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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ダイムラー-ベンツエンジンを搭載した日本の戦闘機〜スミソニアン航空博物館

2021-08-17 | 航空機

スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空シリーズ」、
前回メッサーシュミットの紹介までを行いましたが、今日はその
メッサーシュミットBf109が搭載していた、
ダイムラー-ベンツのエンジンを搭載していた航空機の紹介からです。

■ DBエンジンを搭載した三機の戦闘機

まずこれがそのエンジン。

Daimler-Benz BD  605

型;倒立V型(Inverted Vee)液冷式、インラインギアドライブ

シリンダー;12気筒

排気量;35.7 L

最大馬力;2,000 hp

重量;745kg

製造; ダイムラー-ベンツAG、シュトゥットガルト-ウンターテュルクハイム
    ドイツ 1943

 

1937年に最初に開発されたDB600を改良したもので、おもに
メッサーシュミットBF109、110に搭載されていました。

さすがはドイツというのか、1939年にこのDB 605ARJを搭載した
メッサーシュミット209 Viは、時速755キロの最速世界記録を樹立し、
その記録は1969年までプロペラ駆動機によって破られることはありませんでした。

シリンダーを取り替えることによってパイロットの視認性が向上し、
重心が中心に、低くなったことでメンテナンスのためのアクセスが便利になった上、
Bf109は銃がエンジンバンクの間に取り付けられ、プロペラハブを介して発射されるように。

Bf 109Eに搭載されたDB601Aタイプはキャブレターの代わりに燃料噴射式を採用し、
負のG下でもエンジンが切断されなくなったため、戦闘で大変有利になりました。

それではこのダイムラー-ベンツエンジンを搭載した航空機を紹介します。

前回も取り上げた

メッサーシュミットBf110

は、もともと長距離護衛戦闘機として設計されており、
高速でしたが、ポーランドとフランスで成功したにもかかわらず、
シングルエンジンのスピットファイアやハリケーンと張り合うためには
決定的に機動性に欠けていました

多数の単発護衛戦闘機が登場するようになってくると、Bf110は
バトル・オブ・ブリテンでの失敗とアメリカの爆撃機を防御しきれなかったため、
RAFのダッフィーことデフィアントと同じく、夜間戦闘機にジョブチェンジします。

ダッフィーとちょっと違っていたのは、Bf110は夜間戦闘機としては優秀だったこと。
(そりゃまあダッフィーと違って少なくとも前方を攻撃できましたから
安定性とレーダーその他の装備を搭載するキャパシティゆえに、その分野の主力となりました。

人生万事塞翁が馬ってやつですか。

🇯🇵川崎 キ61 三式戦闘機「飛燕」コードネーム「Tony」

同盟国つながりで飛燕にはダイムラー-ベンツDBの量産型が搭載され、
それで「飛燕」は日本で唯一の液冷式エンジン搭載戦闘機となりました。

量産型の国産カワサキHa40は、DB601Aの軽量バージョンです。

それまでの日本戦闘機と異なり、搭乗員と自封式燃料タンクに装甲防護があったのですが、
この防御設備重量のため機動性が低下し、敵機からは食われやすくなってしまったという・・。
二律背反の命題そのものの戦闘機、それが「飛燕」でした。

しかもドイツ製エンジンの量産型として国内生産したハ40は、
絶え間なく問題が発生しずいぶん悩まされる結果になったのですが、
スミソニアンでは

「連合国軍の戦闘機に対してはうまく機能した」

と穏便に評価しています。
前線における連合国軍パイロットの評価も、アメリカ軍のそれも
なかなか辛辣なものだったようですが、フィリピンで広く使用されたこと、
それと本土防衛で特攻作戦を試みB-29の搭乗員を震え上がらせたことが
この評価につながったのかもしれません。

連合国コードネームの「トニー」というのは「アントニー」、つまり
イタリア系移民の愛称で、これは最初に遭遇したアメリカ軍が、
イタリア空軍のマッキMC. 202のコピーと勘違いしたために、
適当にイタリア系の名前をつけたためということです。

「飛燕」という名前は表向きというか新聞記事がきっかけでできた名称で、
現場の人たちは「ロクイチ」とか「和製メッサー」とか、
あまりかっこよくない名前で呼んでいたようです。

和製メッサーといわれても、ドイツ製エンジンのコピーを積んでいただけで、
その他デザインはほとんど日本人の手で行われていたのですが。

🇯🇵愛知 M6A1「晴嵐」CLEAR SKY STORM

ダイムラー-ベンツのエンジンを搭載したもう一つの軍用機が、
あの「晴嵐」だったことに驚かされたわたしです。

「晴嵐」はスミソニアン博物館の別館、ウドヴァー・ヘイジー以下略博物館にあり、
当ブログではもう紹介済みですが、せっかくなので写真をもう一度掲載します。

右側の完全な形の紫電改と比べていただければ、機体の大きさがおわかりでしょう。
ここでの紹介を翻訳しておきます。

「晴嵐」は日本海軍の潜水艦に搭載された攻撃機でした。
潜水艦はパナマ運河の攻撃を計画していましたが、実行までに戦争は終了しました。

巨大な長距離先行潜水艦の甲板には、3機の飛行機を格納できる
水密式の遠投型格納庫が取り付けられていました。

「晴嵐」は、これらの格納庫に収納できるように、複雑な、
翼と尾翼の折り畳み機構、そして取り外し可能なフロートを備えていました。

潜水艦の乗員は飛行の準備7分未満で完了させることができたと言います。

戦争が終わったとき、6機の「晴嵐」を積んだ潜水艦隊が、
ウルシー環礁にあったアメリカ海軍基地を攻撃することになっていたということです。


とまあ、こういう大変衝撃的な説明が添えられているわけですが、なぜか
その「晴嵐」がDBエンジンを積んでいたことについては全く言及されていません。

「晴嵐」が実際積んでいたのはアツタエンジンといって、DB600とD601エンジンを
愛知飛行機がライセンス生産した液冷エンジンだったからです。

アツタ型エンジンは向上型も含め11、21、32と3タイプ生産され、
「晴嵐」のほかには艦上爆撃機「彗星」にも搭載されたということです。

「晴嵐」のあるウドヴァー・ヘイジー・センターにはアツタ31も展示されています。

 

■ 炎の下の要塞

ところで、このスピットファイアの後ろとか、

ムスタングの後ろとか、

マッキなんとかの(おい)後ろに見える壁画を繋げてみてください。
(一枚の壁画として写真を撮るのを忘れたのですみません)

この壁画は、キース・フェリスという人が描いたもので、
ドイツ上空で対空砲とドイツ戦闘機による攻撃を受けている、
第8空軍のB17Gフライングフォートレスを表しています。

このようなシーンは、第二次世界大戦中、ヨーロッパで日中細密爆撃を行った
B-17 の数だけ、つまり何千回となくどこかの戦地で発生したものです。

スピットファイアの後ろに見えているB-17は、

第8空軍第303爆撃航空群第359飛行隊の「オールド・サンダーバード」

で、壁画に描かれたその姿は、1944年8月15日のその瞬間、
ドイツのヴィースバーデン上空で今まさにターゲットに近づいたオールドサンダーバードと
その他のB-17 の姿を、史実に忠実に再現したものとなります。

B-17「オールド・サンダーバード」の機長ヒラリー中尉と搭乗員たち。
つまりこの壁画に描かれたB-17に乗っていたメンバーです。

映画「メンフィス・ベル」のメンバーのように、皆若いですね。

前にも当ブログではこの時の連合軍の日中細密攻撃について取り上げていますが、
もう一度スミソニアンの記述を元に説明しておきます。

 

アメリカ軍の精密日中爆撃の概念には、重装備の高高度爆撃機が必須でした。

この役割のために設計され、1935年7月に最初に飛行を行ったB-17は、
何度もアップグレードされていきました。

第二次世界大戦の開始までに、B-17DSはハワイとフィリピンに配備されていましたが、
多くは日本の攻撃によって破壊されてしまっています。

1941年12月10日、フライングフォートレスは敵の艦船を爆撃し、
開戦後戦闘行動をとった最初のアメリカ軍の飛行機になりました。

B-17ESとFsは、ヨーロッパとアフリカで広く使用されていました。

1943年の終わりまでに、ヨーロッパのほとんどのユニットは、
重装備のB-17Gを配備していました。

B-17は通常13.50口径の機関銃を搭載しており、そのうち2門は
ドイツの正面攻撃を阻止するために設置された新しいチン・ターレット
(ノーズの下方に装備された砲塔のこと)に装備されていました。

קובץ:Boeing B-17G chin turret, Chino, California.jpgチン・ターレット

4基のターボエンジン、ライトR-1820により、
最高高度は10,670メートルを超え、射的は3,220キロメートル、
爆弾の最大積載量は2,720キログラムにまで達しました。

 

■ 第二次世界大戦の航空爆弾

この写真でもチン・ターレットがわかりやすく見られます。

1944年4月、RAFのグリムズビー基地に置かれている
不時着したB-17G「バーティ・リー(Bertie Lee)」の姿です。

機長であった第8空軍第305爆撃航空群のエドワード・マイケル大尉
多大な被害を受けた期待を無事に帰還させたことで名誉メダルを受賞しました。

ここで改めて爆撃の目的とは何かを考えてみると、
それは敵の地上設備・人命・物資を破壊することに尽きます。

戦争中、何百万トンもの爆弾が枢軸国と連合国問わず投下され、
互いの国に悲惨な結果をもたらすことになりました。

 

■ 爆弾のいろいろ

ここで爆弾というものについて、いちから説明が始まりました。

爆弾はその目的と、使用したフィラー(内容物)の種類によって分類されます。
第二次世界大戦で使用された主なタイプは次の通り。

汎用爆弾(General Purpose bombs)

爆風、真空圧、対地衝撃(earth shock)によって破壊。
当時アメリカ軍で最も効果的な万能爆弾とされていたのが113kgのAN-M57爆弾です。

薄肉爆弾(Light case bombs)

総重量の80%が爆発するライトケース充填タイプです。
1,800kgの爆弾の投下によって街区より広いエリアを破壊することが可能です。

徹甲弾(Armor-piercing bombs)

重装甲された軍艦や石・鉄筋コンクリートの構造物に対して使用されました。
そのため、非常に重量のある弾殻と鋭い「ノーズ」を持っており、
爆発物は全体の重量の5〜15パーセントを占めていました。

深度爆弾(Depth bombs)

駆逐艦対潜水艦の戦闘を描いた映画には欠かせないデプスチャージ。
水中で爆発し、その圧力によって海底に潜む潜水艦のみならず、
水上艦を押しつぶすこともできました。

榴弾(破砕爆弾・Fragmentation bombs)

地上の人員、物資、航空機への攻撃に使用されました。
内部の火薬が炸裂することで弾殻が破砕され、
その破片が広範囲に飛び散り、目標に突き刺さって打撃を与えます。

化学爆弾(Chemical bombs)

刺激性または有毒なガスを生成したり、弾幕を張ったりする爆弾です。

焼夷弾(Incendiary bombs)

本土空襲で日本が散々苦しめられた焼夷弾。
内部にはテルミット、ゼリー状のガソリン、あるいは
テルミットとマグネシウムの合成薬が充填されていました。
サイズは小さいものは1kg、大きなものは225kgまで。

小さな焼夷弾は塊にして投下され、衝突の前にケースが開き、
個々の爆弾が散乱して降り注ぐというものです。

不活性・演習用爆弾(Inert or pfractice bombs)

練習用にはわずかな火薬しか仕込まれません。

ヒューズ(導火線)

爆弾の種類ではありませんが、ヒューズは爆弾を発射する装置です。
的確なタイミングで爆発物の「トレイン」をスタートさせ、爆発を起こします。

 

 

 

続く。

 

 


メッサーシュミット Bf 109〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

2021-07-08 | 航空機

スミソニアン博物館の第二次世界大戦の航空シリーズ、まずは展示機のひとつ、
スピットファイアと彼らが活躍したバトル・オブ・ブリテンについて取り上げました。

今日はまず、バトル・オブ・ブリテン時代のRAF(ロイヤルエアフォース)機を、
スミソニアンの展示写真から紹介します。

■ バトル・オブ・ブリテン時代のRAF航空機

アブロ ランカスター Abro Lancaster

イギリス空軍でも最も成功した重爆撃機、アブロランカスター。
4基のマーリンエンジンを搭載していました。

「ショートスターリング」「ハンドレイ・ページ・ハリファックス」とともに
対ドイツ夜間爆撃の主力となり文字通りの一翼を担いました。

1942年から1945年にかけてドイツの主要都市はことごとく破壊され、
爆撃によって数十万人もの市民が犠牲になることになりましたが、
防衛のため撃ち落とされた何千機もの搭乗員の命もまた失われることになりました。

ボールトンポール・ディフィアント Boulton Paul Defiant

ボールトンポール。
今までどこにも見たことがなかった軍用機の会社名です。

複座戦闘機で4門の後方砲塔を備えており、前方武器がありません
前方を攻撃できない戦闘機などというものが存在していたのも初めて知りました。

いったいどんな効果を期待してこんな仕組みにしたのかと思いきや、
この奇妙なコンセプトは初戦闘となったダンケルクでのみ効果を発揮することになります。

ドイツ軍戦闘機はこのシェイプからこの機体を

ハリケーンと間違えて

ディフィアントの後方から近づき、後方銃にやられることになりました。
もちろん情報はすぐさま共有されますから、効果があったのはこのときだけで、
その後はルフトバッフェ戦闘機の敵ではありませんでした。

そのため、日中の作戦からは引退し、夜間戦闘機にジョブチェンジ。
この後方銃も、夜間の対爆撃機戦には当初のみ効果的だったとされます。

しかしながら、元々夜間用として開発されたのではないため、
本格的な夜間戦闘機が新しく投入されるようになると、引導を渡されて
標的曳機や救出用などの雑用に格下げされてしまいます。

difiantというのは、反語好きのイギリス空軍の趣味を反映して、
スピットファイア(癇癪持ちの女)を彷彿とさせる、

「反抗的な人」「従わない人」「喧嘩腰の人」

とろくでもないやつの意味なのですが、こちらはスピットファイアと違って
性能がアレで皮肉屋のRAFパイロットたちに嫌われてしまったため、
difiantから取った、

Daffy (馬鹿・うすのろ)

という愛称(愛はあまりなさそうだけど)で呼ばれていたそうです。

ん・・・?ダッフィ?
ダッフィって・・・どこかにいましたよね。

ほら、極東の某テーマパーク発祥の熊のぬいぐるみ、
あれ、確かスペルもドンピシャでDaffyだったような気が・・・。

今調べてみたら、英語のウィキもしれっと”Daffy”で記述があります。
「ダッフルバッグに入っていたからダッフィー」という、日本発祥ならではの
捻りのない名前の起源まで翻訳されているので驚きました。

英語圏の人たちは、この「馬鹿・うすのろグマ」という名前を当初どう受け止めたのか(笑)

 

さて、熊でないほうのダッフィ、ダンケルクでは確かに何も知らない敵機を落としましたが、
メッサーシュミットには通用せず、逆に落とされまくったため引退を余儀なくされました。

続くバトル・オブ・ブリテンにおける当時のRAF側の飛行機不足は切実で、
もうこの際、飛ぶものならなんでも投入したい、という切羽詰まった状態だったはずですが、
それでも出撃させてもらえなかったといえば、
ダッフィーがどう思われていたかわかるというものです。

デハビランド・モスキート de Havilland Mosquito

機体が木製のデハビランド・モスキートは、
1944年初頭まで、驚くべきことにRAF最速を誇る機体でした。

モスキートは爆撃機、戦闘爆撃機、写真偵察機として運用され、
その日中細密爆撃の能力には正確さにおいて定評があったということです。

空中迎撃レーダーを搭載しており、夜間飛来する敵爆撃機に対しては
夜間戦闘機としてパスファインダー=開拓者のような役割を果たしました。
(ダッフィーが用無しになったのはこのせいだと思われます)

高速性能は、ドイツのV-1「バズ・ボム」飛行爆弾の撃墜に対し効果を上げました。


元祖巡航ミサイル?V-1

■ 同時代のルフトバッフェ航空機

メッサーシュミットMesserschmitt Bf. 110C

ドイツ軍機の72分の1模型が展示されています。
メッサーシュミットなのでMeを付けて表記することもありますが、
スミソニアンではバイエルン航空機製造を意味するBfを冠しています。

「駆逐機」Zerstörer(ツェアシュテーラー)

とも呼ばれた重戦闘機で、適宜投入すれば実績をあげることができたのですが、
バトル・オブ・ブリテンでは所詮双発機であったこともあり、
スピットファイアにめちゃくちゃにやられてしまいました。

このとき、ドイツ空軍は237機のBf110を投入し、223機を失っています。
(逆にこの4機がなぜ生き残ったのか、わたしはそれが知りたい)

バトル・オブ・ブリテンでは重爆撃機の護衛どころか、敵が来ると
Bf.109に援護してもらわなければならなかったそうです。

「ルフトバッフェのダッフィー」的立場だったんですね。

ユンカース・シュトゥーカJunkers JU 87B

逆ガル翼の急降下爆撃機、シュトゥーカ。
急降下するときにサイレンのような音を出したことから、
「悪魔のサイレン」と敵に恐れられたので調子こいて
実際にサイレンをつけてみた機体もあったようです。

このサイレンのことを、ドイツ兵は「ジェリコのラッパ」
(ジェリコが吹いたラッパの音で城壁が落ちたという聖書の逸話)

と呼んでいたとか。

ポーランドで1939年ブリッツ(電撃戦)を行うシュトゥーカ
 

ブリッツではともかく、バトル・オブ・ブリテンでは、防弾性能の低さが裏目に出て
スピットファイアやハリケーンに多数が撃墜されてしまいました。

ユンカースJunkers JU 88A

ユンカース社が開発した軽爆撃機。
バトル・オブ・ブリテン以降も終戦まで主力爆撃機として運用されました。

 

ところで、我が大日本帝国海軍では、双発急降下爆撃の研究のために、
1940年末、この
Ju 88 A-4を輸入しています。

しかし、海軍工廠がおこなった試験飛行の際、木更津飛行場を離陸したっきり、
行方不明になってしまいました(-人-)

沈んだ機体は東京湾の海底の泥に埋まってしまったか、あるいは今でも
機体の一部は魚の住処になっているかもしれません。

■ メッサーシュミット109

ヴィリー・メッサーシュミットの有名な単座戦闘機Bf109シリーズは、
史上最も大量に生産された戦闘機のひとつです。

もう一度説明しておくと、試作機を製造したのがBfと略される
Bayerische Flugzeugwerke AG
で、1938年メッサーシュミット社に社名変更しましたが、

ドイツの公式出版物では「Bf109」と表記され続けていたものです。

 

何かとナチスの政治的な宣伝が目立った1936年のベルリンオリンピックですが、
なんと、この新型戦闘機の最初の公開デモンストレーションまでやらかしています。

デビュー後、Bf109の最初のモデルは1936年から39年のスペイン内戦の後期に参加しました。

その後、ポーランドとヨーロッパ西部におけるブリッツ、「電撃戦」キャンペーン、
そしてバトル・オブ・ブリテンでその名声を獲得しました。

その成功は、優れた機動性と正確で安定した操作性に尽きました。
つまり操縦が容易でしかも性能が発揮しやすいということです。

 


■ ライバル、スピットファイア

スピットファイアは、ドイツ空軍の戦闘機に本格的に挑戦した最初の航空機です。
スピットファイアの方がわずかに速く、操縦性も優れていましたが、
高所での性能はメッサーシュミットが勝りました。

つまり機体の性能は一長一短あってほぼ互角だったことになります。
そうなるとものをいうのはパイロットの技量ですが、この点においても
英独空軍の搭乗員には操縦技術の差はほとんどないとされていました。

しかし、1940年のバトル・オブ・ブリテンでは、地元で戦ったRAFが有利でした。
しかも、Bf109の燃料容量では、英国上空での戦闘時間は20分が限度であったため、
多くの109型パイロットが燃料を使い果たし、英仏海峡の氷の海に墜落しました。



Bf109は、1943年以降、ドイツ本土に襲来するアメリカ陸軍航空隊の
重爆撃機による昼間の空襲の迎撃に投入されましたが、
ことごとく激しい防御の十字砲火を受けることになりました。

インテイクの下の注意書きには、

注意して開閉してください

空冷はフードに内蔵されています

と書いてあります。

Bf109は戦争期間を通じて使用され続け、絶えずアップグレードされました。
このGー6モデルは、1942年に最初に戦闘機ユニットに納入され、
東部戦線で広範な任務に携わってきたものです。

このマーキングは、東地中海空域で活動した

7 staffel II./JG 27 第7飛行隊第3航空群第27戦闘航空団

の機体を再現しています。

連合国軍側にとってしばらくこの戦闘機は幻の存在でしたが、
1944年、フランスのアルザス地方のパイロット、ルネ・ダルボアが
109G-6に乗ってイタリアのアメリカ陸軍に亡命を求めたため、
初めて鹵獲することができたという経緯があります。

その後、陸軍航空隊(AAF)は評価のためにこの戦闘機をアメリカに輸送しました。
輸送の際には部隊のマーキングと迷彩をすべて剥がし、航空技術情報司令部は
この戦闘機にFE-496という在庫・追跡番号を付与しました。

戦後、空軍はメッサーシュミットをスミソニアン国立航空宇宙博物館に移管し、
その後展示のために修復が行われ、現在の姿になりました。

上階から見ると、109はまるでエンジンを抱えているように見えます。

Bf109の試作機の飛行は1935年、そのときには
ロールスロイス社ケストレル695馬力エンジンを搭載していましたが、
最終的にダイムラー・ベンツのDB600シリーズ倒立V型水冷エンジンに決定しました。

スミソニアンによる修復終了後のコクピット。

ルフトバッフェの7.スタッフェルIII./JG27。
当博物館がマーキングを再現した部隊です。

バトル・オブ・ブリテンの間、占領下のフランスに置かれた
ルフトバッフェの航空基地に並ぶI./JG3(第1航空群第3戦闘航空団)のBf109。

■ 東部戦線における空中戦

重武装で飛ぶソビエト空軍の

イリューシンII 2 シュトゥルモヴィーク(攻撃機)

ドイツとソ連の間の空中戦は西部戦線とは異なっていました。
アメリカとイギリスはドイツの高高度爆撃に焦点を合わせましたが、
東部の広大な地における陸上戦闘では、空中戦と言っても低高度で行われ、
軍の作戦を支援しました。

