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スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(英米編)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-17 | 飛行家列伝

スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーには
世界各国の「エース」と言われた戦闘機搭乗員の紹介があります。

まず「エースとはなんぞや」から始まる説明をどうぞ。

空対空戦闘で、5機以上の敵機を撃墜したパイロットをエースと呼びます。
第一次世界大戦時、フランスによって最初に使用されたこの称号は、
公式ではないことが多かったにもかかわらず、すぐに、全ての戦闘員
(世界各国の)に採用される「基準」となりました。

もともとは、エースの資格には10機撃墜が最低条件でしたが、
第一次世界大戦の最後の年までには、5勝が基準となりました。

第一次世界大戦からベトナム戦争までの戦争に従事した約5万人の
アメリカ軍戦闘機パイロットのうち、エースになり得たのはそのうちの3%未満です。

ここに紹介されているのは、第二次世界大戦時の各国のトップエースです。

スミソニアンが選んだエースは、全部で21名です。
もちろん「5機以上」ならここに収まりきれる数ではありませんから、この21名は
その中のトップエース、文字通り「エース・オブ・エーセズ」ということになります。

■ アメリカ合衆国

リチャード・アイラ・ボング陸軍少佐 

Maj. Richard Ira Bong (September 24, 1920 – August 6, 1945)USAAF 

40機撃墜 愛機:マージ号

USAAFはUnited States Army Air Forces(アメリカ合衆国陸軍航空隊)のこと。
ボングについては当ブログでも何度かご紹介しています。

南西太平洋戦線で日本軍機とP-38で戦い、1944年に第一次世界大戦中、
リッケンバッカーの記録26機を上回り、アメリカ軍のトップ・エースとなりました。

その後は本国でP-80シューティングスターのテストパイロットに回されましたが、
終戦直前の1945年8月6日、テスト飛行で墜落死しました。

トーマス・ブキャナン・マクガイア・ジュニア陸軍少佐 

Thomas Buchanan McGuire Jr. (August 1, 1920 – January 7, 1945) USAAF

38機撃墜 愛機:パジーV世号

ジョージア工科大学という超難関校の学籍を捨ててパイロットになったマクガイアJr.は、
南太平洋でやはりP-38ライトニングでボングと撃墜数を争うエースでした。

 

1945年1月7日、ネグロス島上空の哨戒任務中に帝国陸軍航空隊の
杉本明准尉操縦の一式戦「隼」、福田瑞則軍曹操縦の四式戦闘機「疾風」と交戦、
戦死しました。

David McCampbell.jpg

デイビッド・マッキャンベル海軍大佐 

Cap. David McCampbell  USN (January 16, 1910〜June 30, 1996 )aged 86

34機撃墜

偶然ですが、マッキャンベル大佐もジョージア工科大学から海軍兵学校に進んでいます。

F6Fヘルキャットのトップエース。
第二次世界大戦のアメリカ人のエースの中で3番目に高い得点を記録し、
戦時中に生き残ったアメリカ人のエースの中で最も高い得点を記録しました。

また、1944年10月24日、フィリピンのレイテ湾の戦いの開始時に、
1回のミッションで9機の敵機を撃墜するという空中戦記録を樹立しています。

ちなみに彼は信号士官時代、日本の潜水艦が撃沈した空母「ワスプ」に乗っていて
生還し、そこから搭乗員となったという経歴の持ち主です。

現在のスミソニアン国立博物館に展示されているF6F-5ヘルキャットは
彼の乗っていた空中戦の勝利の数だけ旭日旗が描かれたものを再現しています。

Francis Gabreski color photo in pilot suit.jpg

”ギャビー”・ガブレスキー陸軍大佐

Col. Francis Stanley "Gabby" Gabreski (January 28, 1919 – January 31, 2002) 

USAAF

31機撃墜

ポーランド系アメリカ人。
第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるアメリカ陸軍航空隊の戦闘機エースであり、
朝鮮戦争におけるアメリカ空軍のジェット戦闘機のエースでもあります。

2つの戦争でエースになったアメリカ人搭乗員は7人いますが、その一人。

ポーランド語が話せたことからRAFでの戦闘機デビューをした彼は、
リパブリックP-47サンダーボルトに乗ってルフトバッフェと戦い、
ヨーロッパ作戦地域のトップ・エースとなりました。

28回の撃墜スコアは、太平洋戦域のアメリカのトップ・エースであった
リチャード・ボングの撃墜数合計に匹敵します。

この対ドイツ軍成績は他のアメリカ人パイロットの誰にも破られていません。

グレゴリー・”パピー”・ボイントン海兵隊中佐

Lt. Col. Gregory ”Pappy" Boyington  (December 4, 1912 – January 11, 1988)

USMC

23機撃墜

中華民国空軍の「フライング・タイガース」(第1アメリカ義勇軍)出身。
海兵隊エースとしては彼がトップとなります。

海兵隊に再入隊後は南太平洋に配備され、F4Uコルセア戦闘機で戦闘任務を行います。
南太平洋では零戦に対し劣勢で一機も撃墜できなかった彼ですが、
自身が日本機に撃墜され、潜水艦に捕獲されて捕虜になる直前の32日間で
急激に記録を伸ばし、リッケンバッカーの25機を抜く26機撃墜を行いました。

このときボイントン撃墜を自分が行ったと主張したのが、帝国海軍の川戸正治郎上飛曹です。

この主張は英語wikiによると最終的に反証(つまり否定)されていて、しかも

「川戸は反証にもかかわらず、死ぬまでその話を繰り返した」

と彼の主張に疑義を呈する書き方がされています。
(日本語Wikiでは”推定されている”とのみ記述)

■ イギリス

マーマデューク・トーマス・セントジョン”パット”パトル王立空軍少佐

Sq. Ldr. Marmaduke Thomas St. Jhon ”Pat "Pattle(3 July 1914 – 20 April 1941)

RAF

51機以上撃墜

Squadron Leader Pattle of 33 Squadron RAF Greece IWM ME(RAF) 1260.jpg左・パット

Marmaduke Thomas St. John Pattle, DFC & Bar。
これが人の名前とタイトルだということすらピンとこなかったわけですが、
本人も自覚していたらしく、自分の愛称を家名から取った「パット」にしています。

マーマデュークなる名前はお祖父様のミドルネームから取られています。
このファーストネームで特に学齢期、彼はなかなか苦労したかもしれません。

彼は南アフリカ生まれで、18歳で南アフリカ空軍に志願したものの却下されたので、
イギリスに渡り、短期で王立空軍のパイロットになりました。

イタリア侵攻後、彼の飛行隊はギリシャでイタリア軍と戦い、
彼の撃墜記録はほとんどがそこで達成され、RAFのトップエースになります。

最後の日、彼は前日からの高熱にもかかわらずハリケーンで出撃し、
ルフトバッフェのメッサーシュミットBf110重戦闘機に撃墜され戦死しました。

ジェームズ・エドガー・”ジョニー”・ジョンソン王立空軍少将

Air Vice Marshal James Edgar Johnson, CB, CBE, DSO & Two Bars, DFC & Bar, DL 
(9 March 1915 – 30 January 2001)

RAF

38機撃墜

この人も自分の愛称を本名には全く含まれない「ジョニー」にしています。

ところでイギリス人の名前(偉くなった人)には、このように
ずらずらとタイトルがくっついてくるのが常ですが、
この際簡単に説明を加えておくと、

CB=バス勲章(騎士団)
CBE=大英帝国勲章 (騎士団)&DSO=メダルリボン
DFC=殊勝飛行十字章(戦功章&DSO
DL=副統監職

となります。

Wing Commander James E 'johnny' Johnson at Bazenville Landing Ground, Normandy, 31 July 1944 TR2145.jpg愛犬(ラブラドール)はサリーちゃん

ジョンソンはエンジニアからパイロットに転身しました。
ラグビーで骨折した鎖骨の手術のため、バトル・オブ・ブリテンには参加できませんでしたが、
その後の対独掃討作戦に、ほとんど休むことなく参加し、撃墜記録を上げました。

彼が参加した作戦には、ノルマンディーの戦い、マーケットガーデン作戦、
バルジの戦い、西部連合軍のドイツ侵攻などがあります。

スミソニアンの記述だと38Victoryとなっていますが、Wikiなどでは、

個人勝利34、共同撃墜7、共同未確認3、損壊10、地上機撃破1

という記録になっています。 

個人勝利ではメッサーシュミットBf109を14機、フォッケウルフFw190を20機破壊であり、
対ルフトバッフェにおける西側連合軍の戦闘機エースとしては、トップに君臨します。

 

続く。

 


「クェスチョンマーク号の挑戦」 戦術の革新者 エルウッド・ケサダ中将〜陸軍航空のパイオニア

2021-01-31 | 飛行家列伝

スミソニアンの陸軍航空のパイオニアシリーズで名前が上がっていた中で
わたしが唯一知らなかったのがこの人です。

エルウッド”ピート”リチャード・ケサダ中将
Elwood ’Pete' Richard Quesada 1904-1993

 

Elwood Richard Quesada - Wikipedia

1891年生まれのカール・スパーツ、1896年生まれのアイラ・イーカーより
ケサダはそれぞれ13歳、7歳若いわけですが、軍事航空黎明期において
彼らはほぼ同時期に飛行機に乗っていたことになります。

ちなみにスパーツがパイロットになったのは1916年25歳、イーカーは1919年23歳、
ケサダはいつかわかりませんが、もっと早かったと思われます。

そして、あの「クェスチョンマーク号」による滞空記録達成で
彼らがチームを組んだとき、ケサダは若干25歳でした。

「ケサダ」というファミリーネームはご想像の通りヒスパニック系で、
彼はスペイン人の父親とアイルランド系アメリカ人の両親のもとに生まれました。

黎明期の航空部隊では士官学校出が少なく、たまにいたとしても
ここだけの話決して成績上位ではない者が進路に選ぶ、という印象ですが、
彼もまたアナポリスではなく、一般大卒の予備士官です。

 

■ 航空戦術の先駆として

ケサダはのちに戦術航空司令部の指揮官に任命されますが、初級士官の頃、
すでに地上部隊の近接航空支援の概念に興味を持つようになりました。

ヨーロッパのキャンペーン中に戦術空中戦の開発のアイデアを得て
行った
革新には、マイクロ波早期警戒レーダー(MEW)の採用、および
VHF航空機無線機を装備し航空管制官を兼ねるパイロットを配置することが含まれます。

後者の技術は、戦闘爆撃機との直接地上通信を可能にし、その結果
フレンドリーファイアー(味方への誤攻撃)を減らすことに加えて、
敵地上部隊への攻撃、つまり近接航空支援
の精度と速度が上がりました。

その結果、機甲部隊が迅速に前進し砲兵支援を行うことができるようになり、
これらの戦術改善は、西部戦線において連合国側に多大な貢献をもたらしました。

■ 戦後空軍におけるケサダ 

1946年、ケサダは戦術航空司令部(TAC)の最初の指揮官に任命され、
その後、新たに独立した米空軍の大将に昇進しました。

しかし、ケサダは、空軍においてTACが無視されており、資金調達やプロモーションが
主に戦略航空司令部に偏っているのを見て、すぐに幻滅することになります。

1948年、空軍参謀本部は、TACから航空機とパイロットを排除しその地位を引き下げました。
これは、戦後のアメリカが日本への原子爆弾投下の成果、空軍の主力を戦略爆撃に据え、
空戦能力の向上を疎かにしようとしたということでもあります。

ケサダはその流れに不満を持ちなんとかしようとしますが、

鈍くてせっかちな性格のため(wiki)

現場に論争を巻き起こしただけに終わり、就任してわずか2か月後に解任されてしまいます。
彼は結局1951年、47歳で空軍から早期引退することになりました。

 

■ クェスチョンマーク号の挑戦

さて、ケサダがその前半の軍歴において急激に出世したのは
ほかでもない、クェスチョンマーク号による記録達成に成功したおかげですが、
今日は、スパーツ、イーカーの紹介の時には簡単にご紹介した
そのクェスチョンマーク号の挑戦についてちょっと詳し目に触れておきたいと思います。

クェスチョンマーク号( 以下”? ")は、米陸軍航空隊の
アトランティック・フォッカー C-2A輸送機です。

1929年、カール・スパーツ少佐の指揮で、空中給油の実験を兼ね、
飛行耐久記録達成を目指して飛び立ち、その結果、
150時間以上というノンストップ滞空世界記録を樹立しました。

それを可能にしたのはもちろん空中給油という技術の発明です。

空中給油が最初に行われたのは1923年のことで、サンディエゴで
陸軍パイロットがさっそく9回の空中給油を行い37時間滞空記録を確立、
その後1928年、やはり陸軍航空隊が 61時間と記録を伸ばしています。

今回の挑戦はその61時間を上回ることを目標に行われました。

 

きっかけは本日の主人公、米陸軍航空隊のエンジニアだったエルウッド・ケサダ中尉
1928年、任務飛行中、燃料不足から墜落しそうになるという経験をしたことでした。
かれはもっと空中給油の技術を身近なものにしなければいけない、として、
実験方々これまでの滞空記録を破る計画を考案したのです。

ケサダ中尉がその計画を上司だったアイラ・イーカー大尉に提出したところ、
イーカーは大変乗り気になり、結果、実験を単なる宣伝目的にせず、
あくまでも軍事利用を実証することという条件
でプロジェクトが承認されました。

そしてプロジェクト全体の指揮が、カール・スパーツ少佐に任されたというわけです。


早速使用機にアトランティック・フォッカーC-2Aトランスポートが選ばれ、
プロジェクトのためにタンクが貨物室に2基増設するなど改造がなされました。
また翼にキャットウォークが構築され、整備士が緊急メンテナンスのために
エンジンにアクセスできるようにもなっています。

プロジェクトの噂が広まるにつれ、メンバーは何度となくインタビューを受けますが、
その際には必ずと言っていいほど達成する予定の滞空時間を尋ねられるので、

彼らはいつも同じ答えをするのが常でした。

「That's the question. (それが問題です)」

そのうち彼らはメディアの質問への答えとして胴体の両側に大きな疑問符をペイントしました。
それが話題を呼ぶとともに耐久飛行への関心を呼び起こし、

いつの間にか飛行機のニックネームそのものになったというわけです。


プロジェクトのスケジュールは1929年1月1日、ロサンゼルスを出発し、
パサデナで行われるローズボウル(フットボール)の上空で給油するなど、
どう見ても「宣伝目的だろう」といわれそうな派手な内容となっていました。

当時は無線機の信頼性が低く、「?」号は重量を極力制限しなければならなかったので、
すべての通信は、手旗、発光信号、懐中電灯、メッセージバッグ、
供給ラインに結び付けられたメモ、または随伴機の機体胴体にチョークで書いて行いました。

そのため随伴機のニックネームは「黒板飛行機」になったということです。

Pictured is the crew of the

「?」号の乗組員は、写真左から

ハリー・ハルバーソン大尉、アイラ・イーカー少佐、
ロイ・フー軍曹、カール・スパーツ中佐(隊長)、
エルウッド・ケサダ大尉

の総勢5名。
(一番右に写っているのは誰だかわかっていないそうです)
待機する給油機は2機で、それぞれに2名が搭乗していました。

そして「黒板機」には4名が乗っていました。

 


1929 年の元旦、午前7時26分に「?」号はイーカー大尉の操縦で、重量を節約するために
380 リットルの燃料だけを運んで、離陸しました。

巡航中はハルバーソン中尉かケサダ中尉のいずれかが操縦を行い、
イーカー大尉は効率的なエコ飛行のためスロットルを監視する役目です。
ログは副操縦士によって記録され、毎日地上に向けて投下されました。

A Fokker C-2A is refueled in flight by a modified Douglas C-1 transport aircraft during a refueling operation dubbed 給油中

離陸1時間も経たないうちに、最初の給油が行われました。
給油中、イーカーとハルバーソンがスロットルを制御、スパーツとケサダが燃料交換を監督し、
フーはポンプを作動させる係を務めました。

両機が時速130kmで安定してから給油機 は上から?号に近づきホースを繰り出します。
スパーツはプラットフォームに登り、雨具とゴーグルを着用し、
ホースを受け取って上部胴体に取り付けられた「レセプタクル」に入れます。

バケツから作られたレセプタクルは、燃料タンクにつながっていて、
バルブを開くと燃料は重力により毎分280 リットルがバケツを通じてタンクに流入し、
そこでフー軍曹がポンプを手作業で動かし翼タンクに入れるのです。

食料、郵便、工具、スペアパーツ、その他の供給品も同じ方法で渡されました。

(ところでどこにもかいていないのですが、トイレはどうしていたのでしょうか)

Flight of the Question Mark?号内のケサダ

「?」号の5人の男性は、飛行前に健康診断を受けて体調は万全の状態。
騎乗での彼らの食事のために航空医は特別食を用意しました。

しかし、重量の節約と安全上食品を加熱するための電気ストーブは廃止されたので、
彼らのために元旦の七面鳥を含む温かい食事が送られました。

クルーは燃料タンクの上の二段ベッドで寝ることもでき、トランプ、読書、
手紙を書くことによって退屈を紛らわせていました。
(手紙は書くたびに地上に投下すればすぐに拾ってもらえます)

1月3日の夜には新記録達成したので、サポートクルーはお祝いに
チーズ、イチジク、オリーブ、キャビアの瓶詰め5つを送りました。

しかし、給油が失敗したこともあります。
燃料容器から引き出す際、山岳地で気流が乱れ、揺れでホースを取り落としたスパーズは
高オクタン価ガソリンを体中に浴びることになってしまいました。

ケサダは安定した飛行のために海上に進路を取りましたが、スパーツは
ガソリンの化学やけど?を懸念し、パラシュート降下がいつでもできるよう、
イーカーに地上の飛行を続けるように命じました。

(さすがのスパーツもちょっとパニクっていたのかもしれません)

しかし結局スパーツは衣服をすべて脱ぎ捨て、油をつけた雑巾で体を拭き、
そのままの姿(服を脱いだ状態?)でもう一度給油を行っています。
「化学やけど」は大丈夫らしいと判断したのでしょう。

衣服については交換品がすぐに配達されました。
しかしトイレの件とともにわたしなどどうしても気になってしまうのですが、
1週間機上で限界の生活をした彼ら5人は、その間着の身着のままだったわけですから、
地上に降りた時にきっとものすごい状態だったんだろうなあ・・・・。

 

ケサダも同じ事故に見舞われましたし、スパーツの燃料流出は一度に止まらず、
あと二回でしたが、怪我はありませんでした。

その都度油を使用して皮膚を拭き、酸化亜鉛を使用して目を保護してしのいでいます。

霧、乱気流、暗闇のため、給油はスケジュール通りになかなか行えず、
給油中にエアポケットに遭遇すると、たいてい悲惨なことになりました。


乗組員はエンジンを保護するために低速の巡航速度で飛びましたが、
エンジンにかかったストレスは目に見えて馬力を失わせていきました。

そして1月7日午後、ついに左翼エンジンが停止。

フー軍曹はキャットウォークにいって修理を試み、プロペラをゴム製のフックで固定しました。
残りのエンジンも目に見えて疲弊していきます。

限界でした。

「?」号は離陸後150時間40分14秒ぶりにメトロポリタン空港に着陸しました。

燃料補給37回。
この飛行は、持続飛行、燃料補給飛行、
および距離に関する既存の世界記録を破りました。

そして乗組員5人全員に殊勲飛行十字章が授与されたのです。

 

この壮挙の影響は大きなもので、クエスチョンマーク号の記録達成以降、
わずか1年以内に民間人によって40回の滞空記録滞在挑戦が試みられ、
そのうち9回は「?」号を超えるという結果になりました。

 

このプロジェクトに関与した16人の陸軍飛行士のうち6人は後に将軍になり、
スパーツ・イーカー、ケサダはこのブログでもお話ししたように、
第二次世界大戦中に米陸軍空軍で重要な役割を果たす重職を務めることになりました。

カール・スパーツは陸軍空軍の司令官に昇格し、米空軍の初代参謀本部長となり、
アイラ・イーカーは第8地中海地中海連合軍を指揮しました。
そしてエルウッド・ケサダはフランスのIX戦術航空司令部の指揮官になっています。

残りの将校、ストリックランド、ホイト、およびホプキンスは米国空軍の准将になり、
ハルバーソンは陸軍大佐にまで昇格してB-24リベレーターを率いる第10空軍の
最初の指揮官となって第二次世界大戦に参戦しました。

 

クェスチョンマーク号機体のその後についても書いておきましょう。

輸送飛行機としての耐用年数を果たした「?」号は、1932年11月3日、皮肉なことに
飛行中に燃料がなくなって着陸を試みるも、深刻な損傷を受け、廃棄されました。

 

1948年1月、クエスチョンマークプロジェクトを指揮してから19年後、USAFの首席補佐官、
カール・スパーツは空軍の戦略上の最優先事項ー空中給油システムーを決めました。

その結果、すべての第一線のB-50爆撃機に空中給油装置を改造することが決定され、
世界で最初に結成された専用空中給油ユニットである第43と第509の空中給油飛行隊は、
1949年1月から運用を開始しました。

そして1948年、「フライング・ブーム」による供給システムが開発され、
その後1949年に
「プローブ・アンド・ドローグ」システムが、そして
シングルポイント受信装置を使用した
戦闘機の機内給油も実用化され、この時点で
USAFは未来の空中給油に関する大部分のコンセプトにコミットすることになったのです。



最後に、その扱いにケサダが激怒して辞めるきっかけになったTACですが、
その後朝鮮戦争が始まり、
航空戦術の独立を必要としたアメリカ空軍は、
これを機会にTACを再編成する決定をしました。

再結成されたTAC司令官には、第二次世界大戦中にXIX TACを率いたケサダの友人、
オットー・ウェイランド将軍が指名されたということです。

Weyland op.jpg

ケサダが辞めていなければ、彼がこの地位にあったかもしれません。
ドンマイ。

 

続く。

 

 


独立空軍創設の悲願 ”ハップ”・アーノルド〜陸軍航空のパイオニア

2021-01-25 | 飛行家列伝

                                     

アメリカ軍の航空を語っていると、いつのまにかおなじみになってしまうのが、
「ハップ・アーノルド」という名前です。
つまり陸軍航空ではそれほど重要人物なんだろうと思っていましたが、
スミソニアン博物館の陸軍航空コーナーにこの人の似顔絵があったので、
この際その経歴とバイオグラフィーを取り上げてみることにしました。

 

