします。
そして、

These were combined with some of charming things in Japan
including the most charming thing to the United States servicemen
according to Hume, the Japanese girl.


(日本にある幾つかの魅力の中で、ヒュームによれば、
アメリカ合衆国軍人にとって最もチャーミングなものは日本女性)

という賞賛を与えてはいるのですが、残念ながらその評価は非常に
偏った、本人にも気づかない蔑視に満ちたものだと言わざるを得ません。

ヒュームは、「BABYSAN」の序文で、こんなことを書いています。



「この本をフジサンの国を訪れたすべてのアメリカ人に捧ぐ
そして、占領時代、いかに占領されていたかを、
日本人から学ぶ
ことになるかもしれない者たちにも」

「ベビさん」は「ベティ・ブープ」のようなキャラクタライズされた
いわゆるセックスシンボルであり、アメリカ男の「ジャパニーズガール」
に対する甚だ調子のいい妄想を掻き立てるための架空の存在にすぎず、
作者のヒュームは、少なくとも誰か特定の日本女性に対し、
このキャラクターを重ね合わせることはなかったと見えて、
この言葉の中には日本女性への賛辞や感謝は全くありません。


「BABYSAN 」の本は当初日本で印刷されたらしく、冒頭の本も
裏表紙には日本円で値段 (¥300 or 85$)とあります。

しかし日本の社会で、この本ならびに「ベビさん」のキャラクターが、
何かの話題になったり、有名になったりすることがなかったのは、
日本人にとって「ベビさん」は、敗戦を象徴する苦々しい存在だったことと、
当時のすべての日本人、特に男性が、大なり小なり「ベビさん」的なものに対して
抱いていた嫌悪と怨嗟のせいだと思われます。



 



 


「日本が悪い」~引揚記念館の語り部と学徒出陣経験者

2016-02-23 | 日本のこと

舞鶴で訪問した「赤レンガ博物館」で仮営業していた
「引揚記念館」についてエントリにしようとおもっていたところ、
その後、それに関連するイベントに参加し、思うところがあったので
少し関連させてお話ししてみようと思います。

わたしが舞鶴を訪れたシルバーウィークの頃、引揚記念館はリニューアルのため
仮設展示をレンガ街で行っていました。
今はもうこの展示も新しくオープンした記念館に移されて公開されているでしょう。

引揚げに関わる写真や資料、遺品や寄贈品など、それこそ「岸壁の母」の
モデルとなった陸軍兵士の母と子についてのパネル展示や港のジオラマ、
当時のビデオ映像などが見られる記念館は、仮展示とはいえ充実したもので、
ぜひいつか舞鶴にいくことがあったら訪れてみたいと思っています。

わたしのデータのうち残っていたのは、まず冒頭の絵を始め、
実際に引揚げを経験した漫画家の作品です。
これ、絵柄を見てすぐにちばてつや氏の絵だとわかる方おられますか?

ちば氏の経歴によると、氏は生後すぐに日本を離れ、2歳の時に、満州に渡っています。
幼い頃、印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に
絵を書いて寒い冬を過ごしていたといいます。

昭和20年、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い、暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、
生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期をすごした。
父の同僚の中国人徐集川に一家は助けられて、屋根裏部屋にかくまってもらった。
翌年、家族共々、日本に引揚げ、千葉を経て、東京、墨田区小梅町に移り住んだ。
(Wikipedia)

引揚げ当時氏は6歳であったということですが、幼いちば氏にとって
強烈な記憶となったのだろうと思われる光景が、これ。



ピントが合っていなくてよくわからないのですが、引揚げの道中、
動けなくなって路傍に斃れ、そのまま息果てる人たちもたくさんいました。



「赤い夕日の中をひたすら歩く」と題された絵。

ここはお国を何百里  離れて遠く満州の 赤い夕日に照らされて・・・

という軍歌をつい思い出してしまいます。
ちば氏の追憶によると、終戦のその日から「地獄を知らされた」(6歳児が)のでした。

「まもなく中国人街で爆竹が鳴り、暴動が起こり、日本人の家を襲いだした。
それから約1年、コロ島にたどり着いて日本に引き揚げるまで長い地獄の旅が続いた」

wikiには一家を助けてくれた中国人については名前まであるのに、実際には
何よりも恐ろしかったであろう「中国人の逆襲・略奪・殺戮」については書かれていません。




どこかで見た絵柄だなあと思ったら、「陸軍よもやま物語」「海軍よもやま物語」
など、一連の「軍よもやま物語」の挿絵を描いている斎藤邦雄氏でした。

斎藤氏は東宝在職中に召集令状を受け、奉天で終戦を迎えました。
1ヶ月後シベリアに移送され、そこで3年間の抑留生活を送っています。

上:親切なロシアマダム 下:スターリンの写真を破る娘

収容所の周りに住む、あるいは捕虜と接触のあるロシア人は、
日本人に対して非常に親切だったという話が多く残されています。
周辺に住むロシア人家庭の子供のために柵越しに手作りのおもちゃを渡したり、
堅牢な建築物を(大地震でそこだけ倒れなかった)作り上げたり・・。

日本人の真面目さと勤勉さに驚嘆した両親から

「日本人をお手本にしなさい」

と言われて育った記憶とともに、彼らに対する尊敬を持っているロシア人もいました。
ジャガイモを分け与えてくれる夫人、そしておそらく捕虜に対する扱いに
憤りを持った若い娘が、目の前でスターリンの写真を破るということもあったのでしょう。



「ロシア人は歌が好き」という絵。

戦後日本で爆発的に流行した「歌声喫茶」で歌われるのは「カチューシャ」「トロイカ」
といったロシア民謡だったといいますが、これはもしかしたら
抑留されていた人が伝えたものだったのでしょうか。

余談ですがロシア人にバス歌手が多いのは、その声帯が
低い声を出すのに向いている人が多いからだと聞いたことがあります。



いろはカルタを残した人もいました。

のべつまくなし解剖哀れ

死亡者が出るたびに解剖させられていた医師に同情しています。
「のべつまくなしに」人が死んでいたということでもあります。

拉致され帰らぬ中沢通訳隊長

元気に手を振って出て行き、それっきり二度と帰ってくることのない
生死不明者はしょっちゅうだったということです。
何かの任務に就かされ、そしてそのまま・・・・。



天皇打倒を叫ぶ赤大根

「赤大根」というのは、おそらく思想教育にかぶれた収容者の蔑称でしょう。
中国でもそうでしたが、シベリアでは捕虜に対し共産主義を礼賛する思想を叩き込みました。

ソ連は当初、日本軍の軍組織をそのまま活用して、間接統治を行いました。
上官を優遇し、彼らには食料や日用品などが優先して割り当てられるように計らったのです。
これは決して日本軍に敬意を払ってしたことではなく、この不平等が、日本人捕虜社会の中に、
軍の上層部及び階級そのものに対する不平と憎悪を生むことを知ってのことでした。


身を以て共産社会主義の素晴らしさに目覚めてもらおうというわけですね。

このころ国際社会から捕虜の取り扱い方針を厳しく批判されたソ連は、
以後段階的に捕虜を帰すことに方針を転換しましたが、それは条件付き、すなわち
ソ連に協力的なものから優先的に帰国させようというものでした。


ソ連は日本人捕虜を徹底的に思想教育し、共産主義への共感と
スターリンへの尊敬を植えつけようとしました。
捕虜社会の中に、思想教育のための協力組織を作らせ、これを通じて
捕虜の教育、ならびにいわゆる反動分子の吊るし上げを行わせたのです。

のちに日本を震撼させた連合赤軍事件では「総括」という名のリンチによって
些細な理由(髪をとかしていたとかちり紙を取ってくれと頼んだとか)で
仲間を殺していったのですが、まず敵を内部に求め、疑心暗鬼から互いを監視しあい、
果ては吊るし上げて殺すこれらの行動パターンは、このとき思想教育された
「赤大根」たちによって日本に輸入されたのではないかと思わされます。

収容所の日本人はこうした政策の中で、互いを監視しあうような生き方を強いられたのでした。
これを地獄と言わずしてなんと言えばいいのでしょうか。

しかも、その「赤大根」が全員ではなかったにもかかわらず、シベリア抑留されていた者は
引き揚げ後例外なく「赤呼ばわり」されたり、警察の監視が付いたりしました。




ところで、わたしは観艦式が終わってすぐ、東京6大学のうちひとつのキャンパスで行われた
戦争経験者の声を聞く催しに参加しました。
学徒出陣を経験したという人物が、その体験を語り学生の質問を受けるというシンポジウムです。

この大学は、最近何かと保守方面から眉をしかめるような話題の中心となることがあり、
なんとなく身構えるものがないわけではなかったのですが、
実際に戦争を体験した人の話に右も左もないだろうとある意味楽観していたため、
なんの先入観も持たず、誘われるがままに現地に赴きました。

都内でも有数の趣のあるキャンパスの、比較的新しいオーディトリウムが会場で、
入り口に続く外の階段を降りていくと、そこでチラシ配りをしている「市民団体」がいました。

市民団体、というのは今や共産党とイコールであるという社会通念にもなっています。
貧乏くさいいでたちに加えて手入れの悪いショートカット、典型的なその手の中年女性が
チラシを渡してきました。

「戦争法案」「廃案」「アベ政治」「許さない」

この文字を確認し(ほぼそうだろうと思っていたので)た次の瞬間、
わたしは黙ってチラシを彼女に突き返しました。
びっくりしたように目を見張って固まる彼女の顔を眺めながら、
ツッコミを入れるために貰っておいてもよかったかな、とチラッと思いましたが。


会場に入ると、まずデカデカと幟に書かれている

「学生を二度と学苑から戦場に送らない」

うーん・・・・あのチラシ配り隊といい、このキャプションといい・・。
おらなんかわくわくすっぞ。
そしてしょっぱなから、期待を裏切ることなく、挨拶をしたのがなんと、

「李という名前の日本人ではない人」(当大学文化学術院の朝鮮史教授)

・・・・。

今、その大学のHPでシンポジウム報告を見ると、この李という人物は
非常にまともなことを言ったように書かれていますが、これはインターネット用に、
ソフトに実態を欺瞞して編集されたものであると実際にその挨拶を聞いたわたしは思いました。

「なぜ学生たちは戦争に行かねばならなかったのか」

「わたしたちはそれを考えることをやめてはいけない」

その後に、いきなりこうですよ。

「今、戦後の平和を守り続けてきた日本の危機が訪れようとしている。
平和憲法を破棄し、戦争を行うための安保法案が強行採決(略)」

どう見ても三国人が先導する左翼集会です本当にありがとうございます。

でもまあ、戦争体験者のお話はそんなものではないと信じたい。
零戦搭乗員のHさんのように左に利用されているのは確実だとしても。

一人目の講演者は、満州に学徒動員で送られた人物でした。
この人の話を抜粋して掲載します。

1945年8月9日、そこに雪崩のように、ソビエト軍が侵攻してきたのです。
相手は157万の大軍で、主力はソビエト陸軍自慢のT-34戦車部隊でした。
戦車による凄惨な殺戮が始まったのです。

124師団は1万5千、対するソ連軍は15万人です。
10対1という言葉では想像もできない、言いがたい恐怖でした。
古い精神主義・建前主義で動く日本軍に対し、ソ連軍は近代的な重装備で、
戦車以外にも自動小銃・狙撃銃などを揃えていました。
1万5千人のうち生存者は1,200人ほどでした。
防衛省防衛研究所の資料には「四散消滅」とあります。

私は小豆山のふもとで敵に発見されました。脱出不能、絶体絶命です。
ソ連兵は長時間射撃し続け、手榴弾も投げ込まれました。

勝利したソ連軍の車列が煌々と明かりをつけて進軍するなか、
深夜敵地から命がけで突破しました。

その後、武装解除され、延吉収容所に送られました。
そこには4万5千人も収容されていました。
そこで、ソ連兵に、日本へ帰すからクラスキーノまで歩け、
そこから貨車でウラジオストックに行く、と言われました。
徒歩の苦しさは生き地獄でした。まさに死の行進です。
クラスキーノで貨物に乗せられました。10月、もう冬が迫っています。
50人もすしづめにされた貨車には、15センチくらいの穴があり、そこが便所でした。
ウラジオストックでは乗船の準備が間に合わないとかで、
ニコライエフスクまで列車は走りました。

10日間くらいで貨車を降り、そこで強制抑留だと聞かされたのです。
日本人は20年、ドイツ人は終身だと。
俺たちは帰るはずだった、何が何だかわからない、もうだめだ、と絶望しました。
10月22日夜、7名が首をくくって自殺してしまいました。
スターリンは、8月23日のソ連国家防衛委員会で、日本人捕虜60万人をソ連の経済復興に利用する、
2,000カ所の収容所を設けて強制労働をさせると決定していたのでした。

シベリアの強制労働では一年間に2,000名が死にました。
死んだら裸にされて穴に埋められました。
また将校による統制に対する「民主化運動」も起きました。
あるとき、ある人物の態度が悪いということで、将校たちが彼を撲殺するという事件が起きました。
それが引き金になって、日頃労働もせずゴロゴロしている将校たちに対する
強い反感から、彼らを「反動分子」として吊し上げたのです。
こんなに苦労しているのにぶらぶらしているのはなにごとかと、謝罪を強制しました。

抑留から3年経ったころ、突然帰ることになりました。
やっと帰れる、歓迎されるか──と思いきや、まったく歓迎されませんでした。
その当時の日本は食糧不足で、シベリアから60万も帰ってきたら食わせるものもなく
どうしようもない、その上、抑留者はソ連に留め置かれて「アカ」になっている、
危険人物だとまで言われ、騒然とした状況でした。

その時、私は血を吐いたのです。肺結核でした。


会場はただしんとして聞き入りました。
わたしもまた、その時代に生まれたというだけで大変な目にあったこの老人の
凄絶な体験に、鉛を飲んだような重たさと、同時に重みを感じていました。

と  こ  ろ  が  。

ここまでは確かにそうだったのです。
が、この次からがまさにこの手の集会らしくなってしまったのでした。

「日本は我々を犠牲にしたのです。」

そして延々と続く日本に対する恨みつらみ。
わたしは、彼が戦い、彼の仲間を殺したのは近代兵器を持ったソ連軍で、
戦後彼らを自国の利益のために抑留したのもソ連という国だった、
という話を本人から延々と聞いた後だっただけに、唖然としてしまいました。

沖縄戦について「ひめゆりの塔の怖さ」というエントリでもお話したのですが、
この人たちは、なぜ直接の殺戮者に向けるべき恨みを全て祖国に向けるのでしょうか。

もうここまでくると「ああ・・」と察してしまってもうなにも驚きませんでしたが、
彼は次いで日本の「侵略」を糾弾しだしました。

相変わらずHPにはきれいにまとめてあるこの部分ですが、実際に
この人が言ったのはこんなことです。

「日本は近隣諸国、朝鮮・中国に、恐怖と悲惨の限りを与えた。
韓国のパククネ大統領は日本のことを1000年恨むといったけど、恨まれて当然だ。 
国を植民地にされて、収奪され、慰安婦にするために女性を強制連行されたんだから」

インターネットに大学の名前とともに流されては何かと面倒の起こりそうな
この部分は一切公演の記録からは消されています。 
 
「日本は侵略者だった。
侵略戦争を国際的にお詫びする、何度でも、何度でも詫びるという姿勢が重要です。
私たちは加害を忘れない、と言い続ける必要があるのではないでしょうか。」

 この部分は本当に言っていたし、きちんと記録されています。
しかしながら、この人物は、日ソ不可侵条約を破って、日本が負けそうになるや
突然参戦してきた上、終戦後は国際法を無視して捕虜を帰さず、恥じることもなく、

もちろん戦後補償などしていないソ連に対しては何の恨みもないようでした。

(エリツィン大統領は非人道行為としてシベリア抑留を謝罪した)



そして、戦後生まれの政治家から成る現在の日本政府に向かって

わたしたちに謝れ、世界に謝り続けよとただ繰り返すのでした。


わたしは菅さんという人は好きだったんですがね、私たちに対して

「お気の毒です」しか言わなかったのでこれはなんたることかと思いましたね。
政府はわたしたちに謝罪をするべきだ。国を代表して、国民を代表して詫びてほしい。 

経済的補償が欲しいのだろうという人もいるかもしれませんが、
財政破綻に直面している日本にそれを要求するわけがありません。

それをしないと日本は世界から尊敬される国になれません。
加害と被害の歴史を国民に対してしっかり教え、
二度と戦争しないと全世界に向かって謝罪し、努力を誓うべきです。



