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メッサーシュミットMe 163 B-1a ”コメート”〜スミソニアン航空宇宙博物館

2018-11-22 | 航空機

昔々、三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所資料室で見た
ロケット戦闘機「秋水」について調べた流れで、当然のように
「秋水」の原型であったドイツ・メッサーシュミット社の

Me163 (Messerschmitt Me 163 ”Komet")

についても知ることになり、そのシェイプ、ロケット推進による
画期的な機体がたどった運命に心惹かれたものです。

あれから幾星霜、今回ワシントンのS・ウドバーヘイジーセンター、
スミソニアン航空宇宙博物館訪問で、まさかその実物と
初対面ができるとは全く思っていませんでした。

ウドバーヘイジーセンターで、真正面のブラックバードに目を奪われ、
そのあと右回りにアメリカ軍のウォー・バード、そしてソ連軍の
MiG戦闘機などを見ていくと、ベトナム戦争に参加した一連の飛行機の次に
現れるのが、これです。

リパブリック・フォード JB-2 ルーン(Loon)

JB-2はアメリカが所有することになった最初の無人誘導弾で、
あの、ナチスドイツのV-1を模倣したものだったのです。

わたしたち日本人はこのミサイルについてほとんどの人間が
その名を知ることもありませんが、もし原爆の開発が何かの理由で遅れて
1945年夏に投下されることがなかったとしたら、その代わりに
日本本土に投入され、多くの日本人の命を奪っていたのは
こちらであった可能性が高いのです。

開発されたのは1944年であり、アメリカは原爆製造が間に合わなければ
決行するつもりだった本土への侵攻作戦(ダウンフォール作戦)
に、このルーンミサイルを使おうとしていました。

ナチスドイツ軍がV-1という新兵器を編み出したことを知ったアメリカは
同じジェット推進の爆弾を開発することを決定し、すぐさま
ノースロップ社に開発を命じました。

ところが開発している最中に、ドイツ軍はイギリスをV-1で攻撃します。

アメリカの凄いところは、破壊されたV-1をイギリスから輸送して
技術を復元し、それでこのJB-2をすぐさま作ってしまったことでしょう。

ドイツが降伏してしまったため、日本への本土侵攻に際し、
上陸作戦に先駆けて雨あられと降らせるつもりで製造したミサイルですが、
8月6日と9日の核兵器使用と同時に配備を終了することになります。

 

ルーンミサイルの制作がドイツ技術のスパイから生まれたことが表すように、
戦前、アメリカはドイツ技術に遅れを取っているという劣等感を持っており、
なんとかこれを打開せんとしました。

そこで考えたのが移民大国の強みを生かして、マンパワーを
直接導入するという作戦です。

といえば聞こえはいいですが、第二次世界大戦末には

オペレーション・ペーパークリップ

を発動し、ドイツ技術を科学者ごと強奪するという阿漕な真似をやらかしています。

肝心のドイツは戦争中、惜しげも無く?優秀な科学者を徴兵して
戦線で歩哨や炊事部隊、トラックの運転手をさせていたのですが、
流石に独ソ戦が長期化して苦境に立たされるようになってきてからは
彼らを一人でも多く呼び戻して研究開発に復帰させようとリストを作っていました。

アメリカが利用したのがこのリストで、(オーゼンベルグ・リスト)
この筆頭に名があったのが、V-2ロケットの製造にも関わっていたロケット工学者、

ヴェルナー・フォン・ブラウン(1912-1977)

でした。

ブラウンはこの作戦でアメリカに渡り、

PGM-11 レッドストーンミサイル

などをクライスラーで手がけましたが、彼の最終目標は自分のロケットが
平和的に使われることだったため、人工衛星の開発に転身し、
NASA誕生後は初代所長としてアポロ計画でそれを実現させたのです。

アメリカがソ連との宇宙戦争に勝ったのは、ブラウンを移民させたことが
大変大きな要因であったと言えるのではないでしょうか。

さて、メッサーシュミットのMe-163コメートです。

この展示に添えてあった説明の写真は、どうもドイツでの一般公開らしく、
周りに自転車の人や一般人、女性の姿も見えますね。

説明をそのまま翻訳しておきましょう。

第二次世界大戦時、ナチス・ドイツの時代にヴンダーヴァッフェン
(ワンダー・ウェポン=不思議な武器)が製造したもっとも印象的な、
ザ・メッサーシュミット Me 163コメート(コメット=彗星)は
史上最初の、そして唯一の無尾翼式ロケット推進迎撃機でした。


