goo blog サービス終了のお知らせ 

ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

アメリア・イアハート(と上顎洞炎)〜スミソニアン航空博物館

2022-10-07 | 飛行家列伝

今日は久しぶりにスミソニアン航空宇宙博物館の展示をご紹介します。


国立航空宇宙博物館、通称スミソニアン博物館の航空界のレジェンド、
ミリタリーに対して一般の部の代表は以下の人々です。



リンドバーグ夫妻(夫婦でレジェンドってすごくない?)
ドーリトル、そしてアメリア・イアハート。

ちなみに、ここに挙げられているのは上段から下の通り。

アメリア・イアハート

ウィリアム・パイパー
(航空機メーカー、パイパーエアクラフト創業者)

ロバート・ゴダード
「ロケットの父」

ジミー・ドーリトル

ヘルマン・オーベルト(ドイツ)
ロケット工学者

チャールズ・リンドバーグ

コンスタンチン・ツィオルコフスキー(ロシア)

ロケット工学者「宇宙旅行の父」

クラレンス・ギルバート・テイラー
(初期の航空起業家 航空事故死)

アン・モロー・リンドバーグ

この中で、航空に詳しくなくとも写真だけで誰かわかるのは、
リンドバーグとアメリア・イアハートの二人でしょう。

今回は、スミソニアンの展示から、アメリア・イアハートを取り上げます。


■ アメリア・イアハートとロッキード・ヴェガ

スミソニアンには、彼女のトレードマークとなった真っ赤なヴェガが
そのまま展示されて実物を見ることができます。



「この飛行機で、アメリア・イアハートは二つの偉大な
航空記録を打ち立てました。
1932年の大西洋横断飛行とアメリカ大陸無着陸横断飛行で、
そのどちらもが女流飛行家としては初めての記録でした」

アメリア・イアハートってどんな人?

●当時最も有名だった飛行家の一人

●記録を打ち立てたパイロット

●航空業界のプロモーター

●メディア界のスター、セレブリティ

●女性にインスピレーションを与えるロールモデル

●永遠の謎の中心である悲劇の伝説のヒロイン

ロッキード5B ヴェガ

ヴェガはその後の偉大な航空機会社の一つとなった
ロッキードエアクロフトによって製造された最初のモデルです。

頑丈で、広い居住性を誇り、合理化されたシステム、高速で
革新的なヴェガは、速度、距離でさまざまな記録に挑戦していた
当時のパイロットたちに熱い支持を受けるようになりました。

イアハートは、1930年から1933年まで、
この真っ赤なヴェガを所有していました。

■ アメリア・イアハートのバイオグラフィ


アメリア・メアリー・イアハートは1897年カンザス州アチソン生まれ。

父親のエドウィン・イアハートは弁護士になろうとしていましたが、
元連邦判事で、アチソン貯蓄銀行の頭取であり、町の有力者という
母親の父は、当初娘とこの男性の結婚に賛成していなかったそうです。

一族の慣習により、2人の祖母の名前をとって
アメリア・メアリーと名付けられたイアハートですが、
そんな古き良き慣習を持つ家系でありながら、
母親は子供たちを「いい子」に育てようとは考えていなかったため、
例えば女の子がスカートを履くのが当たり前だった当時、
彼女ら姉妹は自由に動けるという理由でブルマーを穿かされていました。

祖母たちはもちろん孫のブルマーにはいたく不満だったようです。

【おてんばアメリア】


イアハート家の姉妹は冒険心いっぱいの幼少期を過ごしています。
毎日近所の探索に出かけて木に登り、ライフルでネズミを狩り
そりを「腹ばいにして」滑降して長時間遊び続けました。

