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フランツとスティパ ドイツとイタリアのジェットエンジン開発〜スミソニアン航空博物館

2020-07-08 | 航空機

 

スミソニアン博物館プレゼンツ「ジェットエンジン機の歴史」シリーズ、
日本におけるジェットエンジン開発と橘花にかかわった技術者たちについて
ご紹介しましたので、次は枢軸国のよしみでドイツとまいります。

🇩🇪ドイツのジェットエンジン開発

ドイツのジェットエンジン開発は1936年から始まっていました。
前々回ご紹介したハンス・フォン・オハインが遠心力式のそれを搭載した
ハインケル178を設計したのは1939年のことです。

並行して、軸流式エンジンの開発は、ヘルベルト・ワグナー
マックス・アドルフ・ミュラーのもとで行われていましたが、
こちらは途中で中止となりました。

この期間で最も成功をみたタービンエンジンの開発は、
1941年、アンゼルム・フランツユンカー・エンジン社で行ったもので、
それがあのJUMO 004ターボジェットエンジンでした。

開発にあたってはゲッティンゲン大学のチームが助力し、
名機メッサーシュミットMe262に搭載されることになります。

Jumo 004アンゼルム・フランツ

ちなみにアンゼルム・フランツが戦後ペーパークリップ作戦で渡米し、
ライカミング社で開発したT53型は史上最も普及したエンジンの一つとして
UH-1ヒューイAH-1コブラに搭載されています。

そのライカミングのT53エンジンもスミソニアンに展示されています。

アメリカにとって初めてのガスタービン式エンジンで、
排気ガスによって駆動され、エンジンのドライブシャフトに連結するという設計です。
このアレンジにより、ヘリコプターの操作に有利な、
可変トルクにおける一定の回転数が可能になりました。

 

パルスジェットの開発は1931年、パウル・シュミットによって行われました。
パルスジェットはその後、第二次世界大戦中に使用された
フィーゼラーF1 103”バズボム”
を駆動するのに製造されました。

The Museum's Fieseler Fi 103 on display in the Great Gallery

シアトルの航空博物館に展示されているフィゼラーF1 103です。
HPを覗いてみたら、やはりここもクローズしていて再開の見込みは立っていません。

パルスジェットはこの写真でご覧のような筒の形状で、
アルグスAs 014という名称でした。

わかりやすいパルスジェットの仕組み。

こちらは第二次大戦中、鹵獲したMe262に搭載されていた
フランツのJUMO004ジェットエンジンを検分するカール・スパーズ元帥と、
ハロルド・ワトソン大佐ジョージ・マクドナルド元帥ら。

スパーズ元帥はアメリカ陸軍航空の生みの親のような人で、
ワトソン大佐はおそらくドゥーリトル空襲のメンバーの一人です。

彼が司令官として戦後ルフトバッフェの航空機を集めたチームは
「ワトソンの魔法使い」という渾名だったことを思い出してください。

ハインケルHe 280は、初めてジェットエンジンを搭載した戦闘機で、
1941年4月2日、初飛行に成功しました。
フォン・オハインが開発したHeS 8Aエンジンを翼に二基搭載しています。

He 178に埋め込まれたエンジンの取り付けに関する問題を解決しようとして、
最初初のツインジェット飛行機が生まれたというわけです。

ハインケルHe162 フォルクス-イェーガー

フォルクスイェーガー=国民の戦闘機という名前です。
(シュペーアとゲーリングが主導したという話を前にもしましたね)

橘花に搭載されたNE001エンジンを作る際参考にしたという
BMW003ターボジェットエンジンを搭載しています。

これも橘花の目的同様、大戦末期に、爆撃機迎撃目的で作られましたが、
危険な飛行特性により、それは結局採用されませんでした。

He 162A-1 120067号機 (1945年撮影)

機体は当時のドイツの国内事情を踏まえて、所々に木製部分があり、
熟練工でなくても制作できるようになっていました。
日本が石油不足で悩んだように、ドイツもアルミニウム不足だったのです。