わたしはこの公演を聞いて非常に驚き、防衛団体の会合で話題にしました。
知人の年配の男性に

「どうしてあんな悲惨な目に遭ったのに恨みの矛先がソ連じゃなくて日本なんでしょう」

と疑問をぶつけると、

「思想教育されてきた人だねえ」

と一言。
抑留中に「上官を反動分子として吊るしあげた」と言っているのは
自己紹介というか「お察し」というやつだというご意見でした。

そういえば、舞鶴の引揚記念館には女性の「語り部」がいました。

「中国の人達は日本人に自分の土地を奪われたりしているんですよ。
だから恨みつらみで、終戦になった時に日本人を襲ったんです。
わたしは全ての身包みを剥がれて一糸纏わぬ姿になった女の人の集団をみました。
『せめて何か着せてやりたかった』と男の人が泣いていました」

わたしは長時間館内にいたので、3歳か4歳の時に引き揚げしたという
彼女が、何回も何回も、一言違わず同じ「証言」をしているのを聞きましたが、
その度に

「中国の人は酷い目に遭ったのでその恨みつらみで」

と繰り返すのに強い違和感を持ちました。
ちばてつや氏の証言によると、終戦になった途端中国人は日本人を
堂々と襲いだしたということですが、彼女に言わせるとそれも皆

「日本が悪かったから」「日本が侵略したから」

しかたない、ということらしいのです。
当時幼児だった彼女が見たものは、おそらく終戦までは豊かな満州であり、
そこで一緒に暮らす日本人と中国人であったはずなのですが、
戦後70年経った今、彼女にとって満州とは「日本の侵略」の痕跡でしかないようでした。

抵抗できない女性を襲って身包みを剥ぎ、おそらく陵辱もしたであろう
中国人は、中国人の中でも「悪辣な」部類であったであろうに、
そんな未開な人間の屑の行った犯罪をも

「日本が悪かったから仕方がない」

といいたげに何度も何度も「うらみつらみ」を繰り返す「語り部」。

戦争の責任ををすべて自分の祖国のみに負わせ、祖国を恨みながら戦後を生きてきた
このシベリア抑留者と、幼い目で見た引き揚げの光景に
自分でも気づかないうちに「色」をつけて語るこの「語り部」との間には、
いずれも自分の祖国を愛せず、自分の不幸と戦争の悲惨を全て戦後
作り上げられてきた「日本の戦争責任」に押し付けているという、
「ふるえる」くらいの共通点があるのに、わたしは人知れず暗然としたのでした。




お気分直しに、このときの舞鶴の帰り、京都駅のコンコースで見つけた看板。
 

 

 


特攻を矮小化する人々 ~イントレピッド航空博物館

2015-12-09 | 日本のこと


元「イントレピッド」乗組員、レイモンド・T・ストーンは、第二次世界大戦中、空母「イントレピッド」で
電信員としていくども見ることになった「カミカゼ・エクスペリエンス」を書き残しました。

「MY SHIP!」


というのがそのタイトルです。

 



前回「カミカゼ体験ショー」のときにお話しした、1944年10月29日の

砲座にいた10人中9人が即死した特攻と、11月25日の、69人もの乗組員が戦死した 
零戦2機の特攻(5分と時間を違えず突入は行われた)以外にも、
「イントレピッド」は計5機の突入を受け、そのため二度帰国、修理を余儀なくされました。

同著は、その体験を、戦友を失った経験も加え回顧しているものです。




ところで話は変わりますが、大変不思議なことがあります。 
日本語で「イントレピッド」を検索すると、特攻による被害をこのように書いてあります。

1944年10月にレイテ沖海戦に参加、10月30日に日本海軍の特攻機が銃座に激突し、
10名が死亡、6名が負傷した。
乗員による熟練したダメージコントロール
でまもなく発艦作業を再開する。
同年11月25日、2機の特攻機が激突、士官6名と兵員5名が死亡する。
艦の推進力には影響が及ばず、2時間以内に消火作業を完了した。


????


なぜ日米の彼我でこんなに数字が変わってきてしまっているのでしょうか・
日本版ウィキによると、特攻作戦における「イントレピッド」の犠牲者は、
2回の特攻を受けただけで戦争中を通じて全部でたった21名ということになってしまうのです。



それでは一体これはなんなのでしょうか。

壁に描かれた272名の名前は、すべて日本の特攻機突入による死者重軽傷者です。
今点灯している名前は69人分、つまり11月25日の特攻によって
亡くなった人だけでこれだけがいるということなのです。

日本版ウィキが、特攻突入における死者の数をこれだけ少なく表し、
さらにどちらの被害も軽微なものだったと強調する理由はなんなのでしょうか。

そもそもWikipediaというのは、誰でも編集に携わることが可能なので、例えば人物についても、
偏向した記述をして貶めるような情報操作するというようなことが多々行われているそうです。 


そういう形態を知って、このあからさまな特攻の被害の矮小化を見ると、

「特攻隊の戦果は小さかった」=「特攻は所詮戦況にも寄与しない無駄な作戦だった」
=「特攻は犬死にだった」

としたい「誰か」の意思でもあったのかとさえ勘ぐってしまいます。
戦後、というかいまだに日本では「特攻の与えた被害は大したことない」という論調で、

それを美化するな、と声高に叫ぶ人がたくさんいます。

確かに「外道の作戦」であり、与えた損害と失われた人命の、あえていうなら
「費用対効果」でいえば、「割に合わない」戦法であったと後世から見れば思えます。
しかも、特攻を命ずる方も、1機が効果的にダメージを与えられる小型船舶ではなく
「死者の花道」として丈夫な戦艦や大型空母を狙って死にたいという搭乗員の「冥利」を無視できず、
非情な命令を下しながら、最後まで非情になりきれないという日本的情緒が、
ある意味作戦としての「無駄」を生んだという意味では、彼らにも一理あります。

しかし、この作戦が彼らに与えた心理的効果は実際の被害以上のものでした。
沖縄では精神変調をきたす兵が続出して、ニミッツが「これ以上は無理だ」
と上層部に弱音を吐いたのは有名ですし、帰国後の心的外傷も問題となりました。

何より、アメリカ海軍の「カミカゼ・トラウマ」は、その後の艦隊戦における思想に反映し、
イージスシステムもこの流れを汲んでいるとさえ言われているのです。

特攻に効果がなかったという論調は、戦後のGHQの日本に対する思想統制に遡ります。
アメリカ側が戦後の統制下にある日本にそのように思わせたがった理由はよくわかりますが、
未だに日本人が現実にこのように残る特攻の甚大な「戦果」をなかったことにするのは、
特攻隊員とその命を愚弄することに等しい行為だといえましょう。

正確な史実=特攻の効果を見て見ない振りまでして、彼らを侮辱することと、
戦争と特攻を「あってはならないこと」とすることの間にはなんのつながりも
主張を裏付ける効果もないし、それはいまだに頑迷なる戦後レジームの闇から
精神が一歩も抜け出せていないことを意味するとわたしは断言するものです。





さて、さらに、10月29日の死亡人数は、「マイシップ!」のストーン氏によると10名とありますが、

当「イントレピッド」博物館の名簿によると12名です。
名簿にはちゃんと全員の名前と階級が記されているので、ストーン氏の記憶違いの可能性が高いでしょう。

というわけで、もしどなたかWikipedia編集経験者がおられたら、


10月29日 12名死亡

11月25日 69名死亡

と日本語版wikiを書き換えていただけませんでしょうか。
ちなみにWikipediaの英語版には、特攻による犠牲者の数どころか、
特攻突入による損害を受けたことについても全く書かれていません。



さてそこでもう一度「マイシップ!」に戻ってみましょう。


イントレピッド」に突入した日本軍の特攻機は全部で5機。
これは、戦争中を通じて米海軍の艦船の中では最多となります。

そのうち3機が、10月29日1機と11月25日の2機。
この「イントレピッド」博物館上でも明らかになっている日付です。



それでは4回目はというと、これもwikiには記されていないのですが、

1945年3月18日のことになります。


右舷船首から突入してきた特攻機を、ガンナーが撃ち落としたのですが、
その時に爆発した機体の破片や火のついたガソリンがハンガーデッキに降り注ぎ、
それがいくばくかのダメージをもたらしました。




3月18日に特攻を出しているのは海軍菊水部隊の彗星隊で、
この1日だけで39名の特攻隊員が戦死した記録があります。


この記録から考えずにいられないのは、前年度、組織的な特攻隊が行われ始めた頃には
アメリカ側の犠牲は甚大なものであったのに、この頃になると、
「イントレピッド」の射手に撃ち落とされたこの特攻機だけがかろうじて
軽微な損害を与えただけであったという風に、与えた効果があまりにも僅少だったことです。

そして、39名の大量死。

特別攻撃隊隊長は岩上一郎中尉(室蘭高工)と野間茂中尉(福知高商)という、
どう見ても経験の浅そうな学徒士官です。
しかもその他の学徒士官の出身校を見てみると

宇部高工 長岡高工 第二早高 早稲田専 明治専 青森青教 台中高農

など、専門系が多いのに気づきます。
そして戦死者名簿で思わず目を見張ってしまったのが、

丙(特)飛

という文字です。
丙特飛とは正式には丙種(特)飛行予科練習生といい、昭和19年設立されました。
これは志願で海軍に入隊してきた朝鮮・台湾出身者のうち、

航空科希望者を予科練に組み込んだものというカテゴリなのです。

実際には台湾出身の特攻隊員はいませんでしたから、これは間違いなく、
全部で20名いたという朝鮮半島出身者の特攻隊員であろうと思われます。
その名も、

勝俣市太郎2飛曹と、益岡政一2飛曹。

どちらの名前も通名のまま戦死者名簿に記されています。

そして、乙特飛という、戦況の悪化に伴い、乙飛を志願した練習生の中から
更に選抜して特攻のためだけに短期養成を行った搭乗員が6名も参加しています。

カミカゼの恐怖に立ち向かう、したたかな顔を持つアメリカが、対特攻のための戦略を練り、
守りを堅固にしていくのと反比例して、当初の精鋭部隊もすでに消耗し、日本の特攻隊は
技量も経験も全くない学生隊長が率いる即席養成の搭乗員を投入していたのです。




「マイシップ!」によると、最後に「イントレピッド」に被害を与えた特攻は

1945年4月16日に行われました。

「零戦と”コンベンショナル”(月並みな・ありきたりの)な航空機で行われた大量特攻」

とアメリカ側が記すところの特攻隊は、菊水三号作戦と呼ばれる、神雷桜花隊、銀河隊、
水部隊など、海軍176機、振武隊から成る陸軍52機による攻撃です。

このうち特攻機の未帰還は海軍106機、陸軍51機。(陸軍は帰還一機のみ)

この頃には既に陸軍の特攻機は実用機が不足していたため、
ほとんどが旧式の九七戦で行われました。

この日の大量突入に対し、「イントレピッド」は43機を掃射撃墜しています。

しかしながら一機の特攻機が、対空砲をくぐり抜け、フライトデッキに激突。
この機体はハンガーデッキにまで突き抜け、その時の爆発で10名が死亡しました。


さて、それではもう一度日本語版のWikiがここをどう説明しているのか見てみます。

その間、3月18日と4月16日の二度にわたって神風特別攻撃隊の特攻機の
体当たり攻撃により損傷したが、沈むことなく無事に終戦を迎えている。

まあ、沈まなかったから今博物館になってるんですけどね。
まず、この2回の攻撃が神風特別攻撃隊ではなかったことを突っ込み隊。
じゃなくて突っ込みたい。


特攻とくればなんでもかんでも「カミカゼ」と呼ぶなんて、あんたどこのアメリカ人?
少なくとも日本人なのならば、せめて

特別攻撃隊(菊水三号作戦による)

とか、

神雷桜花隊や振武隊からなる特別攻撃隊

くらいは調べればわかることなんですから、大雑把にならずにきっちり書いていただき隊。
それに、実際の「イントレピッド」の被害が甚大であったことには毛ほども触れず、
「無事に終戦を迎えている」って、それなんか違うんじゃない?


さて、冒頭写真は、

九九式一号2型改

と刻印があるので、 99式20ミリ機銃の部品であろうかと思われます。
99式20ミリは海軍が使用していた航空機銃であり、これは
零戦の部品であることはほぼ間違いありません。

菊水三号作戦の時には特攻に使う零戦は無くなっており、

桜花・陸攻・銀河・97式艦攻・彗星

という陣容でしたから、10月29日か11月25日、いずれかに突入した特攻機の部品でしょう。

 





上の左は8ミリ機銃でしょうか。



煙を噴き上げる「イントレピッド」の写真をバックに、この時に戦死した乗組員の
残したノートにパープルハート勲章などが添えられています。



スクラップ帳だったようですが、何が書いてあるかよくわかりません。
フットボールファンだったのでしょう。



これも特攻隊突入で死亡した乗組員の遺品。


「カミカゼショー」が終わってからわたしとTOは顔を見合わせました。

「どうでした」
「うん・・・」
「なんか、アメリカ人って特攻機に人間が乗っていたって全然思っていないみたい。
なんていうんだろう。まるで天災に遭ったような・・?」

何月何日カミカゼがきました。何人死にました。
この時死んだ誰々は大変勇敢でした。
「イントレピッド」にとって最悪の日でしたが、乗組員はそれに打ち勝ちました。
めでたしめでたし。アメリカ万歳。


これは日本側にも言えることですが、戦っている相手を「人として」見ようとしない、
確かに特攻機には誰か、名前のある日本人が乗っていて、その人間が操縦してくるわけだけど、
それについてはあまり考えないようにしている、というのが近いでしょうか。

どちらもむしろ「個人の顔は見たくない」というのが、わたしたちには
到底知る境地に至ることのない、自我を崩壊させないために機能する、
戦場にあるものの「本能」みたいなものなのでしょうか。


一人の人間ではなく「カミカゼ」という得体の知れない不気味な敵、
こちらの命を巻き添えに自殺攻撃をしてくる理解しがたい「何か」に対して、
「イントレピッド」の隊員たちはそれが「誰か」であることを決して考えまいとしながら、
必死で、無心に、戦い続けていたのかもしれません。 





 


CNNが終戦に際して取り上げた二人の日本人

2015-08-20 | 日本のこと

アメリカのCNNが報じた安倍首相戦後70年談話。
アメリカでも、メディアが置かれた「しがらみ」抜きでは
物事を報じることをしないという点では日本と同じなんだなと
あらためて確認することになったわけですが、メディアが左派寄りであるというのは
これも世界共通の現象であるらしいですね。

父上が予備学生として海軍にいたというアメリカ人の知人(GEの偉い人)は、
やはりアメリカのメディアは民主党の都合の悪いことは報じない、といっていました。
オバマ政権はマスコミの扇動によって2期連続成立したという見方です。

日本のマスコミが、椿事件のときに露呈した、

「なんでもいいから共産党を除く野党で非自民政権を成立させる」

という目的を最終的に2009年の政権交代で達成したように。


そういえば、共和党の第一候補は放言大魔王のドナルド・トランプ氏。

誰が見てもこんなやつ大統領にすべきではない、という困ったちゃんなのに、
17人もの候補が乱立する共和党の中では一番人気があるらしく、共和党は
実は頭を抱えているのだとか・・。

アメリカでは毎日のようにトランプ氏ばかりがメディアに露出し、
その度にとどまるところを知らない放言で顰蹙を買っているわけですが、
こうやって晒し者にして共和党のまともな候補者を霞ませているのは、
実は民主党とメディアの策略ではないのか、とすらわたしは思ったくらいです。

多分、この 想像は割と当たってると思う(笑)



さて、そんなCNNですが、安倍談話の同日にこんなニュースもやっていました。

「平和のミッションを行う日本男性」

これはどういうことでしょうか。

大東亜戦争中、B-29といえばアメリカという「鬼畜」の代名詞でした。

対空砲で撃墜されたB-29は多く、作戦に投入したB-29の機体数約3,900機に対して
喪失数714機、戦死した乗員は3,041人と言われます。

1942年、4月2日のことです。
東京上空にに空襲のために飛来した一機のBー29が対空砲火で撃墜され、
乗組員11人が乗った機体は、ある民家の軒先に墜落しました。
そのときそれを自宅の防空壕から目撃していた日本人の親子がいました。

空襲がおさまってから、男性は乗員の遺体を探し出し、
自分たちの墓所に彼ら11人全員を丁寧に埋葬しました。





父親とともにそれを手伝った16歳の息子は、戦後34年経って50歳になったとき、
あのとき亡くなった搭乗員たちの遺族に連絡を取る活動を始めました。

戦後、搭乗員たちの遺体は米軍によって横浜の軍地基地に埋葬され直しましたが、
男性は、どこでどのように自分の愛する人々が亡くなったのかを
彼らの家族が知るべきであると考え、行動を起こしたのです。