ハップ・アーノルド

爆撃機戦略の父

1934年 アメリカ郵便パイロット

とキャッチフレーズがあります。
パイオニアシリーズはほぼ全員が何かの「父」なのですが、
この超有名人が爆撃機戦略の父だったとはちょっと意外でした。
続いては

1911年ライト兄弟より航空を学ぶ

マーチン爆撃機による記録飛行を指揮
ワシントンDCとアラスカの往復 1934

と書かれていますが、これは彼の功績のほんの一部にすぎません。

スマイリング・ハップ

ヘンリー・ハーレー「ハップ」アーノルド
Henry Harley 'Hap' Arnold(1886ー1950)

は、陸軍と空軍の将軍の階級を保持している数少ない軍人です。

航空のパイオニア。

アメリカ陸軍航空局長(1938ー1941)。

五つ星ランクを保持する唯一の米空軍将軍。

二つの異なる軍隊で五つ星ランクを持つ唯一の将校。

これでは有名なのは当たり前といったところです。
たまたま彼がその道に足を踏み入れたのが、ぴったりと
航空の時代がちょうど開けたところであったという意味で、
航空人として彼ほど幸運な男はいなかったということでしょう。

もちろん、そのチャンスに十分波に乗れるだけの実力を
持っていたということが前提条件としてありますが。

彼の通称である「ハップ」ですが、なんと「ハッピー」からきています。
彼の写真はどれを見てもいかにもその名に相応しくほほえんでいるのですが、
これは彼が1911年、つまり飛行機の免許をとってすぐ、
スタントパイロットを務めたときのサイレント映画のスタッフが名付けたもので、
彼の妻も手紙で彼をこう呼んでいたということです。

親と妻は彼を「Sunny」と呼ぶこともあったそうですが、
ハップと言いサニーと言い、つまり彼はそういう雰囲気を持っていたのでしょう。

【初期の人生】

「ハップ」アーノルドは1886年、ペンシルバニア州の外科医の息子として生まれました。
母親はいつも楽しげに笑っているような女性で、彼は母親の影響を受けたのかもしれません。

父親は彼の兄を軍人にするつもりだったのですが、反抗されたため、
全くその気がなかったアーノルドが代わりにウェストポイントの試験を受けました。

試験の結果は補欠。
ところが、合格者が結婚するつもりであることが明らかになり、
妻帯者は入学できないという士官学校の掟により、
彼は失格になり、代わりにアーノルドが繰り上げ合格者となったのでした。

ウェストポイントでの彼の成績は、特に優秀というわけではありませんでしたが、
数学と科学系が優れていため、中間と最下位を行ったり来たりしていました。
いたずら者のグループ「ブラックハンド」のリーダーになったり、
ポロで活躍したりと、なかなか楽しい候補生生活を送ったようです。

本人は騎兵隊への割り当てを強く望んでいましたが、
成績に一貫性がなく、最終的に111名のうち66番という席次だったため、
希望通りに行かず、歩兵に任命されてしまいます。

とにかく歩兵の任務が嫌いでしょうがなかったらしい彼は、
配置に抗議するなど無駄な努力をしていましたが、説得されて
いったん歩兵任務についてチャンスを伺っていたところ、
陸軍武器科(戦闘後方支援)なら今だけ少尉に即時任官、
という条件を提示されたので、異動を申請することにしました。

しかし、その試験の結果を待っているあいだに、彼はいつからか
自分が航空に興味を持っていたということに気づくのです。

自分の努力不足とは言え、兵学校時代のぱっとしない成績のせいで
行きたい配置にもつけず、かといってここで武器科に異動したとしても
出世できるかというとどうもそうではなさそうだ。
それならば、発足したばかりでまだ誰も経験していない航空分野で
一か八かやってみようか・・・。

きっとアーノルドはそんなふうに考えたに違いありません。
そして、その「賭け」は彼の将来に最良の結果をもたらすことになります。

 

【軍事航空のパイオニアとなって】

アーノルドは信号隊への移動を要求する手紙を送り、1911年、
オハイオ州にあるライト兄弟の飛行学校で修学する命令を受け取ります。

「わーい♫」

アーノルドは他の陸軍、海軍軍人(ペリーのひ孫にあたるジョン・ロジャーズ中尉
民間人3名とともに28回のレッスンを受け、1911年5月、
初めての単独飛行を行うことに成功しました。(写真はそのころのハップ)

そして連邦航空局のパイロット証明書第29号証明書、さらに
一年後、軍用飛行士証明書第2号を受け取り、
1913年に新しく制定された軍飛行士のバッジ着用を許可された
最初の24人のうちのひとりになりました。

その後単独飛行を数週間経験したアーノルドは、新しく設立された
航空隊信号部隊で陸軍の最初の飛行教官となって後進を指導しました。

この頃の航空に人が少なかった理由は単純でした。
要は飛行機という乗り物そのものに安定性がなく、ともすれば
死にあまりにも近い、トゥー・デンジャラスな職種であったからです。

その危険を承知の上で、自らパイオニアになることを選んだ飛行士たちの多くは
自分のミスではない事故で、しばしば命を落としていきました。

 

アーノルドと一緒にパイロットの資格をとったペリーの曾孫ジョン・ロジャーズも
45歳の若さで機体が川に墜落して亡くなっていますし、彼の兵学校の同級生、
またライト航空スクールのパイロットも立て続けに墜落事故で死亡し、
彼自身も不時着事故を起こしたこともあって、この頃からアーノルドは
激しいPTSDを発症し始めています。

そしてついに訓練中海に墜落し、顎に裂傷を負うという大事故を起こしました。

きっと、もうダメ俺限界、という状態だったに違いない彼に、
陸軍から無情にも「その年の最も優れた軍事パイロット」を決める
マッケイ・トロフィーというコンテストに参加せよという命令が下ります。

命令とあっては拒否するわけにもいかず、出場した彼は見事優勝しました。

しかしその1ヶ月後、飛行中激しい乱気流に巻き込まれ、スピンに陥るも
機体をリカバーして立ち直り、死を免れるという経験をした彼は
着地するなり休暇を申請しています。

これはいわばマイルドな任務拒否というものでしたが、当時パイロットが
死と隣り合わせの危険な任務というのは共通認識だったため、
その点理解のあるアメリカ軍での申請は
あっさりと認められ、
その任務拒否を咎められることもありませんでした。

このあと彼は約3年間飛行任務に就かず、結婚して子供を設け、
大隊長の副官という任務でフィリピンに駐在していましたが、帰国後、
元同僚からの励ましを受け、4年間の間に急激発展した
シンプルな飛行制御システムを持つ安全なカーティスJNトレーナーで
1日15〜20分だけ空に上がり、結果、恐怖を克服し、2ヶ月後、
彼は再びJMA(ジュニア・ミリタリー・アビエイター)の資格を得ています。

 

1917年、第一次世界大戦にアメリカが参戦した時、彼は
フランスへの派遣を希望しましたが、航空セクションは
ヘッドクウォーターとしての彼は資格なしと判断したので、
その要請は聞き入れられませんでした。

彼の昇進は全体的に無茶苦茶で、1917年6月少佐に昇格、
2ヶ月後の8月に大佐に昇格したとおもったら1920年6月大尉に降格。
と思えば翌月7月にまた少佐に昇格という具合でした。

自分の階級がなんだったかわからなくなることもあったのでは、
というくらい上下動を繰り返しています。

1918年、やっぱりスマイリング

【ビリー・ミッチェル裁判】

ここでまた再び、あの独り十字軍、ビリー・ミッチェルのことを語らなくてはなりません。

陸海軍から航空を独立させようとするミッチェルの野望は、
当時の航空関係者を巻き込み、ある意味踏み絵を踏ませることになりました。

1918年5月20日、航空部隊は信号隊から分離されることがになりましたが、
あくまでも地上部隊の統制下にありました。

当時の戦争省参謀、野戦砲の将軍であったチャールズT.メノヘール少佐

「軍事航空は単に(軍隊)の武力以外の何物にもなり得ない」

という立場だったからです。
そしてメノヘールの後任になったのが「あの」メイソン・M・パトリックでした。

パトリックが59歳であるにもかかわらずパイロットの資格を取ったこともあって、
空軍の擁護者であり、独立空軍の支持者であったというのは前述の通りですが、
彼は単一の統一空軍を創立する(ついでに海軍を廃止する)という急進的な
航空サービス副局長のビリー・ミッチェルと頻繁に衝突せざるを得ませんでした。

アーノルドはというと、こちらは完璧にミッチェル支持派だったため、そのせいで
パトリックとの関係は最悪のものになり相互に嫌悪し合うことになります。

その後彼は、わたしがいつもサンフランシスコに滞在中散歩する(笑)
クリッシーフィールド飛行基地の司令となりますが、私生活では胃潰瘍、
左手の3本の指先の切断などの深刻な病気と事故を経験したうえ、
妻と息子にも深刻な健康問題が起こります。

息子ブルースを猩紅熱、4人目の子供ジョンを急性虫垂炎で亡くし、
アーノルドと妻のビーは喪失の痛みから立ち直るのにほぼ1年を要しました。

1924年、パトリックは犬猿の仲であるはずのアーノルドをなぜか抜擢し、
航空サービスの情報部門でミッチェルの補助につけました。

その後、ミッチェルが「シェナンドー」の事故について海軍を激しく非難し、
それが理由で軍法会議にかけられたとき、アーノルドはミッチェルを擁護すると
昇進に響くと警告されたにも関わらず、カール・スパーツ、アイラ・イーカーと共に
ミッチェルのために証言を行っています。

結局裁判でミッチェルは有罪判決を受けたわけですが、アーノルドらは
情報部のリソースを引き続き使用して、理解のある国会議員や航空部門各所に
ミッチェルに成り代わって航空群設立のための運動を行いました。

その報告を受けた戦争省がパトリックに犯人を見つけて懲戒するよう命じ、
すでにアーノルドらの活動について
知っていたパトリックは
代表(見せしめ?)としてアーノルドを呼び出しました。

「君たちのやっていることは上に筒抜けだ。
辞任するか、軍法会議で裁かれるかどちらかを選べ」

「それじゃ軍法会議で」(あっさり)

パトリックはその答えにたじろぎます。

一般世論ではミッチェルの裁判で彼を擁護する声が圧倒的に多く、
海軍上層部が裁判で負ける可能性もあると危惧したからです。

仕方がないのでパトリックはアーノルドを航空の主流からはずし、
第16観測飛行隊の指揮官に「左遷」することにしました。

報告書には

「アーノルドは陸軍の一般秩序に違反したとして懲戒処分を受けた」

と書かれていたようですが、すぐに彼はその評判を挽回しました。

彼自身の努力というより、時代がミッチェルの正しさを証明したからです。

 

 

このころ、一人息子を設けたばかりの彼は、少年向け小説を出版しています。

「ビル・ブルースシリーズ」

と名付けられた6冊の本は、少年たちに航空に興味を持たせる内容でした。

 

アーノルドの昇進はミッチェル事件があってしばらく止まっていましたが、
1931年に中佐となったあと、2度目のマッケイ・トロフィーを受賞したこともあり、
1935年には二階級特進していきなり准将、3年後に少将へと順調に出世しています。

航空分野で彼の世代に他にほとんど人がいなかったからという理由もあるでしょう。

 

【民間人虐殺の汚名〜第二次世界大戦】

1941年6月、日米開戦前に中将に昇進したアーノルドは、開戦後
1942年に組織されたアメリカ陸軍航空群の司令官に就任し、またもや
1年を待たずに大将に、1944年に陸軍元帥に昇進しました。

人がいないせいか、戦時ゆえに特進もありだったのかわかりませんが、
一つ確実なことは、空軍力が戦争遂行において最も重要なものになるという
ミッチェルの予言は間違っていなかったということであり、
アーノルドの出世によってミッチェルの無念も晴らされたということでもあります。


さて、日本の民間人居住地域を狙った米軍の都市空襲は、日本人にとって
カーチス・ルメイの名前と共に最悪の戦時記憶として残っているわけですが、
元々この大規模で継続的な空爆ならびに焼夷弾の使用を最初に言い出したのは、
ルメイではなくこのハップ・アーノルドでした。

彼は科学者から

「焼夷弾の使用についての人道的側面について勘案すると
その使用の決定は高レベルで行われなくてはならない」

という提言を受けていましたが、上層部に判断を問うことをせず、

「トワイライト計画」「マッターホルン作戦」

として立案し実行に移しています。

そして、ヘイウッド・ハンセル准将から実行指揮官をカーチス・ルメイに変えました。
ハンセルは戦後、自分の罷免は精密攻撃から無差別爆撃に変えるためだった、
と語っていますが、それが真実だったかはともかく、アーノルドは
ドレスデン爆撃についても

「ソフトになってはいけない。
戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」

と言い切り、また、東京空襲を行う部隊を前に、

「君たちが日本を攻撃する時に日本人に伝えてほしいメッセージがある。
そのメッセージを爆弾の腹に書いてほしい。
”日本の兵士たちめ。
私たちはパールハーバーを忘れはしない。
B29はそれを何度もお前たちに思い知らせるだろう。何度も何度も覚悟しろ”と」

と演説し、日記には

「アメリカでは日本人の蛮行が全く知られていない」

「ジャップを生かしておく気など全くない。
男だろうが女だろうがたとえ子供であろうともだ。
ガスを使ってでも火を使ってでも日本人という民族が
完全に駆除されるのであれば何を使ってもいいのだ」

などと書いています。
つまりバリバリの「タカ派」であり「差別主義者」であり「非人道主義者」です。

英語のwikiにさえ、

「彼は民間人を無差別に虐殺した汚名を後世に残すことになった。」

と書かれるほどの潔い「鬼畜」ぶりだったわけです。

 

「鬼畜ルメイ」はいわばアーノルドからの指令を受けて忠実にこれを実行しただけであり、
無差別爆撃そのものもルメイ就任前から計画されていたのに、なぜか日本では
アーノルドの鬼畜ぶりは実行指揮官のルメイほど有名にはなりませんでした。

いずれにせよこれらの発言が誰からも非難されることがなかったのは、
彼が
戦勝国の軍隊指揮官であったからにほかなりません。


そして、彼自身はこれだけ日本人への憎しみを顕にしながら、空襲をむしろ

「人道的な攻撃」

と言い張っていたという説があります。

これも原爆投下と同じ、第一次世界大戦時に生まれたロジックで
徹底的な継続した破壊を与えることによって終戦が早まる、という理屈です。

東京空襲自体、ましてや日本人の命について人道的に配慮するなどということは
彼の思考には一切なく、つまるところ関心事はただひとつ、
戦争を空爆の力で終わらせて、

「独立した空軍の設立という悲願を達成する」

ことしかなかったのではないかと思われます。

彼は1946年、兼ねてから心臓発作で体の調子を崩していたこともあって、
陸軍元帥として退役しましたが、翌年、陸軍航空軍は独立して
アメリカ空軍となったため、アーノルドは議会によって最初にして唯一の
空軍元帥に昇格という名誉を与えられました。

 

コロラドスプリングスにある空軍士官学校の広場中央には、
地球儀を持ち、日本を指差しているアーノルドの像があります。

後編~空軍士官学校コロラドスプリングスでの学び(アメリカ南西部 ...

「女子供でも日本人なら全て殺せ」

というときでさえ、穏やかに微笑んでいる「ハップ」アーノルド元帥。

空軍元帥になって3年後、彼は63歳で他界しましたが、おそらくは
ミッチェルから引き継いだ空軍創設の悲願を達成し、心から満足しつつ、
その名の通り「
ハッピーに」微笑みながら逝ったのではないかと思われます。

 

 

続く。

 


第一次世界大戦 ”初めて”のパイロットたち(おまけ:ラフベリーとライオン) 〜スミソニアン航空博物館

2020-11-04 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の第一次世界大戦当時の軍用機、
ことにエースに焦点を当てた展示から、リヒトホーフェン以外の
当時の飛行家、マックス・インメルマンやことにオスヴァルト・ベルケという
航空史において創始者となった人物の名前を知ることになりました。

今日は、当時アメリカから参加した戦闘機隊や、
ヨーロッパの航空隊に参加したアメリカ人飛行士たちをご紹介します。

■ ”初めて”のパイロットたち

ステファン・トンプソン
Stephern W. Thompson 1894-1977

がミズーリ大学を卒業後、
アメリカ陸軍沿岸砲兵隊U.S. Coast Artillery Corps
に参加したのは1917年のことでした。
すぐに陸軍航空隊の通信部門に転属した彼は、偵察員として
フランスの第一航空部隊で訓練を受けます。

1918年、フランスの爆撃隊の飛行場を訪問していたトンプソンは
病気で休んでいたフランス人の偵察員兼射手の代わりに
爆撃機に乗ってくれないかと誘われて搭乗。

任務から帰投する途中、ドイツ軍の戦闘機が現れ、トンプソンは
そのうち1機を撃墜し、アメリカ軍の制服を着たアメリカ軍人として
初めて公式に「航空勝利」が公式にクレジットされることになりました。

その年の7月の空戦で、彼のサルムソン2A2は、
「リヒトホーフェン・サーカス」フォッカー eD.VIIに攻撃されました。

トンプソンは機を撃墜しましたが、3機目の弾丸が彼の機関銃を破壊し、
彼の脚に当たりました。
彼の機のパイロットは胃に弾丸を受けましたが、
亡くなる前になんとか飛行機を墜落させ、トンプソンは命を救われました。

 彼らを撃墜したパイロットは有名なドイツのエース、
エーリッヒ・レーヴェンハートErich Loewenhardt ( 1897 – 1918) です 。

絶対ナル入ってる

トンプソンがアルバトロスD.IIIを撃墜したときに着用していた飛行服と
彼の脚から取り出された弾丸は、米国空軍国立博物館に展示されています。 


Fallen World War I Aviator Gets Posthumous Distinguished Flying ...

ジェームズ・ミラー大尉   James Miller 

ジェームズ・ミラー大尉は、米軍の最初の飛行士であり、
第一次世界大戦で最初の米航空の犠牲者となった人物です。

イエール大学卒で成功したニューヨークの投資家だったミラーは、
(道理で着ている服がゴーヂャスだと思った)
1300におよぶ著名な事業に参入していたプロフェッショナルで、
新聞に「ミリオネアー・ルーキー」などと書かれながら、
1915年、軍事科学の勉強をニューヨークのプラッツバーグキャンプで開始し、
その年の後半にはやはり飛行士だった米国鉄鋼社のエグゼクティブ、で弁護士、
レイナル・ボリング (Raynal Bolling )とともに、ニューヨーク州兵の
初の航空製造会社の立ち上げを行っています。

1918年2月、ミラー大尉は最初のアメリカ人戦闘機パイロットを組織した
第95航空団に配属されて前線に赴きますが、翌3月、
彼は空戦に巻き込まれ、アメリカ人飛行士として初めて戦死しました。

ボリング大佐

ちなみに、レイナル・ボリングもハーヴァードロースクール出身の弁護士で、
また裕福な出の実業家でありながら飛行士となった人物です。
ヨーロッパ戦線に赴き、車で移動中ドイツ軍と遭遇し、射殺されました。

ボリングの死はミラーの1ヶ月後で、奇しくもこの二人の実業家は
アメリカ人として初めて空と地上で戦死したということになります。

 

■ラファイエット航空隊とラフベリー軍曹

ジェルヴェ・ラウル・ヴィクター・ラフベリー
Gervais Raoul  Victor Lufbery(1885-1918)

 

この人の写真を当ブログであげるのは3回目となります。
次のコーナーでは

ラファイエット航空隊

の紹介がされているので、フレンチーアメリカンの飛行士である
このラフベリー軍曹の写真が登場しているのです。

この写真で彼は軍服にフランス政府から授与されたレジオンドヌール勲章、
軍事メダル、そしてクロワ・ド・ゲール、十字勲章を付けています。

ラフベリー軍曹はパリのチョコレート工場で働いていたアメリカ人化学者の父と、
フランス人の女性の間に生まれましたが、1歳で母を亡くし、
フランスで母方の祖母に育てられました。

17歳になると彼は放浪の旅を経て父の国アメリカに辿り着き、
陸軍に在籍した後はインド、日本、中国に任務で赴任しています。

フランスの航空会社の整備士として働いていた彼は、
知人がパイロットとして戦死したのをきっかけに訓練を始めます。

訓練中、彼は同僚のパイロットから整備士上がりであることを理由に
ずいぶんいじめを受けたようですが、整備士ならではの忍耐と
機体を熟知し、細部にまで注意を払いそれを飛行に生かすというスタイルで
エースパイロットになることができました。

1916年、アメリカの有志が、フランスの対ドイツ戦を支援するために

「エスカドリーユ・アメリカ」(アメリカ戦隊)

という派遣部隊を結成することを決めました。
この名前は、ドイツから「中立性の違反にあたる」と激しい抗議を受け、
すぐに

「エスカドリーユ・ラファイエット」(ラファイエット戦闘機隊)

と改名されています。
戦隊は、ほとんど飛行経験のない上流階級のアメリカ人で構成されていました。

ここで思い出していただきたいのが、当ブログで以前ご紹介した

フライボーイズ(FLYBOYS)

という映画です。

主人公はジャン・フランコ。

フランス人大佐にジャン・レノという一点豪華主義配役の映画でしたが、



これ、ラファイエット航空隊がモデルなんですね。

で、ドイツ軍の通称ブラックファルコンといういかにも悪そうな奴と
空戦してやられてしまうエースのキャシディ大尉は、
ラフベリー大尉をモデルにしていると考えられます。

主人公のフランコも落ちこぼれっぽい青年でしたし、
銀行強盗したこともあるやつが混じっているあたり、
「上流階級から選ばれていた」という史実に反しますが。

ラフベリーは航空経験を持つアメリカ市民として採用されましたが、
ユニットメンバーとの出会いは決してスムーズだったとは言えませんでした。

労働階級出身の彼の英語には強いフランスなまりがあり、さらに仲間のほとんどは
裕福な家の出身で、全員がアイビーリーグで教育を受けたエリートばかり。
共通点は何ひとつありません。

しかし、戦闘に入ると、たちまち彼は仲間の尊敬と称賛を受けるようになります。

 ある日仲間のパイロットがライオンの仔を購入しました。
ウィスキーを皿に入れて飲むのが好きだったとかで、(!)
「ウィスキー」と名付けられたこのライオンを、ラフベリーは数年間育てました。

 ウィスキーがガールフレンドを必要としていると思われた頃、
たまたま「ソーダ」という名前のメスライオンがやってきました。

(彼は追加でライオンを買ったわけですが、当時のフランスというのは
アフリカからの船で野生動物なんかをバンバン輸入していたようです。

今でもフランスの動物園に行くとその名残が見られます。
決して大きくない動物園にキリンが1ダースいたりとか、ゾウガメがたくさんいたりとか。
当時はさぞや掴み取り取り放題で動物を獲ってたんでしょう)

ソーダはウイスキーよりもはるかに野性的で、人に慣れず、それどころか
隙あらば人に襲いかかる気満々だったのですが、ラフベリーにだけは懐いていました。

最後までウィスキーはペットの犬のようにラフベリーの後をついて回っていましたが、
 彼が亡き後、ペアは自動的にパリ動物園に連れて行かれたということです。

ラファイエット航空隊のメンバーが集合写真を撮ろうとしていたところ、
ウィスキーがやってきてラフベリーにすりすりを始めてしまったので、
写真が撮れないだけでなく、みんなちょっと引いているの図。

 

ラフベリーはラファイエット航空隊で17機の撃墜記録を立て、
エースになりました。

1918年5月19日、ニューポール28で出撃した彼が
攻撃のため敵機に近づいたとき、ドイツの砲手が発砲しました。

 高度が200から600フィートの間を下降している時、
ラフベリーは飛行機から飛び出し、落下した彼の体は、民家の庭の
金属製のピケットフェンスに突き刺さったと言われています。

ラフベリーはフランスにある飛行士墓地に軍の名誉をもって葬られ、
後にパリのラファイエット・メモリアルに運ばれあらためて埋葬されました。

彼の公式撃墜数は17機ですが、彼の仲間のパイロットは、
25機から60機は未確認撃墜をしている、と証言しています。

彼もまた、フランス系アメリカ人として初めてのエースとなりました。

ラファイエット航空隊のパイロット、
エドウィン・パーソンズが着用していた「ケピ」という
フランス軍独特の帽子。

金糸のブレード飾りがフランスらしく粋です。

冒頭の航空機は、ウドヴァー・ヘイジー(別館)にある

ニューポール Nieuport 28C.