それにしてもまるでちょんまげのように背中にジェットを積んでいるという
たいへんユニークな形ですが、前から見るとこんな・・・・。

スミソニアンではまだ鋭意準備中で展示はされていません。

ところでこの戦闘機の「危険な飛行特性」とはなんだったかというと、
一にも二にも、

「30分しか飛んでいられないこと」

そりゃ問題だわー。

時間切れで墜落し死亡するパイロットがいたばかりか、
10人中人の死亡原因が「機体の不具合による墜落」
だったといいますから、まるであのコメートのような
取り扱い危険兵器であったことがわかります。

ただしコメートはグライダー飛行で帰ってくることができましたが、
(その間敵に遭遇しなければですけど)

こちらはグライダーの飛行経験がある程度ではとても扱いきれない、
操縦の難しい飛行機でした。

戦争がすぐに終わったので被害はそう多くありませんでしたが、
もし正規に投入されていたら、たとえばヒトラーユーゲントのような
若いパイロットの命が多く失われていたに違いないと考えられています。

 

🇮🇹イタリアのジェットエンジン開発

CAPRONI- CAMPINI カプロニ・カンピニC.C.2 1940

カプロニ・カンピニ。

まるで料理かカンパリ酒の親戚みたいですが、

イタリア人技術者、スゴンド・カンピニによって設計されたものです。

mentiagenti.altervista.org/wp-content/uploads/2...目が怖い

ムッソリーニのファシスト政権は世界初のジェット機だと讃えましたが、
実は1年も前にハインケルのHe178が初飛行を極秘で成功させています。

機構はいわゆるハイブリッドで今でいうモータージェットと、
圧縮機を駆動するイソッタ・フラスキーニ製レシプロエンジン
どちらも搭載していました。

まずレシプロエンジン駆動された圧縮機によって吸入・圧縮された空気を
機体後部でガソリンと共に燃焼することによってジェット排気を得るという機構で、
カンピーニはこの構造のエンジンをサーモジェット(thermojet)と呼んでいました。

1941年11月30日には、シュナイダー・トロフィーレースで優勝した
第一次世界大戦時代の戦闘機&水上機パイロットのマリオ・デ・ベルナルディ
C.C.2をタリエドからグイドニアまで操縦することに成功させました。

Mario de Bernardi - Wikipediaマリオ・ベルナルディ

イタリア初の撃墜王」マリオ・デ・ベルナルディ ―水上機レーサーとして ...絶対自分のこと色男とか思ってるよね

スゴンド・カンピニと飛行前会話をするマリオ

 

1941年の飛行の際、彼は特別の丸い切手を貼った手紙を
到着地に届けたため、これが世界で初めてのジェット航空便となり、
イタリア国内はこの快挙に沸いたといわれています。

余談ですが、マリオ・デ・ベルナルディが亡くなったのは66歳。
そのころも元気に飛行機に乗っていたマリオは、ローマで
自分の飛行機を操縦してデモンストレーションを行っている途中、
心臓に異常を感じ、機体をすぐさま着陸させましたが、
着陸して数分後に心臓発作で亡くなりました。

愛機を墜落させることなくきっちり着陸し飛行機の上で死ぬ。
最後まであっぱれなイタリアンヒコーキ野郎ぶりではありませんか。
本人もこの最後は満足だったんじゃないかな。知らんけど。


また、イタリアには次のようなジェットエンジン研究者がいます。

コジモ・カノベッティ Cosimo Canovetti(1857−1932)

初期のイタリアにおけるパイオニア。(本人画像なし)
1905年にはタービンエンジンについての理論を打ち立て、
1906年に3馬力のモデルを製作しています。

都市計画や土木なども専門で、空気力学的抗力係数の決定でも
実績を残していますが、あるきっかけで土木工学を放棄し、
いきなり空力研究に情熱を傾け始めました。

20世紀の初めに、彼は軽くて操作がシンプル、そして振動がない
飛行船のエンジンを考案しました。
それはイタリアで、そしておそらく世界で最初のターボプロップエンジンでした。