まあ、この頃そういう幼少期を過ごす子供は珍しくもないと思いますが、
多くの伝記作家は幼いイヤーハートをおてんば娘と評したがるようです。

姉妹は「ミミズ、ガ、キリギリス、ヒキガエル」を飼い、
外出のたびにそのコレクションは増えていきました。

ある時彼女は、セントルイス旅行で見たジェットコースターを模して作り、
道具置き場の屋根にタラップを取り付けて、実験を行いました。

この「初飛行」はソリが破壊され、劇的な幕切れとなってしまいます。

しかし、彼女は唇に怪我をし、破れた服で、
ソリ代わりの壊れた木箱から「爽快な感覚」を味わいつつ、出るなり、

「ああ、ピッジ、まるで空を飛んでいるみたいだった!」

1907年、父親はロックアイランド鉄道の保険金支払担当者に転職したため、
家族はアイオワ州デモインに転勤したのですが、
ここで彼女は初めて複葉機を見ています。

父親が飛行機に興味を持たせるために載せようとしたのですが、
彼女はメリーゴーラウンドの方がいいと冷淡でした。

後に彼女は複葉機については

「錆びた針金と木のもので、全く面白くなかった」

としか思わなかったようです。
なんか思ってたのと違った、って感じだったのでしょうか。
飛行機に対してはそう過大な期待も持っていなかったようですね。


幸せな子供時代を過ごした彼女ですが、父親はアルコール依存症で
家計は困窮し、家と家財道具を売るまでになります。
そう言った家庭環境が影響したのか、彼女の高校の卒アルには、

「A.E・・・いつも一人で歩いている『茶色ばかり着ている子」

という、彼女の隠キャぶりが窺い知れる言葉が書き込まれています。

彼女は問題の多い子供時代を過ごしながも、決して自暴自棄にならず、
将来のキャリアについてはそれなりに夢を持っていました。

映画監督や制作、法律、広告、経営、機械工学など、
主に男性向けの分野で成功した女性について
新聞の切り抜きをスクラップブックにしていたということです。

【看護助手として】


第一次世界大戦が激化した頃、イヤハートは
帰還した傷病兵を目の当たりにして、赤十字で看護助手としての訓練を受け、
陸軍病院のヴォランタリー・エイド分遣隊で働き始めました。

仕事内容は、厨房で特別食の患者のために食事を用意したり、
病院の診療所で処方された薬を配るというものでしたが、
ここで彼女は将来を決定する大きな出来事に遭遇します。

帰還してきた軍のパイロットから話を聞き、
飛行に興味を持つようになるのです。


【スペイン風邪と上顎洞炎】

1918年にスペイン風邪が大流行した際、イヤハートは
陸軍病院での夜勤を含む過酷な看護業務のせいで、肺炎になり、
続いて上顎洞炎を経験しています。

ちょっと驚いたのは、何を隠そうこのわたしも、
歯性の上顎洞炎のため、帰国後に入院手術を予定しているってことです。


というか、皆様がこれを読んでいるときには、
手術が済んでいる頃となります。

今回、たまたまお中元のお礼の電話をかけてくれた知人の医師が
ほとんど同じ症状で今から病院に行くところだと聞き、
何たる偶然の一致、と驚いていたのですが、その後、まさか、
アメリア・イアハートと自分が同じ病気だったと知ることになろうとは。

彼女がこの症状を発症した原因は 1918年11月初旬にかかった肺炎でした。

発病から2ヶ月後の12月には退院したのですが、副鼻腔炎を併発してしまい、
片目の周りの痛みと圧迫感、鼻孔と喉からの多量の粘液排出を見ています。

わたしの場合は、昔の歯医者の歯根の治療がいい加減だったため、
上の奥歯の根の先が溶けて、と薄い骨一枚で隔てられている上顎洞に
虫歯菌というか細菌が入り込んで炎症を起こしたものです。

アメリアのように痛みや圧迫感はありませんでしたが、
ヨガなどしていて長時間俯いていると、粘液がつつーっと出てきて
鼻の奥の異臭に「あれ?」と違和感を感じだしたのがきっかけです。

手術を受けるに至ったきっかけは、足首のアザでした。

ある日、両足首外くるぶしの上に、綺麗にお揃いのアザができてしまい、
すわ、急性骨髄性白血病か?夏目雅子か?と調べてみたら、
副鼻腔炎で脚にアザができることがある、と書いている医師がいたのです。

念の為検査したところ、血液の方には異常がなかったので、
この大元はもしかしたら副鼻腔炎で、咽頭を通過して体に吸収された膿は
引力の法則で体液に混じって下の方に運ばれ、
足首にアザを作っているんではないかと自分なりに診断したわたしは、
(二人の医師に持論を展開してみたところ、それは違う!と言われましたが)
これは放置してはいかんだろう、とまず大学病院に行くことにしました。

