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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

女流飛行家列伝~ジーン・ティンズリー「ウィリー・ガール」

2015-04-21 | 飛行家列伝

1937年のセント・パトリック・デイ、つまり3月17日。

その日、10歳のジーン・ティンズリーは、オークランド飛行場の空を見つめていました。
有名なあの女性飛行家、アメリア・イアハートが、このオークランドから、
愛機ロッキード・エレクトラの「フレンドシップ号」に乗って、
赤道上世界一周飛行に旅立つのを幼い彼女は見ていたのです。

68年後、78歳のジーンは、その歴史的な日のことをこう語りました。

「わたしはあの日のことをいまだにはっきり覚えているわ。
でも、それが大したことだとは全く思っていなかった。
彼女、アメリア・イアハートがわたしのヒーローだったことも特にないし」

アメリア・イアハートは、その歴史的な飛行の途上遭難し、
永久に人々の前から姿を消してしまいます。
10歳の少女にとってもその最後の姿を目撃したという事実は
衝撃であったと思われるのですが、
彼女、ジーン・ケイ・ティングレーが
後年パイロットを目指したのは
あくまでも誰かの後追いではなく、
自分自身で選び取った結果だったということなのでしょう。


その日からわずか8年後の1945年、それは日本との戦争が終結してからですが、
18歳のジーンは、他でもない彼女自身の意思で、雲を切って空に羽ばたいていきました。

そしてそれからまもなく、彼女は自分の情熱と一生を掛けるべき対象となる
ヘリコプターと出会うことになります。

飛行を始めて6年後、彼女は気球とヘリコプターの免許を取り、
それからというもの
数えきれないほどのタイトルを獲得してきました。
南カリフォルニアの”エアロクラブ”は、こう書いています。

「この、『空飛ぶお婆ちゃん』は、同世代のパイロットの中では最も多くの開拓者としての
『初めての』というタイトルを持っているが、
実は彼女が公表していないものも多い」

1976年。
彼女は低速プロペラ機ジャイロプレーンの初の資格を取った女性となります。


このジャイロプレーンというのはオートジャイロとも呼ばれる回転翼機です。
ヘリコプターと似ていますが、構造的には全く違う乗り物で、
ヘリが動力によって回転翼を直接回転させますが、
こちらは回転翼は駆動されておらず、
飛行は他の動力によって前進します。
前進によって起こる気流を受けた回転翼がそこで初めて回転し、揚力を生むという仕組みです。

現在ではほとんどの実用的な役目はヘリコプターが請け負っているので、
ジャイロプレーンは今ではスポーツ用として存在を残すのみになっているようです。
まあ、ホバリングもできないのですから、あまり実用的とは言えませんよね。

ちなみに日本では戦時中、陸軍が萱場製作所(現KYB)に造らせた
唯一のオートジャイロを「カ号観測機」として採用しております。

カ号観測機


彼女は、アメリカのヘリコプタークラブ初の女性会長で、最近では、
ロンドンのパイロット・ナビゲーター組合でも最初の女性会長に選出されています。

しかし、そういった「名誉職」を得ても彼女は決して現役から退くことをせず、
それどころか限界にに挑戦するだけの向上心と気力をいつまでも持ち続けていました。

70代後半にもなると、人間、普通に体のあちこちに、ガタが来るものです。
ジーンもまた例外ではなく、78歳の時に彼女は股関節置換手術を行いました。
しかし彼女が並の老人でないところは、退院わずか6週間後に航空ショーに出演してしまったことです。

アサートンにある快適な住まいの、花の咲き乱れるバックヤードののデッキチェアで、
退院した78歳のお婆ちゃんが空を見ながら考えていたのは、
翌週サンカルロスの
ヒラー航空博物館で行われる「ヴァーチカル・チャレンジ・エア・ショー」
で乗る、
「スカイクレーン」、シコルスキーS−64のことでした。

「空飛ぶクレーン」の名を持つこの ヘリコプターは

全長21,41m、搭載量9,072kg


平均的なヘリコプターが大きなものでも全長12メートルであることを考えると、

このスカイクレーンは、まるで巨獣のようなものです。

「最初にこれを飛ばしたのは、1968年、ラスベガスだったわ」

ジーンは回顧するようにこういうのでした。

「小さい家なら、一軒丸ごと持ち上げられるのよ」

そして陽気に手術の後の懸念を笑い飛ばしました。

「飛べるわよ。
医者だって、”よじ登ることさえできれば操縦くらいわけないだろう”って言ってたわ」


”just-try-and-stop-me"

「止められるものなら止めてみろ」というニュアンスだと思うのですが、
まだ女性の操縦するのは、せいぜいHoover(アメリカの掃除機会社)
であった時代に、
飛行家のキャリアを始めることを決心したことそのものが、
just-try-and-stop-meでした。


サンフランシスコの子供時代、彼女の部屋はモデルプレーンで埋め尽くされ、
そして少し大きくなると、4人の仲間でバイパー・コマンチを所有していました。
そんなTシャツの胸には

”Love me, love my airplane"

と書かれていたそうです。
しかし、当時においても社会の、口紅をつけたパイロットに対する扱いはひどいものでした。
彼女の最初のヘリコプターの教官は、彼女に向かってこういったそうです。

「コクピットなどで一体何をやっているんですか?台所に戻りなさい」

言うまでもなく、彼女がその教官と一緒に飛んだのはそれが最初で最後でした。



1951年に彼女はパンナムのパイロットに応募しますが、採用面接で彼女は

スチュワーデスになることを勧められます。

「そんなこと考えてみたこともありません」

それが彼女の答えでした。
そういうわけで、飛ぶことは彼女にとって「高くつく趣味」にならざるを得ず、
仕方なく彼女は週一回カリフォルニアの飛行場の周りを飛ぶしかなかったのです。

テクニカルライター兼エディターとして彼女は忙しく働き、その合間に結婚もします(笑)

32歳のとき彼女は5人の子供を持ったやもめ男のティンズリーと結婚し、

本来の「ケイ」姓にティンズリーを名乗るようになります。

「夫は私が飛ぶことを嫌っていたけど、やめろと言われたことが1度もないわ」

彼女は商業パイロットではなかったのですが、航空界で「同好の士」を見つけます。
彼女が活動していたグループはいくつかありましたが、そのうちの1つが
「ウィリー・ガールズ」で、

1955年に結成された女性ばかりのヘリコプターパイロットによる国際組織でした。 

ウィリーガールズの会員メダルは、ハワード・ヒューズによってデザインされました。
ジーンの会員番号は118。
会員番号は150までしかなく、その理由は、ハワードヒューズ自身が、

「150人以上の女性ヘリコプターパイロットが存在するなどありえない」

と思っていたからだそうです。


現在グループに存在する会員数は1348までとなっています。



彼女が最初に飛行機に乗ったのは、アメリアの出発を見送った二年後、12歳の時でした。
その時の気持ちを聞かれて彼女は腕を大きく広げ、そして少しかすれた声で

「それがどんな風だったか書き表すことできる人なんていると思う?」

とインタビュアーに逆に問いかけています。
空を飛びたいという気持ちの源泉には

「誰も到達したことのないところに行ってみたい」

という人間の根源的な欲求ががいつも内在しているのです。

ウィリー・ガールズのメダルだけではなく、彼女がその飛行歴の証として

携えている小さなペンダントは、Xの形をした金色のものです。
これは、彼女が試験パイロットであるということを示しています。

NASAのプレスリリースによると、1990年、彼女は

世界で女性初の
ティルトローター機のパイロット

となっています。

90年というと、ジーン・ティングレー64歳。

その前年には典型的なティルトローターシステムを備えたあのオスプレイが初飛行しています。
ごく一部の方々が猛烈に反対しているオスプレイ、もう運用開始からこんなに経っているんですね。

さらにNASAのリリースによると、VTOLローター機であるベルXV−15も、
同様に世界で初めて女性として操縦しています。


堂々たる経歴を長年にわたって積み重ねてきた彼女は、
世界中で行われる世界のヘリコプター選手権ではいつも審査員をつとめ、
「グローブ・トロッター」として走り回っています。
航空界で彼女を知らぬものはなく、顔の広いことでも有名です。
世界中の空港に現れる彼女を、仲間は愛情込めて

「エアポート・グルーピー」

と呼んでいるのだそうです。


彼女があるときカウアイ島からオアフの病院まで救急輸送をしたとき、
二人のパイロットはどちらも女性で、看護師は二人とも男でした。


しかし今日も、デモンストレーションでいつものようにコクピットに座る彼女に、
レポーターが驚きを隠せないといった様子で訊ねます。

「こんなたくさんのスイッチやレバーを、どうやって理解し操作するのですか?

彼女は肩をすくめて、

「自動操縦よ」

「女性なのに」という逆説から彼女が解放されることは一生ないのかもしれません。





 

 

 


女流パイロット列伝~木部シゲノ「男装の麗人」

2015-02-07 | 飛行家列伝

”乗馬服に鳥打帽姿の粋な眼鏡の若者が、
イートン断髪(クロップ)の令嬢風の二人に挟まれて、ステッキを振り振り歩いてくる。
近づいてきた顔は、確かに雑誌で見た木部シゲノだった。
しかしどう見ても男にしか見えない。

木部シゲノは、日本初の女性二等飛行士として講演会に引っ張り出されたり、
映画会社が出演交渉に来るなど、その人気は大変なものだった。
プロマイドまで売り出され、女学生が大騒ぎだという。
そういえば、その秘密は彼女の男装にあると聞いていた。
しかしここまで男になりきっているとは―。

確かに惚れ惚れするようなスマートな男ぶりだ。

シゲノは自分のことを「僕」と言い、言葉使いも男なのだと中村正が教えてくれた。 

『越えられなかった海峡 女性飛行士朴敬元の生涯』 加納実紀代著

この「女流飛行家列伝」シリーズで取り上げた朝鮮人飛行士、朴敬元について書いたとき、
目を通したこの著書には、このような木部シゲノについての記述がありました。

実は、エントリを制作してから本が到着してしまい、情報の補足に使ったにとどまったのですが、
朴飛行士と同世代の木部シゲノについての記述に興味を惹かれました。

で、今回のエントリ制作とあいなったわけですが・・・・・・・・。


木部シゲノの話に移る前に、この「越えられなかった海峡」について、
というかこの本の著者について、少しお話ししてかなくてはなりません。

これは、ほとんどまともな資料が残されていない朴敬元を、作者自身が
「韓国生まれ」のよしみで興味を惹かれたということで書かれた伝記だそうです。

しかし、この本、しょっぱなからなにやら匂う。

黎明期の女性飛行士の人生を書こうとしているわけですが、出だしでいきなり

「女は飛びたいと思わなかったのだろうか」

ん?

男に少し遅れてそういう女性が、アメリカでも、
当時の日本のような封建的な社会でもわずかとはいえ出てきているわけですが。


飛ぶ」は逸脱の象徴であり、「飛んでる女」(ふっる~)
は誹りを受けた。

エリカ・ジョングの「飛ぶのが怖い」は


ええ?なんですか?もしかしてジェンダーフリー業界の方?


”日本に外交権を奪われてしまったのはその年の暮れだった。
白人の大国ロシアに勝った日本は、いよいよ朝鮮の独占的支配に乗り出したのだ。”

”下駄の音を聞くとぞっとする。
チョッパリ、奴らは獣だ。日本の進歩発展は野蛮だ。
野蛮な獣の日本人に、朝鮮人の高邁な魂を見せてやりたい。
朝鮮人が劣等民族でないことを思い知らせてやりたい。”

”敬元は兵頭精(日本最初の女流飛行家)の失脚を知り、マンセーを叫びたい気分だった。
これで日本の女に勝つ可能性が出てきた。”

”早く一人前の飛行家になって朝鮮女性の優秀さをチョッパリに見せてやるのが”


あの・・・・・もしもし?

わたしの知っている朝鮮併合の史実とは内容が少し違うようなんですが。
もしかしたらあちら側の人ですか?
それに・・・・


この伝記の中で、朴敬元は「チョッパリ」(日本人の蔑称)を二言目には連発しながら、
日本人の飛行士や日本人を罵ったり蔑んだり、怒りに震えたりするのです。
実際に朴がそう言っていたという証拠は何一つないのにもかかわらず。

そもそも「朴が残した文章はほとんどない」と著者自身も書いているのです。
彼女の人柄を示す資料は、「追悼禄」、朴と付き合いのあった男性の息子の話、
その程度であったということなのですが。

そして極めつけが

「日本は朝鮮を植民地に」
「関東大震災で朝鮮人を大虐殺」
「姓を奪い、同胞の若者や女性を強制的に奪い去る日本」

という「ああ・・・」と思わず察してしまうような各所の記述。

というところで、やおらインターネットで検索すると、この人物、

国家による『慰霊・追悼』を許すな! 8.15反『靖国』行動」

で講演をなさっているということがわかりました。

はあ、そう言う方でしたか。納得しました。
道理で1ページ目からなんか匂ってくると思った(笑)

おまけにこの人物、あとがきで

「どうやらわたしは、一人の朝鮮人女性の朴敬元」の〈実像〉を明らかにするよりは、
彼女の胸を借りて自分の疑問をブツブツつぶやいていたような気もします。
19世紀末に生まれ、まだ飛行機が完全に武器として育つ前に死んだ朴敬元は、
20世紀末のフェミニズムの課題を背負わされて、きっと目を白黒しているでしょう」

と自白してしまっています。

さすがは朝鮮半島生まれの団塊の世代、まったく悪びれておりません。 
ていうか、自著でブツブツつぶやくなよ。気持ち悪い著者だな。 

つまり左翼思想でフェミニズム、ついでに反日反天皇をもれなく作品に盛り込んだってことですね。
道理で、朴の周りの日本人には見たところほとんどと言っていいほど「悪い人はいない」のに、
この伝記の中の彼女が、二言目には「チョッパリ」と呪詛の言葉を吐いているはずです。

これらはすべて著者ご本人の心の叫びだったということでしたか。

朴敬元がこれを見たら、フェミニズムの課題云々のお題目以前に

「わたしはこんなに口汚くないわ。
人を呪ったり恨んだり僻んで人をこき下ろしたり、失脚を喜んだりしないわ」

と言ったかもしれません。
もちろん言わなかった可能性もないわけではありませんが、
どちらにしても、この伝記が、思い込みと捏造100%増しの
「創作を装った思想宣伝」であることだけはこれで確定しました。


というわけで、前置きが長くなりましたが(前置きだったのよ)冒頭の、

「朴敬元の見た木部シゲノ」

も、当時の彼女についての資料から創作し、まるで朴が実際に木部を見たように書いただけで、
実際は会ったことも見たこともなかったはずです。




木部シゲノは1903年生まれ。

「男装の麗人」というと、スパイ容疑で処刑された愛新覚羅の末裔、川島芳子、ターキーこと水之江滝子、
比較的新しいところで「ベルサイユのばら」のオスカル、こんな名前が浮かんでくるかもしれません。

しかし、この当時、「男装の麗人」といえばこの飛行家木部シゲノでした。
特に女学生に絶大な人気があったといいます。

「木部しげの嬢 一舞台一万円 日活と東宝で引っ張り凧」

こんな新聞の見出しが記事になるほどでした。
昭和初期の一万円は現在の650万くらいの価値でしょうか。


木部シゲノは、20歳から飛行学校に通い始めます。
当初は運送会社に通いながら苦労して月謝を払ったようですが、そのわずか一年後、
飛行学校を卒業したばかりにもかかわらず彼女は「女飛行士」として世間の注目を浴び、
まだ免許も取っていないのに、上のような新聞記事が書かれる有名人でした。

何しろ珍しいというだけの注目ですから、もし飛行士免許を取れなかったら、
いったいどうなっていたのだろうと余計な心配をせずにはいられません。

本人にとってもおそらくかなりのプレッシャーであったと考えられるのですが、
幸い彼女は、まず三等飛行士免許を取得。
もうこのころになると、人気が沸騰して、各地で飛行演技や講演会の依頼は引きも切らなかったそうです。
そして、日本人女性初めての二等飛行士免許をその2年後に獲得します。
 
上の「朴敬元の見た木部シゲノの姿」は、人気絶頂だった頃の彼女の姿でしょう。

「女房までいるらしいぜ」
並木米三が妙な笑いを浮かべていう。敬元には何のことだかわからない。
「女房?」
「木部シゲノに憧れた女が彼女の下宿に押しかけてきて、
奥さんにしてくれと住み着いてしまったんだそうだ」
「ああ、今はやりのSね」
(中略)
しかし並木は
「 そんな生やさしいもんじゃないらしいぜ」
と嘲るように言う。
「シゲノは女を喜ばせる術を知っているんだそうだ」
あれは異常だよ、と男二人はうなずきあっている。
それだっていいじゃないか、と敬元は思った。
なんで女は、女を愛してはいけないのだろう?


うーん、ジェンダーフリーもここまできますか。
いや、別にわたしもそれがいけないとは全く思いませんがね。

問題は、朴敬元が本当にそう思っていたのかどうかです。


木部自身が本当にここで言われるような「性同一視障害」(と今なら言われる)
であったかどうかはわかりませんが、本人は結婚しない理由を尋ねられ

「飛行機と結婚しましたたい」(シゲノは九州出身)

と答えています。




ところで、木部シゲノという女性は、女性としてみれば失礼ながらさして美人とは思えない、
平凡な容貌をしています。
当時の女性にしては背が高くほとんどの日本人男性と同じ背で、細面で手足の長い「モデル体型」。
いよいよ当時の女性としては「規格外」です。

ところが、この中性的な女性がいったんスーツに身を包むと、あら不思議、
女性としてはごつごつした顔も、男性としてみると繊細な美青年にしか見えないではありませんか。

昨年亡くなった渡辺淳一の初期の短編に、

「女としては大したことがないが、男装した途端、
道行く女たちが目の色を変える美青年に変身する女性が、
女性に男として愛され、彼女は自分が女だと打ち明けられないで悩む」

という話がありましたが、今にして思えば渡辺淳一は、
もしかしたら彼女をモデルにしてこれを書いたのかもしれません。



彼女は男装によって見事に「変身」した女性でした。
いや、彼女自身は全く「変わっていない」わけですから厳密には「変身」ではないでしょう。
ジェンダーの位置を、同じ人間がスライドして「あべこべ」になることで、
本人も思いもよらないような、男でも女でもない魅力的な「第三者」が顔を出したのです。

ですから、木部シゲノは「男装の麗人」というよりは、
「女装より男装が似合っていた女」という方が正確なのではないかと思います。



彼女の男装は飛行学校に通い始めた20歳のときから始まっており、以降、生涯その姿で通したようです。

戦後、航空界に尽力した功績に対し与えられた勲六等宝冠章授与の式典で、
女性に与えられるこのこの勲章を、シゲノはタキシードの胸に付けていたため、
宮内庁のの関係者に大変不審がられた、という逸話が残っているそうです。

このとき彼女は66歳でした。



これほどの有名人でしたが、彼女が飛行家として展示飛行を行っていた期間は決して長くありません。

1928年、25歳の時に展示飛行中横風に煽られた彼女のニューポール戦闘機は、
土手に翼を接触させ、墜落して彼女は重傷を負いました。
それ以来展示飛行をすることはやめ、その三年後には、飛行士を引退してしまうのです。

おりしも日中戦争が起こり、引退した彼女は北京に行き、そこで
グライダーによる飛行指導を行い、太平洋戦争勃発後は、軍事関係の補助員として活動していました。

ですから全く飛ばなくなったということでもないと思うのですが、
戦後は日本婦人航空協会(現・日本女性航空協会)の設立に携わり、
その後は、羽田空港内の協会事務所責任者として活動していました。




さて。

もう一度上記著者による朴敬元の物語に戻ります。
この伝記は、こんな言葉で始まる実に気持ちの悪いエピローグで終わっています。

「空を飛ぶということはそういうことではないだろうか」


どういうことかというと、著者が次に引用してくるのが、
日中戦争で戦闘機に乗って「匪賊退治」をした軍人の1935年の告白です。

「匪賊がウンとおったので嬉しくなりどうしてやろうかと考えた。
(中略)
又ダダダダと落ちる(笑い声)面白くなって随分低空で飛んだ」

この軍人はこのときに1000人以上殺したという。
そして「匪賊」攻撃は、「猟をするように」面白いという。

そして著者は、

空の高みに上がったとき、人間は地上を這いずるものに対して
神のごとく傲慢になるということはないだろうか。
空飛ぶ兵器を手に入れたとき、眼下にあるものに対して
猛禽のごとく攻撃的になるということは無いだろうか」

そして、朴敬元が生きていたらやはりそのようになったのでは、と、
想像をたくましくして、お節介にもそれを嘆きつつ、この物語を終えています。


・・・・・もしかしたら、馬鹿ですか?