家族に供養をさせてあげたいという父の願いを受け継いだ男性は、
その後の人生をかけて米国各地にいる遺族の所在を突き止め、
彼らの日本への訪問を実現させてきました。



左側の父親と思しき男性の表情が硬いですが・・・。




彼らの菩提を弔うために竟の地に仏像を建てて、家族をそこに招き、
その最後を話し伝えることをライフワークにしてきたのです。

この男性は小俣さんとおっしゃいます。



小俣さんは34年間、アメリカを何度も訪問し、そのため訪れた州は7州にも登ります。
これまで搭乗員のうち10人の家族を探し出し、彼らを日本に招待してきました。



そして最後の11人目の搭乗員の家族が、ようやく戦後70年目に判明しました。
イリノイ州出身のウォラース・J・ピッツ軍曹の甥という人を見つけたのです。



ピッツ軍曹は21歳でこの爆撃に参加し、戦死しています。

Bー29の落下地点にある、小俣さんの父親が作った碑にはこのように刻まれているそうです。


先の世界大戦中にこの地に墜落した爆撃機B-29の
勇気ある米国の11人の乗組員の霊を慰めるために この碑を建立する

勇敢な兵士たちよ 永遠に安らかに眠りたまえ

(訳文)



甥のビル・ピッツさんと妻のブレンダさんはこの度小俣氏の招きによって来日し、
おそらくは会ったことのない自分の叔父さんの慰霊碑に手をあわせました。


観音像なので、仏教式に両手を合わせているのが微笑ましい。




 ビルさんは、小俣さんがその半生をかけて探し続けた、最後の家族となりました。

「父が敵国の兵士たちを弔ったのは、人間を尊重する気持ちからだろう」

と小俣さんは語り、85歳になってようやく自分の使命は終わった、と語りました。



ビルさんは、このことについてこう語りました。

「このことにはただ驚くばかりです。
敵国人なのに埋葬をしてくれたなんて、こんな素晴らしいことはない。
どのように、何回お礼を言ってもいいたりないけれど、それでも言いたい。
ありがとうございますと」

彼らにとって70年の旅が終わろうとしています。
自分の半生をかけて慰霊のミッションを続けてきたこの小俣さんという方には
日本人の一人として心からお礼を申し上げたい気持ちです。


無差別爆撃で一般市民が数多く犠牲になるようになってから、生きたまま不時着した
Bー29の搭乗員の中には、興奮した人々によって惨殺されたというケースもあります。
しかし、死んだ者にまで鞭を打たないという日本人は、戦死した搭乗員の遺体を
埋葬して慰霊碑を建てることもありました。

丹沢山、青梅には慰霊碑がありますし、病院で亡くなったり落下時に死亡して、
陸軍墓地やお寺のお墓に埋葬されたアメリカ兵はたくさんいます。



さて、終戦の日の2日前、CNNでは、元零戦搭乗員である男性の証言を
取り上げていました。
99歳のH氏です。
昔、ミッドウェー海戦式典を報じたハワイの新聞を参加した元搭乗員にいただいて、
それを翻訳してさしあげたことがあったのですが、その記事には
主にH氏の語った体験を中心に構成されていたため、名前と戦歴を知りました。

この3時間にわたってのインタビューの中でH氏は、

「最初の頃、敵機は零戦とドッグファイトするなと言われていました。
銃撃が敵機にヒットし、空中で機体が四散した時、助かったという気持ちと
優越感のような気持ちが私の中を駆け抜けました」(英文を翻訳)

と語っています。
H氏が撃墜したある戦闘機搭乗員は

「絶望に満ちた目でこちらを見て、憐れみを乞うような手振りをしてきました。
しかし、彼を見逃せば生きて帰ってきて仲間を殺すだろう。
戦場ではどちらかが生き残るしかないのです」

H氏は数年前に妻を亡くし、現在娘と二人で住んでいます。

「母艦乗りとして戦闘に参加した時、着艦した甲板には
戦闘で手や足を失った人たちが苦しみの叫び声をあげていました。
”みずをくれ!””苦しい””お母さん”・・・」

「わたしは軍医に彼らの手当を優先してくれるように言いました。
しかし軍医は”戦える者が先だ”と答えたのです。
戦場では人権などなく、皆が『武器』にすぎないのです」


こういった氏の戦争体験は、以前翻訳したのとほぼ同じでありましたが、
ここからが問題です。

「安倍晋三首相は、日本が軍を海外で展開できるように平和憲法を手直ししようとしている」

「それが(集団的自衛権)議会で承認されて日本が分断された」

「わたしは戦争が嫌いだ。戦争ほど醜いものはない」


この日には報道されませんでしたが、その数ヶ月前のNYTの報道では、はっきりと

「安倍首相は戦前の指導者を思わせる」


と批判を語り、それを日本のメディアが大喜びで取り上げました。


誤解のないように先に言っておくと、わたしはH氏がその壮絶な経験を経て
戦後を生き抜かれたことに対し心からの敬意を払うものですし、
その証言は決して途絶えさせることなく後世に語り続けるべきだと思います。


しかし、それはそれとして、H氏はその体験からくる戦争忌避感ゆえ、
メディアに誘導されてこういった発言をさせられたのではないかと思えて仕方ありません。

おそらく氏は99歳というご高齢で、テレビや新聞という媒体だけが
世相を知る唯一の手段であることでしょう。
我々のように、ネットでの報道の全般にわたって検証したうえで、
報道各社の傾向や主義主張までを考慮して判断しておられるわけではないと思います。

憲法改正の動きと今回の集団的自衛権についての情報を全て新聞とテレビで
知ったのだとしたら、氏がこういう考えに至っても当然のことに思われます。


しかし残念なのは、こういった戦争体験者の意見であれば金科玉条の
絶対的真実なので逆らえまい、と言わんばかりに報道するメディアであり、
そのメディアにH氏は利用されていると思わずにはいられないことです。

「戦前の指導者たちと安倍首相は同じ」

とH氏は切り捨てますが、そもそも日本がなぜ戦争を選ばなくてはいけなかったのか、
当時の日本の置かれていたのっぴきならない状況を踏まえておっしゃっているのでしょうか。

今の日本には自ら戦争を起こす理由も必要必然性もなく、両者を同列では語れないということも。

仮に、日本が戦争をあくまでも避けていたら、H氏は「人殺し」にならなくて済んだでしょう。
しかしその結果、日本は大国の支配下に置かれることとなったはずです。
そうなってなお、日本人は幸せでいられたでしょうか。
そもそも日本国という国はその後存在することができたでしょうか。


H氏のこういった考えに喝采する種類の人がいう、
 
「安倍首相は戦争法案を通して戦争をしたがっている」

という安保反対論。

「戦争したくなくて震える」

H氏の「戦争が嫌いだ。戦争は憎い
」とこれは比べるのも失礼すぎますし、
重みが違いすぎて同じ意味でも次元が全く違うということを百も承知で言うのですが、

H氏がもし、

「戦争が嫌いだ」→「だから日本だけは戦争ができるようにしてはいけない」

と本気で思っておられるのだとしたら、それは結果としてあのデモ学生と同列だと思います。
いつも思うのですが、こういう人たちの言う平和とは、

「中国や韓国には土下座をしながらお金を出し続け、尖閣も竹島も差し出して、
主権はもちろん下手すれば自由も人権も全て他国の支配下にある隷属の平和」

なのです。
中には、

「殺すくらいなら殺されよう」

などと、日本の平和にあぐらをかいてこんなことまでいう輩までいますね。

隷属の平和とは、かつての日本が経済封鎖で世界に追い詰められたとき、
唯々諾々とハルノートを受け入れれば即座に手に入った
「戦争のないだけの平和」の姿でもあります。

個人の権利も尊厳も捨てたうえにある平和、それは本当の平和と言えるのでしょうか。

 

「私は死ぬまで、私が見てきたものについて語りたいと思う」
 
決して忘れないことが子どもたち、そして子どもたちの子どもたちを
戦争の恐怖から守る最良の手段なんです」



尊い決意だと思います。
しかし、大変失礼ながら、後半は情緒的かつ漠然としすぎてよくわかりません。

「空想」していればいつか平和がくると歌ったジョン・レノンは悪意の凶弾に斃れました。 

彼がボディガードをつけていればおそらくそれは防げたでしょう。
H氏のおっしゃることはジョン・レノンの「イマジン」の歌詞のようなものです。


「安倍首相は必死で日本の戦争放棄を取り消そうとしたがっているように見える」

「戦後の長い平和がひとつの達成であったということを忘れているように思えてならない」
 

 
H氏は日本に自衛隊がなかった頃、竹島に韓国人が侵攻し、
我が国の漁民が惨殺されたことをご存知ないのでしょうか。
現在形で中国が侵略を狙っていて、毎日のように海保が哨戒を行い、
1日に何度となく自衛隊がスクランブル発進していることを。
北朝鮮の日本人拉致は、日本が武力行使をできないからこそ起こったという事実を。

おっしゃる「戦後の長い平和」は、日本の戦争放棄の上にではなく、
日米同盟の武力の抑止力あってこそ可能だったとはお考えになれないでしょうか。



いつも刮目するような持論をお持ちの元陸幕長閣下が、

「しかし実際に戦争経験した人は、もうとにかく自衛であろうが
なんであろうが、武力そのものを否定するものなんですよ」

とおっしゃったことを思い出します。
そうあらずにはおれないことそのものが、H氏や、その他多くの方々の
苛烈な戦争体験の傷跡であることに、深く想いを致さずにはいられません。



しかしながら、わたしがこれまでお話を伺う機会のあった戦争体験者は、
彼らの多くが

「もし日本が他国の侵略に遭ったら、わたしは今でも武器を取って戦う」

というようなことをおっしゃっていたことも、あえて付け加えておきたいと思います。

おそらくこういう人たちの言葉を、メディアがH氏のように
大きく取り上げることは決してないと思いますが。







 


アメリカのニュースに見る安倍終戦70年談話

2015-08-19 | 日本のこと

8月15日、終戦の日に出す安倍主将の戦後70年談話、
皆様はどう思われましたか?

わたしは、事前に「おわび」「反省」などを盛り込むつもりという報道が
インターネットに流れた時、マスコミがよくやる手口の「飛ばし」ではないか、
とまず思い、ついで、各方面からの圧力と政治的判断でそれらの文言を
拒否できなかったのかなと思っていたのですが、
蓋を開けてみると全く違いました。

某テレビ局ではキーワードを画面に表として揚げ、言葉が出るたびに
チェックをつけていくという異様な方法でそれを検証し、
別のテレビ局ではそれらのワードを幟にわざわざ仕立ててスタジオに立てたそうです。

そんな中行われた談話、確かにキーワードは全部入っていました。
使い方においてレトリックを弄したわけでもなく、文句のつけようのない文言で。

ただし、今までの談話を一掃し、しかも今後日本の首相が談話という名前の
謝罪を永遠に繰り返すことをこれにて「打ち止め」にしたいと述べた点が、
歴史的といえるものでした。



ここアメリカのCNNニュースは、この談話についてなんども、
深夜にまで亘って
放映し、東京特派員のコメントもライブで電波に乗せました。
タイトルは

安倍:日本は第二次世界大戦のことを謝罪し続けることはできない

です。

うーん・・・・なんか違う・・・。




この一言が、CNN的にはもっと報じるべき部分であったということです。
一方、アメリカ政府は、この談話に対し肯定的でした。

我々は、安倍首相が次の2つを表明したことを歓迎する。
1つは、歴代首相が出した歴史認識に関する談話を継承するとのコミットメント。
もう1つは、第二次大戦中に日本が(近隣諸国に)与えた苦しみに対する痛切な反省だ。
また我々は、国際社会の平和と繁栄に対する貢献を
日本が今後いっそう拡大していく意志を確認したことを評価する。
戦後70年間、日本は平和、民主主義,法の秩序への変わらぬコミットメントを具現化させてきた。
これは世界中あらゆる国とってのモデルである。(プライス報道官)


アメリカがこういう大上段に立って日本が「反省」することを歓迎する、
そのこと自体、「お前が言うな」と内心苦々しく思う人々も日本にはいるはずです。
(実はわたしも内心そんなことを・・・)

ということは、安倍首相が談話で謝罪を盛り込むことそのものに
「なんで日本だけが謝らなければならないんだ」とと不満を持つ向きもあるということです。
(わたしは今回はそうは思ってませんが)

こういう人たちを「右」だと仮定した場合、それでは「左」はどうだったかというと、
こちらも、この談話が「誠意がない」ものと激しく非難しているのです。

日本のメディアは、予想されたことですが、この談話に賛否真っ二つです。



「なんのために出したのか。主語がぼかされて反省が足りない」・・・朝日


「侵略」について「日本の行為かどうかの特定は避けた」 
「誰に向けて、何を目指して出されたのか、その性格が不明確」・・毎日

「植民地支配に対する反省とお詫びを表明したとは受け取りがたい」・・中日・東京

「どこか傍観者的」・・・沖縄タイムス

「言葉の裏を見極めたい」(ネガティブな意味で)・・・・信濃新聞


「先の大戦への反省を踏まえつつ、新たな日本の針路を明確に示した」・・読売

「重要なのは、この談話を機会に謝罪外交を断ち切ることだ」
村山談話は「度重なる謝罪や決着済みの補償請求の要因となるなど国益を損なってきた」・・産経

「侵略」や「植民地支配」について「何を反省すべきかをはっきりさせた」・・・日経

「『不戦の誓い』が伝わった。多くの国民の胸にも響いたのではないか」・・・北國新聞


新聞以外の、テレビやその他個人の言論を見ていても気づくことは、
非難派は自動的に
安倍政権の安保法案反対をセットにして非難している
という法則があり、たとえば


「談話は支持するが安保法案は反対」

という人も、またその逆もいないように思われました。
つまり、安保法案を掲げる首相のいうことだからどんなことを言ってもそれは
間違っているはず、と最初から非難ありきで報道するといういつもの姿です。


わたし自身は、安倍首相のブレーンはただただ優秀だなあと思いましたね。
日本語では「主語が曖昧」などという、いちゃもんレベルで非難できても、
それが各国語に翻訳された途端、そんなファジーな部分は消えてなくなり、

「日本国は、村山談話を継承し、過去を謝罪し反省して前に進んでいきたい」

となります。
日本語と違って大抵の言葉は主語をつけずに翻訳することはできませんからね。


現に、たとえどんな談話であっても最初から非難することが明らかであった

韓国のパク大統領ですら、非難すべき点がみつからず、

「日本政府は歴代内閣の歴史認識を継承すると公言したことを一貫して
誠意をもって行動で支え、隣国と国際社会の信頼を得なければいけない」 


という、「えーなんだその、つまり」みたいな声明に終始しました。

しかも、いわゆるかつての支配側大国にとって、安倍談話は結構扱いに困る
「爆弾」を含んでいたんですね。

それが、

「百年以上前、世界は西洋諸国に植民地支配されていた。
日本は植民地支配されそうになったので立憲政治を打ち立て独立を守った。
日露戦争の勝利は被支配国の人々を勇気づけた」

という出だしです。
これは、かつて植民地支配をしていた国々にまず牽制をし、さらに

「欧米諸国が進めた経済ブロック化によって日本は追い詰められ、
行き場がなくなって力の行使をした」

という部分で、日本が戦争に突入していった原因は、決してかつての列強のような
国土拡大のための侵略とは違い自衛のためである、ということを非常にマイルドに、
しかしはっきりと釘をさす形で言明したわけです。

いやー、これは朝日新聞始め左派メディアと左翼たちには業腹でしょうねー(笑)

彼らはこの70年間、日本が戦争をした理由を述べれば、それを
「正当化」「美化」と罵ってきましたし、

日本人は未来永劫子々孫々まで土下座するべきというのが基本的な考えなんですから。

(土下座なら日本には土下座要員として鳩山さんがいるから、
いくらでも土下座させて、ついでに賠償金もポケットマネーで払わせればいいと思う)


そして、CNNです(笑)
結論からしてこのテレビ局は、安倍談話に対して否定的でした。
考えられる理由は二つ。

「子々孫々まで謝罪をさせてはならないというのが気に食わない」

「韓国が文句を言っているから」

です。


まずCNNでは、
かつての列強の植民地支配に対して

「別にお前ら、被支配国に謝ったことなんかないだろ?
胸に手を当ててちょっと考えてみてくれよ」

という匕首を突きつけた部分については全く触れられませんでした。
ええ、そういう部分があったことすら報じられなかったんですよ。
アメリカはどちらかというとイギリスに植民地支配を受けた側なんですが。


そもそも、この番組、談話の「子供たちに謝らせる未来を背負わせてはならない」を、
意図的に「日本は謝り続けることはできない」言い換えて取り出したうえ、



談話以上の時間を使って、この韓国特派員である、どうみても韓国系(笑)の
キャスターに、「韓国は慰安婦の件で誠実でないと怒っている」
ということをレポートさせていたわけですが、



まずもって、なんで日本の首相の談話に対してトップに韓国首脳の
非難を持ってくるのかという疑問が・・・
ここはアメリカですよ?