手術の前に一応抗生物質を飲んで様子見したのですが、効かなかったので、
アメリカから帰ったら手術でバッサリやってしまうことにしたのです。

アメリアの場合は抗生物質がまだ普及していない時代だったので、
彼女は根治のため患部の上顎洞を洗浄する、痛みを伴う手術を受けています。

この頃の副鼻腔炎の手術がどんなものだったのかはわかりませんが、
わたしの予定している内視鏡による手術でも、入院は一週間と
かなり大変そうな感じなので、多分彼女はもっと辛かったと思います。

しかも彼女の手術は成功せず、頭痛はさらに悪化したそうです。

こののち彼女がいわゆるセレブリティ、時代の寵児になってからも、
慢性副鼻腔炎は後年の飛行や活動に大きな影響を与え、

「小さな『ドレインチューブ』を隠すために
頬に絆創膏を貼らなければならないことがあった」


と書いてあるのを見てひえええ〜と怯えました。

電話の医師も

「昔は外から穴をあける手術しかなかったんですよ」

とおっしゃってましたが、まさかパイプを頬から外に出していたとは・・。

辛かったねアメリア・・・。



■ 飛行機との出会い

イアハートは後年、

「私がコロンビアで経験した最初の冒険は、空中を飛ぶことだった。
図書館の最上階に登り、それから入り組んだトンネルの中に降りていった」

と自分と飛行機との出会いをこう語っています。

ある日イアハートは若い女性の友人と一緒に
トロントで開催されたカナダ国立博覧会の航空フェアを訪れました。

その日のハイライトは、第一次世界大戦のエースによるデモでしたが、
上空のパイロットは、人々から少し離れたところで見ていた
イヤハートと彼女の友人二人に向かって飛んできたといいます。

誰だかわかりませんが、彼はきっと自分に言い聞かせたのでしょう。

"Watch me make them scamper "
(あの娘たちがびっくりして逃げるのを見よう)

と。

パイロットも所詮は若い男性。
クラスの気になる女の子にきゃーと言わせたい的な、
子供っぽい悪戯ごころのなせることだったのに違いありません。

しかし飛行機がが近づいてきても、イヤーハートは動きませんでした。

「聞き取れなかったけれど、あの小さな赤い飛行機は、
通り過ぎる時、わたしに何か言っていたと思う」

彼は後年、自分が目をつけて脅かした若い女の子が
歴史に残る飛行家になったと知っていたでしょうか。


彼女は1919年にはスミス大学への入学を準備していましたが、
気が変わり、コロンビア大学の医学部などに入学しています。
どちらの大学もいくら当時でもそう簡単に行けるところではありません。
(スミスはリンドバーグ夫人となったアン・モローの大学です)

ところがわずか1年後、カリフォルニアの両親のもとへ行って
一緒に暮らすために、大学をやめてしまいました。

この即決ぶりは、よっぽど学校が肌に合わなかったんだろうな。


■『わたしは空を飛ばなければならない』

1920年12月28日、イアハートは父親とともに、
ロングビーチで行われたドーハ「エアリアル・ミーティング」に参加して、
そこで父親に体験飛行と飛行訓練について質問してもらい、早速翌日、
10分間で10ドルという体験飛行を予約しています。

この時彼女を乗せたパイロット、フランク・ホークスは、
イヤーハートの人生を永遠に変えることになる乗り物を彼女に与えました。

「飛行機が地上から60-90m離れたとき、
わたしは空を飛ばなければならないと思いました」

と彼女はのちにこの時のことをこう語っています。


 ネータ・スヌークとイアハート1921年頃

翌月、イヤーハートは女流飛行家、
ネータ・スヌークに飛行のレッスンを受け始めます。

それまでに写真家、トラック運転手、地元の電話会社の速記者など、
様々な仕事をしながら、飛行訓練のための1000ドルを貯めていました。

1921年、ロングビーチのキナーフィールドで最初のレッスンを受けたとき
スヌークは訓練に、復元した墜落事故機である
カーチスJN-4「カナック」を使用しました。

エアハートは飛行場に行くために、バスで終点まで行き、
そこから6kmの道をテクテク歩いて通っていました。

彼女は飛行を始めてから、 イメージチェンジのために、
他の女性飛行士がよくやっているスタイルを真似し髪も短く刈り上げました。

わずか6か月後の1921年の夏に、イアハートは、
まだ早いのでは、というスヌークの助言にも関わらず、
明るいクロームイエローのキナーエアスターの中古複葉機を購入し、
「カナリヤ」とあだ名を付けています。