いやー、わたしつくづく、この人たちの思想とは相いれないことが
あらためてこの本によって確認できたような気がします。

「飛行機に乗れば人は地上のものに対して殺戮を加えたくなるものである」

というこの人の極論は、ほら、

「軍隊を持てば人は戦争で人を殺したくなるものである」

という、この手の人たちのお好きな主張とまるで同じですよね。
そして、彼女に言わせると当時の女性飛行家たちすら、

「空飛ぶ兵器を縦横に駆使する男性飛行士をうらやんだ」

「機銃を乱射し爆弾を落とし、逃げ惑う敵兵を、猛焔の街を心行くまで眺めたいと思った」

のだそうです。

女性は勿論、男性の飛行士でも、こんなことを考えて飛行士になる人などおそらく
古今東西一人もいない、と、ごくごく常識的な観点からわたしが断言してあげましょう。


なんだかね。
こういう人たちって、「戦争」に忌避感を持つあまり、人間というものを
限りなく信用しなくなるというか、性悪説でしか見ようとしないって気、しません?


「軍隊を持つということは戦争をしたいということだ」
「靖国を追悼することは戦争を賛美することだ」

でもそのわりには、日本にミサイルを向けていたり、反日デモで死人が出たり、
日本固有の領土を乗っ取ろうと画策していたり、
日本を世界的に貶めようとして世界中で悪口外交をするような「敵国」は頭ごなしに
「性善」としてしまうのが謎です。

先日の人質殺害事件にしても、イスラム国は性善説なんかが通用する相手でしたか?

しかもこんな人たちが「9条があっても日本人が狙われ殺害された」という現実に目を背け、
テロ組織への非難も拒否し(例・山本太郎)なぜか自国の首相の辞任を求めてデモしているのです。
ちなみにちょっとした情報ですが、この人たちの正体は

「なくせ!建国記念の日 許すな!靖国国営化」

などという運動をやっているキリスト教系団体だということがわかりました。
ふーむ、「越えられなかった海峡」著者とご同郷ご同類ですか。



木部シゲノが男装という「あべこべ」の幻術で世間を魅了したのは、
どことなくわくわくするおとぎ話のようですが、こちらの「あべこべ」は
「常識」が自分の中で絶賛ゲシュタルト崩壊していくのを感じずにいられません。

どなたか、この「トプシー・タビー」の世界の住人たちが何を理想として誰と戦っているのか、
こちらがわの人間にもわかるように説明してくれませんか?

 







 


天空に投錨せよ~アメリカ海軍航空隊事始め・後半

2015-01-04 | 飛行家列伝

アメリカ海軍航空隊事始めシリーズ、続きです。




イーリー(右)と、「カーティス学校」の同門である

陸軍パイロットのジョン・ウォーカー・jr.

(左)に囲まれた


”スパッズ”・セオドア・ゴードン・エリソン中尉。


洋の東西を問わず海軍の軍服というのはかっこいいですね。
このころの海軍の制服については調べていないのですが、
エリソンはまだ海軍兵学校の生徒であるような気もします。

エリソンの名前にある「スパッズ」というのはAKA、つまり通称で、

彼が赤毛であったことから付いたあだ名だったのだそうです。
「エリス中尉」と似ていてわたしとしては親近感がわくのですが、
 それはともかく、彼はこの写真でもわかるように、
パイロットとして海軍を代表する立場にいました。

のちに彼に与えられた称号は

「海軍パイロット第一号」

彼はアメリカのみならず、世界の海軍にとって、
大きな功績の数々を残しています。
その一つが、カタパルト発進の開発をし実施に成功したことです。



また、パイロットにとって適正な服装や装備も、
自身の経験をもとにエリソンが提案して、開発が進められました。

民間のパイロットではなくエリソンが海軍軍人であったことから
これらの開発も「話が早かった」ということだったのでしょう。 




これが、スパッズ・エリソンの初めての飛行の時の勇姿。
にこやかに笑いつつ操縦席に座る彼は実に楽しそうです。

カーティス・プッシャー「グラスカッター」での初飛行ですが、
このときのエリソン中尉の技術は、はっきりいってまだまだだったので、
実際は低空をほんの少しの間滑空したに過ぎないということですし、
この後、エリソンの機は風で流されて左側に落ちたそうです。
幸い怪我はありませんでした。

低かろうが短かろうが、これが海軍軍人が空を飛んだ初めての瞬間だったので
「海軍第一号」の称号が彼に与えられたというわけです。




エリソンはアナポリスの1904年卒で、一年先輩には
あのチェスター・ニミッツがいます。
海軍兵学校の「コレス」は33期で、この期生には豊田副武がいます。

ちなみにわたしが先日海軍兵学校の同期会で知り合った方は
この期にご尊父がおられました。
たまたま夏に花火大会でお会いし、こちらでも会食をした
Mという輸入食糧品会社の社長をなさっている方も
たまたまその同じ期生で、仲が良かったそうです。

話をしてみてあまりにも色々とつながっているので
そのご縁の不思議さに驚いた出来事でした。


ところで、チェスター・ニミッツは若い頃はハンサムで通っていましたが、
写真に観るエリソン中尉もなかなかの好男子です。

卒業後、艦隊乗り組みを経てから、海軍から選抜されてカーティスの元に
「飛行研修生」として派遣され、「海軍で最初に飛行機に乗った人物」として、
彼はわずかの研修の後に、海軍の航空部門の先頭に立って、後進の指導、
そしてアナポリスでの航空科の設立に携わります。



エリソンは訓練の段階で水上機の操縦も習ったため、
艦艇からの史上初の発進も行っていますが、 
彼はまた水上機でアナポリスからバージニア州までの 
最長距離無着陸記録も作りました。

そして卒業後は潜水艦に乗りんでいた経験から、 対潜水艦部門でも
駆潜艇隊のための戦術を考案し、その功績により海軍十字章を受章しています。


アナポリスの多くの卒業生の中からたった一人白羽の矢を立てられただけあって、
エリソンは真に優秀な人物であったようです。

しかし実のところ彼の起用には、前述のイーリーの着艦が無関係ではありません。

つまりイーリーの結果を受けて、海軍は初めて「空に錨を下す」ことを決意し、
本格的に海軍航空隊運用にむけて「舵を切った」といえるからです。 


第一次世界大戦前後のエリソンは、駆逐艦艦長や艦隊司令として、
どちらかというと「艦隊勤務」ばかりが続いたせいか、
現役の海軍パイロットとして任務に就くことはなかったようです。

彼は、艦隊勤務の合間に5年ほど航空基地司令を務め、
メキシコ海軍で航空隊設立に携わったのち、空母「レキシントン」の
艤装艦長などを経てその後また航空隊司令となりました。


まり彼がパイロットであったのは若い時のごく一時だけで、
だからこそ、航空ショーで毎日のように飛行機に乗っていたイーリーや
前述のビーチェイより「長生きした」のだと言えます。


しかし不思議なことに、彼はやはり空で死ぬ運命から逃れられませんでした。


1925年2月27日、この日は彼の43歳の誕生日でした。

当時大佐になっていたエリソンは、司令を務めていた基地で、
娘が重い病気にかかったという妻からの報を受けます。

海軍軍人の常で、彼は家族をアナポリスに置いて単身赴任だったのです。

一刻でも早く娘の元に駆けつけてやりたいという気持ちからでしょう、
エリソンはローニング-OL7型機を、しかも夜間に出し、
自ら操縦して娘の元に向かいました。


それっきり彼の乗った機はそのまま消息を絶ち、
アナポリスに着くことはありませんでした。

エリソンの乗機行方不明になって一ヶ月以上経った4月になって、
チェサピーク湾の岸に打ち寄せられている彼の遺体が発見されました。


皮肉な偶然とでもいうのか、彼が見つかったのは、
かつて偉大な先輩飛行士、ユージン・イーリーが「バーミンガム」から
人類最初の航空機による離艦を行った場所でした。

つまり、彼が航空の世界に入るきっかけとなったできごとが起こった、
その同じ海岸で彼の身体は発見されたのです。



彼は航空隊司令の現職のまま事故死扱いとなり、特進はなかったようですが、
その後、1941年に就航した

USS「エリソン」DD454

にその名が残されました。


「エリソン」は日本とも縁があり、戦後自衛隊に貸与され、
あさかぜ型護衛艦「あさかぜ」として就役したという経歴を持ちます。

そしてその後、台湾海軍に譲渡され、最終的には
戦争映画のロケに使われて沈められその生涯を終えました。

合掌。


ところで「エリソン」就航の際、その進水式でシャンパンを割ったのは、
エリソン少佐の一人娘であるゴードン・エリソン嬢でした。

ということは、あの日重病だった少女は、その後回復したのです。
父親が自分の命と引き換えに、娘を救ったのかもしれません。



海軍軍人だったエリソンは、在任中に海軍十字賞を受けていますが、
これは先ほども書いたように航空に対してのものでなく、
駆潜艇の基地にいたとき、数々の戦術を考案したことに対しての賞でした。

彼がパイロットとして初めて受けた賞は、1962年になって
航空の発展に寄与した人物に与えられる
「グレイ・イーグル・アワード」で
これは「海軍パイロット第一号」というタイトルに対して授与されています。



海軍軍人はなかったたため、死後も海軍から公式な顕彰は行われなかった

ユージーン・バートン・イーリーですが、1933年、
時の大統領ハーバート・フーバーは、

「彼の挑戦はその後の航空界の発展にとって大きな意味があった」

とし、

フライング・クロス勲章を授与して彼のの功績とその犠牲を称えました。

彼が事故死してから実に22年後の叙勲でした。

 




 


天空に投錨せよ~アメリカ海軍航空隊事始め・前半

2015-01-03 | 飛行家列伝

女性パイロット中心にお送りしているこの「飛行家列伝」ですが、
つい思い立ってリンカーン・ビーチェイについて書いたあと、
「アラメダのホーネット」のエントリを書くために写真を点検していたら、
艦内の一室で大々的にでこのユージーン・イーリーが紹介されていたのに
今頃気がつきました。

それによるとイーリーがビーチーと同時代の「カーティス・プッシャー」
を乗機としていたので、
ちょっとした偶然を感じ、調べてみることにしたのです。


エリソンEllisonは、これもたまたまイーリーElyを調べている最中、
ただ単に名前が似ているというだけで 名前が目に止まったのですが、
ほとんどあてずっぽうで今回の題材に選んでから、あらためて調べてみると
この二人の怖いくらいの因縁と、海軍を媒介にした関係の緊密さ、
不思議な一致に至るまで・・・・・・。

自画自賛みたいになってしまうのですが、数あるパイロットから
彼ら二人を選び出したことは我ながら凄いカンだったと驚いています。



この同世代の飛行家たちの生没年を並べて見ますと

エリソン   1885~1928

イーリー    1886~1911


ビーチェイ 1887~1915

一年ごと、順番に生まれたこの三人の男には、
飛行機乗りとして先駆であったというだけでなく、
こういう共通点がありました。

海軍のために飛んだこと、そして、飛行機事故で死んだこと



ホーネットの艦内展示にあった模型。

こうやって写真を撮ったのにもかかわらず、

リンカーン・ビーチェイのことを調べていて見つけたこの写真、



これとこの模型が、全く同じときのものであることに気づきませんでした。
飛行機黎明期のアクロバットパイロットであった

ユージーン・バートン・イーリー

が、アメリカ海軍にとって、歴史的な飛行を行ったときの記録写真です。
イーリーに授けられたタイトルは、

「世界で最初に飛行機で離着艦をした男」

というものでした。

1911年1月18日。

米海軍にとってこの日、
大きく歴史が変わろうとしていました。
サンフランシスコ湾に停泊したUSS「ペンシルバニア」の甲板に
飛行機をランディングさせること。

これが成功したら、海軍は飛行場がなくても飛行機を発着させることができ、
ビーチェイが説いたように、海上基地を拠点とした爆撃を行うことができます。

成功すれば、今までの戦闘の概念をすら覆すことになる画期的な挑戦でした。


このとき「ペンシルバニア」の表甲板は、飛行機の滑走のために工事が施され、
遮蔽物夾雑物を一切無くした「浮かぶ板」のようにされました。
甲板は全長40メートル、幅10メートル弱。
マストの前にはキャンバス地の幕が張られ、飛行機の壊滅的破損と
マストが折れることを防ぐ工夫が施されてます。

そして、民間パイロットで、当時アクロバット飛行のショーをしていた
イーリーがその歴史的実験飛行に挑むことになったのです。



彼が被っているのはフットボール用のヘルメット、
そして体に巻きつけたのは自転車のタイヤチューブで、
これは衝撃から身を守るためのものです。




前年の1910年11月、イーリーはカーティス・プッシャーを駆って、
「バーミンガム」から離艦することにすでに成功していました。




しかし着艦はまだ果たせていません。
当時の飛行機は木と布でできており、もちろんブレーキもありませんでした。
パイロットにできることと言えば、進路を車の運転のように操舵することだけ。

そもそも機体が完全にストップするのに、どんなに短く見積もっても
ペンシルバニアの甲板の全長と同じ40メートルを要するのですから、
彼のような名人といえども着艦は不可能やに思われました。



しかし、何としてでも船の上で飛行機を運用させたい海軍は、考えました。
そして思いつきました。

「そうだ、甲板にロープを貼ればいい!
それに飛行機のホイールが引っかければ、
短い滑走距離で飛行機は止まるじゃないか!」


空母の着艦ロープシステムがこの世に生まれた瞬間です。



サンドバッグを結びつけたロープを多数渡した甲板に機が侵入してきます。
三度目のアプローチののち着艦したイーリーの機は、かろうじて
一番最後のロープにホイールがかかり、停止しました。
マストの前に貼られたキャンバスのバリアーまで、
あと数メートルの距離だったと言います。


イーリーはその後インタビューに答えてこう嘯(うそぶ)きました。

「まあ簡単だったかな。
10回やれば9回は仕掛けが効いてくれると思う」



ユージーン・バートン・イーリーはアイオワ生まれ。

大学卒業後SFに移り、スポーツカーのテストパイロット兼セールス
(つまりテストレーサーともいいますが)をしていましたが、
結婚後ポートランドでグレン・カーティスの出資者である
ヘンリー・ウェンムのために働くようになったことから人生が変わります。

ウェンムの買った飛行機のテストパイロットとして、彼は経験を積み、
数えきれないほどの事故を経て、その飛行技術を芸術の域まで高めたといわれます。
1910年に州の飛行機免許を取り、
彼は正式にカーティスのテストパイロットになります。

その年11月、彼は、米海軍に積極的に飛行機を導入するための投資を進めていた
ワシントン・チェンバース大佐に会い、話の流れで()海上の艦船上から
カーティスの複葉機で飛び立つという挑戦をすることを承諾します。


(バーミンガムからの離陸)

このときに使用されたのはUSS「バーミンガム」で、賞金は500ドル
(今の1万ドル、つまり100万円くらい)であったといわれます。

このとき賞金を受け取っていたことが、彼の世間での評判を落とすことになり、
前述の「ペンシルバニア」への着艦の際も、海軍との癒着を噂されたりしました。

しかし、幸か不幸か、彼はその汚名を
自分自身の命を以て返上することになります。

ペンシルバニアへの着艦成功から9か月後の1911年10月、
彼は再び海軍の要請で、ジョージア州のメーコンでの着艦デモを行いますが、
この時、彼の乗った機体はロープを飛び越えて海に落ちてしまいました。


彼は海への墜落を避けるために、飛行機から甲板に飛び降りましたが、
その判断は彼の命を奪うことになります。

このために身に着けていたチューブもヘルメットも役に立たない箇所、
つまろ首の骨を折ったため、事故発生の数分後に死亡しました。

ユージン・バートン・イーリー
1911年10月19日、死亡
享年25歳

合掌。

明日に続きます。 


年忘れ人物ギャラリー(航空人編)

2014-12-31 | 飛行家列伝



人物編は、ここ2年くらい集中して連載した女流飛行家を中心にお送りします。
まずは、

サビハ・ギョクチェン「大統領令嬢は戦闘機パイロット」

ウムラウトのついているこの苗字の読み方、「ゴクチェン」
と何処かで見ましたが、わたしがこの夏トルコ人のじいさんと話した時に
ギョクチェンと発音していたので、これで正しいようです。

トルコ建国の父である大統領、ムスタファ・アタルチュクの養女であり、
彼からほぼ強制されるようにして「世界初の女性戦闘機パイロット」
となったサビハ。
与えられた名、ギョクチェンとは「空」を意味していました。

アタルチュクの「英雄伝説の彩り」として彼女は養父に創造された
存在ではなかったか、というわたし自身の推測を、
日本とトルコの関係を語る上で欠かせない「エルトゥールル号事件」
とトルコ政府の「恩返し」と共に語ってみました。



映画「アメリア 永遠の翼」についてお話ししたのは

つい最近のような気がしていましたが、夏だったんですね。
最近時が経つのが妙に早く感じるのですが皆様はこの一年、
あっという間でしたか?それとも・・・、

と時候の挨拶につながってしまいましたが、まあそういうことです。
来年もよろしくお願いします。




ルース・エルダー(「アメリカン・ガール」

いつの時代も女性は美人だと得をすることが多いものです。

彼女は、美人ゆえ太平洋横断の女性第1号に挑戦し、
(といっても横に乗ってただけ)失敗したものの女優になって、
しかし南部なまりのため大成せず、とかなんとか言いながら
女性飛行界の重鎮となって、死ぬまでに6回も結婚しました。

おそらく、本人的には楽しい人生だったんじゃないかと思います。

本稿ではそんな彼女の人生と「美人税」というか、美人ゆえに
褒貶の貶もあったよね、ってなことを語ってみました。

ちなみに、その後女性で初めて「乗客となって大西洋を横断した」
のが、ご存知アメリア・イアハートです。

  

リディア・リトヴァクとマリナ・ラスコヴァ

「スターリングラードの白薔薇」とあだ名された
ソ連軍の女性エースパイロット、リトヴァクと、
「ナハト・ヘクセン」(夜の魔女)とドイツ空軍が恐れた
女性飛行隊を率いたラスコヴァ、ブダノワについてお話ししました。

ソ連という国はある意味共産主義なので男女平等なのか(適当)、
能力のある女性を戦闘機に乗せ戦わせるということをしたため、
彼女のように何人かの女性エースが誕生しています。

アメリカでは、後に出てくるナンシー・ラブがそうだったように、
戦地に輸送業務で向かおうとしただけで

「万が一戦死することがあったら責任を問われる」

という考えから、軍はそれを決して許しませんでした。
日本の場合は

「もし女が飛行機に乗っていることがわかったら、
日本は女の手を借りて戦争をしているといわれる」

というのが女性拒否の理由でした。
日本はまず無理だったでしょうが、もしアメリカでそれが許されたら、
「スコードロン・ナイト・ウィッチーズ」とかリトヴァクのような
美人のエースが出てきて、それはそれで後の戦史が面白くなったのに。
(顰蹙?)