そもそも談話には「韓国」の「か」の字も含まれていなかったのに、です。


ニュースでは日本の立場での謝罪と感謝には全く触れず、
朝鮮の2カ国は当時日本であったということをろくに説明もせず、

「北朝鮮と韓国には日本に植民地支配された恨みが云々」

などと・・。
なんでこの2カ国が現在戦争中かについてはもちろんスルーです(笑)

そういえばこのCNNは、ロンドンオリンピックの放映で、日本に対して
さんざん『やらかして』くれたのをわたしはリアルタイムで目撃しています。

その理由というのは、オリンピックのメインスポンサーに「サムスン」が
入っていたからだというのは、あまりにも明白でしたが、
今回の報道の偏りは、どんな「利権」からきているのかと思って調べてみたら、

CNNはNHK・朝日新聞社・テレ朝と提携

していましたー(大笑い)
なるほどねー。そりゃ韓国側の主張をメインにするはずだ。

アメリカの最高裁で「解決済み」と判決の出ている慰安婦問題ですが、
当番組は全くおかまいなしで、慰安婦のことを
「セックススレイブ(性奴隷)」とする韓国の主張を強調していました。
これも提携元の面子を見れば納得です。


韓国軍はベトナム戦争で多数の一般民虐殺と女性への暴行を行っていますが、
それについて謝ったことなどありません。

しかし、この番組はなぜか法的に「解決済み」の慰安婦問題を明らかに未解決として語り、
植民地支配について反省を述べたにもかかわらず「誠意が足りない」
という韓国側の主張をそのまま自局の意見として発信することに終始しました。




さて、一方日本のメディアには、この談話について、

「あちこちに気を使った結果、焦点がぼけて
右派左派両方に不満を残す結果となった」

という批判もありました。


こういう非難をする人に聞きたいのですが、それではどうすればよかったでしょうか。

安倍首相は一国を代表してあの談話を出しています。
日本の歴史的立場を強弁すれば世界に叩かれるし、逆に土下座すれば右と保守派は敵に回る。
しかも下手に言質を取られる発言を残せば、近隣諸国が嵩にかかってゆすりたかりにくる。
何よりも将来に遺恨を残し、それが国益を損なう恐れもあります。


どこに一歩多く踏み出しても千尋の谷底、という状態の中で、とにかくも

どこからも問題にされにくい談話となると、あれしかなかったとわたしは思いますし、
そんな談話の中に、痛烈な中国・韓国に対する

「歴史が政治的、外交的な意図によって歪められてはならない」

という批判とも取れる一言を入れたのは快挙という他ありません。



過去を謝ったかどうか、それが誠実かなどということを鵜の目鷹の目で検証するばかりで、
名もなき人々を戦争に巻き込ませない、とした「不戦の誓い」という言葉には目もくれず、
CNNは、「子供たちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という部分から
わざわざ「子供たち」を省き、「日本は謝り続けることはできない」と翻訳し、
これを非難調で報じました。


CNNのようにこの部分に反感を持った海外メディアは他にもあったようですが、
そもそもこの談話は「日本が戦争を謝罪するための談話」でもないのです。
戦後70年間の日本の平和な歩みが、反省も謝罪も踏まえた戦争の痛みの上にあること、
日本を「許してくれた」戦後国際社会への感謝と、これからの抱負を述べる
「決意表明」なのです。

この談話が国際社会から強制されたものではなく、日本の自発的な表明として出されている、
という本質を、非難するメディアは、総じて敢えて無視しているかのように見えます。


のうえで、この部分は世界に向かって「もう謝り続ける必要なし」
と啖呵を切ったのではなく、あくまでも日本国民に向けて、

子供たちに謝罪を負わせないためには、日本国はどう過去と向き合うか考えましょう

と提言したのであるということを、ほとんどのメディアは理解せず、
また理解しようともしなかったようにわたしは思いました。 

 
とにかくわたしはこの節目に日本国の首相が安倍晋三であったことを感謝します。
もし今が民主政権下で、この談話を出すのが菅や野田、いや、鳩山由起夫だったら?

真夏の暑さも吹き飛んでしまうくらい背筋が凍りませんか?


この談話が、日本がこれまで縛られていた戦後レジュームを、
70年目の節目において
断ち切ってくれるきっかけになってくれることに
期待したいと思います。






日米開戦と日露戦争の「反省」

2015-06-27 | 日本のこと

当ブログは、制作する時に思い出していれば、海軍的なイベントが起こった日に
そのテーマで書くことが時々あるのですが、先日5月27日の海軍記念日には
全く関係のない内容だったので、肩透かしを食ったように感じた方が約1名いたそうです笑)

何か関連記事をアップしたいと考えなかったわけではないのですが、
2年前のこの季節に、結構集中して日本海海戦について書いたので、
ネタが無くなった書きたいことをとりあえず思いつかず、失礼しました。


さて、5月27日が海軍記念日となったのは、今更ですが、日本海における
帝国海軍聯合艦隊が、バルチック艦隊に勝利した日を記念しています。

しかし、実際に決戦が雌雄を決したのは5月28日であり、鉄火お嬢さんのご報告によると
東郷神社の今年の記念祭はこの日に行われたとのこと。


というわけで、このエントリは5月28日の制作でお届けしております←こじつけ
 



日本は近代になって二度、大国と戦いました。
日露戦争、そして大東亜戦争です。
日露戦争で東洋の小国日本が大国ロシアと戦って勝ったことは、世界に衝撃を与え、
トインビーのいう、白人優生のそれまでの世界の「終わりの始まり」となったのです。

それがちょうど今から110年前のこと。

奇しくも今年は戦後70年と日露戦争110年が同時に来る年です。
つまりロシアに勝利したきっちり40年後に、日本はアメリカに負けたということになります。

この40年間に日本は、そして帝国海軍はその記憶をどう止め、それは後世に生かされたのか。
今日お話したいのはそういうことです。



日本が対米戦争に踏み切った理由を一言だけいうなら、皆さんもご存知のように、
「外圧によって資源を絶たれたため」に尽きると思います。
米国によって石油を禁輸されてしまい、ABCDラインで経済封鎖されたこと、なおかつ
最後まで戦争を避けるために行われていた対米交渉が決裂したことが直接の理由ですが、
それでは日本はいつからアメリカを「仮想敵国」にしていたかご存知ですか?


わたしも最近まで知らなかったのですが、実は

日本は日露戦争の2年後には
アメリカを仮想敵国に決めていた

ことがわかっているそうです。


先日映画「機動部隊」について書きましたが、海軍提督主催のパーティ席上、

主人公のゲーリー・クーパー演じる大尉が、空母など要らないと主張する新聞王に、

「何処と戦争になるというんだね」

と聞かれて

「日本が不審な動きをしています」

と答えたところ、野村大使と五十六海軍武官がそれを聞いていたというシーンがありました。

日本が1923年のこの頃、戦争をしたがっていたわけなかろうが、と突っ込んだのですが、
この説によると、1907年からアメリカは日本の「仮想敵国」だったわけですから、
「日米もし戦わば」が日本側でシミュレーションされていたということになります。

もっとも自身の駐米経験からアメリカの国力を知悉していた山本五十六は、
日米開戦には慎重論者であり、野村大使はギリギリまで政治交渉で戦争を避けようとしたのですから、
「戦争を企む意図を見透かされて狼狽する二人」というのはあくまでも映画的表現にすぎません。
念のため。


ところで山本五十六を「開戦に反対した」という面でのみ語る媒体がありますね。
ひどいのになると「反戦司令官」とまで言ってしまう向きもあるくらいです。

「連合艦隊司令長官山本五十六ー太平洋戦争70年目の真実ー 」(長いんだよこのタイトル、
といつも通りつっこみますが、1968年制作の『連合艦隊司令長官山本五十六』という映画と
タイトルがかぶるため、後ろにいらん言葉をくっつけたようです。誰得)
ではそれが顕著だったわけですが、 そんな単純なものじゃないでしょうと言いたい。

山本五十六は開戦に慎重でしたが、その理由は戦争が嫌いだったとか反戦派だったからではありません。
(誤解を恐れず言えば、全ての軍人は”戦争が嫌い”であると思いますがね)
勝てる見込みのない戦争をするべきではないという、軍人として当然の考えです。

戦史叢書第10巻「ハワイ作戦」には、「山本長官の対米戦回避」という項があり、

「聯合艦隊司令長官として万一の海戦に備え、対米作戦準備の完遂に
努力しながら、心では米国との戦争は回避すべきだと考え続けていたことは確実」

という一文で締められています。




また、昭和16年の初頭に、連合艦隊司令長官であった山本が、

海軍大臣及川古志郎にあてた戦備に関する意見のなかに、こんな一文があります。

「累次図演等の示す結果を見るに帝国海軍は未だ一回の大勝を得ることなく」
「図演中止となるを恒例とせり」

つまり、何度図演をやっても日本が勝てないままいつも中止となる、と言っておるわけです。


しかしそれでもやれと言われれば、勝てそうなやり方を模索するのも軍人のお仕事です。
そこで色々と「必勝プラン」を練ったりするわけですが、これにさかのぼる
軍縮条約の時にも、山本は開戦を念頭に日本の艦艇保有率をなんとか
自分の考えるギリギリの線まで確保するべきだと強硬に主張しているのです。

 
軍縮条約を巡って、その条約の結果を受け入れるべきだとする「条約派」と、
その反対の「艦隊派」の間に抗争が起き、「条約派」が粛清されたということがありましたが、
山本はこのとき「条約派」でもなんでもなかったので、無事だったどころか
その後連合艦隊司令長官になっているわけです。

つまり、「条約派」=「反戦派」、艦隊派=「開戦派」という決め付けは
実に乱暴な二元論にすぎないことがわかりますね。



このときの山本は、軍縮会議に随伴して、 そのときの全権だった文官の若槻禮次郎が
対米6,975%の補助艦艇保有と、3分の2の潜水艦保有に合意したことに不満を唱えています。

前回のワシントン軍縮会議では、戦艦の保有は希望7割に対し6割に抑えられていますが、 
これも「対米戦」をシミュレーションしている海軍の「中の人」以外は、
戦争するつもりでもないのなら今更1割くらい、という認識だったでしょうし、
当時文官の若槻にも理解できなかったように、今の我々が考えても、
そもそも国力差がありすぎる相手に7割が6,975割になったところでそれが何か?というところです。

しかし、このラインを勝ち取れなければ、席を蹴って帰って来るとまで
海軍の「艦隊派」 (この際山本含む)は考えていたので、若槻の合意に激怒したのです。

なぜ山本らは、このわずか0,025%にこだわったのでしょうか。

 


これは、その1割が、0,025が、そしてなにより潜水艦保有の3分の2が、
日米開戦のシミュレーションの結果、


「圧倒的な国力差を作戦で覆せるだけのぎりぎりのライン」

を下回っていたからという理由に他なりません。


ところで、アメリカに戦争を挑む時、海軍は、というか山本五十六は、
前回の勝利であった日露戦争をどう考えていたかという話に移りましょう。

つまりそこに日露戦争の「教訓」はあったのか?



昭和16年11月の大本営政府連絡会議では、

「対米英蘭将戦争終末促進に関する腹案」

と称する書類が提出されています。
始まってもいないのに終末促進か?という気もしますが、とにかく
どうやって終わらせるかは「どうやって勝つか」でもあるわけです。


それが、米英海軍の根拠をやっつけて主要交通線をとりあえず確保し、
自給自足の道をつけて持久戦にも備えるというものですが、持久戦といっても、

「長期持久的守勢を採ることは聯合艦隊司令長官としてできぬ。
海軍は一方に攻勢を採り的に手痛い打撃を与うる要がある。
敵の軍備力はわれの5ないし10倍である。
これに対して次々に叩いていかなければ、どうして長期戦ができようか。
常に敵の痛いところに向かって猛烈な攻撃を加えねばならない。
しからざれば不敗の態勢などは持つことはできない」

つまり

「凡有手段を尽して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅する勉む」

その劈頭に

「誘致し」

つまりどこかに誘い出してそこで艦隊決戦をする、と考えていたことがわかります。
日露開戦の際、バルチック艦隊を日本海で撃破したように。

今まで図演で勝ったこともないのに、実際に開戦して必ず勝たなければならない。
そのためには初戦で主力艦隊(空母含む)を「猛撃撃破して」、米国海軍と米国民をして

「救ふべからざる程度に其の士気を沮喪せしむること」

というのがこのときに出された腹案です。
そして同じ腹案の中にこのような一項が見られるのです。(現代語に翻訳しました)


我々は日露戦争において幾多の教訓を与えられた。開戦劈頭における教訓は次のようなもの。

一、 開戦劈頭敵主力艦隊急襲の好機を得ることが必要である

二、 日露戦争における開戦劈頭の日本軍水雷戦隊の士気は必ずしも高くなかった。(例外はあったが)
   技量も不十分だったことを反省せねばならない

三、 旅順港閉塞作戦の計画と実地については失敗だった。
   こういった成功例、失敗例をできるだけ善処して日米戦に臨まなくてはいけない。
   勝敗を第一日目で決する覚悟が必要である。

水雷戦隊の士気が低かった、というのは、上村艦隊がこれを破るまで、
ウラジオ艦隊(浦塩とある)に旅順港を取られ、そこを根城にやりたい放題されたことを言います。
濃霧でウラジオ艦隊を逃した上村大将の自宅に、心ない国民が投石したという話もありましたね。

 
というわけで、これらの教訓から得た作戦実地要領とはどんなものだったか。

一、 敵主力の大部分が真珠湾に在泊するときを狙って飛行機隊でこれを撃破し、
   なおかつ同港を閉塞す

二、  敵主力が真珠湾以外に在泊していたとしても同じ。
   このため、第一、第二航空戦隊(やむを得なければ第二航空戦隊のみ)をもって
   月明かりの夜または黎明を期して全航空兵力をもって全滅を目的に敵を強襲(奇襲)する


山本の作戦が特異だったのは、実は「航空兵力で奇襲」という部分でした。
アメリカの映画「機動部隊」でも、日本が空母で奇襲をかけてきたことが驚きを持って語られます。


結果としてアメリカとアメリカ海軍は奇襲に激怒し、日本の通告の遅れを利してこれを非難し、
「意気阻喪」どころか猛烈な闘志を燃やして逆に全力で反撃してきたわけですが、
もし「通告の遅れ」がなかったら、アメリカはあれほど激怒しなかったのではないか?
という仮定には、わたしは残念ながらNOだと言わざるを得ません。

もしそこに至るまでのアメリカの態度を見ていれば、(囮をしかけて先に撃たせようとしたり) 
日米開戦は「既定路線」だったことは明白だからです。

それより、ここであらためて驚くのが赤字の部分、「真珠湾を閉塞」という文言です。
ここで閉塞作戦が、もしうまくいきさえすればかなり有効な手段であることを、
日露戦争の考察から海軍はかなり期待を持っていたということが読み取れるのです。


そして、山本は

万一ハワイ攻撃のときの我が方の損害の大きさを考慮して守勢を取り、
敵の来襲を待つようなことがあれば、敵は一挙に帝国本土の急襲を行い、
日本の都市は焼き尽くすであろう。
そうなった場合、たとえ南方作戦である程度の成功を収めたとしても、
我が海軍は非難を浴び、国民の士気の低下は避けられないのは火を見るより明らかである。
(日露戦争で浦塩艦隊が太平洋を半周した時の国民の狼狽ぶりはどうだったか。
笑い事ではない

と書いています。
具体的に海軍のプランとは、劈頭に敵を撃滅し、米国が意気阻喪している間に
とにかくライフラインとなる南方を制海権もろとも抑えてしまって、
これをもって自給の備えを確保しておいて講和の道を探るというものでした。


「山本愚将論」(以前お話を聞いた兵学校卒の方もそう言っていましたが)
を唱える人には、開戦してからの明らかに失敗だった作戦指示はもちろん、
この真珠湾攻撃自体をその論拠にする向きもあるようです。

しかし(どこまでアメリカ側が知っていたかはさておいて)、それでは山本以外に

この稀代の攻撃を実行(そしてとにかく成功)させることができたかどうか。
航空本部長を務め、これからは航空だと確信していた山本ならばこその航空攻撃を。



しかし、日本側の「終戦プラン」は大幅に予測を外しました。
真珠湾の成功は、なまじ米国にとって被害が大きく講和で済ませるような状態でなかったため、
士気を沮喪させるどころか、国民は怒りと戦意を猛烈に掻き立て、

結果としてアメリカと日本をその後の不幸な結果に引きずり込むことになります。



いつも言うように、歴史にはイフはありませんが、もし日露戦争で日本が負けていたら、

戦後日本が世界に台頭することも、それによって危機感を覚えた欧米による
「日本叩き」「日本いじめ」が始まることもなかったはずで、ということは
日本が真珠湾を攻撃するということも起こらなかったのです。

(そして世界は、21世紀を迎えてもまだ支配被支配が存在する大国主義だったかもしれません)