初の単独着陸に成功した後、彼女は新しい革製の飛行コートを購入し、
早速飛行に着用しますが、新品なのでからかわれてしまったので、
コートを着て寝たり、航空機用オイルで染めたりして「熟成」させました。



ここにはそんなレザーコートの一つがありますが、
これが「アメリアが一緒に寝たコート」かどうかはわかっていないそうです。

アメリアはお洒落だったので、きっと革コートも
何着も持っていたはずですから。

裏地はツィードが張ってあります。

■ アメリア・イアハートという女性


子供たちにサインするアメリア

アメリア・イアハートは、全米各地で講演やインタビュー、
展示飛行を行い、航空や女性の社会的・政治的問題の普及に努めました。


彼女は、挑戦とインスピレーションを与える遺産を残しました。

彼女は必ずしも「最高の」パイロットではありませんでしたが、
必要に応じて再飛行や自己改革を行う勇気と意欲を持ち、
夫であり実業家ジョージ・パトナムの助けを借りて、広報活動を行いました。

また、講演、執筆、事業など多方面で活躍し、
「最も賞賛される女性」と言われることもあれば
「最も着飾った女性」のリストに常に名を連ねるなど、
その複雑な人物像は、彼女に永続的な人気を与えることになります。


彼女のキャリア、フェミニズム、人生、そして謎に満ちた死は、
数え切れないほどの本、記事、演劇、映画、エッセイ、広告キャンペーン、
特集の題材となって繰り返されています。

そう、私たちは彼女に何が起こったのか知りたいのです。

なぜか?

アメリア・イアハートがあえて人と違うことをした女性だったからでしょう。


続く。(と思う)




チャールズ・リンドバーグの光と影〜スミソニアン航空博物館

2022-08-06 | 飛行家列伝

リンドバーグについて書いている途中に渡米してしまったため、
取り残されてしまっていたシリーズ最終回をお届けします。




さて、リンドバーグが大西洋を横断した歴史的な飛行機は、旅行直後、
彼自身が寄贈したことでここスミソニアンに完璧な形で残されています。

「歴史的航空遺産」の一つとして展示されている航空機に付けられた
説明をそのまま翻訳しておきましょう。



ライアンNYPスピリット・オブ・セントルイス

史上初のノンストップ単独大西洋横断飛行

1927年5月21日、チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、
ニューヨーク州ロングアイランドのルーズベルトフィールドからパリまで、
ライアンNYP「スピリット・オブ・セントルイス」で飛び、
史上初のノンストップ大西洋横断飛行を達成しました。

飛行距離は5,810キロメートル、所要時間は33時間30分です。

このフライトで、リンドバーグはニューヨークのホテルオーナー、
レイモンド・オルテイグがニューヨーク-パリ間を大西洋直接横断する
最初の飛行士に提供するとした2万5千ドルの賞金を獲得しました。

リンドバーグは、パリのル・ブルジェ・フィールドに着陸した瞬間、
何十年もの間世界に語り継がれる世界的な英雄になったのです。

飛行の余波は航空業界の「リンドバーグブーム」となって現れました。

その結果、航空業界の株の価値は上がり、人々の
飛行への関心が急上昇しました。

リンドバーグが「スピリット」で行ったアメリカ国内、そして
中南米へのツァーは、飛行機という輸送手段がいかに安全で、
信頼できるかを実証することになったのです。

*チャールズ・リンドバーグ寄贈


翼幅 14m
全長 8m
高さ 3m
総重量 2,330kg
重量(ガソリンなし)975kg
エンジン ライト ウィールワインドJ-5C、223hp
製造 ライアンエアラインズ株式会社




