
空母「ミッドウェイ」飛行甲板の展示を順番にご紹介しています。
固定翼機をほとんど見たかなというところに、ファントムIIがありました。
「ミッドウェイ」は2度大改装を行なっていますが、そのうち一回は
主にジェット機搭載を可能にするためのものでした。
改造期間は2年。工事は艦席を一旦海軍から外して行われました。
前にお話ししましたが、最大の改造点はアングルデッキに変わったことです。
着艦する飛行機をメインのフライトデッキと角度を変えることにより、
たとえアレスティング・ケーブルをフックが引っ掛けることができなくとも
前に駐機している飛行機に突っ込むことなく飛び立つことができ、
何より離着艦の作業を同時に行うことができるようになりました。
という思想のもとに今の空母というのはああいう形になっているのですが、
我が「いずも」に航空機を搭載することになった時にどうするつもりなのか、
実はわたしはその点を大変気にしております。
この時に「ミッドウェイ」は改装に2年かけたと言いますから、例の
「日本人技術者マジチート」理論でいくと、たとえアングルドデッキへの変更でも
半年でやってしまうはずですが、さて、今はどうなんだろう。
冗談はともかく、この改装によって艦首にスチーム式のカタパルトをに2基、
アングルドデッキの先にも非常用を1基設けて、エレベーターを交換しました。
ファントムIIなどの大型になった艦載機に対応するためです。
改装後、艦席を海軍に戻した「ミッドウェイ」には、
VF-151 F-4ファントム戦闘機(ヴィジランテス)
VF-161 F-4ファントム戦闘機(チャージャズ)
という音速ジェット機部隊が乗り込むことになりました。
ちなみに爆撃機部隊は
VA-115 A-6イントルーダー攻撃機(イーグルス)
VA-56 A-7コルセア攻撃機(チャンプス)
VA-93 A-7コルセア攻撃機(ラヴェンズ)
の三部隊であり、あとはヘリ部隊、電子戦機、早期警戒機という陣容です。
世界最強と言われた機動部隊の最初の任務は、1958年、
中国が
台湾を解放するという理由のもとに
台湾隠岐の島を攻撃し
海上封鎖を行なった
(第二次台湾危機)
の時でした。
台湾危機という言葉すら初めて聞く、という方もおられるかもしれません。
1950年代から90年代にかけて中華人民共和国(中国大陸)と
中華民国(台湾)の間での軍事的緊張が高まった一連の出来事のことです。
この時なぜ中国が台湾を攻撃したかというと、アメリカとの軍事緊張を作ることで、
ソ連に原爆製造技術の供与を要請するためだったという説があります。
ハワイの真珠湾から台湾に直行した「ミッドウェイ」は、そこで
ワシントンからの中国攻撃命令を待ち続けました。
この時日本の元総理石橋と周恩来の会談が決裂していたら、
アメリカは戦闘態勢に入り、そうなればソ連も台湾を攻撃することで
間違いなく第三次世界大戦、しかも核戦争が起こっていただろうといわれています。
さて、ここまでは実際の戦闘を行わずにきた「ミッドウェイ」がいよいよ
実戦を経験したのは ベトナム戦争でした。
「ミッドウェイ」は当時最新鋭だったF-4ファントム戦闘機を載せて
フィリピン近海でオペレーションに参加することになります。
1965年3月。
戦闘機隊VF-21はビル・フランク艦長率いる「ミッドウェイ」の
一員として南東アジアに展開しました。
アメリカ人曰く北ベトナムに率いられた「コミュニスト」の暴動を抑える、
ということで展開された
「ローリング・サンダー作戦」
・・・・というより、わたしたちには
「北爆」
と一言で言った方がピンときます。
つまり南北に分かれた ベトナムを統一しようとして起こったもので、
ぶっちゃけ内戦ですが、アメリカが南ベトナム 支援のために介入したため、
長期の大戦争になってしまいました。
北爆による空戦に最初に投入された迎撃戦闘機はF-4BファントムIIでした。
VF-21、通称「フリーランサー」に課せられたミッションは、
直ちに「攻撃ー爆撃」という前代未聞の二役機能をもつ
ファントムに適応し全員がこれに習熟すべし、というものでした。
1965年6月7日。
2機のVF-21のファントムが4機の北ベトナム軍のMiG-17と会敵しました。
ファントム部隊はそのうち2機をレーダー誘導中距離空対空ミサイル
AIM-7DIIIで撃墜することに成功しました。
これがベトナム戦争が始まって初めての敵航空機撃墜となりました。
最初に撃墜したのはルイス・C・ペイジ中佐と
右のジョン・C・スミス大尉のファントムです。
同じ空戦で二番目にMiG撃墜を果たした二人。
デイビス・ボストン大尉(右)とロバート・ドレムス少佐。
彼らの撃墜はベトナム戦争における最初の戦果であっただけでなく、
「ミッドウェイ」20年の歴史上で艦載機が果たした撃墜となり、さらには
ファントムという最新鋭機にとっても初記録となりました。
1966年2月。
まだまだ泥沼のベトナム戦争は続いていましたが、「ミッドウェイ」は
