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独立空軍創設の悲願 ”ハップ”・アーノルド〜陸軍航空のパイオニア

2021-01-25 | 飛行家列伝

                                     

アメリカ軍の航空を語っていると、いつのまにかおなじみになってしまうのが、
「ハップ・アーノルド」という名前です。
つまり陸軍航空ではそれほど重要人物なんだろうと思っていましたが、
スミソニアン博物館の陸軍航空コーナーにこの人の似顔絵があったので、
この際その経歴とバイオグラフィーを取り上げてみることにしました。

 

ハップ・アーノルド

爆撃機戦略の父

1934年 アメリカ郵便パイロット

とキャッチフレーズがあります。
パイオニアシリーズはほぼ全員が何かの「父」なのですが、
この超有名人が爆撃機戦略の父だったとはちょっと意外でした。
続いては

1911年ライト兄弟より航空を学ぶ

マーチン爆撃機による記録飛行を指揮
ワシントンDCとアラスカの往復 1934

と書かれていますが、これは彼の功績のほんの一部にすぎません。

スマイリング・ハップ

ヘンリー・ハーレー「ハップ」アーノルド
Henry Harley 'Hap' Arnold(1886ー1950)

は、陸軍と空軍の将軍の階級を保持している数少ない軍人です。

航空のパイオニア。

アメリカ陸軍航空局長(1938ー1941)。

五つ星ランクを保持する唯一の米空軍将軍。

二つの異なる軍隊で五つ星ランクを持つ唯一の将校。

これでは有名なのは当たり前といったところです。
たまたま彼がその道に足を踏み入れたのが、ぴったりと
航空の時代がちょうど開けたところであったという意味で、
航空人として彼ほど幸運な男はいなかったということでしょう。

もちろん、そのチャンスに十分波に乗れるだけの実力を
持っていたということが前提条件としてありますが。

彼の通称である「ハップ」ですが、なんと「ハッピー」からきています。
彼の写真はどれを見てもいかにもその名に相応しくほほえんでいるのですが、
これは彼が1911年、つまり飛行機の免許をとってすぐ、
スタントパイロットを務めたときのサイレント映画のスタッフが名付けたもので、
彼の妻も手紙で彼をこう呼んでいたということです。

親と妻は彼を「Sunny」と呼ぶこともあったそうですが、
ハップと言いサニーと言い、つまり彼はそういう雰囲気を持っていたのでしょう。

【初期の人生】

「ハップ」アーノルドは1886年、ペンシルバニア州の外科医の息子として生まれました。
母親はいつも楽しげに笑っているような女性で、彼は母親の影響を受けたのかもしれません。

父親は彼の兄を軍人にするつもりだったのですが、反抗されたため、
全くその気がなかったアーノルドが代わりにウェストポイントの試験を受けました。

試験の結果は補欠。
ところが、合格者が結婚するつもりであることが明らかになり、
妻帯者は入学できないという士官学校の掟により、
彼は失格になり、代わりにアーノルドが繰り上げ合格者となったのでした。

ウェストポイントでの彼の成績は、特に優秀というわけではありませんでしたが、
数学と科学系が優れていため、中間と最下位を行ったり来たりしていました。
いたずら者のグループ「ブラックハンド」のリーダーになったり、
ポロで活躍したりと、なかなか楽しい候補生生活を送ったようです。

本人は騎兵隊への割り当てを強く望んでいましたが、
成績に一貫性がなく、最終的に111名のうち66番という席次だったため、
希望通りに行かず、歩兵に任命されてしまいます。

とにかく歩兵の任務が嫌いでしょうがなかったらしい彼は、
配置に抗議するなど無駄な努力をしていましたが、説得されて
いったん歩兵任務についてチャンスを伺っていたところ、
陸軍武器科(戦闘後方支援)なら今だけ少尉に即時任官、
という条件を提示されたので、異動を申請することにしました。

しかし、その試験の結果を待っているあいだに、彼はいつからか
自分が航空に興味を持っていたということに気づくのです。

自分の努力不足とは言え、兵学校時代のぱっとしない成績のせいで
行きたい配置にもつけず、かといってここで武器科に異動したとしても
出世できるかというとどうもそうではなさそうだ。
それならば、発足したばかりでまだ誰も経験していない航空分野で
一か八かやってみようか・・・。