ジャクリーン・コクラン
「レディ・マッハ・バスター」

そのアメリカの航空隊に女性が関わった例となると、
この人の名前が真っ先に出てきます。

ベッシー・リー・ピットマンという水車の修理工の娘が、
ベッシー・コクラン、そしてジャクリーン・コクランと
出世魚のように名前を変えながら成り上がり、
エステティシャンから玉の輿にのって富豪の妻に収まって、
趣味でやってみた飛行機で今度は女子飛行隊を作って名声を得る。

絵に描いたようなシンデレラストーリーですが、その割には
彼女の名前は今日アメリカでもそう有名なわけではありません。

晩年、欲をかきすぎて政治家を目指して落選したのが彼女の
人生における唯一の挫折だったと言われていますが、
思ったほど後世に名を残さなかったのも生前の彼女の誤算でしょう。

しかし、音速を超えた最初の女性(マッハバスター)とか、
あるいは母艦着艦した最初の女性、などというタイトルを見ると、
実力はあるのに、逆にどうして英雄として讃えられないのかは、
あるいは彼女の出生にあるのではという気もします。

実績があれば男はむしろ成り上がりであることは勲章ですが、
女の成り上がりには性を利用したという誹りを免れないためかなあ、
とふと考えてしまいました。



ナンシー・ハークネス・ラブ(「クィーン・ビー」)

飛行機に乗るのが好きな良家の子女が航空士官と結婚し、
ふとしたことから女子飛行隊の隊長になりました。

コクランのようなガツガツした出世欲もなく、ただ
飛行機会社を経営していたことから、軍に女子飛行隊を作ることを
提案したところ、夫の上司の引きでトントン拍子に話は進み、
彼女は女子飛行隊の初代司令(女王蜂)となるのでした。

コクランのライバルとされていたラブですが、実際には陸軍は
最初にラブを選び、コクランの力技も後から考慮した結果、
コクランを練習支隊の司令に任命し、全ては丸く収まりました。

コクランがマッハを破ったり選挙に出たりして変わらずハッチャケている間、
ラブは家庭人に戻り、マーサスヴィンヤードの彼女のうちには
かつての部下が彼女を慕ってしょっちゅう訪れていたということです。



ルイーズ・セイデン(「タイトルコレクター」


野心がないといえば、野心のなさとその実力がこの人ほど反比例していた
飛行家はいなかったのではないでしょうか。
可愛らしくて人受けするタイプだったらしい彼女はビーチクラフト社の
ビーチ社長に気に入られ、飛行機に乗り始め、さらには飛行機製造業の
ハーバート・フォン・セイデン社長と年の差婚をして、
女性だけの飛行レース「パウダーパフ・ダービー」であっさり優勝。

さらには男女混合のペンデックストロフィーレースでは、
同じく女流飛行家のブランシュ・ノエスとワンツートップ優勝。

「タイトルコレクター」の名を欲しいままにした彼女は、
頂点であっさりと引退し、見事な引き際を見せました。

パウダーパフレース出場者

の面々を見ると、(ルイーズは左下)美人のエルダーさんは別格として、
彼女が可愛らしいタイプの女性であることがわかるでしょう。
ちなみに、左上がシリーズで扱ったこともある

フローレンス”パンチョ”バーンズ、(「リアル・キャラクター」

そしてルイーズの右隣の写真が

 

ボッビ・トラウト(「プレーンクレイジーとフライングフラッパー」


です。
ボッビのライバルで、どちらかというとこちらの方が有名だった、



エリノア・スミスとともに「女性同士にライバル関係は存在するか」

ということをテーマにお話ししてみました。
「サンビーム・ガールズ」

結論は・・十分予想できることですが、もし気になったら読んでみてください。

 

パク・ギョンウン(「日本人・朴敬元」


日帝統治時代、朝鮮半島出身で初めて女流飛行家となった彼女ですが、
それゆえ本国では現在、全く名前を無視されています。
彼女の生涯に枕詞のように付けられる「偏見を跳ね返し」という言葉は
実はそれこそが偏見ではないのか、そして彼女が飛行家になれたこと
そのものが、今韓国のいう「過酷な日帝支配」とは矛盾していないか。

そんなことを語ってみました。



有名な飛行家ではありませんが、当時の女流飛行家に
いかに綺麗な人が多かったかということをいうためだけに
この人の絵を描いてみました。

でもって、痩せてるんですよね。このころのアメリカ人。



映画「ライト・スタッフ」の長丁場エントリのために描いた
音速を破った男、チャック・イェーガー。

これを描いた頃まだ元気だったのですが、その後訃報を聞いていないので
まだまだお元気の様子です。(2014年12月31日現在91歳)

ちょうどその頃、89歳で音速を超えてるんですよねこの爺さん・・。
今際の際に「音速を越してくれ。そのまま逝くから」って頼みそうだなあ。




全く航空人ではありませんが、「大空のサムライ」つながりで。

「大空のサムライ」では全くないことになっていた主人公坂井三郎のロマンス。
日本以外で今も発行されている「SAMURAI!」には、片面1ページに
坂井氏の最初の妻であった従姉妹の「ハツヨさん」の写真があります。
この写真は紛れもなくその結婚式のために髷に結い、
角かくしをつける前のハツヨさんの写真です。

彼女はこの著書の前書きでも坂井氏が語っているように、
戦後すぐに病没してしまいました。 



その「SAMURAI!」に掲載されていた扉絵の坂井三郎。
零戦の日の丸をバックにしており、まさにこの本には
ぴったりの写真だったのでしょう。
ちなみに当初は現在でも再版を重ねており、
少なくともアメリカでは今も好んで読まれているようです。 




佐村河内事件を音楽関係者の立場から語ってみる。

人物といえばこんな人物も描いてますね。
今年のわたしにとっての一番の修羅場といえば落馬して手首を骨折し、
一時は右手の使えない人になっていたことですが、
お休みしている間にサムラゴーチ事件が起こり、ちょうどいいやと思ったので
復帰第1作としてこの絵を描いてみました。

復帰第1作が佐村河内というのはどうよとその時も描いたのですが、
気が付けばこのエントリが今年最後、つまりこの絵が
今年最後にお見せする絵になってしまうわけです。 

航空人でもないしそれも如何なものかと思わないでもありませんが、
わたしにとっての今年の10大ニュースは

1、落馬して骨折
2、練習艦隊のレセプションに招待される
3、日本将兵のご遺骨を晴海埠頭でお出迎え
4、地球防衛軍顧問に就任
5、その流れで地方総監表敬訪問
6、富士総火演初参加
7、朝霞駐屯地訪問
8、艦上慰霊祭に参加
9、兵学校同期会に参加し元学生の友人ができる
10、某所より三つ桜の刻印されたカップを拝受する


・・・・それ以外は海軍自衛隊関連以外思いつかない、
というくらい、この骨折はわたしにとっておおごとだったので、
その復活第一作であるこの絵を持ってくるのは、今年を振り返るのに
たいへん意味のあることなのだと、無理やりこじつけて終わります。


ちなみにこのエントリ、「いいね!」が95もついて、

自分の考えが世間にご賛同いただけたらしいことが嬉しかったです。


それではみなさま、来年もよろしくお願いいたします。
どうぞ良いお年を。




 


女流パイロット列伝~キャシー・チャン「Great Expectations」

2014-11-30 | 飛行家列伝



この「女流飛行家列伝」では、一度、アフリカ系アメリカ人の
ベッシー・スミスを取り上げ、人権が認められているどころか 南部では
「奇妙な果実」(住民が木に吊るして処刑した犯罪者)と呼ばれる
私刑(リンチ)さえ行われていた当時のアメリカで、飛行家として成功
(あれを成功と呼ぶのならですが)した彼女の戦いについてお話ししました。


そもそも、女性の地位すらアメリカにおいても同等ではなかった当時、
女性で、しかも有色人種が飛行機で飛ぶというのは、限りなく不可能に近い話。
そんな中でも決して希望を捨てず空に挑んだ彼女は、
まさしく挑戦し続ける壮絶な人生を歩んだ勇者であったといえましょう。


そして、その構図は当時世界どこにいっても似たり寄ったりで、
まず女性であるというだけで全ての可能性は大きく損なわれ、
飛行機に乗るという機会が訪れるような女性は、社会のほんの一握り、
さらに言うと、一人いるかいないかという国だってあったわけです。


本日の主人公キャシー・チャンの国、中国では少なくともそうでした。


ヒラー博物館の「女流飛行家」のコーナーの説明によると、彼女は

広東出身の中国人
中国系女性で初めてアメリカにおいて操縦を習得した人物



であるということです。

彼女は1927年にアメリカに来て、南カリフォルニア大学で1931年までに
単位を修得し、ピアノに習熟していました。

正式に留学してちゃんと卒業し、プロではないが玄人並みにピアノが弾けたと。
これは、当時の中国において特権階級というか、
よほど裕福な家庭に生まれたと考えるのがよさそうです。

おそらくアメリカに来てから、彼女は飛行機に興味を持ったのだと思われますが、
母国の中国には飛行学校はあっても、女性の入学は許されていなかったことから、
彼女はこの4年間にアメリカで飛行免許を取り、そして中国に帰って、
中国で女性も参加できる飛行学校を作ることを決心します。


今現在アメリカには、共産党幹部の関係者やら富裕層やら特権階級やらが、
アメリカでその文明を自分だけが享受しようと、
イナゴの群れのように押しかけて移民になっているわけですが、
一般に中国人というのは、自らが得た富を決して母国のために使おうとしないし、
また、自国を良くしていこうという考えも全く持たず、ただ己の満足のために
いとも簡単に生まれた国を捨ててしまえるようです。

それはキャシーの時代でも似たようなものでした。
中国人の欲望の吹きだまりの象徴ともいえる
中華街は、
アメリカ始め世界の(韓国を除く)どの国にもあります。


しかし彼女はそんな中国人とは違っていました。

アメリカで4年も過ごせば、おそらくあとは何とかして
そのまま
アメリカに住みつくことしか考えないであろう大多数の中国人とは違って、

自分のように「空を飛びたい」と考える同胞の女性のために、
自分がその先駆となって祖国で道を切り開こうとしたようです。

そのため、彼女は猛烈に勉強しました。
何しろ、当時はアメリカでも、パイロットは総人口の0.1パーセントだった時代です。

そんな中彼女は中国系女性として(中国系アメリカ人ではありません)
初めて航空免許を、
そして、1932年には将来開く学校のために
インストラクターの免許まで取ってしまうのです。




1935年には、これも東洋系女性では初めての商業パイロットとなり、
彼女は飛行でお金を稼ぐようになります。

そして、いくつかのエアレースや、エアショーにも出演し、腕を磨き、
将来のために資金をためていきます。
1937年、彼女は西海岸の中国系コミュニティで飛行を披露し、
目標に向かってまず70万ドル(当時のか現在の価値でかは不明)を
調達することに成功しました。



このころには東洋人女性としてはもちろん初めて、
西海岸の女性飛行家のクラブ99’sにも名を連ねるようになります。



そのお金で彼女は念願のライアンSTトレーナーを購入しました。

これは、彼女が中国に帰って始める飛行学校の、
大切な練習機の第一号になる予定でした。

wikiでは若干このあたりの記述にヒラー博物館との違いがあるのですが、
ウィキによると、彼女が帰国の決心をしたのは日中戦争の開戦(1937年)で、

「彼女は中国の勝利のために自分の飛行機を使おうと思った」

となっています。


おそらく、こんなマイナーな人物のウィキを制作するのはどこの国だろうが
まず間違いなく中国系だと思いますので、
まあ、中国人的にはそうだったんだなと思うしかありません。


だって、このウィキによると日中戦争のことを「日本が侵略してきたので」

とあっさりひとことで日本悪玉扱いですから。
これも中国からすればそうなのかもしれませんがね。


さて、彼女が中国に出発する前、まだ免許を取っていない練習生
なぜか彼女のトレーナーを操縦してみたいと言い出しました。
これもウィキによると「彼女の男の友達」ということになっています。

友達であるから、免許がなくても乗せてあげようと彼女は考えたのでしょうか。
まさかその友達が、自分の新しい飛行機を墜落させ、

修復不可能なまでに壊してしまう

とは考えもしなかったのは確かです。


さて、この後、彼女は彼を訴えたでしょうか。
普通のアメリカ人であればおそらくそうするように。


おそらく彼女の事情と、立場を考えればそれは決してなかったでしょう。
そしてその「男の友達」とやらも、彼女に対し、
機体を弁償するなどという償いをしようとはしなかったようです。


彼女はただ「その事実に絶望し、失意のまま本国に帰っていった」
とあるからこれもおそらくそうだったのでしょう。




それにしても、この男の友達の行為。
特に事故を起こしてからの無責任さに、どこかキャシーを
「侮った」ようなものを感じるのは私だけでしょうか。

そもそも、彼女の飛行機に乗らせてほしいと言い出したことからしてそうです。
少なくとも、アメリカ人の所有機、しかも新品のものであれば、
たとえ女性のものでも、
免許のない自分が飛ばしていいものかどうか、
自分がそれを賠償するだけの財力も覚悟もないのなら、ためらう、あるいは
遠慮するというのが普通なのではないでしょうか。




彼女が中国にそのまま帰った理由は、もう一つありました。


どうやら超大金持ちだったらしい彼女のパパが、その事故のことを聴いて
急に娘の安全が心配になり、彼女に飛行機をあきらめさせたのでした。

冒頭画像は、彼女がその機体のプロペラに手を置いているところですが、
彼女は実に幸せそうで、少しおどけたそのポーズから昂揚と誇らしさが
写真を通じても痛いくらい伝わってきます。
これは念願かなって手に入れた愛機との、
初めての記念写真だったのではないでしょうか。



彼女の夢はこの飛行機を失ったときに終わり、

彼女はそれっきり、二度と空をとぶことはありませんでした。



つまりそこまでのキャリアでしたが、中国では有名人だったようです。

彼女は戦後夫と共に二軒の花屋を経営し、
2003年に99歳の大往生を遂げました。 

死因は癌だったということですが、
・・・・・・・この年になれば「老衰」でいいんじゃないかしら。

きっと最後までタフな婆ちゃんだったんだろうなあ。


合掌。
 


 


栄光無き天才飛行家 リンカーン・ビーチェイとその時代

2014-11-10 | 飛行家列伝

ヒラー航空博物館の展示を元にお送りしている、

「飛行機黎明期の華麗なる飛行馬鹿たち」

ですが、その無謀なお馬鹿さんたちの中でも彼、
リンカーン・ビーチェイは
最も当時成功をおさめ、
センセーショナルな話題を集めた人物でした。

ここで、ざっと彼の業績を挙げておきましょう。

●ストール(失速)からの回復方法を偶然編み出す

●逆さま飛行した最初の人物

●ビルディングの中を飛んだ最初の人物

●落ちているハンカチを翼端で拾い上げた

●宙返りを最初にした

●テールをスライドさせた最初の人物(故意だといわれている)

●「木の葉落とし」といわれるマニューバを最初にした

●というか、アクロバット飛行そのものを発明した人間

●垂直降下を最初にした

●ナイアガラの滝の上を飛行し、

 「世界の8番目の奇跡」と讃えられる

●カーティス、ライト兄弟、エジソンに
 「世界最高のパイロット」と言われる


●米国史上最も多くの観客を集める


飛行機がまだ動力を得たか得ないかのころ、写真のような原始的な飛行機で
これらのスタントをやってのけたというだけで十分彼の偉業は伝わります。

1911年と言えば、前回お話ししたグライダー発明家のモントゴメリー教授が、
自作の「エバーグリーン」で飛行中墜落して死んでいる年でもあります。

いかに彼の技術が傑出していたかということであるのですが、
加えてかれは、冒頭写真でも十分伝わるように、まだ20代の、
しかもとびきり魅力的な美青年で、そういったエンターテイメント的要素もあって
絶大な支持を得たのでしょう。

さて、ビーチェイの話の前に、またいつものように寄り道になりますが、
ここヒラー博物館に展示されていた航空黎明期の乗り物に付いて、
もう一つだけお話ししておきます。



飛行機じゃないだろ?船だろ?
と皆が思うこの機械。

昔はこれを飛ぶと信じて真面目に作った人がいたということらしいです。
というか、どうやって飛ばすのか想像すらつかないんだが。 




向こう側に見えている、もしこれが赤ければ、マン・レイの
「恋人たちの時間」の唇みたいな物体は、
フレデリック・マリオットというイギリスの発明家が飛ばした

Hermes Avitor Jr.です。

マリオット


ちなみにこの日本人が「エルメス」と読んでいるところのHermesですが、
アメリカでは「エルメ」と言わなくては通じません。
なぜかと言うと、本場フランスの発音に準じて、同じだからですね。
フランス語では語頭の「H」、語尾の「S」はいずれも発音しません。
日本では語尾はともかく「S」を発音することに誰かがしたらしく、
世界のどこにも無い「エルメス」というブランド名で呼んでおります。

それはともかく、この場合はイギリス人の命名なので
「ハーメス」と読むのが正しいでしょう。
ヘルメスはローマ神話の「神のメッセンジャー」です。




1868年に飛ばされたこの飛行体は無人で、つまりこれをもってハーメスは

「アメリカで飛ばされた最初の無人飛行体」 

という称号を得ました。
 


ハーメス模型。
エンジンは1馬力の蒸気です。
内部は水素が充填されました。

 





このときの実験の写真が連続で残されています。
いい大人が何やってんだ、ってかんじですが、何しろこれが
アメリカ発の無人飛行隊初飛行。歴史の一瞬でもあったのです。



この実験の成功に刺激され、空を飛ぶことを志した人物の中には
他ならぬモントゴメリー教授もいました。





さて、リンカーン・ビーチェイの話に戻りましょう。

この、カーティス・プッシャーに乗って、超人的な飛行技術で有名になり、
名声とともに大変な富を得たのが、ビーチェイでした。

彼は1887年、サンフランシスコに生まれました。
幼少の頃は、彼が後年スターパイロットになることなど想像もできなうような
ぽっちゃりした無口な少年だったそうですが、実はこのころから
その大胆でスリルを不適にも楽しむような資質は備わっていたと見えます。

フィルモアストリートというのはサンフランシスコの、
ゴールデンゲートブリッジのあるサンフランシスコ湾から市内に向かって
縦にたくさん伸びている通りの一つですが、
(最近はお洒落なブティックやカフェが集中するにぎやかな通りでもある)
この辺りの道に例外無く、常にアップダウンが激しい部分があり、
場所にもよりますが、車で降りるのも怖いような坂です。

この坂を子供の頃の彼はこの通りを、
ブレーキも付いていない自転車で下ったそうです。



長じてかれは飛行機整備士としての職を得ました。
後に彼は自分が乗るために飛行機の設計もしていますから、
おそらく整備士としても優秀だったのだとは思いますが、
実は自分が操縦するチャンスを狙っていたのです。

1911年、彼が24歳のときにそのチャンスは訪れました。
彼が整備していたロスアンジェルスの航空ショーのスターパイロットが怪我をし、
そのピンチヒッターとしてかれが操縦を任されることになったのです。

その飛行で、彼の操縦する機がまっすぐ上昇して3000フィートの上空に達したとき、
機はいきなりストール(失速)し、落下しながらスピンを始めました。
一度こうなったらこの体勢から生きて帰ってきたパイロットはいません。