極論ですが、つまり、日露戦争に勝った瞬間、アメリカと戦うことは決定し、
40年後の敗戦も、そのときに定められた運命となって確定していたといえるのです。


その伝でいうと、日露戦争で勝った「から」、次の戦争を行うことになった日本ですが、
勝った戦争に対する「反省」(左派の言う反省ではなく、次の戦争をどう勝つかという意味の)
が結果に生かされなかったのは、アメリカの「意地」を見くびっていたことをはじめとして、
全てにおける見通しの甘さであったということなのでしょう。


「甘さ」というなら、帝国海軍がアメリカ相手に日露戦争でさえ失敗した「閉塞作戦」を
あわよくば実行しようと(腹案とはいえ)、考えていたらしいことそのものに、
わたしは、一度得た勝利の記憶のなせる楽観的なものを感じずにはいられません。




 



 


田母神俊雄氏講演より~GHQとJAPAN2000に見るアメリカの戦後戦略

2015-06-23 | 日本のこと


■ アメリカ繁栄するも日本に反映なし

アメリカは、中国はこんなに強いぞ、日米安保がなければお前ら困るだろ?
もうちょっと金出せよ、という情報戦をやっています。

日本はアメリカからいろんなものを買わされてます。
例えば今自衛隊はオスプレイを17機、3500億で調達しようとしています。
またグローバルホークという偵察機を入れましたけど、これもリアルタイムの電送が
できないようなバージョンでオペレーションしているそうですね。
リアルタイムでできないから、機体を回収してから解析をするんですが、
この解析もアメリカにしかできないから、またそこでアメリカに金を取られる。

防衛費は伸びているのにアメリカに払うだけだから、国内産業への反映は全くありません。

なぜそんなことになるかというと、現場の自衛隊が吟味して導入を決定するのではなく、
オスプレイもグローバルホークも、政治レベルで入れることを決めてしまうのです。
それからいろいろ交渉したって、アメリカは絶対に呑んでくれません。
導入は決まっているわけですから、いくらこっちが交渉しても向こうは強気で
非常にこちらの不利な条件で押し付けてくるわけです。 

グローバルホークならちゃんとリアルタイムで電送ができるようにとか、
あるいは国内産業にも分け前が行くというような形を作ってから導入しないと、
不便な武器を買わされるだけでなく、国内産業がダメになっていってしまいます。

戦闘機の機種選定もそうですね。
まず戦闘機の機種が決まってしまってから細部の交渉が始まるんです。
そんな形で交渉してもアメリカは絶対に引きません。
日本は「そんな条件なら戦闘機の導入をやめる」ということもできない。

現場で検討して自衛隊のためにも国内産業のためにもなるという利益を確認してから
買う、ということにしないと、まずいと思いますね。

導入してからも、例えば仕様を変更した時に日本は4月に予算をつけて、
アメリカにこうしてくれと要求を出すんですが、答えが返ってくるのは翌年の2月です。
予算を実行する時間がないので、全てアメリカの言うとおりになってしまいます。
こんなことでは国益を守るということにはならないと思います。

■ 成長なき「改革」と「自由と繁栄の弧」

日本が防衛費を増やそうとすると、

「日本は1,100兆円も借金があるのにこれ以上借金増やせない」

という意見が出ますが、これも情報戦の一環だと思います。
そもそも国は借金で潰れたりしません。
いざとなったら一万円札印刷すればいいんです(笑)

その際懸念されるのはインフレですが、アメリカでリーマンショックの時に
9000億円だったのが今3.5倍になって三兆円を超えてます。
それでもアメリカは極端なインフレにならないのです。

日本は10年前の82兆円が今87兆円です。
たとえば100兆円くらい印刷して配ってもインフレにはならないと思います。
日本式の「質素倹約は美徳」という考えは、ある面最もではありますが、
みんながそうなると経済規模は縮小してしまい、
景気も悪くなっていきます。

公共事業はやらなくてはいけないし、公務員の給料も下げてはいけないと思います。
民間の就職がままならない時に岡田克也さんの言うとおり公務員の採用を
57%にしたりしたら、若い人はどこに就職すればいいんですか。

公共事業が悪、という風潮がありますが、これも情報戦によって刷り込みですね。
個人は80歳までに借金が返せなければ破産ですが、国には寿命がありませんから、
毎月たとえ1万円でも返す体制ができれば国は破産しません。
1千100兆円という借金も、毎年1万円ずつ返せば、わずか1千100億年後に完済します(笑)

日本はこの20年、公共事業を減らして予算を切り詰めれば、景気回復できると信じて努力してきました。
緊縮財政ということで、景気回復よりも財政立て直しが先だとしていたんですが、
これに対してアベノミクスは、

「一時的に借金を増やしても景気が回復すれば税収は増えるから、国の財政は後からでも立ち直る」

という積極財政なんです。
歴史を見ても緊縮財政で国が立ち直ったということは一例もないんだそうです。
国が立ち直る時には必ず積極財政が功を奏しています。
江戸時代の天保、享保の改革のとき、庶民の生活は最低だったと言われます。

われわれは「改革」というといいものだと思わされているところがあって、
日本はここしばらく、小泉内閣に代表されるように

「改革なければ成長なし」

という姿勢でいろんな法律を変えてきました。
その結果、あの改革で本当によくなったというものが一つでもありますか?

この20年の間に行われた「改革」は「日本ぶち壊し」でしかありませんでした。
その結果、日本のGDPは20年前より減っています。
これは日本人が働かなくなったから、などという理由ではありません。
GDPを決めるのは日本と日本銀行で、決められた枠の中で企業や個人は「取り合い」をするというものです。

みんなに使いたくなるだけの1万円札が行き渡るように政府日銀がしなくてはなりません。
なぜなら、緩やかな経済成長をしていないと人間は幸せになれないんです。
やりたいことができて政治的に自由であるとき、人は幸せなんです。
自由と繁栄が保証されていることが人間の幸福の基本です。

それでいうと、20年前よりGDPが減っている政治がいい政治だとは言えないと思います。
今安部総理が「2パーセントの経済成長」と言っていますが、
経済成長率が2パーセントになると失業率が1パーセントになる。
1パーセント以下で「完全就職」ですから、「2パーセント」となったんですね。

2%と言わず5%でも10%でも、とならないのは、そうなれば仕事が忙しくなりすぎて
毎日残業、土日出勤で酒飲んだりゴルフやったりもできなくなります。
だから2パーセントくらいが時間とお金のバランスとして丁度いい数字なんです。

日本の経済って、アメリカやヨーロッパ、もちろん中国や韓国と比べて盤石なんですね。
だけど不安を煽るような話ばかりが出てくる。
しかし例えば中国がないと日本経済は成り立たない、なんて全く嘘です。
日本がないと中国経済は成り立ちません。
中国や韓国は輸出で成り立っている国で、韓国などはGDPのうち50%を輸出が占めます。
中国は30%、日本は10パーセントにすぎません。

日本のGDPを輸出が占める割合は世界で三番目(1、アメリカ、2、ブラジル)に低いんです。
よその国に比べればほとんど輸出に依存していないんですね。
しかも、中国・韓国は完成品、つまり車やなんかの完全消費財を売って儲けていますが、
日本の輸出の8割が、これを作るための工作機械など、中間の「資本財」です。
中国・韓国は日本から継続的に資本財の輸入を受けないと経済が成り立たないんです。

これは強いですよ。
パク・クネなんか生意気なことを言ったら、ひとこと「締め上げるぞ」で済む話なんですけどね。
日本がそれをしないのをいいことに、あっちでパクパクこっちでクネクネやってますけど(笑)

でも日本では「中国がないと日本経済が成り立たない論」を言う人もたくさんいます。
わたしが田原総一郎さんの番組に出た時、言ったんですよ。

「田原さん、あなたよく調べてないでしょう」

って。
珍しく反論できなかったみたいですが、都知事選の時に仕返しされました。
関係ない歴史認識なんかを持ち出してきたりして。

「ああこいつ、あの時のこと恨みに思ってるな」

と思いました(笑)



■ 「ジャパン2000」と日本の失われた20年

日本もそろそろ歴史認識を改めて、まず自分の国を自分で守れる国にしなかれば
いけないとわたしは思います。

今日のニュースで下村文部大臣が

「国立大学で国旗掲揚国歌斉唱を行うように要請した」

というのがありましたが、こういうことを少しずつやっていくしかないですね。

21世紀になってからアメリカの戦略が変わったということを、日本人は
政治家も国民も認識しなければいけないと思います。
アメリカは40年に1回、国家戦略を変えています。
日本が日露戦争に勝った後、アメリカの第一の戦略目標は

「日本を軍事的に潰す」

ということでした。
オレンジ計画と言われるものですね。
約40年かけて嫌がる日本を追い込み、戦争に引っ張り出して日本を潰したわけです。

大東亜戦争が終わった後、アメリカにとっての最大の敵はソ連になりました。
これを潰すにもソ連は核武装国ですから戦争をするわけにはいかない。
レーガン大統領は軍拡競争を仕掛け、経済的に疲弊させて内部崩壊に導いて潰しました。

1991年、アメリカはまた戦略計画の見直しを行いました。

1992年、CIAが「JAPAN200」というレポートを作成しています。
この秘密文書を、ワシントンポストにすっぱ抜かれて世界に発信されてしまったんですが、

「冷戦は終わった。
これからのアメリカにとって最大の脅威はソ連の軍事力ではない。
日本とドイツの経済力の脅威である。
これからの世界は経済戦争に入るが、そのためには台頭著しい日本の経済力を押さえておかねば
いつかアメリカ経済は日本経済に支配される」

とそれには書かれていました。
アメリカはこれに基づいて、日本経済の弱体化を仕掛けてきています。

「日米構造協議」というのがありましたね。
建前はお互いの構造を近づけて相互利益が出るようにしましょうというものですが、
実は日本経済を弱体化させることが目的だったんです。
1993年には宮澤ークリントン階段で、年に一度構造改革書を交換しましょう、となり、
日本がアメリカの要求を受けると2~3年以内に法律が潰すというスパイラルに入りました。

これが「改革」の正体なんです。

相互主義で日本も要求をしますが、大した要求はしていません。
これでアメリカの要求により行われたことは

●NTTの分割推進

●郵政民営化

●社外取締役の制度

●建築基準法の改正

●談合の摘発

などです。
建築基準法については、アメリカから輸入される建築資材を点検などするなというもので、
談合の摘発も、これによって我々は「談合は悪」と反射てきに思うくらい刷り込まれました。

談合って、「予算はこれだけだからみんなで分けて落ちこぼれる会社がないようにしましょう」
という「日本的生活安心システム」のはずなんです。
汚職の温床となったり新規参入がしにくいという欠点はありますが、
競争入札は日本の実情に合わないというか、必ず落ちこぼれる会社が現れます。
一長一短なんですが、日本はすでに「談合は悪だ」としてしまいました。

日本人が昔からそう思っていなかった証拠に、「談合坂」ってありますね(笑)
談合が悪いことなら地名になんかなるわけがないんです(笑)

アメリカが介入してアメリカの会社が金儲けしやすいようにしてきたのが
この20年の「改革」の正体です。
だから日本のGDPも20年かけて減ってきました。

そこまでされても逆らえないというのはアメリカに完全に「支配」されているということです。



■ 占領下の日本でなにが行われたか


安部総理は「女性の輝く社会」として「管理職の30%を女性にする」としています。
もともと女性の社会進出は「ウーマンリブ」で始まりましたが、目的は増税でした。
税率はあげられないがもっと税金を取るには女を働かせれば良い、
配偶者控除、配偶者手当、税金を使うばかりの女を働かせれば税収が見込めるというわけです。

女性が働けば家庭教育がおろそかになります。
そうなると、日教組教育のような「洗脳教育」もやりやすくなります。

わたしは能力も意欲もある女性に働くなとは言いませんが、能力に関係なく
30パセーントの管理職とか、男女全く同じ扱いをするようになったら、日本の社会は崩壊します。

女性は普通「愛する男性に守られていきたい」ものだとわたしは思ってるんです。
男性に対抗して同じ待遇にしてくれと言っている女性は、男性に愛されたことのない女性ではないかとすら思います。

安部総理は「日本を取り戻す」といっていますが、それならば経済力だけではなく、
戦前の日本を取り戻して欲しいと思っています。

「戦前の日本は戦争ばっかりやって残虐でろくなもんではなかった」

ということに戦後はなっていますが、これも洗脳されているにすぎません。

「戦後アメリカから民主主義を教えてもらって言論の自由が生まれた」

なんて全く嘘ですよね。
戦前のアメリカは黒人や有色人種には選挙権もなかったんです。
1964年、東京オリンピックが行われた時に「黒い弾丸」と言われた
短距離選手のボブ・ヘイズというアフリカ系アメリカ人がいましたが、
彼はそのとき選挙権を持っていなかったんです。翌年公民権法施行ですから。

そんな国から日本は民主主義を教えてもらった覚えはない。

それを言うなら、アメリカにオバマ大統領が誕生したのも、元はと言えば
わたしは大東亜戦争の結果だと思っています。

しかし日本では戦勝国の歴史観をずっと教えてきて現在に至ります。
「自分の国は悪い国だった」と教えられていては、立派な政治家どころかろくな人間は出来上がりませんよ。
その欠陥製品の最たるものが鳩山由紀夫や菅直人ですね。

アメリカの占領下で何が行われたか、ということを日本人は知りません。

まず、プレスコードが決められ、放送する内容に検閲が入りました。
昭和20年の9月、朝日新聞に鳩山一郎の

「アメリカは原子爆弾を日本に落として酷いじゃないか」

という発言を報道したら、朝日新聞は48時間の発行停止処分を受けました。
朝日新聞はそのとき以来心を入れ替え、すっかりいい新聞になって現在に至ります(笑)


焚書も行われました。
戦前の日本には大航海時代から西欧諸国が世界のあちこちで残虐非道の限りを尽くした
というようなことを書いた本や、逆に日本が朝鮮や台湾、満州でどんなことを行ったか
ということについて書いた本が出版されていたんですが、こういった本が7000冊、
トラックでかき集められて燃やされました。

焚書は歴史の抹殺、検閲は言論弾圧です。

その上で昭和20年の12月8日から10日間にわたって、アメリカは
アメリカから見た一方的な歴史、「太平洋戦争史」を掲載しました。
そして10万部製本して日本全国にばらまいたんです。
平均すると各都道府県に2千万部ずつとなり、大変な数です。

これを基準にして歴史教育をやれ、というわけです。

そのときから日本は侵略国家だ、悪い国家だという歴史教育が始まりました。
そして日本は、今なおそのころからの国家観から抜け出せていないのです。



続く。



 


田母神俊雄氏講演より〜国際社会の”腹黒さ”に日本はどう立ち向かうか

2015-06-22 | 日本のこと

先日参加をお伝えした田母神氏講演の内容を聞き書きしました。
文章を起こすに当たっては、表現を分かりやすく変えたり、重複を避けて編集してあります。

本稿はあくまでも田母神氏の発言であり、わたし自身のものではないことをお断りするとともに、
もし、ご意見・反論などがあればぜひコメント欄で問題提起していただきたいと思います。

わたし自身気づかないでいる問題や、専門分野で判断のできない部分についても
同様、(特に軍事と経済)ご示唆をいただければ幸甚にたえません。


田母神俊雄氏講演 

「これでいいのか日本―誇り高き日本への道―」


■ 自分の国が”いい国だった”と言ったら公職追放になる国


ご紹介をいただきました危険人物の田母神でございます。

いぶん危ないやつだということでマスコミで叩かれるもんですから
おかげでこんなに背が小さくなってしまいました。

わたしは本当は「いい人」なんです。
空幕長の時に日本が大好きですから「日本はいい国だった」という論文を書いたところ、
当時の政権から(麻生政権)

「日本がいい国だったとは何事だ。
政府見解では日本はろくな国ではないないということになっている」

と言われてクビになりました。

だけどこれ、極めておかしなことだと思います。
自分の国を褒めて公職を追われるなんて国、世界中を捜しても日本以外ありません。

クビになって今年で7年目になるんですが、わたしは未だに防衛省から排除されたままなんです。
防衛省の式典にわたしは全く声がかからないのです。
最初は頭にきていたんですが、最近は「楽でいいわ」と考え方を変えました。
諦めてはいますがなんか寂しい気もします。
人生ちゅうのはなかなか思い通りにいかないもんですね。

わたしは統幕学校長だったころ、陸海空と学生が入ってくるんですが、
ほとんど全員が

「旧軍と自衛隊は違う。旧軍は悪い。でも自衛隊は違うんだ」

という意識を持っていました。
これではいかんということで、統幕長時代「国家観・歴史観」という講座を
5コマカリキュラムに入れたんですね。
亡くなった富士信夫さんなんかを呼んで講義をしてもらったりしたのです。

命を賭けて戦うというとき、心構えとして自分の国は素晴らしい国だと思わなければ、
ということで始めたことだったんですが、わたしがクビになった後は
「あれはおかしな講座だ」ということで廃止になったそうで残念です。