きっとアーノルドはそんなふうに考えたに違いありません。
そして、その「賭け」は彼の将来に最良の結果をもたらすことになります。

 

【軍事航空のパイオニアとなって】

アーノルドは信号隊への移動を要求する手紙を送り、1911年、
オハイオ州にあるライト兄弟の飛行学校で修学する命令を受け取ります。

「わーい♫」

アーノルドは他の陸軍、海軍軍人(ペリーのひ孫にあたるジョン・ロジャーズ中尉
民間人3名とともに28回のレッスンを受け、1911年5月、
初めての単独飛行を行うことに成功しました。(写真はそのころのハップ)

そして連邦航空局のパイロット証明書第29号証明書、さらに
一年後、軍用飛行士証明書第2号を受け取り、
1913年に新しく制定された軍飛行士のバッジ着用を許可された
最初の24人のうちのひとりになりました。

その後単独飛行を数週間経験したアーノルドは、新しく設立された
航空隊信号部隊で陸軍の最初の飛行教官となって後進を指導しました。

この頃の航空に人が少なかった理由は単純でした。
要は飛行機という乗り物そのものに安定性がなく、ともすれば
死にあまりにも近い、トゥー・デンジャラスな職種であったからです。

その危険を承知の上で、自らパイオニアになることを選んだ飛行士たちの多くは
自分のミスではない事故で、しばしば命を落としていきました。

 

アーノルドと一緒にパイロットの資格をとったペリーの曾孫ジョン・ロジャーズも
45歳の若さで機体が川に墜落して亡くなっていますし、彼の兵学校の同級生、
またライト航空スクールのパイロットも立て続けに墜落事故で死亡し、
彼自身も不時着事故を起こしたこともあって、この頃からアーノルドは
激しいPTSDを発症し始めています。

そしてついに訓練中海に墜落し、顎に裂傷を負うという大事故を起こしました。

きっと、もうダメ俺限界、という状態だったに違いない彼に、
陸軍から無情にも「その年の最も優れた軍事パイロット」を決める
マッケイ・トロフィーというコンテストに参加せよという命令が下ります。

命令とあっては拒否するわけにもいかず、出場した彼は見事優勝しました。

しかしその1ヶ月後、飛行中激しい乱気流に巻き込まれ、スピンに陥るも
機体をリカバーして立ち直り、死を免れるという経験をした彼は
着地するなり休暇を申請しています。

これはいわばマイルドな任務拒否というものでしたが、当時パイロットが
死と隣り合わせの危険な任務というのは共通認識だったため、
その点理解のあるアメリカ軍での申請は
あっさりと認められ、
その任務拒否を咎められることもありませんでした。

このあと彼は約3年間飛行任務に就かず、結婚して子供を設け、
大隊長の副官という任務でフィリピンに駐在していましたが、帰国後、
元同僚からの励ましを受け、4年間の間に急激発展した
シンプルな飛行制御システムを持つ安全なカーティスJNトレーナーで
1日15〜20分だけ空に上がり、結果、恐怖を克服し、2ヶ月後、
彼は再びJMA(ジュニア・ミリタリー・アビエイター)の資格を得ています。

 

1917年、第一次世界大戦にアメリカが参戦した時、彼は
フランスへの派遣を希望しましたが、航空セクションは
ヘッドクウォーターとしての彼は資格なしと判断したので、
その要請は聞き入れられませんでした。

彼の昇進は全体的に無茶苦茶で、1917年6月少佐に昇格、
2ヶ月後の8月に大佐に昇格したとおもったら1920年6月大尉に降格。
と思えば翌月7月にまた少佐に昇格という具合でした。