ところが彼は今までのパイロットが誰もやったことのないことをやってのけました。
機をコントロールすることでスピンから機を立て直し、無事に着地させたのです。

それからというものビーチェイはスーパースターへの道をまっしぐらに歩みました。
僅か4年の、しかしどんな王侯貴族も得られはしないだろうと思える栄光と名声の日々を。



その人気は留まることを知らず、全米の人口が9千万だったころ、1700万人が
わずか一年の活動期間の間に飛行演技を見たと言われています。



ナイアガラの滝を飛んだのも、その名声を確固たるものにしました。
アメリカーカナダカーニバルの主催は、ナイアガラの滝上空を飛んだものに
1000ドルを懸賞金として出すという広報を出しました。
滝の上空を飛ぶなぞ、いまや観光でもやっているくらいですが、
当時の影響を受けやすい飛行機では、
そのこと事自体危険極まりないチャレンジでした。

このとき、ビーチェイはカーティスの複葉機で15万人の観客の見守る中、
しかも小雨の降る天候を押してこの飛行に挑戦、みごと成功させました。
滝の上を何度も旋回し、水面の6メートル手前まで急降下で近づき、
そのあとは近くの橋の下をくぐるというサービスぶりに聴衆は湧きました。



その他、走っている列車の屋根にタッチさせたり、ハンカチを拾わせたり。
先日お話ししたざーますマダムのブランシュ・スコットの所属していた
カーティスの飛行チームと行ったフライトでは、
優男のビーチェイは女装し、スコット嬢のふりをして
墜落しそうな体勢からリカバーする演技までやっています。


最初にも書いたように、彼は 飛行アクロバットの
技を編み出した最初の人間でした。
その名声と栄光を見て同じ技に挑戦したパイロットはたくさんいましたが、
当時の飛行機でそのようなことができたのは結果的に彼だけでした。
つまり、彼の真似をしようとしたパイロットは全て失敗して死んでしまったのです。

第二のビーチェイを夢見てあまりに多くのパイロットが事故死したため、
ついには彼に飛行させることを禁止すべきだという世論までが出たといいます。
死亡したパイロットの中にはかれの親友もいました。
このことはビーチェイにとって非常なショックだったらしく、
この事件をきっかけに彼は一度は引退を決意します。

彼はその活動期間の4年の間に三回「引退」しているそうです。



このころ、彼の名声は留まることなく、その飛行は芸術であるとされ、
ライト兄弟の弟、オーヴィルやエジソンが、飛行機開発者、
そして科学者の立場からも否定しようがないその飛行技術を
手放しで称えたといわれます。

彼自身は一時引退中の身で全米を講演して回り、
自分の飛行技術の解説をしたり、

「いつの日か我々は誰もが飛行機に乗ることができるようになる」
「今は無理だが、そのうち大西洋も横断できるようになる。
誰もやらなければわたしがやる」

「飛ぶことはすべての人々にとって普通の出来事になる」
「戦争においても空が中心となるだろう」

このような予言をして人々を驚かせていました。

彼の言ったことは今日すべてその通りになっています。
彼の予知能力が優れていたのではなく、これは航空界に身を置く彼、
音をたてんばかりに発展していく科学技術の進歩を肌で知っている彼にとっての
「常識」とでもいうべきことで、彼のようなスーパースターが口にしたからこそ、
初めてその言葉に世間の人は耳を傾けたということにすぎません。


そのころ彼は、アメリカ合衆国にもっと航空への投資を増やすように働きかけ、
政府に見せるための個人的なデモンストレーションを企画しますが、
彼の招待に対し、内閣からエキジビジョンを見に来たのはたった二人でした。

普通のやり方ではダメだと悟ったビーチェイは荒っぽい手に出ます。
これはほとんど「伝説」の類だそうですが、そのまま記します。


ある日、ホワイトハウスの執務室にいたウィルソン大統領は、
遠くから彼の居室めがけて徐々に近づく飛行体に驚きます。
それは轟音と共にまっすぐこちらに向かって向かってくる飛行機でした。
驚きと恐怖で見開かれた大統領の目と、飛行機を操縦していたパイロットの目が
お互いをしっかり認識したと思った瞬間、飛行機は操舵を上昇に転じ、
大統領はその翼に書かれた「BEACHEY」という文字をいやでも認識しました。

ホワイトハウス上空を蹂躙するように彼の飛行機は町一帯を縦横に駆け、
ワシントンの記念塔から、地面に向かってほぼ垂直にダイブしました。
まるで、翼に書かれた彼の名前を大統領に読んでくださいといわんばかりに
そちらに向けながら・・・。

そして空を見上げている議員たちに翼を振って挨拶しました。
(つまりかれは飛行機の意思表示である『バンク』を最初にした人物です)
そして、エンジンが止まったようになった飛行機はまっすぐ墜落していきました。

「大変だ!リンカーン・ビーチェイが事故死したぞ!」

大慌てで陸軍病院から救急車が事故現場に駆けつけました。
しかし、そこには手も足もピンピンしたビーチェイが

「事故?事故ってなんだ?わたしはいつもこうやって着陸してるんだが」

とニヤニヤしながら立っていたのでした。
そして、

「今の飛行でわたしが爆弾を落としていたら
はたしてワシントンはどうなったかな?

さあ、よくわかっただろう。
軍に航空機を導入する時がやってきたってことを」


とダメ押しの一言。
航空機の発展を推進していた各関係者は彼の行為を絶賛し、
多くの議員は、空軍力の必要性を認識させてくれた彼に感謝し、
航空に関する政府のポストを彼に用意することを提案したのですが、
そのときすでに世界の博覧会などでの出演が決まっていた彼は
それに就くことを断りました。

それまで彼の飛行パフォーマンスを「クレイジー」「危険すぎる」
などと非難していた層は、例外なく政府が彼のことをこうやって認めた途端、
その口をつぐむことになります。
国内の有名飛行士はこぞってビーチ-の強力なリーダーシップを支持し、
新聞はかれを「マスター・オブ・ジ・エアー」と称えました。



こんな彼にはたったひとつ、十分予想されることですが欠点がありました。
「女性」です。

若くてハンサム、比類なきスーパースターであるパイロット。
今や名声も富も、そして世間の尊敬も20代にして手にした男に、
女性が群がってこない方がおかしいというものですが、案の定
このミラクルなタフガイには、女性が熱狂的にすり寄ってきました。

「港港に女あり」ではありませんが、彼は各飛行場、
というか各主要都市ごとにそういう関係の女性がいたといわれます。
今と違って、1900年初頭のアメリカでは、深い関係になるためには、
まず男性から「結婚の申し込み」をしなくてはなりませんでした。
ビーチェイはそのためにベストのポケットに

いつも求婚用のダイヤの指輪を忍ばせていた

と言われます。
つまり、いい女!と思ったら、ダイヤをポンと渡して「メリーミー」。
これで即女性ゲット、みたいなことをあちらこちらでやらかしており(笑)
自分はあのリンカーンの婚約者だと自称する女性が
ネイションワイドに存在していたということらしいです。

これ・・・どうするつもりだったんでしょう。

いつも命ギリギリで生きている人間の刹那的な熱情であったと解釈すれば、
この多情と性急さは、肯定はしませんが決して理解できないことではありませんし、
最終的には「本当に結婚するつもりで婚約した」相手も
いたにはいたらしいのですが。

ともあれ彼は若くして独身のまま死んでしまったことで誰も不幸にせず、
誰も争わず、ただ全米の「婚約者」たちが偽りの未来の夫を失っただけだった、
という意味では本人にとっても不幸中の幸いだったと言えるのかもしれません。



さて、そのリンカーン・ビーチェイの死はあっけなくやってきました。
その実にお粗末な事故は、生前の彼の最大にして最後の失策と言ってもよく、
この死に様があまりにあっけなかったせいで、生前の栄光がほとんど
帳消しになってしまった感さえあります。

1915年、ビーチェイの故郷であるサンフランシスコで展覧会が行われました。
彼はそのために自作の新しい単葉機で臨んだのですが、
いつもの背面での宙返りの際、彼は突如自分のミスに気が付きました。
高度がたった2000フィート(600メートル)しかなく、
それをするには高度不足であったことに。



しかし、彼がそれを悟った時には彼の機はまっすぐサフランシスコ湾に突入し、
衝撃で彼の単葉機の両翼は飛ばされていました。

海面に突入した機体は、最終的に約9メートルの海底に、
彼の体もろとも突き刺さり、そのまま浮かんでくることはありませんでした。

彼を救出するために戦艦オレゴンから16名のダイバーが派遣されました。
皮肉とでもいうのか、彼はかつてオレゴンを模した模型の船に
航空爆撃のシミュレーションを行ったことがありました。

捜索開始三時間後引き上げられた機体からは、
彼の体がシートに座ったままで発見されました。
遺体には抜け出そうともがいた痕跡があり、彼が墜落によってではなく、
溺死したことが倍検によって明らかになりました。


全米はその死を悼み、大統領は弔電を打ち、陸軍のハップ・アーノルド中佐
(あれ?この人、確かナンシー・ラブの大西洋横断移送を邪魔した人ですよね)
葬儀の司会をし、ある飛行家は彼の好きだったピンクのバラを事故海域に投下し、
・・つまり人々は一時、大々的にセンチメンタリズムに浸りました。


その後、全米を大恐慌が襲い、次いで第一次世界大戦が起こります。
そこではビーチェイの言葉通り航空機が投入され、
人類は史上初めて航空戦を行うことになるのですが、人々はもはや、
それを最初に予見した人物の名前をこの戦争の影で思い出すこともなかったのです。

そして、それから12年後の1927年、リンドバーグが大西洋横断に成功し、
空が新たなヒーローを迎えて人々が熱狂するころには、
この黎明期の天才の名は、人々の記憶から完全に失われていたのでした。

リンカーン・J・ビーチェイ
1945年3月14日 サンフランシスコ湾にて墜落死
享年28歳と11日


合掌。
 







Loop The Loops~リンカーン・ビーチェイとモントゴメリー教授

2014-11-08 | 飛行家列伝

金髪にハンチングを被った若いハンサムなこの青年は、まるで
「華麗なるギャツビー」を思わせる雰囲気に満ちています。

飛行家、リンカーン・J・ビーチェイ

日本人である我々には殆ど馴染みのない名前ですが、

飛行機操縦の歴史における先駆者として当時大変な名声を獲得した人物です。

映画「頭上の敵機」では米陸軍の実機が数多く登場しましたが、
このとき、降着装置を出せずに強行着陸するシーンのために操縦した
有名なスタントパイロット、ポール・マンツは、1915年、12歳のときに
このビーチェイが初めて単葉機を飛行させるのを見てパイロットを志しました。

 
この名前が日本ではwikiにも見当たらないくらい無名なのは
不思議というしかありません。(ポール・マンツはあるのに・・)
しかし、皆さんも、彼の偉業を端的に表すこのタイトルを見れば
彼が航空界の偉人であるということに同意下さるでしょうか。

「人類で初めて飛行機で宙に弧を描いた(Loop the loops)男 ”




サンフランシスコ空港から南に車で10分ほど国道を下ったところに、
このヒラー航空博物館はあります。
いつぞや、この名前の元となったヘリコプター開発の早熟の天才ヒラーについて、
その業績をお話ししたことがあるのですが、この博物館のすごいところは、
このような航空黎明期の「人力」「風力」飛行機も展示されていて、
一通り見終われば1800年代からの航空史を立体的にも学ぶことができることです。

飛行機の時間(フライトの待ち時間と興味の両方)があるなら、
ぜひ一度訪れてみてください。


今回シリーズは、ビーチェイについてお話しする前に、かれが発明した
「スタント飛行」以前の、つまり人類に於ける直立歩行以前の飛行機について、
ここの展示をもとにご紹介します。



羽につけられた一本の横木にまたがり、自分の脚で滑走して、やはり脚で着地する。
これってハングライダーそのものですよね。

 

なぜネクタイをしているのかと言う気もしますが、それはともかく、
この飛行機の仕組み・・・。

 

木の棒にまたがってるだけって・・・。
魔女の帚じゃあるまいし、こんなものでもし地面に激突したらどうなるのか。
何かあればすぐに体は機体から放り出されるわけだけど、それで命の危険は?

こういうのを見ると、つくづく人間と言う動物は命を失う危険を冒してまでも
何としてでも空を飛びたかったのだとあらためて呆れるというか感心すると言うか。
しかしながらこの無茶を顧みず探求する情熱あらばこそ、
百年後には人類は宇宙に行くことをも可能にしたのであり、
つまりスペースシャトルもステルスも、
この無謀なる飛行機馬鹿たちの死屍累々の上にあるのだと言わざるを得ません。

死屍累々といえば、先ほど紹介したポール・マンツも、
本日の主人公ビーチェイも、飛行中の事故で亡くなっています。


この飛行機は、1858年にジョン・ジョセフ・モントゴメリーという、
アメリカにおける
正真正銘航空の先駆者によって開発されました。





見物に25セント(子供1セント)徴収することが書かれていたり 

「翼のある人間が空を一掃する!」
「鳥にレッスン受けました」

こんなことが書かれたポスターを見ると、どう見てもサーカスとか見せ物の類いですが、
当時の飛行機と言うものはそもそも「乗るもの」ではなく文字通りの
「見せ物」でしたからそれも致し方ないことかと思います。

しかしモントゴメリー自身は決して怪しい人物ではなく、
それどころかサンタクララ・カレッジで航空工学の研究をしていた人物、
自作のこの飛行機で、アメリカ航空史上初めてグライダー飛行を行なった、
というまごうかたなき先駆者、パイオニアです。


さらにポスターを見て下さい。



飛行機の下に胃のような形の巨大な袋がありますが、
これはこの興行のとき、熱気球で上昇したのち気球を切り離し、
約900メートルの高さからグライダーを操縦して着陸する、
ということを行なったことを示しています。



この状態で上昇していき、高度が上がったところで気球を切り、
あとはグライダーで地上へ・・・・。

そんな無謀な、と思われた方、あなたは正しい。




真ん中がモントゴメリー教授で、この写真は彼の勤務先である
サンタクララ・カレッジの近くで撮られたものだそうですが、
教授の右側のタイツ男にご注目。



このグライダー飛行によるショーを行ったダニエル・J・マロニー(Daniel J. Maloney )。
元々こちらは正真正銘のサーカス芸人で、パラシュート降下を見せ物にしていました。
博士は自分のグライダーの興行のために彼を雇い、グライダーの訓練をさせました。

1905年のことです。



動画もありましたが、これがいつ撮られたものかまではわかりませんでした。
よ!ってかんじで手を上げて、なかなかなごやかな雰囲気ではあります。

初回は3月、このときは18分間の飛行に成功しました。
二回目の実験は4月で、このときはさらに高度を1200メートルに上げることに成功。



こんな原始的なもので高度1000以上から飛ぶなんて、
考えただけでお尻がぞわぞわしますね。
今の感覚で見るとその無謀さに、もしかしたら馬鹿?とすら思ってしまうのですが、
実際飛行機馬鹿なんですからしかたありません。

ライト兄弟だって、初代飛行機馬鹿オットー・リリエンタール
自作のグライダーで墜落して死亡したからこそ、動力飛行機の研究を始めたのです。


このグライダーは翼を見てもお分かりのように「サンタクララ」と名付けられました。

そして皆さんの嫌な予感はやっぱりあたり、三回目の飛行となる7月に、
マロニーはこのサンタクララで墜落し、死亡してしまいます。

合掌。

モントゴメリーはこれに懲りず(?)あちこちの航空顧問などを務め、
このグライダーを改良した飛行機を開発します。



1000メートルの高度から降下するのに人間の脚ではやはり無理がある、
とどうやら博士はマロニーの事故で悟ったようですね。
着陸を4輪で受け止め、さらに操舵できるようにしたもので、これを
エバーグリーン号、と名付けました。




その初飛行の写真が残されています。
まあ、高度もこれくらいならせいぜい脚の骨を折るくらいですむかもしれません。



カリフォルニアというのはこういう丘陵地形のなだらかな場所が多くあり、
高い木や森も沿岸地域には無いことが多いので、こういった実験には
もってこいの地域だと思われます。
アメリカの航空機や飛行士が殆ど最初はサンフランシスコを中心とした
地域の誕生であることはこの辺からきているようです。



操縦しているのもモントゴメリー本人。
地面に線路のようなものがあるような気がするのですが・・・。



写真でもそうですが、モントゴメリー教授、こんな格好で実験していたんですね。
落ちたら危ないちゅうに。

などと言っていたら、案の定教授はマロニー死亡事故から6年後、1911年に、
このエバーグリーン号で飛行中、墜落して死亡してしまいました。

合掌。

この頃にはすでに



この、カーティス・ブラックダイヤモンドなどという飛行機も登場していますし、
ライト兄弟はこの何年も前に動力飛行機の飛行を成功させていますから、
はっきりいってモントゴメリーの「エバーグリーン」での死は、
自分の過去の栄光に拘って最新科学を無視した末の無謀が招いたものであった、
というのはいささか先駆者に対し厳し過ぎるでしょうか。

マロニーに死をもたらしたのと同じ理由でエバーグリーンと彼の身に
遅かれ早かれ事故が起こることを、彼は予測できなかった・・・・・、
というかそのころは「アメリカ航空界の重鎮」となっていて、
新しい技術を認めたくなかったのかもしれません。 



せめてこのタイプなら・・・・。
ソリのような先端がまだしも事故を防ぐかもしれません。
(1910年ごろのグライダー)

ところで、ここにある最古の飛行体は、モントゴメリーのグライダーではありません。



現在、これが空を飛ぶとは何人たりとも思わないと思うのですが、
当時はどうもこれが垂直に飛び上がることを期待して作ったようです。
この滑車でうちわをぐるぐる回すことによって方向を制御し、
あわよくばまっすぐ飛翔していく飛行体を。

考えついても実際に作ってしまうというのが信じられませんが。
これは「Platens」と名付けられたエアロサイクロイドです。



パイロットがレバーを操作することによって上部の「プレート」が傾き、
(あ、それでPlatensっていうのか)それによってサイクロイドは
前、あるいは後ろに動きます。

こんなもの、飛んだのか?いやその前に動いたのか?と思われるでしょう。
このエアロサイクロイド、7馬力のバイク用エンジンを積んでいたんですね。



発明者のJ・C・アーバイン博士
この人もサンフランシスコの大学教授です。



せっかくなので顔のアップ。目がありません。こわい。



ついでにモントゴメリーのグライダーにまたがっている人アップ。
もみ上げが情熱的なラテンの雰囲気を醸し出しています。



きっと女性の弟子がヒゲをつけてコスプレしているに違いない。
アーバイン博士の助手。
こんなもの飛ぶわけないじゃない、って顔をしています。

そしてこの助手の懸念は大当たり。
7馬力のパワーではこの巨大なものを垂直に持ち上げるには十分ではなく、
この「クラフト」はびくともしませんでした。

しかし、これと全く同じ機械を、第二次世界大戦中にドイツの科学者が
もっと大きなパワーのエンジンを使って上昇させることに成功しているそうです。

「リミテッドサクセス」

という説明しか無いので、どの程度の成功だったかは分かりませんでしたが。
アーバイン博士は勿論、ドイツの科学者たちも、こんなものを飛ばせて
一体何の役に立てるつもりだったのか・・・・・。

ヘリコブターの原型みたいなものとはいえ、謎は深まるばかりです。



ともあれ、冒頭のビーチェイが自作の飛行機「リトル・ルーパー」
人類初の曲芸飛行を行なったのは、このときからわずか6年後のことでした。



(続く)




 


女流パイロット列伝~パク・ギョンウン「日本人・朴敬元」

2014-07-05 | 飛行家列伝


このパク・ギョンウンの情報は今回見学したヒラー博物館にあったわけではなく、
中国女性で初めて飛行免許を取ったキャサリン・チャンのことを調べていて、
ふと「日本最古の女流飛行士は誰なのだろう」と思いつき検索したところ、
何人かの日本人名のなかに彼女の名前を発見したのです。

彼女がパイロットの資格を取ったのは1927年。
日本最初の女流飛行家兵頭精(ただし)は、1921年に日本に航空取締り規制が布かれ、
操縦免許性になった一年後の22年に免許を取っていますから、その5年後です。