です。

著名なフランスの航空機メーカー、

ソシエテ・アノニム・デ・エスタブリセメンツ・ニューポート

は1909年に設立され、第一次世界大戦前に
一連のエレガントな単葉機のデザインで有名になりました。

会社の同名のエドゥアール・ド・ニューポールと彼の弟シャルルは、
どちらも戦前に飛行機事故で死亡しています。

才能のある設計者のギュスターヴ・ドラージュは1914年に会社に加わり、
セスキプラン・Vストラット単座偵察機の非常に成功し、戦時に
ニューポール11とニューポール17は最も有名な飛行機となりました。

ニューポール28C.1は1917年半ばに開発されました。

ニューポールが製造した最初の複葉戦闘機の設計で、上下翼の弦がほぼ同じです。
スパッドVIIとそのころ発表されたスパッドXIIIの優れた性能と競合するために、
セスキプランシリーズで採用されているタイプよりも強力なモーターの使用を検討しました。

より強力で重い160馬力のGnôme製ロータリーエンジンが利用可能になったことで、
下翼の表面積を増やして新しいエンジンのより大きな重量を補うという決定が促され、
典型的なニューポートセスキプレーンVストラット仕様は廃止されました。

1918年の初めごろのフランスの航空界は、より新しい、より先進的な
スパッドXIIIを愛好する派が多かったため、彼らは新しいニューポールデザインを
最前線の戦闘機として使用することを実質拒否していました。

しかし、ニューポール28は新しい「居場所」を得たのです。
それは大西洋の向こうから到着したアメリカの飛行隊でした。

自国に独自の適切な戦闘機がなかったため、米国は、
需要の多いスパッド XIIIをフランスから入手できるようになる前に、
一時的措置としてニューポール28を採用しました。

ニューポール28は、
アメリカ遠征軍=「駆け出しのUSエアサービス」
の最初の運用機として、信じられないほどの性能を発揮することになります。

全米航空コレクションにおけるニューポール28の主な重要性とは、
アメリカの指揮下にあり、米軍を支援するアメリカの戦闘機と一緒に戦う
最初の戦闘機であったということでしょう。

また、アメリカ軍部隊で空中勝利を収めた最初のタイプでもありました。

1918年4月14日、ニューポール28を操縦する第94航空飛行隊の
アラン・ウィンスロー中尉とダグラス・キャンベルは、
それぞれゲンゴール飛行場で直接行われた空戦で敵機を撃墜しています。



続く。

 


「航空戦術の父」第一次世界大戦のエース・オスヴァルト・ベルケ

2020-11-02 | 飛行家列伝

            

スミソニアン博物館の「第一次世界大戦のエース」のコーナーで
ドイツ空軍に最初に登場したエースの一人、
オスヴァルト・ベルケ ( Oswald Boelcke 1891-1916)について書きましたが、
エースとしてではなく、その後の空中戦術の基礎を築いた戦術家であり、
教育者としての面を持つ彼に興味を持ったので、あらためて語りたいと思います。

■ 幼少期

オスヴァルト・ベルケは、ザクセン州の学校長の息子として生まれました。
彼の姓はもともと「Bölcke」という綴りですが、彼はウムラウトを省略し、
ラテン語式の綴りを採用していました。

ベルケは3歳のときに百日咳にかかったせいで終生喘息体質でしたが、
運動神経はよく、成長すると陸上競技に目を向けました。

ベルケの家族は保守的な考えを持っており、 軍の経歴が
いわゆる上級国民への近道だと信じていたということもあって、
ベルケは若い頃から熱烈な軍人志望でした。

結局士官学校にはいきませんでしたが、ギムナジウムに通っていた17歳のとき、
彼は「ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト将軍の軍事改革」
「フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵の航空実験前の人生」
そして「初の飛行船の飛行」という3つの科目を選んでいます。

 

■ 空への興味と個人的特性

ベルケの身長は170センチくらいで、ドイツ人としては短身でしたが、
肩幅が広くバランスの良い体格をしており、
なにより敏捷性と「無尽蔵の強さ」を備えていました。 

学校での彼は級友などとはもちろん、教師ともうまく付き合い、
率直で親しみやすい態度のため人から好かれる生徒だったようです。

ブロンドの髪、濃い青い目の彼は、誰にとっても印象的な少年でした。
当時を知る者は、運動能力もさることながら、彼が数学と物理学に
大変熱心で優れていたと述べています。

彼はサッカーやテニスに興じ、スケートをしたり、踊るのも好き。
とにかく運動にかけては何をやらせても群を抜いていて、
学校一の運動神経の持ち主だった彼ですが、水泳とダイビングは
大会での受賞歴を持っており、17歳のときにはアルピニストにもなっています。

カリスマ性のある彼は競技場で人気のリーダーでした。

しかし、決して脳筋などではなく、読書にも親しみ、
民族主義作家のハインリッヒ・フォン・トライチュケを愛読していました。

トライチュケは反ユダヤ主義の論陣を張る思想の旗頭だったので、
ベルケも当然同じ考えだった可能性は大いにあります。

後世の歴史家が、彼はナチスとかかわらずに死んだことを
強調しているようですが、もし彼がもう少し長生きしていたら
ナチスの思想に傾倒していた可能性はあるのではないかと思います。


人生の早くからベルケはこんなことを言っています。

「自然に振る舞い、尊大な上司を演じたりしなければ、
部下たちの信頼を勝ち取ることができる」 



彼はマンフレッド・フォン・リヒトホーフェンの師でもありました。
彼はベルケについて次のようにコメントしています。

「ベルケには個人的な敵はいませんでした。
誰にでも礼儀正しく、人によって態度を変えることをしませんでした」

その謙虚な姿勢は、生涯変わることはなく、戦闘パイロットとして
成功の秘訣を尋ねられた彼は

「対戦相手のヘルメットにゴーグルストラップが見えたときだけ発砲します」

と述べています。

■ 兵役への参入

学校卒業後の1911年、ベルケは電信大隊に士官候補生として加わり、
翌年彼はクリーグシューレ (陸軍士官学校)に通い始めました。

学生時代の彼は、クラスの休みを利用して空いた時間を
いつも近くの飛行場で飛行機を見て過ごしていました。

陸士の彼の卒業時の成績はおおむね良で、とくに
リーダーシップスキルは「優秀」と見なされていました。 

1912年7月に彼は卒業し、同時に任官するわけですが、
電信兵を訓練する毎日のルーチンをこなしながら、このころの生活は

「素敵で、陽気で、活発な生活」

に費やされ、青春を謳歌したようです。

そのころ、彼はフランスの曲べき飛行の先駆者である
アドルフ・ペグードによるパフォーマンスを目撃しています。

1914年、彼は将校だけで行われるスポーツ大会で五種競技選手として
三位を獲得し、1916年に行われる予定だったベルリンオリンピックの出場権を得ています。

この年のオリンピックは第一次世界大戦勃発のため中止になりました。

 

■ 第一次世界大戦

1914年、彼は家族に何も知らせずに空挺部隊への移動を申請しましたが、
なぜかパイロット過程に受け入れられることになり、資格試験に合格しました。

そして第一次世界大戦が8月4日に始まります。

出陣を待ち望んでいたベルケは、兄のヴィルヘルムと一緒の飛行隊に入り、
兄弟で出撃しまくって、他の搭乗員よりも頻繁に長い飛行時間を記録したため、
それは部隊内にいくらかの恨みを引き起こしていたといいます。

天候が悪化し、対抗する軍隊の活動が塹壕戦に停滞し始めたときでさえ、
二人のベルケは全くお構いなしに出撃して飛びまくりました。

その後着任した指揮官は、兄弟を別の航空隊に引き離そうとしますが、
彼らは別々に飛ぶことを拒否し、上に直訴したりして大騒ぎしました(笑)
しかし最終的にそれを承諾し、離れ離れになっています。

兄と別れた弟ベルケはフランスに派遣されました。 
新しいユニットで彼はすでに最も経験豊富なパイロットでした。

この任務は彼にマックス・インメルマンとの友情をもたらすことになります。

 

このころ、フランスのギルベール、ペグードなどの戦闘機パイロットが
「ラズ」またはエースと称賛されるようになってきます。
聴衆にとって、孤独な空の英雄のシンプルな物語は大きな魅力を持っていました。

戦争が進むにつれて、各国政府はそれを大いに利用するようになります。
彼らは新聞や雑誌にプレスリリースを提供し、
人気のある飛行士の写真がプロマイドや葉書になりました。

Oswald Boelcke - Wikipediaベルケの葉書

ベルケとインメルマンはこのころしばしば一緒に飛行しています。
それは 古典的なウィングマンの動きで、互いに補完し合うチーム戦術が
このときに完成を見たと考えられます。


■ エース競争

1915年9月、 ベルケとインメルマンはそれぞれ2機撃墜しました。
不世出のパイロット二人の間に「撃墜競争」が始まります。

 

このころ、フランスの地元の人々が運河に突き出した橋で
釣りをしているのをベルケが飛行中の機上から見ていると、

10代の少年が桟橋から落水しました。

彼はすぐに急降下し、飛び込んで子供を溺死から救っています。
観ていたフランス人たちが皆で彼の勇気をたたえましたが、彼は
ただ濡れた制服のままで恥ずかしそうにしていました。

1915年の終わりまでに、インメルマンは7回、 ベルケは6回勝利を上げました。

 

1916年1月5日、ベルケはイギリス王立航空機BE.2を撃墜。

このとき墜落した機の近くに着陸すると、パイロット二人は生きていて、
彼らはドイツ語を話せる上、ベルケのことを知っていたので、
ベルケは偵察飛行士たちを病院に連れて行ってやっています。

その後、彼は読み物などを持って病院に彼らを見舞いましたが、
彼はすでに当時有名人だったので、このことは新聞の一面で報じられました。


1月12日、ベルケとインメルマンは同じ日に8機目を撃墜し、
ドイツ帝国で最も権威のあるプール・ル・メリテが受賞されることになりました。
インメルマンが受賞したことから「ブルーマックス」と呼ばれるようになった
勲章です。

ベルケは今や国内外で有名になり、うっかり繁華街を歩いたり
オペラを観ることもできなくなりました。


将軍や貴族まで若い中尉と知己を得るのに夢中になり、
皇太子の友人までができました。

1916年、ベルケはフォッカーアインデッカー試作機の評価を任されました。
彼は、銃の取り付けが不正確であり、エンジンにも限界がある、
と客観的に欠点を指摘し、これを ドイツの空軍が使用するのは
「惨め」なことだと痛烈に批判した覚書を提出しています。

3月12日、ベルケは10勝目を挙げました。
次の日、インメルマンが11勝目を上げて デッドヒートは一週間続きましたが、
結局勝利数12でベルケが上回っています。

 ベルケが1916年5月21日に2機の敵機を撃墜したとき、
皇帝は大尉への昇進は30歳以上とする軍の規制を無視して
25歳と10日のベルケを昇進させました。
彼はドイツで最年少の大尉となっています。

■ エース競争の終焉

エース競争は1916年6月18日終止符が打たれました。
ライバル、インメルマンが17回目の勝利の後に戦死したのです。

当時18勝していたベルケは、たった一人のエースになりました。

立て続けにエースを失うことを懸念した皇帝ヴィルヘルム2世は、
ベルケに1か月間待機するように命じました。
自粛の通達が出る前に、ベルケは19機目を撃墜しています。 

ベルケは飛行停止に大いに不満でしたが、この期間を利用して
彼は経験から有効な戦術と作戦を明文化することにしました。

いわゆるDicta Boelcke(ディクタ・ベルケ)です。

 以前このディクタを当ブログに掲載したときお読みになった方は
その8つの格言は当たり前すぎて当然であるように思われたかもしれませんが、
 ベルケが言葉にする前には全く未知の理論だったのです。

ディクタは、その後戦闘機の戦術に関するオリジナルのト訓練マニュアルとして
広くパンフレットで公開されました。

 

■ リヒトホーフェン

中央、リヒトホーフェンとベルケ。

1916年、ベルケは新しく編成された航空隊の指揮官に任命されました。
自らパイロットの人選を行い、2人のパイロットを採用しましたが、
その一人が若い騎兵士官、 マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンでした。

    

ベルケのFokker D.III戦闘機です。
彼はこの飛行機で1916年8回勝利を納めました。

 9月2日、 ベルケは20勝利目となるR・E・ウィルソン大尉機を撃墜しました。
翌日彼はウィルソンが捕虜になる前に、彼を客としてもてなしています。

 

新基地では施設が建設され、パイロットの訓練が始まりました。
ベルケが指導者としての資質をはっきりと表したのはこのときです。
機関銃の発射とトラブル回避などの地上訓練、また、航空機の認識、
敵国航空機の強みと欠陥について、生徒たちはベルケから講義を受けました。 

ベルケは彼の生徒たち自分が得た戦術をもとに訓練しました。
リーダーとウィングマンをペアリングすること、
部隊でフォーメーションを作り飛行することなどです。

空戦になると彼らはペアに分かれましたが、隊長機は戦闘を控え、
全体を俯瞰することなどもベルケの教えでした。

■ 戦闘

部隊に新しい戦闘機が到着しました。
ベルケのためのアルバトロスD.IIと、5機のアルバトロスD.Iです。

この新型機は以前のドイツ機や敵の航空機よりも優れていました。
強力なエンジンによりより速く、より高速で上昇できるうえ、
機銃を二丁搭載していました。

新型機による初めての空戦で ベルケは27機目を撃ち落とし、
彼の部下たちも4機を撃墜するなど絶好調でした。

出撃前にブリーフィングを綿密に行い、その結果出撃命令が出され、
帰投後は飛行報告をするのもベルケから始まった航空隊の慣習です。

このころのベルケは出撃ごとに必ず撃墜数を伸ばしていましたが、
小さい時に肺を患って以降持病の喘息に悩まされていました。
天候が悪くなると彼の喘息は悪化し、時として飛行もできないほどでした。

 

■ 最後の任務

10月27日の夜、ベルケは見るからに疲れて意気消沈した様子でした。

彼は食堂での大騒ぎについて従兵(batman)に不平を言い、
それから暖炉の前に座って火を見つめていたといいます。

ウィングマンの一人ベームが彼に話しかけ、
二人はその後長い間いろいろなことを語り合っていました。

翌日は霧がかかっていましたが、中隊は午前中に4つのミッションをこなし、
午後にも飛行任務に出撃しました。

この日6回目のミッションで、ベルケと5人のパイロットが、
第24飛行隊RFCの編隊と交戦になり、 ベルケとベームは
アーサー・ジェラルド・ナイト大尉エアコDH.2を追いかけ、
一方、リヒトホーフェンはアルフレッド・エドウィン・マッケイ大尉
DH.2を追いかけていました。

マッケイはナイトの後ろを横断し、ベルケとベームを間において
リヒトホーフェンを回避する策をとったため、彼らは二人とも
マッケイとの衝突を避けるために飛行機を上昇させました。

不幸だったのは、そのとき航空機の翼によって互いが見えず、
どちらも相手の存在に気がついていなかったことです。

ベームとベルケの機体は接触し、ベルケのアルバトロスの翼の生地が裂け、
揚力を失った機は螺旋を描きながら墜落していきました。

墜落直後の彼はまだ生きているかのように見えたそうですが、
彼はヘルメットを着用しておらず、安全ベルトも締めていなかったため、
頭蓋骨を骨折しており、まもなく死亡しました。

基地に戻った時のベームは恐怖と後悔で半狂乱になるほど取り乱しており、
着陸に失敗して機体を横転させて負傷しました。

彼はのちに

「運命というのは大抵最悪の馬鹿げた結論が選択されるものだ」

と嘆いています。
公式の調査では、ベルケの墜落は彼の過失による事故ではないとされました。

ベームの着陸の失敗については、負傷の苦痛で心の傷を覆い隠し、
また、自らを罰しようとする気持ちが働いたのではとも言われました。

 

■ 追悼

中隊の搭乗員たちは、ベルケがまだ生きていることを期待して
機体が墜落した陸軍砲兵の駐留地に急ぎましたが、
砲手たちはすでに冷たくなったもの言わぬベルケの体を彼らに手渡しました。

ベルケはプロテスタントでしたが、現地での追悼式は二日後の10月31日に
カトリックのカンブレ大聖堂で行われました。

届けられた多くの花輪の中に、彼と交戦したウィルソン大尉と
捕虜となっていた搭乗員の3人からのものがあり、そのリボンには

「私たちが高く評価し尊敬している対戦相手に」

と記されていました。

また、特別な許可によって、告別式の最中、王立飛行隊が
空中から花輪を墓地に投下していきました。
その花輪には

「勇敢な英雄である対戦相手、ベルケ大尉の記憶に」

と書いてあったといいます。


葬列が大聖堂を離れると、リヒトホーフェンは棺に先行し、
黒いベルベットのクッションにベルケの勲章を飾りました。

棺桶が銃を運ぶための砲車の上に置かれた瞬間、太陽の光が雲を突き抜け、
英雄の死を顕彰する飛行機が墓地の上空を通過しました。

特別に用意された汽車まで運ばれる棺はカラーガードに守られ、
弔銃発射と敬礼の中、賛美歌が響き渡るのでした。

翌日、棺は彼の母教会であるセントジョンズに運ばれました。
そこで祭壇の前の彼の棺にはオナーガードが付き添っっていました。

ヨーロッパ中の王室や後続からからお悔やみ、オナーメダルが殺到しました。
11月2日の午後の葬儀に出席したのはほとんどが王族、将軍、貴族ででした。


■ レガシー

ベルケは空対空戦闘戦術、戦闘飛行隊編成、早期警戒システムを発明した
ドイツ空軍の先駆者と見なされ、 「空戦の父」と呼ばれています。

彼の最初の勝利以降、その成功のニュースは国中の模範でした。
帝国ドイツ空軍が空中戦術を教えるためのスタシューレ (戦闘学校)
を設立したのは彼の提言によるものですし、

「ディクタベルケ」の公布は、ドイツの戦闘機の戦術を基礎付けました。

西部戦線で当初ドイツの航空権を獲得したのは彼の功績によるものと言われます。

第二航空中隊は 、「ヤークトシュタッフェル・ベルケJagdstaffel Boelcke」
と改名され、彼の死後もドイツの最高の戦闘飛行隊の1つであり続けました。

 

ベルケが面接して隊員にした最初の15人のパイロットのうち、
8人がエースになり、全員が戦闘指揮官になり、
そのうち4名のエースは第二次世界大戦中に将軍になっています。

ベルケの最初の「パイロット名簿」で最も成功した、レッドバロン、
マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンは、ベルケに倣って
「リヒトホーフェン・ディクタ」を制作しました。

彼の作戦戦術マニュアルの冒頭の文章は、ベルケに捧げられています。

 

「ベルケは、ナチスが設立される前に戦死したため、
ナチの大義との関係によって傷つけられなかった
第一次世界大戦の数少ないドイツの英雄の1人だった」

と言われます。
しかし彼の愛読書から推察して、早くに死んだことは彼にとって
幸いなことだったとわたしには思われます。(意味深)

ただ、第三帝国は死後の彼の名声を放っておいてはくれず、
ドイツ空軍の中型爆撃機部隊に彼の名前が付けられました。

彼にちなんで名付けられたドイツ空軍の兵舎は、皮肉にも
後に ミッテルバウ・ドーラ強制収容所の予備キャンプになっています。

■ 今に生きるベルケ

彼の名前は、現在のドイツ空軍の第31戦闘爆撃航空団の紋章に記載されています。
隊員は毎年命日にベルケの墓への参拝を行っています。

Taktisches Luftwaffengeschwader 31 - Wikipedia

ネルフェニッヒ空軍基地飛行場でも彼の名は記念されています。

基地建物の壁画、ホールに肖像写真、そして本部入口に胸像があります。
隊内雑誌の名前は「ベルケ」。

飛行機尾部には、彼の名前とフォッカーの絵が描かれています。

ディクタ・ベルケは、時間の経過しても決して廃れず、
世界中の空軍向けの戦術、技法、およびマニュアルなど広く応用されてきました。

米国合同参謀本部 (JCS)、米国海軍(USN)、米国空軍(USAF)には、
ディクタ・ベルケをベースにしたそれぞれ独自の航空戦術マニュアルがあり、
北大西洋条約機構 (NATO)の後援組織であるUSAFには、
ディクタ・ベルケの末裔となる航空戦術マニュアルが存在します。

そこではドイツ、オランダ、ノルウェー、トルコ、イタリア、
ギリシャの戦闘パイロットが今日もそのディクタを受け継いでいるのです。

 

 

 

 


ヘイゼル・イン・リー〜航空名誉殿堂入りした中国系女性

2019-01-29 | 飛行家列伝

メア・アイランド海軍工廠跡にある博物館の展示を見ていて、
海軍工廠に関係のある女性について紹介するコーナーに、

マギー・ジー(Maggie Gee )