自分の階級がなんだったかわからなくなることもあったのでは、
というくらい上下動を繰り返しています。

1918年、やっぱりスマイリング

【ビリー・ミッチェル裁判】

ここでまた再び、あの独り十字軍、ビリー・ミッチェルのことを語らなくてはなりません。

陸海軍から航空を独立させようとするミッチェルの野望は、
当時の航空関係者を巻き込み、ある意味踏み絵を踏ませることになりました。

1918年5月20日、航空部隊は信号隊から分離されることがになりましたが、
あくまでも地上部隊の統制下にありました。

当時の戦争省参謀、野戦砲の将軍であったチャールズT.メノヘール少佐

「軍事航空は単に(軍隊)の武力以外の何物にもなり得ない」

という立場だったからです。
そしてメノヘールの後任になったのが「あの」メイソン・M・パトリックでした。

パトリックが59歳であるにもかかわらずパイロットの資格を取ったこともあって、
空軍の擁護者であり、独立空軍の支持者であったというのは前述の通りですが、
彼は単一の統一空軍を創立する(ついでに海軍を廃止する)という急進的な
航空サービス副局長のビリー・ミッチェルと頻繁に衝突せざるを得ませんでした。

アーノルドはというと、こちらは完璧にミッチェル支持派だったため、そのせいで
パトリックとの関係は最悪のものになり相互に嫌悪し合うことになります。

その後彼は、わたしがいつもサンフランシスコに滞在中散歩する(笑)
クリッシーフィールド飛行基地の司令となりますが、私生活では胃潰瘍、
左手の3本の指先の切断などの深刻な病気と事故を経験したうえ、
妻と息子にも深刻な健康問題が起こります。

息子ブルースを猩紅熱、4人目の子供ジョンを急性虫垂炎で亡くし、
アーノルドと妻のビーは喪失の痛みから立ち直るのにほぼ1年を要しました。

1924年、パトリックは犬猿の仲であるはずのアーノルドをなぜか抜擢し、
航空サービスの情報部門でミッチェルの補助につけました。

その後、ミッチェルが「シェナンドー」の事故について海軍を激しく非難し、
それが理由で軍法会議にかけられたとき、アーノルドはミッチェルを擁護すると
昇進に響くと警告されたにも関わらず、カール・スパーツ、アイラ・イーカーと共に
ミッチェルのために証言を行っています。

結局裁判でミッチェルは有罪判決を受けたわけですが、アーノルドらは
情報部のリソースを引き続き使用して、理解のある国会議員や航空部門各所に
ミッチェルに成り代わって航空群設立のための運動を行いました。

その報告を受けた戦争省がパトリックに犯人を見つけて懲戒するよう命じ、
すでにアーノルドらの活動について
知っていたパトリックは
代表(見せしめ?)としてアーノルドを呼び出しました。

「君たちのやっていることは上に筒抜けだ。
辞任するか、軍法会議で裁かれるかどちらかを選べ」

「それじゃ軍法会議で」(あっさり)

パトリックはその答えにたじろぎます。

一般世論ではミッチェルの裁判で彼を擁護する声が圧倒的に多く、
海軍上層部が裁判で負ける可能性もあると危惧したからです。

仕方がないのでパトリックはアーノルドを航空の主流からはずし、
第16観測飛行隊の指揮官に「左遷」することにしました。

報告書には

「アーノルドは陸軍の一般秩序に違反したとして懲戒処分を受けた」

と書かれていたようですが、すぐに彼はその評判を挽回しました。

彼自身の努力というより、時代がミッチェルの正しさを証明したからです。

 

 

このころ、一人息子を設けたばかりの彼は、少年向け小説を出版しています。

「ビル・ブルースシリーズ」

と名付けられた6冊の本は、少年たちに航空に興味を持たせる内容でした。

 

アーノルドの昇進はミッチェル事件があってしばらく止まっていましたが、
1931年に中佐となったあと、2度目のマッケイ・トロフィーを受賞したこともあり、
1935年には二階級特進していきなり准将、3年後に少将へと順調に出世しています。

航空分野で彼の世代に他にほとんど人がいなかったからという理由もあるでしょう。

 

【民間人虐殺の汚名〜第二次世界大戦】

1941年6月、日米開戦前に中将に昇進したアーノルドは、開戦後
1942年に組織されたアメリカ陸軍航空群の司令官に就任し、またもや
1年を待たずに大将に、1944年に陸軍元帥に昇進しました。

人がいないせいか、戦時ゆえに特進もありだったのかわかりませんが、
一つ確実なことは、空軍力が戦争遂行において最も重要なものになるという
ミッチェルの予言は間違っていなかったということであり、
アーノルドの出世によってミッチェルの無念も晴らされたということでもあります。