当時朝鮮半島は日本に併合されており、パクもまた「朴敬元」という日本国民であったわけですが、
朝鮮半島出身者の女性としては彼女が先駆となります。


パク・ギョンウンは、1901年、日本併合下の韓国、大邱(テグ)で、家具屋を営む家に生まれました。
韓国ではアメリカ人の経営するミッションスクールを卒業し、卒業後の1917年、来日します。

日本に到着したパクは横浜市の南吉田に居を構え、そこから笠原工芸研修所に2年半通いました。
ここで彼女は養蚕についての職業訓練をしたようです。
この期間、横浜の「韓国キリスト教教会」に通って、クリスチャンになっています。

この日本での日々に何があったのかはわかりませんが、どうやらこの間に
彼女は「飛行士になって空を飛びたい」という夢を持つにいたったようです。

彼女はいったん大邱に帰ってそこで看護学校に入りますが、それは、
飛行士になるのに必要な飛行学校の学費を調達するのが目的だったといわれています。
この看護学校は、日本の慈恵医大が大邱に創設していたものです。

1925年1月。

彼女は蒲田にあった飛行学校に入学するためにまた戻ってきます。
同胞である韓国出身の男性パイロットがここで教官を務めており、
彼女はこの男性に指導を受けることを希望していたようです。

もしかしたらこれが彼女の飛行士を目指した動機だったのではないかとも思われるのですが、



この、韓国人で最初に飛行士になった人物であるチャン・ヨンナムもまた、
当時江東区の須崎にあった飛行学校を優秀な成績で卒業し、
非常に卓越した技術を持っていたと伝えられるパイロットでした。

しかし、彼女が戻ってくる2年前に、彼は韓国経由で中国に亡命してしまっていました。

この人物についてのウィキペディアは韓国語と英語しかなく、したがって
亡命の原因を

「関東大震災で朝鮮人の虐殺を目にし、日本と戦うことを決意した」

とし、彼は北京に住んで韓国独立運動をした、ということになっていますが、
この一文を読んだだけで残念ながら本当はそうではなかったとわかります。

そもそも、朝鮮人が虐殺されている現場を、朝鮮人である彼は
どこでどうやって高みの見物を決め込んでいたのか。


とかね。

独立運動家としての彼の名前は無名ですし(おそらく韓国人も知らないのではないでしょうか)
後に墜落死した時には、彼は若干29歳で中国の飛行学校の校長をしていたといいますから、
「独立運動」はあまり現実的なものという気がしません。

これもまた「韓国人から見た」歴史であることを割り引いて考えた方がよさそうです。


さて、蒲田でチャンの指導を受けようとしていたパクの目論見は外れましたが、
彼女の資金を募るために、東亜日報が記事を書き、それによって集まった募金で
彼女は飛行学校に入学することができ、二年後に三等免許、
さらにその一年後に二等飛行免許を取得することができました。


ところでこの東亜日報というのは日本統治時代の1920年に創刊されています。

現在の韓国人というのは日本統治時代を否定しなくては精神が立ちいかないくらいの
峻烈な反日教育を受けていますから、統治によって

「民族のすべての固有の文明が奪われた」

くらいのことを学者であっても平気で言ってしまいます。
実際、2013年9月24日付のニュースで、

「日帝は朝鮮を強制的に併合した際、1911年までの一年間の間に
初代朝鮮総督の寺内正毅が軍警を動員し、全国の20万冊の史書を強奪したり
燃やしたりし、さらにその中から珍しい秘蔵史書を
正倉院や東大秘密書庫のようなところ

奥深く隠した。
つまり日帝は古朝鮮以前の古代史を根こそぎ奪ったのである」 

などという(発言者は正倉院がなんだか全く知らないのではないかと思われる)
都市伝説レベルの発言を考古学者がしているのを知り、
あらためてそれを確信する気になったわけですが。

しかしこのブログを読んでおられるような方であれば周知の事実ですが、
実際は歴然と証拠として残るダムや鉄道のほかに、
ソウル大学はじめ教育機関や(パクの通った慈恵医大の看護学校もそのひとつです)
新聞社、しかも朝鮮人の有力者が後押しして、モットーの一つが
「民族主義」であるような言論機関を朝鮮人は作ることができたということなのです。



というか、百の言葉を尽くさずとも、

「現地民のための学校があり、現地民経営の新聞社があった」

これだけで、日本の統治がどんなものであったか一言でわかるではありませんか。


去年韓国で、統治時代当時を知る95歳の老人が


「日本の統治時代はよかった」

と言ったところそれに激昂した若い男が老人を殴り殺し、
それに対して国民が「よくやった」と喝采を送るという事件がありました。
実際、

「過酷な日本の植民地支配で何万人もの人が虐殺された」

などというトンデモ話を子供のころから信じ込まされているのが今の韓国人です。


今回パクについて書かれたいくつかの記述を見ましたが、皆お約束のように
「偏見」「差別」を跳ね返して、などという文章を必ず付け加えています。

しかし、実際に統治下の朝鮮人が偏見や差別と闘い続けなければ何もできないような国なら、
そもそもパクのような朝鮮半島出身の、しかも女性が飛行士になることなどできたでしょうか。

朝鮮半島生まれの若い女性がわざわざ日本に来て職業訓練を受け、
さらに日本で飛行機の免許を取って、飛行競技大会にも出場し三位になり、それで
陸軍の中古とはいえ、サルムソンを購入することすらできたのです。

つまり、現在の韓国人の言う「峻烈な差別と虐殺」というのは、「被支配」側の被害妄想、
よくて少なくとも何か特殊な事件の拡大解釈に過ぎないとしか思えません。

(当時の日本に差別がなかったとは言いません。
いつの、どこの国にも差別があるように普通にあったことは確かです)


彼女が憧れていた(らしい)朝鮮人のチャン・ヨンナムも、やはり日本で免許を取り、
日本の飛行学校で教官を務めて日本人を教えていたわけです。
これも彼らが言うほどの差別があればありえないことでしょう。


さて「最初に飛行機に乗った自国民」は文句なくその国にとって英雄のはずです。
現在の韓国人というのは、反日から来る歴史認識を拗らせて、
こういう人たちを
民族の誇りとすることすらできないジレンマに
自らを追いこんでしまっているように見えます。


彼らを誇ると、「日本」がその「名声」の形成において大きな意味を持ち、

さらに、日本で彼らは必ずしも迫害されていたわけではなかった、
ということを語らなくてはならなくなってしまうからです。

その挙句、日本の総理大臣を殺害したテロリストが自国の誇る
もっとも偉大な英雄になってしまうという歪んだ価値観しか持てないのが、
「韓国という病」における最も憂うべき後遺症だと言えましょう。



パクはつい最近まで「韓国初の女流飛行家」であるということになっていました。
しかし、その「初めての飛行家」が、当時「日本人であった」というのは、
そんな「韓国病」の彼らにとっては耐え難い屈辱であったようです。

そこで韓国は、彼女ではなく、「中国軍で飛行免許を取った」という
キ・オククォン
いつのころからか「初めての韓国人女流飛行家」
のタイトルを与えることにしたようです。


「与えた」
というのはあくまでわたしの想像です。
2005年に「青燕」というタイトルでパクの人生が映画化される前までは
まだ「初の女流飛行家」はパク・ギョンウンであるということになっていたからです。
しかしなぜか「急に」キの方が先であったという説が生まれ、wikiもそうなりました。

そのため映画の興行元は「韓国で初めての女流飛行家」というパクのキャッチフレーズを
全ての媒体から削除しなくてはならなくなってしまったそうです。


もちろんわたしは観ていませんが、どんなに映画上でパクの人生を

「虐げられた民族の苦しみを跳ね返し飛んだ」

と言おうとしたところで、現実にに日本で免許を取り、日本の人たちに見送られて、
日本の国旗を振りながら最後のー彼女が命を失うことになるー
最後の飛行に飛び立ったという事実がある限り、
日本を悪く描くにも限界があったのだと思われます。


そしてやはり「親日的である」の烙印を押され、映画の韓国での興行は失敗しました。
パクの名前もまた、全くと言っていいほど今日に至るまで祖国では無視されています。


1933年。

32歳の彼女は、親善を目的とした訪問飛行のため、羽田を飛び立ちました。
日韓関係なく、成功すれば彼女は初めての日本海横断飛行した飛行士となるはずで、
羽田での見送りは官民多数の大変盛大なものであったといわれています。

ところが、この飛行に関しても、英語(つまり韓国側の記述)によると、

「日本政府のプロパガンダにより計画された、
満州への飛行であった」


となってしまっています。

まったく・・・・・(笑)

満州国をだけ対象に日本がプロパガンダをするのなら、普通に考えて
何もわざわざ韓国人の女性パイロットを飛行させる意味がありますか?


・・・・日本を悪者にするのも大概にしていただきたい。

東京―ソウル―満州をつなぐ線を、朝鮮民族である彼女が飛行することで
政府が「八紘一宇」「五族協和」のシンボルとしようとしていたのは確かです。
尤もどんなことも悪意一本で解釈すれば「プロパガンダ」でしょうけどね(投げやり)


さらに穿った見方をすれば、この件で韓国人は、日本ー韓国間の「親善飛行」、
そして(こちらが主な理由だと思いますが)彼女がこのとき挑戦したところの

「日本海横断」という言葉を何が何でも使いたくないのだと思われます。

韓国は歴史的に日本海は存在せず東海であったと主張しているからですね。


まあ、国民が最も熱狂する国威発揚が「日本に勝つこと」という国ですから
これもまた致し方のないことなのかもしれませんが、
そうやっていちいち自分たちのプライドのために歴史を「修正」していると、
必然的に矛盾が生じ、そのうち歴史そのものを見失ってしまうのに・・。 


さて、パクの話に戻りましょう。

冒頭画像はこのときに見送りの人に向けて日本の旗を振るパク・ギョンウン。
おそらく、これが彼女が生きて最後に撮られた写真であったと思われます。
彼女はこの日のために飛行服も、飛行帽も、すべてを新品に買い整え、
希望に満ち溢れて羽田を発ちました。

その日は羽田から大阪に立ち寄り、そこで在阪朝鮮婦人会や有力者の激励を受け、
ソウルに出発する予定になっていました。

しかし、花束を持って正装で彼女を迎えようと飛行場に詰めかけた人々の前に
彼女の飛行機「青燕」はいつまでも姿を見せませんでした。

そして、翌日の捜索で彼女の飛行機が、箱根山中、熱海の玄岳山に
機首から墜落しているのが発見されたのです。



彼女が身に着けていた時計の針は、彼女が飛び立ってから
わずか42分後に「青燕」が墜落したことを示していたそうです。

内外の新聞はその事故死を大きく報じ、彼女の死の一年後、
1934年の8月7日には、追悼飛行が行われています。
この飛行には、飛行学校の後輩であった正田マリエ(豪州から日本人と結婚し帰化)と、
やはり朝鮮人の李貞喜が務め、正田が空中から現場に花束を投げました。

それだけではありません。

日本と韓国の両国にはそれぞれ女性飛行士の協会があるそうですが、
その韓国側が30年前に

「わたしたちの先輩パイロットであるパクの遭難場所を教えてほしい」


と訊ねてきたということがありました。
しかしあらためて探すまでもなく、彼女の飛行機が墜落した村の人々は、
墜落現場に自然石の碑を立て、ずっと供養を続けていたのです。

それ以来、両飛行協会は姉妹提携を結んで交流しているという話です。


彼女の死後しばらくして、新聞にこんな記事が載りました。

「申栽祐君は 朝鮮女流飛行家朴敬元嬢が 郷土訪問を兼ね
日満間の大壮途を
決行せんとし途中 惜しくも墜落惨死したのに発奮し、
法政大学法科を棄てて、
昨年八月千葉第一飛行学校へ入校、
亡き朴嬢の意志を継いで
 
一日も早く内鮮満飛行を決行し
朴嬢の霊を慰めんと努力しつつあったが、
去年操縦試験に見事パスし 
次いで学科試験にも合格し 二等飛行士の免状を
下付され 
いよいよ念願かない 機材購入の準備のため帰鮮の途に就いた」




「日本の統治は正しかった」

95歳のかつて日本人だった韓国の老人はこう言って殺害されました。

今の韓国人には信じられない、それ以前に認めたくないことでしょうが、
これが、日本の「統治民に対する扱い」だったのです。

同じ飛行家以外には祖国ではその存在すらなかったことにされている朴敬元。
日本軍の兵士となって特攻戦死を遂げた朝鮮人同胞に対してさえ、
「日本の手先となったのであるから敵である」と言い切るような民族ですから
それもむべなるかなというところでしょう。


その後、日本女流飛行家協会が主導して、熱海梅園の中にできた「韓国庭園」
朴飛行士のレリーフと「思いは遥か故郷の大空」と題した記念碑が設置されました。

その竟の地が日本でなければ彼女はこのように祀られることもなかったでしょう。

勝手に死者の魂を忖度する不遜を許していただけるならば、
当時日本人であった彼女の霊はこの地でせめて安らかに眠っているのではないでしょうか。




 


ボビ・トラウトとエリノア・スミス「サンビーム・ガールズ」~女流パイロット列伝

2014-06-03 | 飛行家列伝

 


前回に引き続き、飛行黎明期の二人の女性パイロットについてお話しています。
前回のタイトルでエリノア・スミスのキャッチフレーズを

「フライング・フラッパー」

としたいきさつからお話ししましょう。

フラッパーFlapperとは、もともと

「羽をパタパタさせる(鳥)」

のイメージからの造語で、1920年代に髪をボブカットにし、
短いスカートをはいてタバコやお酒を嗜み、

退廃的な雰囲気でジャズに耳を傾ける若い女性を揶揄する言葉でした。

濃いメイク、自動車の運転、
そして当時の保守的な人々が眉をひそめる奔放な性道徳。

決して肯定的な響きではなかったにもかかわらず、
そこは大衆に膾炙する
「流行」の威力とでもいうのか、
いつのまにか彼女たち本人が「フラッパー」を自称するようになり、

やがてファッションにも、ヘアスタイルにもその名が使われました。

この二人が飲酒喫煙をしていたかどうかは知りませんが
(していそうですが)、
フラッパーの条件である

「ボブカットに自動車ならぬ飛行機の操縦」

を満たす二人は「飛ぶフラッパー」と世間に呼ばれる資格があったわけです。

実際に「フライング・フラッパー」というあだ名があったのは
彼女らのうちのエリノア・スミス

彼女は前回もお話ししたように、まだ10歳の時に操縦を始め、
史上最年少で飛行機免許を取得した人間(女性、でなく)と なりました。

彼女の父親は俳優で、彼女に真っ赤なWACO9を買い与え、
パイロット兼インストラクターを雇って、彼女には
安全のため決して離着陸はさせないこと、
とインストラクターにも厳命していたのですが、
彼女が15歳のある日、
ーそれは父親が不在のときでしたがー
母親がインストラクターに許可をだし、

彼女は離着陸どころか、初の単独飛行をやってしまいます。

・・・・・・・・・カーチャン・・・・・・(;・∀・)
 
この、当時にしてははっちゃけた母ちゃんあらばこそ、
飛行家エリノア・スミスは誕生したともいえます。


しかも母が母なら娘も娘。親の顔が見たい。

この強烈な初単独飛行の10日後、彼女はいきなり、
これまで誰も、勿論のこと
父親の雇ったインストラクターでさえも
達したことのない高高度を目指して飛び、
皆が息をのんで見守る中、
あっさりとその高度に到達して無事に帰還してきたのでした。


彼女と彼女の家族は、彼女の操縦スキルが一定のレベルに達するまで、
その広報活動を最小限に行ってきましたが、あるとき、勝負に出ます。

なんと、ニューヨークはイーストリバーにかかる橋のうち
有名な

ブルックリンブリッジ始め、四つの橋の下を飛行機でくぐる

というど派手なパフォーマンスを行うことにしたのです。

このあたりはさすがにブロードウェイの観衆を
体一つで納得させてきた芸人である父親の血という気がします。

事前に彼女が橋の上を飛んで偵察したときでさえ、
彼女はいくつかの船舶を避けて飛ばなくてはなりませんでしたし、
しかも彼女はその時まで知らされていませんでしたが、
各々の橋の上からは
ニュース映画のクルーが彼女の飛ぶのを
(あるいは失敗して事故を起こすのを)フィルムに収めようと待ち構えており、

人々の間では彼女が成功するかどうかで賭けが行われていました。

ほとんどが天候条件で彼女が挑戦をやめることに賭ける中、
この世にプレッシャーなど全くないかのようにウェイコ10を駆る彼女は、
完璧に愛機をコントロールし、このスタントを成功させました。

大衆は喝采しましたが、この無許可のスタントに対して
ニューヨーク市は市長名義で

「ニューヨーク市における飛行停止10日」

を命じる手紙をよこし、
米国商務省は15日の飛行免許の停止を彼女に命じています。

いずれにせよ、こんなお上のお沙汰は彼女にとって名誉の負傷のようなもので、
彼女はこの向う見ずな飛行スタントのおかげで一躍セレブリティの仲間入り。

この時に奉られたあだ名が「フライング・フラッパー」だったというわけです。




さて、今回のタイトルの一部「サンビーム・ガールズ」

これは、エリノアと前回ご紹介した彼女の同年代のライバル、
やはり流行のボブカットにした「フラッパー」のボビ・トラウト二人に
与えられたキャッチフレーズです。

光線少女ってなにかしら、とわたしも最初はいぶかしく思いました。

ヒラー航空博物館で二人の写真に付けられたこの「サンビーム・ガールズ」
というキャッチコピーには、しかしながら何の説明もなく、
何を以てこの二人を「サンビーム」と呼ぶのかが当初はわからなかったのです。

 
「うーん・・・・・・サンビームというと・・・・
『あれ』しかないけど・・・・・・」


Sunbeamというと、 アメリカに住んでいたりよく訪れる人には
「光線」よりぴんとくるものがあります。

キッチンに置いてあるコーヒー沸かしやトースター、あるいはフードプロセッサー。
そんな小物がSunbeam社製である確率は非常に高く、このロゴは
いつの間にか目にしているなじみの深いロゴなのです。

もしや、と思って英語で手当たり次第検索してみると、

ビンゴ。


Commercial C-1 Sunbeam


これがどうやらコマーシャル・エアクラフトという航空機会社製の
「サンビーム」。
間違いなく、このキッチン用品の会社の宣伝目的で作られた飛行機でしょう。 

この「サンビーム」に、ボビとエリノアが乗って耐久飛行と空中給油に挑戦し、
それでこの二人のあだ名が「サンビーム・ガールズ」になったと。


この話が来るまでの1929年、二人はそれこそ
「宿命」と言っていいほどのライバル関係で、
耐久記録をお互い破りあっていました。

そう、こんな風に。

●ボビ、女性初の耐久時間12時間を達成

一か月経たないうちにエリノアが17時間達成

すぐさまボビ、同じ17時間達成しタイにつける

エリノア、こんどは26時間達成

完全にお互いを意識して飛んでいたようです。

記録を見ただけでは何とも言えませんが、この「女の戦い」は
少なくとも純粋に『互いの技量を高めあう正しいライバル関係』
というものではなかったか、という気がしないでもありません。