統幕学校長のとき、陸海空の学生20名を連れて中国を訪問したことがありました。
平成16年の6月のことです。
そのときに、日本でいうと統合幕僚の副長にあたる「ハン・チャンロン」 という中将が出てきて、
30分の面談を行ったんですが、彼は「ようこそいらっしゃいました」と一言挨拶した後、
すぐに

「過去の不愉快な歴史をどう認識するか」

という話を始めるのです。
彼は満州の生まれで、子供の頃から日本軍の残虐行為について聞かされて育ったので、
体に染み付いていて到底忘れることができない、から始まって日本の悪口ばかりいうんです。
10分くらい黙って聞いていましたが、同席の学生たちも面白くないんですね。
彼らはわたしが日頃「日本はいい国だ」ということを言っているのを知っているので、
どう反応するか見ているわけです。

それを感じて、わたしも勇気をもってしゃべらせてもらったんです。
中国軍に取り囲まれていて実は怖かったんですけどね。日本に帰れなくなるんじゃないかと。
でも、殺したいなら殺すがいいくらいの気持ちで、

「 日本軍が中国人に悪いことをしたとわたしは思ってません。
満州の人口は満州帝国ができた1932年には300万人でした。
それが1945年には5千万人を超えていたんです。
毎年100万人ずつ人が増えていった、これをあなたはどう理解しますか」

と聞きました。
あそこに行ったら残虐行為があるというところに人なんか集まってこないんです。
これだけ人口が増えたということは満州が豊かで治安も良かったからでしょうと。
そして

「中国は日本にだけ謝れというが、どうしてイギリスには言わないのか。
アヘン戦争であれだけいじめられたのだから、日本の10倍は謝らせないとおかしい。
日本にだけ謝らせるというのは中国の政治的理由があるのでしょう」

といったら、彼はびっくりした顔をしました。
それまで反論した日本人は一人もいなかったらしいですね。
それで日本人は絶対反論しないと思ってたらしいです。

しかしさすがは中国人ですね。即座に

「歴史認識を超えて軍の交流を進めよう」

ときました。(笑)
ただ、その後いじわるされました。
我々が到着したのは天安門の15周年だったのですが、中国側が主催してレセプションが開かれました。 
軍の恒例でその答礼として北京飯店で宴会を開いたのですが、これに来ないんですよ。
将軍も中将クラスも「急用ができた」といって来ず、渉外係の少佐しかいない。

翌月に予定していた中国の学校の統幕学校訪問も断ってきました。
わたしも悩むわけですね。わたし「いい人」ですから。
いやいや、いわなきゃよかったかなーと、小鳩のような胸を痛めていたんです。

それを伝えてくれた1佐がどうしましょう、というので、

「悪いけど東京にある中国大使館まで行ってきて、二度と来るなって言ってこい」

と言いました。
でも、直前になってやっぱり来たんですよ。
で、一言言ってやろうと思って、

「あんまり大人気ないことやらないでください」

と言ったら、あれこれ言うので、わたしも言いたいことを言って帰しました。
そうしたら次の年統幕学校の中国訪問を受け入れないってことになり、
1年間交流が途絶えてしまいました。

まわりはでも、

「よく言った。皆心で思っていても言えなかった。たいしたもんだ」 

という雰囲気でした。
ところが同じ意味の論文を書いたらクビになりました(笑)

でも中国の国防大学には、どういうわけかわたしの訪問時の写真がずっと飾ってあったそうです。
おそらく危険人物だから気をつけろということだったのでしょう。


■ 日米安保で日本は守られるか

政治家の間にも歴史認識の問題は蔓延しています。
歴史認識はよその国では過去の問題ですが、日本では現在進行形の問題です。
現在の国会議員の半分がアメリカの押し付けた歴史観を未だに持っています。

歴史は戦勝国が作るんです。
戦争に負けた日本はアメリカの歴史観を押し付けられたのです。
先進的な民主国家アメリカ、極悪非道の独裁国家日本という風に。

日本は独立したからにはアメリカの歴史観からいい加減にはなれないと、
そのうち国は衰退していくと思います。
しかし戦後70年経つのに、未だに憲法問題でもめている。

安保法制だって、特別のことをやろうとしているのではないんです。
日本もよその国と同じように自衛隊が行動して、いざという時には国を守れる体制をつくろう、
とそれだけのことなのです。

しかし、日本のマスコミや野党、左巻きな人たちは

「戦争ができる国にするんですか」

という。
それに対しては

「戦争ができるようにする」

と答えるしかありません。
戦争ができる国の方が戦争に巻き込まれる可能性が低いんです。
福島瑞穂さんなんかその辺何にもわかってない。

集団的自衛権も、スイスみたいな国は別として、行使できないのは日本だけです。
他の国と同じにするだけなのに、特別のことをするようにマスコミも報じるんですね。

実際集団的自衛権が行使できないと、自衛隊が派遣される時困るんです。
インド洋でもイラクでも、自衛隊は他の国に対し

「俺がやられたら助けてね。でもあんたがやられても俺助けられないから」

ということになり、これは誰も一緒に行動してくれなくなります。
武人にとって臆病だとか卑怯者とか言われるのは最大の屈辱ですが、

「お前たちは臆病な卑怯者になれ」

といって日本政府は自衛隊を派遣している。
去年、集団的自衛権について、石破幹事長がこんなことを言いました。

「これはできる、これはできない、と公明党にわかるように明らかにするべき」

本当に馬鹿げています。
やればやるほど、

「日本はこうやれば集団的自衛権を行使できないんだ」

という手の内が他国に筒抜けになってしまうんです。
作戦計画の事前通知みたいなものですね。
密室でやるべきで公の場でやることじゃありませんし、
こんなことをやっている限り絶対戦には勝てませんよ。

こんなことが真面目に国会で話し合われること自体が異常なことだと思います。

 
自衛隊は戦略爆撃機や空母を持てません。
攻撃的兵器を持たされず、何かあったらアメリカに反撃してもらうというけれど、
日米安保って、イコール「自動参戦」ではないんです。

日本が攻撃を受けたらまずアメリカ大統領が日本を守ることを決定して
アメリカ軍にそれを命じなければならない。
しかし、大統領がいくら決めたとしても、大統領の結審の期間はたった2ヶ月、
2ヶ月経ったら議会が同意をしてくれなければ 大統領といえども軍を動かすことはできない。

アメリカの議会がそのとき日本を守るために戦争することを議決してくれますか? 
絶対にしてくれないでしょう。
アメリカの議員はどちらかといえば「反日」の議員が多いと言われています。


じゃ日本はどうすればいいのか。
自民党が昭和30年に結党した時、自分の国は自分で守る、ということを
同時に決めたはずなんですが、それはいまだに実現していない。
アメリカがこれからどうなっていくかもわかりません。国力はおそらく落ちていくでしょう。

しかし、いざ自衛隊に力をつけさせる、軍事力を増やそうとすると、
これをやらせないための情報戦が、世界から仕掛けられてくるわけです。

世界を見回しても、世界中の人たちが全員豊かに暮らすための富や資源はありません。
国際政治というのはその富と資源の「ぶん取り合戦」というのがその本質です。
よその国なんか知ったことじゃない、自分の国だけが豊かになればいいというのが
行動原理である、国際政治の現実です。

ところが、世界で唯一日本だけが、 

「日本列島は日本人だけのものではない」

などと自国の利益より世界のことを考える”立派な”総理大臣を輩出します。
鳩山さんにはまず、

「音羽御殿は鳩山家だけのものではない」

と言って自宅を開放して欲しいですね。
総理大臣時代もろくなことをしていませんが、やめてからも勝手に中国や韓国に行って
日本を売り渡すようなことばかりやっている。

鳩山さんの唯一の功績は、東大を出てもあんな馬鹿がいると世間に知らしめたことです。


■ 「信じるものは騙される」世界

戦前の世界は帝国主義で、強いものが弱いものを搾取する弱肉強食でした。
戦争をするのに理由はいらず、行って勝手に支配して搾取するのが当たり前だった。
しかし、日本が大東亜戦争を戦ったらそれがなくなり、人種平等という建前が初めて生まれ、
1948年、国際連合ができて「世界人権宣言」が出されました。

今は力で富や資源を奪えないから情報戦争を仕掛け、同意を得て合法的に搾取する時代です。
TPPなんかでも、アメリカは公正にこれを行うと考えている「信奉者」がいますが、
そんなことは決してありません。
アメリカが提案しているのは「アメリカが儲かるシステム」にすぎません。

わたしもかつてはアメリカを信奉していた時代がありました。
しかし、総務部長でオペレーションサイドにいたとき考えは変わりましたね。
米軍と仲良くしようという考えはことお金がからむとなかなか難しいものがあります。


航空自衛隊ではF-2を運用していますが、タイヤの問題が起こりました。
アメリカはMOUという軍同士の「了解覚え書き」が合意事項文書があるんですが、
この中に技術の派生・非派生という言い方があり、「派生」はアメリカが開発したもので、
「非派生」というのは日本独自の技術と言う意味です。
この言い方の逆はなく、まあ不平等条約なんですが、アメリカが教えてやるという態度ですね。

アメリカはF-2のタイヤが「派生」だと、つまりアメリカの技術を日本が改善したんだというんです。
その場合は、日本の会社は技術をアメリカの会社に無償でバックしなければいけないんです。
輸出のタイヤがどうなっていたかというと、試作品はフランスのミシュランでした。
サンプルはブリジストンとヨコハマタイヤです。
ブリジストンとヨコハマが作ったラジアルタイヤを、アメリカは「派生だ」と言うんですね。

「何を言っているんだ。日本のブリジストンとヨコハマが作ったんだ」

と言ったのですが、アメリカ側は

「MOUの定義によるとタイヤは派生である」

の一点張りです。
日本人なら相手が作ったものを俺が作ったなんて言いませんよね。
でもアメリカはごく普通にこういうことを言うんです。

わたしもアメリカがこういう勢いなのでつい、

「いいじゃないかアメリカがそう言っているなら派生でも」

といいましたら、ヨコハマゴムの人がそれじゃ困るといって、
こんな話を聞かせてくれました。

当時、世界のタイヤ業界の「ビッグ4」は、

1位 ミシュラン 2位 ブリジストン3位 ヨコハマタイヤ

そしてシェアー一桁でアメリカの

グッドイヤー

という会社だったんです。
グッドイヤーは、当時バーストしたり燃えたりという事故が多かったんですが、
アメリカは日本側に「派生だ」と認めるサインをさせて、
ブリジストンとヨコハマの技術をタダでグッドイヤーに提供させるために
ガンガン圧力をかけていたというわけです。

アメリカ人は一人一人は陽気でいい人たちなんですが、
一度「国を背負って交渉する」となると、本当に狡くて汚いです。


これだけじゃありません。
JKFというデータリンクシステムがあるんですが、政府間でしか売らないものです。
データリンクの端末がイージス艦にクラス2のものが導入され、
7年遅れて航空自衛隊のペトリオットシステムにデータ端末が入るという(クラスM)ことになりました。

防衛省はこれを買うためにアメリカ大使館を通じてこの値段を聞くんですね。
1個1億3000万という答えが返ってきました。
それで予算を組んで、翌年になって、予算をつけて買おうとしたら、今度は2億5千万だという。
ペーパーでやりとりしていたのでその紙を突きつけて交渉しろといったんですけど、
3ヶ月経っても色んな値上がりの理由をいうばっかりで全くらちがあかないんです。

そのころ、向こうの軍の高官がわたしのところに表敬訪問にやってきたので、
こんなことがあるが知っているかと言って、彼もその場で
そんなことは信義に悖ると意見が一致したんですが、彼がアメリカに帰って1週間で

値段が元に戻ったんです。

あれっていったいどういうカラクリだったんでしょうね。
例えばアメリカの将軍が民間に天下るから1年目の給料を日本に払わせろ、
みたいな話だったんじゃないかとわたしは思ってます。

というわけでわたしは国のために、一個につき1億2千万円も節約したんだから、
2千万円くらいくれと言いたいですね(笑)


わたしはアメリカ別に嫌いではありませんし仲良くするべきとは思いますが、
こういうことがあって信奉者などではなくなりました。
なにしろあの国には騙されないようにしなければなりません。
世界においては

「信じるものは騙される」

が基本ですよ。

アメリカの本音は日本に武器はもたせたくないわけです。
しかし独立国だから持つなとは言えない。
そこでどうするかというと、まず、ミサイルの脅威を煽るんです。
もっと日本はミサイル防衛を固めなければならない、と。

今現在の自衛隊は「守りに編した」軍事力です。
守りに偏するというのは攻撃のための武力を持つことは予算的に難しくなる。

現在北朝鮮のミサイルを撃墜する体制は、海上自衛隊のイージス艦が搭載しているSM3、
これで日本の空は「薄く」覆われています。
この上で東京とか大阪の大都市は、空自のPAC3で二重に守られています。
そこに集中すれば10のミサイルくらいは撃ち落とすことができるでしょう。

もし100発撃たれたらもちろん何発かは入ってきますが、そんな可能性はまずない。

日本では年間7000人が交通事故で死亡するのですが、北朝鮮のミサイルに当たって死ぬ確率は
交通事故に遭う確率の100分の1くらいなんで、よっぽど運が悪いと言う計算になります。

それより、

「一発撃ってみろ、そしたらその5倍10倍撃ち返してやれるぞ」

と言えるだけの備えを持っていることが抑止力だと思うんですね。

日本は海自など、アメリカのシステムを使っています。
これは「アメリカと手を切ることができない」ということでもあります。
システムというのは今ソフトウェアで中身が見えないだけに、余計そうなります。

自衛隊はアメリカの友軍として行動するときには相当強い軍だと思います。
しかしアメリカと袂を分かって行動するときにはそうではないというのが現実です。
アメリカはこれを狙ってやっています。


F-35戦闘機を日本に売っておけば日本はアメリカから決して自立できない。
F-4ファントムもそうですが、こういう買い方をしている限り。

軍の自立は国家の自立と同義です。
軍が自立していないのに国家が自立できるわけがありません。
そのためには兵器の国産化を進めていくべきだと思います。

日本もそろそろ戦闘機の開発を進めていかないと、技術者が胡散霧消して
第二次世界大戦が終わったときと同じような状態になっていまいます。
いま三菱重工がMRJという中型の旅客機を作っていますが、三菱重工は
戦闘機の技術者をMRJのためにかろうじて確保しているんです。

この技術者が流出しないためには5年以内に日本が国産戦闘機の開発に
入ってくれないといけない、といわれています。
「心神」という戦闘機を、なんとか早くそういう段階に進めてほしいですね。

(註: 現在米国はあの手この手で戦闘機の共同開­発を持ちかけていますが、
それも日本の技術力を恐れているからに他ならないとわたしは思います)

兵器が作れないと、日本はサウジアラビアやクウェートみたいな国になってしまいます。
日本の原発技術は世界一なんですが、もし原発廃止とでもいうことになると、
当然原発技術者がいなくなります。
いま、原子力工学に進む優秀な学生が大学でも減っているそうです。
国の方針というものは影響がこれほど多いんですが、早く戦闘機も
国産にするという道筋をつけてほしいんですけど、アメリカの本音はこれを日本にやらせたくない。

それに、外国製の武器を使う限り最高性能のものは絶対に入ってきません。
兵器輸出の絶対原則で、

自分の国と同じ性能を持ったものは決してよその国に売らない」

というのがあります。
ソフトウェアで2ランク3ランク落としたものを輸出するんです。
航空自衛隊と米軍はどちらもF-15を使ってますが、アメリカの方が性能がいいんです。
アメリカが能力向上してから、日本に古い形を輸出してるんですから。

それはアメリカに限ったことではなく、世界中がそうやっているんです。

インド軍の人物と話したとき、インド軍はスホーイを輸入してるんですが、
うちのスホーイは中国軍のより性能がいいと自慢していたので、
ロシア空軍の参謀に会う機会があったときに本当かと聞いてみると、

「当たり前だ。国境を挟んでいる国にいい武器を売るわけがない」

といっていました。
 

国際社会は善悪で動くのではなく、利益で動くんです。

例えば北方領土の一括返還をアメリカとドイツが支持しているんですが、
日本人は人がいいから両国が日本の味方であるかのように考えてしまいます。

ロシアは国後択捉を返すとずっと遠回りしなくてはいけない。
だから一括返還を求められても物理的に難しいということなんですが、
ロシアが一部返還して日本と仲良くなるのは、アメリカとドイツにとって困るのです。
つまり、一括返還しか選択肢がないとなると、ロシアが日本に北方領土を返還する日は
決してやってこないわけで、それは同時に

日本とロシアは永久に和解しない

ということを意味するのです。
アメリカとドイツはそのために一括返還を支持しているとも考えられます。
日本に味方するふりをしていますが、自国の利益のことしか考えていないんです。