彼の業績は、当時もかなり過小評価されてきましたが、今日でも、
その希少な有為性について知る人はあまりに少ないといわれています。

 

ルイジ・スティパ Luigi Stipa(1900−1992)

Luigi Stipa, un sogno lungo una vita - Editoriale Olimpia - 32,00 €

コールドジェットエンジンをデザインしたイタリアの技術者です。

1920年、スティパは彼の油圧工学の研究を応用して、
航空機が空中をより効率的に移動するための理論を開発しました。

通過する管の直径が減少するにつれて流体の速度が増加するという
ベルヌーイの定理を空気流に適用して、 航空機の働きを
より効率的にすることができると考えたのです。

スティパは何年にもわたってこのアイデアを数学的に研究し、最終的に、
ベンチュリ管の内部を翼のような形状にするという結論を証明するため、
実験的な単発プロトタイプ航空機の建造を行いました。

これを歓迎したのはファシスト政府です。
イタリアの技術の成果を世界にアピールするプロパガンダとして
この事業を承認し、1932年にプロトタイプを作成するのに成功します。

1932年、カプローニ・スティパ実験飛行機の正面図。
中空管の内部にプロペラとエンジンが取り付けられています。

スティパ・カプローニ

かわいい

1932年10月7日に飛行中の実験飛行機。
カプロニ社のテストパイロットドメニコ・アントニーニによって操縦されました。

飛行機の外観は著しく不快でしたが

プロペラがエンジン効率を高め、チューブの翼形も
スティパのコンセプトを証明しました。

同様のエンジン出力の航空機と比較して、上昇率が向上しており、
操縦特性が向上し、飛行中の安定性が高くなっています。

見かけ以外の大きな欠点(笑)は、プロペラの抵抗力が大きく、
設計上の利点のほとんどが打ち消されたことでした。

ただし、スティパはこれをを単なる「テストベッド」と見なしており、
問題にしていなかったようで、開発はすぐに終わりました。

彼はジェットエンジンを発明したわけではありませんが、この設計は
ヨーロッパ中のエンジン設計に影響を与えたと言われています。

 

フランスは、 夜間爆撃機にスティパの管内プロペラ案を、
ドイツでは、ルードヴィヒ・コルトが スティパの管付きプロペラに似た
ダクトファンを発明し、これは現在も使用されています。
また、ドイツのハインケルT戦闘機の設計は、スティパの概念に類似しています。 

イタリアでは、モータージェットを搭載したプロペラのアイデアから
カプローニカンピーニN.1が1940年に登場しました。

スティパは生涯、ジェットエンジンは自分が発明したと信じており、
自分が正当に評価されていなかったことに腹を立てていたと言われます。

しかし一部の航空史家はスティパに少なくとも部分的に同意しています。
なぜなら、現代のターボファンエンジンには、
彼の管内プロペラコンセプトの発展である部分が確かに存在するからです。

 

続く。

 



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1 Comments

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ベルヌーイの定理 (Unknown)
2020-07-08 12:38:49
>通過する管の直径が減少するにつれて流体の速度が増加するというベルヌーイの定理を空気流に適用して、 航空機の働きをより効率的にすることができると考えたのです。

ベルヌーイの定理って、さらっと書かれてますが、某大四年間の勉強のうちで、最も難解でした。飛行機の揚力やヨットが風上に向かって進む原理なので、感覚的には理解は出来ますが、数式は結局、理解出来ませんでした。それでも卒業出来たから、よしとします(笑)

ヨーロッパは、半日運転したら、国境を越えられる国がほとんどなので、30分しか飛べない戦闘機でも、十分、役に立ったと思います。スウェーデンはロシア(ソ連)を仮想敵としていますが、レーダーでロシア機を掴んで迎撃機を発進させると、10分程度で会敵するので、サーブの戦闘機は30分しか飛べません。

脅威が近く、すぐに会敵出来るので、長く飛ぶことよりも、短時間の補給で反復出撃出来る方が大事で、サーブの戦闘機は15分の補給で再発進出来ます。自衛隊にはマネ出来ません。
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