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ヘイゼル・イン・リー〜航空名誉殿堂入りした中国系女性

2019-01-29 | 飛行家列伝

メア・アイランド海軍工廠跡にある博物館の展示を見ていて、
海軍工廠に関係のある女性について紹介するコーナーに、

マギー・ジー(Maggie Gee )

という中国系女性パイロットの写真を見つけました。

大戦中、女性ばかりのパイロットサービス部隊、WASPがありました。
WASPの設立については、

ジャクリーヌ・コクランナンシー・ハークネス・ラブ

という二人の女性パイロットが立ち上げに関わった、ということを
このブログでもお話したことがあります。

そのWASPには二人の中国系女性パイロットがいました。

その一人がここで紹介されているマギー・ジーです。

ここに書いてあることをご紹介すると、彼女はカリフォルニア生まれ。
カリフォルニア大学バークレー校を卒業し、物理学者として
ローレンス・リバモア国立研究所に勤め、晩年は政治にも関わったようです。

バークレー大学在籍中にここメア・アイランドで製図を手伝っていた彼女は、
さらなる刺激をWASPに求めた、とあります。

製図課にいた二人の同僚と一緒にお金を貯めて飛行機のレッスンを受け、
ラスベガスに送られてからは、戦地から帰ってきた男性に
計器飛行証明(Instrumental Rating)を取らせるための教官をしていました。

計器飛行とはご存知のように計器だけを頼りに操縦することです。

「力が与えられた、という気がしました。
女性が自分自身で生きていける自身が与えられたというか」

彼女は戦争についてこう語っています。

「男性に依存する必要がないんですから。
もちろん主婦になるというのも立派な仕事ですが。
社会に出た女性も男性の補助に過ぎないと感じずにすんだのよ」

WW II WASP Pilot Maggie Gee

彼女の亡くなる前のインタビューがありました。

ちなみに右側の写真の女性二人ですが、マギーとは関係ありません。

これはメア・アイランドでの進水式の一コマ。

ミセス・エマ・ヤムは「出資者」。
ミセス・リリー・チンは「マトロン・オブ・オナー」、すなわち、
進水式でシャンパンを破る光栄を担ったということになります。


そして、WASPにはもう一人、中国系アメリカ人女性がいました。
マギー・ジーと同じくアメリカ生まれの

ヘイゼル・イン・リー(李月英)

で、本日冒頭イラストに描いたパイロットです。

彼女はオレゴン州ポートランドで、移民の家庭に生まれ、
広東省からきたという父親はアメリカで商売をしていました。

当時は中国人に対する人種差別も公然と行われていましたが、
彼女は7人の兄妹と共に、幸せな子供時代を送ったようです。

活発だった彼女は水泳やハンドボールに興じ、10代ですでに運転ができました。
おそらく、彼女の父の商売はうまくいっていて、裕福だったのでしょう。

1929年に、彼女は高校を卒業し、ポートランドのダウンタウンにあるデパート、
リーベスでエレベーターガールの仕事を始めました。
エレベーターガールは、この時代中国系アメリカ人の女性が持つことのできる
数少ない仕事の一つだったのです。

1932年、彼女は友人と行った航空ショーで初めて飛行機に乗り、
それ以来空を飛ぶことの魅力に取り憑かれるようになります。

当時、パイロットそのものが少なく、さらにその中の女性となると
わずか1%未満、有色人種となると一人いるかいないかでした。

ポートランドには中国系が経営していた飛行クラブがあったので、
彼女はそこに入会して、有名な男性飛行士に訓練を受けました。

彼女の母親はもちろん娘が飛行機に乗ることに大反対でしたが、
彼女の妹、フランシスによると

「姉は飛ばなければならなかったのです。
それは、彼女が何よりも好きになったことだったから。
中国系女子が誰もやったことのない危険を楽しんでいたのです」

そして1932年10月、ヘイゼルはパイロットの免許を取得した
初めての中国系アメリカ人女性の一人になりました。

飛行機の操縦という大胆なスポーツに参加することで、
彼女や他の中国系女性は、大人しく受け身という自らのステレオタイプを壊し、
男性優位の分野で競争するだけの能力があることをを証明したのです。

彼女はポートランドで、将来の夫である "クリフォード"・イム・クンに会いました。

 