1941年6月、ドイツ空軍によるソビエト飛行場への壊滅的な襲撃が行われましたが、
赤軍空軍はゆっくりと回復し、結果的にソ連は1945年までに
世界最大の戦術空軍を建設することになるのです。

東部戦線では国土の広大なため、戦闘の集中する部分以外は
防空も大変手薄で、その結果ルフトバッフェのシュトゥーカなどは
西部よりこちらで長らく使用されていました。

しかし、ソ連はこの間にいくつかの一流の戦闘機や攻撃機を開発し、
ルフトバッフェは東に最高のユニットを配備することを余儀なくされました。

 

続く。

 

 


RAFの「外人部隊」イーグル航空隊〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

2021-07-06 | 航空機

「第二次世界大戦の航空」コーナーに展示されている5カ国の戦闘機のうち、
スーパーマリン・スピットファイアについて前回ご紹介したわけですが、
そのスピットファイアとダンケルクの戦い、そしてアメリカ人の誇り、
イーグル・スコードロンについてお話ししておくことにします。

■ シュナイダーカップ三連勝のスーパーマリン

クリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」には、このコーナーにある、


ロイヤルエアフォース(RAF)スーパーマリン・スピットファイア


ルフトバッフェ メッサーシュミットBf109

がどちらも登場します。
実際に展示されている航空機はそのときの

「ダイナモ作戦」Operation Dynamo

に参加したものより制作されたのはもう少し早い時期であるということですが。

1940年5月26日までにドイツ軍によってダンケルクの港に追い詰められ、
海岸に隔離され、ドイツ軍の急降下爆撃機Stukasや戦闘機Bf109の格好の標的となった
フランス、イギリス、ベルギーの軍隊を救出するために、英国海軍が発動した作戦。

それがダイナモ作戦、別名

「ダンケルクからの撤退(Dunkirk evacuation)」

でした。

映画の感動的なラストを観ずとも、この撤退作戦が成功に終わったことは
誰でも知っているわけですが、
もしもこの作戦にロイヤルエアフォースが、というか、

わずか15機のスピットファイアが出動していなければ、

ダンケルクは悲劇に終わっていたかもしれないことを知る人はあまりいないでしょう。

ノーラン監督は、英国海軍だけでなく、35万人近くの連合軍将兵を救うことになった
スピットファイアのパイロットたちの活躍にもちゃんと焦点を当て、
この歴史的な事実を後世に残そうとしたのでした。

 

「ダンケルク」はスピットファイアの最初の大きな戦いとなりました。

スピットファイア部隊がダンケルクに派遣されたのは、兵士を守ることはもちろん、
兵士が取り残されている海岸に向かう海軍やボランティアのヨットなどの船を守るのが目的です。

(映画ではこのボランティアのヨットもフィーチャーされていましたね)

そして、5月23日、ドイツ空軍の爆撃機が攻撃の準備をしていたとき、
第92飛行隊のスピットファイアは、Bf109110の両方からなる17機のドイツ機を撃墜しました。

その2日後、同飛行隊はBf110に援護されたユンカースJu87の一群と交戦、
相手に再び大きな損害を与え、ダイナモ作戦の順調な進行を可能にしたのです。

ダンケルクで、アラン・ディアロバート・スタンフォード・タックという
2人のRAFパイロットは、それぞれ6機の敵機を撃墜しエースになりました。

Portrait of Wing Commander Alan Christopher 'Al' Deere, RAF, July 1944. CH13619.jpg
Alan Christopher "Al" Deere(1917−1995)
Air commodore

Robert Stanford Tuck.jpg

Robert Roland Stanford Tuc(1916-1987)
Wing commander

エア・コマンダーは准将、ウィングコマンダーは中佐。
いずれもロイヤルエアフォース独特のランクです。

ついでなので、RAFの空軍士官のタイトルを挙げておきます。
どれもこれも馴染みがなさすぎてわたしには全くピンときません。

少尉=Pilot  officer パイロット・オフィサー

中尉=Flying officer フライング・オフィサー

大尉=Flight lieutenant フライト・ルテナント

少佐=Squadron Leader スコードロン・リーダー

中佐=Wing Commander ウィング・コマンダー

大佐=Group captain グループ・キャプテン

准将=Air Commodore エア・コモドーア

少将=Air vice marshal エア・バイス・マーシャル

中将=Air marshal エア・マーシャル

大将=Air chief marshal エア・チーフ・マーシャル

元帥=Marshal of the Royal Air Force マーシャル・オブ・ザ・ロイヤル・エア・フォース


空軍大佐の「グループキャプテン」という名称の重みのなさは異常。
ちなみにRAFではいわゆる「金ピカ」がマークにつくのは准将以上からになります。

しかしタック中佐、大舞台でエースになった割に出世してなくないか?

■ スピットファイアの「元祖」スーパーマリンレーサー

さて、続いてスピットファイア誕生までの経緯についてお話しします。

スピットファイアを設計した、

レジナルド・J・ミッチェル(CBE Reginald Joseph Mitchell 1895-1937)

です。

彼は当時盛んだった航空レース、シュナイダー・トロフィーレース用に
最初のスピットファイアを設計し、この機体はレースに3連勝して
名誉あるシュナイダーカップを英国に持ち帰るという快挙を成し遂げました。

スピットファイアの元祖は、なんと水上機だったんですね。

水上機のレースで勝ち抜くことを目標に改良するうち、
特にエンジンの技術は進化し向上していき、2年ごとに行われていた
シュナイダーレースの最後の三回は、そのいずれもが
UKチームの駆る

スーパーマリン・レーサー

の独壇場となりました。
結果的に英国は優勝カップを永久に祖国に持ち帰ることになったのです。


Supermarine S.6B ExCC.jpg
シュナイダーカップ最後の優勝機

 

■ スピットファイア戦闘機の誕生

ミッチェルはこのスーパーマリン・レーサーにロールス・ロイス社製のV型12気筒エンジン
「マーリン」を搭載し、戦闘機に仕立て上げることにしました。

彼はドイツの動向に強い関心を持ち、英国の防衛力を向上させるには、
特に空軍力の強化が必要であると考えていたのです。

ただし、ミッチェルはこの「スピットファイア」という名前を気にいっていませんでした。
Spitfire=火を吐くという言葉の一般的な意味は、

「癇癪持ちの女」

という身も蓋もないものだったからです。

世の中にはグレの香水「カボシャール」(強情っぱり)のように、あえて
ネガティブなミーニングで商品を魅力的に見せるというマーケティング法がありますが、
ミッチェルはそうした逆説を好まなかったと見えます。

後世の、特に外国人の我々には「スピットファイア」というと、もはや
この伝説の戦闘機しか思いつかなくなっているわけですが。

いくら気に入らずとも、命名を行ったのはいわばお客様であるRAF
さすがのミッチェルも受け入れるしかなかったようですが、

最後まで慣れることはなかったようで、のちにこんなことまで言っています。

"Spitfire was just the sort of bloody silly name they would choose.”

「血なまぐさく」「馬鹿げていて」「いかにも彼らが選びそうな」名前

うーん・・・これ、同時にさりげなくロイヤルエアフォースをディスってませんかね。
ミッチェル先生、もしかしてパヤオみたいな(笑)飛行機好きの軍嫌いだったのか?

 

ミッチェルは1933年にスーパーマリン社から新設計の300型を進める許可を得ました。

このスピットファイアは、もともとスーパーマリン社の個人的な事業でしたが、
すぐにRAFが興味を持ち、航空省が試作機に資金を提供したのです。

薄い楕円形の主翼はカナダの空力学者ベバリー・シェンストンが設計したもので、
ハインケルHe70ブリッツと似ていると言われています。

また、翼下のラジエーターはRAEが設計したもので、
モノコック構造は米国で最初に開発されたものです。

ミッチェルの天才的な才能は、高速飛行の経験とタイプ224を使って
これらすべてを一つの形にまとめ上げたことにあるといわれています。

スピットファイアの試作1号機(シリアルK5054)は、
1936年3月5日にハンプシャー州イーストリーで初飛行しました。

 

■ 戦時中生まれた派生型スピットファイア

スピットファイアの原型は、8挺の機関銃を搭載した戦闘機の必要性から生まれました。
戦時中、様々なバージョンのスピットファイアが製造ラインから生み出されています。

Bf109に対抗するための高空飛行バージョン。
フォッケウルフFw190に対抗するための超低空飛行が可能なバージョン。
そして、ドイツ軍の動きを監視するための偵察機バージョン、さらには
海で溺れたパイロットを救うための海空救助活動用の機体などです。

また、空母搭載用に

スーパーマリン・シーファイア Supermarine Seafire

という艦載フック付きがあったこともご存知かもしれません。

Seafire 1.jpg
Royal Canadian Navy Supermarine Seafire Mk XV

「シーファイア」という名前からは、オリジナルの「癇癪女」の語源は
全く消え去っているのがちょっと面白いと思ってしまいました。

 

■ アメリカ人パイロット集団、イーグル航空隊


スピットファイアは、イギリスや英連邦のパイロットのみならず、
フランス、ポーランド、チェコスロバキア、ベルギー、アメリカなど、
国際的なパイロットたちによって操縦されていました。

1940年9月、アメリカ軍の戦闘機パイロットからなる第71航空隊が
ロイヤル・エアフォースに加わるために編成され始め、10月19日には、
最初の「イーグル飛行隊」がスピットファイアに乗って戦闘を行いました。

彼らアメリカ人パイロットの多くはカナダで志願したか、あるいはロイヤルカナディアン、
カナダ国内カナダ空軍にリクルートして採用されたという経緯です。

そのいずれでもない人の中には、イギリスに直接渡ったり、
自力で飛行機を飛ばしてなんとかフランスに行った熱心な人もいました。

あまりにもアメリカからの志願者が多かったので、1941年になると、
イギリス空軍はさらに2個のイーグル飛行隊を追加で結成することになりました。

当時アメリカ政府はパイロットたちがイギリス連邦のために戦っている間、
規則としてイギリスの市民権を保持できるように特別に取り計らっていましたが、
1941年12月になってアメリカが参戦することが決まると、当然ながら
多くのイーグル隊員はアメリカ陸軍航空隊への移籍を要請することになりました。

その後、イーグル飛行隊は、

アメリカ陸軍航空隊 第8空軍 第4戦闘機群

第334、第335、第336飛行隊

としてアメリカのマーキングをつけたスピットファイアで戦いました。

敵機を撃墜した第71航空隊のマッコルピン(Carroll W. McColpin)
フライングクロスを受け取り、仲間に祝福されているところ。

離陸準備をすませ、いかにも闘志満々のイーグルたち。
第一次世界大戦のときフランスに向けて飛んだチャールズ・スウィーニー大佐
名誉航空隊司令となっていました。

その直属の司令、カンサス出身の航空隊長ウィリアム・E・G・テイラー
そのままイギリス海軍の艦隊航空隊に就役しています。

スクランブルがかかり、各自のホーカー・ハリケーンに駆け乗るイーグル。

哨戒から帰投してくる2機のイーグル航空隊ハリケーン。

レディールームで次なる戦いを待つ第71航空隊メンバー。

RAFからアメリカ陸軍航空隊に再編成後、ブリーフィングを行うイーグル航空隊長
ドナルド(ドン)・ブレイクスリー(Don Blakeslee)中佐

超イケメン

博物館に展示されているスピットファイアは140機生産されたマークVIIの1機です。

高高度での飛行が可能で、25,000フィートで時速408マイル出せました。
124飛行隊が使用したマークVIIは、ミッチェル爆撃機を援護しながら、
Bf109を123機破壊するという活躍をしています。

1943年3月、博物館のスピットファイアは、リバプールの工場からアメリカに送られ、
5月2日に陸軍航空隊に受領されました。

そして戦後1949年から博物館に所蔵されています。

 

続く。
 

 

 

 


スピットファイアとバトル・オブ・ブリテン〜第二次世界大戦の航空機・スミソニアン航空博物館

2021-07-04 | 航空機

これだけ何回も取り上げてきてまだ紹介が終わらないスミソニアン博物館展示。
いかに膨大な展示物を所有しているかということの証左であるわけですが、
今回改めて写真を点検したところ、これでもまだ半分も消化していないことがわかりました。

というわけで、次に取り上げるのは、スミソニアンのシリーズから、

「第二次世界大戦の戦闘機」

このブログ的には前回の「空母の戦争」とともに比重をおくべきテーマでありながら、
色々と他にも語りたいことがあって、今更になってしまいました。

『第二次世界大戦の飛行』より「航空」と言う言葉の方が適切だったね、
と日本人としては若干残念ですが、とりあえず日本語なのでよし。

第二次世界大戦の航空を語って日本を語らないわけにいかないのですから、
こういうのを見るとほっとします。

 

まず、コーナー最初の説明からです。

第二次世界大戦の航空

1939年に始まり、1945年に終わった第二次世界大戦は、
歴史上最大かつもっとも破壊的な戦争でした。

戦闘による死傷者、爆撃、飢餓、大量殺戮、その他の原因により、
5000万人以上が亡くなりました。

ドイツのポーランド侵攻を支援する最初の空襲から、
1945年8月のアメリカによる日本への原子爆弾の投下まで、
全ての軍事作戦において航空は重要な手段となりました。

さまざまな空軍が、陸海軍を支援しただけでなく、
敵国の都市と産業の戦略爆撃において独立した役割を果たし、
あらゆる面で輸送と補給において後方支援の役割を果たしました。

第一次世界大戦と同様に、戦争は航空の技術開発を押し進めたのです。

このギャラリーには、5機の有名な第二次世界大戦の戦闘機が展示されています。

ここではなぜかその5機についての説明は省かれているのですが、
一応最初なので当ブログでは写真だけでも紹介しておきましょう。

詳しい紹介は後日になります。

スーパーマリン スピットファイア Spitfire ロイヤルエアフォース

ノースアメリカン P-51D ムスタング アメリカ陸軍航空隊

メッサーシュミット Bf 109 ドイツ ルフトバッフェ

三菱 零式艦上戦闘機Zero 日本帝国海軍

マッキ フォルゴーレ Folgore イタリア空軍

「フォルゴーレ」などという名前の戦闘機が存在することは、
ここに来るまで全く知りませんでした。
博物館のいうようにこれが「第二次世界大戦の最も有名な戦闘機ベスト5」かというと
ちょっと疑問ですが、まあそれはいいでしょう。

戦闘機の他には巨大な航空エンジンが目に着きます。

プラット&ホイットニー 
ダブルワスプ R-2800 CB16・2列・ラジアル18エンジン

プラット・アンド・ホイットニー社が開発したアメリカ初の18気筒ラジアルエンジンです。
第二次世界大戦中は、グラマンF6Fヘルキャット、ヴォートF4Uコルセア、
リパブリックP-47サンダーボルトなどの戦闘機に搭載され、
戦後はダグラスDC-6などの旅客機に搭載されました。


■ バトル・オブ・ブリテン

さて、今日のメインテーマは、スピットファイアが活躍した、
「バトル・オブ・ブリテン」です。

これについては以前も取り上げたことがあるわけですが、
あらためてスミソニアンの見解に沿ってご紹介していこうと思います。

 

バトル・オブ・ブリテンと呼ばれる一連の戦闘のうち、最初の決定的な空中戦は、
1940年の夏の終わり、ドイツ軍の計画されたイギリス侵攻によって幕を開けました。

このときのイギリスの勝利は、ドイツ軍の侵攻に必要な空中戦の優位性を否定しただけでなく、
逆に彼らを打ち負かすことができたということを証明することになります。

ルフトバッフェの打倒RAF(ロイヤルエアフォース)計画というのは、
空爆を行う重爆撃機の掩護を行う戦闘機が、RAF戦闘機を空中戦に誘い込むことであり、
これは緒戦においてはある程度の効果があったといわれます。

当時のRAFパイロットは技量も高く、また戦闘機の性能もすぐれていましたが、
いかんせん保有する機体が少なすぎたのです。

その状況を覆したのがRAFの高い暗号解読能力とレーダー警戒網でした。
空中機動隊はこれによって得た情報を最大かつ効果的に利用し攻撃を行いました。

 

ルフトバッフェが当初の攻撃目標を変更したことも、結果的に有利に運びました。
当初、彼らはレーダー基地と前線の航空基地の攻撃を計画していたのですが、
いろいろとあって(?)
ロンドン市街に空爆目的を変更したのです。

なぜこれが良かったかというと、ロンドン都市空襲の間、RAFは
緒戦の空襲で破壊されていた基地を修復、
消耗し崩壊寸前だった
RAF戦闘機軍団を回復させることができたからでした。

1940年9月15日、ロンドン空襲を経てバトル・オブ・ブリテンは終了しました。
ドイツ軍は侵攻艦隊をすぐさま解散したものの、この後8ヶ月にわたり、
イギリスは「ブリッツ」と呼ばれる夜の定期的な都市攻撃に見舞われることになります。

それでは写真と共に説明していきます。

1940年9月7日、ルフトバッフェは人口密度の高いロンドンのドックエリアに
昼夜を問わない激しい攻撃を開始しました。

翌朝は地域全体で火事が猛威を揮いましたが、結果として
夜間攻撃への切り替えはある意味失敗であることが判明します。

確かに彼らは物理的に大きな損害を与えることができましたが、
かえってイギリス人の士気は燃え上がったのです。

 

スミソニアン博物館の第一次世界大戦について取り上げたとき、
戦略爆撃は民衆の戦意を喪失させることを目的として始まった、
と歴史的な経緯について説明したことがありますが、それでいうと
ドイツ軍の都市爆撃は「失敗」であったといえるかと思います。

真珠湾攻撃も、この一撃でアメリカが打ちのめされて和平交渉に応じるなどと
考えた日本の読みは外れ、「リメンバーパールハーバー」で一丸となった大国に
完膚なきまでに叩きのめされたのは歴史の示す通り。

この壮大な社会実験?から得られた結論があるとすれば、戦略爆撃は
一度や二度の短期ではかえって逆効果であるということです。

一国の市民の戦意を完全に喪失させるためにはそれこそ執拗に繰り返す夜間空襲や、
なんなら原子爆弾を投入するしかない、という言い方もできるかもしれません。

イギリスの防衛の鍵。

それはレーダー基地、監視ポスト、オペレーションセンター、そして送電線でした。
これらのネットワークによって提供された情報が戦闘機集団の戦いを支援しました。

この写真は、敵機の位置情報を送信するRAFのコマンドオペレーションセンターで、
実働スタッフは全員女性軍人です。(奥に責任者らしいおじさんが一人)

ハインケルHe111爆撃機KG55が海峡を越えてイギリスに向かいます。
しかし、He 111の貧弱な防御兵器はRAFのハリケーンスピットファイアの前に脆弱でした。

名機と言われたメッサーシュミットBf109及び110護衛戦闘機も大きな損失を被りました。

ロンドンのバッキンガム上空を浮遊するのは

弾幕気球(Barrage Balloons)

弾幕気球は第二次大戦のイギリスがまさにドイツ軍の攻撃に備えて考案したもので、
「阻塞気球」とか「防空気球」と訳したりします。
気球をケーブルで係留して浮かべ、敵機の低空飛行を牽制します。

シェイプがなんとも金魚のようで可愛い ´д` ;

たかが風船と思われるかもしれませんが、戦闘機よりは大きいサイズなので、
十分に抑止力はあったようです。

戦隊司令からドイツ軍の爆撃機襲来に対する迎撃命令を受けて
ハリケーン戦闘機に乗り込むために全力疾走するRAF601、
ロンドン郡所属戦隊のパイロットたち。

緊張感と躍動感に心惹かれて食い入るように見てしまう写真です。

ルフトバッフェの攻撃を迎撃するためスクランブルをかけている
第501飛行隊の2機のホーカー・ハリケーン

スーパーマリンのスピットファイアほど有名ではなかったものの、
ハリケーンはバトル・オブ・ブリテンの戦闘機軍団の主力となりました。

スピットファイアより遅く、機動性にも劣るとされながらも非常に効果的に戦果を納めたのです。

 

■ スーパーマリン・スピットファイア

それではバトル・オブ・ブリテンの主役、スピットファイアについてです。

スーパーマリン スピットファイア Mk. VII

スピットファイアは英国航空史におけるレジェンドです。

ホーカー・ハリケーンと共に、バトル・オブ・ブリテンではドイツ空軍から
イングランドを守ることに成功し、戦争中はあらゆる主要戦線で活躍しました。

そのパフォーマンス、そして操作性は大変優れています。

もともと同機は「マリン」という機体がアップグレードして「スーパー」、つまり
「スーパーマリン」になったものですが、このときのエンジン出力の増大にうまく対応し、
機体も丈夫で長年の耐用年数を誇りました。

Mk.VIIは140機しか生産されていませんが、史上2番目の高高度バージョンです。

ここに展示されている機体は1943年5月、評価のためにRAFが工場から
アメリカ陸軍航空に譲与されたもので、アメリカで飛行していました。

戦後の1949年、米空軍は機体をスミソニアンに寄贈しています。

コクピットの写真。
イギリス機なので単位がメートル、kgとなっているのがいいですね。
(いまだにアメリカのポンド・フィート法に全く慣れないわたし)

イギリス上空を飛ぶスーパーマリン・スピットファイアMk VII
誰しもこの独特な翼の形に目が奪われることでしょう。

この翼は、高高度でのパフォーマンスを向上させるために追加された設計で、
翼端が極端に細長くなっているのが特徴です。

博物館に展示されているスピットファイアはこのマーキングを採用しています。

この俯瞰図は、スーパーマリンスピットファイアに特有の、
スリムな胴体と楕円の翼がよくわかる角度となっています。

MK.Iは、バトル・オブ・ブリテンで活躍したバージョンです。

北アフリカに展開していた第154飛行隊のスピットファイアMk. Vb

バトル・オブ・ブリテンが終わった後、スピットファイアは
フランス上空でルフトバッフェの掃討を続けました。

その後、彼らはアメリカの爆撃機を援護しましたが、その航続距離の短さから、
大陸からの爆撃機の流れの出入りをカバーするには限界がありました。

スピットファイアは地中海、中東、東南アジアを含む他の全ての戦場で使用され、
様々な条件下において役割を果たすことが証明されました。

さて、スピットファイアについては次回もお話しするのですが、
ここで最後にぜひ観ていただきたい動画を挙げておきます。

William Walton : Spitfire Prelude and Fugue. Video clips.