しかし、余計なことに、この二人の熾烈なライバル争いを見ていた、
カリフォルニアのキッチン機器メーカーの一人のビジネスマンが
二人にスポンサーの申し出をしました。


「好敵手どうしての二人で協力して、
わが社の名前を付けた飛行機で耐久飛行記録を作りませんか?」

今まで耐久飛行で記録を競い合っていた二人を「サンビームガールズ」
として使えば、凄い宣伝になる、と彼は踏んだわけです。


そして1929年の11月、ロスアンジェルスのメトロポリタン空港から、
この二人の「宿命のライバル」同志を同じキャビンに乗せて、
サンビームC-1は離陸しました。 

このときの機長はエリノア・スミス。17歳の年下のスミスに機長を任せ、
23歳のボビは副機長を務めています。

「やるのはわかったが・・・・・どちらが機長になる?」

「ボビ、あなたがやってください。年もあなたが上だし」

「いやそうはいかない。耐久レースはいまのところ君の勝ちに終わっている。
レースで負けた私が君の上に立つのは私の気持ちが許さないんだ」

「ボビって、思っていたよりずっとオトコマエですね」

「な、何を言う。この後君を追い越すつもりだからな」

「ボビ・・・・」

「エリノア・・・・・」

という展開があったのに違いありません。
多分、というか全くの妄想ですが。


そして、このとき二人は女性で初めて空中給油を行いながら
滞空耐久記録(長時間飛行)に挑戦しました。 


空中給油の史上第一号の称号は、ボビに譲られました。

サンビームに給油のホースを伸ばしたのは同じく男性ペアの乗った
「カーチス・ピジョン」で、
エリノアが慎重に操縦する間、
ボビは カーチスからホースを受け取り給油をしました。


しかし、この二種類の航空機は、必ずしも同時に飛んで
このような作業をするのには
向いていたとはいえませんでした。

まずカーチス・ピジョンは貨物を運ぶのに使われていた機です。

このときも燃料を空輸できるというだけで選ばれたものの、
時代遅れのエンジンで
しかも、機体の構造上、
給油中のサンビーム号が見えず下で何が起こっているのかわかりません。


おまけに通信方法のない当時では全く意思疎通できないという始末。


対するサンビームも、これがなかなか安定しない機体で、エリノアは

「操縦中は一瞬たりとも気を抜くことができず、集中を強いられた」

とその不安定さをのちに述懐していたそうです。

給油の最中は、基本性能が違う二機の速度を合わせるのに、
カーチス・ピジョンが全速力で飛ばなければならず、逆にサンビームは
失速寸前まで速度を絞って飛ばなくてはなりませんでした。

一般に航空機はゆっくり飛ぶ方が難しいので、これは
卓越した腕を持つエリノア・スミスだからこそ

できたことだったといえるかもしれません。

最初の挑戦が12時間経過したとき、事故が起こります。

何度目かの給油中、突風によるタービュランスが、
ボビの手からホースを奪い、
彼女はホースから流れ出る燃料を
頭からかぶってしまいました。

ホースの逆側では給油機の副操縦士ピート・ラインハルト
切り口でけがをし、
出血するという騒ぎになっていました。

しかし両機とも無事で空港に戻り、次の挑戦では、
この時を大幅に上回る
42時間の滞空記録を作りました。


しかし二人同時の記録挑戦はこの二回だけです。

しかもこの時以来二人に交友が生まれた、とは
どこの資料も書いていないので、
もしかしたらお互い、
ビジネスライクに仕事を務めたけど、こんなことでもなければ

一緒に飛ぶなどまっぴらごめん、と思っていたのかもしれないし、
互いに技術的なことで軋轢もあったのかと疑われます。


二人はその後も順風満帆な人生を送り、ボビは2003年に97歳、
エリノアは2010年に99歳と、どちらも天寿を全うして
ほとんど同じような年齢で亡くなりました。



まるで最後までこの世の滞在時間を競ってでもいたかのようです。
かつてのフラッパー同士の長寿対決は、実際の滞空時間と同じで、
エリノアがわずか2年の差で勝利をおさめました。

 

 

 

 


ボビとエリノア「プレーン・クレイジーとフライング・フラッパー」女流パイロット列伝

2014-06-01 | 飛行家列伝

昔々のスポーツ根性マンガと呼ばれるものは、
主人公に対するライバルの存在なくして
話が成り立ちませんでした。

矢吹丈には力石徹、星飛雄馬には花形満。
鮎原こずえには早川みどり。朝丘ユミには椿麻里。
岡ひろみには竜崎麗香。一条直也には赤月旭。
ほかは、えーと・・・・・


とにかくその非現実的な戦いの世界では、平成26年現在、
どことは言いませぬが某テレビ局が、フィギュアスケートやサッカーの試合で、
「お隣の国」を持ち上げる以外、
実生活ではまず聞くことのない、
「宿命のライバル」などという言葉が乱舞していたそうでございます。

これらの「男の世界」に対し、女子スポーツマンガはその
「宿命のライバル」が、恋敵も兼ねていたりして、
それでなくても辛気臭い世界がより一層ドロドロしていたような
・・・・・偏見ですかね。


自分が女性であるからわかるのですが、女性というものは一定数集まると、
必ずと言っていいほど対立が生じるものです。
グループ対グループ、個人対個人、個人対グループとその形態は様々ですが、
時としてそれは陰湿ないじめにつながり、陰口や噂話はもちろん、
相手を陥れるための陥穽を弄したり、告げ口したり。

お掃除のおばちゃんたちであろうが大学病院の研究室であろうが、
不思議なことにその知的経済的レベルのいかんを問わず、

女性のグループの数だけ、そういったことは起こるのです。

女性というのはどんな場所にも「敵」を作らずにはいられない生物である。

小学校2年にして「親友」を装ったクラスの女子から陰に日向に苛められて以来、
そういう女の世界を今日まで渡り歩いてきたエリス中尉は断言します。

何が言いたいかというと、一般的に女性は「好敵手」というような
美しい敵対関係を
相手と築くことができないのではないか、ということなのです。

今までシリーズでお伝えしてきた、飛行機黎明期における女子飛行士界においても、
そうではないかと思われる事例が散見されました。

たとえば、ジャクリーヌ・コクランとナンシー・ラブ。

同じように陸軍に、しかも同じ人物に「女子航空隊」設立を提案し、

別の方向から働きかけて、できたらできたでどちらが隊長になるのか、
この成立の過程に、どうも飛行家としての二人のライバル心が見え隠れし、

「最初から二人で協力しあえばよかったのでは」

とわたしなどはつい思ってみていたものです。もちろん歴史をですが。


この二人がお互いをどう思っていたかを記す文献は一切ありませんが、
いずれにしても当時の女性飛行家などというごく少数の女たち、
しかも我こそは世界一を目指す気概と野心に満ちた「先駆者」同志が
美しい友情でも結ばれていたと考える方が不自然というものです。

・・・・偏見ですかね。



さて、本日冒頭に挙げた、マニッシュな雰囲気の女性。

イヴリン・”ボビ”・トラウト

あだ名の「ボビ」は、当時最新流行だったボブ・カットをトレードマークにしていたから。
このときはその髪をぴったりとポマードで撫でつけ、まるで男装しているかのようですが、
彼女が「コピー」したのは、当時の人気女優アイリーン・キャッスルの「ボブ」です。

ボビは16歳と、とても早い時期にその飛行家としてのキャリアが始まっているので、
航空史上、先駆とも言うべき飛行家の一人です。

彼女イブリン・トラウトがイリノイに住む12歳の少女であったとき、
当時珍しかった飛行機が彼女のまさに上空を通過しました。 
この偶然が、彼女に「いつか飛行機に乗りたい」という夢を与えます。

家族はその後、ガソリンスタンドを経営するのですが、家業を手伝うある日、
イブリンは、家業のスポンサーであるW. E. トーマスに、問わず語りに夢を語りました。


「トーマスさん、わたし、いつか飛行機に乗ってみたいの」

「ほう、どんな飛行機に乗りたいの」

「わたしが12歳の時に空を横切って行ったのは、カーチスJN-4だったわ。
ああ、あの美しい飛行機を操縦して、一度でいいから空を飛んでみたい!」

「偶然だね、イブリン。
君が今話している目の前の人間は、そのカーチス JN-4のオーナーだ」

「なんですって!トーマスさんが?」

「乗ってみたいかね?」

「ええ!乗ってみたいわ! おお神様(Oh,my God!)」


(以上エリス中尉の妄想による創作でした)

ってなありがちな展開の二年後。彼女は、シカゴ→ロスアンジェルス間を、
このカーチスに乗って初飛行しています。

その後飛行学校にも通うのですが、彼女はこの時事故を起こしています。
低空をに飛行していているときに45度のターンを若い教官から指示され、
それに従った彼女の機はコントロールを失い墜落しました。

しかし、この事故も、彼女を飛行機から引き離すことはできませんでした。
ますますその世界にのめりこんだ彼女は、おもに無給油耐久飛行の分野で、
いくつかの「世界初記録」を作っています。

彼女が飛び始めたきっかけは、他の女性飛行家に同じく、

「男性のパトロンの助けがあったから」

で、実家が超大金持ちだったり、または富豪を捕まえたりした飛行家以外は、
当時は皆このような「パトロン」を募って飛行機を続けるのが普通でした。



彼女は中性的でボーイッシュな雰囲気をトレードマークにしており、
また生涯結婚しなかったということですが、これを見る限り、
中身まで男性的だったというわけでもなさそうです。

しかし、いくら凛々しい青年のように見えても、所詮は(当時の)女。
飛行機を続けるためにより多くのスポンサーを探さなくてはならず、
それは彼女にとっても容易なことではなかったようです。

そこで、

「中性的な彼女が若い美人女優と組んでペアで耐久飛行」


という、もし成功すればおじ様たちがさぞこぞってスポンサードしてくれるような
キャッチ―な挑戦を企画しますが、このときにペアとして組まされた相手の
エドナ・メイ・クーパーという無名女優が(おそらくですが)
箸にも棒にもかからない
『使えないやつ』だったため、
出発したものの、
即座に技術的な問題が発生し、
断念せざるを得なかったそうです。



彼女はまた、1929年の女性ばかりのダービー、
パウダーパフ・ダービーに出場して、
入賞はなりませんでしたが、
完走は果たしています。




それにしても、アメリカ人というのはどうして写真を撮るときに、
ポケットに手を入れるのか。

今まで見てきた中で、「ちょっとした演説」をするとき、アメリカ人は
必ずと言っていいほどポケットに手を入れていました。
どうも、手のやり場がないのかもしれません。

最初の画像におけるボビもわざわざ座っているのにポケットハンドですし、
このエリノア・スミスに至ってはご丁寧にも両方です。

二人とも、ズボンにネクタイという「飛行スタイル」で、
男性を気取っているので、
ポーズもこのようになってしまうのでしょうか。

エリノア・スミス

さて、こちらはボビよりさらに早く、
6歳で兄と一緒に自分の飛行機を持っており、
10歳で飛行機のレッスンを始めるという、超英才教育を受けた飛行家です。
父親は俳優でありボードビル芸人で、ブロードウェイにも出ていた芸人でした。

物心つくかつかないうちから乗っているのですから、
飛行機はまるで彼女にとって自転車のような乗り物だったに違いありません。
自転車代わりに飛行機に乗ってきた彼女は、その後も挑戦と記録を打ち立て、
世間では若いうちからすっかり有名人でした。



ところで冒頭に延々と「女同士の好敵手」というものが存在するかどうか、
卑近な例をあげてお話ししてきたわけですが、このボビとエレノア、
ちょうど飛行機黎明期、さらに1928年からしばらくの間は、全く同時期に
世間で騒がれていた女流飛行士同志だったわけです。

それだけでなく、彼女らは、耐久飛行について互いにしのぎを削っており、
記録をどちらもが破って破られてという熾烈な「女の戦い」を繰り広げていました。


はたして彼女らはどのようなライバル関係だったのでしょうか。


続きはまた次回。

 

 

 

 


女性パイロット列伝~サビハ・ギョクチェン「大統領令嬢は戦闘機パイロット」

2014-05-10 | 飛行家列伝

この「女性パイロット列伝」は、いわばわたしの「趣味」の範疇であり、
冒頭の肖像を含めて内容も非常に楽しんで制作しているため、
実はストックが今年の夏掲載分まであります。


しかし今日はその掲載予定を変更し、急遽制作した内容を挟むことにしました。

というのは、トルコの駐在武官を務めたことのある或る海自幹部の方から

「わたしが赴任していたトルコの女性パイロット、

サビハ・ギョクチェン SABIHA
 GÖKÇEN

について書いてほしい」

というリクエストを頂いたからです。

基本的にブログへのリクエストと自衛隊関係のお誘いは断ったことがないわたし、
そのどちらの条件もある意味満たす御依頼に喜んで応えさせていただいた次第です。

特別仕立てらしい白の飛行帽、ブルーの飛行服の彼女の肖像のバックには
「新月旗」「月星章旗」と呼ばれるトルコ国旗をあしらいました。
この旗は、トルコ革命において革命派の重要なシンボルとなりました。




トルコという国について、わたしたち日本人はあまり知識がありません。


有名なトルコの偉人の名前を言えるか?
宗教は何で、通貨は何が流通しているか?
そもそも地図ですぐにその場所を示せるか?

少し前、来日しているメキシコ人が日本人に

「メキシコというと何を思い浮かべるか?」

と聞いて、それをYouTubeにアップしていましたが、その答えが

「暑い」「タコス」「ソンブレロ」「サボテン」

などというものだったため、メキシコ人はそのステロタイプな答えに
大いに失望して(特に、別に暑くないんだけどという声多数)いたものです。

しかしたとえばこれを「トルコ」でやった場合、おそらくはメキシコ以上に

日本人にはその明確なイメージは湧かず、せいぜいが

「ベリーダンス」「ケバブ」

という単語が出るくらいで、トルコ人はメキシコ人以上に失望するでしょう。

とはいえ、日本をお題にこれをやってみたところで、どこの国も
日本人が満足するような答えを出してくれるとも思えませんが。


しかしもしこういう質問をされたとき、あなたが海軍のことや
外交史に詳しければ、きっと


「エルトゥールル号」

というトルコのフリゲート艦が和歌山沖で遭難し、日本人が被災者を介護し、
遺体を回収し、 生き残った乗員を軍艦「比叡」「金剛」がトルコまで送っていった、
という話を挙げるかもしれません。

さらにあなたが「坂の上の雲」のファンならば、このときに2隻の軍艦に乗っていた
海軍兵学校17期の少尉候補生の中に、秋山真之がいたということもご存知でしょうか。

この事件以来日土関係は大変良くなり、一時トルコでは子供の名前に
「トーゴー」と付けるのが流行ったほどだといいますが、トルコがこの件で
日本という国をいかに評価してくれていたかを日本人が知ることになったのは
何と事件から95年後のイラン・イラク戦争のときでした。

このブログに来られるような方であれば、きっとご存知の逸話だと思うのですが、
いつかは書いておきたかったので、概要をここで述べておきます。


イラク・イラン戦争が始まって5年目の1985年、サダム・フセインは突如


今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす

と宣告しました。

企業から派遣されていた在土日本人とその家族はそれまでに脱出するべく
テヘラン空港から飛行機に乗ろうとしましたが、すでに普通便は満席。
世界各国は自国民を救うべく、専用機を向かわせ、国外に出し始めていました。

しかし、日本政府は何もできませんでした。


本来ならば、政府は軍用機を向かわせるのが最も確実な方法ですが、

我が国の場合、世界に誇る平和憲法のおかげで()それは不可能でした。
当時は自衛隊の海外派遣が禁じられていたからです。

後から野党に責任を追及されるとかそんなことばかり心配する
日本政府は、超法規措置を取ることも全く検討しませんでした。

当初政府は某JALに救出を要請しました。
しかし、JALは「機材と乗員の安全が確保できない」という
ごもっともな(笑)理由できっぱりとこの申し出を拒否。

他国への救援要請もうまく行かず、邦人たちに絶望の色が濃くなってきたとき、 
彼らの元に二機の飛行機が到着したのです。 

トルコ航空の飛行機でした。

オルハン・スヨルジュ機長らの操縦するトルコ航空機が日本人215名全員を乗せ、
成田に向けて空港を飛び立ったときには、タイムリミットの1時間15分前でした。

日本人は当初トルコ政府の異例の計らいに首を傾げたそうです。
トルコ航空の二機が邦人のために使われたので、トルコ人の多くは
陸路で脱出することになったのですが、国民より日本を優先したこの処置に対し、
なぜそうまでして、と訝しむ日本人たちに当時の駐日トルコ大使は


「トルコ人はエルトゥールル号の恩義を忘れていない」

と誇らしげに説明しました。

日本では遭難現場の串本町民以外には知る人ぞ知る歴史となっていたこの事件は、
トルコでは代々語り継がれ、教科書に載っているくらい有名な話なのです。


日本への親近感を幼い頃からこの逸話によって抱き続けてきた国家指導者たちは、
非常時であるからこそその話を思い出し、

「今こそ日本に恩返しをする時である」

と誰言うともなく措置をを決定したのでしょう。


さて、前置きがあまりにも長くなって申し訳ないのですが、本日の主人公、
サビハ・ギョクチェンにたどり着くのに、ぜひこれだけは話しておかねばなりません。

もう少し御辛抱下さい。

サビハ・ギョクチェンと検索すると、まずその名の空港が出てきます。
つまりこの女性は、空港に名を残すほどの偉人だったということになります。
当ブログ「女流パイロット列伝」シリーズでいうと、彼女は

「世界最初の戦闘機パイロット」

というタイトルを持つ飛行家です。

しかし、彼女がトルコの偉人という扱いを受けているのは
世界最初の女性戦闘機操縦者という理由だけ
ではないのです。


エルトゥールル事故のあと、遺族のために寄付を募り、それを持ってトルコに渡り、

現地の熱烈な歓迎を受けているうちに、勧められるまま
トルコに永住してしまった日本人がいました。

実業家で茶人の山田寅次郎(宗有)がという人物です。
彼はトルコで士官学校の日本語と日本の教授をしていたのですが、
その生徒に

ムスタファ・ケマル・アタルチュク

という士官候補生がいました。

後のオスマントルコの将軍、トルコ共和国の元帥、初代トルコ大統領

そして、サビハ・ギョクチェンの父親です。




もっとも、サビハは本当の娘ではありません。

アタルチュクに実子はなく、彼は

死亡した戦友の子を養子として十数人を家族とした

と言われており、彼女はそのうちの一人でした。
12歳のときに「哀れな暮らし」をしていたところを見出され、
大統領の養女となったサビハは、
そのときに「空」を意味する「ギョクチェン」姓を名乗るようになります。

トルコ最初の航空協会、そして航空学校を設立したのは、勿論のこと
パパであるアタルチュクだったわけですが、彼女はその開校式についていき、
そこで見たグライダーやパラシュートに強く惹かれ、
飛行士になることをその場で決意した、ということになっています。

そしてその場で大統領が関係者に言った

「うちの娘がやりたいといっておるのでよろしく頼む」

と鶴の一声で、彼女は航空学校に入学することが決まり、
22歳にしてパイロットへの道を歩き始めたのでした。

そしてすぐさまソ連に留学し、7名の男子留学生と共に訓練を受け、
翌年に飛行機の免許を取っています。



このように飛行家になることは彼女の希望であったということに
「公式には」なっているのですが、それだけでもなかったようです。

12歳のサビハは最初に大統領の目に留まったとき


「勉強させてほしい」

と直々に頼んで、その後アメリカンスクールに入学したのですが、
その後健康上の理由で中途退学していました。

父親であるアタルチュクが、彼女の学問での自立はもう不可能と考え、
新たな可能性を与えるために道をお膳立てしたとも考えられます。


しかし教育課程では大統領の娘であるからといって、特に彼女が

別の扱いを受けていたということはなかったようです。

もしかしたら大統領には非常にたくさんの養子がいたこと、
そして彼らの学校の成績を気にする厳格な保護者だったことも
彼女のこの扱いに影響していたかもしれません。


そしてソ連から帰国した彼女にアタルチュクは彼女に

「戦闘機パイロットになるように強く」

奨めました。

日本語wikiだとここは「迫った」になっていますが、英語では urged her。
いずれにしても「しきりに奨めた」「急がせた」のニュアンスです。

なぜアタルチュクが彼女を戦闘機パイロットにすることに
こんなに熱心だったのかはどこにも書かれていないのでわかりませんが、
独立戦争と革命の指導者で、自分の信念で一国のトップとなった彼にとって、
その娘にも「世界一」のタイトルを持つ英雄が相応しい、と考えたのでしょうか。