ライアンエアラインズの社長は前にも書いたように
マホニーという人物ですが、この名前は現在全く無名です。

彼は社名をのちに「マホニーエアクラフト」に変えましたが、
1929年の株の暴落で財政的に苦しみました。
航空業界でそれなりに活躍したのですが、リンドバーグの時ほど
成功することはなく、若くして心臓病で世を去っています。

ライアンの名前を冠した「スピリット・オブ・セントルイス」は
世界で一番有名な飛行機だったのに、そのオーナーが無名なのは、
彼が社名を変えるのが数ヶ月遅かったからだと言われています。

この飛行機の横にもしライアンでなく「マホニー」とついていたら、
彼の存在そのものも重要なパイオニアとなっていたかもしれません。

その他、この飛行機についてのスミソニアンの記述を書いておきます。


飛行機にはフロントガラスがないことに注意してください。
燃料タンクを大きくしたために、フロントガラスが犠牲になったのです。


前方が見ることができないため、リンドバーグは飛行中
側面の窓からしか外界を見ることができませんでした。

うーん、これ、前も書きましたが、
単独飛行に挑戦する飛行機がこれってかなり辛かったんじゃないか?



しかも窓ってこんな窓ですよ。

飛行機には左側にペリスコープが付けられていて、
それで前方を見ることができたとはいえ、これは辛い。

しかし、それにもかかわらず偉業を成し遂げたリンドバーグは、
愛機についてこのように語っています。

「わたしにとって、スピリット・オブ・セントルイスは
未来に焦点を当てたレンズそのものであり、
時間と空間を整復するメカニズムの先駆者でもありました」

それもこれも、彼が大西洋の横断の時に失敗しなかったから言えることです。



こうして見ると尾翼の形が変わっています。

劇的なデモンストレーション

一つの都市から別の大都市へと大西洋上を直接飛行することで、
リンドバーグは、長距離はもはや障害ではなく、それどころか
長距離の空の旅の可能性が急速に現実になりつつあることを示しました。

リンドバーグがパリに上陸した瞬間、すべてのアメリカ国民は
彼自身と航空というツールに夢中になりました。

同時に、「航空の時代」が到来したのです。


アメリカ人の中でも頭ひとつ背が高かったリンドバーグ。
スピリット・オブ・セントルイスの高さは3mですから、
それから考えても2メートル近くあったのではないかと思われます。

グレゴリー・ペックやジェームズ・スチュアートでも
190センチはあったといいますから、彼がそれ以上でも驚きませんが。

彼がカリスマ的人気を得た理由は、ルックスはまあまあながら、
アメリカ人としても長身痩躯だったのが大いに関係あると思います。


1927年5月20日の午前7時52分、ザ・スピリット・オブ・セントルイスは、
土煙の中、ルーズベルト・フィールドからパリに出発しました。

そして33時間と30分後、着陸したことになります。
前にも書いたように、朦朧として幻覚を見ながら、
無事に間違いなくパリに着陸できたというのが凄いと素直に思いますが、
もっと凄いのは、彼は離陸前、丸々24時間寝ていなかったということです。

どういう事情があったのか、興奮して寝られなかったのか、
準備が間に合わなかったのかはわかりませんが、要するに
ざっと60時間横になっていない状態だったということになります。

飛行中は細切れに睡眠を取りながら飛んでいたとしても、
よくその状態で失速とか決定的な失敗をしなかったなと思いますね。

しかも、到着後、すぐに横になれたとは思えません。
老人ならともかく、若い彼にはそれだけで大変な苦行だったでしょう。

もし「スピリット」の仕様がもう一人バックアップを乗せられるもので、
睡眠をとることができたとしても、快挙には違いありませんが、
結果として一人で成し遂げた栄光に及ぶものではなかったと思われます。


アメリカへ帰国したスピリット・オブ・セントルイス号。

スピリット・オブ・セントルイスは、リンドバーグを帰国させるために
クーリッジ大統領がヨーロッパに派遣した
巡洋艦USS「メンフィス」に乗ってフランスから米国に戻りました。