わたしの好きなイギリスの作曲家のひとり、サー・ウィリアム・ウォルトン
1942年にスピットファイアの設計者、レジナルド・ミッチェルの伝記映画のために書いた

「スピットファイア・プレリュードとフーガ」
 Spitfire Prelude and Fugue

を、空駆けるスピットファイアの勇姿に合わせたビデオクリップです。

前半のプレリュード部分では第二次世界大戦中の実写、
後半のフーガになってからは現存する機体が華麗に空を舞う映像となっており、
特に前半ではドイツ軍戦闘機や爆撃機を撃墜しているシーンなどもみることができます。

スピットファイアの飛翔ををイメージして作曲されたので当然とはいえ、
音楽と映像の融合の妙にはちょっと感動してしまいました。


続く。

 


真珠湾攻撃と日本軍機のいろいろ〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-21 | 航空機

スミソニアン博物館の空母展示では、世界初めての
空母機動部隊による奇襲となった真珠湾攻撃に始まり、
日米の第二次世界大戦の空母艦隊戦について
けっこうなボリュームを持って紹介されていました。

今日は真珠湾攻撃の続きです。

真珠湾攻撃の日本軍オペレーションが大地図で紹介されていました。

皆さんもご存知の経緯ですが、赤い動線について説明しておくと、

●1 単冠湾から出発(地図上部)

●2、3 3400マイルで12/3に到達

●4 12月8日

先遣部隊 潜水艦27

打撃部隊 空母6 駆逐艦9

補助部隊 戦艦2 巡洋艦3 潜水艦3

●5にて航空機回収

●6「蒼龍」「飛龍」「利根」「筑摩」駆逐艦群はウェーク島攻撃の補助のためここで別れる

●7 12月21日〜28日 ウェーク島攻撃

●8 帰還

左下の赤い台形で囲んだ部分が本作戦の行動範囲ということです。

ところで黄色でハイライトを入れた部分ですが、
日本の潜水艦って5隻の特殊潜航艇とそれを運んだ母潜水艦しかいなかったんじゃあ・・・。
27隻って本当にそうだったのかしら(調べてません)

 

ハワイ・オペレーション

日本軍が1941年12月7日を奇襲決行日に選んだ理由は、
アメリカ艦隊が週末でそのほとんどが入港していたからだといわれます。

空母機動部隊から発進した航空機はオアフ島の軍事施設を攻撃し、
潜水艦の部隊は我が軍艦を破壊するために島の周りに配備されました。

いやだからそんなに潜水艦いたんですかって聞いてるんですけど。
この書き方だと本当に潜水艦が27隻来ていたみたいですが(調べてません)

オアフへの攻撃中、2隻の駆逐艦がミッドウェイの構造物を砲撃しました。

ミッドウェイ島を日本の駆逐艦が攻撃したってことでOk?

国際法に従い、宣戦布告はワシントン時間午後1時(ハワイ時間8:00a.m)、
ハワイ攻撃の30分前に米国政府に提出されることになっていました。

しかし、暗号解読とタイピングに時間がかかり、手交できたのは
ワシントン時間の午後2時20分となってしまい、1時間25分の遅れとなりました。

開戦通知の遅れの原因は、そもそもこの非常時に人がいなかったこと、
そして(アメリカ人にはとても理解できないことかもしれませんが)
もっとも時間がかかったのは、英語への翻訳で揉めていたためだったと言われていますね。

 

わたしなど多少プロトコルに則っていなくても意味さえ通じればいいから、
ちゃっちゃとメモみたいなのでも渡しておけばよかったのにと思うんですけど。

日本人の英語が下手な原因は、間違えるのを恥ずかしがるあまり、
文法を組み立ててからしゃべるせいだという話もあるくらいですが、
このときの大使館にもその傾向を見る気がするのはわたしだけでしょうか。

それはともかく、開戦通知遅れについては当時ハル長官は
卑怯な騙し討ちだと怒り、散々これをプロパガンダに使ったわけですが、
現在ではちゃんとそのときのお粗末な遅延事情が(正確にではないですが)
少なくともスミソニアンには(ということは一般的な歴史認識として)
ちゃんと伝わっているようでよかったです。

なお、地図の下部には日米軍双方の戦力が記されています。

発進

第一波である日本海軍のB5N2 「ケイト」艦上爆撃機が
真珠湾攻撃を行うため空母のデッキからテイクオフしています。

攻撃軍はオアフ島の北370キロ沖の発艦ポイントに早朝6時に到達し、
そして1時間15分後、嶋崎重和中佐率いる第二波の攻撃グループが発進しました。

スミソニアンの記述に出てくるこの嶋崎中佐は、あまりに有名になった
淵田指揮官の高名に霞んでしまい、ほぼ無名といっていいのですが、
ここではちゃんと名前が明記されています。

Shigekazu Shimazaki cropped.jpg嶋崎少将(最終)

嶋崎重和は昭和20年1月、第3航空艦隊司令部付となった翌日、
台湾方面で戦死し、戦争が終わってからその年の末に
二階級特進して海軍少将に任ぜられています。

 

「真珠湾空襲、演習にあらず」

50席以上の艦船が埠頭に錨を落とし、休んでいる、
典型的な戦前の真珠湾の写真です。

この写真の港中央に見えているのがフォードアイランドで、
ここには戦艦が島の左側に並んで係留されていました。

陸軍の航空基地であるヒッカム飛行場は、この写真の
メインの海岸線に沿って画面の外に行ったところにあります。

映画「ファイナルカウントダウン」で有名になった(かもしれない)写真。

何かのはずみで何の必然性もないのに真珠湾攻撃の日にタイムスリップした空母が、
そのまま普通に現代に帰ってきてバタフライエフェクト起こしまくる怪作でしたね。

なんかわからんけど偵察機を出したら偵察員が撮ってきたという設定の写真がこれで、
なわけあるかーい!とツッコミがいのある映画でした(遠い目)

 

この写真が歴史的なのは、真珠湾攻撃のその日、
攻撃をしている日本軍の航空機から撮られたものだからです。

画面奥には炎上するヒッカムフィールドが確認できます。
そして7隻の戦艦がフォード島沿岸に沿って係留されているのが見えます。

"AIR RAID PEARL HARBOR-THIS IS NO DRILL"
(パールハーバーは爆撃を受けているーこれは訓練にあらず)

真珠湾に爆弾が落とされると同時にこのメッセージは全ての部隊に発せられました。
これらの写真は米国太平洋戦艦部隊のほぼ完全な壊滅を劇的に示しています。

時代の終わり

パールハーバーの悲劇から最も逃げるべきであった戦闘艦は、
つまり敵の第一目標である三隻の空母だったということになりますが、
「エンタープライズ」はウェーク島に海兵隊航空隊を輸送して帰還中、
「レキシントン」は偵察爆撃機をミッドウェイに届けてやはり帰還中、
そして
「サラトガ」は本国の西海岸にいたため三隻共に無事でした。

たった二隻を残してほぼ全部が何らかの損害を受けたのが戦艦群でした。
(その二隻とは『アリゾナ』と『オクラホマ』)
彼女らは最終的に戦争が終わるまでに全部艦隊に戻ることができたとはいえ、
真珠湾は、空母が海上での戦争で主力艦として戦艦に取って代わるきっかけでした。

物理的にも、そして相手から得た戦略的教訓としても。

U.S.S. 「カリフォルニア」

五発の魚雷を撃ち込まれた「カリフォルニア」はゆっくり泥中に着底します。
写真の一番右に「オクラホマ」の艦隊が微かに確認できますが。
この艦は横転しマストが泥中に突き刺さるように沈没し、
415名の乗員が亡くなりました。

U.S.S 「ウェストバージニア」

「ウェストバージニア」から立ち昇る黒煙、そしてボート。
この写真で見ると、ボートのエンジンは白波を立てており、

今から「ウェストバージニア」に向かうのであろうことがわかります。

半ダースの魚雷が撃ち込まれ、そのうち二本が命中して炎の中海底に沈み、
艦内では105名の乗員が亡くなりました。

 U.S.S 「ネバダ」

「ネバダ」はフォード島に単独で係留されていました。

他の7隻の戦艦が攻撃を受けている間、「ネバダ」にも魚雷が命中し、
航空爆弾も二発うけたにもかかわらず、
どうにか始動することができました。

ネバダの航行ルート

「ネバダ」は湾を出ようとしている間に爆弾を受けましたが、
入江で沈没し湾を塞いでしまうことを懸念し、

ホスピタル・ポイントで自力で座礁して沈没を回避し、
タグボートによってワイピオ・ポイントに再度座礁しています。

「ネバダ」の乗員は50名が死亡し、109名が負傷しました。

 

航空基地

オアフ航空基地

真珠湾の艦船が実に「システマティックに」破壊されていく間、
オアフの航空基地もまた攻撃下にありました。

このOS2U偵察機はフォード島の航空基地で破壊された
海軍と海兵隊の数多くの航空機のひとつにすぎません。

オアフ島の北側にあるカネオヘ湾と、パールハーバー近くのエワでも
爆撃などに遭い多くの航空機が発進できなかったり壊されたりしました。


■ 日本軍機模型

三菱 A6M3 零式艦上戦闘機”ジーク”

さすがはスミソニアン、あの世紀の迷作、マイケル・ベイの「パールハーバー」には
緑で塗装した後期の零戦が、この20型と混じって仲良く飛んでいましたが、
模型は真珠湾コーナーであることもあって当時のバージョンです。(当たり前か)

あれは映画撮影時、アメリカ国内に現存する可動機を動員し、
実際に飛ばせることに拘ったためあんなことになってしまったようですね。

今ならCGでどうとでもなるので、お金をわざわざ払ってこんなを犯す監督はいません。

中島 B5N2 九七式艦上攻撃機 ”ケイト”(左)

真珠湾攻撃の時日本軍機にも迎撃された艦載機があったわけですが、
第二波でもっとも損害が多かったのがこの九七式でした。

水平爆撃を行うというその攻撃特性上、低空飛行で比較的速度が遅く、
大きな機体であるため地上からの砲撃を受けやすかったのです。

特に未帰還機が多かったのは第二波攻撃陣でした。

中島一式戦闘機キ431 隼 ”オスカー”(右)

「♫は〜やぶ〜さ〜は〜ゆ〜く〜」

という歌でも有名(名曲だよね)ですが、この戦闘機を有名にしたのは
「隼」という愛称が一助を担っていたことはまちがいありません。(と思う)


最初単に「一式戦闘機」という名称だった戦闘機に、

敵連合軍の「バッファロー」や「ハリケーン」のようなニックネームが欲しい、
という声を受け、陸軍航空本部発表の正式な愛称として
一式戦は「隼」と命名(発案者は陸軍航空本部報道官西原勝少佐)、
太平洋戦争開戦まもない1942年3月8日には
「新鋭陸鷲、隼、現わる」の見出しで各新聞紙上を賑わした。Wiki

名前って大事(確信)

三菱 G4M1 一式陸上攻撃機 ”ベティ”

海軍の主力攻撃機となった一式陸攻です。
急降下爆撃を行えるものを「爆撃機」、そして水平爆撃を行うものを
「攻撃機」といい、これは日本軍同時のカテゴライズでした。

爆撃機の搭乗員は気質が荒っぽく、攻撃機は紳士的、などという傾向を
海学徒士官出身の映画監督、松林宗恵氏が対談で語っていましたっけ。

愛知 E13A1 零式水上偵察機”ジェイク”

略して「零水」は初期の空母・戦艦・巡洋艦・潜水艦に偵察の要して開発され、
基地にも配備されて艦隊や外地の基地の目として盛んに活動しました。

大戦の序盤はそれなりの成果を納めていましたが、昭和18年以降は
「下駄」と呼ばれたフロートによる速度不足・加速力不足のため、
敵のターゲットとなり情報活動が不可能になっていきました。

川崎二式複座戦闘機 キ45改 屠龍 ”ニック”

「屠龍」といえば想起するのが本土防衛におけるB-29との戦闘です。
巨大な竜つまりB-29を屠る、というその名前も鮮烈なイメージ。

 

■Aftermath(余波)

午前10時までに、最後の日本の攻撃隊は海上で待機中の空母に向かって航行し、
4隻の戦艦が沈没または撃破、4隻が沈没、3隻が駆逐艦が沈没、
2隻の巡洋艦が深刻な被害を受け、
いくつかの小型艦艇と補助艦が被害を受けました。

そして2008名の海軍関係者を含む合計2403人のアメリカ人が犠牲になりました。
(なんだかんだ一般人多かったんですね)

しかし、真珠湾の修理施設、石油タンクを破壊できなかったのは
日本軍の大きな誤算となりました。
そして、このことは米海軍の早急な回復の主要な要因となったのです。

さて、というわけで真珠湾攻撃コーナーがおわりました。

となると次は当然・・・・・?
そう、あれですよあれ。

ミッドウェイ海戦です。

 

続く。

 

 


空母着艦にまつわる色々〜スミソニアン航空宇宙博物館・空母展示

2021-03-17 | 航空機

USS「スミソニアン」CVMという架空の空母のハンガーデッキを
そのまま再現したスミソニアン博物館の空母航空コーナーは、
もちろんそこで終わりではありません。

ハンガーデッキから隣の区画に抜けていくと現れるのが
艦載機パイロットの控室である「レディルーム」です。

まず「レディルームとは」という解説を見てみましょう。

空母の各スコードロン(squadron飛行大隊、英国では飛行中隊)は
レディルームにアサインされます。
レディルームとは、家庭のリビングルームのおよそ2倍のサイズです。

アメリカ家庭のリビングルームの2倍ということは、日本の家屋における
リビングルームとは比べ物にならないくらい広い、と考えられます(笑)

リビングルームに喩えたのは、ここが故郷を離れてやってきた
飛行大隊フライトクルーの「ホーム」でもあるからです。
「オフィス」があり、教室があり、映画館があり、リビングルームもあり・・。

バルクヘッド(壁)には掲示板、地図、ポスター、ブリーフィングガイド、
気象情報とナビゲーション情報を流すモニター、フライトデッキのモニターで埋め尽くされ、
テレビはネットワークが届かない状態でも放映することのできる番組を流しています。

 

また、空母艦載機パイロットというのは、着艦ごとに
「成績」をつけられるということがわかりました。

「ファイナル・グレード」

パイロットの空母着艦の際のアプローチが上手いかどうかは
ナンバー3のワイヤーを捉えることができるかで判断します。

全部で4本あるワイヤの4番目に引っかかるなら、それは
おそらく「高すぎ」「速過ぎ」を意味し、もしナンバー1、2なら
機体の侵入速度は「低過ぎ」「遅過ぎ」るということなのです。

LSOと呼ばれる信号員は、全てのアプローチに対し評価グレードをつけ、
各パイロットの個人成績としてその記録は残されます。

次に挙げるのは典型的なLSOのアプローチに対するコメントです。
これらのコメントはすべて略語(short hand)でログブックに書きつけられます。

「オーケイアプローチ、コメントなし、3ワイヤー」=OK3

「アプローチ失敗、Settle in the middle, Flat in close,4ワイヤー」
OK SIM FIC4

「グレードなし、 Not Enough attitude in close1ワイヤー」
NEATTIC SAR1

真ん中のは「可」でしょうか。
最後のは最終アプローチで高度が低過ぎたため、最初のワイヤーにひっかけても
グレードなし、つまり失格というやつです。
これがが続けば残念ながらパイロット適性なしとして勤務を外されます。

非情なのではなく、命に関わっているからこその措置です。

ロックコンサートのフィナーレでマイクを高く掲げているのではありません。
お仕事中のLSO、The Landing Signal Officerです。

もし着艦の体勢が正しくないときには、「ウェイブオフ」が命令され、
そうすればパイロットは決して着艦することはできません。
もう一回やりなおしです。

 

ちなみにログブックの略語のいくつかを書き出しておきます。

OK パーフェクトパス

OK 正しい判断による理由のある逸脱

(OK) 理由のある逸脱

_ 最低の方法だが一応安全にパス

C 危険、大幅な逸脱、離艦ポイントに侵入

B Bolter

ボルターとはワイヤーをキャッチできなかった場合です。
その場合をボルターといい、ボルターしてしまったらフルスロットルで加速し、
再アプローチをするためにもう一度発艦して一周回ってきます。

Photograph from behind a twin-engined jet fighter. The aircraft's wheels are on the surface, but the engines are still active, and a hook on the underside of the aircraft is in contact with the surface and trailing sparks

空母「ジョン・C・ステニス」のアレスターワイヤに接合失敗したAN F / A-18Cホーネットが
絶賛ボルター中で、機体の車輪は甲板にありますが、エンジンはまだアクティブであり、
機体の下側のフックが甲板に引きずられて火花が起こっています。

ボルターは「失敗」には数えられません。

ログブックの略語は、このほかに「LO=Low」「H=High」など基本から
「L-R=Left to Right」「NC=Nice Correction」(良い修正)など、
なかなかきめ細やかにいろいろとあります。

LSOとパイロットたちは、この略語を隠語として日常生活に使用していると思います。

「ラインアップ」Line Up

フライトデッキにノーズを向ける最終進入体勢をラインアップと言います。
侵入角度をここで調整し、「ミートボール」を見ます。

空母着艦の際に「ミートボール」と呼ばれる機器が活躍することについては
当ブログでも何度かお話ししていますが、ここにも出てきたのでまた説明します。

ファイナルアプローチに入るとパイロットは「ミートボール」を見ます。
ボールとは垂直のフレネルレンズ上に見えているのライトのことで、
もしグライドパス上にいればボールは二つの水平の緑のライトと並んで見えます。
もしグライドパスより高いと、ボールは緑のライトの上に見えるので、そのときは
操縦桿をすぐさま下降に動かすと、ボールも下に見えるはずです。
ボールが下に行ったらあとは簡単、そのまま降下するだけです。

「スムーズに操縦桿を動かさなければクラッシュしてしまい、
あなたはもうおしまいです!
操縦桿さえちゃんと動かせば朝飯前です!( a piece of cake!)」

「エアスピード」Airspeed

近代空母搭載の航空機は着艦の速度調整はパイロットが行うことも、
コンピュータで行うこともできます。
この時にはラインアップとミートボールに集中します。

画質が荒いのでわかりにくいですが、パイロット視線で
いまから着艦をするという設定です。

横のレンズはほぼ一列に並んで見えます。

フレネルレンズ使用によって暗い日でも着艦し易くなりました。

 

 

「トラップ」A TRAP

着艦成功のことを「トラップ」と呼びます。

航空機がデッキにタッチすると同時にパイロットはスロットルをフルパワーポジションに入れます。
もしテイルフックが4本あるロープのどれかに引っかかれば、パイロットは
すぐさまパワーを減速させ、エンジンをアイドリング状態にして自然に機体が止まるようにします。


しかし、フックを引っ掛けることができなかったときには、
先ほど説明した「ボルター」となり、パイロットはフルパワーのまま離艦します。

ただし、このボルターが行われるのは昼間だけで、夜間、嵐の日、
あるいは燃料がないなどのときには行われません。

じゃ失敗しそうな夜間や暗い日はどうやって着艦するのか、って?
ご安心ください。その時にはコンピュータが全てを終わらせてくれます。

しかし基本着艦はパイロットの操縦によって行われます。
全てをコンピュータで行わないわけはおわかりですね?

艦載機飛行隊の部隊章のいろいろ。
真ん中の虎のマークの「ATCRON」ですが、

ATTACK SQUADRON

の造語だろうと思われます。
VA65「Tiger」飛行部隊は、スカイレイダーからイントルーダー部隊となり、
1993年に解散した飛行部隊です。

トランプマークの

ブラックエイセス第41戦闘攻撃飛行隊(Strike Fighter Squadron Forty one)

はアメリカ海軍の戦闘攻撃飛行隊1948年に一旦解隊したあと1950年に再発足しました。
別のコーナーに第41飛行隊の歴史スナップがありました。

1953−1959 マクドネル F2H-4 バンシー

1959ー1962 マクドネルF3H -2 デーモン

1962-1976 マクドネル・ダグラス F-4ファントムII

1976-現在 グラマン F-14 トムキャット

はて、トムキャットっていくらなんでも現役だったっけ?
とさすがのわたしもふと気がついて調べてみたら、やっぱりF-14は
アメリカ海軍からは2006年にはもう引退していました。

スミソニアンともあろうものが、データを書き換えるのを忘れていたと見えます。

ブラックエイセスは現在F/A-18Fスーパーホーネット部隊としてアクティブです。

 

このレディルームは第14戦闘飛行大隊(VF-14)、第41戦闘飛行大隊(VF-41)
どちらも空母USS「ジョン・F・ケネディ」に配属されていた第8飛行隊
実際に使用していたものです。

緑のユニフォームを着ているのはCPO。
CPOと向かい合って立っているおじさんは本物の人間です。

パイロットたちの「着艦成績表」は常に貼り出されます。

=OK、黄色=普通、茶色=グレードなし、=やり直し

となるので、「ルーキー」「スライ」はできる子、「スラマー」はできない子です。

成績優秀者は名前が「トップ・フッカーズ」(トップひっかけ人)として貼り出されます。

「セオドア・ルーズベルト」第71飛行隊の飛行計画書。

「フォッド・ウォークダウン」は飛行甲板のゴミ拾いです(大事)

フライトクルーの記念写真。
髪型と髭率の多さから、70年代の写真かと思われ。

説明がなかったんですが、この上の赤い付きの飛行機、なんだと思います?

 

続く。

 

 

 


CVMスミソニアンの艦載機〜スカイホークと慈善家になったパイロット

2021-03-13 | 航空機

 

空母のハンガーデッキを再現し、海軍長官に正式に就役を認証された
CVM(MはmuseumのM)「スミソニアン」

こうして全体を写してみると、じつに空母です。
ニューヨークの「イントレピッド」、サンディエゴの「ミッドウェイ」の経験者には

この写真がどこかの博物館空母の中といわれても何の違和感も感じられません。

素材に本物の空母の内装をちょっとずつ持ってきて組み立てたわけですから、
本物っぽくて当然なのですが。

 

しかし、このとき、どうしてこの二階のデッキ部分に上がらなかったのか、
いまでも悔やまれて仕方がありません。
二階に上がれば、もっと本物の空母らしさを味わえたと思うのですが・・。

以前なら、また行くことがあったら次は必ず、と思えましたが、
今のこの状態では、それもいつになることやら全く予想もつきません。

まあ、このときもこれを見て十分おどろいていたんですけどね。
「本物の空母の床」です。

実際に空母(自衛隊のヘリ搭載型護衛艦含む)に乗ったことがある方なら、きっと
デッキの床に写真に見えているような膠着装置をごらんになったことがあるでしょう。



まず、この床はさすがに「どこかの空母から剥がしてきたもの」ではなく、
空母や軍艦の施工を請け負っている、

American Abrasive Metals Co.