自分の部下や有望な士官を婿にして自分の娘に人並みの女としての幸せを、
とは決してならないのが、
いかにも非凡な人間らしい考えであり、
何度も言いますが
彼女が実子でなかったからということでもあろうと思われます。

こうして父親であり大統領である絶対的な影響者の命を受け、

彼女は戦闘機パイロットを目指し、空軍士官学校の飛行過程に入校します。
飛行学校では、爆撃機と戦闘機を平行して学び、スキルを磨きました。

彼女の生涯における飛行時間は8000時間を超えますが、その間、
彼女が操縦した飛行機の種類は実に22種類を数えます。

空軍のパイロットとしてのデビューは、1937年の「デルシムの乱」でした。
これは少数民族の起こした蜂起でしたが、彼女は自ら名乗りを上げて爆撃機で参戦。
参謀部の報告によると、逃亡する50人の山賊に50kg爆弾を投下し
重大な損害を与えたとされています。

さらに翌年の1938年には5日間で5日間でバルカン諸国を単独で周遊飛行し、
各地で大歓迎を受けました。


この飛行に、当初彼女は整備士を同行させることを希望していたのですが、
普通であれば娘の身を心配するはずの父親はそれに猛反対しました。

「女が一人でやるから意味があるのだ。
男がいれば実績はすべてその男のものと報道される」

というのが理由で、サビハはそれに説得され従ったそうです。

どうも、アタルチュクにとってサビハはいわゆる「肉親」としての娘というより、
なんというか・・・

「チーム・アタルチュク大統領」

の構成メンバーのように考えていたのではないかという節すらあります。


「大統領の娘としての特別扱いはその教育課程では受けなかった」


と先ほど書きましたが、そもそも彼女は士官学校を出ておらず、
つまり身分としては軍人ではない、一般人です。

そういえばこの国民的英雄にしてトルコ人の「永遠のヒーロー」
(英語では女性でもこのようなときにはヒーローという)には
士官学校の飛行過程で学んだにもかかわらず、階級がありません。

つまり軍人ではない、一般人の身分で戦闘行動にも参加していたわけで、
実際にも軍側では実は彼女の扱いに「戸惑っていた」という噂もあります。


つまりこれが大統領の娘であらばこその「特別扱い」だったということです。


彼女が名乗っていた「ギョクチェン」ですが、これは本人ではなく
周りの誰かによって与えられたものだそうです。
もしこの「空」を意味する名前がアタルチュクの命名によるものであれば、
彼はかなり早くからサビハに「空を飛ばせる」ことを考えていたことになります。

「世界初の女性戦闘機パイロット」

は、もしかしたら英雄アタルチュクの伝説の一環として
その父親によって考案され、創造された存在だったのかもしれません。


彼女は現役引退後、自分がかつて学んだ「ティルクシュ(トルコの鳥)」飛行学校
教官を務め、航空協会の理事としてトルコ航空界の発展に努めました。

晩年には自伝も書いていますが、そのタイトルは

「A life Along the Path of Ataturk」(アタルチュクの道を歩んだ人生)

といいました。
彼女がその偉大な父親無しには自分もなかったと思っていることが
何よりもよくわかるタイトルであり、もしこの庇護者に拾われなければ
戦闘機などに乗ることなどまずなかったであろうと
誰よりも本人が痛切に感じていたらしいことを窺わせます。


彼女は死の直前、あるインタビューで
涙ながらにアタルチュクのことを語り、さらには

「トルコ共和国を設立した人物に対して名誉を毀損しようとする」

最近の世情について、強く不満を訴えました。

彼女に取ってアタルチュクは義父というより偉大な指導者であり、
カリスマであり、無謬の、絶対神のような存在だったのでしょう。


2001年3月22日、サビハ・ギョクチェンは入院していた軍医学アカデミーで、
88歳の生涯を閉じました。

彼女の名を取って付けられていた「サビハ・ギョクチェン空港」は半旗を揚げ、
時の大統領は

「アタルチュクの養女であるという名誉に加え、彼女は現代トルコの女性の
象徴としてトルコの人々によってこれからも記憶されるであろう」

という声明を出しました。

1996年にアメリカ空軍の発行した

「20人の歴史的飛行家」

には、男性飛行家と共にサビハ・ギョクチェンの名が挙げられているそうです。









 
 

女流パイロット列伝~ルイーズ・セイデン「タイトル・コレクター」

2014-04-30 | 飛行家列伝

ヒラー航空博物館には、今まで聞いたことももちろん見たこともない
歴史的な航空機が、しかもオークランドとは違って良好な状態で保存されています。

中には事故を起こした航空機がその状態のまま展示されていることも。



おいたわしやといった態のこの飛行機、

THADEN T-1  Argonaut 

という超レア機種です。
1928年、サンフランシスコにある「Thaden Metal Craft Company」が製作し、
そのデザインは Hervert von Thaden(ハーバート・フォン・セイデン)が行いました。



 この機は、その最後の飛行となった1933年、アラスカの凍った河に墜落したもので、
そのわりには怪我人もいなかったそうですが、飛行機の表面を見ていただくと、
トタンのような波状の金属でおおわれていることがわかります。

このセイデンT-1は、アメリカが初めて開発したメタルスキン航空機の一つともいわれ、
西海岸における最初の「オール金属」飛行機です。

アメリカ陸軍からの依頼を受けて開発されました。 



セイデン、という名前をわたしは当初「サデン」と読んでいました。
残念ながら日本語ではこの飛行機そのものについての記述、
ましてやその製作者について述べられたインターネットの資料は皆無だったので、
確かめようもなく取りあえず頭の中でそう発音していたのです。

ところがその後観たアメリア・イアハートを描いた映画「アメリア」で、
例の女性飛行家ばかりの「パウダーパフレース」の様子が描かれており、
そのときにThadenを映画では「セイデン」と発音していたので、
初めて正しい読み方が判明したというわけです。


そのときレースに出場した女流飛行家がタイトルに漫画化して描いた、本日主人公の

「ルイーズ・マクフェトリッジ・セイデン」。

まさにこのとき「パウダーパフ」で優勝したときの彼女の姿です。
彼女はまたお気づきのように、このT-1のデザインを手がけたフォン・セイデンの妻です。



今まで「女流飛行家列伝」でお話ししてきた女性たちは、たとえば富豪と結婚して、
有り余るその資産で飛んだジャクリーヌ・コクラン、夫婦j共同経営で飛行機会社を持ち、
そのテストパイロットを務めていたナンシー・ハークネス・ラブなど、夫の何らかの関与が
あって初めて彼女らが飛行家として活躍することができたという女性と、
全く自力で飛行家となり、実力で有名になったベッシー・コールマンや、パンチョ・バーンズ
そしてブランシュ・スコットなどの二種類に分かれます。

しかし、どうも、「一人でやっていた組」よりも、「夫の協力あるいは財力組」の方が、
結果的に名前を残すことができたような気がします。

あのアメリア・イヤハートも、夫のパットナムが全ての演出を手掛けたからこそ
あれだけ有名になった、というのは彼女の伝記を読めば誰にでも気づくでしょう。
日本でも「アメリア・イアハート」ではなく彼女のことは「パットナム夫人」
という名称が主に使われていたようですし。

つまり財力も社会的な基盤も持たない女性が、ある日突然飛行家として有名になる、
というようなことは、特に1930年代においては、当時の女性の地位を考えても
ありえなかったということです。

それでは、このルイーズ・セイデンも、夫のこのような地位があったからこそ

「当時世界で最もその名を知られていた女流飛行家」

となったのでしょうか。


ルイーズ・マクフェトリッジは、1905年、アーカンソーに生まれました。
小さいころは傘を差して高い場所から飛び降りるような女の子だったそうです。
しかし、裕福な医者の娘であったナンシー・ラブや、お嬢様のパンチョ・バーンズと違い、
10代半ばに飛行機免許を取らせてもらえるような環境に育ったわけではなく、
彼女が飛行機を初めて操縦したのは22歳になった時でした。


学校を出てからルイーズはカンサス州ウィチタのTHTターナー・石炭株式会社で働いていました。
顧客に、「トラベルエアー・コーポレーション」という会社があり、
その会社のオーナーであるウォルター・ビーチは、彼女をすっかり気に入りました。


この「気に入った」が、どういう「気に入り方」だったのか、そこまでは記されていません。
写真を見ると、彼女は美人ではないのですが、何とも言えないボーイッシュな、
しかしキュートな雰囲気を持つ女性で、文字通り「気に入った」のでしょうか。

 (高高度記録挑戦達成後)

ビーチは、彼女を石炭会社から引き抜いて自分の会社で営業担当の仕事を任せます。

この雰囲気から、非常に笑顔が素晴らしく営業に向いていて、
会社に貢献してくれるとみただけで、純粋に「人間を気に入った」ということだとも考えられます。

ここではそういうことにしておきましょう。 


しかしこの話がその辺の「ちょっと気に入った女の子を自分の会社に入社させた」
というだけで終わらなかったのは、彼女を気に入ったという「ビーチ社長
というのが、後の「ビーチ・エアクラフト・コーポレーション」、つまり
あの「ビーチクラフト」を作った航空機会社のオーナーだったからでした。 

新しい職場でもらう彼女の給料にはどういうわけか「飛行機のレッスン代」が含まれていました。
それで彼女は「オハイオ州で初めて飛行機免許を取った女性」となっています。



ビーチの会社「トラベル・エアー」のロゴの入る飛行機の前のルイーズとフォン・セイデン

その翌年、彼女は夫となるハーバート・フォン・セイデンと出会い、
その年の夏にはサンフランシスコで結婚しています。
セイデンの生年月日はわかりませんが、写真を見る限り、かなりの歳の差婚に思われます。
ビーチ社長に気に入られたこともそうですが、年上に気に入られるタイプだったんでしょうか。



それにしても話の展開が早い。

いや、これが普通だったんです。
何年もずるずる付き合っているくせに結婚しようとしないカップルの話なぞ
全く珍しいことでもなんでもない、なんて現代の日本の社会がそもそもおかしいのであって、
昔はアメリカでもこういうのが標準だったんですね。

出会う!気に入る!結婚する!

まるで三段跳びのような段取りが当たり前、って社会でもなければ少子化なんてとても防げませんよ。

おっと、全く関係なかったですか。 


このころにも彼女は取得した免許で輸送の仕事をこなし、
「トランスポートレーティング(評価)」をもつ、史上4番目の女性パイロットとなっています。

夫が航空機製造会社のオーナーで、航空機デザイナーだったことは、
彼女のパイロットとしての挑戦におそらく拍車をかけたのでしょう。

彼女はこのあたりから猛然と女流航空界に頭角を現してきます。
1929年、女性による高度、耐久性、そしてスピードを軽飛行機によっていずれも最高最速値を得、
またその前年は女性による最高高度到達(20260フィート)、さらには
耐久レースで 22時間、3分、12秒の最高記録を喫しています。

このころはジャクリーヌ・コクランなどを筆頭に、女性であっても男性と同様に
飛行機のレースに出場することができました。

しかし、何がどう動いてだれが仕組んだのか、1930年から1935年までの5年間、
女性は「女性であることを理由に」航空レースからは全く締め出されていました。

1929年には、これまで女流飛行家を語る過程で何度か触れてきた

パウダー・パフ・ダービー

が行われています。
女流飛行家ばかり、20名で争われたレースで、この大陸横断レースに
ルイーズ・セイデンも参加しました。

この名前から、女ばかりのなれ合いのようなレースを想像されるかもしれませんが、
決してこれは楽なものではありませんでした。

アメリア・イヤハートはこのレース中墜落して機を失っていますし、
ブランシュ・ノエスは機内火災に見舞われています。
ルース・ニコルズも、パンチョ・バーンズも墜落を免れませんでした。

参加者の一人、マーベル・クロッソンに至ってはこのレース中の事故で墜落死しています。
誰にも目撃されていない間の事故で、彼女の体は飛行機の墜落場所から
150メートルも離れて見つかりました。 
パラシュートが開かれた形跡はなかったそうです。

 この時の順位表を上げておきましょう。

  1. ルイーズ・セイデン
  2. グラディス・オドネル
  3. アメリア·イアハート
  4. ブランシュ・ノイス
  5. ルース・エルダー
  6. ネヴァ・パリ
  7. メアリー・ハイツリップ
  8. オパール・クンツ
  9. マリア·フォン·マッハ
  10. ベラ・ドーン・ウォーカー

以前お話しした美人のルース・エルダー姐さんは、5位に入っています。
機を墜落させたのに、それでも3位に入っているアメリアさんはさすがです。
4位のブランシュさん、機内で火事が発生したというのに立派です。


それにしても、これらの強豪を差し置いて、昨日今日飛行機に乗り始めたルイーズが
この過酷なレースでしれっと一位になっているんですね。
実は、この人、すごいんじゃないですか?

冒頭に制作した画像は、このパウダーパフのときに優勝を決めて着陸した直後の
ルイーズ・セイデンの勇姿を参考にしました。


そして彼女の進撃は留まるところを知らず、1936年、
またまたどういうわけか女性がエアレースに参加することが解禁になってすぐ、
ルイーズはニューヨーク―ロスアンジェルス間の到達時間を競う

ベンデックス・トロフィ・レース

に出場。
男性に女性が挑戦することを許された最初の年のこのレースにおいて、
なんと、14時間55分で世界記録を更新し、これまたしれっと優勝しています。
この時の使用機はあのビーチ社のビーチC17Rスタッガーウィング

この時の二位も女性で、ロッキード・オリオンで飛んだブランシュ・ノエスでした。
この時にタイム誌にはこんな記事が掲載されています。


「ミセス・セイデンは賞金7000ドルを得たが、それとて男性を差し置いて優勝したという
喜びに比べれば何の価値もないに違いない。
アメリカで最初に輸送用の飛行機免許を取った10人の女性のうちの一人が、
今や第一線で「男女の戦い」を繰り広げる「戦士」になったのだから。

クシュクシュのブロンドヘアーをしたセイデン夫人は6歳の子供の母親、そして
速度、高度、耐久時間においてすべての女性最高記録保持者である。

(中略)ノエスとセイデンの二人は先週記者会見を行い、にこやかにほほ笑みながら語った。

”まあ、本当に驚きましたわ!
どうせわたしたちはびり(
the cow's tail)だと思っていたので”


実は自信満々だったとしても、当時の女性としては反感を買われたくないので
このように言うしかなかったのかもしれません。
 

この後、彼女は別の女性パイロットと組んで耐久レースに出場しており、
その模様は全米の注目を浴び、ラジオでライブ放送されたほどです。
196時間の耐久時間を記録したこのレースでは、別の飛行機から食料と水の補給を受け、
さらには当時軍でも開発真っ最中であった空中給油を行っています。 

引退直前、彼女は夫の会社の開発したセイデンT-1 がすでに生産を中止していたこともあり、
古巣のビーチクラフトにもどってテストパイロットを務め、1938年に
全ての公的飛行から完全に引退してしまいます。

このときまだ彼女は33歳。
ほかの女流飛行家が引退などどこ吹く風で飛び続けたのに対し、
トップを走り続けた彼女は、全盛期で、しかも世界一のタイトルを奪われないうちに
あっさりと人々の前から姿を消したのでした。
そしてその後自伝を書きましたが、そのタイトルは

 ”High, Wide and Frightened”

たまたま才能に恵まれた女性が、その才能を引き出す男性にも恵まれ、
本人もあれよあれよという間に一線のパイロットになってしまったものの、
実は彼女は、魂の底から湧き上がってくるような「飛びたい」「勝ちたい」
という野望とは無縁の、おっとりした普通の女性であったのではないか。

このタイトルを見ると、そのように思えてなりません。


引退後の彼女は、74歳で亡くなるまで、楽しみでしか飛ぶことはありませんでした。


 




女性パイロット列伝~ブランシュ・スコット「空飛ぶトムボーイ」

2014-04-11 | 飛行家列伝

アメリカの航空博物館をはしごして、各々女流飛行士のコーナーがあったので、
それをもとにいくつかのパイロットを取り上げてみました。

アメリア・イヤハートに始まって、映画女優になったルース・エルダー、
スタント飛行のパンチョ・バーンズ、そして

フランスの「女性将軍」ヴァレリー・アンドレ。
黒人飛行士のベッシー・コールマンや、ソ連のエース、リディア・リトヴァク。

「女性だから、美貌だから」

というカテゴリーから 抜け出して純粋にパイロットとして有名だったのが
全員というわけではありませんが、少なくとも
「黎明期に逆境をはねのけて挑戦した」という女性たちであることは確かです。


 

いずれも女優さんのような雰囲気をお持ちの美女ばかりですが、
冒頭写真を含め彼女らは有名パイロットというわけではありません。

ここベイエリアには、今でも99s、ナインティナインズという
女性パイロットのための飛行クラブがあって、奨学金で後進の育成をしたり、
互いの交流を深めたりといった活動をしているのですが、
この女性たちはその99s黎明期の創設メンバーだそうです。

冒頭画像はマリアン・トレース、下二人左からアフトン・レヴェル・ルイス
そしてフィリス・ゴダード・ペンフィールドのみなさん。

もしかしたら容姿端麗であることも入会条件だったのか?と思いましたが、
そういうわけではもちろんありません。

フィリス・ゴダード・ペンフィールドは、この会の創設メンバーですが、
わたしが昨年の夏滞在していたCAのパロアルトで
飛行学校を経営していたゴダードと結婚後、
そのゴダードが飛行機事故で死亡したので彼の遺志を継いで
本格的に飛行の世界に脚を踏みいれたという女性です。

しかしどうでもいいですが、このころのアメリカ女性は今と違ってスマートですね。
やっぱり食べているものが全く違ってたのかしら。


このベイサイドには小さな飛行場がそれこそあちこちにあって、
自家用車のように
飛行機を所有している人が利用していますから、
女性のパイロットも多いのでしょう。

冒頭画像に描いたマリアンは、このクラブにいた関係で、初めてアメリカが
旅客機運行を始めたときに客室乗務員となった最初の女性となりました。
つまり、アメリカのキャビン・アテンダント第一号です。

パイロット資格を持っていながら仕事がスチュワーデス?
とつい思ってしまいますが、
昔はアメリカでも敷居の高い職業でしたし、
「最初の」となるとなおさらです。

今の「Kマートのレジよりはちょっとマシ」程度の、アメリカにおける
航空会社客室乗務員の地位の低さからはとても考えられませんが。


さて、というところで本日の主人公です。



”空飛ぶトムボーイ” ブランシュ・スチュアート・スコット
(1885-1970)


昔むかしの少女漫画ではこういうメガネをかけたオバサンは、かならず
「そうなんざーます」

としゃべる金持ちマダム(あるいは教育ママ)と相場が決まっていました。 

んが、このざあますマダムが若かりし日「トムボーイ」(おてんば娘)と
呼ばれていたことがあろうとは・・・・。

男子三日会わざれば括目して見よといいますが、女性は数十年もたつと
別の生き物のように雰囲気が変わってしまうものですね。
「変わった」の意味はまったくちがいますけど。