という中国系女性パイロットの写真を見つけました。

大戦中、女性ばかりのパイロットサービス部隊、WASPがありました。
WASPの設立については、

ジャクリーヌ・コクランナンシー・ハークネス・ラブ

という二人の女性パイロットが立ち上げに関わった、ということを
このブログでもお話したことがあります。

そのWASPには二人の中国系女性パイロットがいました。

その一人がここで紹介されているマギー・ジーです。

ここに書いてあることをご紹介すると、彼女はカリフォルニア生まれ。
カリフォルニア大学バークレー校を卒業し、物理学者として
ローレンス・リバモア国立研究所に勤め、晩年は政治にも関わったようです。

バークレー大学在籍中にここメア・アイランドで製図を手伝っていた彼女は、
さらなる刺激をWASPに求めた、とあります。

製図課にいた二人の同僚と一緒にお金を貯めて飛行機のレッスンを受け、
ラスベガスに送られてからは、戦地から帰ってきた男性に
計器飛行証明(Instrumental Rating)を取らせるための教官をしていました。

計器飛行とはご存知のように計器だけを頼りに操縦することです。

「力が与えられた、という気がしました。
女性が自分自身で生きていける自身が与えられたというか」

彼女は戦争についてこう語っています。

「男性に依存する必要がないんですから。
もちろん主婦になるというのも立派な仕事ですが。
社会に出た女性も男性の補助に過ぎないと感じずにすんだのよ」

WW II WASP Pilot Maggie Gee

彼女の亡くなる前のインタビューがありました。

ちなみに右側の写真の女性二人ですが、マギーとは関係ありません。

これはメア・アイランドでの進水式の一コマ。

ミセス・エマ・ヤムは「出資者」。
ミセス・リリー・チンは「マトロン・オブ・オナー」、すなわち、
進水式でシャンパンを破る光栄を担ったということになります。


そして、WASPにはもう一人、中国系アメリカ人女性がいました。
マギー・ジーと同じくアメリカ生まれの

ヘイゼル・イン・リー(李月英)

で、本日冒頭イラストに描いたパイロットです。

彼女はオレゴン州ポートランドで、移民の家庭に生まれ、
広東省からきたという父親はアメリカで商売をしていました。

当時は中国人に対する人種差別も公然と行われていましたが、
彼女は7人の兄妹と共に、幸せな子供時代を送ったようです。

活発だった彼女は水泳やハンドボールに興じ、10代ですでに運転ができました。
おそらく、彼女の父の商売はうまくいっていて、裕福だったのでしょう。

1929年に、彼女は高校を卒業し、ポートランドのダウンタウンにあるデパート、
リーベスでエレベーターガールの仕事を始めました。
エレベーターガールは、この時代中国系アメリカ人の女性が持つことのできる
数少ない仕事の一つだったのです。

1932年、彼女は友人と行った航空ショーで初めて飛行機に乗り、
それ以来空を飛ぶことの魅力に取り憑かれるようになります。

当時、パイロットそのものが少なく、さらにその中の女性となると
わずか1%未満、有色人種となると一人いるかいないかでした。

ポートランドには中国系が経営していた飛行クラブがあったので、
彼女はそこに入会して、有名な男性飛行士に訓練を受けました。

彼女の母親はもちろん娘が飛行機に乗ることに大反対でしたが、
彼女の妹、フランシスによると

「姉は飛ばなければならなかったのです。
それは、彼女が何よりも好きになったことだったから。
中国系女子が誰もやったことのない危険を楽しんでいたのです」

そして1932年10月、ヘイゼルはパイロットの免許を取得した
初めての中国系アメリカ人女性の一人になりました。

飛行機の操縦という大胆なスポーツに参加することで、
彼女や他の中国系女性は、大人しく受け身という自らのステレオタイプを壊し、
男性優位の分野で競争するだけの能力があることをを証明したのです。

彼女はポートランドで、将来の夫である "クリフォード"・イム・クンに会いました。

 

マギー・ジーはアメリカ生まれですが、二世によくあるように、
父母の祖国である中国には当初帰属意識はなかったようです。

彼女の中国に対する愛国心が燃え上がったのはウィキによると1933年、

「日本が中国に侵攻した」

というニュースを知ったから、となっていますが、
満州国の成立を指しているのでしょうか。

とにかく彼女は、いてもたってもいられなくなり(たぶん)
パイロットとして中国空軍に加わるため、中国に向かいました。

しかしもちろん当時女性操縦士が入隊することは不可能。
挫折した彼女は広東に住んで、数年間は民間航空会社の操縦士をしていました。
もちろん当時、彼女は中国における非常に少数の女性パイロットの1人でした。

1937年に、盧溝橋事件が起き、日中戦争が激化します。

(彼女についてのWikipediaを製作しているのは
まず間違いなく中華系アメリカ人などであろうと思われるのですが、
日中戦争について『日本が侵略』『日本人に人々が殺され』など、
感情的な書き方がされているので、正直あまり気分が良くありません。

中国空軍の空爆によって民間人に多大な犠牲者が出たこと、通州事件、
蒋介石の漢奸狩り、大山事件、そんなことをいちいち書けとは言いませんが、
戦争なのでお互い色々あったということを少しは考えて欲しいです)

 

さらに、彼女はここで友人たちのために避難所を探し、おかげで
彼女の知人は全て爆撃から生き残った、などと言う友人の証言が
あったりして、そりゃ本当によかったねって感じです。(投げやり)

彼女はもう一度中国空軍に参加する努力をするのですが、失敗します。

ってかもう諦めろよ。女は載せない戦闘機って歌もあっただろうが。

なので香港経由でニューヨークに逃れ、中国政府のために
軍需資材(ウォー・マテリアル)の買い付けを行い祖国に奉仕?しました。

 

そうこうしているうちに真珠湾攻撃が起こりました。

ここでも「それによってアメリカは第二次世界大戦に引き込まれた」
と被害者目線で書いてありますが、相変わらず中国戦線の
フライングタイガースのことには全く触れておりません。

最近のアメリカの博物館は極めて中立な視点から、真珠湾攻撃についても
両国が利益を求めてぶつかった、というような描き方の元に、
特攻についてもリスペクトした紹介を行なっているところが多いと感じますが、
もちろんそうでない考え方のアメリカ人もいるってことです。

特に最近は、どうでもいいような博物館展示にも、よくよく見ると
中国系の入れ知恵的解釈が加えられ、日本を貶め、中国をアメリカの
同胞として讃える、という工作がじわじわ進んでいるのを肌で感じます。

つい最近、サンフランシスコにも日本を糾弾することを目的にした
戦争博物館が中華街に出来たばかりです。

 

さて、戦争が始まって男たちが戦場に出てしまうとどうなるかというと、
国内で業務を行う飛行士が圧倒的に足りなくなってきます。

そこで陸軍司令官ハップ・アーノルドの提唱のもと、
女性サービスパイロット、
つまり "WASP"が、あの女性パイロット、
ジャクリーン・コクランを司令として1943年に創設されました。

熟練した女性のパイロットがこぞってWASPへの参加を熱望し、
続々と集まってきました。

WASPのメンバーは、テキサス州のアベンジャー・フィールドで6ヶ月間、
トレーニングプログラムを履修します。
ヘイゼルはアメリカ軍のために飛行する初めての中国系女性となりました。


訓練中、彼女は一度九死に一生を得る事故に遭いました。
教官が、彼女を乗せて飛行中、いきなり予想外のループを行なったため、
ちゃんとシートベルトを装着していなかった彼女は機外に放り出されたのです。

しかし彼女はパラシュートで野原に着陸することに成功し、
その後はパラシュートを引きずって部隊に帰りました。

(というかこの教官いろんな意味で酷すぎね?)


当時、WASPの女性操縦士は(軍に飛行指導されていたのに)軍人ではなく、
民間人として分類され、給与体系も公務員として扱われていました。

それを言うなら、憲法にその存在を記されていない現在の
日本国自衛隊の自衛官がまさにその通りの扱いなわけですが、

これは日本という国が異常だからこれを当たり前とするのであって、
この頃の女性飛行士の扱いは、後世の世界基準による評価でいうと

「非常に差別的なものであった」

となります。

差別的とはどういうことかというと、まず、彼女らに対しては

いかなる軍事的な利益も、提供されません。

例えば・・・・これは実はしばしばあったことなのですが、
WASPのメンバーが職務中に死亡、つまり殉職した場合にも、
軍人が受けられる軍の「オナー」を伴う葬式は行われません。

儀仗隊による 弔銃発射も、国旗を棺に掛けてもらうことも、
もちろん特進も、勲章もありませんでした。

その割に、WASPには、しばしば、風通しのいい操縦室の飛行機で
冬のフライトを行うなど、あまり望ましくない任務が割り当てられたり、
また男性の部隊指揮官が航空機を運送する役目を女性がすることを
あからさまに嫌って嫌がらせをするというケースもあったそうです。

 

さて、トレーニングプログラムを終了し、彼女はミシガン州にあった基地の
第3輸送グループに派遣されました。

そこでは戦線のために自動車工場で大量に製造されていた航空機を積み込み、
必要な地点まで空輸するのが彼女らの役目で、航空機はそこから
ヨーロッパと太平洋の戦線に送られていきました。

ここでの仕事は大変過酷だったようです。
彼女は妹への手紙の中で「休業時間の少ない週7日制」と説明していますが、
アメリカでも月月火水木金金だったんですね。

この頃の彼女についてWASPのメンバーが何か聞かれたら、
彼女らはヘイゼルの口癖を必ず付け加えるでしょう。

「わたしはなんだって運んで見せるわよ」

パイロット仲間は、彼女の操縦はいつも冷静で、たとえ強行着陸の際も
恐れを知らず大胆に行う、と高く評価していました。

彼女の初めての緊急着陸はカンザス州のコムギ畑へのそれでした。
着陸してくる飛行機のパイロットを見た農夫は、彼女を日本人だと思い込み、
干し草用のピッチフォークで武装して、叫びました。

「日本人がカンザスにせめてきただ!」

そして、飛行機から降りた彼女をフォークを構えて追いかけ回し、
彼女は農夫の攻撃を回避しながら必死で自分の身分を訴え、
自分が日本人ではないことを説明しなくてはならなかったそうです。

 

この逸話そのものがまるで漫画のようですが、彼女自身も、
いたずら好きな一面を持っていたようです。

彼女は自分の口紅を使って、自分の飛行機や同僚の飛行機に
漢字でいたずら書きをすることがあったそうですが、
ある太ったパイロットの飛行機に、彼にはわからないように
「ファット・アス」を意味する漢字を書いたという話があります。

「アス」はもちろん英語で言うところのあの「アス」ですが、
フランス語でエースパイロットのことを「AS」と言うのと
引っ掛けた「ちょっと小洒落たジョーク」のつもりだったようです。

ただ、いずれにせよどちらかと言うとこの話は悪質で、そもそも
本人の身体的特徴をからかって何が面白いのかと言う気もします。

彼女は 『RON』(Remaining Overnight)といわれる任務にも
満遍なく出動していましたが、大都市でも小さな町でも、
どこに行こうが、彼女は中国人のやっているレストランを探しては
厨房に入り込んで「監督」し、自分でやおら料理を始めるのが常でした。

それほど料理が好きだったのでしょうけど、いきなりズカズカ入ってきて
あれこれ言いながら厨房を乗っ取る客なんて迷惑以外の何ものでもありません。

彼女のWASP仲間のうち一人は

「ヘイゼルは、何も知らないわたしに
異文化を学ぶ機会を与えてくれました」

と語っていますが、こりゃかなり間違った文化が伝達された可能性もあるな。


1944年9月、彼女は選抜されて戦闘機を操縦する訓練を受け、
P-63 KingcobraP-51ムスタング、そしてP-39 Airacobra
米軍のために操縦することができる最初の女性になりました。

しかし、この誇らしい任務に選ばれたことが、彼女の人生を
わずか32年で終わらせることになります。

 

1944年11月10日、ニューヨーク州のベル・エアクラフト工場から
モンタナ州グレートフォールズに P-63 「キングコブラ」を輸送すべし、
と言う命令が降りました。

これは、実はレンド・リース計画に基づく計画の一つで、
当時アメリカは同法を制定して以来、連合国に(ギブアンドテイクで)
膨大な量の軍需物資を供給していたのですが、この戦闘機は
ソ連軍が受け取りに来るアラスカまで輸送することになっていました。

東から西海岸の端までの輸送なので、補給のため中間地点まで機を空輸し、
そこからは男性飛行士がアラスカまで回航、アラスカからは
ソ連軍の搭乗員が操縦して自国に持ち帰るのです。


それはサンクスギビングの朝でした。

彼女の機が、目的地のグレートフォールズに着陸を試みたとき、
同時に同じP-63の大編隊が空港に近づいてきました。

このとき、運悪く管制室と彼女の機の間での通信の混乱が起こり、
次の一瞬、編隊のうちの一機と彼女のP-63が空中で衝突しました。

墜落して瞬時にして航空機は炎で包み込まれ、救急隊が燃える飛行機の残骸から
彼女の身体を引っ張り出したとき、着用している飛行ジャケットは
まだくすぶっていたといわれています。

その2日後、1944年11月25日に、彼女は全身火傷により死亡しました。

 

彼女の家族にとって不幸はこれで終わらず、彼女の死のわずか3日後、
陸軍の戦車隊の一員としてフランス戦線に出征していた彼女の兄、
ビクターが
戦死したという公報を続けざまに受け取ります。

家族はポートランドに彼らの墓地を購入したのですが、
墓地側は、そこが「白人区画」であるという墓地の規則を楯に、
家族が選択した場所に兄妹を埋葬することを拒否しました。

遺族は墓地側と裁判で争い、長年の闘争の末結果として勝利を収めましたが、
その間兄妹の遺体はどこに仮埋葬されていたのでしょうか。

彼女は今、ウィラメット川を見下ろすリバービュー墓地の丘の上の
「非軍人」すなわち一般人の区域に兄と共に眠っています。

 

その後30年以上にわたり、戦争が終わった後も、WASPのメンバーと支持者は、
女性パイロットの軍事的地位を確保するための運動を行い、
ついに1977年3月、連邦議会の公法95-202の承認に基づいて、
女性空軍パイロットの功績と、その軍事的地位が認められました。

WASPのパイロットとして大戦中の困難な時期、自国のために奉仕し、
殉職した女性は全部で38名であり、彼女はその最後の一人です。

2004年、ヘイゼル・イン・リーは、オレゴンの
エバーグリーン航空宇宙博物館内にある「名誉航空殿堂」入りしています。

ここにはガダルカナルで台南航空隊と戦ったことでも日本人には有名な、
マリオン・カール大将(上段左から2番目)も殿堂入りしています。

ヘイゼルは中段の左から4番目。
この中で彼女はただ一人の女性であり、そして唯一のアジア系です。

 

 

 


スピットファイアー・ガール〜メアリー・エリス

2018-08-03 | 飛行家列伝

先日、久しぶりに婆娑羅大将からコメント欄に通信をいただきました。

ご無沙汰しております。
こんな記事と写真が流れてました。


Spitfire Short@SpitfireShort

I am sad to report the death of ATA Association Commodore
& First Officer 'Spitfire Girl' Mary Wilkins Ellis. Aged 101,
she flew 400 Spitfires and 76 different types of aircraft during WW2,
died this morning at her home on the Isle if Wight. 

第二次世界大戦中、イギリス空軍の飛行機を工場から前線基地まで運んだのは
輸補助部隊(ATA)のパイロットたちでした。

彼らが操縦したのは戦闘機から爆撃機、輸送機などあらゆる種類の軍用機、
 
ハーバードハリケーンスピットファイア , ウェリントン爆撃機

などですが、ATTAの女性パイロットはその中の一機の名前を取って

「スピットファイア・ガールズ」

と呼ばれていました。
スピットファイアーガールズの最後の一人で、
先日7月24日101歳で亡くなったその人の名はメアリー・エリス

婆娑羅大将はこのエリスという名前に反応?して情報を下さったようです。
アメリカの女性航空士官について調べたことがあるわたしも、
イギリス空軍の輸送部隊に女性がいたことまでは全く知りませんでした。

ところで、このエリスさんが93歳の時に後席とはいえ、
スピットファイアの操縦席に乗る様子がyoutubeに残されています。

Spitfire Girl

前席の女性パイロット、キャロリンは1:48のところでメアリーに操縦桿を任せます。

"You have control, you have control !"

再びコントロールを取ったキャロリンはメアリーのために空中で回転を行い、
メアリーはわっはっは、と豪快に笑っております。
彼女も乗る前に「65年ぶり」と言っていたはず。
一般の93歳の女性ではこうはいかないでしょう。

 

メアリー・ウィルキンス、のちのエリスは1917年農家に生まれ、
幼い時から飛行機に憧れていました。
彼女の実家の隣にはロイヤル・エアフォースの基地があったのです。

11歳の時、両親に連れていかれたサーカスで、複葉機での
「ジョイ・ライド」を体験し、すっかり飛行機に夢中になった彼女は、
操縦を学び自分で操縦して空を飛びたいと熱望するようになりました。

16歳になった時、飛行クラブでレッスンを始め、免許を取得し、
世界大戦が始まるまでは民間でパイロットとして仕事をしていました。

そして1941年、彼女はATA (Air Transport Auxiliary、補助航空輸送部隊)
に熱望の末めでたく入隊しました。
冒頭に描いたメアリー・エリスの左胸の徽章に「T」が見えますが、
これは同部隊のウィングマークです。

軍組織に所属しているエリスさん、ということは、もしかしたら
「エリス中尉」が実在したのか?と期待しますよね。
(わたしだけだと思いますが)

しかし残念ながら、ATAはあくまでもシビリアン・オーガニゼーション、
民間組織なので、パイロットに軍の階級は与えられておりません。

ただ、冒頭の死亡記事では彼女の階級を

「ファースト・オフィサー」(First Officer)

としていますが、これはRAF(王立空軍)でいうと、
ファースト・ルテナント(大尉)相当ですから、こちらは
「エリス大尉」(もちろん中尉相当だったこともあるはず)です。

 

ところで前述の通りATAのパイロットは男性だけではありませんでした。

男性の場合、資格が「正規軍のパイロットになれない人」だったので、
元パイロット、つまり片手片足、あるいは片目を失った、
というような人材で部隊は構成されることになりました。

そのため、彼らを

ATA="Ancient and Tattered Airmen"(老&害航空隊?)

と揶揄する向きもあったそうです。

昔、当ブログでは空港での暗号を間違えたためにイギリス軍によって
機を撃墜され死亡した女性パイロットについて書いたことがあります。
彼女、

エイミー・ジョンソン

もATAのファーストオフィサーでした。

ATAにおいてメアリー・エリスは大戦中、76種類の飛行機、
のべ1000機を、生産工場から航空隊に輸送しています。

 

アメリカでもそうでしたが、イギリスでも、女性パイロットは
国内の輸送だけを担当し、危険な前線への輸送は男性飛行士が行いました。

さらに、ジュネーブ条約に則って、一般市民と女性からなるATTAが輸送する機には
武器は搭載できないことになっていたのですが、一度輸送中の機体が
ドイツ軍に撃墜されたあと、王立空軍輸送隊に限り銃が積まれました。

それでも前線への航空機輸送は敵に狙い撃ちされることも多く、
戦時中には174名もの男性パイロットがドイツ軍に撃墜され戦死しています。


さてところで、ATAの女性パイロットは「ATAガールズ」と呼ばれていました。
(スピットファイアーガールズはその派生系ではないかと思います)

 

中でも有名になったATAガールズを何人かご紹介しましょう。

ポーリン・ゴアー司令(Pauline Mary de Peauly Gower Fahie 1910-1947)

ATAを組織し、自らその司令になったゴアー司令が集めた最初のメンバー8名には
エイミー・ジョンソンのほか、オリンピックのスキー選手ルイス・バトラー
アイスホッケーの選手、貴族で政治家の娘、元バレエダンサーなどがいました。

マリオン・ウィルバーフォース( Marion Wilberforce 1902-1995)

彼女もゴアー司令が選んだ最初の8人の一人で、副司令でした。
インテリで投資家、柔道をしていたという一面もある彼女は、
80歳まで空を飛び続けました。

撃墜されたエイミー・ジョンソンは彼女の同僚だったので、彼女は
エイミーの死後何かとコメントを求められましたが、実は彼女、
エイミーについては実力の割に有名すぎじゃないの?と思っていたようです。

よくあることですが、エイミーは若くして非業の死を遂げたので、
ただでさえ高かった
名声は不動のものになってしまい、
実力派を任ずる彼女にとってはこのことが面白くなかったのでしょう。

モーリン・アデール・チェイス・ダンロップ・デ・ポップ
Maureen Adele Chase Dunlop de Popp
 (1920-2012)

いわゆる美人枠?

というわけではなく、ATAは同盟国から国籍を問わず搭乗員を募集し、
いわば「外人部隊」の一面もあったのです。
モーリーン・ダンロップもブエノスアイレス出身です。

この写真はモデルを依頼されてポーズをつけたものではありません。
彼女がフェアリー・バラクーダ艦上雷撃機を輸送し終わってコクピットから降り、
ギアを外して髪をかきあげた瞬間をカメラマンが撮ったのです。

この瞬間彼女はカバーガールとしても有名になりました。

彼女のような存在は、女性パイロットの存在を世間に広く知らしめました。
その美しさで彼女らもまた参戦したのです。

ディアナ・バーナート・ウォーカー
Diana Barnato Walker MBE FRAeS (1918−2008)

名前の後ろにずらずらとついているのは彼女のタイトルで、
MBEは大英帝国勲章の受賞者であること、FRAeS は
王立宇宙航空学会のフェローシップを持っていることを意味します。

外国人がいるかと思えば、とんでもない富豪の令嬢もいたのがATA。

ディアナ・ウォーカーは18歳の時、エドワード8世国王の主催する舞踏会で
デビュタントとして社交界デビューを行なっています。

父親はベントレーの会長、祖父はヨハネスブルグでダイヤモンドを発掘していた
デビアスの創始者で、母方の祖父母は有名な株式仲買人。
両親は結婚式をリッツ・カールトンで挙げています。
また、恋多き父親の再婚相手は炭鉱の所有者一族の出といった具合。

戦争が始まって、彼女は看護士の資格を取ります。
そして、さらにATAの訓練を受け、輸送パイロットになり、

スピットファイアハリケーンムスタングテンペスト

などの戦闘機を運ぶだけの技量を身につけました。

特に彼女が輸送したスピットファイアは260機に上るといいますから、
彼女こそが「スピットファイア・ガール」と言うべきかもしれません。

ちなみに彼女は戦後もテストパイロットを続け、

イングリッシュ・エレクトリックライトニング戦闘機

でイギリス女性として初めて音速を超えたパイロットとなりました。

これらの経歴を見ると順風満帆の栄光ある人生を送ったように見えますが、
実は彼女はその連れ合いを一度ならず2度までも航空機事故で失っています。

婚約者だった部隊長のハンフリー・ギルバートは乗っていたスピットファイアが
農場に墜落して殉職、2年後に彼女は今度は王立空軍の輸送隊司令官、
デレク・ウォーカーと結婚するのですが、デレクも程なくムスタング輸送中、
撃墜されてこちらは戦死してしまいます。

わたしと結婚しようとする男は飛行機で死んでしまうんだわ!