さて、日本の民間人居住地域を狙った米軍の都市空襲は、日本人にとって
カーチス・ルメイの名前と共に最悪の戦時記憶として残っているわけですが、
元々この大規模で継続的な空爆ならびに焼夷弾の使用を最初に言い出したのは、
ルメイではなくこのハップ・アーノルドでした。

彼は科学者から

「焼夷弾の使用についての人道的側面について勘案すると
その使用の決定は高レベルで行われなくてはならない」

という提言を受けていましたが、上層部に判断を問うことをせず、

「トワイライト計画」「マッターホルン作戦」

として立案し実行に移しています。

そして、ヘイウッド・ハンセル准将から実行指揮官をカーチス・ルメイに変えました。
ハンセルは戦後、自分の罷免は精密攻撃から無差別爆撃に変えるためだった、
と語っていますが、それが真実だったかはともかく、アーノルドは
ドレスデン爆撃についても

「ソフトになってはいけない。
戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」

と言い切り、また、東京空襲を行う部隊を前に、

「君たちが日本を攻撃する時に日本人に伝えてほしいメッセージがある。
そのメッセージを爆弾の腹に書いてほしい。
”日本の兵士たちめ。
私たちはパールハーバーを忘れはしない。
B29はそれを何度もお前たちに思い知らせるだろう。何度も何度も覚悟しろ”と」

と演説し、日記には

「アメリカでは日本人の蛮行が全く知られていない」

「ジャップを生かしておく気など全くない。
男だろうが女だろうがたとえ子供であろうともだ。
ガスを使ってでも火を使ってでも日本人という民族が
完全に駆除されるのであれば何を使ってもいいのだ」

などと書いています。
つまりバリバリの「タカ派」であり「差別主義者」であり「非人道主義者」です。

英語のwikiにさえ、

「彼は民間人を無差別に虐殺した汚名を後世に残すことになった。」

と書かれるほどの潔い「鬼畜」ぶりだったわけです。

 

「鬼畜ルメイ」はいわばアーノルドからの指令を受けて忠実にこれを実行しただけであり、
無差別爆撃そのものもルメイ就任前から計画されていたのに、なぜか日本では
アーノルドの鬼畜ぶりは実行指揮官のルメイほど有名にはなりませんでした。

いずれにせよこれらの発言が誰からも非難されることがなかったのは、
彼が
戦勝国の軍隊指揮官であったからにほかなりません。


そして、彼自身はこれだけ日本人への憎しみを顕にしながら、空襲をむしろ

「人道的な攻撃」

と言い張っていたという説があります。

これも原爆投下と同じ、第一次世界大戦時に生まれたロジックで
徹底的な継続した破壊を与えることによって終戦が早まる、という理屈です。

東京空襲自体、ましてや日本人の命について人道的に配慮するなどということは
彼の思考には一切なく、つまるところ関心事はただひとつ、
戦争を空爆の力で終わらせて、

「独立した空軍の設立という悲願を達成する」

ことしかなかったのではないかと思われます。

彼は1946年、兼ねてから心臓発作で体の調子を崩していたこともあって、
陸軍元帥として退役しましたが、翌年、陸軍航空軍は独立して
アメリカ空軍となったため、アーノルドは議会によって最初にして唯一の
空軍元帥に昇格という名誉を与えられました。

 

コロラドスプリングスにある空軍士官学校の広場中央には、
地球儀を持ち、日本を指差しているアーノルドの像があります。

後編~空軍士官学校コロラドスプリングスでの学び(アメリカ南西部 ...

「女子供でも日本人なら全て殺せ」

というときでさえ、穏やかに微笑んでいる「ハップ」アーノルド元帥。

空軍元帥になって3年後、彼は63歳で他界しましたが、おそらくは
ミッチェルから引き継いだ空軍創設の悲願を達成し、心から満足しつつ、
その名の通り「
ハッピーに」微笑みながら逝ったのではないかと思われます。

 

 

続く。

 