同盟国日本では同じ設計図から「秋水」を作っていたわけですが、
この説明によると、つまり全く存在しなかったことにされています。
まあ試作で終わってしまったので数に入れてもらえないのは
仕方ないことなのかもしれませんが。

ドイツ軍が運用したその他の「アドバンスな」兵器と同じく、
第二次世界大戦の最後の年、Me 163はわずかな効果がありましたが
戦況を変えるというほどのものにはなり得ませんでした。


アメリカ軍がドイツの科学者を引き抜くという手段にまで出たのは、
終戦間近でもう国内はボロボロのはずなのに、こういった
バカにできない技術を生み出してくるドイツの技術力に
脅威を感じていたから、というのは間違いのないところでしょう。

そして何と言っても彼らが同じ白人種だったからです。
同じことはソ連でも行われ、米ソの間では戦後、ドイツ人の技術者、
科学者をいかに引っ張り込むかの争奪戦となった時期がありました。


そして戦争が終わってアメリカをはじめ連合国がドイツと、
そして日本にしたことは、軍事研究につながる航空機はもちろん
自動車生産など開発事業の全面禁止でした。

川西航空機(現在の新明和)は最悪の時期、
あられ(食べるやつ)を売っていたこともありますし、BMWですら、
戦前に設計開発した図面や工作機械まですべてが没収されて、
一時は鍋や釜などの製造で糊口を凌いでいたといいます。

おっと、話が逸れました。翻訳の続きです。


これが開発され、配備された状況を考慮しても、Me 163は
特異な技術力の成果であることは疑いようがありません。


実際に Me 163がどんな風に飛び、敵を撃墜したか。
このフィルムを観ればその片鱗とはいえ、わかります。

ドイツ空軍 LUFTWAFFE メッサーシュミット Me 163

フィルム後半の急上昇の凄さもさることながら、
いったい誰が撮影したのか、コメートに攻撃された(らしい)
爆撃機(B-26?)とB-17らしき映像が挿入されています。

他のアメリカのウォー・バードがほとんど当時の塗装を施され、
綺麗に保存されているのに対し、コメートは当時のままの塗装です。

保存のために手を加えていないので、翼も自重で下がらないように
両側につっかえ棒がかまされています。

(博物館の柱が撮影の邪魔なんだけど、場所ここしかなかったのかな)


Me 163 の製造計画は30年代後半に起きました。
ロケット推進は、当時のナチスの航空計画者にとって魅力ある研究だったのです。

この推進方法は燃料消費量が高く、当初設計不可能と思われましたが、
(事実この点を完成品は最後までカバーできなかった)
それにもかかわらず、ナチスドイツはロケットエンジン設計者、
ヘルムート・ヴァルター(戦後イギリスに連れて行かれた)と契約を交わし、
まず、

Heinkel He 176

を開発しました。
その後研究はメッサーシュミットに移譲、名前もMe 163に変更されました。

最初のMe 163 Bプロトタイプ、Me 163 V3は1942年4月に完成しました。
導入されたエンジンは

Walter 109-509Aモーター

でした。

このエンジンは航空機に素晴らしい上昇力をもたらしましたが、
時折空気が入り込んでキャビテーションを起こし、
モーターの始動時に破局的な爆発を引き起こすことがありました。

他にも機体の抱える問題は多く、例えば着陸の際、
スキッドが適切に伸びないせいで地面へのタッチダウンに失敗し、
これにより多くのパイロットが負傷(たぶん死亡も)することになりました。

スキッドが適切に作動して着陸成功した後も、機体が柔らかい地面で転覆するので
操縦士は細心の注意を着陸のたびに行わなくてはなりません。

しかも着陸の失敗はしばしば機体の爆発を引き起こし、
または燃料を被った操縦士はまず助からないと言われていました。

これだけの一連の事故や爆発を起こせばそれは普通失敗なのですが、
彼らがどうしてもこの運用を諦められなかった理由は、
ロケット推進エンジンの見せた恐るべき成果でした。

1941年10月2日、Me 163 V1は1,004.5キロメートル(623.8マイル)
の世界最高速度記録を達成しています。

その後このMe 163の改良版として、着陸装置を変更した
さらなるプロトタイプが生まれます。

ところで、この一連のコメートさんの憂鬱については、
かつてわたしが一度漫画で描いたので
とりあえずもう一度載せておきます。

「秋水くんとコメートくん」








コメート部隊は1944年8月16日、連合軍の爆撃機を迎撃して失敗、
この戦闘経験により、Me 163が効果的な武器になり得ないことがわかってきました。

この漫画にも描いたように、搭載していたMK 108 30ミリ砲2基は
本来3〜4発ヒットさせれば大型爆撃機を撃墜することができるはずでしたが、
砲の低速に対し、コメートそのものが高速すぎてタイミングが合わなかったのです。