マギー・ジーはアメリカ生まれですが、二世によくあるように、
父母の祖国である中国には当初帰属意識はなかったようです。

彼女の中国に対する愛国心が燃え上がったのはウィキによると1933年、

「日本が中国に侵攻した」

というニュースを知ったから、となっていますが、
満州国の成立を指しているのでしょうか。

とにかく彼女は、いてもたってもいられなくなり(たぶん)
パイロットとして中国空軍に加わるため、中国に向かいました。

しかしもちろん当時女性操縦士が入隊することは不可能。
挫折した彼女は広東に住んで、数年間は民間航空会社の操縦士をしていました。
もちろん当時、彼女は中国における非常に少数の女性パイロットの1人でした。

1937年に、盧溝橋事件が起き、日中戦争が激化します。

(彼女についてのWikipediaを製作しているのは
まず間違いなく中華系アメリカ人などであろうと思われるのですが、
日中戦争について『日本が侵略』『日本人に人々が殺され』など、
感情的な書き方がされているので、正直あまり気分が良くありません。

中国空軍の空爆によって民間人に多大な犠牲者が出たこと、通州事件、
蒋介石の漢奸狩り、大山事件、そんなことをいちいち書けとは言いませんが、
戦争なのでお互い色々あったということを少しは考えて欲しいです)

 

さらに、彼女はここで友人たちのために避難所を探し、おかげで
彼女の知人は全て爆撃から生き残った、などと言う友人の証言が
あったりして、そりゃ本当によかったねって感じです。(投げやり)

彼女はもう一度中国空軍に参加する努力をするのですが、失敗します。

ってかもう諦めろよ。女は載せない戦闘機って歌もあっただろうが。

なので香港経由でニューヨークに逃れ、中国政府のために
軍需資材(ウォー・マテリアル)の買い付けを行い祖国に奉仕?しました。

 

そうこうしているうちに真珠湾攻撃が起こりました。

ここでも「それによってアメリカは第二次世界大戦に引き込まれた」
と被害者目線で書いてありますが、相変わらず中国戦線の
フライングタイガースのことには全く触れておりません。

最近のアメリカの博物館は極めて中立な視点から、真珠湾攻撃についても
両国が利益を求めてぶつかった、というような描き方の元に、
特攻についてもリスペクトした紹介を行なっているところが多いと感じますが、
もちろんそうでない考え方のアメリカ人もいるってことです。

特に最近は、どうでもいいような博物館展示にも、よくよく見ると
中国系の入れ知恵的解釈が加えられ、日本を貶め、中国をアメリカの
同胞として讃える、という工作がじわじわ進んでいるのを肌で感じます。

つい最近、サンフランシスコにも日本を糾弾することを目的にした
戦争博物館が中華街に出来たばかりです。

 

さて、戦争が始まって男たちが戦場に出てしまうとどうなるかというと、
国内で業務を行う飛行士が圧倒的に足りなくなってきます。

そこで陸軍司令官ハップ・アーノルドの提唱のもと、
女性サービスパイロット、
つまり "WASP"が、あの女性パイロット、
ジャクリーン・コクランを司令として1943年に創設されました。

熟練した女性のパイロットがこぞってWASPへの参加を熱望し、
続々と集まってきました。

WASPのメンバーは、テキサス州のアベンジャー・フィールドで6ヶ月間、
トレーニングプログラムを履修します。
ヘイゼルはアメリカ軍のために飛行する初めての中国系女性となりました。


訓練中、彼女は一度九死に一生を得る事故に遭いました。
教官が、彼女を乗せて飛行中、いきなり予想外のループを行なったため、
ちゃんとシートベルトを装着していなかった彼女は機外に放り出されたのです。

しかし彼女はパラシュートで野原に着陸することに成功し、
その後はパラシュートを引きずって部隊に帰りました。

(というかこの教官いろんな意味で酷すぎね?)


当時、WASPの女性操縦士は(軍に飛行指導されていたのに)軍人ではなく、
民間人として分類され、給与体系も公務員として扱われていました。

それを言うなら、憲法にその存在を記されていない現在の
日本国自衛隊の自衛官がまさにその通りの扱いなわけですが、

これは日本という国が異常だからこれを当たり前とするのであって、
この頃の女性飛行士の扱いは、後世の世界基準による評価でいうと

「非常に差別的なものであった」

となります。

差別的とはどういうことかというと、まず、彼女らに対しては

いかなる軍事的な利益も、提供されません。

例えば・・・・これは実はしばしばあったことなのですが、
WASPのメンバーが職務中に死亡、つまり殉職した場合にも、
軍人が受けられる軍の「オナー」を伴う葬式は行われません。

儀仗隊による 弔銃発射も、国旗を棺に掛けてもらうことも、
もちろん特進も、勲章もありませんでした。

その割に、WASPには、しばしば、風通しのいい操縦室の飛行機で
冬のフライトを行うなど、あまり望ましくない任務が割り当てられたり、
また男性の部隊指揮官が航空機を運送する役目を女性がすることを
あからさまに嫌って嫌がらせをするというケースもあったそうです。