それはともかく、このブランシュ・スコット、こう見えてアメリカで
単独飛行を成し遂げた最初の、ってことは世界でも最初ですが、
女性というすごい人なんざあます。


1910年、彼女はあの、グレン・カーチス(もちろんカーチスの創業者ですよ)に
採用されて、彼の飛行グループに加わり、宣伝のためのエキジビジョン飛行を行いました。

グレン・カーチスはもともとオートバイの分野でのエンジン製作の先駆で、
そのエンジンを航空機に生かすことを思いつき、ついでに飛行機の操縦を習い、
ちゃっかり

「史上初めての飛行機免許を取ったアメリカ人」

の地位を獲得しています。
ライト兄弟の初飛行は「公認」ではなかったからですね。

ライト兄弟は不満だったでしょうが、彼らが免許を受けたのは、史上

「4番目と5番目」

だそうです。
兄と弟どちらが先だったのかまではわかりませんでしたが。

そのせいだけではもちろんありませんが、カーチスとライト兄弟の係争は
その後飛行機の開発を巡って、法廷にまで持ち込まれたりして泥沼化します。
病気で兄を失った弟のオーヴィルは、その死因を
「心労によるストレスで、これはカーティスのせいだ」などと言ったりしたそうですが、
ここでは関係ないので割愛します。


ただ、第一次世界大戦がはじまり、その後当人たちが一線から退くと、
カーチス・エアロプレーン・モーター社ライト・マーチン社は合併して、
呉越同舟会社カーチス・ライト・コーポレーションが設立されました。

ちょっといい話ですね。そうでもないか。


さて、スコット嬢は元々パイロットであるカーチス本人に飛行機の操縦を習っていました。
カーチスは、女性である彼女を表に出せばさぞ宣伝になると思ったんですね。

彼の読みは当たり、スコットはたちまち「トップ・セラー・パイロット」となり、
週に当時の五千ドル(50万円)稼ぐ「稼ぎ頭(がしら)」となりました。 

彼女のスタントの中で最も人気のあったのが”デス・ダイブ”、死のダイブ。
4000フィート(1.2km)上空からほぼ直角にダイブして
地面ぎりぎりで機首を上げるという
非常に危険な技でした。

今の性能のいい航空機と違って(それでも危険ですがこの頃は複葉機ですからね。
”Tomboy In The Air"のあだ名はだてではありません。


ブランシュ・スコットが生まれたのは1885年。
彼女の父親は特許薬を製造販売して成功した実業家で、超資産家。
つまり彼女は正真正銘お嬢様だったんざあます。

当時、車を所有できる人間はアメリカと言えどもそういなかったという時代に、
しかも免許取得年齢に達してもいないころから、彼女は
娘に甘かった(に違いない)パパに買ってもらった自家用車を乗り回していました。

当時のおぜうさまですから、当然フィニッシングスクール
(花嫁学校みたいなもの)に通ったりもしているんですが、
どうも彼女は根っからの「おてんば」だったようです。


それも、その辺を乗り回すというような可愛いものではなく、
ニューヨークからサンフランシスコまで、つまり

アメリカ大陸を自動車で横断しており、
この記録はアメリカ史上二番目の女性だったという筋金入りです。



ちなみにわたくし、東から西海岸に引っ越す機会に大陸横断を計画しましたが、
クルマそのものに不安があったのと、時間がなく、どう考えてもスケジュールが
一日中走り続けて、それ以外は寝て食うだけの一週間の強行軍であることがわかり、
運転するのがわたし一人で、息子がまだ二歳児だったため断念しました。

今にして思えば、あのときが気力的にも年齢的にも、
時間的にもそんな無茶をする最後のチャンスだったので、
残念と言えばいまだに残念なことのひとつです。

車に不安があったとはいえ、それはせいぜいSUVじゃないから程度で、
彼女の乗った1900年当時自動車の性能と比べれば、
5年落ちのカムリも
現代の車はスーパーカーみたいなものですからね。 



さて、そんな彼女が当時の「はやりもの」であるところの
『飛行機』に目を奪われないはずがありません。

で、その辺の飛行学校ではなく、カーチス直々に操縦を習っていたわけですね。

さすがはお嬢様、きっとパパが財界のつてでカーチスに

「ああ、きみきみ、うちんとこのはねっ返りがねえ、
飛行機乗ってみたいと言っておるんだが、
ひとつ教えてやってくれんかね」


と頼んだりした経緯でもあったのではないかと思われます。

日銭を稼ぐ必要など全くないのですから、
彼女がこの後スタント稼業に飛び込んだのは、

ひとえにおてんば娘の血がスリルそのものを求めたからでしょう。



カーチスが宣伝パイロットにスカウトしたのは彼女が美人だったから?
と最初思ったのですが、
これを見る限り失礼ながら
富豪の令嬢にしてはあまりにもっさりしていて
・・・・・・
うーん・・・・・・・・・。


アメリカで最初に飛行機を操縦した彼女ぐらいしか、
他に適当なのがいなかったので

カーチスとしては選択の余地がなかったのか・・・・(失礼だな)。

そのへんは、航空黎明期ゆえ、女性専用のお洒落な飛行服がなかったせい、
ということにしておきましょうか。
馬子にも衣装ということですし、その逆もまた真なりってことで。



まあとにかく、当時は「女性」というだけで珍しがられ、
それだけで価値があった、
そういうことにつきると思われます。
(さらに失礼だな)


しかし若い時はともかく、マダムになってからの彼女って、
結構美人の面影ありますよね?

それに、



アメリカの切手になったこの肖像だって、結構な美人に見えなくもありません。



さらに最近こんな画像も見つけました。
まあ、こんなものを着ていたら大抵の女性はきれいには見えますまい。


6年スタント稼業を務めて彼女はあっさりと引退しますが、その理由は、
主に世間の彼女に対する「いつ事故を起こすか」というような好奇の目、
そして航空界の女性に対する排他的な体質に嫌気がさしたためだといわれており、
その時にこんな自嘲的な言葉を残しています。

「当時航空の世界に女の居場所なんてなかったわ。
エンジニアも、メカニックも、もちろん飛行家もよ。
多くの観客はわたしの首が折れる瞬間を観るためにお金を払ってたのよ。
『飛ぶフリーク』を見るためにね」

フリーク、という言葉は訳すといろいろと問題がありそうなので、
そういう言葉狩りに与するつもりはありませんが一応そのまま記します。

裕福すぎるほど裕福な家庭に育ち、さらに人のうらやむような
「玩具」を手に入れた彼女。

空にはばたくことで、より自由になるはずだった・・・。

ところが、実際は「空を飛ぶ女」というのは、
彼女がかつて花嫁学校である
「フィニッシングスクール」で教え込まれた
「あるべき女性の好ましい姿」とは正反対なもの、
というのが世間の、
そして航空界にいる男たちの認識で、一歩中に入ってみると
そこには
「道を踏み外した女」への好奇と揶揄、そしてなにより
反発が渦巻いていることに、
お嬢さんであった彼女は初めて気づき、
その育ちゆえ一層傷ついたのではなかったでしょうか。 


飛ぶことをあっさりやめた彼女は、その後脚本家として、
ワーナーブラザーズや
ユニバーサルスタジオの仕事をします。
あっさりとこんな仕事に就けたのは、彼女の家の力と思われがちですが、
むしろこれは飛行家として売った名前が実質役に立ったのかもしれません。

そして、1970年、彼女、ブランシュ・スチュアート・スコットは85歳の・・・、
おそらく本人も満足であったに違いないドラマチックな人生を閉じました。

 

ところで、彼女はもう一つの「初めての女性」のタイトルを持っています。

「ジェット機に乗った世界最初の女性」

というのがそれで、その初飛行は1948年。
彼女を乗せたジェット機を操縦していたのはあの!

名テストパイロット、音速を超えた男、チャック・イェーガー

イェーガーはその際、同乗者を63歳の女性ではなく、
かつてのスタントパイロットとして扱い、

遠慮なくロールや急降下を繰り返したそうです。

彼女がそのあとどんなことを言ったか、残念ながら
資料には残されていないようですが、
わたしとしては
TF-80Cから地面にすっくと降り立った彼女には、
メガネをかけなおしながらこう言っていてほしい。


「わたしが乗っていた飛行機より、ずっと安定していて
カウチにいるくらい退屈だったざますわ!」


 

 

 

 


女流パイロット列伝~ナンシー・ハークネス・ラブ「クィーン・ビー」

2014-02-06 | 飛行家列伝

ボストンの離れ小島、マーサス・ヴィニヤード。

「マーサのブドウ園」

という名前を持つケープコッド近くのこの島は、国内の著名人が多く住み、
生活費は国内平均の60%高く、住居費はほぼ国内平均の二倍。

ジェームス・テイラー、ポール・マッカートニーなどの住人や、
クリントン夫妻のように夏の間だけの住人となる有名人は枚挙にいとまがありません。

ケネディ家の別荘があり、かつてエドワード・ケネディが事故を起こしたり、
JFKの息子ジョンの操縦する小型機が墜落したり、
あるいはジョン・ベルーシの墓があって墓参りする信奉者が住民の不興を買ったり、
何かと派手な事件や話題にもことかかない島です。

わたしはここに一度遊びに行きましたが、エドガータウンは見事に統一された雰囲気の
「白い家」ばかりで、おそらくこれは住民の間で暗黙のルールとして決められた色なのだろうと
感心しながら話し合ったものです。
町中がそのようなセレブリティの矜持と排他性を感じさせる空気に満ちており、
美しくはあるが決して「よそ者」を受け付けない町、そのような印象を持ちました。


1976年、このセレブリティの住む町で、一人の女性が亡くなりました。
ナンシー・ハークネス・ラブ。
本日画像は彼女の写真をもとに制作しました。 

今まで何人かの女流パイロットをモデルに漫画タッチで描いてきたのですが。
この画像では、実は目の大きさ以外ほとんどデフォルメしていません。
細面の顔、くっきりした二重まぶたは、ほとんど写真の通りです。
いや、実に漫画的な美貌でいらしたようですね。

あまりこの図からは想像できませんが、彼女はエアフォース・オフィサー。

タイトルはルテナント・コロネル、つまり空軍中佐です。
彼女は、先日エントリに挙げたジャクリーヌ・コクランと並んで、
最初に米軍軍人となって空を飛んだ女流飛行士でした。



ナンシーは1914年、ミシガン州の裕福な医師の家庭に生まれました。
ニューヨークの名門女子大
ヴァッサー・カレッジマサチューセッツ・ミルトンアカデミー
に学んだ
「才媛」でしたが、早くから飛行機に憧れ、
16歳の時には飛行機の免許を持っていました。


どうもいたずら好きのお転婆だったらしく、ミルトン在学中のある日、飛行機で
近隣の男子校の上空を「急襲」し、低空飛行でグラウンドの上を飛び、
チャペルを避けるために
急上昇などをして皆を驚かせています。

びっくりしてこの若い女性の「狼藉」を観ていた一人が機体のナンバーを書きとめ、
近隣の空港に通報して、誰が操縦しているかが突き止められました。

皆の注目を浴びていい気持ちで学校に帰ったナンシーを待っていたのは学校関係者。
しかし、彼らは彼女が飛ぶことをやめさせることはできませんでした。

確かに学校側は当時、生徒の車の運転を固く禁じていましたが、
「飛行機を操縦しないこと」というルールはどこにもなかったからです。

彼女はしかも後年、ミルトンの学生に飛行機を貸してそれで商売までしています。
ミルトンはどうやら「飛行機操縦禁止」を彼女の「飛行問題」以降も
学校の規則に加えることはしなかったようですね。



1936年、彼女は当時陸軍航空隊の少佐であったロバート・ラブと結婚します。
プリンストンとMIT(マサチューセッツ工科大学)というこちらも名門校の卒業生でした。

それにしても、「LOVE」という名前が存在するというのには少し驚いてしまいますね。
映画「タイタニック」に、「ラブジョイLovejoy」という名前の人物がいましたが、
これはそのものズバリです。

この結婚によって彼の名前に変わったナンシーは、後に三人の娘を設けました。

パイロット同士の夫婦は、共同で飛行機会社をボストンに設立し、
彼女は自社のテストパイロットとして飛び、会社は受けに入ります。

1940年5月、彼女は陸軍航空隊の輸送部隊を設立したロバート・オールズ中佐に、
女性パイロットによる航空機輸送部隊を作ることを提案する手紙を書きます。
次いで彼女は49名の、飛行時間を100時間超える女性パイロットをリストアップし、
それを提出しましたが、オールズ中佐の上官ハップ・アーノルド准将はこれを却下。

理由は、どうやら、彼女たちに向けられる世間の偏見を体面上気にした、というところです。
「同性愛者か、そうでなければ商売女のようなあばずれの集団」
と言われるようでは、軍にとっても面子は丸つぶれだと考えたのでしょう。
(これはとりもなおさず、彼自身の偏見であったということなのですが)

しかし、意外なところから活路は開けます。
真珠湾攻撃以降、彼女の夫はワシントンの任務に転勤になり、彼女もそれに付き従うのですが、
会社のオフィスはボルチモア州のメリーランドにあったため、毎日そこまで自家用機で通勤しました。

そんなある日、夫のロバートが、輸送部隊のロバート・ターナー大佐と(どうでもいいけど、
この話の登場人物はどうして名前が皆ロバートなのか)雑談していました。
以下エリス中尉の妄想です。

「グッドモーニング、サー」
「モーニン、ボブ。毎日時間に正確だね」
「はあ、うちの家内の通勤の関係上、家を出る時間がいつも早いもので」
「ああ、会社を持っていたんだったな。それが遠いんだね」
「ええ、ボルチモアです」
「What a heck! そんな遠くまで毎日列車通勤しとるのか」
「No way! (笑)飛行機ですよ。彼女が自分で操縦していくんです」
「Holy Moly! なんだって?ユアワイフは免許を持っているのか」
「持ってるなんてもんじゃありませんよ。彼女はうちのテストパイロットです」

「・・・・・・・・ボブ、その話をもう少し詳しく聞かせてくれないか」

ちょうどターナー大佐は運輸専門の人員を集める任務にあたっていたからですが、
さらにナンシーのパイロットとしての技術を確かめるに従い、彼女が当初立案した
「女性だけの輸送航空隊」を本格的に始動させようと動きます。

パイロットを集めるのも彼女の仕事でした。
そのリクルートに当たって、彼女はパイロットたちにくれぐれも世間の目を気にするよう、
たとえばこんなことを言っています。

「WAFSが成功するもしないも、あなたたちが世間の偏見をはねのけられるかどうかです。
くれぐれもスキャンダルだけは起こさないでください。
男性パイロットと同乗することも避けるように。
WAFSが男性と一緒に飛んでいるところを世間が見たら、それはきっと
公費を使って一緒に部屋で過ごしているようなものだと思うからです」

今から見ると、考えすぎだよ、という気もしますが、もともと計画が立ちいかなかった原因を
彼女はよく認識しており、そのリスクをできるだけ排除したかったのでしょう。

それでなくてもマスコミと世間の彼女たちに対する注目は大変なもので、
ナンシー・ラブのことは

「今最も注目されている『脚の美しい六人の女性のうちの一人』」

などという揶揄交じりのセンセーショナルな記事がライフに載ったくらいでしたから。

これからわずか数か月後、

女性補助輸送部隊(Women's Auxiliary Ferrying Squadron)
WAFSが誕生し、ナンシーはその部隊29名の隊長として任命されます。


前回お話ししたジャクリーヌ・コクランは、
いわばナンシー・ラブの「ライバル」と見られていました

二人が女子航空輸送部隊の設立を、しかも同じオールズ中佐に訴えていたのは、
その経緯を見る限りどちらが先かはわからないのですが、
コクランがルーズベルト大統領夫人に手紙を書いたというのが40年の9月。

どうもわたしはこのコクランという女性の、特に前半生は、妙に功名心だけが先走っているせいか、
「女子部隊設立」に動いたのも、どこかでナンシーのことを聴きつけた彼女が、

「彼女が失敗しても、わたしならきっと成功させられるに違いない。
なんといっても夫は富豪の名士だし、ルーズベルトとも知己があるのだから」

と競争心を燃やしたのではなかったかと思えて仕方ありません。

しかし、同時に二人の有名な飛行家が同じ土俵に立った結果、
結論として陸軍が最初に「顔として採用した」のはエリート軍人を夫に持つラブでした。

これは、どうやらコクランにとっては屈辱であったらしく、
WAFSの初代司令がラブに決まったということを聞いた途端、
それまでイギリスで現地の女子航空部隊を視察して、帰国したばかりであった彼女は
すぐさま再びイギリスにもどっています。

そして、さらにイギリスで巻き返しを図り?、帰国後は別の女性部隊
女性飛行練習支隊(Women's Flying Training Detachment)
通称WFTDを作り、めでたく?その司令となったのでした。

よかったですね(棒)



陸軍という男の掌の上での二人の女の戦い、みたいな構図ですが、
彼女らがお互いについてどう思っていたのかについて記されているものはありません。

1943年にはコクランとラブの二つの部隊は統合され、
空軍女性サービス・パイロット(Women Airforce Service Pilots)
WASPになります。


ナンシー・ラブは、WASPの輸送部隊のヘッドとなり(本日のタイトルはここから付けました)
その指揮下で、第二次世界大戦中アメリカ軍が使用した航空機のすべてを
1944年の解散までの間に輸送する任務に携わりました。

ちなみにラブが輸送にフォーカスしたので、コクランがWASPの司令になっています。

あくまでも動機は「地位と名声」であったコクランに対し、ラブの「女子部隊創設」は、
純粋に飛行家として自分ができることを追求した結果だったという気がします。
(わたしがコクランに点が辛いことを考慮してお読みくだされば幸いです)


あくまでも現場で飛ぶことにこだわったラブは、
P-51ムスタング戦闘機、C-54スカイマスター輸送機、
そしてB-25ミッチェル爆撃機を操縦した最初の女性となりました。

戦闘には決して加わらない、という前提で創設された女性部隊ですが、女性飛行士の効用は
こんな点にもありました。

つまり、女性特有の慎重な操縦によって、未知の、あるいは評価の決まってしまった航空機さえも、
安全に乗ることができるということをデモンストレーションできたのです。

ターナー中佐によると、

「男性パイロットに『空飛ぶ棺』と言われていたP-39の評価を変えたのも
彼女たちによるところが多い」

ということです。

とはいっても、やはり女性の輸送部隊を戦時中に運用することは、何よりも
もし敵機に彼女たちの機が撃墜された時に巻き起こる非難を恐れて、
軍の上層部はそれを積極的に推し進めることは結果的にできませんでした。


英国から要求されているイギリス内地へのB-17の輸送を行うことになった時です。
ターナー大佐は、ナンシー・ラブにそれを行う最初の女性になることを命令しました。

彼女と副操縦士がセットアップをしているときに、ある人物がこの話を聞きつけました。

最初に「女子部隊なんて」とこれを排除した、ハップ・アーノルド長官です(笑)

まさにエンジン始動をしようとしていたラブは、タキシングの停止命令を受け、機を止めました。
翼の下に走ってきたジープから、長官命令を書いた紙が彼女に渡されました。

"CEASE AND DESIST,
NO WAFS WILL FLY OUTSIDE THE CONTIGUOUS US"


「停止せよ WAFの海外への航行はない」

初めての女性飛行士によるB-17離陸の歴史的瞬間を写真に収めようとしていたカメラマンは、
不承不承B-17から降りてきた二人のパイロットの写真を撮るしかなかったのです。

このB-17のニックネームは、奇しくも「クィーン・ビー」と言いました。

ナンシー・ラブ(左)とベティ・ギリーズ

戦後、彼女と彼女の夫は戦時中の功績に対し、同時に軍から殊勲賞を授与されています。



さて、月日は流れて1976年。
もう一度舞台はマーサスヴィンヤードに戻ります。

戦後、公的生活を退いてからこの島で三人の娘を育て、彼女は穏やかな生活を送ってきました。
現役を離れてもWASPにいたときの部下たちは彼女を慕い、生涯の友となった者もいます。

彼女が亡くなった時、かつての「クィーン・ビー」は62歳。死因は癌でした。


その遺品の中には、彼女が30年に亘って手元に置き続けた小箱がありました。
そこには、
かつて彼女が司令として指揮を執り、
その命令遂行中殉職した、
WASPの部下たちの写真が何枚も収められていたそうです。