と思ったからかどうか知りませんが、彼女はその後の人生、
結婚しないことを誓い、(と言うことになっています。
本人がそういったのでしょうか)次の恋人、レーシングパイロットの
ホイットニー・ストレートはなんと妻帯者でした。

男の方も伯爵の娘である妻と離婚する気など全くなかったようですが、
愛人であるディアナとの関係は結構おおっぴらにしていたようで、
二人の間には子供もあったということです。

「わたしは完璧に満たされていた」

とご本人は言っておられますが、さてストレートの奥さんの立場は?

ヘレン・ケリー Helen Kerly (1916–1992年)

この人も美人枠かしら。
というか、美人だから名前が残っているとも言えますね。

彼女は輸送隊で主に戦闘機スピットファイアを輸送し、
戦時中に叙勲された二人の女性パイロットのうちの一人になりました。


ところで、最後に。

ATAの女性パイロットが日本のTV番組(NHKBS)で紹介されたそうですが、
その番宣記事というのが、なんというか、ひどいです。

差別を乗り越え、危険を承知で飛び続けた女性たちのうち、
10人に一人が命を落としたという。

プライド高き空軍の男性パイロットたちが女性の実力を認めたがらなかった反面、
多くの軍人をボーイフレンドにして浮き名を流したパイロットもいたという。

まあ、色々といいたいことはあるけど、まず「差別」が真っ先に来るのはどうなのよ。
それから二番目の構文、前段に対する後段が全く「反面」になってないんですが。

観てもいないので、この番組のいう差別というのが具体的に何かはわかりませんが、
どうせ何か男性パイロットから嫌がらせを受けたとかいうことだと思います。

しかしね。

言わせてもらえば、女子航空隊そのものが、国内の輸送に任務を制限されていて、
その大前提として差別(というより区別)の上に成り立っていたわけですよ。

だから、「差別を乗り越えて」なんて構図はそもそも存在しないのよ。
もう、頼むからスイカに塩の手法でお手盛りの紹介するのやめてくれんかな。

しかも賃金について、こんな事実もあります。

ATAに所属したアメリカのジャクリーン・コクランは帰国後、
女子航空隊WASPを創立することに尽力しましたが、そのWASPでは
女性パイロットの給料は男性の65パーセントに留まったのに、
ATAでは男性と全く同等の給料が支払われていたというのです。

ますます乗り越えるべき差別(感情的なものでなく公的な)が
本当にあったのか、と問いたくなりますね。

まあ、昨今のテレビなど、オールドメディア界隈では

「自分が差別だと思えば差別」

らしいので、弱者強者の二元論で言う所の「弱者の側」は差別されていた、
と括ってしまう方が(ドラマとして)美味しいのかもしれませんけど。

さらに文中「10人に一人が命を失った」とあり、実際にも
ATAは全体で15名の女性パイロットの殉職者をだしています。

女性パイロットの総数が168名だったわけですから、10人に一人、
というのはまあ間違ってはいないわけですが、これもなんだかね。

 ちなみにATAの男性パイロットの総数は1152名、先ほども書いたように
そのうち亡くなったのが174名ですから、こちらは6.6人に一人となります。

差別だなんだいう前に、ちゃんとこちらも報じて欲しいですね。


と最後は案の定NHK批判になりましたが、今回RAFの女性パイロットについて
知るきっかけを頂きました
婆娑羅大将に御礼申し上げてこの項を終わります。

 

 

 

 


オヘア少佐とF4Fワイルドキャット〜シカゴ・オヘア国際空港展示

2018-04-13 | 飛行家列伝

今回のアメリカ行きでトランジットを行なったのは、シカゴのオヘア空港です。
何しろ最終目的地の空港への便が少ないことから、前人未到、
空港で6時間という、アトランタで予定便に乗れなかった時以来の
待ち時間を経験することになってしまいました。

どんなラウンジで過ごすかは、待ち時間の快適さを左右する要素です。
オヘア空港にはユナイテッドのプレミアムクラス用「ポラリスラウンジ」があり、
そこでなら6時間も苦ではないだろうと思ったのですが、残念なことに、
乗り継ぎを行う便はシートにクラス差がないという共産主義的な機体しかなく、
ラウンジの門番(怖いおじさん)に

「これから乗る便のクラスがプレミアムでないとダメ!しっしっ」(脚色してます)

と追い返されてしまいました。

「く、悔しい〜〜」

涙を飲んで普通ラウンジで行きのトランジットをやり過ごした我々は、
帰りにちゃんとポラリスラウンジへのリベンジを果たしましたとさ。

確かに、席に着いたら注文したメニューが食べられるレストランがあるとか、
トイレが一つ一つ個室になっているとか、設備はまあそれなりでしたが・・。

アメリカにしては出ている料理がちょっと気が利いているという程度。
しっしっされた恨み抜きで言っても正直期待したほどではありませんでした。

 

ところで、この時ポラリスラウンジの場所をチェックしていて、
この第一ターミナルに
オヘア空港の名前となったパイロット、

エドワード・ブッチ・オヘア( Edward Butch O'hare)1914ー1943

のメモリアル展示があることを知りました。

エドワード・”ブッチ”・オヘア海軍少佐が愛機にしていたF4Fワイルドキャットが
空港ターミナルの検査場(右側)の横に展示されているのです。

現地で実物を見るとそれほどとは思いませんが、こうやって写真に撮ると
戦時中の白黒写真で覚えのあるずんぐりした躯体がやっぱりワイルドキャットです。

アメリカの空港は地名である通称名以外に人物の名前をつけることがあり、
ケネディ空港、ハワイのダニエル・ケン・イノウエ空港、ジョン・ウェイン空港、
ルイ・アームストロング空港(ニューオーリンズ)、ダレス空港、
サンノゼのノーマン・ミネタ空港などがよく知られた人名空港です。

ちなみに世界にはサビハ・ギョクチェン(女流飛行家)空港(トルコ)、
フレデリック・ショパン空港(ワルシャワ)、レオナルド・ダ・ビンチ空港
アントニオ・カルロス・ジョビン空港(リオ)、チンギス・ハーン空港(モンゴル)
ニコラ・テスラ空港(セルビア)などが有名なところとしてあり、
最近ではついに我が日本にも、

高知龍馬空港

が誕生しました。


エドワード・”ブッチ”・オヘア少佐の父親エドワードは弁護士でした。
シカゴでアル・カポネの一味として随分と際どいことをやって財をなし、
ドッグレースの支配人などをやっていた一筋縄ではいかない人物でしたが、
その一面、飛行機に大変な愛着と憧れを持っていたと言われます。

エドワードの夢は息子のエドワードを海軍の士官パイロットにすることでしたが、
当時のアナポリス入学には国会議員の推薦が必要だったというくらいで、
ましてやギャングのビジネスパートナーの息子ではとても入学は不可能でした。

そこで彼は、まずギャング仲間の脱税を当局に密告します。
さらに、アル・カポネが裁判で陪審員を買収していることを暴き、通報。
つまり息子の兵学校への入学と引き換えに仲間を売ったのです。

カポネが牢屋に入って2年後、息子のブッチはアナポリスに入学しました。

しかし、組織は裏切り者を許しませんでした。
ブッチ・エドワードが、何者かに銃撃され父親が死亡したという知らせを聞いたのは
彼が兵学校を卒業し、飛行訓練を行なっている時だったといわれています。

その後彼は優れたパイロットとなり、「サッチ・ウィーブ」の開発者、
ジョン・サッチの飛行隊に配属され、サッチと共に
そのマニューバの開発を行なっています。(右側がサッチ少佐)

彼の技量によってグラマンF4Fワイルドキャットは、

「ジャパニーズ・”ゼロ”・ファイター」に対し、速さにおいても
その駆動性についても優位に立つことが可能に
(現地の英文を直訳)

なったといわれます。

これは、とりもなおさず、それまでのアメリカ海軍飛行隊が
零式艦上戦闘機に圧倒されていたということを表しているわけですが、
それはともかく(笑)彼はアメリカ海軍最初の「トップガン」だったのです。

向こうがオヘア、手前のF-1がサッチです。
「レキシントン」艦載機部隊時代。

ハワイ上空を飛行するサッチとオヘアのワイルドキャット。
彼らはUSS「レキシントン」に配備されていました。

1942年2月20日、「レキシントン」はソロモン諸島ラバウルを攻撃しましたが、
これは第二次世界大戦における最初の空母からの航空攻撃となりました。

迎え撃ったのは帝国海軍第4飛行隊の18機の爆撃機で、この戦闘で
オヘアは今にも「レキシントン」に爆弾を落とそうとしていた
「ベティ」(一式陸攻)を4分間の間に5機撃墜しています。

この戦闘で第4飛行隊は18機のうち15機を失い、この日のうちに
オヘアは「エース」(5機撃墜が条件)になりました。

早速撃墜した5機を意味する海軍旗を愛機にペイントするオヘア。

「レキシントン」艦上のサッチ率いる第3飛行隊VF-3グループの記念写真です。

 USS「レキシントン」。
「サラトガ」と共にアメリカ海軍最初の空母となります。

ところで、この写真は「サラトガとレキシントン」という説明に添えられていたものです。

レイアウト的に「レキシントン」の説明が添えられていたので、わたしはてっきり
これが「レキシントン」であることを信じて疑わなかったのですが、
(しかも建造年月日が横に書かれていたので、どう見ても建造中のレキシントン)
コメント欄で、

「これは真珠湾で入渠中のヨークタウンである」

というご指摘を受けました。
そんな馬鹿な、ともう一度確かめたのですが、やっぱりそうなっています。

これは看板を作成した人がレイアウトをいい加減にしたか、
あるいは資料の写真を間違えたかのどちらかだと思われます。

(ヨークタウンは機動部隊のことが最後に一文出てくる)

これも「サラトガとレキシントン」の説明に添えられていた写真ですが、
どちらでもない「ヨークタウン級」であることが判明しました。

ということは、これも「ヨークタウン」の写真である可能性は高いですね。

戦争が始まった頃、アメリカ海軍は七隻の空母を保持していました。
オヘアの勤務してた「サラトガ」のコードはCV-3です。
空母には4個の航空部隊、戦闘機隊、爆撃機隊、偵察隊、
そして雷撃隊が搭載されていました。

オヘアの配属された戦闘機隊は「急降下爆撃」のパイオニアで、
優れたパイロットばかりを集めたエリート部隊でした。

「フィリックス・ザ・キャット」の作者パット・サリバンは
この精鋭部隊のために爆弾を抱えたフィリックスをデザインし、
これが彼らのインシニア(シンボル)となります。

彼らの乗っていたのが「ワイルドキャット」であることも
少しは関係していたかもしれません。

 

エドワード・ヘンリー・”ブッチ”・オヘアが生まれたのは1913年3月13日。
31歳になる寸前、1942年2月20日の爆撃機5機撃墜に対し名誉メダルが授与されました。

1942年、ホワイトハウスでのメダル授与式でFDRと握手をするオヘア。
彼の首にメダルを掛けている美人は彼の妻リタ・オヘアです。

彼女はこのわずか2年後に愛する夫を失い、未亡人となる運命です。

その時のメダルのレプリカがここに展示してありました。

1日の戦闘において一気にエースの一員に名を連ね、アメリカでは
今でも飛行場に名前を残すほどの英雄となりました。

オヘアの所属していた第3航空隊の編隊飛行。

1940年から1943年までの間に、グラマンF4Fワイルドキャットは、
その翼を畳むことができないにも関わらず、艦載機として300機弱生産されました。

第二次世界大戦が始まってすぐ、アメリカの当面の脅威は
東海岸とカリブ海近海に出没する潜水艦だったため、
まずアメリカ海軍は空母艦載機の訓練をミシガン湖で行っています。

蒸気船を改造して空母の形にした「ウルヴァリン」と「セーブル」の二隻で
海軍パイロットは空母での離発着の訓練を行いました。

訓練中の事故で飛行機のいくつかが失われ、それらは
戦後ずっとミシガン湖の湖底に沈んでいました。

1990年、そのうちの一機を引き揚げようというプロジェクトが立ち上がりました。

ダイバーによって湖底から発見された後は、AT&Tの提供したソナーによって
正確な鎮座地点が特定され、海軍が主体となって引き上げ作業を行なった結果、
45年ぶりに一機の機体が冷たいミシガン湖の底から陽の目をみることになったのです。

湖底でバラバラになっていた部品も一緒に引き上げられ、
その後、ボランティアの尽力によって復元されたものが・・・・、

今オヘア空港で見ることができるこの機体がそれである、
と現地の復元プロジェクトにはあったので、わたしも最初はそう思っていたのですが、
読者の方が「絶対に違う」とコメントで指摘してこられました。

引き揚げられた機体はF6Fヘルキャットだそうです。

もう一度現地の説明を読み直したのですが、

「これは現存する貴重なF4F3のうちのひとつである」

なんて書いてあるんですよね・・・。
一体どうなっているのでしょうか。



所有者はペンサコーラにある国立海軍博物館となっていますが、
オヘア少佐をトリビュートする展示が空港内に設置されることが決まり、
空港が借受けるという形で展示されているというわけです。

胴体には引き込み足がぴったりとはまる格納場所があります。
オリジナルの部分はほとんどないのではないかというくらい綺麗に復元されていますね。

5機撃墜後、一夜にしてエースとなったブッチ・オヘアですが、1944年11月27日、
ギルバート諸島のタラワ環礁で日本軍と交戦中、未帰還になりました。

パブリック・ロー(公法)490項第5条の定めるところにより、
11月27日にオヘア少佐の死亡が認定されています。

ギルバート諸島のアベママ島にある「オヘア・フィールド」
海軍の駆逐艦USS「オヘア」DD899、そして彼の出身地であるシカゴの
オーチャード・フィールド飛行場は、ここ、

「シカゴ・オヘア・インターナショナル・エアポート」

となって英雄だった彼の名前を後世に伝えています。

ところで余談です。

わたしがここを発見した時飛行機の周りには誰もいなかったのに、
写真を撮っていたら、たちまち通行人が足を止めはじめてご覧の状態に。

誰もいない店舗に一人でふらりと入っていくと、いつの間にか
人が次々と入ってきて大混雑になっているという「招き猫体質」は
わたしにとって実は決して珍しいことではないのですが、

「何もこんなところで発動しなくても・・・・」

TOに笑い混じりに言われてしまいました。

もし、シカゴ空港第1ターミナルに立ち寄ることがありましたら、
ぜひこのコーナーを一目見られることをおすすめしておきます。


終わり



女流飛行家列伝~マリーズ・イルツ「恋に生き、空に生き」

2016-09-22 | 飛行家列伝

彼女の生まれた年1903、という文字をタイプしながら、
黎明期の女流飛行家と言われる人にこの年の生まれが非常に多い、
ということにあっと気がつきました。

というのは、この1903年の12月17日、他でもないライト兄弟が、
固定翼機による動力飛行を行っているのです。


人類はおそらく人類としての歴史が始まるとともに

「なんとかして鳥のように空を飛べないものか」

という探求を続けてきたのではないでしょうか。
紀元前4世紀には、蒸気式の飛行体をギリシアの学者が飛ばしたらしい、
という話もありますし、3世紀には諸葛孔明が天灯という熱気球を飛ばした、
という話も伝わっています。

ですから、ライト兄弟が「人類として初めて空を飛んだ」ということは全くないのですが、
それまでの飛行方法から一気に今日の「飛行機」に躍進するきっかけが、
ライト兄弟の「ライトフライヤー号」だったわけです。

そしてこの年、1903年にこの世に生を受けた女性の少なくない人数が、
空を飛ぶということに人生を賭けたのは、決して偶然でも因縁でもなく、
それは空に乗り出す最初の女性になるべしとの「啓示」のごとく思われ、
進路を空に向けたのではないかという気がしてなりません。

まあ、簡単に言うとちょっとした世代の「ブーム」という説もありますが(笑)



操縦桿を使う最初の操縦者が出現するのが1907年。

1908年には次々とライト(弟)が飛行実験を成功させ、アメリカ陸軍が飛行機を採用し、
初めての「航空機事故で死んだ人間」の栄誉?を獲得しています。

1910年になると、この流れはビッグウェーブとなり、世界中で飛行機開発が
こぞって行われ、世界最速記録(時速106キロ!)も生まれるのですが、
なんと、この年には女性パイロットだけによるレースも行われているのです。

レースが行われた、ということは、それまでにも何人かの女性が
飛行機にチャレンジしていたということで、つまり女性パイロットというのは、
殆ど男性のそれと時を同じくして出現していたということにもなります。

「女たちは飛ぼうと思わなかったのだろうか」

と、以前作成した朝鮮人飛行家の朴敬元の伝記を書いたフェミニストは、
しょっぱなでこのように嘆いてみせましたが、もちろん飛ぼうとしたんですよ。
ただ、その絶対数が語るに足るほど多くなかった、ということです。

現在でもパイロットという職業はほとんどが男性で占められている、というのと、
実質的にその理由に変わりはなかったという気がしますがね。(嫌味)


ところで、この「世界初の女性パイロット」が生まれたのはどこだと思います?
意外とそれは飛行機王国となったアメリカではなく、フランスなのです。



この、レイモンド・ド・ラロシュという女性は、元々気球を操縦していました。
女優であったため(たぶん)男性の飛行士からの申し出で、
ヴォアザンという飛行機の操縦を
習うことにしたのですが、
最初のタキシングのあと、制止されるのを振り切って
いきなりスロットルを全開にし、
勝手にテイクオフしてしまいました。


というわけで、彼女が「最初に飛んだ女性」となったわけです。

1910年のことでした。

「今飛べば、わたしが世界初の女性だわ」

と内心彼女は「狙っていた」疑いが濃いですね。



ヒラー航空博物館で紹介されているのはほとんどがアメリカ人女性飛行家でしたが、
ライト兄弟の国にしかこういった女性は生まれなかったわけではもちろんありません。
黎明期の「初記録」には、アメリカと並んでフランスとベルギーのパイロットが
多くの名前を残しており、裾野も広かったということがわかります。

フェミニスト作家が「飛ぼうと思わなかったのだろうか」と嘆いた日本ですら、
1913年には初の女性飛行士(南地よね)が出現しているのです。


さて、本日の画像に描いたフランス美人、マリーズ・イルズ

彼女の持っている「初」記録は、わたしたちにも関係があって、

「パリ—東京—パリを飛んだ最初の女性」

というものです。
この他、


「パリーサイゴン間の最速到達(4日)」
「パリ—北京間を飛んだ最初の女性」
「プロペラ機で1万4千310mの高高度到達した最初の女性」

という記録も持っていました。

マリーズ・イルズ、本名マリ−アントワネット・イルズは、
飛行士の免許を取るために、スカイダイビングで資金を稼いだという「ますらめ」です。
21歳の彼女は航空ショーで落下傘降下を何度も行い、その際、
しばらく翼の上に立つなどして聴衆を沸かせました。

この経歴は、後の1936年、女性最速記録に挑戦しているときに機が失速し、
パラシュートで脱出したときに生かされました。

彼女はまたメカニックを使わず、機の点検はすべて自分一人で行いました。


写真に残るマリーズは、ご覧のように大変エレガントな雰囲気の美人です。



物陰で着替えをする彼女の姿が残されています。
今から飛行服を着ようとしているのか脱いでいるのか、
それはわかりませんが、スーツの下はどうみてもワンピース。

このころは「モガ」ファッション全盛で、女性用のズボンなど、

ディートリヒやキャサリンヘップバーンなどが穿きだしたばかり。
ですから彼女のこのいでたちも不思議ではないのですが、
どちらかというとこれは、彼女がこの後、すぐに男性と会うため、
あえてこのようなものを着込んでいる気がします。

白い襟に腰にはベルト。
とても飛行服の下に切るのにふさわしいスタイルには見えません。

このようにわたしが勘ぐるのも、彼女について書かれたフランス語のサイトで、
日本のWikipediaには載っていない、彼女の恋についての記載を見たからです。

「1930年の初頭、彼女はパイロット仲間である
アンドレ・サレルとの情熱的な不倫に落ちた」


いやー、さすがはアムールの国フランスのwiki。
飛行士の経歴に不倫の恋なんて書いてしまうんですから。

フランスは偉大な哲学者を生んだこともあり、国民総哲学家みたいなところがあります。
何でも哲学してしまうあまり、サルトルとボーボワールのような関係、
つまりお互い自由意志に基づいて事実婚をしながら第三者との恋愛はOK、というような
すかした恋愛を偏重するきらいがあるようですが、また法律に捕われない恋愛、というのは
彼らにとってごく普通のことと捉えられているように思えます。

驚くほど事実婚、結婚前の同棲をするカップルが多く、気軽に結婚して気軽に離婚する
アメリカと比べると、離婚率も故に少ないのではないかと思われます。

マリーズは独身だったので不倫、ということは、相手の男性には妻がいたということなのですが、
wikiに残るくらい公然とした仲ではあっても、彼らは全く結婚を考えなかったらしい。
そして、どちらもが危険のない平穏な生活のためにキャリアを捨てることはもちろん、
法的に結ばれることすら全く望んでいなかったようです。

この恋愛関係はきっちり三年続きましたが、テストパイロットだった男性の事故死で
終止符が打たれることになります。
サレルは、1933年、フランスのファルマン航空機という会社のF420というタイプをテストしていて、
メカニックとともに墜落、殉職したのでした。
このタイプはそのせいなのかどうか、製品化されずに終わっています。

1941年から彼女はレジスタンスに加わり、レジスタンス空軍のパイロットとなります。
そのミッションの一つにはトルコのあるアルスーズに強行着陸するというものもありました。

戦後、シャルル・ド・ゴール政権で、第二次世界大戦中マリナ・ラスコヴァが作ったような
女性飛行隊を作ることが決まり、国内一流の女性パイロットが集められました。
このときにメンバーには、カンボジア方面司令となったマリーズ・バスティ
初めてフランスで戦闘機パイロットとなったエリザベト・ボセリなどがいます。

この空軍は「試作」として、訓練が続けられていましたが、1946年、
軍備大臣が反対派だったため、あっさりと廃止されてしまいました。
しかしながら、空軍はこのときのリストから「使えるパイロット」を何人かリストアップ、
マリーズ・イルズとエリザベト・ボセリが選ばれ、特にボセリはA24ドーントレスから、
戦闘機パイロットに配置されます。