日本人というのはこういう腹黒さを国民性としてもたないのですが、
国家指導者には是非こういう狡さを持っていてほしいですね。 

 
 (後半に続く)


 


田母神俊雄氏のこと

2015-06-21 | 日本のこと

先日ブログ内でちらっと触れた「防衛部長就任」の件ですが、
これが脳内組織の脳内役職ではなかったという証拠をお見せしましょう。



どや。

国防問題担当部長。地球防衛協会日本支部顧問。

これは、すでに顧問となっている組織とは別の団体であるため、
わたしは二つの団体で「顧問」と呼ばれるところの人間になったわけです。
そうなって改めて「顧問」という役職の胡散臭さ汎用性を実感するわけですが、
それはともかく。


先日、国某協会の主催による田母神俊雄氏の講演会を聴いてきました。
当協会による田母神氏の講演会昨年秋にも一度予定されたのですが、
同氏が都知事選に出馬することが決まって中止になったため、その代わりに
この日行われたという事情のようです。

ところで今度田母神さんの講演聞きに行くんですよ、と防衛関係団体の出席者に言うと、
皆どういうわけか

「ああ〜、田母神さんね〜」

みたいな反応をするんですね。
どうも政治資金の問題について言っているみたいなんですが、

「ワキが甘いよね」

とか、ひどい人になると

「有名になってお金に目が眩んだんじゃないですか」

なんて(繰り返しますが国防団体ですよ)言ったりするわけです。
政治資金の問題って、田母神さんが着服でもしたんだっけ?と違和感を覚えて
調べてみると、なんのことはない、支持者からの寄付などで集めた政治資金を、
会計責任者の50代男性が私的に流用していたので、田母神サイドは横領罪で
この人物を訴えているだけではないですか。

ただ、さらに調べるとお金を巡ってチャンネル桜の水島氏と対立しているという
ドロドロした話もあるそうです。

それでなくても、

「自衛隊に田母神を支持する人間はいない」

なんて説が実しやかに流布されたりして、なんとなく、

「わたしは田母神俊雄を全面支持しているわけではない」

みたいな風潮が保守と言われたい人の中にもあったりするのかなという気がしました。

出る杭は打たれるという諺どおり、氏のアグレッシブな言論(わたしはそうとも思いませんが)
が、中庸をともすれば良しとする多くの日本人にこういう見方をさせるのかもしれません。



わたし自身は、氏が航空幕僚長を罷免されるきっかけになった論文と、
willなどの寄稿、
インタビューを読んだくらいで、実際に講演を聞いたことはありませんでしたから、

虚心坦懐に「田母神イズム」に触れることのできるこの機会に大変期待をしていました。

当日の講演会の内容については、別にエントリを製作してお伝えするつもりですので、
田母神氏についてよくご存じない方は、とりあえず政治資金や水島氏との諍いについては脇に置いて、
それを読んでから評価していただきたいのですが、
とりあえず感想を言うと、
メモを取り講演を聞きながらも、そして書き起こすために
1時間半のちょうどのスピーチを再生したときも、
その意見においては、
わたしが常日頃ここで言っていることと方向性は同じであって、
あたかもわたしの中の小さいおじさんが田母神氏の姿を借りて、
わたしの思っていることを語ってくれているかのように、全く違和感を感じませんでした。

さらに氏のスピーチは、その片言隻句に至るまで、人脈と経歴を生かしたあらゆる方面からの
「裏付け」が取られていて、
それが「仕事」とはいえ、数字も人名も年号もメモ無しで、
「田母神節」といわれる、時々ベタなおじさんギャグを交えながら人を引き込んでいく講話は、
もう既に「話芸」の域に入っていると感じました。


普通のスピーカーなら決してしないだろうなと思われる、考えようによっては
人を怒らせそうな(男に愛されたことのない女が男と全く同じ待遇を要求するものだとか)
本音をガンガン言ってしまうあたりも、思想に関係なく「敵を作る」要素でもあるんでしょうけど。


さて、講演会の後、会場となったホテルのティールームで講師を囲む会が開かれ、
なんとなく申し込んでいたわたしもそこに行きますと、すでに田母神氏は席についており、
その向かいに旧知の元海幕長と元陸幕長が座っています。
お二人にご挨拶をしてからテーブルの一番端っこに座ろうとしたら、元海幕長が

「こっちこっち」

と手招きして、田母神氏の隣に座るように促されました。
つまり、こういう構図です。

元空幕長 ◯|   |◯ 元陸幕長
      |   |
わたし  ◯|   |◯ 元海幕長

うーん、なんたるパワーピラミッド。
一隅だけにブラックホールが生じておる。 


とはいえ、その後元空幕長と並んで写真を撮り名刺を交換したがる方が相次ぎ、
わたしはもっぱら向かいの元海幕長に

「こんなにいろんな所に出没してて、お家の方は大丈夫ですか」

なんてからかわれつつ(もしかして本気で?) 、田母神さんと写真を撮ろうとするおばちゃんに
あんた邪魔、とばかりに黙って体を押しのけられたりしてたのですが、(−_−#)
それもひとしきりすんで、ようやく田母神さんがこちらを向いてくださったので名刺交換をしました。



「僕の名刺です」と渡されたのが一部で有名な田母神さんの「僕乃名刺」。
裏には、丸文字フォントで

お互いもっと仲良くなったら詳細お知らせするね ウッフ
                        ↑
                       注目

いやそこは「ウフッ(はーと)」だろう。
わざわざ初対面の人間のウケをねらうためにこのおっさんは・・・orz

田母神氏は席についたらついたで、わたしに向かって、


「あなたもバストいくつですか?なんて失礼なことを聞かれたら”二つです”と答えなさい」

などと、ハイテンションな(ただし聞かされたほうはテンションだだ下がり)
おやぢギャグを繰り広げるおじさんでした。

しかしそこで気をとり直してまともな方の名刺を見ると、その肩書きは、


「元航空幕僚長」 (Former Chief of Air Staff, JAPAN)

となっているんですね。
氏が講演の中で、「防衛省から正式な儀式に呼ばれることがないのは寂しい」
と言っておられたのを思い出しました。
そういえば田母神氏に現在役職はなく、あくまでも「元航空幕僚長」という肩書きで、
空自時代の経歴をバイオグラフィにも事細かに載せておられます。




隣に座っていたからといって人気者のカリスマを独り占めにできるわけもなく、
次から次へと人がやってきて質問したり写真を撮ったり話しかけたり、
というわけで、わたしはもっぱら元陸幕長と例の防衛省設置法改正のことを話したり、
元陸幕長の刮目すべき防衛論(いつも目からうろこです。ここでは書けませんが)を
拝聴していたのですが、海幕長には気になっていたことを質問させていただきました。

「この間のお話によると、海自始め自衛隊は、日米同盟の深化を第一義にしているし、
日本の平和が9条ではなく日米安保によって保たれてきたというのが現実ですが、
その一方で田母神さんのような考え(アメリカの手を借りず日本を自分の手で守る)も

保守的には決して否定されていませんね」

これに対して、

現状として日米同盟が正式に機能しているうちは自衛隊はそれを第一義にするしかない

というのが元海幕長のお答えだったようにわたしは解釈しました。
自衛隊は「シビリアンスプレマシー」によって命に従う機関であるというのが全てです。


わたしは昔、憲法改正について何日間かに亘って意見を述べたときに

「いずれは米国と幸福な離婚をして日本を自分たちで守らなくてはいけない日が来る」

と書いたことがあります。
田母神さんによると、アメリカの国力、並びに影響力がだんだん落ちているというのも
いつまでもアメリカに守られる日本でいいのか?という懸念の一つですが、
わたしはもう一つの理由として、アメリカのダイバーシティに起因する懸念もあると思います。


つまり、今アメリカでは白人が減り、中国系とヒスパニック系が増加しているのですが、
ヒスパニック系ならともかく、もし中華系がアメリカ大統領になる日が来たら・・・?
そしてこれは実現性が薄いとはいえ、万が一朝鮮系が大統領になったら・・?

そのときに日本が、国防を今のような形でアメリカに押さえつけられ、依存したままだったら、
いったいどんなことが起こるか、考えただけでもゾッとしませんか?

しかし、日米の軍連携には、アメリカの軍需産業のあまりにも深い介入があるようですので、
有利な条件で武器を買ってくれる(しかも交渉抜きで)ありがたいお客様を逃すことになる事態だけは、
アメリカの産業界がどんな手を使っても阻止してくるだろうという気もします。



      
前回の反省から一応配慮して、目元を隠した元陸幕長と元海幕長のツーショット 。
ちなみに冒頭の写真は畏れ多くも元海幕長に撮ってもらいました。
 
ところで、田母神さんほどの有名人となると毀誉褒貶相半ばは避けられないことですし、
「金に目が眩んで」などの無責任な(多分詳細を知らずに言っている)批判も
反対勢力が便乗することで、より一層悪意をもって広められるでしょう。
人格批判もそうですし、わたしはさる筋から「女癖が悪い」と聞いたことすらあります。

そういう問題ほど検証することなく世間は簡単に受け入れてしまいがちですが、
わたしは改めてご本人のブログを訪問し、こんな記述を見つけました。
抜粋するとこんな感じです。


妻との関係が上手く行かず自衛隊在職時代から退官したら離婚するという意志を固めていた
 
自衛隊を退官してから後、妻とは別居していた

その後現在交際している女性と知合い、結婚を申し込んだ

妻が離婚調停には応じてくれないので、裁判で現在係争中


妻の生活の面倒は見ているし、離婚後も相応の負担には応じるつもりだ

そして、最後に、こう書いているのですが、

週刊誌などでも何度か面白おかしく報道されましたが、
現在交際中の女性が私にとっては一番大事です。
彼女を守らなければいけないと思い、今回私の思いを表明しておきます。
彼女に篭絡されたなどという事は全くありません。結婚は私のほうからお願いをしたのです。
そして彼女は私のために待ってくれています。彼女には大変迷惑をかけて本当に申し訳ないと思っています。


なんというか、驚くほど不器用で無防備な人だなあという印象を持ちました。
こういう人を一言で「女癖が悪い」と決めつける世間の評価というのは一体なんなんだろうと。
こんな愚直なくらいの正直な人は政治家には向いていないのではと、心配になったくらいです。

田母神氏は、わたしが

「新党を結成するおつもりはないのですか」

と(実はこのときあまり田母神氏の政治活動への動きを知らずにいた)いうと、

「やろうにも金がないんですよ」

とおっしゃっていましたが、参院選に出馬する意思は固められているようです。
ワキが甘いといえば、例えば自衛官時代、

「どこまで制服組の発言が許容されるかのパイオニアになろうと瀬踏みしている印象があった」

というくらい積極的に個人的な持論や主張を発言するような人物であったことも、
老獪さを備えていなければたちまち潰される政治の世界では、「ある程度までは」懸念材料となります。
ある程度、というのは実績をあげ、動かぬ地位を手にいれることですが、
そうはさせまじとマスコミや野党が鵜の目鷹の目で足下を掬ってくるでしょうし、日本が

「日本は侵略国ではない」

という論文を書いた幕僚長をクビにするような国であった(ある?)ことも事実です。
安倍政権になって変わってきていると信じたいですが、政治は理想だけでは動くものではありません。
正しいことだから言った、では通らないことがあまりにも多い世界に、
田母神氏はあえて自分の理想と信念と直情を武器に斬り込んで行こうとしているのです。

わたしは田母神氏個人の”信奉者”というわけではありませんでしたが、
今回講演を聞き、日頃わたしが考えていることと方向性は同じであることを確認しました。

そして思ったのは、田母神氏自身がいつもいうように、田母神氏”程度”の保守が
「危険人物」となってしまう日本という国の現状は、明らかにおかしいということです。


ここで三島由紀夫の名前を出すのも、ご本人には縁起が悪いと怒られてしまいそうですが、
三島があの事件を起こしたのは、日本という国への強い警告と、その現状に楔を打ちこむためでした。
そして、そのために行動を起こす舞台に選んだのは「自衛隊」でした。
三島は、国防と国体は一元的なものであるとし、国体を変えるために国防にも変われと訴えたのです。

自衛隊の長としての側から国防に携わり、国防を知り抜いた田母神氏の政界への進出は、
はたして日本への「楔」となりうるでしょうか。 

わたしは少なくとも、田母神氏のような人物を、政治家の一人として
迎え入れることができる日本であってほしいと思います。




地球防衛協会連合会(仮名)総会で衝撃(おまけ*防衛省設置法案成立)

2015-06-16 | 日本のこと

先日アップした国際情勢についての西原正氏の講演会は、
全国地球防衛協会連合会(仮名)の総会のときに行われました。
いまさら仮名にしても何にも意味がないような気がしますが、一応これも
検索をスルーするためのちょっとした工夫だと思っていただければ幸いです。

人物の名前を出さなかったり、仮称を使ったり、あるいは日にちをずらしたり、
こういったネット社会でのちょっとした身バレ防止のための努力というものを
当ブログでは怠らずやってきたつもりだったのですが、それがある方面に限り、
あまり意味を持っていなかった「らしい」ことが今回わかりました。

その話をする前に、総会当日のご報告から参ります。


 

講演会の後、開始時刻ちょうどに会場にはいったところ、聞いていたより規模の大きな
大宴会場での懇親会が始まろうとしていました。

中央にいるのは在日米海軍、空軍の制服を着たアメリカ人と、陸空海の自衛官。
海自の制服の後ろ姿は海幕長です。 



わたしの属する某地球防衛協会の会長代理の方が迎えに来てくれて、
決められたテーブルの周りにたどり着きました。(立食だけど一応テーブルが決まっている)

さっそく政治家の先生方のスピーチが始まります。



自民の木原稔代議士。
今確かめるためにツィッターを見たら、この人のツィートがなかなか。

二言目には「審議拒否!」…軽すぎる。
国会で質問することが国民の代表たる代議士の本懐ではないか。
気に入らないから審議を拒否するのではなく、昼夜を問わず審議を要求すべきではないか。

ごもっともです。民主党はそれしかできない政党。

いや、最近は国会で厚労委の委員長の首を絞めて怪我させ、それが
「委員長に飛びかかれ」と紙面で(しかも手書き)指示が出されていたそうなので、
自分たちの主張のためには(というか足を引っ張るためには)暴力も辞さない、という
クズ政党であることがまたしても明らかになったところですね。

丁寧に答弁すると「時間稼ぎだ」と言われ、簡潔に答弁すると「誠意が感じられない」と言われ…

お察しします。

確かにその通りですが、他に表現の仕方があるだろうに。
「女性と黒人 出馬を表明 米大統領選、共和党」琉球新報 5月5日 朝刊

(しょせん)琉球新聞ですから・・。



またしても遭遇、佐藤正久議員。
このとき近くにいた方が

「佐藤議員は滑舌が少し悪いのが残念だ」

とおっしゃったのですが、わたしはこの時、初めて国会に登壇した時と比べると
別人のように演説がなめらかで明瞭にになっている、と、

ちょうど考えていたところだったので、その旨弁護しました。



地球防衛協会の一番偉い人。
後で名刺交換させていただきました。


ところで、佐藤議員が興奮した口調で報告したことがあります。
この日付けで、国会では「防衛省設置法」改正案が成立したのでした。


法案の内容の一番大きな「目玉」は、内局の所掌事務規定の見直し、
そして、制服組と背広組の関係の見直しということになろうかと思います。

わたしはこの次の日、ある海将と会談したのですが、そのときにこの法案について
伺ったところ、部隊運用に関する業務の統幕への一元化がなったことによって、

「つまり話が早くなる」

と一言で明快に説明してくださいました。
しかし案の定、マスコミの論調は一貫して

「文民統制の終わり」=「制服組の暴走」

とどぎつい言い換えを行っては不安を煽っているものばかり。



確信犯なのか故意犯かはわかりませんが、マスコミの論調は(野党はそれに追随)、
「文民統制」と「文官統制」を意図的に混同させているものばかりです。 


はっきりさせておきますが、この法律はマスコミがミスリードしているように
「文民統制」を廃止するものではありません。
本来の「文民統制」とは、国民から選挙によって選ばれた政治家たる防衛大臣が、
 制服組、背広組すべてを統制するというもので、改正後も
最高指揮官が政治家であることで、文民統制は生きております。

それでは「文民」と「文官」の違いとは何でしょうか。


「文民」=政治家
「文官」=防衛省背広組

と考えていただければいいかと思います。 

そもそも日本で戦後、警察予備隊創設を主導した占領軍総司令部民政局別室(略称:CASA)
の意向であった「シビリアン・スプレマシィ」(文民優位)を、まず二世通訳
(今、日系二世について調べてますが、やはり彼らの語学能力には限界があった模様)が
「文官優位」または「文官統制」と誤訳したことが、今日までの錯誤の原因となりました。

それに加えて、当時の内務官僚の、

「軍人はほうっておくと何をするかわからないので、しっかり押さえつけねばならん」

という考えによって、誤訳が意図的に放置され、かつ悪用されてきたという見方があるそうです。

たとえば自衛官の処遇改善の一環として、
統幕長を認証官に据える」という自民案を
佐藤議員らは進めていますが、これに待ったをかけているのが背広組であって、
その根底には「制服組が自分たちの上に立つのが面白くない」という内局の本音があります。

 

それでは法改正後はどうなるか簡単に言うと、「軍事」に関する補佐は各幕僚長が、
「政策」的補佐を内局官僚が、それぞれ専門的見地から行うことになります。

今までは、事務次官の裁量次第では防衛大臣の命令がトップダウンにならなかったり、
現場に知悉した制服組の情報でも、それが背広組の意向に反するものなら、
報告さえ上がらないという弊害があったのですが、制服と背広を対等の関係にすることで
その無駄がカットされる(話が早くなる)というだけのことなのです。

 とにかくマスコミはどういうわけかこれを「文民統制の弱体化」と位置づけ、
「文官統制」と「文民統制」は全く別物なのに、皆これをあえて混同して語り、
いたずらに「軍靴の足音」がががが、とミスリードして国民の不安を煽っているだけに見えます。

じゃー聞きますが、あなたがたのいう「文民統制の弱体化」って具体的になんですか?