という会社が現場に再現したもの、とあります。

会社自体は小さな規模らしく、wikiすらありませんでしたが、
社名のabrasiveというのは「研磨剤」という意味なので、
研磨することでノンスキッドの床を作る専門の企業なのでしょう。

ノンスキッド(滑り止め)デッキ表面

この床部分はアメリカ海軍の空母のハンガーデッキとフライトデッキ、
つまり航空機が収納され、そして移動するノンスキッド仕様となっています。

これは、特に雨天時に航空機や人が行き来するデッキで、
防滑性を保持する軽量の滑り止めコーティングという
アメリカ海軍の要求を満たすため、1940年に最初に開発されました。

コーティングは、エポキシ樹脂と骨材(コンクリートや
アスファルト混合物を作る際に用いられる材料のこと)でできています。

素材はデッキ表面に施され、硬化して堅いコーティングとなりますが、
同時に、研磨剤としての骨材が樹脂基盤の上に突き出るようになって、
これが滑り止めとしての機能を保持するのです。

軍艦を見学したことのある人なら必ず見たことがあるはず。
溺者救助用担架ですね。

それと、皆普通に見逃していますが、115v アウトレット、
と書かれた左上の「艦内区画」を表す部分に

GALLARY DECK」(展示室デッキ)

と軍艦の中と同じような調子で書かれています。

また、担架の横の非常用の医療器具ケースですが、
拡大してよくよく見ると、留め金がありません。
本当に中に何か入っているわけではなさそうです。

電気のコードは本物で、ここから電源を取っているようです。

■ ダグラスA4D-2N / A-4Cスカイホーク SKYHAWK

ダグラスA-4スカイホークは、どんな場面にも使える軽攻撃爆撃機であり、
長年にわたってアメリカ海軍の第一線の航空機であったといっても過言ではありません。

比較的小さな機体のサイズにもかかわらず、多様な重量級の兵器運ぶことができます。

ベトナム戦争の期間を通じて、この名機は地上目標を攻撃する際の
「異常な正確さ」で知られていました。


さて、スカイホーク出現前の1950年代の初頭、傾向として戦闘機のシステムは
より複雑になり、その結果、機体の重量が増加していく傾向にありました。

ダグラス・エアクラフトカンパニーの航空機設計グループの一部は、
この傾向に懸念を抱くようになりました。

このグループを率いていたのが、あの天才エンジニアエド・ハイネマンです。

Ed Heinemann aircraft designer c1955.jpgいかにもハイネマン的な風貌

エド・ハイネマンの設計哲学、それは一言で言うと
「簡素化と軽量化」でした。

彼は、軽量、小型、空力的な洗練を追求すれば
そこにおのずと高性能が加わるという信念を持っていたのです。

というわけで、ハイネマンが率いるチームは、総重量が公式仕様重量の、
なんと約半分である30,000ポンド(14トン)の新しい攻撃機を提案しました。

海軍はこの設計を受け入れ、初期契約を結びました。
1952年6月のことです。

■ ハイネマンの”ホットロッド”

それではハイネマンは、どうやって機体の軽量化を実現したのでしょうか。

まず一つは翼の形態です。

この「空母スミソニアン」のハンガーデッキに展示されている、たとえば
グラマンのワイルドキャットのように、一般的なそれまでの艦載機は、
艦載機用のエレベーターに乗せるため翼が畳めなくてはなりませんでしたが、
スカイホークの翼はデルタ型で畳まなくてもエレベーターに載せられます。

翼の重量だけでなく、画期的だったのは、従来の爆弾倉を省略し、
外部兵装は翼の下のパイロンに吊って運ぶという仕様でした。

これで航空機の重量そのものが劇的に軽くなり、結果的には6.7トン、
この時点で海軍の要求の半分以下の重量となったわけです。

ほんっとうに近くからしか写真が撮れないので、全体像がわかりにくいのですが、
これがスカイホークが外部兵装をパイロンに吊下した状態です。

上を飛んでいるドーントレスとの翼の違いを比べてみてください。
パイロンに吊られた爆弾の上には「フライト前に外すこと」の赤いタグがあります。

A-4スカイホークは「ハイネマンのホットロッド」と呼ばれることもありました。
この話は前にもしたことがありますが、Hot Rod というのは1930年代に生まれた
アメリカのカスタムカーの一ジャンルです。

ホットロッド一例

アメリカ男性の「少年の夢」を叶えるともいえる手作りカー、ホットロッド。
このスカイホークも、軽量で工夫が効いている手作り感満載なところが、
ホットロッドに通じる「遊び心」を感じさせたのかもしれません。

知らんけど。

 

ホットロッドことスカイホークの初飛行は、1954年6月22日のことです。
最初のエンジン、カーチスライトJ65-W-2エンジンを積んだ最初のスカイホークは
1956年10月に海軍攻撃飛行隊VA-72に引き渡されました。

テスト飛行のプログラム中、テストパイロット、ゴードン・グレイ海軍大尉は、
500kmのコースをを時速695マイル(1120キロ)で跳び、世界最高速度を記録しました。

スカイホークは、この記録を保持した最初の攻撃機となりました。

スカイホーク試験飛行のときのグレイ大尉。

テストが終わった後、グレイ大尉を囲んで和気藹々のスカイホークチーム。
ハイネマンは・・・左のメガネの人かな?

 

次に開発されたスカイホークモデルはA4D-2(A-4B)で、機内給油
(レシーバーとタンカーの両方として)、動力付き舵、
およびいくつかの機能の構造強化が試みられました。

次の、1959年に最初に飛行したA4D-2N(A-4C)は、
機首にレーダーが組み込まれ、射出座席が改良されたものです。

さらに次のモデルであるA4D-5は、8,500ポンドの推力の
プラットアンドホイットニーJ52-P-2エンジンを搭載していました。
これは画期的な変化で、エンジンの低燃費性により、航続距離が約25%向上しました。

そして訓練機用にA-4E2席バージョンが設計されました。

ちなみにその次のA-4Fは、9,300ポンドの推力のJ52-P-8Aエンジンを使用し、
ゼロゼロ射出座席(ゼロ高度およびゼロ対気速度で安全な射出が可能)
のシステムと、コックピットの後ろの胴体のこぶの下に取り付けられた
新しい電子システムを備えていました。 

 

という具合に毎回性能向上を淡々と行なってきたスカイホークですが、
最初から備わっていた優秀な機能は、外部兵装種類を選ばないことでした。

初期のA-4は、爆弾、ミサイル、燃料タンク、ロケット、
そしてガンポッドを3つのステーションで合計で約5,000ポンド運ぶことができ、
その後のモデルでは、5つのステーションで8,200ポンドを搭載できました。

標準兵装は、2門の20mm機関銃です。

 

A-4は海軍と海兵隊によって広く使用され、東南アジアでの主要な戦闘に参加しました。
(おもにベトナム戦争ということですね)
海外ではアルゼンチン、オーストラリア、イスラエルなどでも使用されています。

スカイホークが使用されていたのは2003年までといいますから、
アメリカではF-4よりも長生きだったということになりますね。

ここで、機体のペイントにご注目ください。

展示してあるスミソニアン国立航空宇宙博物館のA-4Cスカイホークは、
1975年7月に海軍から譲渡されたものですが、移管の直前まで
USS「ボノム・リシャール」VA-76(海軍攻撃飛行隊)に割り当てられており、
それに敬意を表して、同じマーキングが施されています。


そういえば、サンフランシスコの「ホーネット」の見学の時、
案内してくれたボランティアのヴェテランが、元パイロットで、
ベトナム戦争時代に現役だったのですが
(現役の時はさぞかし、と思うくらいイケメンの爺ちゃんだった)
彼の着ていたボマージャケットに「ボノム・リシャール」のワッペンがあったので、
案内が終わってから、

「ボノム・リシャールに乗ってたんですか?」

と聞いたら、ちょっと、というかかなり驚いた顔をされたことを思い出しました。
(大抵のアメリカ人は『ボンホーム・リチャード』と発音するからだと思う)

このヴェテランも、確かスカイホークに乗っていたと言っていたような気が
(違っていたらすまん)するのですが、もしかしたらもしかして、
その人の乗ったことのある機体だったりしないかな。

ここに展示されているスカイホークが、「ボノム・リシャール」勤務時代、
1967年のベトナム沿岸で出撃するところです。

■ 慈善家となったワイルドキャットのパイロット

このハンガーデッキで紹介されていた一人のパイロットがいます。

ロバート・ウィリアム”ビル”・ダニエルズ(1920−2000)

アメリカ人パイロットであり、ケーブルテレビの創始者であり、
そして傑出した慈善家でもありました。

輸送パイロットとして彼はキャリアをスタートさせました。
写真はF8Fベアキャット戦闘機を輸送する任務のときのダニエルズです。

第二次世界大戦時、彼はグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機のパイロットとして
1942年には連合国の北アフリカ進攻作戦に参加、そして翌年には
ソロモン諸島での戦闘に加わりました。

そこで当展示室のワイルドキャットがすかさず登場。

 

空母「サンガモン」乗組の第26戦闘機隊の一員として
護衛任務にも就いたことがありました。

左の赤いリボンのものはブロンズスターメダル

これは、1944年11月25日、USS「イントレピッド」に、2機の
日本軍機が特攻を行った後、海面の乗員を救出したことに対する受賞です。

右の青いリボンはエア・メダル。
第二次世界大戦中
航空任務を遂行した勇気をたたえる意味で授けられました。

彼が第二次世界大戦中着用していたゴーグルとヘルメットです。

 

戦後、1953年にダニエルズは彼の最初のケーブルテレビ事業を起こし、
その後は
全米の100箇所以上の現場に自ら出向いて指揮を執りました。

戦前は無敗のゴールデングローブ・ボクシングチャンピオンであり、
スポーツ番組に焦点を当てた最初のケーブルテレビ起業家でもありました。

Bill Williams, University of Idaho boxer | Donald R. Theophilus Boxing  Photograph Collection

また全米バスケットボール協会の会長を務め、
ロスアンジェルス・レーカーズなどのチームを持っていました。

そして数え切れないほどの慈善寄付をした無私の人道主義者として知られています。
死後、彼の全財産は「ダニエルズ基金」として地域で最大の慈善財団になりました。

 

 

続く。

 


ウェーク島に戻ったワイルドキャットのカウル〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-11 | 航空機

博物館の一部に空母を再現した空母「スミソニアン」のハンガーデッキに
並べられた艦載機の紹介、続きと参ります。

まず冒頭写真は皆様ご存知の「ワイルドキャット」ですが、
その前に、一緒に写り込んでいる家族、特にお父さんの佇まいに
「いい意味でアメリカ人らしくない」オーセンティックさを感じますね。

 (8月のアメリカでTシャツ短パンビーサンプラス野球帽という
アメリカン・スターターセットを着用していない男性も珍しいという意味です)

息子二人の格好もその辺のガキじゃなくてキッズとは少し違うし、
どういう職業の人なんだろうなーと興味深く思いました。イギリス人かな。

 

さて、彼らが前に立っているのが、空母「スミソニアン」艦載機の

イースタン・ディヴィジョンEastern Division FM-1
(グラマンF4F-4)ワイルドキャットWildcat

です。
自慢ではありませんが、自称かなりの機体音痴であるわたしですら、
グラマンの「猫」であることがわかってしまうこの独特のシルエット。

このいかにも鈍重そうなずんぐりしたシルエットが表すように、
ルロイ・グラマンのF4Fワイルドキャットは、第二次世界大戦中の戦闘機で
最速というわけではありませんでしたし、もとより最新でもありませんでした。

しかし真珠湾攻撃が起こった時、ワイルドキャットのパイロットたちは
雄々しく立ち上がり(スミソニアンの説明ですので念のため)、ともに手を携えて
当時無敵であった帝国日本空軍
(スミソニアンの説明ですので念のため)
を阻止したのです。

 

さて、太平洋で戦争が勃発した頃、グラマンF4Fワイルドキャットは、
アメリカ海軍と海兵隊が運用する主要な戦闘機となっていました。

1942年までに、アメリカ海軍戦闘機のすべてががF4Fとなっていて、
ワイルドキャットのパイロットは、他のどの敵機よりも頻繁に

三菱A6M 零式艦上戦闘機 ZERO

を操縦する日本のパイロットと対峙することになりました。

スペック的に優れた零戦は、まともに対決するとF4Fを打ち負かすことができましたが、
ワイルドキャットの重火器と頑丈な構造は、熟練したパイロットによって
能力以上の結果を出すことができ、結局零戦に対し有利となったのです。


■ F4F ワイルドキャット誕生までの経緯

1930年代半ばまでに、世界のすべての主要なエアアームの複葉機が
高速で馬力のある単葉機に次々と置き換えられていきました。

グラマンのチーフデザイナーであるウィリアムT.シュウェンドラーが率いるチームは、
最初のグラマン単葉戦闘機XF4F-2を開発しました。

しかしグラマンの開発試験期間があまりに長期に渡ったので、
待ちきれなかった海軍は、
1936年に、アイミツではありませんが、ブリュースター(ブルースターとも)
エアロノーティカルと試作競争させ、こちらを採用することにしました。

つまり、アメリカ初の単葉戦闘機は、

F2Aバッファロー

ということになります。

ジョセフ・C・クリフトン少佐の搭乗するF2A-3 (1942年8月2日撮影)ど〜〜〜ん

こちらも猫に負けず劣らず不細工ですが、これがとにかく
アメリカ初の引き込み脚式の艦上戦闘機となったわけでございます。

バッファローは高い評価を得、ブリュースターはこれを張り切って生産し始めたのですが、
好事魔多し、画期的な全金属式の機体は、自社生産の経験がない同社には
生産ラインの構築と工員の養成に予想外に時間を取られることになり、
海軍が受注した数百機という生産をこなすには工場規模も小さすぎたのです。

半年で5機納入、というあまりにも悠長な進捗ぶりに海軍はキレて

「やっぱりグラマンに頼むわ#」

と掌返しをしたのです。

海軍は一旦切ったグラマンにグラマンF3Fの改良型を注文しました。

飛行するF3F-1 0232号機 (空母レンジャー艦載、 VF-4戦闘飛行隊所属、1939年撮影)ど〜〜〜〜〜ん
F3F

前にもご紹介した「フライングバレル」、空飛ぶ樽ですね。
この複葉戦闘機を作り替えて単葉にしてくれない?と海軍は頼んだわけです。

 

グラマンはXF4Fを作り直し、大幅に改良されたモデルを考案しました。
バッファローを凌ぐ性能を持つ戦闘機、それがF4Fワイルドキャットでした。

そして海軍はグラマンの設計を受け入れ、F4F戦闘機の契約を行いました。

 

何千機と大量に生産されたワイルドキャットは、米海軍と海兵隊、
そして当時軍用機を切実に必要としていたフランス空軍に配備されました。

のちにフランスが降伏したとき、イギリスがその生産契約を引き受けました。
F4Fはフランスではマートレット」と名付けられ、艦載機として使用されました。

File:Grumman F4F Martlet Wildcat Duxford 2008.JPG - Wikimedia Commonsマートレット

マートレットが初撃墜の記録を挙げたのは、1940年のクリスマスです。

当ブログ的にはすでにおなじみの名前、スコットランドのスキャパフロー上空で
マートレットはユンカースJu 88双発爆撃機を撃墜し、機体は英海軍基地に墜落しました。

これは第二次世界大戦でドイツ機を撃墜した最初の米国の航空機になりました。

 

■ ワイルドキャットのデビュー

1941年12月、太平洋。

アメリカ軍のワイルドキャットパイロットは、
ウェーク島防衛戦において敵と遭遇することになりました。

戦闘初日となった12月8日、海兵隊航空部隊はVMF-211は、空戦の末
12機のF4F-3ワイルドキャットのうち8機を失いました。

残りの4機は2週間もの間昼夜を問わず出撃を繰り返し、英雄的に戦い、
その結果、巡洋艦と潜水艦を100ポンドの爆弾で沈めるという戦果を上げましたが、
12月22日に最後のワイルドキャット2機は撃墜されました。

太平洋戦線において、ワイルドキャットの損失の割合は
この最初のウェーク島でのそれと同様ではありましたが、
このタフな戦闘機を操縦するパイロットたちは、1機が失われるたびに
平均7機の敵機を破壊することに成功しています。

F4Fは燃料タンクに漏れ防止機能を搭載している上、防弾ガラス仕様、
そして操縦席後部の防弾鋼板を装備していました。

その機体がどれだけ丈夫であったかは、Wikiに載っている
以下のエピソードにも表れています。

1942年8月7日、ガダルカナルにおいてジェームズ・サザーランドのF4Fは
日本軍機を1機撃墜後に一式陸攻からの攻撃で被弾。

さらに3機の零戦(柿本円次、羽藤一志、山崎市郎平)に攻撃され、
機銃が故障するも機体は墜落しなかった。

その後、坂井三郎も加勢に来たが、火災発生により脱出、生還して
パイロットとして復帰した後、4機撃墜してエース・パイロットとなった。

坂井三郎氏によると、零戦の7.7ミリ銃では頑丈な同機にほとんど効果がないため、
20ミリ(重さで弾道が下を向いてしまう)を当てるために近づいたが、結局
近づきすぎてオーバーシュートしてしまい、とどめを刺すことができなかったそうです。

 

1943年までに、グラマンは新しい海軍戦闘機、

飛行する米海軍のF6F-3 (第36戦闘飛行隊所属、1943年撮影)

F6Fヘルキャット

を導入する準備ができていましたが、海軍は依然としてF4Fを必要としていました。
小型で適度な重量があるため、護衛空母で運用するのに適していたのです。

世代交代が急がれ、ヘルキャットの生産スペースを確保するため、
グラマンはワイルドキャットの製造ツールと機器を、まるごと
ゼネラルモーターズの東部航空機部門に移管しました。

そこでGMは、FM-1FM-22つのバージョンを作成しています。

■ スミソニアンのワイルドキャット

国立航空宇宙博物館のワイルドキャットは、ニュージャージーで生産され、
1943年7月からオクラホマ州にあるノーマン海軍航空基地で運用されました。
ただし、1943年というのは世代交代が進められていた時期なので、
実際に勤務に就いていたのはたった13か月の間です。

1974年、グラマン航空宇宙公社は、1976年にオープンする予定の
新しい国立航空宇宙博物館にワイルドキャットを展示することに同意し、
すでに退社していた当時のグラマンのスタッフと現在のメンバーが取り組みました。

彼らの多くは実際に戦争を体験していました。

1975年の初めに、ワイルドキャットは新品とみまごうばかりになり、
しかもほぼ飛行可能な状態であったということです。

スタッフは戦争初期に使用された米海軍の青灰色のカモフラージュを
そのまま復元するために、新しい塗料を開発しました。

マーキングは、1943年半ばに太平洋戦線に出撃した

USS Breton (CVE-23) underway 1943.jpeg

護衛空母USS「ブレトン」
USS Breton, AVG/ACV/CVE-23)

で運用された航空部隊FM-1の航空機番号E-10として塗装が行われました。

ところで、どうしてこの展示機にカウルリングがないのか、
ちょっと疑問に思われた方はおられませんでしょうか。

カウル「Cowl」とは、航空機の走行風を整流するために
エンジンなどをカバーする部分のことで、「カウリング Cowling」とか
「フェアリングFairing」などともいいます。

日本ではカウリングと呼ぶことが多いような気がします。

とくにレシプロエンジン搭載の飛行機でエンジンを覆うカバーが
エンジンカウル( engine cowl)です。

 

まだ複葉機が主流であった時代、飛行機の速度が低かったころには
エンジン本体は剥き出しになっていたものですが、第一次世界大戦後の
1920 - 30年代から空気抵抗(抗力)を低減する方策の1つとして
エンジンを覆った方がいいのではないかという流れになってきました。

同時に複葉機の時代は終わり、主翼が単葉にかわっていくにつれ、
空気抵抗が重視されるようになり、機体全体がより流線型に近づいていきます。
膠着装置を引き込み式に変えたのも、操縦席に風防(ウィンド・シールド)をつけたのも、
すべてこの目的のためでした。

ワイルドキャットに装備されていたカウルは

NACAカウル

というものです。
NACAカウルは国家航空宇宙諮問委員会 (NACA) によって1927年に開発され、
星型エンジンを搭載した航空機において使用されたカウルの一種です。

空気抵抗が低減するとその結果燃費が向上するわけですが、カウルだけでも
その効果は大きく、つまり費用対効果としても大きな利益があったというわけです。

もう一つのカウルのもたらす恩恵は冷却機能でした。
星型エンジンにはシリンダーが固定されていたので熱を持つわけですが、
NACAカウルを装着することによって冷気がシリンダーやさらに重要な
シリンダーヘッドを通るように冷気をエンジンに導くことができるとわかり、
1932年以降のほぼすべての星型エンジン搭載機に装着されていたのです。

 

 

さて、博物館取得時にワイルドキャットのエンジンの前部を覆っていた
ノーズカウルリングは、保管中、外したまま別のところに移してしまったせいか、
いつの間にか紛失してしまっていました。

空母コーナーが新設され、あらたにワイルドキャットを展示することが決まったので、
NASMの職員はあらたに展示を行うために代わりのカウルリングを探していたところ、
なんと偶然にも、バージニア州にある海兵隊博物館の「ウェーク島メモリアル」
ウェーク島で発見された撃墜されたワイルドキャットのノーズカ​​ウルリングだけ
展示されているということがわかりました。

この写真はウェーク島メモリアルに展示されていた単体のカウルです。

ちょうどカウルリングが見つかったので、博物館側は交渉し、
なくしたカウリングにこれをつけることに一旦決定したのです。

しかしそれを受け取ったグラマンのスタッフは一眼見て絶句しました。
リングカウルにはまだ日本軍の攻撃で生じた銃痕が生々しく残っていたのです。

一旦展示機にカウリングを付ける、というところまではいったようです。

本来ならば、新品と見まごうばかりにレストアされた機体に付けるのですから、
カウリングもそれに合わせて修復するのが筋というものですが、
やはり修復スタッフにはどうしてもその銃痕を補修することができず
当初は綺麗な機体に銃弾の残るカウリングをとりつけたと思われます。

 

しかし、どういう経過を経たかは全くわかりませんが、結論として
そのカウリングを取り付ける案は中止になり、本体から外して
ウェーク島の海兵隊博物館に送り返されることになりました。

傷痕はそのままこの島で戦って死んだ海兵隊員の記憶を語り継ぐものである

ということが、実物を目の当たりにした関係者一同の胸に改めて迫り、
このカウルリングは遠く離れたワシントンにあるよりも、海兵隊員の魂が眠る
ウェーク島にあるべきだということになったのかもしれません。

 

カウルリングの返還後、グラマンとスミソニアン博物館のスタッフはその後の充填を諦めました。
そしてカウルのない剥き出しのノーズのワイルドキャットを誇らしげに展示しています。