 

さて、トレーニングプログラムを終了し、彼女はミシガン州にあった基地の
第3輸送グループに派遣されました。

そこでは戦線のために自動車工場で大量に製造されていた航空機を積み込み、
必要な地点まで空輸するのが彼女らの役目で、航空機はそこから
ヨーロッパと太平洋の戦線に送られていきました。

ここでの仕事は大変過酷だったようです。
彼女は妹への手紙の中で「休業時間の少ない週7日制」と説明していますが、
アメリカでも月月火水木金金だったんですね。

この頃の彼女についてWASPのメンバーが何か聞かれたら、
彼女らはヘイゼルの口癖を必ず付け加えるでしょう。

「わたしはなんだって運んで見せるわよ」

パイロット仲間は、彼女の操縦はいつも冷静で、たとえ強行着陸の際も
恐れを知らず大胆に行う、と高く評価していました。

彼女の初めての緊急着陸はカンザス州のコムギ畑へのそれでした。
着陸してくる飛行機のパイロットを見た農夫は、彼女を日本人だと思い込み、
干し草用のピッチフォークで武装して、叫びました。

「日本人がカンザスにせめてきただ!」

そして、飛行機から降りた彼女をフォークを構えて追いかけ回し、
彼女は農夫の攻撃を回避しながら必死で自分の身分を訴え、
自分が日本人ではないことを説明しなくてはならなかったそうです。

 

この逸話そのものがまるで漫画のようですが、彼女自身も、
いたずら好きな一面を持っていたようです。

彼女は自分の口紅を使って、自分の飛行機や同僚の飛行機に
漢字でいたずら書きをすることがあったそうですが、
ある太ったパイロットの飛行機に、彼にはわからないように
「ファット・アス」を意味する漢字を書いたという話があります。

「アス」はもちろん英語で言うところのあの「アス」ですが、
フランス語でエースパイロットのことを「AS」と言うのと
引っ掛けた「ちょっと小洒落たジョーク」のつもりだったようです。

ただ、いずれにせよどちらかと言うとこの話は悪質で、そもそも
本人の身体的特徴をからかって何が面白いのかと言う気もします。

彼女は 『RON』(Remaining Overnight)といわれる任務にも
満遍なく出動していましたが、大都市でも小さな町でも、
どこに行こうが、彼女は中国人のやっているレストランを探しては
厨房に入り込んで「監督」し、自分でやおら料理を始めるのが常でした。

それほど料理が好きだったのでしょうけど、いきなりズカズカ入ってきて
あれこれ言いながら厨房を乗っ取る客なんて迷惑以外の何ものでもありません。

彼女のWASP仲間のうち一人は

「ヘイゼルは、何も知らないわたしに
異文化を学ぶ機会を与えてくれました」

と語っていますが、こりゃかなり間違った文化が伝達された可能性もあるな。


1944年9月、彼女は選抜されて戦闘機を操縦する訓練を受け、
P-63 KingcobraP-51ムスタング、そしてP-39 Airacobra
米軍のために操縦することができる最初の女性になりました。

しかし、この誇らしい任務に選ばれたことが、彼女の人生を
わずか32年で終わらせることになります。

 

1944年11月10日、ニューヨーク州のベル・エアクラフト工場から
モンタナ州グレートフォールズに P-63 「キングコブラ」を輸送すべし、
と言う命令が降りました。

これは、実はレンド・リース計画に基づく計画の一つで、
当時アメリカは同法を制定して以来、連合国に(ギブアンドテイクで)
膨大な量の軍需物資を供給していたのですが、この戦闘機は
ソ連軍が受け取りに来るアラスカまで輸送することになっていました。

東から西海岸の端までの輸送なので、補給のため中間地点まで機を空輸し、
そこからは男性飛行士がアラスカまで回航、アラスカからは
ソ連軍の搭乗員が操縦して自国に持ち帰るのです。


それはサンクスギビングの朝でした。

彼女の機が、目的地のグレートフォールズに着陸を試みたとき、
同時に同じP-63の大編隊が空港に近づいてきました。

このとき、運悪く管制室と彼女の機の間での通信の混乱が起こり、
次の一瞬、編隊のうちの一機と彼女のP-63が空中で衝突しました。

墜落して瞬時にして航空機は炎で包み込まれ、救急隊が燃える飛行機の残骸から
彼女の身体を引っ張り出したとき、着用している飛行ジャケットは
まだくすぶっていたといわれています。