再び延命のための大掛かりな改造を受けることになりました。
15年寿命を延ばすという目的で行われたこの改造は4年に及び、
予算も膨れ上がって当初の二倍となる200億円以上となりました。
前にもこの大改造については述べましたが、あまりにお金がかかったので、
「フランクリン・D・ルーズベルト」(CV-42)のために計画された
同様の近代化はやむなくキャンセルされたというくらいでした。
フライトデッキの大きさを前の1.4倍に大きくし、艦載機用のエレベータも
またまた取り替えて重い飛行機にも対応できるようにし、さらには
二基のカタパルトもパワーアップしたものに付け替えられたのですから当然。
この他にも、最新のエレクトロニクス機器を搭載したり、艦内の空調を
セントラル・エアー・コンディショニングにするなどの改造が加えられました。
本欄でもご紹介した「フォクスル」に、造船会社からの超豪華な
改造工事完成記念のプラークが飾ってありましたが、つまりあれは
これだけ儲けさせてくれて神様仏様ミッドウェイ、の証だったわけです。
ますます大型化していく搭載機をにらんだ改装でしたが、
それでもF-14トムキャットを搭載することは最後までできませんでした。
この「ミッドウェイ」の大改造が終了したのは1970年のことです。
翌年の1971年から、まだ続いていたベトナム戦争に復帰しました。
1972年4月。
ウェイン・オコネル艦長率いる「ミッドウェイ」は、再び南東アジアに展開しました。
アメリカ第7空軍とアメリカ海軍第77任務部隊がおこなった一連の
航空作戦「オペレーション・ラインバッカー」に参加するためです。
北ベトナム空軍にアメリカ軍の戦争捕虜を解放させること、そして
終戦に向けての方法を探ることが目的だった、と現地の説明にはありますが、
一応ウィキの説明も書いておくと、北に送られる物資を停滞させるためでした。
12ヶ月の間、ハイテンポで敵への攻撃作戦が繰り出され、
「ミッドウェイ」の艦載機部隊VF-161「チャージャーズ」はその空戦で
驚くべき戦果を達成することになります。
5月18日、MiG−19を撃墜したO・ブラウンとヘンリー・バーソロミー大尉、
同日やはり撃墜したP・アーウッド、J・ベル大尉の四人。
18 MAY 72 |
MiG-19 |
VF-161 Chargers |
F-4B Phantom II |
AIM-9 Sidewinder |
LT H. A. Bartholomay LT O. R. Brown |
|
18 MAY 72 |
MiG-19 |
VF-161 Chargers |
F-4B Phantom II |
AIM-9 Sidewinder |
LT P. E. Arwood LT J. M. Bell |
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23 MAY 72 |
MiG-17 |
VF-161 Chargers |
F-4B Phantom II |
AIM-9 Sidewinder |
LCDR R. E. McKeown LT J. C. Ensch |
First of two kills on the same day |
23 MAY 72 |
MiG-17 |
VF-161 Chargers |
F-4B Phantom II |
AIM-9 Sidewinder |
LCDR R. E. McKeown LT J. C. Ensch |
Second of two kills on the same day |
12 JAN 73 |
MiG-17 |
VF-161 Chargers |
F-4B Phantom II |
AIM-9 Sidewinder |
LT V. T. Kovaleski LT J. A. Wise |
Last air-to-air kill of the Vietnam |
この時期のファントムの撃墜記録が表になっていたのであげておきます。
1972年の5月23日に大金星を挙げた二人、
マッケオン少佐(左端)とエンッシュ大尉(そのとなり)。
1日に二機のMiG−17を撃墜しました。
1973年1月12日、「ベトナム戦争における最後の空戦」においてMiG17を撃墜した
コワルスキ大尉(左から二番目)とワイズ大尉(その右)。
一番左は「ミッドウェイ」艦長フォーリー中佐です。
この空戦がベトナム戦争の最後の空戦になったのは、三日後の1月15日、
ベトナムとの停戦協定が調印され、戦争が終結したからでした。
最後の撃墜を決めたコワルスキ&ワイズのファントムであるというペイント入り。
ベトナム戦争「最初」と「最後」の撃墜を果たした「ミッドウェイ」戦闘機隊は、
戦後海軍最高の部隊として、その功績を讃えられ表彰されています。
そこでもう一度岸壁から見上げた「ミッドウェイ」艦橋の写真を見てください。
これで、マーキングされた飛行機のシルエットの意味がわかりましたね。