機体は「スーベニア・ハンター」から守るため、
ワシントンDCのヘインズポイント沖のはしけの上に展示されました。

どういうことかというと、地上に展示した場合、
こっそり何かを持ち帰る輩がきっと現れるに違いない、
と警戒されたという意味です。

海の上なら近づけませんし、たとえ近づいても
怖い海軍のお兄さんたちが守ってくれるでしょう。


そして彼はワシントンD.C.で英雄として歓迎を受け、そこで議会から
主君飛行十字章と、特別議会名誉勲章を授与されました。



リンドバーグの大西洋横断成功に対して発行された
オルテグ・プライズ、2万5千ドルの小切手。

特別に印刷された小切手であることは、左上にリンドバーグが乗った
スピリット・オブ・セントルイスが印刷されていることでわかりましょう。

インクは特別に発光するものが使われています。
小切手の縁の外側には栄光を意味する月桂樹の葉があしらわれています。

現在も存在するブライアントパーク銀行の発行となっています。

リンドバーグが小切手を現金に換えた後も、
銀行は歴史的な資料としてこの実物を保存していたようですが、
のちにスミソニアン博物館に寄付されました。


説明がないのでわかりませんが、ニューヨークに
「メンフィス」がリンドバーグを乗せて到着してきた時の騒ぎでしょう。

右の方に水を撒き散らしている船がいますがこれは何?



「チッカーテープ」が舞うニューヨーク市街の凱旋パレード。
リンドバーグが帰国してから行われたものです。

しかし、いつ見ても陰鬱そうな顔をしていますね。



小売人はお土産や記念品を販売することで彼の名声を利用しました。

写真は、スミソニアンが所蔵している「リンドバーググッズ」
コレクションで、これだけでも大変な数となります。

不鮮明ですが、リンドバーグのキューピー人形や、
まるでイコンのように後頭部に輪を乗せた絵を額に入れたものなど、
さまざまな形でアイコンとなったリンドバーグ便乗商品の数々です。


■ アン・モロー・リンドバーグ



リンドバーグ夫妻が日本への訪問を含む飛行旅行を行い、
それについてアンが書いた本「ノース・トゥ・ザ・オリエント」(1935)
そして「リッスン!ザ・ウィンド(風よ!聴け)」(1938)
実際に彼女がシリウスに乗って体験した事柄が人々の興味を惹き、
大変なベストセラーになりました。

作家のシンクレア・ルイスは、「ノース・・」について、

「かつて書かれた最も美しく偉大な心を持つ本」

と絶賛しています。

彼女はその中でほとんどのアメリカ人が経験し得ない異国での
文化的なイベントやそこでのライフスタイルについて語りました。

アラスカ州ノームでのボートレースについては次のように書かれています。

「レースに参加する予定だった3人の男性は、
キャクス(kyaks、カヤックのミススペル)に押し込まれました。

(男性が座っている場所を除いて、ネイティブのボートは
完全にアザラシの皮で覆われていました)

次に、水が入らないように、それぞれがパーカーのスカートを
開口部の木製の縁の周りに結びつけるのです。

そうすると、まるでギリシャのケンタウルスのように、
人と船が一つになるのでした」



ケースの中には彼らが訪れた各国のコインがあります。
穴が空いたのは、ノルウェイの1クローナ硬貨だそうです。


右側の銅色のメダルは、ナショナル・ジオグラフィックソサエティから
アン・モロー・リンドバーグに贈られたハバードメダル(ブロンズ)です。

この裏面にはリンドバーグの飛行コースが、北南米、ヨーロッパ、
アフリカのレリーフ地図に示されています。


■ 第二次世界大戦でシマダ・ケンジ大尉を撃墜

FDRと決定的に決裂し、陸軍を退役したリンドバーグでしたが、
真珠湾攻撃後は陸軍航空隊への再就職を希望していました。
しかし、陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンはホワイトハウスの指示で
この要請を断っています。

ある歴史家は、もしルーズベルトと仲違いしていなければ、
リンドバーグはのちに将軍になれたかもしれないと言っています。

入隊を断られたリンドバーグは、諦めませんでした。

彼の視線は常に空にあったのでしょう。
多くの航空会社に接触した結果、1942年にはフォードの技術顧問として、
B-24リベレーター爆撃機のトラブルシューティングに関わっています。