しかし、すぐに女性パイロットを空軍で活用するという試みは頓挫することになります。
もちろん予算の問題もあったようですが、原因は他でもない、マリーズ・イルズの墜落死でした。


1946年1月、悪天候のため彼女の乗ったSiebel24は地表に激突、
マリーズは中尉として、43歳で殉職します。

彼女の鎮魂のために、ル・ヴァロア・ペレのある公園には、
翼の形を象ったモニュメントが建てられています。




不倫の恋に身を焦がしてから死までの23年の間に、彼女が一度も恋をしなかった、
などということはその情熱的なことから考えてもありえないでしょう。

しかし、彼女は生涯結婚をしないままでした。

フランス人らしく恋愛至上主義であればこそ結婚という制約に縛られない愛の形を
常に選んだ結果だったでしょうか。

いつも空を飛びながら命の限界を見てきた彼女は、恋というものが命以上に儚い、
しょせんこの世のうたかたであることを達観していたのかもしれません。


 


 


”ス嬢はアイドル” キャサリン・スティンソン〜女流パイロット列伝

2016-05-12 | 飛行家列伝


この絵がお目々にお星様の入った少女漫画風なのは、
今日ご紹介するキャサリン・スティンソンという初期の女流飛行家が、
当時の日本人、ことに女子たちにはこう見えていたに違いない、
と彼女が来日したときの熱狂ぶりを伝える文献を見て確信したからです。

ちなみにアップしてから「キャサリン」が「ケイトリン」になっている
(Hが抜けている)のに気付いたのですが、修復不可能だったのでこのまま行きます。
<(_ _)>

キャサリン・スティンソンは1891年、アラバマのフォートペインに生まれました。
(バレンタインデーが誕生日だったのですが、当時のバレンタインデーというのは
アメリカでも当時は宗教行事で、日本人はその言葉すら知らなかったころです)

彼女の家はチェロキー・インディアンの血が入っていたため、
その風貌は金髪碧眼のいわゆる「フランス人形」風ではなく、
どちらかというと少し我々に近いテイストが感じられます。
おそらくこのことは、彼女が特に日本で愛された要因の一つになりました。
「お人形さん」ではなかったことが親しみやすく思われたのでしょう。


彼女は最初、コンサートピアニストになるために音楽を勉強していました。
ある日、「空中のカウボーイ」とあだ名されたパイロットのジミー・ウッド
飛行を見て飛行機で飛ぶことに興味を持ちます。
さらにフェスティバルで気球に乗せてもらった経験から、空に夢中になりました。

すぐに彼女はミズーリに行き、人類で初めて航空機からパラシュート降下した

パイロットのトニー・ジャナスに指導を依頼して、レッスンを始めました。

彼女はこのときライト兄弟のパイロットであったマックス・リリーにも
教えを請うていますが、彼は彼女が女性であるという理由で拒否しています。


彼女がどうしてここまで性急にことを運んだかというと、それは彼女が
飛行することでお金を稼げるのではないかと考えたためでした。
このときまだ彼女は飛行家で身を立てようとは夢にも考えておらず、
音楽を続けるために必要な資金をこれで貯めようとしていたようです。

そして、数日後、彼女は全米で4番目にライセンスを手に入れた女性となります。
数日で免許が取れてしまう当時の航空界というのもあまりに緩い気がしますが、
彼女にも飛行機操縦の才能があったからでしょう。
このころの飛行機が自動操縦とは対極の、ピッチの制御とロールの制御を
別々のレバーで行うライト式の操縦方法であったことを考えると、
才能どころか、天才的であったといってもいいくらいです。


その後彼女は自分でも意外なくらい飛ぶことにのめり込み、
音楽を断念して飛行家の道を歩むことを決心したのでした。



彼女の父親について語られたものを一つも発見できなかったのですが、 
もしかしたら母子家庭というやつだったのかなという気もします。
彼女が飛行機に乗り出してすぐ、彼女の母親は航空会社を立ち上げ、
エキジビジョンで乗る飛行機を購入し、彼女はさっそく
「フライング・スクールガール」というキャッチフレーズで
ワイオミングなどでショーを始めました。

何しろスクールガールなので(笑)、彼女は(というより母親が?)
報道記者に自分を16歳だと売り込んだようですが、失敗しています。
まあ、さすがにティーンエイジャーには見えなかったのでしょう。

ただし、彼女が25歳のときに訪れた日本では、興行師の意向で
19歳であると報道され、6歳若いことになっていました。
日本人は疑わなかったようですが、外人の歳はお互いわかりませんものね。

彼女には弟、そして妹がいましたが、弟のエドワードはメカニック兼操縦士、
妹のマージョリーはライト兄弟の経営していた学校で免許を取りました。
免許を与えられた女性飛行士としてはアメリカで9番目となります。

エドワードはその後STINSON AIRCRAFT社の創業者となり、
軽飛行機を作る会社が請けに入って順調なときでも自身の曲芸飛行によって
莫大な出演料を稼いでいました。
なんども長距離飛行の世界記録を打ち立てるなど、優れたパイロットでしたが、
1938年、38歳のときに自社の新型モデルをテスト飛行していて事故で死亡しています。

燃料がなくなったため、ゴルフコースに不時着しようとしてポールを引っ掛け、
飛行機が大破したのでした。
同乗していた他3名は重症でしたが命は取り留めています。


さて、活動に入ると同時にスティンソンファミリーは飛行学校経営の傍ら、
キャサリンは全米を回って曲芸飛行を行いました。
1915年、24歳のとき、彼女はシカゴで、初めてループを飛んだ女性となりました。

彼女はその飛行人生において一度も事故を起こしていません。
運もあったでしょうが、それには彼女が自分の乗る飛行機について、その機能を
隅々まで知り尽くし、丹念に自分自身で点検を行うという姿勢の賜物だったでしょう。

当時、どんなに優れたパイロットでも、エンジンの小さな、キャンバスと木の飛行機は
ループなどを行うと簡単に重力に振り回され、墜落して死亡する危険性と隣り合わせでした。

Katherine Stinson (1917)


このフィルムには、彼女が生きて動いている姿が残されています。
カメラマンやコクピットの彼女と握手するおじさんの嬉しそうなこと(笑)
おそらくこれは彼女の生まれ持った魅力によるものでしょう。
映像には彼女自身が飛行前の点検を行っている姿もあり、
もしかしたらカメラマンの注文に応じたポーズかもしれませんが、
その手慣れた様子から彼女が自分の乗る飛行機について熟知していた様子が窺えます。


さて、ウィキペディアを紐解くと、キャサリン・スティンソンについて
記述された記事があるのは
わずか数ヶ国語。
その中に日本語があります。
今では彼女の名前を知っている人はほとんどいませんが、その昔、
我が日本に「カゼリン・スチンソン嬢ブーム」が席巻したことがあったのです。



シカゴ万国博覧会では日本庭園を作り、日本娘の茶のサービスを行わせたり、
川上音二郎(ラップの元祖オッペケペー節の人)一座を世界に広めたり、
イギリスでは「ジャパン・ビューティフル」と称して富士山のジオラマの前に
高さ約30メートルの鎌倉大仏を作り、色鮮やかな投光と組み合わせて見せたり、
という博覧会専門の興行師、「ランカイ屋」(博覧会のランカイ)であった
櫛引弓人という人物がいました。

この人物が、日本でも注目されていた飛行機の曲芸をさせるために、
1916年にキャサリンを日本に招いたのです。
それまで男性飛行士、チャールズ・ナイルズ、そしてアート・スミスを招聘しており、
それら成功に気を良くして、今度は女性飛行士を連れてきたのでした。


先ほども言ったように、25歳のキャサリンは19歳ということになり、
横浜、長崎、大阪、名古屋などで9回のデモンストレーションを行いました。
鳴尾飛行場に来たときには、このブログで一度お話ししたこともある滋野清武男爵
母という人に面会していますが、これもバロンが飛行家だった関係でしょう。

ループはもちろん、様々なスタントを取り入れた飛行は人々を魅了し、
特に女学生たちは熱心に彼女の絵葉書を買い求め、つたない英語や
あるいは日本語で、せっせと彼女にファンレターを送りました。

当時、女学生同士の仮想恋愛、またはその相手を当時「エス」といいました。
「エス」はシスターの「S」からきていて、彼女の日本のファンが
男性より女性に多かったのは、この傾向のせいではないかと思われます。
「エス」の流行は1910年ごろからで、この頃はすでに定着していました。

先ほども言ったように、彼女は金髪のハリウッド女優のようではなく、
「外人」でありながらまるで隣に住んでいそうな親しみやすさがありました。

来日の際、プレゼントされた着物を着て立つキャサリンの写真が残されていますが、
濃い茶色の巻き毛も流したままにした彼女の着物姿は殊の外愛らしく、
当時の女学生たちがS傾向から彼女に夢中になったのも宜なるかなと思われます。

ちなみにタイトルの「ス嬢」というのは、このとき日本の新聞や雑誌に
頻繁に登場した「スチンソン嬢」のことです。


このときの狂乱ぶりについては、松村由利子著「お嬢さん、空を飛ぶ」
詳しいですが、同著には、やり手の櫛引が人々の期待を盛り上げるために
あの手この手でキャッチフレーズを考えたらしいこと、

(『空の女王来る』『宙返り女流飛行家』などなど)

そして日本側の熱烈な歓迎ぶりとともに、大正期の少女たちにとって
彼女はアイドル以上の、「希望」でもあったらしい、と書かれています。

ところで、松村氏がアメリカの図書館で現在も保存されている
キャサリンに宛てられた膨大なファンレターを確認したところ、
アメリカ人のファンレターはその中で数通しかなかったそうです。

氏のアメリカ人の知人の考察によると、本国では所詮4番目の女流飛行家で、
それほど熱狂されたり超有名だったわけではなかった自分が、

日本では最高のもてなしを受け、どこにいっても映画スターのように歓待されたので、
彼女は日本での思い出を一生大切にしていたのだろうということです。

彼女が1916年末から約半年日本に滞在し、帰国してすぐ第一次世界大戦が始まります。
 
大戦が始まったとき、スティンソンの飛行学校は閉鎖され、
キャサリンは空軍に志願しましたが、女性であることで断られます。
弟は陸軍で航空教官を、妹のマージョリーはロイヤルカナディアンエアフォースで
こちらは女性でも教官として仕事をしていたようです。

キャサリンが拒否されたのは、彼女が戦闘機パイロットを志願したためでしょう。

彼女はそのかわり?カーチスが彼女のためにシングルシートにした
「スティンソン・スペシャル」である

Curtiss JN-4 "Jenny"

に乗って、赤十字基金を募るための興行を行ったりしました。
また、航空便運搬のために認可された最初の女性パイロットとなりました。

今では戦時の航空業務のストレスによるもの、とされていますが、
戦争が終了したとき、彼女はインフルエンザから肺結核を併発してしまいます。

療養のためサンタ・フェに移り住んだ彼女はそこでのちの夫になる建築家、
ミゲル・オテロと知り合いました。
サンタフェで彼女は建築を勉強していましたから、第一次世界大戦で
パイロットをしていたという夫とは飛行機の話で結びついたに違いありません。

「お嬢さん」では彼女が肺結核で引退してしまったと書いてありますし、
英語のwikiページにも「もう飛ぶことはできなかった」とありますが、
アメリカのある資料によると、彼女は1928年まで飛行を続けていたとあり、
中年にさしかかった彼女の飛行服の姿も確かに写真に残っています。

その資料によると本当に彼女が引退したのは1945年のことで、
このことはwikiにも書かれていませんが、どうやら彼女は1930年から
アメリカ海軍の航空隊になんらかの協力していたという噂もあったようです。


いずれにせよ、かつて自分を熱烈に愛してくれる国民に見守られながら、
その空を自由に飛び回った国と、自分の国が戦争を始めることになったとき、
そして彼女に美しい七宝焼の花瓶を贈呈してくれた帝国海軍航空隊の飛行機が、
真珠湾の米海軍基地を攻撃したと知ったとき、彼女はどう思ったのでしょうか。


彼女はその後1977年、86歳まで生き、彼女の妹は79歳で亡くなりました。
サン・アントニオには「スティンソン・エアポート」という小さな空港があり、
航空界に大きな尽力をしたスティンソン家の名前を後世に残しています。





女流パイロット列伝~西崎キク「雲のじゅうたん」

2016-03-30 | 飛行家列伝

昨日女性軍人の権利拡大についてお話ししたばかりですが、
今日もまた女性の社会進出もの?として女流パイロットを取り上げます。 


最近のNHK連続テレビ小説は、ある特定の職業を志す女性の生き方や
その頑張る姿がテーマとなっていて、これまでの主人公の職業となったのは

美容家、弁護士、医師、和菓子職人、棋士、落語家、パン屋、
脚本家、ダンサー、編集者、教師、アイドル、蕎麦屋。

放映が始まってしばらくは「女の一代記」がテーマとなっており、
一人の女優が子役から交代して以降老婆になるまでを演じる、
という形態になっていましたが、このような
「職業女性」を主人公とする形態の
嚆矢となったのが、女流飛行家がヒロインとなった、

「雲のじゅうたん」(1976年放映)だったといいます。


「雲のじゅうたん」は、飛行機黎明期の女性飛行家何人かがモデルですが、
その一人が、本日ご紹介する

西崎キク(旧姓松本キク)
でした。




今まで何人もの、主に日米の女性パイロットについてお話ししましたが、
飛行機が発明されたのとほとんど同時に

「男もすなる飛行というものを女もしてみたいと」

思い、空を志す女性が表れた「女性の人権先進国」アメリカにおいてさえ、
例えば
「おてんば令嬢」ブランシュ・スコット
傍目には堂々と航空界で名を挙げながら、

実は航空界の女性に対する扱いに絶望したというのが理由で引退しています。

1930年代の日本では、女性が自分のやりたいことを叶えることすら
ままならなかったのですから、
ましてや飛行機で空を飛ぶというのは
さぞ困難なことであったでしょう。


逆に言えば、そんな時代に自分の夢を叶えることが出来た女性は、
それだけで賞賛されるにふさわしいと言えるかもしれません


本日主人公の西崎キクも、「飛びたい」という空への憧れをそれで終わらせず、

実際に形にするだけの強さを持っていましたが、その「強さ」
はただ彼女が自分のやりたいことをやりきった、という結果だけに留まっていません。

飛ぶことを止めたその後の人生は、順風満帆どころか、むしろ
逆風の吹き荒れる苦境であったにもかかわらず、彼女は過去の栄光にこだわることも、
ましてや自棄になることもなく、それらを持ち前の明るさで乗り切りました。

戦後、人々がかつての偉業をテレビドラマで改めて知るようになるまでは
社会貢献につくす市井の人として、ひっそりと生きていた彼女ですが、
ある日突然、まるで雲の彼方に飛び去るようにあっさりと逝ったのでした。


彼女は航空功労者としてハーモントロフィーを受けた唯一の日本女性です。



松本キクは、1912年(大正元年)、埼玉県に生まれました。

地元の埼玉女子師範学校を卒業後、尋常小学校で2年生を担任していました。
ある日子供たちを連れて出た課外授業の帰り道、尾島飛行場に立ち寄ったところ、
ちょうどそこでは新型飛行機のテスト飛行が行われていました。

それが彼女の人生を変えた瞬間でした。
飛行機に魅せられた彼女は、空を飛びたいと熱望するようになります。



新聞広告で見つけた「飛行機講義録」を取り寄せて独学で勉強しながら、

彼女は毎日のように尾島飛行場通いを続けたようです。
そのうち、顔なじみになったテストパイロットの一人が、
彼女を東京立川飛行場で行われた新型飛行機のテスト飛行に誘ってくれました。
そこで彼女は生まれて初めて飛行機に乗ることが出来たのです。

風を切り、雲に向かって自分をどこまでも運ぶ飛行機。
遥かに見下ろす下界は、もし自分が鳥であったらこう見えるであろうと
今まで想像していた世界より遥かに広大で、
天の高みにすら手が届くかに思われたでしょう。




その日以来自分の人生を飛ぶことに賭ける決心をしたキクは、昭和6年、
両親の猛反対を押し切って、東京深川の第一飛行学校へ入学しました。


教師の仕事は、その入学のための費用を稼ぐための手段として、
ぎりぎりまで続けていたようです。


当時の日本もまた航空という新たな世界が開けてのち、
雨後の筍のようにあちらこちらに飛行士を養成する学校が出来つつありました。
やはり黎明期の飛行家であった小栗常太郎が洲崎に作った小栗飛行学校をを経て、
昭和7年、キクは愛知県新舞子にある安藤飛行機研究所の練習生になります。


安藤飛行機研究所は、大正末期に安藤孝三によって作られたもので、
航空局海軍委託練習生の課程を終えた水上機操縦士たちが入所し、
定期航空の経験を積む場ともなっていました。
キクは1933年(昭和8年)、第一飛行学校で二等飛行操縦士試験に合格し、

日本初の女性水上飛行機操縦士の資格を取ったため、ここに入所できたのです。




安藤飛行機研究所で他の男性パイロットと一緒に写した彼女の写真を見ると、
前列の男たちはいずれも当時流行の長髪に飛行服の腕を組んで、
いずれもカメラのレンズから目を逸らす当時の「イケてるポーズ」が、
いかにも気負いとプライドに満ち、彼らなりの挟持のようなものを感じさせます。

後列に並んでいるのは見た目の年齢や服装などから「若輩」でしょう。
キクはその中でも一番端に、まるで女学生のようなお下げ髪でかしこまっており、
まるでちょっと遊びに来たパイロットの姉妹のような雰囲気ですが、
実は後年、この中で最も名前が人に知られるようになったのは彼女でした。


研究所在所中に、彼女は飛行免許を取り「郷土訪問旅行」を果たします。


当時の日本の航空界での女性に対する扱いは男性飛行士のそれとは違い、
一等から三等まである操縦免許で、女性が取れるのは二等まで。
商業操縦士の資格を得るための一等操縦士免許は、
女性には受験資格すらありませんでした。


しかし、やはり物珍しさで人々が耳目を集める女性のパイロットには、
飛行そのものがニュースとなるようなイベントが結構な頻度で用意されたようです。

つまり女性だから注目され、話題になる、それゆえチャンスも訪れる、
という「女性ならではのメリット」も確かにあったのです。



さて、その郷土訪問旅行では、彼女は一三式水上機に乗って

新舞子の研究所を出発、根岸飛行場(静岡)、羽田水上飛行場で給油。
その後出迎えの群衆数万人余の群衆の上を三度旋回し、鮮やかな着水を決めました。

新舞子から郷里の埼玉県本庄市の利根川までは7時間の飛行です。

その後、式典や歓迎会で人々に熱狂的な賛辞を受け、
かつての教え子である子供たちから賞状による激励の言葉を受けて感激したキクは、
三日後、今一度離水して、今度は母校の女子師範がある浦和市、川口、所沢を飛び、
そのとき上空からこのようなビラを三万枚散布しました。


”ふるさとの川は野は麗しく ふるさとの山はこよなく美しい

只感激!!只感謝!!    二等飛行士 松本きく子”


きく子というのはキクの通称です。
当時はカタカナよりひらかな、そして子がついている方が「今風」だったので、
どうもこれは彼女が「芸名」として自分でそう名乗っていた名前のようです。

「女性飛行士第一号」

として華々しい場に出ることの多くなったキクをさらに有名にし、
その名が世界的にも知られたきっかけは、あるパーティからやってきました。

当時愛知県の知事であった遠藤柳作が満州国国務長官に赴任することになり、
その送別会の式場に招待されていたキクは、遠藤からの直々の誘いを受け、
満州まで飛行機で飛ぶことをその場で依頼されたのです。
そして、本格的に

満州国祝賀親善旅行

へのプロジェクトが動き出しました。

これまで水上機に乗っていたキクですが、渡満には陸上飛行機の免許が必要です。
水上機では機体が重く速度も出ないので(羽田から埼玉まで7時間もかかっている)
とてもではありませんが日本海を越えることは出来ません。

そのため彼女は早速亜細亜航空学校に入学し、機種変更のための訓練に入りました。
彼女が乗ることになったサルムソン2A2型への機種転換教育です。
このサルムソンは「白菊号」と名付けられました。

その傍らキクは積極的に後援会や映画会に参加し全国を回るようにもなります。
その目的は、この大飛行にかかる資金調達で、また

「日満親善、皇軍慰問」

の目標のもとに満州に運ぶ慰問品をひろく募集するためでもありました。

そしてさらにもう一つ。
彼女はこのとき飛行機の訓練だけでなく、拳銃射撃訓練を受けています。

当時の満州国は治安が悪く匪賊が跳梁跋扈していました。
万が一途中航路で飛行機が不時着して襲われたとき、相手を撃ち、
最後に自分の誇りを守り通すための拳銃でした。

彼女は海外に飛行機で渡航した最初の女性ともなりましたが、
当時女性が一人で日本を出て満州まで飛ぶことは、
それくらい覚悟のいることでもあったのです。




残された写真を見ると、キクは小柄で目のぱっちりとした可愛らしい女性です。
若い奇麗な女性が飛行家として持て囃されるということになると、
そこにはマスコミの興味や関心が必要以上に寄せられたでしょう。

以前ここで書いたことのあるパク・キョンヒョン(朴敬元)は、
銀座を真っ赤なドレスで闊歩し、衆目を集めるような華やかで派手なタイプで、
大物政治家のパトロンがいる(勿論日本人の)などという噂もありましたが、
少なくともキクには、そのような浮いた話のようなものはなかったようです。

しかし彼女にはこの頃、密かに思いを寄せている男性がいたようです。
それは彼女の飛行学校の教官で、彼はキクの飛行学校でのあだ名である
「めり」という愛称で彼女を呼んでいました。

「めり、絶対に無理はするなよ。
これは記録飛行でもレースでもないのだから。
満州から持って帰る土産は、めりの命だけでいい」

それが訪満飛行に望むキクへの教官からのはなむけの言葉でした。
教官は渡満飛行の国内給油の際、大阪で彼女と会い勇気づけたそうです。



昭和9年10月、新調した飛行服に身を包み、羽田を飛び立った彼女は、
大刀洗陸軍飛行場までまず飛び、その後玄界灘を超えて蔚山(韓国)に到着、
そのあと京城に向かいますが、中央山脈を越えるときに強い向かい風を受け、
燃料がどんどん消費されていくようになりました。