つまりこれは撃墜したMiGの数なのです。
ファントムのスプリットベーンにも撃墜したMiG8機がが描かれています。
ベトナム戦争中撃墜されたMiGの総数は63機。
そのうち海軍航空隊によるものが20機であったことを考えると、
ベトナム戦争途中で4年間も改修のため参加していなかった
「ミッドウェイ」戦闘機隊の実力が図抜けていたかということです。
しかし、そのために払った犠牲も決して少ないものではありませんでした。
海軍の航空機損害は 合計54機。
そのうち戦闘での損失は43機。
F-4B/J ファントムII 8機(+3の非戦闘損失)
A-7A/C/E コルセアII 22機(+3の非戦闘損失)
A-6A イントルーダー 3機
F-8J クルセイダー 2機(+3の非戦闘損失)
A-4F スカイホーク 5機(+1の非戦闘損失)
RA-5C ヴィジランティ 1機
RF-8G 2機(+1の非戦闘損失)
「ミッドウェイ」は同年3月サンフランシスコのアラメダ海軍基地に戻りましたが、
その艦載機部隊は多くのパイロットを失ったのでした。
続く。
A3Dスカイウォーリア搭載運用できる能力付与。
1956年4月から1957年10月
艦首をエンクローズド・バウとし、凌波性、対波性改善
アングルド・デッキの採用、着艦制動索及び関連装置の更新、ミラー・ランデイング装置装備
エレベーターの能力向上と位置変更
カタパルトを油圧式2基から蒸気式3基に増備
レーダーなどの電子兵器の更新、アイランド及び艦橋の改造
12.7㎝砲、76㎜速射砲の一部撤去
航空燃料及び弾薬搭載量増強
艦容一新、排水量が59,901トンから62,614トン
2回目SCB-101/66改装
1966年2月から1970年1月、近代化
前部エレベーターを右舷アイランド前部舷側へ、能力アップ
蒸気カタパルト2基を能力拡大、アングルド・デッキの1基は廃止
飛行甲板拡大、着艦制動装置更新
航空燃料搭載量増加、ガソリンタンク廃止
NTDS装備、大型レーダーSPS-43装備
排水量64,714トン、全長297.8m、飛行甲板最大幅78.8m、長さ296.3m
乗員4,686人
改造工事費は参照本では200億円以上ではなく20億ドル以上とあり、当時の300円レートでは6,000億円となりますがあまりにも高額でありレート換算が違うのではと思います。10万トンの原子力空母が約100億ドル以上、1兆円以上といわれていますので、この換算であれば2000億円以上?
この改装はフランクリンD・ルーズベルトは実施されなかったが1968年7月から69年5月まで限定的な改装は実施されています。機関コンディションが良くなかったので1977年10月除籍されました。
もう1艦のコーラル・シーは1回目の改装が2艦の改装を基にSCB-101A改装とされ実用性高く、2回目の大改装は実施されませんでしたがたびたび小改装はされました。1990年4月除籍。
ミッドウェー級は飛行甲板装甲化もあり格納庫天井高さが5.3mであり、フォレスタル級以降の7.6mより低いため大型の新型機の格納、運用が出来なくなりました。
参照海人社「世界の艦船」No776
とすると、艦載戦闘機はF-35Bで、改造は甲板の耐熱構造強化と艦首へのスキージャンプ装備(アングルドデッキなし)になるでしょう。但しアメリカ海軍の強襲揚陸艦はスキージャンプ、アングルドデッキなしですが従来からAV-8Bハリアー、現在はF-35Bを運用していますので、スキージャンプなしでも運用可能なのかもしれません。
F-35Bは今年5月の「岩国フレンドシップデー」でアジア地域初のデモフライトを行い、脅威的な飛行性能を見せつけました。通常の戦闘機のようにアフターバーナーオンでハイスピードローパスやハイマニューバーを見せた後、ランウェイエンドからゆっくりアプローチ、ショーセンターでホバリング、そのまま360度ターンをしたり、蟹のように横方向に水平移動するという異次元のデモでした。
F-35Aに変えてF-35Bを採用すれば「いずも」での運用は比較的容易ではないか、と思わせるものでした。
当時、機関砲による近接戦(ドッグファイト)はもう時代遅れで、ミサイルによる遠距離戦が空中戦では雌雄を決すると考え、レーダー誘導のスパローや赤外線誘導のサイドワインダーが開発されました。サイドワインダーは撃ちっ放しなので、うまく敵機のうしろに付ければ落せますが、スパローは当たるまで発射母機のレーダーで敵機を追尾し続けねばならないので、撃墜は至難の業でした。よく頑張ったと思います。
この苦しい戦いの戦訓で、ミサイル時代になっても、やっぱり空中戦は結局、ドッグファイトの技量がモノを言うということでFighter Weapons School(Top Gun)が作られた訳です。
アメリカから高い装備を買わされて、とグチャグチャ言う人がいます。諸手を上げてアメリカ製がいいという訳ではありませんが、実戦で試されているものが多く、それなりに使えることは間違いないです。