コメートは結果的に撃墜記録をたった9機しか挙げていません。

高度1万2100メートルにわずか3分30秒以内で到達しましたが、
問題は8分間しか燃料が保たなかったことです。

個人的には8分しか飛べないのにそれでも撃墜9機って
十分すごくね?と思うんですけど、まあ採算悪すぎるか。

そしてこれも漫画でいっているように大きな問題のもう一つは、
1回または2回ロケットを点火させた後、機体は推進力を失うので、
パイロットは連合軍の戦闘機がまだうようよしている空域を、
ゆったりと基地に向かってグライダー滑走するしかなかったのです。

ある意味日本の特攻兵器より非人道的だったんじゃ・・。

これを見て、

修復を行うと、ルフトヴァッフェのマークはともかく、尾翼に描かれた
ナチス・ドイツのハーケンクロイツも描き直さなければなるので
博物館としては歴史的な資料として手を加えずに残すことにしたのでは?

と思ってしまったわたしは考えすぎでしょうか。

しかしこれ・・・・塗装が剥げて読めなくなってしまった字、
よくよく見ると英語なんですけど。

戦後、ドイツからアメリカに接収されて運ばれたMe 163 は5機。
この機体はそのうちの1機で、ステンシルの英語はなんらかの実験に
使われた際に描かれたものだと思われますが、博物館でも
この機体の由来ははっきりとわかっていないのだそうです。

コメートくんの外観を一層愛らしいものにしているこのプロペラ。
発電機を回すためのものです。
Me 163にはあってなぜその「コピー」である「秋水」に
なかったのかというと、機体にそれをつける手間を省いたのだそうで、
それでは発電はどうしたのかというと、無線用蓄電池で行なっていたとか。

それを載せるスペースを節約するためにプロペラ(風力エコ発電)
にしたのじゃないのかなあ、ドイツは。

機体の下部にあるこの丸い跡は何?
と調べてみたら、なんと

牽引棒取り付け点

であるらしいことがわかりました。
自力で地上を動けないので、ここに棒をつけて引っ張ったんですね。
とほほ・・・。

機体下部に出ている部分はスキッドで、これが着陸時
「そり」になって地面を滑走します。
って無茶苦茶不安定な着陸方法じゃないですか。

これに乗って生き残ったパイロットってよっぽど優秀だったんだろうなあ。

と思ったら、コメートのテストパイロットだった人が
語っているナショジオの映像を見つけました。

Messerschmitt Me 163 Komet

ワーグナーの「ワルキューレの騎行」アレンジ版が妙に合ってます(笑)
離陸してすぐ、コメートが車輪を捨てる様子、そして
グライダー飛行して基地に帰る様子も見ることができます。

最後に、

「コメートは戦況になんらの変化を与えることもできなかったが、
("Too little, too late."とか言われてんの)
ブリリアントな設計と素晴らしい効果でその存在が近代航空史そのものである」

みたいな評価をされているところがやっぱりねという感じです。
ていうかこのナレーション、スミソニアンの文章をほとんどぱくっとるやないかい。

でもいいよねコメート❤️
どこかの物好きが同じ機体で別の動力を積んだリバイバルを作ってくれないかな。

 

続く。

 

 



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2 Comments

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どうしても食い止めたかった (Unknown)
2018-11-22 21:24:27
ドイツは米軍B17の徹底的な爆撃にさらされています。我々が命を賭けても、米軍の空母をやっつけたかったのと同じで、例え8分しか飛べなくても、どうしてもB17を食い止めたかったんだと思います。
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何かが変ですね。 (うろうろする人)
2018-11-23 00:16:35
一般公開時の写真の件、当時の最高軍事機密で有った筈のMe163を、ドイツ国内で戦時中に一般公開するなどとは思えません。終戦後の同機について調べ尽くした以降の時期での連合国側の何れかの国での事では無いでしょうか? 
爆撃機が銃撃されている映像、写っているのはB26では無くB24とB17です。これらの爆撃機など及びもつかない高速の筈のMe163が、エンジン稼働時間も極端に短いというのに、わざわざ後方から速度を合わせて(落として)接近し射撃しているのはおかしいですね。他機種によるガンカメラ映像と思います。
(秋水もですが)高高度までの上昇力と速度を活かし、敵爆撃機よりも高く上昇してから急降下による一撃をとる戦法だった気がします。
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