最後の手段として補助燃料タンクに切り替えたものの、排気管から火を噴いたため、
深夜で真っ暗であったのにもかかわらず彼女は大胆にも不時着を試みます。

機体は土手に不時着し彼女は無事でしたが、翌朝見ると、
後3メートル着陸が遅かったら、川に墜落していたことがわかりました。

彼女が飛来して来たとき、京城駅の手前の駅の駅員が飛行機を見つけ、
その後エンジン音と排気焔をたよりに追跡して捜索してくれたため、
彼女はすぐに救出され、飛行機も分解して京城まで運ばれたのです。

(ちなみにこの駅員は、当時”日本人”でもあった朝鮮人でした)


その後満州国の奉天まで、出発してから14日で2440キロメートルの飛行に成功。 
この訪満飛行の功績に対し、パリの国際航空連盟よりハーモントロフィー賞が授与されました。


ハーモン・トロフィーは、その年航空界に功績のあった飛行家に送られる賞で、
アメリア・イアハートは勿論、今までお話しした中では、
ジャクリーン・コクラン、ルイーズ・セイデン、 エイミー・ジョンソン、
そしてマリーズ・イルス
などが受賞しています。


冒頭にも言いましたが、1926年から2006年までの80年にわたる
ハーモントロフィーの歴史で、日本女性の受賞は松本キクひとりです。

ちなみに彼女の受賞順位は31番ですが、
30番はあの、チャールズ・リンドバーグでした。




二年後の昭和12年、キクは樺太のある市の市制祝賀記念飛行に飛び立ちましたが、
このとき彼女は九死に一生を得る経験をしています。

彼女の「第二白菊号」が津軽海峡間でさしかかったところ濃霧と暴風雨に見舞われ、
さらに霧のため気化器が凍結してしまったのでした。
キクが不時着水を覚悟したとき、海面に丁度貨物船「稲荷丸」が航行するのが見えました。


「第二白菊号」を貨物船の至近距離に着水させる前、彼女は船員に向かって

「いま降りますからお願いします」

と叫んでいます。
さすが大和撫子、冷静沈着な上、実に礼儀正しいですね(笑)

もともと水上機の出身であったことがこのとき役立ったと言えるかもしれません。



その年、昭和12年7月というのは、ある意味象徴的な出来事が起こっています。
7月2日には、女性飛行家アメリア・イアハートが飛行中行方不明になり、
そしてその5日後、盧溝橋事件が起こり、満州に火の手があがりました。
29日には通州事件によって日本人居留民が惨殺されたのをきっかけに、
30日にはついに日本軍が天津を攻撃するに至っています。

最も有名な女流飛行家の死、そして戦争・・・・。


キクは陸軍省に従軍志願書を提出しました。

「第一線の戦傷病兵を後方に空輸する操縦士として従軍させてください」

しかし、その申し出は却下されました。

アメリカ軍における女子飛行隊の扱いにも全く同じことが言えましたが、
もし女性が輸送任務の途中で撃墜されまた捕虜になるようなことになったら、
その非難は必ずそれをさせた軍に向かうことになります。

さらに日本では、

「女まで戦争に駆り出すようなことになったと敵に言われては
この上ない軍に取っての恥辱となる」

という理由がそれに加わりました。
まさに「婦女子の出る幕ではない」といったところです。

その年には女性が飛行機を操縦することも禁じられ、
キクの飛行家人生は終わりました。


彼女はその後、満州はハルピンの開拓団に新婚の夫とともに入植しました。
そこで国民学校の教師などしていましたが、匪賊の来襲、ホームシック、
そして極寒の地での夫と息子を病気で失う、などといった苦難の日々を過ごします。

満州で再婚し西崎姓となりましたがすぐに新婚の夫は招集され、行方不明になってしまいました。

絶望のうちに終戦を迎えたキクでしたが、戦後しばらくして、
なんと夫は生きていたということがわかりました。
彼女は夫の復員を待って、戦後の生活に乗り出します。

その後、教育指導員として地域に貢献し、航空界においては
日本婦人協会の理事としても活躍していたキクでしたが、
昭和51年に放映された「雲のじゅうたん」のモデルの一人になったことで
航空界のみならず一般社会でも一躍注目されることになったのです。


世間の関心と賞賛のまだ消えやらぬ昭和54年、彼女は脳溢血で倒れ、
そのまま帰らぬ人となりました。

享年66歳。

”生まれ変わっても、わたしは
またこの道を歩むであろうという道を、今日も歩み続けたい”


彼女が生前残した言葉です。
 







 


女流飛行家列伝~デル・ヒン「親娘パイロット三代」

2016-02-05 | 飛行家列伝

母から娘へ、娘から孫へ・・・・・。

と言えば、まるでパールのネックレスか日本なら着物を想像しますが、
西海岸の女流飛行家デル・ヒンが伝えたのは

「空を飛ぶ喜び」

でした。
1946年、戦後飛ぶことを始めたデルは、1996年、飛行家人生の
50周年記念を迎えます。
この間彼女は飛行家として

パウダー・パフ・ダービーに出場

飛行教官として何百人もの生徒を教える

二人の州議会議員のパイロットを務める

など、商業パイロットとして順調なキャリアを積んできました。
レースに出場して上位賞を狙ったり、ましてやアクロバット飛行をして
ショウに出る、
というようなタイプの飛行家ではありませんが、
堅実に50年間というもの、
事故を起こすこともなく空を飛び続けたわけです。

飛行機を操縦する人口の多いアメリカでは、
特に傑出したエピソードがあるわけでもありません。
ただ、長いパイロット人生、こんなフライトもありました。



一度、彼女はモントレー郡の保安局パイロットの代行で、
サリナスからオハイオまで、
つまり西海岸から東海岸まで
女囚を移送する仕事を引き受けました。


大陸横断は、ジェット機によるボストン―サンフランシスコ間所用時間は
現在民間機でだいたい5時間40分。
国際線ほどではありませんが、決して短い距離ではありません。
何しろアメリカは大きいですから、国内で三カ所の時差変更があるのです。

わたしも毎年東海岸から西に向かうと、たとえファーストでも、
(ユナイテッドなどにはビジネスがなくファーストかエコノミー、そしてエコノミープラス)
食べ物のまずさと居住性の悪さについたときには疲労困憊してしまいます。


女囚たちは移送ですから、手錠をしたまま乗り込んできます。
もちろん引率の女性警官はついていたでしょうが、
こんなに長い時間、手錠をしているとはいえ囚人ばかりの乗客を乗せて、
万が一の事態が起これば、
ニコラス・ケイジの映画「コン・エアー」の再現です。


「コン・エアー」は1997年作品ですから、こちらの方が後なのですが。

ちなみに、以前「コンエアー」は、S-2の派生型、カナダのコンエアー社が開発した
「コンエアー」(ファイアーキャット)のことなのか?
と、何も調べずにどこかに書いたことがあるのですが、 違いました。

コンエアー、というのは、実在する
アメリカ連邦保安局の空輸隊の名称なのです。


コン、って、英語では「詐欺」とか「騙す」とか、そういう職業?
の人間のことなんですが、
この意味なんですかね。
直訳すれば「空気詐欺」とか「空だまし」とか?

いや、やっぱり「convoy」(護送するの意)の「con」かな。


この「コンエアー」部隊で使用されているのは専用輸送機の

C-123K

おそらくデルが操縦したのも、この飛行機であったと思われます。

専用機ですから、新幹線で犯人を移送する「新幹線大爆発」のように、
手錠でずっとケイジと、じゃなくて刑事と犯人が手をつないでいる、
ということはなく、
ちゃんと「囚人専用機」として、
がっつりコクピットは客室(客じゃないけど)
と隔離されているはずです。

まあでも、怖いですよね。堅気の女性なら(笑)

コンエアーのパイロットがすべてそうであるように、
彼女にもこのとき銃を持つことが認められており、それを勧められました。
しかし、彼女は銃の保持
を断ったそうです。


もしかしたら単に銃が使えなかっただけなのかもしれませんが、
飾りにしても、とりあえず
持っていることで、囚人たちにたいする
「アピール」になるのは確かですから、
堅気の女性であれば、
一応は持っておこうとするかもしれません。


彼女が銃を持たなかったのは、逆に「あなたたちを信用している」
ということを彼女らの良心に訴えるつもりがあったと思われます。

しかも6時間弱の長いフライトの間、彼女は1時間半だけとはいえ、
全員の手錠を外させ、彼女らにそのときスナックとお茶の
「機内サービス」を行ったそうです。


このスナックがなんだったかなのですが、
snickerdoodle というシナモン味のシュガークッキーでした。
お茶は、おそらくアメリカ人なので、全員選択の余地なくコーヒーだったと思われます。


さて、1929年に行われた女性ばかりの長距離飛行レース、
「パウダー・パフ・ダービー」については、
これまでこのシリーズで何度もお話ししてきました。
このレースは、戦後、1947年にかつてのレースをトリビュートして再開されます。
再開に際してもっとも中心になったのは、あのジャクリーヌ・コクランでした。

デルは1955年、このパウダーパフ・ダービーに、
娘のキャロルと共に出場しました。

娘は母の飛ぶ姿を見て同じように飛行家を目指したということです。
もしかしたら、母親自身が教えたのかもしれません。


お子さんをお持ちの方はよく御存じだと思うのですが、
子供というのは必ずしも親のやっていることを
そのまま踏襲しようとはしないものです。

息子を二代目にしようとして腐心している会社の経営者を
わたしは一人ならず知っていますし、

せっかく開業した医院や弁護士事務所も、
子が後を継いでくれなくて困っているという話もしょっちゅう見聞きします。


卑近な例で言うと、わたしの母は華道の師範の資格を持っていますが、
小さい時から彼女が花を活けているのを毎日のように見ていながら、
わたし自身(わたしの姉妹も)、一度たりとも
その世界に興味を持ったことは無く、いまだに何の知識もありません。

お宅はお嬢さんがおられるから、あなたは教えがいがあっていいわねえ」

などという話が華道仲間から出ると、母はいつも恐縮するように

「いいえ、誰も興味すら持ってくれないの」

と言うのが常だったということです。(ごめんねお母さん)


そして親の因果が子に報い、わたしの息子も、わたしが弾けるのだから
当然のように弾けるだろうと習わせたピアノは嫌がってすぐやめてしまい、
別の楽器(チェロとドラム)に行ってしまいました。

ですから、このように、娘が母親のすることを同じようにするどころか、
その娘、つまり孫娘も、同じ道を選んだというこのHIN家の女たちは、
むしろ世間的に稀少と言ってもいいのではないかと思われます。


冒頭画像は、おばあちゃまと一緒に愛機の手入れをする、孫娘ゲイル。
彼女と祖母は、彼女の母と祖母がともに飛んだパウダーパフ・ダービーの
ちょうど20年後の1975年、二人でまたしてもこのパウダーパフに出場しています。


このパウダーパフですが、1977年に、コスト、保険料の高騰、
そして何よりスポンサー企業が減少したため終了し、
19年の歴史を閉じました。

しかし、女性だけの飛行レースはその後エアレースクラシックにひきつがれています。


ゲイルにその後娘が生まれ、彼女がひいおばあちゃんとこのエアレースを飛んだ、
という話は今のところ伝わっていませんが、可能性は十分にありそうです。




ところで、こんなアメリカという国、旅客機のパイロットに女性は普通にいます。

先日のアメリカ行きから羽田に帰ってきた時、わたしの横をユナイテッドの
(ということはわたしが乗ってきた飛行機がそうだったのか?)機長と、
女性のクルーがカートを引っ張って通り過ぎました。

はて、機長とフライトアテンダントがこんな風に並んで歩くだろうか、
と思ったとき、彼女の制服の袖に金の線が4本入っているのに気付きました。
4本線、つまり彼女も機長職ということになります。

確か我々の飛行機は男性パイロットがアナウンスしていたので、
機長が二人のシフト、いわゆるダブルパイロットというやつだったんでしょうか。

機長が二人で飛ぶというのは、一般的にどちらかが PIC(第一指揮順位機長)で、

①新しい路線を飛ぶための訓練をする場合
②機長が査察操縦士から定期審査を受ける場合
③機長が余って副操縦士が足りない場合
④長距離線で機長2名と副操縦士1名の組み合わせで交代しながら飛ぶ場合

のどれかである、(ヤフー知恵袋の回答による)ということですが、
どちらにしてもこのスカートの制服を着た女性が機長であるというのは
さすがはアメリカだなあとわたしは感嘆の目つきで彼女の後ろ姿を見送りました。 



 


 


エイミー・ジョンソン「誰が彼女を撃ったのか」〜女性パイロット列伝

2016-01-05 | 飛行家列伝

今からちょうど75年前の今日、1941年1月5日。

イギリス空軍ATA所属の操縦士が、一人、
悪天候のため、任務中墜落し殉職しました。

女性パイロット、ファースト・オフィサーである
エイミー・ジョンソンです。



それに遡ること12年前、ロンドンに住む一人の秘書が、
イギリス人女性で初めての飛行機免許を手に入れました。

驚くべきことに彼女は免許取得後わずか2~3週間で、
イギリスからオーストラリアまでの長距離単独飛行を成功させてしまうのです。


最小限の道具と、予備のプロペラを「ジェイソン」と名付けた愛機、
デ・ハビランドDH60G・ジプシー・モスに積んで、
スリムでボーイッシュな彼女は19日半後、着陸したダーウィンで
熱狂的な観衆に迎えられました。



この偉業達成に対し、国王ジョージ五世は
「コマンダー」の位の大英帝国勲章を授けています。

大英帝国勲章はこのジョージ五世が創設した、
一般人(軍人と政治家以外)に与えられるもので、
スポーツ選手や芸能者など、広範囲に与えられる「庶民的な」勲章です。
ビートルズを始め、エルトン・ジョン、ビル・ゲイツ、
日本人では蜷川幸雄や尾高忠明(指揮者)
などがいます。

彼女はまたその年の優れた飛行家に与えられる賞、
ハーモン・トロフィを受賞、さらにはオーストラリアからは
名誉市民ライセンスを送られています。

ところでこの「女流飛行家列伝」を連載して書くようになってから、
「世界最初の」というタイトルを、ほとんどの飛行家が持っているのに気づいたのですが、
この「飛行機黎明期」、飛行機操縦のパイオニアを自負する飛行家たちは、
誰も挑戦したことがない、世界の各都市間の飛行の「一番乗り」を競って、
そのキャリアに「箔」をつけ、歴史に名を残そうとしていたらしいのです。

とはいえ、最初に大西洋横断をしたチャールズ・リンドバーグの名声には遠く及ばず、
ほとんどの飛行家にとってそれは
「後追い」の「一番乗り」だったわけですが。

しかし男性飛行家が一度成功している航路も、
「女性初」となるとそれも一つのタイトルなので、

「今までほかの女性が飛んだところのない都市間はどこ?」

と、全ての女性飛行家は日夜虎視眈々とそのチャンスを覗っていたのです。

彼女がこの「イギリス→オーストラリア」に続いて挑戦したのは
「ロンドン→モスクワ」を一日で到達することでした。
そしてさらに次の目標はどこであったかというと、

「モスクワ→東京」 。

そう、エイミー・ジョンソンは当時飛行機で日本に来ていたのです!

しかしながら、当時の日本で彼女の飛行到着はどのように迎えられたのか、
またどのような報道がなされたのか、
そういったことは日本語では見つかりませんでした。

英語ではかろうじて当時の新聞記事が見つかったので、
ベルリン発のその記事のその内容を貼っておきますと、

 

AMY JOHNSON ONWAY TO TOKYO  BERLIN, July 27.

Leaves Berlin for Moscow 

Miss Amy Johnson, who is on her 
way to Tokyo, 
arrived here at 6 a.m.She left Lympne in a Puss Moth a phreys. 
She refuelled and left at 15run. for Moscow.

This is her second attempt to fly to the East.
She began a flight to Pekin 
early in the year,
but damaged her 
plane in landing near Warsaw.
She 
went on to Moscow by train and returned to London later.


これによると、彼女は、その少し前に北京行きの挑戦をしたものの、
機のダメージのため、
ワルシャワに不時着してこのときは不成功裏に終わったこと、
アジアへの飛行挑戦は日本が二回目だということが報じられています。

さて、大成功だったオーストラリアへの飛行ですが、これはなんというか、
ビギナーズラックという面もあったらしく、
到着地からセレモニーのためブリスベーンに移動する行程で、
彼女は何と着陸寸前にクラッシュさせてしまいます。

幸い彼女は無事で、成し遂げたばかりの栄光に味噌をつけることもなく、
しかもこの事故がきっかけで、一人の男性に巡り合います。




男性の名はジム・モリソン
彼は彼女と同じ「世界一を常に狙う」パイロットで、後に彼女の夫になりました。

ただし、この「のち」というのは8時間後のことです。
つまりモリソンは彼女と出会った日のうちにプロポーズし、二人は結婚したのでした。

以前お話ししたルイーズ・セイデンの回の時に、
世の男女というものが「出会う」「気に入る」「結婚する」ということを
抉りこむように進めずして
少子化など解決するわけがない!!
と熱く語ったエリス中尉ですが、さすがに8時間後のプロポーズというのは、

「ポーズだけでも、もう少し考慮するふりをした方がいいのでは」

とまっとうな心配をしてしまいます。

それが杞憂ではなかった証拠に?即断即決のこの結婚生活はすぐに破綻し、
エイミー・ジョンソン・モリソンは1939年には元の名に戻りました。

この結婚の破綻の理由というのは、二人が同業者同士であり、
ライバル同士だったことであるのは歴然としています。

たとえば妻が、夫の立てた新記録を新婚早々あっさり破ったりしたら、
野心ある飛行家の夫は面子の面から言っても決して面白くないでしょう。
エイミーが破った夫モリソンの記録とは、ロンドン→ケープタウンの単独飛行時間でした。


ただ、女性男性関係なく、この「都市間飛行時間」などというのは、
機体の性能はもとより、その時の偏西風や気候条件によって
大きく結果が左右されるので、必ずしも結果が実力によるものとは言えない、
という面もあったのではないかと思ったりもするのですが。

だからこそ、このころの女性飛行家というのは、
男性に互して引けを取らない記録を残すことができたのでしょう。
体重が軽いというだけでも当時の飛行機ではかなり有利でしょうし。


1940年第二次世界大戦が勃発すると、ジョンソンは
ロイヤル・エアフォースの副操縦士に昇進し、
戦中を通じて、その死の訪れる日まで飛び続けました。

そして運命の1941年1月5日。

凍てつくような冬の強風が吹きすさぶイギリスのテムズ川河口に、
イギリス空軍ATA(Air Transport Auxiliary・航空補助)所属、
エイミー・ジョンソン操縦のエアスピード・オックスフォードが墜落しました。

ジョンソンが事故機から落下傘で脱出したことは確認されましたが、
逆巻く波にどす黒い色の海、そしてひっきりなしに降る雪、
海上に落下した彼女の生存は絶望的と思われました。

そのときテムズ川河口付近で航行していたイギリス海軍の
HMSハスルメールから、ウォルター・フレッチャー中佐が、
誰もがためらうような荒れ狂う冷たい海に飛び込みました。
そして救おうとしたATAの女性飛行士とともに、波にのまれて溺死したのです。

フレッチャー中佐は死後その勇気と功績を称えられてアルバート勲章を贈られました。


この事故にはわかっていないことも多く、
このときに死んだフレッチャーとジョンソン以外に
ジョンソンが輸送していた第三の人間がいたはずであるのに、
事件後どこからもその名前が出てこず、
政府もその死んだはずの人間の名を秘匿していることから、ジョンソンは
政府の極秘任務を負っていたのではないか、という見方もあるのだそうです。

さらに1999年、つまり近年になって、
こんな衝撃的な話が関係者から出てきました。

「ジョンソンは、機体認識に使う識別コードを間違えたため、
イギリス軍に撃墜された」


という説です。
つまりイギリス軍では日によって識別コードを変更していて、
彼女がそれを勘違いしていたため撃墜された可能性があるというのです。

このことを語った、彼女を撃墜したイギリス軍にいた人物の話です。

”彼女はリクエストに対し、二回間違った返事をした。
その瞬間、16口径の砲弾が火を噴き、彼女の機はテムズ川河口にダイブした。
われわれはそれが敵機であったと信じて疑わなかったが、
次の日の新聞を見て
自分たちが撃ち落としたのが誰だったか知った。

士官たちがそこにやってきて、
『このことは誰にも言わないように』と口止めした”




有名な飛行家でもあったエイミーは、その死を世界中から惜しまれました。
とくにイギリスでは、その生涯が何度も映画化され、伝記が出され、
彼女のことを歌った歌が作られ、そして彼女の名を冠した建物や学校、
通りは、世界中のイギリス領だった国に今でも存在するのだそうです。

アメリア・イアハートのように、若い絶頂期で姿を消してしまったからこそ
人の記憶に残り、
今なおその存在が語られるというのは世の常ですが、
わずか38歳で任務中殉職したこの女性飛行士にも、皆が深い賞賛と哀悼を捧げました。


しかし、その死の陰に隠された苦々しい真実を思うと、
彼女が果たそうとしていた国への忠誠が、彼女自身の実につまらないミスで
踏みにじられたという後味の悪さを感じずにはいられません。

彼女はおそらく機を攻撃された瞬間、自分が置かれた状況を確実に把握し、
同時に自分が取り返しのつかない失敗をしたことを知ったでしょう。

そして、最後の瞬間、祖国から裏切られたような絶望を抱きながら、
くろぐろとした深い波の逆巻く海に沈んでいったのではなかったでしょうか。


エイミー・ジョンソンの遺体は、何か月もかけて捜索されましたが、
今日に至るまで、彼女が飛行機に積んでいたカバン以外の痕跡は
何も見つかっていません。








 


飛行家列伝「バロン滋野」~As Japonais (ア・ジャポネ)

2015-06-26 | 飛行家列伝

エース・パイロット(Flying Ace)とは、空中戦で多数の敵機(現在は5機以上)
を撃墜したパイロットに与えられる称号です。
ドイツ語ではFliegerass、フリーガーアス、そしてフランス語では As、アー、
フランス語の語尾は無音なので「ア」だけという(wikiのアスは間違い)省エネ発音。 

第一次世界大戦で初めて人類は飛行機による戦闘を経験しました。
フランスでは10機撃墜した者にエース(ア)の称号を与え、敵の独英もそれに倣いましたが、
これは当時の飛行機が言い方は悪いけど落としやすかったということでしょうか。

第二次世界大戦が始まると、連合国、枢軸国共に「5機撃墜」がその基準になります。

日本では海軍だけが昭和18年後半に軍令部によって記録そのものを止めたため、
戦後になって彼我の戦果報告と被害状況を照合して客観的な数字を検証する活動が
ようやく1990年代以降になって行われてきたというのが実情です。