CVMスミソニアンの「艦載機」 F-4B-4とドーントレス〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-09 | 航空機

スミソニアン博物館の「空母ハンガーデッキ」再現コーナー、
今日はCV"M"スミソニアンの艦載機をご紹介します。

空母に乗艦するとき例外なく皆が最初に足を踏み入れるのはハンガーデッキです。
その例に倣い、「スミソニアン」でも乗艦して最初に現れるのは艦載機の格納された
紛れもないハンガーデッキそのもの。

この独特のブルーをみただけで機種がお分かりの方もいそうですね。

ただし、次元を超えていろんな世代の艦載機が同居しています。
デッキに収まらないので空を飛んじゃってる飛行機も(笑)

言い訳をするつもりではないですが、とにかく狭いところに並んでいるので
飛行機の全体像まで画角に収まりませんでした。

 

ボーイング F-4B-4

1930年代初頭に米海軍と米陸軍航空隊の主要戦闘機として採用され、
1940年代初頭まで運用されていました。

ボーイングが製造し、米軍が使用した最後の木製翼の複葉戦闘機です。

この製造によってボーイングは航空機メーカーとして地位を確立し、
大恐慌下にもかかわらず会社を維持できたといわれています。

最高速度は298kph(186 mph)4基の56.2 kg爆弾を運ぶことができました。

海軍での成功をみた陸軍はキャリアフックなしの10機を注文しました。
この陸軍バージョンで中央アメリカにテスト飛行したのが、あのアイラ・イーカーです。

当バージョンはF4Bシリーズの4番目であり、海兵隊に割り当てられました。
従来より重量が大きくなり、出力が増加したにもかかわらず、
以前のバージョンの優れた飛行特性を維持することができました。

海外に輸出されたうち3機は中国に売却されましたが、
日本軍と交戦して撃墜されたということです。

NASMコレクションのこの飛行機は海兵隊のために作られた21機のF4B-4の1つで、
海軍のとは違いテールフックはありません。

完璧にお腹を見せてくれる展示もあり。
この部分は本物の空母のように上階から下を見ることもできます。

ダグラス SBD-6 ドーントレス

実は戦争が始まる前に時代遅れと見なされ、交換が予定されていましたが、
結果として大戦中最も重要な役割を果たしたと言ってもいいかもしれません。

乗組員によって付けられたニックネームは

Slow But Deadly(鈍重だが致命的)

その名の通り、ドーントレスは戦争中を通じ潜水艦から戦艦に至るまで、
少なくとも18隻の軍艦を含む、30万トン以上の敵艦を沈めています。

「急降下爆撃」という言葉がまだ海軍に存在していない頃から、
そう、最初の空母「ラングレー」の就役以降、海軍搭乗員は
海上で使用されるべき飛行機の適正な大きさと正確に当弾する能力を必要とし、
その答えがつまり急降下爆撃だったのです。

 

ダグラスはエドハイネマンとノースロップの従業員ごとプロジェクトを引き抜き、
さらにマイナーな変更を加えた後、海軍にSBDを引き渡しました。

SBDは他のダグラス航空機と同様に頭文字『D』で始まる、
ドーントレスという名前をつけられました。

■ 真珠湾攻撃から珊瑚海海戦まで

ドーントレスの最初の2つのモデルは、1941年12月7日の真珠湾攻撃によって
太平洋での最初の戦闘を経験することになりました。

第11海兵航空群(MAG)のSBDはすべて地上で損傷または破壊されました。

また、ウェーク島から帰還していた「エンタープライズ」から発進した
18機の海軍SBD-2が、日本軍の攻撃中到着し、そのうち7機が撃墜され、
日本機を2機撃墜したと主張しています。

3日後、VS-6のディキンソン中尉は帝国海軍の潜水艦伊-70を撃沈し、
これによってSBDは大戦開始後最初の日本軍艦を破壊したと認定されました。

特筆すべきはこの機種の改装が常に乗員の命を守る防御に特化していたことです。
セルフシールの翼タンク、乗組員の鎧、および装甲のフロントガラスなど。

1942年5月、日本軍のオーストラリアへの進攻を阻止すべく、珊瑚海の戦いで
ニミッツ提督が「ヨークタウン」と「レキシントン」を送りました。

これは、対峙する艦艇がお互いに見えない世界初の空母決闘となりました。

ドーントレスが日本の小型空母「祥鳳」を沈没させ、日本軍は
より大きな空母「レキシントン」を沈めたという事実にもかかわらず、
結果的に日本軍の南への進攻を止めたことはアメリカの戦略的な勝利でした。

 

■ ミッドウェー海戦

南下に失敗した日本軍はミッドウェー島の米軍基地を攻撃することを決定しました。

計画は、まずハワイ諸島を脅かす可能性のある基地を獲得し、
米空母をおびき寄せて主要な艦隊の交戦で破壊することでした。

アメリカ海軍は日本軍の暗号を解読し、攻撃を事前に察知していました。
加えて日本軍は珊瑚海で損壊した(日本では沈んだと信じられていた)
「ヨークタウン」がすでに修理され、ミッドウェーで「エンタープライズ」と
「ホーネット」とともに機動部隊に加わることができたのも気づいていませんでした。

この米海軍の3隻の空母は112隻のドーントレスを搭載していました。
ほとんどが最新モデルでしたが、SBD-1と-2もいくつかあったと言います。

日本軍は4隻の空母というはるかに大規模の艦隊を持っていましたが、
空軍力の重要な領域だけでいうと両陣営の兵力は均衡していたということができます。

アメリカは6月3日までに空母の出撃準備が整い、敵軍の輸送機関を発見しました。
翌日、日本人はミッドウェー島の攻略のため、戦闘を開始します。

その間、PBYカタリナは日本艦隊を発見し、米海軍の空母は航空機を発進させました。

航空機によって速度が異なるため、発進の時刻は時差を持たせて、
これもダグラスのDであるディバステイターTBD雷撃機が最初に攻撃しました。

すでに陳腐化していた遅いディバステイターは日本の戦闘機にとって簡単な標的であり、
全く的にダメージを与えることなくすぐに壊滅しました。

続いて発進したSBD戦隊は敵空母を見つけるのに苦労しました。
「ホーネット」のSBDはそれを見つけることができませんでした。

「エンタープライズ」戦闘機隊の司令官であるウェイド・マクラスキー中尉は、
上空で待ち合わせしたのが仇となって戦闘機隊や艦攻部隊と全く別の方向にいってしまいます。

つまり戦闘機の護衛なしで進撃することになってしまい、1機が不時着水、
燃料切れのタイムリミットと戦っているとき、駆逐艦「嵐」を発見し、
その進路上を索敵したところ、「赤城」「加賀」「蒼龍」を発見。

マクラスキーのグループが攻撃すると同時に、「ヨークタウン」からVB-3が到着し、
このダブル攻撃は3〜4分で3隻の日本の空母に39発の爆弾を降らせ、
11回の直撃で「赤城」「加賀」「蒼龍」に致命傷を負わせました。

そして4番目の空母である「飛龍」も後にドーントレスによって沈められました。

この戦いで日本は4隻の空母と経験豊富な飛行士の多くを失い、
アメリカは引き換えに6個の海軍部隊、1個の海兵隊部隊から
35機のドーントレスを失いました。

このとき日本軍の進撃を止めたのはSBDだったのであり、
同時に米国に太平洋での戦いを対等な立場に押し上げたのです。


■ 太平洋戦線におけるドーントレスの活躍

ドーントレスはまた、その後の最初の主要なアメリカの攻撃、
ガダルカナルの戦いで重要な役割を果たしました。

島を根拠地としていた海兵隊のSBDは「東京エクスプレス」といわれた日本の船を攻撃し、
キャリアベースのSBDも、ソロモン東部の戦線に参加し、別の日本の空母を沈めました。

■ 大西洋におけるドーントレス

SBDの活躍はほとんどの場合、太平洋の戦線にのみ顕著で、
大西洋では投入されなかったわけではありませんが、あまり機能していません。

1942年11月、ドーントレスは北アフリカへの侵攻である
トーチ作戦を支援するために空母「レンジャー」護衛空母「サンガモン」
そして「サンティー」から飛び立ちました。

太平洋の海軍による行動とは対照的に、ここでのSBDの攻撃は、
連合国の着陸を支援するための地上攻撃が主な任務だったのですが、
今回、彼らは連合軍を攻撃するために出発した7隻の
ヴィシー-フランス軍の巡洋艦を攻撃することがミッションでした。

11月10日、「レンジャー」から発進した9機のSBDが、
係留された状態で砲撃を行っていた戦艦「ジャンバール」を沈めました。

その3日前には日本の戦艦「比叡」を太平洋で撃沈させており、
ドーントレスは1週間以内に2隻の敵戦艦を沈めたことになります。

「サンティー」のSBDも大西洋で対潜水艦パトロールを実施しましたが、
この任務にはTBMアベンジャーの方が適していると見なされていたようです。

海兵隊のドーントレスは、1944年半ばまでバージン諸島で
パトロールと偵察の役割を果たしました。

大西洋でのドーントレスの最後の攻撃任務は、ノルウェーにおける
リーダー作戦と呼ばれる敵艦船への攻撃でした。

空母「レンジャー」のSBDは、ボーデ港において数隻の船を攻撃し、
2隻撃沈、2隻を破壊させ、さらに2隻を損傷させたという記録があります。

■ 「長生き」だったドーントレス

ダグラスは、パフォーマンス向上のため戦争中ずっとドーントレスを改造し続けました。

1942年に導入されたSBD-4は最高速度245 mphで最も遅いバージョンとなりました。
1943年の初め、より大きなエンジンを搭載したSBD-5が戦隊に就役し始めました。
爆撃の精度を向上させるために、照準器を改良し、フロントガラスの曇りを防ぎ、
レーダー装備もこのモデルでより一般的になります。
しかし、機器を追加しすぎて重量が増え、せっかく増加した馬力は大幅に相殺されました。

 

1943年6月までに、米海軍は4隻の新しい大型の「エセックス」級CV空母を保有していました。
新しい空母には急降下爆撃機「ヘルダイバー」が搭載される予定でしたが、
間に合わず、したがって、ドーントレスが継続して載せられることになりました。

しかし、空母が新しくなることで艦載機の役割は変わりました。

新しいCVは100機の航空機を搭載することができました。
旧型の空母の80機と比べるとかなりの増大ですが、
新しい空母で斥候・偵察戦隊は排除されました。

斥候偵察の任務は航続性の高いヘルキャットアベンジャーズに引き継がれたので、
それ以降、ドーントレスはほぼ攻撃機専門になりました。

ヘルダイバーに置き換えられるまでの繋ぎと言いながら、年末まで
一向に就役しないので、結果としてSBDは1943年を通して飛行を続けました。

そもそもほとんどの海軍パイロットは、ヘルダイバーがドーントレスよりも
大幅に改善されているとは考えていなかったようです。

海軍パイロットがSBDのより応答性の高い操縦性能を好んだわけは、
軽負荷時に飛行機を簡単に飛ばすことができたからです。

それに加え、ダグラスの航空機はカーチス製よりもメンテが簡単で
かかる時間もかなり短くて済んだということもありました。

 

というわけで、ヘルダイバーが導入されたあとも、ドーントレスは
1944年7月のグアム攻撃まで海軍での任務を続けました。

さらに海兵隊はフィリピンのでそれらを使い続けました。

第二次世界大戦の終わりまでに、ほとんどのドーントレスは
訓練機と雑用の役割に追いやられていたのですが、いくつかの海兵隊のSBDは、
終戦までソロモンの敵駐屯地を無力化する作業を続けていました。

 

ドーントレスは陸軍でも使用されていました。

ヨーロッパでの戦線の初期、ドイツの急降下爆撃機が成功したことで、
一部の陸軍指導者は米国版の急降下爆撃機必要性を確信しました。

しかし、このタイプの航空機の経験は限られており、
新しい設計を開発する時間がないため、米国陸軍空軍(USAAF)は
海軍のSBDを注文し、A-24バンシーという名前で使用していました。

陸軍仕様なのでテールフックを持たず、大きな空気圧後輪を持っていました。
にもかかわらず、急降下爆撃のアイデアそのものがそもそもUSAAFで
広く支持されていなかったため、バンシーはあまり活躍していません。

 

アメリカ以外ではニュージーランド(ソロモン)と自由フランス(ヨーロッパ)が
SBDを採用していました。
フランスは戦後も使い続け、1949年、インドシナにおいて
共産主義テロリストに対する攻撃のためにSBDを使用していました。

メキシコは、第二次世界大戦中にメキシコ湾でのパトロール任務のために
アメリカ陸軍からもらい受けたバンシーを、1959年まで国境警備隊で使っていました。

■ スミソニアンのドーントレス

 

これが当博物館展示のドーントレスのかつての勇姿です。
パイロットがちゃんと?カメラ目線ですね。

そういえば、零戦搭乗員だった坂井三郎氏がガダルカナルからの帰還途中、
攻撃されたのはこのドーントレスの後部銃だった記憶があります。

これは展示機ではありません。
ウェーク島への爆撃任務に向かうドーントレスです。

 

NASMのドーントレスは、6番目に製造されたSBD-6モデルです。
1944年に製造され、メリーランド州パタクセントリバー海軍航空基地に置かれて
戦術テスト、飛行試験に使用されていました。

これはおそらく、米海軍が実際に使っていた最後のSBDだといわれています。

 

続く。

 


戦略爆撃と悲劇のソッピース・スナイプ 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

2020-11-14 | 航空機

航空博物館でもあるスミソニアン博物館では、航空の発達を語るにかかせない
戦争と科学技術の発達について、歴史を中立に俯瞰する立場をとっています。

アメリカの国立博物館ではありますが、地方の航空博物館にありがちな
「アメリカ万歳」といったナショナリズムの立場はかなり抑えられており、
こういう立ち位置がつまり「エノラ・ゲイ」事件で退役軍人たちの反感を買ったのか、
とわたしはちょっと考えてしまったのですが、航空の歴史が幕を開けて
ほとんど同時に始まった戦略爆撃についての説明も、なんとこんな人物の、
ある意味、悔恨、懺悔とも取れる言葉を引用して始まっていました。

 

■戦略爆撃 戦争の新しいかたち

「これ(原子爆弾)は決定的なものだ・・・
おそらく、ゲルニカで始まったかもしれないステップの最終段階であり、
ロンドンへのブリッツ、ハンブルクへのイギリスの爆撃、
東京に対するわたしたちの爆撃、そして広島に至った

これは、マンハッタン・プロジェクトの責任者であり、原爆の父ともいわれる
核物理学者、ジュリアス・ロバート・オッペンハイマーの言葉です。

しかし、この見解にあえて意を唱えさせていただくならば、歴史的に見て
核時代への道はゲルニカと呼ばれるスペイン内戦
の都市爆撃からではなく、
第一次世界大戦中に歴史上初めて
都市が爆撃されたときに始まっていたということができるのです。

 

戦略爆撃、つまり航空機を使用して敵の都市、産業、民間人を攻撃する戦術は、
それが戦略によって持続的に実行される前でさえ、
すでに予見されていました。

そのため、戦争がまだ始まっていない時期、ドイツの飛行船が飛来可能とされていた
ロンドンやパリなどの都市では、空襲に対する恐怖心が民衆の間に自然に広まり、
時としてそれは集団ヒステリック状態を引き起こすまでに至りました。

アメリカでも、以前当ブログで扱った映画の「1941」で語られた
「ロスアンゼルスの戦い」
(戦っていたつもりだったのはロスアンゼルスの人々だけですが)
ではありませんが、
ツェッペリン号による攻撃の恐怖は民衆に遍く行き渡り、
おかげで
ニューヨークを飛行するドイツの飛行船を目撃した!
という誤った情報が当時何度も報告されたりしたそうです。

 

確かに戦争が始まった当初こそ、道徳的、政治的、および技術的な要因により
民間人への攻撃は制限されていましたが、終わらない戦争への絶望と敵への復讐心が、
結局、大部分の戦争勢力を駆り立て、結果的にそれは現実となっていくのです。

たとえばイギリスでは、ドイツ軍による爆撃のあと、市民が政治家たちを動かして
ロンドンにおける地上防衛を改善し、独立した空軍を創設する動機を与えました。

■ ツェッペリン号の不発弾 ロンドン1915年

ツェッペリンの不発爆弾(手前)

開戦当初ツェッペリンが運んだ爆弾は、実戦経験を踏まえず設計されたため、
空気力学的にいっても正確な爆撃を行うことは不可能でした。

「ボウリング・ボール」と呼ばれたこの爆弾は、建物の破壊を目的としており、
投下後焼夷弾によって点火するという仕組みでしたが、かなり不確実なものでした。

その後完成した

P.u.W.爆弾

ドイツの
Prüfanstalt und Werft der Fliegertruppen
プルーファンシュタット・ウント・ヴェルフト・フリーガートルッペン
(テストセクションと航空サービスワークショップ)

によって開発され、「ボウリングボール」型爆弾とは対照的に、
空力的に効率的な設計が加えられ精度も上がりました。
(なぜかフリー素材の写真がないので、検索結果をご覧ください)

しかしその後(1917年9月以降)作戦が夜間爆撃に移行すると、
そもそも闇の中で標的が見えない中、精度などなんの意味もなくなりました。

 

ちなみにこのボーリング型不発弾が落とされた1915年5月31日は
ツェッペリンが行った初のロンドン空襲となりました。

死者7名、負傷者35名を出し、損害金額は18,596ポンド相当とされます。

その後ロンドンのほか、ロンドン近郊のハリッジ(Harwich)、ラムズゲート、
サウスエンド(2回)と計5回の空襲任務で合計8,360kgの爆弾が投下されました。

その後ロンドン攻撃を行ったツェッペリンは、ブリュッセル爆撃の際
ロイヤルエアフォース爆撃機の落とした爆弾によって格納庫ごと
破壊されています。

この時の爆撃機パイロットは、爆撃した格納庫に
「にっくきロンドンの敵」がいたことを知っていたでしょうか。

 

■ カイザーシュラハト(ルーデンドルフ総力戦)

当ブログでは、スミソニアン博物館の第一次世界大戦航空ギャラリーシリーズで、
大戦初期で最も大規模で凄惨な戦いになったヴェルダン攻防戦について
「血塗られた」という形容詞をつけてお話ししましたが、
スミソニアンでは、大戦後期で最も規模の大きな戦闘となったところの

「ソンムの戦い」

についても触れています。

照明で光ってしまって肝心のところがよく見えませんが、
手前の兵士は撃たれて今まさに斃れるところ、彼の右側にはすでに
撃たれて倒れているらしいドイツ軍兵士の体が写っています。

それにしてもいつも思うのですが、これらの残された写真は、
誰かがその場にいて撮影したものなんですよね。
これを撮った人はその後生きて帰れたのでしょうか。

彼らはドイツ軍の兵士で、現在連合軍の前線を突破しつつあるところ、つまり
1918年、「春の大攻勢」といわれるソンムでの一コマです。

ドイツの対アメリカ航空計画はその生産目標を当初達成しませんでしたが、
「春の大攻勢」が始まるまでに、航空機を大量に備蓄していました。

 

連合国軍の助っ人としてアメリカ遠征軍がヨーロッパ戦線に到着する前に
これを迎え撃つべく、ドイツは、西部戦線への主要な攻撃である
カイザーシュラハト(皇帝の戦い)
における航空力の強化を計画していました。

カイザーシュラハトは、連合軍からは「ルーデンドルフ総力戦」と呼ばれました。

Erich Ludendorff.jpgルーデンドルフ

作戦名は作戦立案をした参謀次長、エーリヒ・ルーデンドルフの名前からきています。

ルーデンドルフは戦後「総力戦」というタイトルでこの攻撃について
本を著したくらいなので、おそらく会心の作戦だったのかもしれません。

きっと、

「ドイツは負けたが、私の作戦は成功した」

とか最後まで思ってたんだろうな。

 

カイザーシュラハトは1918年3月21日に始まりました。

ドイツはそれまで攻められなかった敵の防衛ラインを突破することを目標に、
航空戦と地上戦を同時に仕掛けたのです。

折しも現地に霧が立ち込めるという条件に恵まれ、陸上部隊を航空部隊が支援、
ガス弾を含む準備射撃と例の
シュトゥーストルッペン特殊部隊による浸透戦術、
これらが相まって、ドイツ軍の初動は成功し、大反撃が開始されました。

そしてドイツ軍がパリまであと90キロ、というところに迫ったため、フランス軍総司令官、
ペタン将軍は最悪の事態を覚悟し、ついにアメリカ軍の出動を要請します。

アメリカは要請を受け入れ、6月1日、海兵旅団を含む第二師団を投入、
ドイツ 第7軍の進撃を阻止することに成功。

米国海兵隊は神話の1ページを飾りました。

アメリカ参戦までになんとか勝敗を決したいというルーデンドルフの野望は潰え、
その後の第二次マルヌ会戦でカイザーシュラハトも終了しました。

しかし、カイザーシュラハトでドイツは当初圧勝というくらい巻き返したのは確かです。
ルーデンドルフの作戦は完璧でしたし、彼が戦後「負けなかった」といったとしても
それはあながち嘘ではありませんでした。

ただ、ドイツはすでに対アメリカ計画の最後の戦力を使い果たしており、

一時の戦略的成功によって全体の戦況を覆すには至りませんでした。

 

■ ソッピース「スナイプ」

ソッピース 7F1 スナイプ Sopwith Snipe

一般的に「ソッピース」とくれば、ほとんどの人は上の句に対する下の句の如く
「キャメル」という言葉が出てくるでしょうし、ソッピース社にキャメルの後継としての
「スナイプ」という飛行機があったこともご存じないのではないかと思います。

そしてその一般的な認識は、そのまま現場のパイロットの声を反映した評価でもありました。

ここからは、名機キャメルの影で全く評価されなかった(という意味で悲劇の)戦闘機、
ソッピーススナイプについてお話ししましょう。

 

春の大攻勢に遡ること1年前の1917年の春、イギリスで最も有名な
第一次世界大戦の戦闘機、ソッピース・キャメルがデビューしました。

キャメルの最前線飛行隊への調達が始まった直後に、ソッピースの主任設計者、
ハーバート・スミスが設計した新しい単座戦闘機は、
コクピットからの視認性が向上し、滑らかな操縦性を備え、
初期のソッピースを彷彿とさせるもので、基本性能はキャメルから派生していました。