そもそも文民が統制しているから戦争にならない、なんてのはわたしに言わせれば幻想ですね。

暴走した文民(政治家)が戦争をおっぱじめ、いわゆる「暴力装置」である軍隊は、プロフェッショナルとして
それに従って戦っただけという例はいくらでもあるではないですか。(湾岸戦争とかね)
もしそうなったとき、(つまり文民が戦争を始めたとき)文民統制は何の意味を持ちますか?


つまり何が言いたいかというと、今回の法案では「文民統制」を廃止したわけでもなんでもないし、
そもそも「文民統制が戦争を防ぐ」=「その弱体化が戦争につながる」というロジック自体、
全くデタラメなのです。



 

ところでこのテーマは、佐藤議員が、その当選直後から、防衛関係議員(石破大臣、浜田大臣、中谷大臣)
らと共に、防衛省改革の一環として推進してきたものでした。

民主党政権時に反故にされ、
民主党政権時に反故にされ、
民主党政権時に反故にされ、

ようやく法改正に至ったのがこの日だったということなのです。
この日の佐藤議員の感慨深そうな面持ちも当然のことと言えましょう。

佐藤議員は、自身のブログで

今回の法改正で、初めてわが国の防衛体制において、
健全な「シビリアン・コントロール(文民統制)」が顕現されることとなる。

と語っています。

文官統制が廃止されることで健全な文民統制が可能になる。

この猿にでもわかる簡単な理屈を理解しているらしい(つまりちゃんと報道している)のは、
わたしの見た媒体では
産経新聞だけでした。





さて、設置法案の話はこのくらいにして。

この後歓談に移る前に、会場に来ていた招待者が名前を呼ばれました。

自衛隊関係は将官以上、議員の代理人(宇土議員の奥様もおられ、ご挨拶させていただきました)
などが呼ばれるとその場で手を上げて「はい」と返事をします。
自衛官の挙手は全員「グー」であることもちゃんと確認しました。

アメリカ海軍、空軍の軍人さんがきておりましたが、空軍さんの方が
呼ばれたときすらすらっと

「よろしくおねがいします~」

と全然訛らない発音で言ったので会場はどよめいておりました(笑)
日本勤務が長い方なんですかね。


そして歓談タイム。
今回初めて海幕長にご挨拶させていただきました。
わたしの存じ上げている元海将と同期でいらっしゃるので、話題として

「元海将がMAST Asiaで講演をなさっていたそうですが後で知って残念でした」

というと

「僕のも聞いてくれなかったんですね・・・いや、聞かない方がいいです」

なんと、海将も同日講演されていたのです。
そしてこのとき、元海将が

Military Statemen Forum 

で渡米されているということを伺ったのでした。 
海将は海自のトップの方々に不思議と共通する、どちらかというと学者的なタイプで、
物腰柔らか、ソフトな声音が、元海将から伺っていた

「江田島時代当時の校長の部屋で、フォートナムメイソンの紅茶とフルーツケーキを二人でご馳走になった」

という逸話になぜか深く頷いてしまう知的で上品な雰囲気の方でした。


さて、本題です(笑)

この後、わたしは地球防衛協会の会長代理に連れられて、旧知の元陸幕長と、
先日水交会で初めてお会いした軍医殿、じゃなくて中央病院の副院長にご挨拶に行きました。 
ここで驚天動地の出来事が起こったのでございます。

元陸幕長はわたしを見るなり、こうおっしゃるではありませんか。

「あなた海軍にくわしいんだってねえ。ブログに出てましたって教えられたよ。
ネービーブルーとかいう」

orz <・・・・・・・・・。

わたしの脳裏には「どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして」
だけがぐるぐると渦巻き、次の瞬間、以下のことに思い当たりました。

当ブログを見た関係者(多分自衛隊の中の人)、かつわたし個人を知っていて、
(どこかで名刺交換した?) ブログと実在のわたしを結びつけられる人がこの世に存在する。

それが一体どういう人物なのか思いを巡らす間も無く、わたしは気付きました。

隣の軍医中将じゃなくて海将も、気のせいか「何か知っておられる風」な表情をされていることに。

わたしはもしかしたら、自衛隊という組織をあなどっていたかもしれん。
確かに、テーマを自衛隊について特化して書いているブログについては、
自衛隊の「そういう部隊」(どんな部隊だ)が
リスト化しているらしい、という噂について、昔軽~く

「こんな話があるけど、当ブログもそのリストに入ってるといいな

みたいなことを書いたことはあります。

しかしまさか元陸幕長ご本人が
こんなブログ見るわけないよね~と思っていたため、
写真をアップするわ、
陸幕長の現役時代の話で漫画を作成するわとやりたい放題やってしまっていました。
幸い元陸幕長は「まだ読んでない」とおっしゃってましたが、
これは何としてでも「読まないでください」というべきだったかもしれません。

この期に及んで元陸幕長だけでなく、各方面に何か失礼なことは書いてなかっただろうかと、
その日は眠れなかった、小心者のわたしでございました。



それにしても、自衛隊の情報収集力&伝達力おそるべし。 




ロシア・イスラム国・中国と「力の空白」~西原正氏講演より

2015-06-12 | 日本のこと

ジャンルカテゴリを「海外ニュース」とするのに、適当なのがこれしかないとはいえ
モヤっとしてしまいました。
「海外」じゃなくて「国際」というジャンルを作ってくれんかなgooブログは。

西原正氏は現在、平和・安全保障研究所という平和と安全に関するシンクタンクの
理事長であり、かつて防衛大学校で教鞭をとっていたことがある国際政治学者です。
全国防衛協会連合会(仮名・地球防衛協会)で行われた講演の内容が、
今の国際情勢を「三行でいう」的なポイントでまとめられたものだったので、
それをさらに簡単にまとめて誰にでもわかるようにご紹介しようと思います。



先日、ドイツで行われたG7において、

「南シナ海で行われている力による現状変更は認めない」

という声明が出されました。 

ようするに中国を牽制したわけですが、現在の世界では、南シナ海を始め、
「力による現状変更」が意図され、その結果「力の空白」を生んでいる地域が3つあります。
それを企んでいる国と、その地域は次のとおり。

ロシア による クリミア併合

イスラム過激派 による 勢力拡大政策

中国  による 南シナ海、東シナ海 


この地域の現状についての総括がこの日の講演の主題でした。
それでは、まず各地域についてざっと今の状況をまとめると。

まずロシア。
ロシアはソ連となり、それが崩壊して周辺国が独立してしまいましたが、
現在のロシアはクリミア併合によって「ロシア帝国」を復活させようとしています。

イスラム。



昔この地域は赤の部分が「イスラム」だったのですが、



いわゆる「イスラム国」は、こんな感じに「イスラム王朝」を復活させたいわけです。
なぜスペインを飛ばしてポルトガル?という気もしますが(笑)
アフリカの上半分を乗っ取る構想にしているのは、

「アフリカは乗っ取るの簡単そう」

ってことなんですかね。(全然このへんの知識なしで言ってますので念のため)

ちなみに彼らは2014年に「カリフ制」を復活させました。
カリフというのは「後継者」という意味で、開祖ムハンマドの「後継」となる指導者のことです。

イスラムの考え方によると、カリフの治める「国」には国境が必要ではないそうで、
「イスラム国」なのにいったいどこの「国」なのか、と皆が思うのはこのせいだと思われます。


そして中国。
我々に関心の深い「現状変更の総本山」が中国で、ご存知のように海洋進出への野望を
全く隠すことなく岩礁を埋め立ててまで現状を変更しまくっているわけですが、
陸においては、こんなことを企んでおります。

 

新シルクロード、というのがこの構想のネーミングだそうですが、三つのいずれの地域にも共通するのは

「昔の夢よもう一度」

と、かつての栄光の時代の復権を狙っていることです。

(ここまで書いて、裸一貫の小国が当時の大国によって支配されていた世界のあちこちに進出し、
曲がりなりにもあれだけ領土を展開した例は、近代史においては大日本帝国だけではなかったか、
とふと思いついたのですが、他にそんな例があったらどなたか教えてください。)

シルクロードによって中国は政治、経済、安全保障を確立させるという狙いがあり、
福建省に自由貿易区を据えてシルクロードの拠点にしようとしているのです。



南極に中国人の観光客が押しかけてペンギンに接近するため顰蹙を買っている、
というニュースを先日読んだところですが、中国は北極もなんとかしようとしております。

2011年に海自の幹部学校にて作成された資料によると、ロシアはまず、
ここに最も意欲を示している国家で、北極点下にこっそり国旗を立てたそうです。
写真を見ると、国旗といっても海の中に立てるものなので、錆びない棒に
赤白青の三色のプレートをつないだ、アイデア賞受賞作品みたいな旗です。

カナダ・デンマークも近いので当然北極に関与している国ですが、それよりわからんのは
中国がなぜかここにも、取得のための布石を着々と打っているということです。

だいたいお前ら北極に近くもなんともないだろっての。

どの国も北極の資源と航路の獲得、領海の拡大をしたいわけですが、問題はこれらの国が
北極圏で軍事演習をしたりすることで、武力衝突の危険があることです。


さて、これらの3地域に共通して言えるのは、

現状変更を許す力の空白

が 生じてしまったことですが、その理由はなんでしょうか。


まず、ロシアの場合は、クリミアで住民投票が行われ、95%が

「ロシア編入に賛成」

という結果が出ました。
特にフランスが弱体したEUがここに至るまでロシアに抵抗しなかったこと、
そしてオバマでは動きを抑えることもできなかったということで、この力の空白に乗じて
ロシアはクリミア編入という現状変更を行ったのです。

アメリカは、

「住民投票はウクライナの憲法に反する。ロシアの軍事介入は国際法に違反するものであり、
そうした暴力や脅しの下で行われた投票結果を国際社会は認めない」

と遺憾を表明したのですが、
経済制裁など行っても効果は微々たるものですから、ロシアにとっては痛くもかゆくもありません。


イスラムでは、2013年にアメリカが軍を引き上げたところで力の空白が生まれました。
過激派の伸長の理由の一つに、イスラム国というのは電子戦略とでもいうのか、
映像において大変高度な技術を駆使し、それを宣伝に使ったり、SNS、
ソーシャル・ネット・ワーキングサービスで広報や勧誘などを行っていることがあります。

捕虜の処刑映像を世界中にネットで流すようになったころからこの傾向は顕著になりましたが、
最近ではその映像もまるで映画のような高画質の、しかも効果を加えたものが見られるそうです。

カリフ制が「国境のない国家」を標榜することと、EU によって国境概念が希薄したことは重なりますし、
1916年の「サイクス・ピコ協定」によって分割された元オスマン帝国領の中から、
昨今では、その欧米諸国の存在そのものが希薄になってきていたということも空白を生んだ理由です。


そして中国

「中華民族の偉大なる復興」

というのは習近平国家主席がよく演説に取り入れる言葉ですが、また

「アジアの安全保障はアジア人で」

というのも習近平のお気に入りの言葉です。
まあ、言い換えれば「日本からアメリカは出て行け」と言ってるわけです。

中国が覇権主義であることは世界中の皆が「知ってた」状態なのですが、それでも
西欧では対中依存が増大しているため、強く出られないどころか、ドイツなど
訪独を中国に遠慮してダライ・ラマを国に入れないなど、盛んに媚びているわけです。

自国の経済優先で、中国が侵略しようとしている地域の利益などは、はっきりいって
ヨーロッパの国々にとってはどーでもいいことだからですねわかります。

日本、アメリカ、カナダの蹴ったAIIB (アジアインフラ投資銀行)ですが、ヨーロッパ諸国の参加は
大した出資率ではないため、つまりこれも「媚中」のなせることだと言われております。

西原氏は国内で腐敗の闇が深い中国が中心となって、どうして腐敗しない組織が作れるのか
と言っておられましたが、わたしもあの国をなぜ信用する気になれるのか、
世界の参加国の皆さんに聞いてみたいくらいです。


話が逸れましたが、中国に対しては マーケットとしての中国に媚びる動きに加え、
オバマ政権の中国に対する弱腰姿勢、「声明」はだせども力出さずの態度を
すっかり中国がなめてかかってきた結果、力の空白がそこに生まれました。
カーター国務長官になって、ようやくアメリカは中国に対し強い姿勢をとるようになったのですが、
これももう少し早ければ中国の動きは南シナ海でもここまで素早くはなかったと言われています。

日本が民主党政権で尖閣の漁船衝突事件のとき、配慮するような態度をとったことも
中国に誤ったメッセージを与えることになってしまいました。





つまりこれらの「力による現状変更」を許す「力の空白」の原因を一言で言うと

西側陣営の弱体化とオバマ政権の指導力の低下

に尽きるということになります。
そこで、日本はこれにどう向き合っていくべきでしょうか。

ちょうど先日、わたしは防衛協会の席で武居海幕長にご挨拶した時、
既知の元海将のお噂を海幕長から伺ったのですが、その方は

Military Statemen Forum


という、いわば日米軍人賢人会議といったものに出席のため渡米しているということでした。

こちらからは、現統幕長を始め、歴代統幕長ら防衛省代表として赴き、アメリカ側も

歴代の統合参謀本部議長に元海軍作戦部長、太平洋軍司令官等々、錚々たる軍高官との
意見交換が行われたそうです。

この席でも、 さぞかし現状変更が現在進行形で行われている地域についての
情報交換が活発に行われたものと想像しますが、何よりも重要なことは、日米同盟が
世界の平和に貢献しているということを互いに確認しあったということだったのではないでしょうか。

(ということを出席した方から伺いました)


端的に言って日本のまず取るべき立場は、アジアに「力の空白を作らない」ことです。


もっとはっきりいうと「中国を暴走させない」ということでもあると思うのですが、
そのためには日米同盟の強化で、アメリカをアジアに引き止めることが必須となります。
そのことによって、パワーバランスは平衡を保つことができ、結果として抑止力が
平和を保ち続けるというわけです。

「日米安保なんて何の役にも立っていない、金の無駄だ」

と共産党などはよく言いますが、こういう左巻きなひとたちは
「何も起こらなかった」ことが日米同盟の効果である、ということになぜ思い至らないのでしょうか。

現に、南シナ海では遠慮なしに行動を起こしまくっている中国が、
尖閣には衝突船事件以来、表立った動きを見せていません。


これは誰がなんと言おうと

「米軍の存在によって力の空白が生じるべくもなかった」

ということに他なりません。

米軍がいなければ、憲法の縛りで身動きできない日本において、尖閣に1日で足場を作り、
一ヶ月で基地を作って乗り込まれていたことはまず間違いのないところです。


また、パワーという意味での経済力を言うと、GDPの1位と3位はアメリカと日本です。
経済力の29%を日米でしめているわけで、対して中国はまだ13%にすぎません。
たとえロシアと組んだところでロシアは全体に対してわずか2.4%のGDPしかありませんから、
日米がタッグを組んだところに中国が力で現状変更を行うことは「不可能」です。

この他、

日米豪印の協力を推進すること

日本の新安保法制と日米ガイドライン

日米豪とNATOとの連携を深める

などの、他国との連携を強化する対策。
このために今政府は安保法制を見直すための審議を行っているわけですね。

そしてインフラ投資によって中国が覇権を拡大しようとしている同じ地域、
アジア、中東、アフリカへの投資を積極的に行っていく、ということも重要になっていくでしょう。 


力による現状変更の何が悪いかというと、それが規模の大きな武力衝突のきっかけとなり得るからです。
日本には、今、大国として「力の空白を生まない」、地域のバランサーとなることが求められています。



(講演内容をもとにしましたが、随分私個人の見解が入ってしまいました。
演者の西原氏のご意見と違う点があるかもしれませんが、悪しからずご了承ください)