ところで、Wikipediaの「エース・パイロット」の項を見ていただくと、
第一次世界大戦のエースパイロットのリストに日本人の名前があるのをご存知でしょうか。
滋野清武(しげのきよたけ)男爵。
これが今日お話しする「日本人初のエース」、バロン滋野です。

ライト兄弟が1910年、グライダーで初めて滑空飛行に成功したとき、

19歳の男爵、滋野清武は広島陸軍幼年学校の生徒でした。

14歳の時に陸軍中将だった父が50歳で病没したため、家督を継いだ清武は、
そのときには自分がのちに飛行機に乗るとは夢にも思っていませんでした。

幼年学校の厳しい世界にに全く馴染めなかった清武はすぐに退学し、
有り余る財産ゆえ何もせずにぶらぶらしていたところ、
母が三人の妹のために頼んだ英語の家庭教師と同年代ゆえ懇意になります。

山田耕筰という名の東京音楽学校のこの学生は、清武に音楽学校への受験を勧め、
予科に入学した清武は、本科でコルネットを専攻するようになりました。
本科2年生であった25歳の時、妹の友達であった公爵令嬢清岡和香子に一目惚れ、
すぐさまプロポーズをして学生結婚で結ばれました。

全てにおいて話が早すぎるという気がしますが、男爵なので別に働かなくても
食べていけるわけですから、学生結婚でもなんの支障もなかったようです。
ただ、和香子の母親には「下賎な楽隊屋」ではなく、「お父様のような軍人」
でないと娘をやりたくない、と当初反対されたのを押し切っての結婚でした。

娘も生まれ、幸せの絶頂だった清武を絶望の深淵に叩き落としたのは若妻の死です。
和香子は出産後すぐに、身体中を蝕んでいた結核のために亡くなってしまったのでした。
毎日谷中の墓地で墓にすがって泣き続けた清武を救ったのはある人物の

「本気で自殺を考えるならば飛行機にでも乗るが良い。
日本はまだ無理だから、ヨーロッパにでも行って飛行家になれば死への最短距離だ」


という言葉でした。
そしてこの言葉は彼の人生をも変えます。

飛行機で空高く飛べたら、和香子の近くに近づいていけるのではないか・・・。
たとえそれで死んでもその時は本当に妻の元に行けるのだから。


フランスに行った清武は、そこで自分でも意外なくらい立ち直りました。

おそらくフランス語やフランスそのものと相性が良かったのでしょう。
そこで当時難しいとされていた自動車の運転免許を取り、ロンドンまでドライブしたり、
オペラやコンサートに興じながら飛行学校に通い、飛行技術を学びます。

飛ぶ練習と並行して飛行機の設計も始め、その試作1号「わか鳥号」(和香子に因んだ)は、
パリの飛行機制作者シャルル・ルーが万博に出品するほどの出来だったそうです。

長身で(フランス人は総じて小柄である)さっそうとした東洋の貴公子が、
数少ない自動車を乗り回し、飛行機の操縦を練習しながら設計もしてしまう。

この出品は清武自身のエキゾチックな魅力も相まって大変話題になりました。
フランスでは無口だった日本の時とは別人のように社交的であった清武は、
しかしこの地でも全く女性と関わろうとしませんでした。

その薬指の結婚指輪に、喪章である黒いビロードリボンが付けられていることを
パリの人々は好意的に眺めては、
彼の悲しみに想いを寄せるのでした。



飛行学校を卒業した清武は帰国し、「わか鳥号」を陸軍の協力で飛ばそうとしますが、

ここにライバルが現れます。
陸軍軍人で、華族である徳川好敏でした。 

今日、徳川は日本で初めて飛行機で空を飛んだということで名前を歴史に刻んでいますが、
この二人はソリが合わないというのか、お互いに黎明期の飛行家であり、
利害関係が一致していることが多く、かなり険悪な仲であったようです。

政治力に長け、さらに陸軍という「後ろ盾」によって航空界の第一人者となった徳川ですが、
実際はフランスに来て1時間で免許を取ったという程度の腕でした。

当然飛行機の仕組みについてもあまりわかっていなかったはずですが、
清武がその飛行機設計をフランスの設計家に絶賛されたことに対抗したのか、
徳川は、既存のエンジンを積み替えたものを「『徳川式』飛行機だ」などと言っていたことも
清武の不興を買いました。

同じ陸軍の飛行教官でも、清武の100時間以上に対して徳川はわずか15時間という飛行時間で
清武のほうが教え方がうまく
、学生に人気があったということも軋轢の原因になりました。

その後、徳川は陸軍軍人であることを生かして周囲に圧力をかけ、

御用掛として呼ばれた民間人の清武を陸軍の中で孤立させてしまいます。


余談ですが、清武の「宿敵」はもう一人いました。 
こちらも大物、志賀直哉です。
学習院時代、清武が華族女学校に妹を迎えに行っていたのを勝手に色々想像して
けしからん、と憤った志賀が友人と共に清武を「ぶん殴った」というものでした。 

しかも志賀は後年、そのことをしれっとエッセイに書き、どう見ても自分が悪いのに
清武のことを「とにかく人に好かれぬ男だった」などとディスって、非難されています。
そのときの随筆の一文は

「フランスに行って飛行将校になり勲章を貰い、
フランス人の細君と混血の赤児を連れて帰ってきた」

という悪意とその裏に潜む嫉妬が隠せずにじみ出ているものです。
三島や太宰ともいろいろあったそうですし、なんだか嫌な奴みたいですね志賀直哉って。


さて、徳川との確執ですっかり陸軍と日本に嫌気のさした清武は、
教官を辞職することを決心し、民間の飛行学校を設立することを考えました。
それに必要な飛行機を購入するために神戸からもう一度渡仏したのですが、
そのときヨーロッパでは大変な事件が起きていました。

サラエボ事件です。

第一次世界大戦の導火線となったこの事件に呼応して、パリからリヨンに避難した清武、
いやバロン滋野は、カフェのレジにいる18歳の可憐な少女に出会います。

滋野夫人となる、ジャーヌでした。 
後に夫が急死して未亡人になったとき、意に染まぬ再婚話から逃げて
清武の元に駆け込んできたジャーヌを彼は受け入れ、結婚して日本に連れ帰っています。


リヨンで暮らしながら清武は考えます。

「この戦争は日本にも波及したので、 民間飛行練習所をつくるどころではないだろう。
この間、計画はひとまず中止して、自分の腕を磨こう。
しかし民間学校はこちらでも閉鎖同様だから、フランス陸軍航空隊に従軍しよう」

いやいや、この流れでどうして従軍となるかな(笑)

ともかく三段飛びのような論理展開で清武はフランス軍に志願し、
フランス陸軍の方も時節柄、喜んでこれを受け入れたのでした。

1914(大正14)年12月2日に入隊した清武は、3日後、少尉に任官します。
さらに「日本の地位に相当する階級を与えるべし」と陸軍側が考慮した結果、
翌月の1月31日には陸軍歩兵大尉に任ぜられました。

フランス陸軍も階級によって待遇が随分と違うのですが、
居室や食堂も変更になるので、この2カ月足らずの間、彼とその周りは
変更に次ぐ変更でてんやわんやの騒ぎとなったようです。

もちろん制服も大尉になると変わります。
現在残されているバロン滋野の陸軍での集合写真を見ると、不鮮明ながら
彼だけが色の違う制服を着ているので大変目立っているのがわかります。
大尉の軍服は上衣が水色、襟章が黄色に金色の星と羽(操縦将校)をあしらい、
腕章が金のエリスと翼(飛行隊)キュロットは赤という華やかなものでした。

(えー、このエリスはエリス中尉のエリスではなく、フランス語の
héliceはプロペラという意味です。念のため)

ピロット(パイロット)としてのバロン滋野の実力はフランス人にも一目置かれていました。
偵察将校で後に親友となるペレージュ中尉が

「バロン滋野、我が隊には百数十人のピロットがいますが、
正直なところわたしは
誰の飛行機にも同乗したくありません。
しかしバロン・シゲノとロルフューブル海軍中尉となら喜んで同乗します」

と真剣に言ったことがあるくらいでした。
さて、1815年の5月27日、バロンに大本営飛行科長から命令が下ります。

「キャピテーノ・シゲノは飛行機に搭乗し、V24中隊に向け出撃すべし」

向かい風に近い烈風の中を時速40キロの列車よりもノロノロと3時間飛び、
部隊に到着したのですが、後で途中ドイツ機とすれ違っていたことを知りました。

着任した翌日、バロン滋野はペレージュ中尉を偵察に乗せ、出撃しました。
初陣です。
それから毎日のように出撃し、その度に砲撃の中を投弾して帰ってきました。
この頃、彼が実家に出した手紙です。

「略)なんとも云えぬ勇ましさです。
自分で自分の乗っている飛行機が見られたらさぞ愉快だろうなぞと、
愚にもつかんことを考えながらタバコをふかして飛んでいると、すぐ近所で敵弾が爆発します。
然し決して中らぬものとチヤンときめ込んでいますからなんともありません。
ヘン、やってやがるなア、位のものです」

幾度となく死と隣り合わせとなりながら、清武は全く恐れず空に上がるのが常でした。
ヨーロッパに来るきっかけになった「死んだら妻の元に行ける」という気持ちが
彼から死への恐怖を取り去っていたのでしょうか。

そんなバロン滋野に司令部からまず感状、続いて「戦功十字勲章」、そして
志賀直哉も嫉妬したという(笑)レジオン・ドヌールが授与されます。
軍機となっていて本人は知るべくもありませんでしたが、評定にはこう書かれていました。

「ピロットの特性顕著、当体に配属以来、軍人としての誠実な特質、勇気、感嘆すべき意志力を示せり。
最も危険な爆撃の数々の任務を遂行せし功績により軍功表彰され、レジオンドヌール勲章を授与さる」


バロン滋野は1915年4月1日、初撃墜をしました。
ランス市郊外上空でヴォアザン式偵察爆撃機で偵察攻撃中、
フォッカー式EIII型駆逐機に攻撃され、45分に亘る空中戦の末、
ほとんど弾を撃ち尽くした状態の時に相手が墜ちたのでした。

たちまちこの戦闘は全フランス陸軍に広がりました。
偵察爆撃機が駆逐機と45分もわたり合って撃墜したとあっては当然です。
ほどなく、バロン滋野はN26鴻(おおとり)飛行中隊に編入されました。
「As」つまり敵機を5機以上撃墜したピロットで構成されたエース部隊です。

 ちなみに第一次世界大戦当時の航空戦において撃墜がどのように公認されていたかというと、

「一人のピロットが敵機を撃ち落とした時に、二人以上のピロットが正確に
その落下した場所を見届けるか、砲兵隊、塹壕の歩兵、繋留気球の偵察将校などが
正確にその落下した場所を報告してくるか、あるいはピロットが撃墜した時に
誰も見ていなかった場合には、そのピロットが案内人となり、二人の飛行将校が
各一機に乗って、その場所に行き、撃墜された飛行機を見届けた場合」

となっていました。
これだけ厳密ならハルトマンやレッドバロンの撃墜数もかなり正確なんでしょうね。

バロン滋野の公認撃墜数は6機と記録されていますが、公認未公認、
共同撃墜の末同僚に戦果を譲ったりしているので実際の撃墜数はもう少し多かったようです。
しかし本人は敵機を撃墜することについてこのように述懐しています。

私は元来狩猟が非常に好きである。
然し鳥を打ち落とした其の瞬間だけは非常に愉快だが、
すぐに其の後には哀れな感じを禁じ得ない、

其れでも矢張りこの遊びがやめられないのである。
丁度其れと同様に敵機を打ち落とした瞬間に愉快を感じ次に非常なる哀れを感んじた。
そして1500メートルの高空からひらひらと真白な飛行機が落ちて行くのを見乍ら
嗚呼彼等も敵とは云へ親も兄弟もあるだらうと思つて馬鹿に哀れっぽく感じた、
それでもをかしい、昼食をする頃になると一時も早く出掛けて行って又打ち落とし度くなる、
人間は実に理由(わけ)の分からぬ動物であるとつくづく思ふ」 


軍極秘の勤務評定においても

「模範的なピロットであり、その勇気と冷静さは中隊の最上の模範を示した」

と激賞されていたバロンは、休戦条約が調印され、1918年11月11日に戦争が終わって 、
その時にはすでに妻となっていたジャーヌと、生まれたばかりの娘を連れ、帰国します。
娘のジャクリーヌ・綾子はその後脳膜炎のため2歳で死去しました。


日本では航空事業についての計画を航空局に積極的に働きかけますが、
関係者はまだ国内に操縦者がいない現状では、バロン滋野の提案による
「フランス人パイロットがわが国を我が物顔に飛び回る」 
事態になりかねないということを盾に、なかなか話を進めようとしません。

それだけでなく宮内省もジャーヌ夫人の男爵家への入籍を認めず、
清武はまたしても日本での生きにくさを実感せざるを得ませんでした。

しかも国は、バロン滋野の申請した航空事業にはのらりくらりと返事をせず、
それでいて神戸の毛織物商川西清兵衛が設立した航空株式会社は認可し、
(のちの川西航空機)彼の焦燥は深まる一方でした。

失意の日々の中で、 若い時から胃弱で何度も入院を繰り返していた清武は、
その心労が祟ったのか、胃病と腹膜炎を併発し、1924(大正13)年10月13日、
ジャーヌ夫人に看取られながら苦悶のうちに昇天しました。
わずか42歳でした。

その後、男爵の後継問題でジャーヌは滋野の実家から酷い扱いを受けることになりますが、
結局彼女は日本でフランス語を教えながら糊口をしのぎ、二人の遺児を育てて73歳で死去しました。 

長男のジャーク・清鴻(きよどり)は海軍の飛行士官を志望しましたが、不合格になったため、
陸軍航空通信隊に入隊し、そこで終戦を迎え、戦後はピアニストになりました。
そのスタイルから「和製(カーメン)キャバレロ」と言われていたそうです。

愛情物語/ジャック滋野
 

否定的に「ビジータイプ」と言われる一昔前の奏法で、フィンガーテクニックはともかく、
今聴くと正直なところ音楽理論的にかなり怪しい点があるのですが、
それなりに当時は有名だったようです。

少しあれれと思ったのが、このレコード?ジャケットにちゃっかり
「Jacques Baron Shigeno joue.. 」(ジャーク・バロン・滋野が演奏する)と書いてあることです。
芸名でもあったんでしょうかね・・・・バロンって。 


清武は音楽家から飛行家へ、ジャークは航空工学を諦め音楽の道へ・・。
父子が逆の道を歩むことになったのも何かの因縁でしょうか。



ところで清武は1918年に、雑誌の「百年後の日本」というテーマのアンケートに対し
こんな回答をしているそうです。

一、華・士族・平民の差別なくなるべし
一、軍人、官人の威力奮はざるべし
一、文明はほとんど極度に達し、従って戦争は不可能に近づくべし
一、少なくとも長距離の輸送・交通・郵便などは空中路となるべし
一、自転車のごとき軽便なる飛行機の使用盛んなるべし

全て100年経って、この世界はまさしく清武のいう通りになっています。

今日もどこかで新たな戦争の火種が生まれ続けているということを除いては。 





参考文献:バロン滋野の生涯 平木國夫著 文芸春秋社



 


女流パイロット列伝~セシリア・アラゴン「空飛ぶサイエンティスト」

2015-06-04 | 飛行家列伝

今まで何人かの女流パイロットについてお話してきました。

その中には、ヴァレリー・アンドレのように、軍医としての活動のために
ヘリコプターの操縦をしていたようなインテリ女性や、
自らが自社化粧品の「イメージガール」として飛んだジャッキー・コクランのような
「商売上手」な女性、あるいは、映画界に誘われて女優をしていたルース・エルダー
このような、飛ぶだけが目的でないパイロットが何人もいたわけですが、
それらの人々と、今日お話しするセシリア・アラゴンが一線を画しているのは、
彼女が航空ショーを単独で開けるくらいの実力を持ったパイロットでありながら、
それとは全く別に、科学者であり大学教授の顔を持っている、

「正しい意味での二足のわらじ」

を履いた女性であることでしょう。


まずは、このyoutubeを見てください」。

 
Cecilia Aragon, aerobatic pilot

改めて見ると、アクロバット・パイロットというのはなにより、
三半規管の出来が違うんではないか、とまずそこに感心してしまいますね。


彼女の肩書は

コンピュータサイエンティスト

大学教授

曲芸飛行パイロットでチャンピオン

どれもそう簡単にはなれない「選ばれた人」の職業でしょう。
(真中は、まあ、大学のレベルに応じていろいろですが)


ちなみに彼女が行うアクロバティックエアショーのパンフレットによると、

セシリア・アラゴンは、今日最も熟練の曲芸飛行パイロットの一人である。
全米アクロバットチームのメンバーに二回なっており、1993年には全米選手権のチャンピオン、
(女性だけの大会ではない)1994年にもカリフォルニアのチャンピオンになっている。
1990年以来プロの曲芸パイロットとして活動しているが、全米、そしてヨーロッパで、
今まで週百万人の観客の前で彼女はスタント飛行を行ってきた。
そして、その飛行時間5000時間に、一度も事故を起こしたことがない。

ちなみに、アクロバティック競技について説明している
ウィキペディアの英語ページを見つけました。よろしければ・・・・。


航空の黎明期には、何度も説明したように「初の女性」というタイトルで
有名になる女流飛行家がほとんどでした。
「男性パイロットの操縦する飛行機に乗っていた」というだけで、
「初の大西洋横断に成功!」などt華々しく持ち上げてもらえた時代には、
ほとんどが「女性では」とそのタイトルにつけられていたのです。
アメリア・イアハートですら男女関係なく「初めて」のタイトルはごくわずか、
というのが女流飛行家の限界を物語っていました。

しかし、彼女は、女性であることが全く考慮されない選手権で
並み居る男性パイロットを抑えてチャンピオンになり、その後も
曲芸飛行の一人者として、今日もショウを行っているのです。

続いてショウのパンフレットから。


セシリアの駆る特別仕様のセイバーが滑走路に向かって急降下するときに
たてる轟音は、ショウの最初からあなたの心をわしづかみにするでしょう。
垂直S字に離陸し信じられないパワーを発揮するセイバーの駆動も必見です!


この「垂直S字離陸」というのは原文では「vertical S right on takeoff」
となっていて、VTOL機でもないセイバーが垂直離陸するというのが全くイメージできませんでした。

たぶん、離陸するなりらせんを描くように上昇していくという意味ではないかと思うのですが。

セシリアはまったく息つく間もなく、極限のテクニックを駆使し、セイバーを操ります。
まさに目もくらむ速さで行う急降下と急上昇の繰り返しの連続には興奮せずにはいられません。
彼女の行うマニューバ(固定翼機の機動)には、

【テイルスライド】 
垂直上昇姿勢から空中に静止、そのまま元の経路を上向き姿勢のままバックし
後ろ向きにU字を描いた後、垂直降下する。

【ナイフエッジ】
90度バンクした姿勢での水平直進飛行、水平飛行を維持するため機首はやや上に向ける

その他、ローリングサークル、スナップロール、ロンセビアク、ネガティブGなどなど、
このほかにもたくさんが盛り込まれています。


これ、観てみたいですね。

さて、このように曲芸飛行の世界ではトップに君臨しているセシリアですが、
少なくとも1985年まで、コンピューターに張り付いている

高所恐怖症の

恥ずかしがり屋の女性が、こんな道を選ぶとはだれも想像だにしていませんでした。

「大きくなったら、科学者かアーティスト、どちらになろうかと悩んでいたの。
パイロットなるなんて、まったく考えもしていなかったわ

彼女はインディアナ州に生まれ、カリフォルニア工科大学を卒業後、
U.C.バークレーでコンピュータサイエンスを学び、プログラマ―として働くため
サンフランシスコのベイエリアに住んでいるとき、転機が訪れます。

彼女の同僚が、ある日、パイパー・アーチャーに乗ることを誘ってきたのでした。
小さな飛行機は危険だから怖い、とその誘いを断っていたのですが、
ある日ふと考えを変えて、乗ってみることにしたのです。

「わたしはそのとき天国にいたわ」

彼女は回想します。

「そしてこう言ったの。これがわたしの夢だったんだ。これだったんだ、って」

その足で彼女はレッスンを申し込み、多い時で週80~100時間のレッスン代のために 
二つの仕事を掛け持ちしていたこともあったそうです。

ということは休みの週には一日一番多い日で14時間乗っていた?ってことですか。
朝6時から初めても終わったら夜8時・・・。
まあ、ベイエリアは夏は9時まで明るいから可能だとは思いますが。


彼女は現在、アクロバティックも学べる自身の飛行スクールをバークレーに持っています。 

ちなみにそのレッスン代ですが、

ストール/スピン安全コース・・・・・2.5時間講義、1.5時間飛行・・・・・675ドル

乱気流からの回復コース、落下傘降下含む・・・・・飛行3時間・・・・・1395ドル

曲芸飛行コース・・・・17時間講義、10時間飛行・・・・・・・・・・・・4195ドル


ちなみに最後のコースは、インメルマンターンを含む「十種マニューバーセット」で、
パラシュートのお手入れも教えてもらえるお得なコース。
すべてこれ、セシリア・アラゴン先生が直接指導します。

 まあ、これを見ても分かるように、こんな特殊なことを学ぶのですから、当然
レッスン代は非常に高額につくわけですね。

かつて彼女が週100時間のレッスンにいったいいくら払ったのか、知りたいものです。



これだけの飛行家としての活動は、しかし彼女の生活の「一部」でしかありません。

コンピュータサイエンティストとしての実績も錚々たるもので、彼女は
ライムンド・ザイテル教授との共同開発で、ツリープ理論構築
乱択アルゴリズムを使用した平衡2分探索木の1つ)の発表により、
Presidential Early Career Award for Scientists and Engineers (PECASE)
という科学者が非常に早いキャリアのうちに出した業績に対して与えられる
最高の殊勲賞を授与されています。

そして、現在はシアトルのワシントン大学で教授として、
ユーザー中心設計(Human Centered Design)と、エンジニアリングの講座を担当。


しかし、こんな超激務&危険な仕事を兼務して、なおかつ事故一つ起こさず今までやってきた、
ということそのものが、彼女を評価するにもっとも賞賛すべき点ではないでしょうか。

とはいえ、これだけ多忙に自分の「夢」を追いかけているのだから、
きっと家庭生活などは
崩壊していたりして・・・、と世間は意地悪なことを考えるものです。
恥ずかしながらわたくしも、冒頭youtubeでは女の子しか出てこなかったので、
「うーん、やっぱり離婚しているのか」と思っていたら、HPによると、
彼女にはデイブという夫がいて、ダイアナという娘、ケニスという息子までいることが判明。


何もかも手に入れることのできる女性って、いるものなんですね。