1943年にユナイテッド・エアクラフトに入社し、
チャンス・ヴォート部門のコンサルタントを行いました。

そして翌年、ユナイテッド・エアクラフト社を説得し、
戦闘状況下での航空機の性能を研究するため、
ついに技術担当者として自分を太平洋戦域に派遣させることに成功します。

彼は、アメリカ海兵隊航空隊のために、ヴォートF4Uコルセア戦闘爆撃機が
2倍の容量の爆弾を搭載して安全に離陸する方法を実演しています。

当時、いくつかの海兵隊飛行隊が、
オーストラリア領ニューギニアにある日本軍の拠点、
ニューブリテン島ラバウルを破壊するために、
現地で爆撃機の護衛に当たっていました。

1944年5月21日、リンドバーグは最初の戦闘任務に就き、
ラバウルの日本軍守備隊の近くでVMF-222と一緒に空爆を行ったり、
またブーゲンビルからVMF-216とも飛行しています。

リンドバーグが任務に出たとき、ロバート・マクドナー中尉という搭乗員が
護衛に指名され、一度は一緒に飛んだのですが、彼はその後、

「リンドバーグを殺した男」

になるのを恐れ、任務を2度と引き受けませんでした。
日本と違って、任務を拒否できるのが、なかなか民主的な軍隊ですな。

っていうか、リンドバーグ、結構海兵隊に気を遣わせてたってことですよね。
さぞかし周りは内心迷惑くらいに思ってたんだろうて。

しかし、1944年の太平洋での6ヶ月間、リンドバーグは日本軍基地に対し
戦闘爆撃機の空襲に参加し、50回もの戦闘任務に就いています。

海兵隊エース、マリオン・カールと一緒に歩いていた写真もこの頃のです。

その後彼はロッキードP-38ライトニング戦闘機の運用を刷新し、
支援するダグラス・マッカーサー元帥に感銘を与えることになります。

この変革で、P-38の巡航速度での燃料消費は大幅に改善され、
長距離任務が可能になったと言われています。

リンドバーグと共に行動したアメリカ海兵隊と陸軍航空隊のパイロット達は
ことごとく彼の勇気と彼の愛国心について称賛しました。

実はこのとき彼は日本軍機を撃墜しているらしいのですが、
この搭乗員の名前が現在ではわかっています。

1944年7月28日、第433戦闘飛行隊によるP-38爆撃機の護衛任務中、
リンドバーグは第7飛行士団独立飛行第73中隊(軍偵)の指揮官である
シマダサブロウ大尉が操縦する三菱キ51「ソニア」観測機を撃墜しています。

三菱キ51「ソニア」観測機は陸軍の攻撃機、九九式襲撃機のことです。

このシマダサブロウ大尉についての日本語での記録は見つからず、
代わりに英語サイトで結構詳しく書かれていたのでそれを書いておきます。
ただし、こちらではサブロウは間違いで、「シマダケンジ」とあります。

日本語ではさらに「島田三郎中尉」とされていて、どちらが正しいか
もう少し調べないとわかりません。

第七十三旭日中隊

パイロット シマダ・ケンジ大尉
偵察員(MIA / KIA)
1944年7月28日墜落

航空機

三菱製造
キ51A偵察型かキ51B強襲型かは不明
日本陸軍航空隊に99式突撃偵察機/キ51ソニアとして配属され、
製造番号は不明

第73独立飛行連隊に編入される
本機は、上面が緑、下面が灰色の斑模様の塗装である
マーキングや機体記号は不明。

シマダケンジ大尉軍歴

1944年7月28日、

日本陸軍第35師団をソロモンに輸送する船団を護衛した後、
撃墜機捜索のため同じくキ51ソニアのパイロット横木軍曹と共に離陸した。
セラム近くのアマハイ島にあるアマハイ飛行場に戻る途中、
第49戦闘航空群第9戦闘飛行隊のP-38ライトニングに迎撃された。