その2日後、1944年11月25日に、彼女は全身火傷により死亡しました。

 

彼女の家族にとって不幸はこれで終わらず、彼女の死のわずか3日後、
陸軍の戦車隊の一員としてフランス戦線に出征していた彼女の兄、
ビクターが
戦死したという公報を続けざまに受け取ります。

家族はポートランドに彼らの墓地を購入したのですが、
墓地側は、そこが「白人区画」であるという墓地の規則を楯に、
家族が選択した場所に兄妹を埋葬することを拒否しました。

遺族は墓地側と裁判で争い、長年の闘争の末結果として勝利を収めましたが、
その間兄妹の遺体はどこに仮埋葬されていたのでしょうか。

彼女は今、ウィラメット川を見下ろすリバービュー墓地の丘の上の
「非軍人」すなわち一般人の区域に兄と共に眠っています。

 

その後30年以上にわたり、戦争が終わった後も、WASPのメンバーと支持者は、
女性パイロットの軍事的地位を確保するための運動を行い、
ついに1977年3月、連邦議会の公法95-202の承認に基づいて、
女性空軍パイロットの功績と、その軍事的地位が認められました。

WASPのパイロットとして大戦中の困難な時期、自国のために奉仕し、
殉職した女性は全部で38名であり、彼女はその最後の一人です。

2004年、ヘイゼル・イン・リーは、オレゴンの
エバーグリーン航空宇宙博物館内にある「名誉航空殿堂」入りしています。

ここにはガダルカナルで台南航空隊と戦ったことでも日本人には有名な、
マリオン・カール大将(上段左から2番目)も殿堂入りしています。

ヘイゼルは中段の左から4番目。
この中で彼女はただ一人の女性であり、そして唯一のアジア系です。

 

 

 



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2 Comments

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Unknown (うろうろする人)
2019-02-07 10:27:54
リーさん、ご愁傷様ですね。P63での事故でのお亡くなりとか。P63は朧げな記憶ではP39の後発型で、最高速も700Km/H近くまで向上したものの、当時の米陸軍戦闘機のP47、P51、又P38などの性能がようやく著しく向上してきた為、比較すれば目立つ性能とは言えないものの、強力な武装・爆弾等の搭載力がソ連空軍的には戦場でのニーズ?に合致した為、生産した分の殆どをそちら向けに回された機体だったかと思います。
又、P39と言えば、確か笹井中尉が初撃墜した機種でしたっけ?(三段跳び撃墜とか何かそんな呼ばれ方をされていましたよね?)で、その彼を撃墜したのはマリオン・カール・・・。
思い起こせば、このブログをエリス中尉が始める切っ掛けの一つはその笹井中尉に関しての事でしたから(よね?)、エリス中尉的にはP39、マリオン・カール、ときてビビッと来てしまい今回取り上げたのでしょうか?
リーさんも最近になってから「名誉航空殿堂入り」されたそうですが(当時のこちら側から見ればその最後は「ざまあ」としか言えませんが)、アメリカでの軍関係の死没者等への社会的な対応には考えさせるものが確かにあると思います。彼の国の良い面の一つですよね。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/246536
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偶然ですが (エリス中尉)
2019-02-07 11:15:38
彼女のことはメア・アイランド工廠の博物館の展示で出てきたので
マリオン・カールもP39も偶然だったのですが、ちょっと驚きましたね。
マリオン・カールとくればわたし的には笹井醇一中尉(しかない)なので、
そのことも書くかちょっと迷ったのですが、おっしゃるように
当初笹井中尉がブログ開設きっかけの一つだったこともあり、
個人的な思い入れを自粛する意味であえて触れませんでした。
でも、ちゃんと思い出してくださる方がいて嬉しいです(笑)

アメリカという国は多民族で成り立っているので、国に忠誠を尽くせば
そのルーツはなんであっても国家的に尊重される訳で、これは国として当然です。
国のために亡くなった人に対し、国が尊敬と感謝を払わない国、
しかも近隣敵国の顔色を伺い、それを政権批判材料にする国など日本だけです。

ただ、リーの殿堂入りには、中華系アメリカ人の運動というか、
ゴリ押しもあったんだろうなと、最近のアメリカでの中華系の異常な動き
(博物館で中華系万歳、日本は敵!みたいなコーナーを作らせていたり、
真珠湾でこれまで日本もまた自国のために戦った、という考えに立ち、
日本軍の立場を尊重したような展示を書き換えさせようと大金をつぎ込んだり)
を見ていると思えます。


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