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3 Comments

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国際条約 (お節介船屋)
2021-01-25 10:12:07
ルメイ自身が敗戦国であったなら戦犯であったろうとの発言やアーノルドの命令に従ったとも発言しているとの伝聞もあります。
如何に理由をつけようとも一般市民の殺害であり、ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約(2次大戦後改訂されジュネーブ諸条約)違反行為でしょう。
日本も加盟しながら捕虜取り扱いや空襲等違反行為を行っており、批准各国とも厳密な遵守とはなっていません。戦争とはそのようなものかもしれませんが。
ただアメリカの大々的組織的な都市爆撃はあまりに酷く確信犯です。
サンフランシスコ条約で一切合切清算されましたが日本国民として歴史として認識しておくことが必要です。

忘れてしまって空自設立貢献としてルメイに勲章授与なんて日本政府や官僚の判断は誤りです。

現代でも日本政府、政治家、官僚、国民は国際条約、国際機関に頼るというか、信用しすぎです。

国連、WTO、WHO、国際裁判所等の活動を見ても、国際条約の履行状況を見て、日本国民はあまり関心がなく、現状認識が甘いと思います。

このところの海上保安庁測量船に対する韓国海洋警察の行動や南鳥島近傍における中国の長期海洋観測等海洋法においても日本の態度や世論は全く弱く、中国、韓国の横暴を許してしまっています。
日本の過去の態度も災いしていますが国際秩序や国際感覚を認識して国の態度や国際間の調整を実施しないと現在も将来も苦しむこととなります。
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後先を考えていた (Unknown)
2021-01-25 13:58:47
我々も鬼畜米英と言っていたので、アーノルドさんも五十歩百歩だと思います。

昨今、陸上自衛隊は、従来の米陸軍に加えて、海兵隊とも共同訓練を行うようになって来ました。知人曰く、米陸軍と海兵隊の考え方の違いですが、陸軍は占領した後に使う予定の施設は破壊しない作戦を立てるそうですが、海兵隊は一切、後のことは考えないのだそうです。

第二次世界大戦当時は、爆撃機の航法精度もよくないし、爆弾は落としたら、どこに落ちるも爆弾任せなので、精密爆撃を考えていたのかどうか、よくわかりませんが、アーノルドさんはもしかしたら、占領後というか、後先を考えていたのかもしれませんね。
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日本敗北のための航空計画 (お節介船屋)
2021-03-10 14:30:30
また田中利幸著「空の戦争史」からの抜粋
1943年9月ケベック軍事会議でアーノルド大将が提出した「日本敗北のための航空計画」には「労働者に死傷をさせることで労働力を引き離す」と強調しており、無数の町工場が点在する日本の諸都市を無差別爆撃することを示唆していました。
米国民に対して正当化の説明で焼夷弾で日本国民に多くの犠牲者を出すことで戦争を終結でき、ひいては米国人の多くの生命を救うことが出来るとの論理でした。
精密爆撃論を形式論として維持してはいましたが無差別爆撃を容認していました。
1945年1月ハンセン准将は名古屋への地域爆撃すなわち無差別爆撃に異議を唱えたためアーノルド大将によって解任、ルメイ少将が第21爆撃軍司令官に任命されました。
ルメイは早速焼夷弾を多量に使用する地域爆撃に移行、1月27日東京爆撃から実施しました。
爆撃効果や日本の高射砲の威力のなさや迎撃機の性能や少数から、3月低高度夜間爆撃に変更されました。
無差別絨毯爆撃が3月から8月まで158,000tの爆弾・焼夷弾が投下され100あまりの都市を含む、393市町村が廃墟とかし、推定死傷者102万人、そのうち死亡者56万人で7割が女性と子供でした。ナパームは消火し難く、粘着があり、人に付いたら皮膚を焼いて骨まで達するので殺し、また火焔地獄となり、呼吸困難で窒息死まで誘いました。
アメリカ国民はドイツの爆撃とは違い、真珠湾攻撃を仕掛けた日本には大量空爆に異を唱えることはない感情があったとのことです。
アーノルドにしてもルメイにしても日本国民を焼き殺しても犠牲者の傷みは喪失していました。
1965年ルメイの回想録で「我々がやってる空爆で道徳性の面で心を悩ますことは馬鹿げたことだ。兵隊が戦うことはあたりまえ。我々は戦ったのだ。どんな戦闘でも自軍の兵員を多く失うことなく、任務を達成することが出来れば、その日はとても良い日であったと我々は考えた。」と記述しています。
いくら正当化してもジュネーブ条約違反であり人道に対する罪でもあったでしょう。
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