ほぼ1年の開発期間の後、新しい戦闘機は1918年の春に生産されました。


さて、話は少し巻き戻りますが、1918年初頭までに、RAF(王立空軍)は
4機の新型機を調達しようとしていました。
まず1機目は、

OspreyTriplane.jpg

オースティンの三葉機、A.F.T.3オスプレイ

Boulton Paul P.3 Bobolink : Boulton Paul

2機目は

ボールトン・ポール、P3 ボボリンク(コメクイドリ)。

3機目はニューポールBN1、そしてソッピーススナイプの計4機です。

これらはすべてベントレーBR2ロータリーエンジンを搭載することになっていました。

 

この3機のパフォーマンスはほぼ同等であると判断されましたが、
スナイプは評価が低く、製作は一番最後にされたそうです。

しかも、それまでソッピース・キャメルに乗っていたRAFのパイロットは
キャメルの優れた戦闘機動性を秘めた「トリッキーな」マウントを乗りこなすことで
実績を挙げていたため、スナイプに乗り換えることに消極的でした。

当時、戦時中のすべての航空機を操縦した経験豊富なテストパイロットである
オリバー・スチュワートは、次のように違いを表現しています。

「スナイプは落ち着きがあり、より品格のある飛行機でした。
それはよりパワフルで全てのパフォーマンスの面で優れていましたが、
キャメルの持っている雷のような操縦特性はありませんでした。

キャメルからスナイプに乗り換えるのは、8馬力のスポーツカーから
8トンの大型トラックに換えるようなものです。
大型トラックは確かにより強力で、より多く、より大きいですが、
8馬力のスポーツカーの軽さと反応の良さは持ち合わせません」

つまり操縦はしやすいが鈍重な機体ということでパイロットには嫌われたようですね。

というわけで、戦争中、スナイプは護衛任務中心に使用され、戦闘機なのに
胴体の下に4つの9 kgクーパー爆弾を装備していました。

そして1918年4月に創立したイギリス空軍にとっては
新設部隊の最初の戦闘機という称号を得ることができましたが、

しかし、それは時期的に戦争での運用に間に合わず(カイザーシュラハトにも)
もちろん戦局に何も影響を与えることのないまま終わっています。

 

戦後、スナイプは夜間戦闘機になりました。

戦争が終わり、戦闘行為が停止すると自動的に航空機の開発もストップしたので、
(開発技術もまた極端に低迷することになったのですが)スナイプは
そのおかげで空軍での運用寿命だけは延びたということになります。

そして1920年代の半ばには退役したのですが、いわば、
最初から最後までパッとしないまま終わった飛行機でした。

さて、今一度スナイプの機体を見てみましょう。

上部と下部の翼を接続する2セットの支柱があり、強度はありますが、
この配置では抵抗力の増加は避けられそうにありません。
スナイプがキャメルに勝る速度を提供できなかったのはこのためです。

ただし、何度もいうように決して悪い飛行機ではなく、キャメルの優れた機動性を受け継ぎ、
逆に「悪質なハンドリング特性」は克服していました。

素人目には操縦しやすく駆動性に優れているならなんの不満があるのかというところですが、
じゃじゃ馬を乗りこなして設計予想以上の性能を引き出すことに喜びを覚えていた(多分)
キャメル・ドライバーにしてみれば、意外性がなく数式通りの結果がでるようで、
やっぱり一言で言って面白くない飛行機だったのかもしれません。

 

NASMコレクションのソッピース・スナイプは1918年8月、
ラストン・プロクターカンパニーで製造されましたもので、
このタイプで世界に現存する2機のうちの貴重な1機です。

米国での最初の記録の所有者は個人の輸入業者で、この業者から買い取った
個人所有者は、スナイプを新しい布地で覆い、木材を再仕上げし、
130馬力のエンジンを取り付けるなど熱心にレストアを行っています。

次に購入した人が地元の博物館に売却し、1966年まで航空ショーなどに出演していたそうですが、
ある日着陸に失敗して墜落したため、それ以来引退して二度と飛んでいません。

そして4人目の所有者が亡くなった後、遺品として博物館に譲渡され、翼を休めています。

 

続く。

 


BMWエンジンとフォッカーD.VII 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

2020-11-12 | 航空機

スミソニアン博物館の第一次世界大戦における航空関連展示で、
わたしはアメリカの航空は当時ヨーロッパに立ち遅れていたことを知りました。
そして、それを挽回するために開発した

「リバティ・エンジン Liberty Engine

が、アメリカの航空製造業の偉大なマイルストーンになったということも。

何事にも初めがあるものですが、ジェット開発においても
先陣を切ったのはイギリスでしたし、アメリカは20世紀前半は
今の姿からは考えられないくらい後追いをしていたということに
改めて驚かされたものです。

 

■ ドイツの航空機工場 1918年ごろ

さて、リバティエンジン第1号型を当時の自動車工場のパネルと合わせて
展示しているコーナーの隣には、こんな光景が広がっています。

工場で布を点検?している女性、横に立っているのは水兵服を着た男性。
後ろには飛行機の骨組みなどが見えています。

壁に貼られたポスターに注目してみましょう。

「Helft uns fiegen!」

我々が飛ぶのを助けてください=飛行機を作ってください、
そのために民間の方々も協力してください、というわけです。

それにはどうするかというと、

「Zeirhnet die Kriegsanleihe」

はい、ここでも出ました。
戦時ローンを購入してくださいということですね。
1917年に発行されたポスターです。

ちなみに後ろで翼部分を作っている工員さんたちは
ほぼ全員がレンズをガン見しています(笑)

 

さて、このちょっと不思議な工場風景ですが、こういうわけです。

1918年までに、アメリカの航空機大量生産プログラムの動きを受け、
ドイツは労働者と航空機産業を限界まで拡大し、
前例のない数の航空機の生産に乗り出しました。

そして生産を維持するために抜本的な措置をとることを余儀なくされました。

熟練していない労働者、その多くは女性と子供でしたが、
彼らはドイツ公海艦隊の下士官兵によって補助を受けました。
補助を行うために動員されたその多くは海軍で熟練した機械工だったのです。

なるほど、それで女性工員の横に水兵さんがいるんですね。

何年か前のスミソニアンの写真を見ると、この二人の男女の人形は
もうすこしちゃちな作りで、割と最近リニューアルされたらしいことがわかります。

手にマニュアルか指導書か何かを持ち、仕事中の女性を
「上から目線」で見ている水兵さん、なかなかリアリティがありますね。

 

ともかく、この方式は生産プロセスに大いに貢献し、
労働力の裾野を増やすことになりました。

ところで、この水兵さんの横にあるエンジンをご覧ください。

エンジンのこの見覚えのあるマーク。
そう、これは、

BMWモデルIII A直列6気筒エンジン
(A19710908000)

なのです。
BMWのマークって第一次世界大戦時からこれだったのか、
と思って調べると、ロゴができたのは1917年10月でした。

この工場風景は1918年ごろの設定なので、
できたばかりのロゴがエンジンにプリントされているわけですね。

エンジン前面には

1875 BMW 3A(型番)

ドイツの航空機エンジンの生産については、ダイムラー・メルセデスベンツ社が
実質独占する状態だったのですが、これは言い方を変えると
他のエンジンの研究開発を阻害したということもできます。

そのため、1916年になって同盟国が新世代の高性能エンジンを導入したとき、
ドイツはダイムラー・ベンツに代わる適切なものを見つけることができませんでした。

 

そこで、ダイムラー・ベンツの設計者であるマックス・フリッツ(Max Fritz)は、
古いメルセデスと同じテクノロジーを使用する新しいエンジンを提案しました。
しかし、彼のアイデアは退けられたため、フリッツはダイムラー・ベンツを去り、
1年前(1916年)にグスタフ・オットーが立ち上げたばかりの自動車会社、
バイエリッシェ・モトーレン・ウェルケ(BMW)に加わりました。

そこで彼は、提案した通り、初期のダイムラー・ベンツエンジンの
6気筒インライン構成を使ったものを設計しなおしましたが、
これは多くの点でダイムラー・ベンツのものより優れていました。

BMW モデルIIIaの燃料消費量は非常に低く(つまりコスパに優れており)
しかも高地では非常に優れた性能を発揮しました。
これは、気化したキャブレターの設定と高い圧縮比の結果でした。

新しいBMWエンジンはフォッカーD VIIなどの航空機に搭載されました。

ちなみに日本語で「マックス・フリッツ」と検索すると、バイク用の
アパレルメーカーのイメージ写真が大量に出てくるのですが、これは
かつてマックス・フリッツがBMWでバイクを開発したことから
このブランドのデザイナーが彼の名前を使用しているのだと思われます。

ところで水兵さんに指導されているこの女性が何をしているかですが、
どうも布を検品しているように見えます。
後ろにかけられているのは出来上がったものでしょうか。

もしかしたら、これですか?

後ろで作っているのは飛行機の翼の骨組ですから、
翼の表面に貼る布ではないかと思われるのですが・・・。

そういえば、「ブルー・マックス」という映画で、主人公が
自分が撃墜した相手の機体の翼から、番号の書いてある部分を
ナイフでざくっと切り取って、隊長に突き出し、

「撃墜確認お願いします」

と言い放ち、皆がドン引きするシーンがありましたっけ。

あまり考えたことはなかったですが、複葉機の翼って
骨組に布を貼っていたようですね。

この翼もカラフル迷彩ですね。
彼女のような工員が作った翼なのでしょう。

フォッカーFokker D.VII(デー・ズィーブン)

ドイツのフォッカーD.VIIは、第一次世界大戦の最高の戦闘機の1つです。

有名な話では、連合軍から出された戦争を終わらせる休戦協定に、

「すべてのフォッカーD.VII戦闘機を直ちに降伏させること」

という要件が入っていたことで、これはこの戦闘機が
いかに高い評価をされていたかを簡潔に証明しています。

1917年の後半、連合国はSE5スパッド戦闘機で優位に立っていました。
これに対抗するために、ドイツ政府は航空機メーカーに、
単座戦闘機のプロトタイプ設計を提出するように要請し、
その結果10のメーカーからの31機の飛行機が提出されました、

その中から選ばれたのが1基のロータリーエンジン、そして
1基の直列エンジンの設計で、それはいずれも
オランダの航空機会社、
アントニー・フォッカー が提供したものでした。

コンペで優勝したエンジンを設計したのは、フォッカー 社の主任設計者、
ラインハルト・プラッツでした。

Reinhold Platz - Wikipediaプラッツ

プラッツこそはフォッカー戦闘機の背後にある真の創造者だったといわれています。
彼は1916年以降、会社の航空機の基本的な設計のほとんどを行っています。

Anthony Fokker - Wikipediaフォッカー 

それではこの伊達男アントニー・フォッカーはというと、彼は
設計技師としてよりもテストパイロットとして天才的な才能を発揮しました。

彼にはいかなる実験機をも難なく繰る天性の勘の良さと、また、
それを成功させるためにどのような改善が必要か知る直感を備えていました。

フォッカーのこの本能的な感覚と、プラッツの革新的な設計を組み合わせることで、
彼らは全ての航空機製造会社にとって手ごわいチームになりえたのです。

 

しかし、写真を見るだけでもなんとなくわかるのですが、(なんていっちゃいけないか)
フォッカーは基本的にエゴイストで支配的な性格をしており、
そのため、真の革新者としてのプラッツの役割を軽視する傾向にありました。

そして彼は全てのデザインにフォッカーの名前を冠したのはもちろん、
自分の功績を過度に喧伝し独り占めするような人物でした。

しかしそれにもかかわらず、プラッツが紙の上に設計したものは
フォッカーの力なくしては最終的に形にならなかったのも厳然たる事実です。

これは、フォッカーD.VIIの場合に特に当てはまりました。

 

フォッカーD.VIIプロトタイプ、V.11は、コンペ直前に完成したため、
フォッカーには事前に機体をテストする時間がありませんでした。

そこで有名なドイツのエース、マンフレート・フォン・リヒトホーヘン
フォッカーの要求に応じてV.11を飛行させました。

このときリヒトホーヘンは、機体に機動性があり、全体的に性能が良いものの、
特に急降下では操縦が難しく、方向が不安定であると評価しています。

 そこでこれらの問題を解決するために、フォッカーは、胴体を40 cm長くし、
固定された垂直翼と新しいラダー形状を追加し、エルロンバランスを変更しました。

 そこで再びリヒトホーヘンが改良されたV.11を操縦し、機体が扱いやすく、
また
デザインも非常にイケているんでないかい?と評価したこともあって、
このコンペではアンソニーフォッカーが最高の成績を収めたのです。

 

フォッカーは、このコンペでは速度や上昇率などの部分的な能力よりも、
戦闘機としての全体的なパフォーマンスの方が重視されているということを
他のどの競合他社よりもよく理解していたといえるかもしれません。

実はこのコンペに出た他社の航空機は、個々の性能パラメーターでV.11より優れていました。

しかし、審査に受けやすい全体的なパフォーマンスだけでなく、
構造上および生産上の問題解決に関しても、完全な意味で戦闘機の設計としても、
フォッカー を超えるものはなかったということです。

結果、コンペティションで優勝したフォッカーは、400機の製造注文を受けました。

しかし工場がそんなに多くの生産をこなせないという考えから、
フォッカーは偉大なライバルのアルバトロスにライセンス生産を依頼し、
アルバトロスは二つの工場で製造を請け負いました。

ところが、フォッカー工場では製造図面を作成せず、アセンブリスケッチから
直接作業するというようなことをしていたため、アルバトロスはしかたなく?
フォッカーから入手した完成した機体に基づいて独自の図面を作成しました。

このため、そこに独自の建設技術と基準が適用されるようになり、その結果
一見似ているようで、三つの生産工場ごとに互換性のない異なる機体が生まれました。

 さらに、アルバトロスによって製造された航空機は、どういうわけだか、一般的に
フォッカーが製造した航空機よりも高品質であると考えられていました。

そのせいなのか、アルバトロスはフォッカーよりも多くの機体を製造しています。

 

フォッカーD.VIIは1918年4月に最前線の部隊に調達され始めました。

当初、D.VIIは160馬力のメルセデスD.IIIエンジンを搭載していましたが、 
先ほど書いたように、最新の連合国の戦闘機に遅れを取ってきたため、
BMW IIIaが装備され、パフォーマンスが劇的に向上することになります。

しかし限られた数しか入手できず、D.VIIFとして知られるBMW搭載モデルは、
ドイツ軍パイロットに渇望されながらも少数しか配備できませんでした。

フォッカーD.VIIが西部戦線に登場したとき、連合軍のパイロットは
最初、アルバトロス戦闘機のような洗練された優雅な機体には程遠い
この無骨なラインを持つ新しい戦闘機を過小評価していました。

しかし、彼らはすぐに認識を改めることになります。

この理由の1つは、連合軍の2人乗り偵察機の保護されていない下面に
機体の下部分から撃ってくるというフォッカー の恐るべき能力でした。

さらにその厚い翼の構造は、飛行機に優れた失速特性を与えました。

機体がほぼ失速した状態から、フルパワーで機首を上げて立ち直ることができ、
この機動を可能にするD.VIIの能力は、戦闘を行う対戦相手の脅威となりました。

D.VIIの翼と胴体は、従来の木材および布を貼ったものとは異なり、
アメリカのカーチスJN-4D「ジェニー」のようなものでした。

支柱とリギングはジェニーの翼と胴体の複雑な内部構造をまとめたものとなり、
対照的に、 D.VIIIのよりシンプルな木材と管状の鋼の内部フレームワークは、
支柱とリギングワイヤーが少なくて済むだけでなく、強度も向上しました。

骨組状態のD.VII。

 

D.VIIの多くの実験的なバリエーションは大戦最後の数か月に開発され、
主にそれらは異なるエンジンを搭載することになって今いた。
 しかし、どれも生産状態にはなりませんでした。

2人乗りバージョンがフォッカーCIに指定されましたが、
ドイツ航空では正式に採用していません。

ところで、アントニー・フォッカー は、終戦時に出身地のオランダに亡命しましたが、
その際、120機のフォッカーD.VII、60機のフォッカーC.Isを
密輸しています。

 

NASMで展示されているフォッカーD.VIIは、アルバトロスの二つの工場のうち
シュナイデミュールで製造されたものです。

機体の入手経緯は以下のような事情によります。

戦争が終了する2日前の1918年11月9日、
ハインツ・フライヘア・フォン・ボーリウ=マルコネ中尉(フライヘア=男爵)は、
アメリカ軍の第95飛行隊の
飛行場にNASMフォッカーD.VIIを着陸させました。

中尉は航空機から降りて処分のため機体に向けて発砲しようとしたのですが、
3人のアメリカ人将校によって取り押さえられ、機体は鹵獲されました。

彼が本当に敵基地をドイツ軍基地だと勘違いして着陸してしまったのか、
それとも、戦争が終わることを悟って降伏したのかは謎です。
(本人は間違えたと言っていたそうですが)

 そしてその時鹵獲されたフォッカーD.VIIは戦後米国に持ち込まれ、1920年に
戦争省からスミソニアン協会に供出されました。

1961年に博物館によって完全に復元されたあと、改装を加え、
博物館の新しい第一次世界大戦の記憶となるギャラリーに加えられたというわけです。

ところで、冒頭写真にも挙げたのですが、アルバトロス社の工場で
新しくマウント作業をしているのに立ち会っている将校、
この人が問題の(笑)ハインツ・フォン・ボーリウ=マルコネ男爵中尉です。

騎兵隊将校であった彼は、第10戦闘航空隊立ち上げの際、
なんと、パイロットになる前に部隊に配属されています。

馬に乗れるから飛行機にも乗れるだろうってか?
まあ、この頃はよくあることだったのかもしれません。


工員の後頭部の部分ハゲがリアル・・・ってどこに注目してんだ(笑)

 

続く。


ブルー・マックスとディクタ・ベルケ 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

2020-10-29 | 航空機

しばらく兵士と水兵のための記念博物館の展示に集中していましたが、
もう一度スミソニアンに戻ります。

というか、早くスミソニアンを済ませてしまわないと、今年の夏見学した
航空博物館にいつまでたってもたどり着かないので・・。

さて、というわけで前回なぜエースというものが誕生したのか、
そして彼らがどのように「利用」されたかという話をしましたが。
今日はその価値観が一般に膾炙したあとについてです。

 

■エースの定義

戦争の初期には何機か撃墜していればエースと呼ばれていました。
その後、空戦そのものが「珍しいこと」ではなくなってくると、
エースになるために必要な撃墜数は増えていくことになります。

そしてその結果、嘆かわしいことではありますが、帳尻を合わせるために
虚偽の撃墜を申告するけしからんパイロットが出て来ました。

そこで各国政府は、全てのエースが国家的英雄とみなされる権利を
正当に得ているということを確認する必要がありました。

撃墜は必ずそれを確認する第三者がいなければならず、
そうでなければその記録は未確認で公認記録とはならない、
というルールができてきたのもこのことからです。

 

■プール・ル・メリット勲章とインメルマン

プロイセンのフリードリヒ大王は1740年、

プール・ル・メリット(Pour le Merite)

という勲章をずば抜けた働きをした陸軍の英雄のために設置していました。

ドイツ政府は、第一次世界大戦になって、このフリードリッヒ大王の勲章を
撃墜数を多く挙げたエースに授与するために復活させたのです。

このメダルのことを別名「ブルー・マックス」といいます。

そういえば昔、ブルーマックスが欲しくていろいろやらかす
下層上がりの野心的なパイロットを主人公にした映画、

ブルー・マックス

 

という映画をここでご紹介したことがあったんだったわ。
今読んでみるとこいつとんでもねえ。

というか、エースの称号欲しさにこういうことをやらかす輩もいたってことなんでしょう。

ところで、なぜこの勲章のことを「ブルー・マックス」と呼ぶかというと、
これを最初に受賞したエースは、インメルマンターンでおなじみ、ドイツ軍の

マックス・インメルマン
(Max Immelmann 1890ー1916)

だったかららしいです。

マックス・インメルマン

襟の中央に燦然と佩用されているのがのちのブルー・マックスですが、
この頃は普通に「プール・ル・メリット勲章」と呼ばれるだけのもので、
まだ勲章そのものの色も「ブルー」ではありません。

勲章がブルー(ドイツ語ではblauer=ブラワー)となり、
名称がブルー・マックスとなったのはマックス・インメルマンが受賞したから、
つまりマックスはインメルマンの名前からきているのです。

彼の開発したインメルマンターンは航空機のマニューバとして
その後も、
もちろん現代もその名前のままで使われています。

スミソニアンにあったインメルマンの肖像。
犬はボクサーでしょうか

 

右がプール・ル・メリット、真ん中は大鉄十字章のようですが、中央に
ナチスドイツのマークがなく、『W』と刻印してありますので、
おそらく「1914年章」と呼ばれる軍事功労賞でしょう。

左は航空功労賞ですが、どこのものかはわかりません。

 

プール・ル・メリットは飛行機乗りの究極の目標といわれました。

ルフトバッフェでは、パイロットは最初の訓練を終了すると、
「ファーストクラス」の意味を持つ鉄十字章を獲得することができましたが、
プール・ル・メリットは、さらに、特定の数のミッションを生き残った
熟練の(そして幸運な)パイロットだけにしか授与されることはありません。

その意味するところは、ドイツ将校に与えられる
考えられる限り最高の栄誉とされていました。

そのためには敵機をある程度以上撃墜していなくてはなりませんが、
その数は1918年までに8機以上、と公式に決められました。

 

■「厄介な名機」アルバトロス戦闘機

さて、そんなギャラリーの上方には、カラフルな迷彩ペイントの
複葉戦闘機、

アルバトロス(Albatros) D.va

が空を飛んでいるように展示されています。

1916年、ドイツの航空機製造メーカー、
アルバトロス・フルーク・ツォイク・ヴェルケは、非常に高度な機構を持つ
アルバトロスDIを開発しました。

160馬力のメルセデスエンジンを備えた流線型のセミモノコック胴体と、
機体のノーズにきちんと輪郭が描かれたプロペラスピナーが特徴でした。

D-IIIという小さな下翼を備えた(一葉半)のセスキプラン・バージョンは、
1917年の初めに導入され、急降下で頻繁に下翼が破損する欠陥にもかかわらず、
操縦性と上昇力に優れていたため、大きな成功を収めました。

ちなみにレッド・バロン、マンフレート・フォン・リヒトホーヘン男爵が乗った
D-IIIも、下翼にクラックが発生しています。

アルバトロスDVモデルには、より強力な180馬力のエンジンが搭載されていましたが、
こんどはどういうわけか上翼の故障が急増していました。

このD.Vaは翼の破損の問題を解決するために機体を強化したところ、
重量が増加し、せっかくの新しいエンジン搭載による利点が
打ち消されるという残念な結果になってしまっています。

DVとD.Vaはまた、以前のD.IIIと同様、空気力学的な荷重がかかると
翼にねじれが生じることから、パイロットは、この機体での
長い降下を行わないようにと指示されていました。

つまり最初から最後まで、アルバトロスという名前のつく飛行機は
皆同じ下部翼の故障の問題を抱えていたことになります。

この問題に対処するために、小さな補助支柱が外側の翼支柱の下部に
補強のために追加されましたが、完全には成功しませんでした。

 

しかしながら第一次世界大戦中、約4,800隻のアルバトロス戦闘機が建造され、
オーストリア=ハンガリーもライセンス生産を行っています。

そして1917年を通じてドイツの航空隊によって広く使用され、
終戦までかなりの数のアルバトロスが活動を続けました。

ドイツのエースの多くは、アルバトロスシリーズで勝利の大半を達成しています。


リヒトホーヘンのアルバトロスD.V

ただし、彼らが評価したのは多くが初期のV.IIIであり、後継のD.Vは
改造後でありながら前より問題があるとして、嫌われていたようです。

たとえば、マンフレート・フォン・リヒトホーヘン。

彼もアルバトロスD.Vが製造されてすぐ機体を受け取ったのですが、
すぐに下翼の構造上の問題が解決されていないだけでなく、
構造を強化するための重量の増加が操縦しにくいことに気づき、
こんな風に手紙で知人に伝えています。

「イギリス機に比べるとまったく時代遅れで、
途方もなく劣っており、
この飛行機では何もすることができない💢

そこでアルバトロス社はこのD.Vaでパイロットの要望に応えようとしたのですが、
前述の通り、何を思ったか、重くて操縦性が悪かったD.Vよりさらに
機体が重たくなってしまったのです(´・ω・`)

その分はメルセデスの新型エンジンで相殺されるはずが、
結局最後まで同じ問題は存在していたということで、ドイツのエースたちが
もう少し性能のいい飛行機に乗っていたらもう少しエースが増えていたかもしれません。

 

英雄、オスヴァルト・ベルケ

1916年に戦死するまでに、ドイツのエース、
オスヴァルト・ベルケ(Oswald boelcke 1891-1916)
40機という第一次世界大戦のドイツでももっとも高い撃墜数を上げ、
大衆からの絶大な絶賛を浴びました。

しかし、かれの最も特筆すべき航空への貢献というのは、
戦闘機パイロットの後進指導であり、航空戦術の発明だったとされます。

このため彼は「航空戦術の父」とも呼ばれています。

ベルケはドイツ戦闘機部隊の組織の責任者でもありました。

かれの先駆的な研究は、今日の空中戦の原型を形作ったといっても過言ではありません。
これは、彼の空戦勝利よりもはるかに後世に大きな影響を与えた貢献といえましょう。

空中戦に特化した新しい航空隊長就任の命令を受けたとき、
ベルケが取ったのは当時にして
革新的なアプローチでした。

まず、人を育てること。

搭乗員採用にほとんど関与しなかった以前の戦隊司令官とは異なり、
彼は一人一人を面接し、その資質などをチェックした上で、
戦闘機パイロットとして素質と才能をもち、成功する可能性があると

見込んだ男性だけを選びました。

生徒の戦闘スキルを開発する彼の方法も同様に革新的でした。

従前のドイツ軍では戦闘訓練といいつつ飛行することだけを学生に教えましたが、
彼が教えたのは空中戦闘の技術(アート)でした。

彼はパイロットの指導につねに積極的な役割を果たすため、
地上で見ているのではなく、つねに生徒と一緒に飛行し、
彼らのパフォーマンスを彼らと同じ目線で見て評価しました。
(またそれができる教官は彼だけでした)

彼はまた、彼自身の戦闘経験についても非常に論理的に分析し、
空中戦のための最初のルール(dicta)を書きました。

これらの簡単な「基本法則」はすぐに初心者に理解され、記憶され、
新しい戦闘機パイロットの血肉となって、後に続く者たちに受け継がれました。

 

■ベルケのディクタ(Dicta Boelcke)

1. 攻撃する前に常に有利な位置を確保するようにしてください。
 敵の不意を突いて、相手がアプローチする前、または最中に上昇、
 攻撃のタイミングが近づいたら後方から素早く飛び込みます。

2. つねに太陽と敵の間に自分を置くようにしてください。
 これは太陽のまぶしさで敵があなたを視認できなくなり、
 正確に撃つことを不可能にします。

3. 敵が射程内に入るまで機銃を発射しないでください。

4. 敵が攻撃を全く予測していないとき、または偵察、写真撮影、
  爆撃などの他の任務に夢中になっているときに攻撃します。

5. 決して背を向けて、敵の戦闘機から逃げようとしないでください。
  後方からの攻撃に驚いたら、振り向いて銃で敵に立ち向かいます。

6. 敵から目を離さず、敵に騙されないでください。 
 対戦相手がダメージを受けているように見える場合は、
 彼が墜落するまで追跡し、偽装ではないことを確認します。

7. 愚かな勇気は死をもたらすだけです。
 Jasta (戦隊)は、すべてのパイロット間で
 緊密なチームワークを持つユニットとして戦う必要があります。
 つねにその指導者の命令に従わなければなりません。

8. Staffel スタッフェル(squadron)の場合:
 原則として4人または6人のグループで攻撃します。

 戦闘が一連の単一の戦闘に分かれた場合は、
 数人で1人の敵に向かわないように注意してください。

 

今これを見て気がついたのですが、ハリウッドの三流映画、
「ブルーマックス」の主人公の名前は確かスタッフェルでした。
「飛行中隊」という名前だったのね。

まあ、イェーガー(戦闘機)という名前のアメリカ人もいるのでそれもありか・・。

 
Fokker Eindeckerシリーズの戦闘機(s / n 216、軍用s / n A.16 / 15
ベルッケは、これらの航空機の1つを飛行させる空中戦術を学びました。
 
■英雄の死

エースの葬式

ベルケが亡くなったフランスでの告別式には、ドイツ皇太子が出席し、
彼の棺にはカイザー・ヴィルヘルム自らが花輪を捧げました。

ベルケはドイツ国民だけでなく、敵国からも尊敬され崇拝されていました。

このときイギリス軍の航空機が上空を飛行してローレルの花輪を墓地に投下しましたが、
それには、

我々の勇敢な騎士である敵

 ベルケ大尉の思い出に

 大英帝国王立航空部隊より」

と記されていました。


オスヴァルト・ベルケは1917年10月28日、敵と交戦中、僚機と接触し、

翼が破損した機が墜落して頭蓋底骨折で死亡しました。

墜落したとき、どういうわけか彼はヘルメットを着用しておらず、
安全ベルトも着用していなかったということです。

 

続く。

 


陸軍スポーツマン大隊とスパッドXIIIのエースたち〜 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

2020-10-18 | 航空機

スミソニアン博物館では、第一次世界大戦に生まれた戦闘機の操縦士、
ことにその中でも技能に長けたエースを国家が英雄のように祀り挙げ、
それが国家のプロパガンダに利用されるようになった、

ということがその展示で明確に語られています。

この「スミソニアン史観」については、その客観性においてずいぶん
他の事象(たとえば原爆投下とか)とはスタンスを異にするように思いますが、

よく考えたら、第一次世界大戦とエースという存在の登場については
アメリカはほとんどそれに関与するような立場ではなかったので、
(つまりしょせんは他人事なので)このような解釈も出て来たのかなー、
と若干意地悪な目で見てしまったわたしです。

■ 陸軍スポーツマン大隊

さて、そのスミソニアン史観によると、戦闘機の搭乗員と違って、
地上の戦い、特に第一次世界大戦の塹壕戦での戦闘では、
「適切なヒーロー」が生まれにくかった、ということだったわけですが、
意外な方法でヒーローを「集めた」大隊がイギリス陸軍に存在しました。

戦場の英雄を称えるのではなく、別分野の英雄を戦争に送ってしまおうという考えです。

こちらは1915年のイギリスのポスターです。

スポーツマン大隊が

入隊を募る

ツェッペリン号を滅ぼしたいあなた

そして、ヴィクトリア勲章の欲しいあなた

彼についていこう

そして入隊しよう

スポーツマン戦隊に

中央の写真はロイヤルエアフォースのエースですが、
「エースをリクルートに利用する」というタクティクスを用いつつ、
彼が実はスポーツの世界で名を挙げた選手だった、ということを強調しています。

下に見えるゴブレットはドイツの航空隊において
戦闘に優れた業績を挙げたパイロットに贈られた賞らしいのですが、
出元というのははっきりしていないそうです。

それにしてもスポーツマン戦隊ってなんだ?

と思って検索してみたところ、
こんなわかりやすいポスターが出てきました。

The Sportsman's Gazette: Introduction

 

ボクシング、テニス、ゴルフ、ラグビー、クリケット、
ホッケーにビリヤード(スポーツなのか)ハンティングの人もいますね。

彼らは自分のスポーツ道具を足元に置いて背広に着替え、
軍服を着て銃剣を担ぎ行進していきます。
いまなら「軍歌の響きがー!」「青年たちのミライガー!」と非難されそうなポスターです。

スポーツマン大隊の徽章の中央にある

HONI SOIT QUI MAL Y PENSE

という文言は中世フランスの言葉で、イギリスでは
ガーター勲章のモットーとなっている

「それを悪だと考える人は誰でも恥ずかしい」

という意味で、通常「悪を考える人に対する恥」と訳されます。
当時でも、健全なスポーツマンを兵隊にすることについて
ネガティブな意見を持つ人が存在したという意味かな、
とわたしなど考えてしまいましたが、深読みしすぎでしょうか。

 

スポーツマン大隊は、第23大隊、第24大隊(第2スポーツマン大隊)
とも呼ばれ、第一次世界大戦の初期ごろ組
成されたイギリス陸軍の大隊です。

陸軍ではヒーローが現れにくいということから、おそらく陸軍上層部が
発想の転換によってひねり出したアイデアだと思われるのですが、
この特定の大隊は、その名前の通り、クリケット、ゴルフ、ボクシング、
サッカーなどのスポーツやメディアで名を馳せた男性の多くから構成されていました。

最初のスポーツマン大隊の結成式は、当時戦争省長官だった
ホレイショ・ハーバート・キッチナー卿の承認により、ロンドンに現在もある
セシルホテルで行われ、その後は1年半にわたりキャンプで訓練が行われました。

1915年11月にはブローニュに上陸し、その後西部戦線、ソンムの戦い
デルヴィル・ウッドでの戦闘
に参戦しています。
その中には数名の第一線のクリケット選手、ボクシングチャンピオン、
エクセターの元市長、そして作家も含まれていました。

SPORTSMAN BATTALION - RUGBY UNION FOOTBALLERS British WW1 ...

「ゲームをしている場合ではない」(ロバート卿)

ラグビー協会の選手たちは、彼らの義務を果たしている

90%以上が志願した

「昨年国際試合を行った英国に現存する全てのラグビー選手は
国旗のもとに集結している」1914年11月30日の記事より

英国のアスリートたちよ!
この栄光ある先達のあとに続かないか?

ラグビー選手をターゲットにしたリクルートポスターです。

■ スパッド XIIIのエースたち

SPAD XIII  スミスIV

FE8と並んでフロアに展示されているのがスパッドのスミスIVです。

スパッド XIIIは、伝説のフォッカーD.VIIやソッピースキャメルと並んで
第一次世界大戦で最も成功した速くて丈夫な戦闘機の一つでした。
本機は大戦中多数のエースを輩出しています。

前回ご紹介したジョルジュ・ギヌメールそしてルネ・フォンク(Fonck)

File:René Fonck en juin 1915.jpg - Wikimedia CommonsFonck

戦後は映画にも出演し、大西洋横断中に行方不明になった
シャルル・ナンジェッセ(Nungesser)

upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/...Nungesser

Coliというパイロットとともにその最後の飛行となる
大西洋横断に出発する直前の生きているナンジャッセの動画があります。

Nungesser and Coli attempt Atlantic crossing in 1927. Archive film 93571

眼帯をしているのがColiで、その前に出てくる若い人がナンジャッセでしょう。

フランス人の母、アメリカ人の父を持ち、アメリカ陸軍のために飛んだ
ラファイエット飛行隊ラオル・ラフベリー(Lufbery)

upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Ger...Lufbery

そしてアメリカのエースだったエディ・リッケンバッカー(Eddy Rickenbacker)

media.gettyimages.com/photos/captain-eddie-rick...

バリバリの現役時代の動画と、1956年にインタビューを受けるリッケンバッカーの姿。

1956 CAPTAIN EDDIE RICKENBACKER US WW1 ACE OF ACES SPEAKS

 

とにかく、この戦争で最も有名な「エア・ヒーロー」がスパッドXIIIに乗っていたのです。

スパッド航空機製造会社の設計責任者ルイス・ベシェローLouisBéchereauは、
19当時人気のあった空冷式ロータリーエンジンの設計限界を認識し、
はるかに優れた出力重量比、および多くの最新機能を備えている
イスパノ・スイザ・エンジンを搭載したスパッドVIIを設計し好評を博しました。

後継機のスパッドXIIIは、 VIIより革新的な改良バージョンであり、
大きな改良点は、2基の固定式の前方発射ヴィッカース機関銃と、
より強力な200馬力のイスパノ・スイザ・8Baエンジンです。

プロトタイプは1917年4月4日に初飛行し、翌月末までに生産機が前線に到着、
その堅牢な構造と高速での急降下能力、特に空戦においては
最高のドッグファイトが可能な戦闘機のひとつとなりました。

スパッド XIIIは1918年末までに、8,472機製造され、フランスの戦闘艦隊は、
終戦までにほぼ全てがこれを導入していました。

アメリカ遠征軍の一部であったユニットもこれを導入し、
リッケンバッカーやラフベリーのようなエースを産んだのです。

スパッドはまたイギリス、イタリア、ベルギー、ロシア軍にも使用されました。

しかし驚いたことに、それほど多数生産されていながら、現存する
スパッドXIIIは世界にたった4機だけで、NASMコレクションはその一つです。

ここに展示されている機体の「スミス IV」というのはニックネームで、
米陸軍航空サービスのレイモンド・ブルックス少佐の乗機でした。
命名の理由は、彼が代々愛機に「スミス」と名付けており、
この機体はその4番目だったからということです。

Arthur Raymond Brooks, A.E.F. file photo.jpgLt.Brooks

アーサー・レイモンド・ブルックス (1895-1991)の撃墜記録で
最も顕著な戦果の一つは、スパッドXIII
スミスIVを操縦して
ドイツ空軍のフォッカー(オランダ製)の飛行隊に単独で挑んだときのものです。

彼はヒストリーチャンネルの「ドッグファイト」で紹介されたパイロットの1人でした。

「 最初のドッグファイター 」と題されたエピソードは、
1918年9月14日、8機のドイツフォッカーD.VII航空機に対するブルックスの
ソロドッグファイトを描写しています。

この戦闘中、彼は僚機ハッシンガー中尉を失いながらも(ハッシンガーは、
行方不明になる前に2機フォッカーを撃墜した)
ブルックスは2機撃墜、
優れた降下技術を発揮して残った4機の敵機の攻撃から逃れることができました。

また、彼は、パイロットの位置とナビゲーション、および空対地通信に使用する
無線航法装置(NAVAID)の開発のパイオニアでもあります。

戦後は航空を旅客輸送事業として商業化するための初期の取り組みに参加し、
アメリカの航空郵便の輸送に関わった、最も初期の商業パイロットの1人でもありました。

ブルックス少佐のスパッドXIIIは、1918年8月に

「The Kellner et Ses Fils piano works」
(ケラーと彼の息子たちピアノ工房

によって制作されました。
なんでピアノ工房が戦闘機を作っているのか全くわかりませんが、
これについては何の説明もないので、大量生産の際、飛行機工場では
間に合わないのでピアノ工場も動員されたのかと思うしかありません。

まあ、当時の飛行機は木製部分が多かったので、ピアノ制作と
似通った技術でできてしまったということだったのでしょう。

我が国の日本楽器(現ヤマハ)河合楽器(現カワイ)なども
戦争中は軍需工場となり、日本楽器はプロペラ(陸軍機)、
河合楽器は航空機用の補助タンクなどを作っていましたしね。

ヤマハなどその流れで軍からの要請も多くなり、
昭和6年にはすでに金属プロペラを手掛けていました。
その流れで戦後は船作りーのバイク作りーの、
ついでにキッチン作りーの以下略、となったわけです。

ちなみに海軍のプロペラは住友金属が手掛けていました。

 

さて、その後、スパッドの機体は1918年9月に米陸軍航空第22航空飛行隊に割り当てられました。
航空機は、ブルックスが以前に墜落した同じタイプの別の航空機の代替品でした。
ブルックスはこの「スミスIV」で総撃墜数6機のうちの1機を撃墜しています。

戦後、アメリカ陸軍飛行隊が使用していたスパッド XIIIのうち二機が米国に送られ、
リバティ・ボンド(国債)奨励イベントの目玉展示として全米をツアーし、
その後、1919年12月にスミソニアン協会に移管されました。

スパッドXIIIは長年スミソニアンの倉庫で保存されていました。

その間、何のメインテナンスも行われず放置されていたせいで、
1980年代にはそ機体表面は腐ってボロボロになり、
いつの間にかタイヤがなくなっているという状態であったため、
飛行機は展示のためにあらためて修理に入りました。

1984年から2年間かけて完全に復元され、現在はこうして
博物館の第一次世界大戦の航空ギャラリーに公開されているというわけです。

 

つづく。


”空の騎士” 第一次世界大戦の航空映画〜スミソニアン航空博物館

2020-10-10 | 航空機

今日は久しぶりにスミソニアン博物館の展示から、第一次大戦時の
「空のヒーロー」、レッドバロンと当時の文化についてお話しします。

レジェンド、メモリー、そして グレートウォー・イン・ジ・エア

と名付けられたセクションに入っていくことにします。
このギャラリーのテーマは第一次世界大戦の航空機

World War I Aviation

という英語の後は、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語、
そして日本語の記述があります。

スペイン語やましてや中国語での記述がないのは、
世界大戦に航空機を創造し、参加した国限定なのでしょう。

ギャラリーの入り口にある解説はこのようなものです。

 

70年以上もの間、航空機にとって最初の戦争というのは
偉大でロマンチックな冒険として記憶されてきました。

そして多くのファクターがこの認識に貢献しています。

戦争中のジャーナリズムと政府のプロパガンダは、軍用機搭乗員を
あたかも勇敢な「空の騎士」(Knight of the air")のような
イメージを創造し続けてきましたし、さらに重要なことは
1930年代の「空心(そらごころ)」溢れたハリウッド映画や大衆文学は
そのイメージを普及し後世に残す中心的な役割を負い続けたことです。

しばしば航空戦の残酷な現実はロマンティシズムという劇薬によって
和らげられ、作家や脚本家はこぞって第一次世界大戦の航空を
魅力的な記憶に書き換えたのです。

こんにち、それらのイメージはいまだに一般大衆に人気がありますが、
空の戦争の現実については、その真実を知る機会は10年、また10年と
時が流れるにつれて、少なくなっていくというのもまた事実です。

ここでいきなり目を引くのはこんなコーナーです。
以前、当ブログ「ソッピースキャメルに乗る犬」という項で、
この犬のキャラクターについてご紹介したわけですが、
ここでは、犬小屋に乗って

「CURSE YOU, RED BARON!」
(くたばれ、レッドバロン!)

と叫んでいる例のキャラクターなど、一見子供用の
第一次世界大戦航空にまつわるグッズが集められています。

この犬はいつもソッピースキャメルに乗って、フォッカー IIの
「レッドバロン」と戦うことを夢想しているわけですが、
決して本当に戦うことはなく、本当にただ空想しているだけです。

今は懐かしいLPレコードに描かれているのは
「スヌーピーと戦っているレッドバロン」のようですね。
いつも夢想していたレッドバロンとの空戦がついに実現したのでしょうか。

「人生ゲーム」のようなボードゲームの空戦版。
カードを引いて指示に従うというのも人生ゲームと同じ。

ちなみに人生ゲーム(The Game of Life)はアメリカ生まれで、
1860年にはこの原型があったといいますから、
1930年代に同じようなシステムのゲームがあっても不思議ではありません。

ランチボックスにプリントされた漫画は、まず犬が
右向きに犬小屋に乗り、

「彼は第一次世界大戦のエースで、今
ソッピースキャメルに乗って空を駆けている・・」

「最も深刻な緊急の事態しか彼を任務から引き返させることはできない」

子供「夕ご飯だよー!」

(犬、それを聞くなり左向きに)

右の写真は前列前で脚を組んで座っているのがレッドバロン、
マンフレート・リヒトホーヘン男爵とすぐわかります。
主役のオーラというのか、なぜか一人だけコートの色が違うんですね。
あ、それは彼がただ一人の士官だからなのか。

左側はリヒトホーヘンを主役にした漫画のようです。
超拡大したので内容までは読めませんが、英語なんですよね。

アメリカも一応ドイツとは敵国だったと思うのですが・・・。

上はこれも子供用ゲームで「スヌーP vs レッドバロン」。
下の絵本はその題もストレートに「ソッピースキャメル」。
ラクダが飛行機の尾翼をつけ、胴にRAFのマークをつけています。

赤に鉄十字というだけで誰でも「レッドバロン」と思い浮かんでしまいます。
よく考えたらこれってすごいことですよね。
で、さっきの説明によると、彼をこれだけ有名にしたのは、当時の映画やメディア、
ジャーナリズムであったと・・・・・・。

ハンサムな若いドイツ貴族の戦闘機エース、というだけで、
当時の創作者たちにはたまらない逸材だったということでしょう。
また、大衆もそのイメージをこよなく愛したのです。

鉄十字の真ん中にあるのが

「レッドバロン」というレストランのメニュー

その下

レッドバロンの横顔をあしらったデザインのシャツ?

フォッカー をあしらったビアマグ

レッドバロンブランドのピザ(ペパロニ)

映画、ドキュメンタリー、そして赤いフォッカー の模型。

左の赤い部分にあるのが

「大衆化された伝説」

右には

「オリジナルの伝説」

とあります。
右側に書いてあることを翻訳しておきましょう。

1918年4月21日、マンフレート・フォン・リヒトホーヘンが亡くなった時、
彼はすでにレジェンドとなっていました。
多くの人々が、彼がドラマチックな空中でのドッグファイトの末、
80機という撃墜記録を挙げたということを知っていたのです。

事実、彼はしばしばステルス&サプライズ戦法によって
瞬く間に敵機を落としました。

彼が亡くなったのは赤いフォッカー Dr.I 三葉機のコクピットだったので、
彼がこの航空機でほとんどの勝利を収めたと考えられていましたが、
彼が最も多く撃墜記録をあげたのは他の戦闘機です。

戦争中、ドイツ政府はフォン・リヒトホーヘンを国家の英雄に仕立て、
それを「悪用」していたといってもいいのですが、彼が空戦で死んだことで
彼は、同国人はもちろん、敵の心にまで同様に、神話を残したのです。

フォン・リヒトホーヘン記念メダリオン。

それでは左側の部分です。

「彼は正々堂々と、全力を尽くして戦い、相手を撃墜し、
そして相手が強敵であればあるほど、自分のためにそれを歓迎した」

The Red Knight of Germany, 1927

「ドイツの赤い騎士」というこの小説?の作者はフロイド・ギボンズ。
イギリス人かアメリカ人かはわかりませんが、英語です。

ベストセラーになったマンフレート・フォン・リヒトホーヘン本で、
リヒトホーヘンを今日のヒーローとしてその人生を
ロマンチックな伝説風味で書き上げたものです。

公式な記録を元にしているというものの、ギボンズはかなり事実を
フィクショナライズし誇張して創作してしまっています。

1920年代から30年代にかけて、あまりにも多くの若い人が
レッドバロンについてこの本に書かれていることをうのみにし、
それだけならともかく、航空機で行われる戦争というものについて、
この「小説」に書かれた誇張を信じこんでしまったということがありました。

うーん・・・我が国にも全く同じようなエース本があったような記憶が。

戦後の日本で誇張した英雄譚仕立ての戦記があっても、
それはせいぜい「零戦ブーム」なるものを作ったくらいでしたが、
当時はこれを読んでレッドバロンに憧れ、空戦をやってみたくて
航空隊に入るという若者もたくさんいたのに違いありません。

彼らは程なく空戦の真実というものを知ることになったでしょう。

このギャラリーには、フォッカー の三葉機ではありませんが、
鉄十字をつけたドイツ軍の戦闘機が展示されています。
(この機体の話はのちほど)

そして、ここはあたかもアメリカのどこかの街であるかのような外灯と、
映画館のネオンが照らすタイトルが

「ハリウッドの空の騎士 主演 ダグラス・フェアバンクスJr.」

本当にそんな映画があったのか検索してみましたが、
彼のバイオグラフィにはそういう映画は登場しません。

 

リチャード・バーテルメスという俳優の「暁の偵察」ポスターです。
ポスターを見ると、ダグラス・フェアバンクスJr.も出ています。

The Dawn Patrol (1930) - Feature Clip

「レッドナイト」がよっぽどウケたのか、二つの大戦の間、
ハリウッドはやたらと「空の騎士」ものを制作しています。

これらの映画に描かれた飛行士のロマンチックなイメージは
非常に持続的であり、今日まで空中での戦争に対する
わたしたちの認識をかたち作るのに役立ってきたといえます。

「ドイツの赤い騎士」などを読んで航空ファンになってしまった人、
 「ヒコーキオタクの部屋」1935年版が再現されていました。

1920年代から30年代にかけて、第一次世界大戦の航空機というのは
大変人気のあるカルチャーで、マガジンやコミック、新聞などで
栄光の空中戦が取り上げられました。

航空マニアは熱心にストーリーを読み漁り、ラジオドラマを聴き、
空戦を描いた映画を観に行き、果ては飛行機模型を・・・・

あれ?こんな人今でも普通にいるなあ。

このギャラリーの手厳しいところは、こういったマニア連中は
その結果、

「空戦が実際にどのようなものであるかについて、
歪んだ見方をすることになった

と切って捨てているところでしょう(笑)

一方、この大衆文化の多くは戦闘機パイロットになることができる
(その資格を持つ)若い白人男性を対象としたものでしたが、
そこにとどまらずより広くアピールする魅力があったのも事実です。

女性やアフリカ系アメリカ人にも航空マニアとなる人は多く、
(彼らはミリタリーパイロットになることを禁じられていた)
彼らもまた大衆文化の中のロマンチックな空の戦争に心を奪われたのです。

彼ら彼女らのほとんどが、白人男性と全く変わらない経緯で、
航空マニアになっていきました。
つまり、熱心に航空雑誌を読み、模型を作り、映画を見るというように。

この映画は有名なのでご存知の方も多いかもしれません。

「地獄の天使」Hell's Angels 1930

は、「飛行機オタク」ハワード・ヒューズが監督を務めたパイロットものです。
(ところでヒューズの綴りってHUGHESだったんですね。今知った)

わたしも観たことがないのでwikiからあらすじを抜粋すると以下の通り。

オックスフォードの学友、ドイツ人留学生のカールと、
ラトリッジ兄弟のロイとモンテの3人と戦争を描いた物語である。

兄、ロイは遊び慣れしたヘレンを貞潔な女性と思い込んでいるほどの硬い男で、
一方、弟、モンテは節操の無い享楽主義者だった。

第一次大戦が始まると、兄弟はともにイギリス陸軍航空隊に入った。
ドイツ空軍に招集されたカールは、ツェッペリン飛行船でロンドン爆撃を命ぜられるが、
イギリスへの愛を断ち切れず爆弾を全部池の中に投下する。
(インターミッションはチャイコフスキーの交響曲第5番第2楽章)

兄弟は修理したドイツ軍の墜落機で敵軍になりすまし
敵の弾薬庫を爆撃する作戦に志願し、出撃。
爆撃は成功するが、2人は撃墜されて捕えられた。

助命の代わりに英軍の作戦行動の機密を売れと脅迫され、
弟モンテは死への恐怖から話す決心をするが、それを知ったロイは
情報提供の代わりに拳銃を要求し、その銃でモンテを撃ち、
自らも祖国を裏切ることを拒んで、銃殺場へと連れられて行く。

ジーン・ハーロウ演じる「悪い女」がやたらクローズアップされていますが、
彼女はどうやらパイロットの物語に色を添えるだけのキャスティングだった模様。

筋全く関係なしの過剰サービス画像

撮影には87機の第一次世界大戦当時の英仏独蘭の戦闘機や爆撃機を購入し、
実際に飛行させており、当時としては破格の製作費をかけた超大作で、
この映画の撮影中の事故で3人のパイロットが死亡しているそうです。

(ただでさえ飛行機の安全性には問題のあった時代ですからね)

映画「アビエイター」でディカプリオが演じていましたが、このとき
ハワード・ヒューズ自身も飛行し墜落、眼窩前頭皮質を損傷する負傷を負い、
この怪我が後の奇行の原因になったといわれているそうです。

ところで、冒頭写真の正体ですが、この白黒写真と同じものです。

プファルツPfalz D.XII

「ハリウッドエースのための戦闘機」という説明があります。

このドイツ機プファルツD.XII戦闘機は、ハリウッドの航空映画で長年使用され、
本物の戦争期間よりずっと長い間第一線に就いていました。

1930年代、これらの映画は空中戦というものを形作り、
WW1パイロットのイメージを騎士道精神溢れた
「ナイト・イン・ジ・エア」として永続させるのに役立ちました。

上記の「暁の偵察」でもこのプファルツD.XIIはその赤の色彩、
胴体に描かれた髑髏のマークと鉄十字で映画の虚構を彩っています。

映画ではスタント「エース」だったフォン・リヒターなる人物が
ステレオタイプの恐ろしいドイツ人としてこれを操縦しました。

実際のプファルツが西部戦線に登場したのは1918年です。
第一次世界大戦後は賠償として連合国に多くが接収されました。

「暁の偵察」で使用された機体は、まさにこの時に取得したもので、
ハワード・ヒューズは同じ機体を「地獄の天使」にも登場させました。

その後、この「ハリウッド戦闘機」はパラマウントが取得し、
1938年度作品の「Men With Wings」にも登場しました。

Menwithwings1938.jpg

スミソニアンでは、この機体を使った映画が会場で流されていました。

 

続く。


”対海軍 第15番目の法則 ”ケリー・ジョンソンとスカンク・ワークス〜スミソニアン航空博物館

2020-07-24 | 航空機

スミソニアン博物館に展示されている初のプロトタイプジェット機、
XP-80「ルルベル」についてお話ししたわけですが、今日は、
そのプロジェクトを引き受けたケリー・ジョンソンと、彼の率いた
「スカンク・ワークス」についての話から始めたいと思います。

Kelly Johnson (engineer) - Wikipedia

"設計エンジニア、メカニック、そして生産者とは顔の見える関係でいたい”

クレランス・’ケリー’・レオナルド・ジョンソン
 Clarence Leonard 'Kelly' Jhonson 1910-1990

B.C(ビフォーコロナ)の現代であれば当たり前のちょっといい発言ですが、
とくにケリー・ジョンソンがこのように発言したということは、必ずしも
1940年代の航空機設計の現場ではそうでもなかったということでしょうか。

 

ところで、アメリカには 全米航空協会 (NAA)から

「アメリカの航空または宇宙飛行において、空気の性能、効率、
安全性の向上に関して最大​​の成果を上げた人、または
昨年度の実使用でその価値が徹底的に実証された航空機など」

に対して贈られるコリアー・トロフィーなる賞があります。

第一回受賞者の水上艇を開発したグレン・カーティス(1922)から 
2018年度の自動地上衝突回避システム (Auto-GCAS)を開発した
空軍研究所 、ロッキード・マーティン、 F-35合同プログラムオフィス、
NASAを含む開発チームまで、それこそ毎年、戦争を行っていた年をのぞき
毎年贈呈されてきた名誉賞ですが、史上一人だけ、コリアートロフィーを
二回受賞した人物、それがケリー・ジョンソンとスカンク・ワークスです。

そのほかにも数え切れないほどの航空開発に関わる賞を受賞したジョンソンは、
まぎれもなく20世記の最も偉大な航空機設計者の一人でしょう。

彼の経歴は1930年代から始まり冷戦時代に至るまでの期間、
ロッキードエアクラフトに始まり宇宙開発における先端技術、
はてはステルス技術の導入にまで及びました。

彼の革新的で近未来的な設計思想が生み出したののは、

P-38ライトニング
P-80シューティングスター戦闘機

F-104スターファイター迎撃機
U-2
SR-71高高度偵察機
「ブラックバード」
F-117Aステルス戦闘爆撃機「ナイトホーク 」

など、その時代の先端を切り開く機体の数々でした。

 

ジョンソンの成功に鍵というものがあったとしたら、それはたとえば
「ルルベル」を創造する際に、ロッキード内に独立した部門を立ち上げる、
といった、独特のマネージメント法だったかもしれません。

その部門があの「スカンク・ワークス」です。

腕組みするスカンク

公的には「アドバンスド・デベロップメント・プロジェクト」
という名称となっていた、このスーパーシークレット、かつ
高度な機密に守られたチームは、軍用機のデザインとその製作を、
製図するところから実際に飛ばすところまで全部やってしまうのでした。

ジョンソンの合理化された組織は、一口で言うとシンプルであり、
軍事産業への協力や責任ある管理が強調されたものといえました。
そしてそれは当時急速に拡大し、さらにコントロールが難しい
航空宇宙産業で成功するための一つのモデルとなったのです。

ジョンソンが航空工学を学んだのはミシガン大学です。
卒業後23歳で彼はロッキードに入社しました。

ジョンソンという名前からは想像しにくいですが、 両親はスウェーデン人です。
(ヨハンソンとかいう現地読みをアメリカ風に発音していたのかも)
13歳のとき最初の航空機設計で賞を獲得し早熟ぶりを見せた彼は
ミシガン大学で航空工学の 学士号と修士号を取得しました。

彼の愛称「ケリー」についてはこんなストーリーがあります。
ミシガン州の小学校に通っていたとき、彼の「クラレンス」という名前が
からかいの種になり、一部の少年が彼を「クララ」と呼び始めました。

たとえば彼が席を立つと「クララが立った!」という風に。

というのは嘘ですが、ある朝、列に並んで教室に入るのを待つ間、
一人の少年が彼をいつものように
クララと呼んだため、
怒ったジョンソンは彼を躓かせ、骨折させました。

恐れ慄いた少年たちは彼を「クララ」をと呼ぶのをぴたりとやめ、
なぜかその代わりに「ケリー」と呼び始めました。

クレランス・レオナルドのどこにも「ケリー」の要素はありませんが、
当時たまたま

「ケリー・ウィズ・ザ・グリーン・ネクタイ」(緑のタイをしたケリー)

という曲が流行っており、彼が緑のタイをしていたとかいう理由でしょう。
以降、彼は常に「ケリー」ジョンソンとして知られるようになりました。

 

「スカンク・ワークス」の起源についてもくわしく書いておきましょう。

ロッキードの従業員が彼らの組織に与えたニックネームは、
1934年から1977年にかけて放送されたアル・カップの人気コミックストリップ、
「リル・アブナー」(Little Abner)の話に登場する「ビッグ・バーンスメル」が
キッカプー・ジュースなる怪しい飲み物を醸造していたスコンクワークス、
「Skonk Works」(スカンク=Skunkではない)からきています。

 

最初に彼らのオペレーションが始まったのは仮設の建物で、
しかも近所のプラスティック製造工場から漂ってくる匂いが酷かったため、
それに文句たらたらだったエンジニアの一人、アーブ・クルバーさんが、
ある日ロッキードからかかってきた電話をとって、

"SKONK WORKS!”

と応答を始めました。

漫画の中の固有名詞ですが、当時テレビで放映されていて人気だったため、
それを聞けばなんのことか誰でも知っていて、さらに
「臭い=スカンク」とかけていることがすぐにわかったのです。

もちろん真面目なケリー・ジョンソンはふざけるなと叱責したそうですが、
こういう集団にありがちな悪ふざけのノリで、ジョンソンがいなくなると
スタッフは全員が

「スコンクワークス!」

と返事をするようになり、ロッキードの社員もそのうち
彼らをスコンクワークス扱いするようになってきました。

しかしさすがは大企業ロッキード、名前が定着するや、
「著作権で保護された用語の使用に関する潜在的な法的問題を回避するために」
それを「Skunk Works」に変更するように、と命じました。

社命かよ。

そこで彼らのグループ名は本来の?意味である

「スカンク・ワークス SKUNK WORKS」

が正式名称になったというわけです。

P-38 ライトニング Lightning

それでは、ケリー・ジョンソンがその生涯に手掛けた
プロジェクトの成果を紹介していきましょう。

前回、Pー80シューティングスターの試験飛行で亡くなった
テストパイロットのリチャード・ボングがこれに乗って
太平洋戦線で日本機を撃墜し、エースとなりました。

スミソニアン博物館には、別館のスティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンター
このP-38が展示してあり、実際に見ることができます。

当時の日本軍にはP-38の3を「ろ」と呼んで「ぺろハチ」とあだ名され、
その駆動性は当時のベテラン揃いの搭乗員にも
「双胴の悪魔」と恐れられたと言います。

ライトニングは若きジョンソンと、彼のロッキードでの設計の上司だった
ハル・ヒッバード(Hall Hbbard)によって考案されたもので、
第二次世界大戦に登場した戦闘機の中でも最も多用途で、
かつ革命的な航空機だったといえるでしょう。

海軍甲事件、聯合艦隊司令長官山本五十六元帥の乗った
一式陸攻を撃墜したのは他ならぬこのP-38でした。

ロッキード U-2

ロッキードU-2は、作成後35年以上も秘密に包まれていましたが、
もともとは戦略的偵察機として設計されており、
冷戦の緊迫した時代に重要な役割を果たしていました。

ケリー・ジョンソンがスカンク・ワークスを率いて作ったU-2は、
これまで生産された中で最も成功した情報収集機の1つでした。

今は貸し出されていてないのですが、スミソニアンのU-2は、
1956年7月4日にソ連を巡る最初の作戦任務に投入された機体です。

冷戦中の1953年、米空軍はソ連と衛星国の軍事活動を監視するために、
1人乗り、長距離、高高度偵察機の調達要求を出しました。

この時までに、フィルムとカメラの技術の進歩によって
迎撃されにくい極端な高度から高解像度写真を撮ることができるようになり、
それに合わせた偵察機を導入することになったのです。

ロッキードは調達を受注し、スカンクワークスは非常に厳しいスケジュールの下、
わずか8か月後に新しいU-2を生産しました。

1955年8月6日初飛行が行われ、1年後にはCIAパイロットの訓練も終了、
ソビエト連邦上空への最初の飛行ミッションを完了しました。

高度な電子機器とカメラ機器が機首と大きな胴体ベイに収納され、
大型の燃料タンクにより、航空機は、2キロ近い高度で
約4,600mを6時間飛行することができました。

運用中のU-2Aは、定期的にソビエト連邦の広大な上空を飛び、
多くの重要なデータを収集し、たとえばいわゆる対ソにおける
「ミサイルギャップ」神話に過ぎないことを証明しました。

また、1962年8月、U-2はソビエトの中距離弾道ミサイルの存在を確認し、
それがキューバのミサイル危機につながりました。

U-2はまた、1964年7月以降、ベトナムに関する情報収集のため、
1975年のサイゴン陥落まで継続的に活動していました。

U-2の驚くべき高高度能力は、科学的研究のための価値あるツールにもなっています。

NASAはこれらの航空機2基を高高度ミッションブランチで運航しており、
成層圏のサンプリング、特に1980年の山岳噴火後の火山灰の収集を行い、
セントヘレンズ、そして自然災害と水と土地利用の評価に役立てています。

File:Lockheed F-104 Starfighter in Smithsonian.jpg

F-104スターファイター Starfighter

長くてまるで鉛筆のような胴体、Tシェイプの尾翼、
そして小さくて薄い翼。

F-104スターファイターは二回音速を超えた飛行機です。
注意していただきたいのは機体にNASAのロゴがはいっていることで、
これが宇宙飛行士の訓練用に開発された超音速宇宙訓練機だからです。

テストパイロットはあのチャック・イェーガー
といえば思い出しますね。映画「ライト・スタッフ」を。

いぜんこのブログで「ライト・スタッフ」について書いたときには
特に言及しなかったのですが、宇宙飛行士「マーキュリーセブン」の
「正しい資質(Right Stuff )について描いたあの映画で、傍論のように
登場するスターファイターのテスト飛行は、実はその目的が
宇宙飛行士の耐G訓練だったという深い意味があったというわけです。

映画「ライトスタッフ」世界最高のパイロット

この項で、戦闘機が達する高高度について実用的な意味がない、
などと簡単に評してしまってごめんなさい。

F-104はそれが目的の飛行機だったんですね。

映画でも描かれていた通り、チャック・イェーガーはテスト飛行で
スターファイターのテスト機を墜落させていますが、
不死身の彼はしれっと生還し、残りのテストを成功させています。
(映画によるとどちらも安い給料で)

設計したケリー・ジョンソンとスカンク・ワークスは、このプロジェクトで
1958年のコリアー・トロフィーを受賞されました。

ちなみに、同映画で描かれた宇宙飛行士たち「マーキュリー・セブン」にも
4年後の1962年、同賞が授与されています。

U-2での高高度偵察が非常にうまくいったアメリカ空軍としては、
さらなる高性能の高高度偵察機を取得すべく、ケリーと彼のチームに
伝説の迎撃&爆撃&戦略偵察機、ブラックバードSR-71を発注しました。

わたしはスミソニアンにある実機、アメリカのキャッスル博物館の戸外展示と
実物を二機見ているのですが、さすがにスミソニアンは、
その異様なシェイプの機体を高い場所から眺められるので圧巻でした。

ケリー・ジョンソンとスカンク・ワークスはブラックバードの制作で
1963年(マーキュリーセブンの翌年)にコリアートロフィーを受賞されています。

尾翼にはスカンクくんが・・・。

ロッキード F-117A ナイトホーク(Niguhihawk) 

ケリー・ジョンソンは1975年に設計の一線を退きましたが、
彼の設計思想の継承者であるスカンク・ワークスは
世界初となるステルス戦闘機、ナイトホークを生みました。

 

さて、ケリー・ジョンソンのマネジメントがロールモデルになった、
という話を前半にしましたが、彼の提唱したマネジメント14の法則、
というのがありますので、これをお読みの経営者の方々向けに全部あげておきます。

1、スカンクワークスのマネージャーは、あらゆる面で
プログラムの実質的に完全な制御を委任されなければならない。
彼は部門の最高責任者以上に報告する必要があります。

2、強力で小規模なプロジェクトチームは軍と産業界の両方から提供されるのが望ましい。

3、プロジェクトに関わる人数は厳しく制限し、 少数の精鋭。
(いわゆる通常のシステムと比較して10%から25%)で。

4、のちに変更可能な柔軟性があって非常にシンプルな図面を作れ。

5、重要な作業は徹底的に記録。

6、プログラムの完了までに予測される費用を最初から相手に伝えよ。
 突然のオーバーランで顧客を驚かせないように。

7、下請け業者は正式な入札によって決められること。
 入札手続きは、軍事手続きよりもえてして非常に優れているものです。

8、空軍海軍承認による検査システムには問題がある。
より基本的な検査の責任を下請け業者とベンダーに押し付けることになるので
あまり多くの検査を何度も繰り返さない。

9、請負業者には、最終製品をテストする権限も委任されるのが望ましい。
 初期段階でテストができないと設計する能力が急速に失われます。

10、契約の前に十分に合意してハードウェアを選定する。
 当社では意図的に遵守されていない重要な軍事仕様項目と
その理由を明確に記載することを推奨しています。

11、請負業者が政府のプロジェクトのために銀行に出向く必要がないように、
プログラムへの資金提供は時宜を得たものでなければなりません。

12、軍事プロジェクト組織と請負業者の間には、日常的に非常に緊密な
 協力と連絡を取り合い、相互の信頼関係がなければなりません。
 これにより、誤解と対応が最小限に抑えられます。

13、部外者によるプロジェクトとその担当者へのアクセスは、
 適切なセキュリティ対策によって厳密に制御する必要があります。

14、エンジニアリングおよびその他のほとんどの作業に携わる人数は
 わずかであるため、監視対象の従業員数に基づいてではなく、
 給与によって優れたパフォーマンスに報いる方法を提供する必要があります。

 

なお、この続きには口頭でしか伝えられたことのない第15の規則がありました。

"Starve before doing business with the damned Navy.
They don't know what the hell they want and will drive you up a wall
before they break either your heart or a more exposed part of your anatomy."

忌まわしい海軍と商売をする前にどうしても知らなければならないことがあります。
彼らは自分たちが何を望んでいるのかもわからず、あなたを壁に追いつめるでしょう。
あなたの心臓、またはあなたの解剖学的構造のより露出した部分を壊す前に」

 

 

続く。