島田が操縦するKi-51ソニアは単独で30分にわたりP-38を回避し続ける。
一方、無線で迎撃を聞いた第475戦闘航空群、第433戦闘航空隊のP-38は、
午前10時45分、天拝飛行場付近で戦闘に参加する日本機を探した。
3,000フィートから急降下旋回したP-38は、
発煙を起こすほどの撃墜を記録した。

被弾しながらも、このSoniaは激しく左旋回し、
Danforth "Danny" Miller大尉の操縦するP-38から発砲を受けたがかわす。
旋回を終えたSoniaは、

Charles A. Lindberghの操縦するP-38Jに向かって飛び込んだ。

リンドバーグは真正面から6秒間砲撃し、エンジンに命中したのを確認するが
上空に退避することを余儀なくされた。

煙に巻かれたソニアは半回転し、
ジョセフ・E・"フィッシュキラー"・ミラー中尉の操縦するP-38が発砲、
片翼に命中し海に墜落するのが確認された。

その後、このソニアはリンドバーグの功績となり、
彼の最初で唯一の空中戦勝利のクレジットとなった。

リンドバーグの戦闘参加は1944年10月22日の
『Passaic Herald-News』の記事で明らかにされた。



■ 二重生活とドイツの隠し子

1957年から、リンドバーグはアン・モローとの結婚生活を続けながら、
3人の女性と長い間関係を持っていました。

バイエルン州の小さな町ゲレッツリートに住んでいた帽子職人、
ブリジット・ヘシェイマー(1926-2001)との間に3人の子供を、
また、グリミスアトに住む画家の妹マリエットとの間に
2人の子供
を、そしてヨーロッパでの私設秘書だった東プロイセンの貴族、
ヴァレスカとの間に息子と娘(1959年と1961年に生まれた)を
、と、
主にドイツで子孫を残しまくっていました。

どうにも感心しないのは、亡くなる10日前、
ヨーロッパの愛人たちそれぞれに手紙を書き、自分の死後、
彼女たちとの不倫関係を極秘にするよう懇願していたことです。

と言うわけで、ドイツの子供たちは、全員が私生児として育ち、
皆、自分の父がリンドバーグとは知らずに育ちました。

後年、自分の出自に疑問を持ったドイツの娘の一人が、
リンディの写真やラブレターを発見し、その後2003年にはDNA検査によって
リンドバーグが父親であることが確認されるという、
なんだか本人にとって情けない話になっています。

リンドバーグはそのうち科学の発展によって、そう言ったことが
全て明るみに出るとは思わなかったのでしょうか。
思わなかったんだろうな。

そのことを知ったアンとリンドバーグの娘、作家のリーヴは、
そのことについてこのように述べています。

”These children did not even know who he was!
He used a pseudonym with them
(To protect them, perhaps? To protect himself, absolutely!)"

子供たちは彼が誰だったかすら知らなかったのです!
彼(父)は彼らに偽名を使っていました。
(子供達を守るため?いや、自分を守るためでしょう!)


■死去

リンドバーグは晩年をハワイのマウイ島で過ごし、
1974年8月26日にリンパ腫のため72歳で死去しました。

彼の墓碑銘は、

「チャールズ・A・リンドバーグ
ミシガン州 1902年生まれ マウイ島 1974年没」


という言葉に続くシンプルな石に、詩篇139篇9節を引用しています。

「もし私が朝の翼を手に入れ、海の果てに住むならば」


リンドバーグシリーズ  終わり





チャールズ・リンドバーグはナチスシンパだったのか〜スミソニアン航空博物館

2022-07-10 | 飛行家列伝

リンドバーグという人物にたとえ全くの興味がないひとはいても、
その名前を聞いたことがないという人はまずいないのではないでしょうか。

わたし自身もそれほど多くを知っていたわけではありませんし、
今回スミソニアンの資料を点検して初めて
彼らが日本を訪れ、靖国神社参拝まで行っていたことも、
航空会社の依頼を受けて航路を開拓したことも知ったくらいですが、
それでも、かなり昔から知っていたことがあります。

それは、彼が愛児を誘拐され殺された悲劇の父親となったこと、
ナチスの親衛隊の服装をした恐ろしい形相のリンドバーグを
戯画化したことに表される、彼とナチスドイツとの関係、
そしてアメリカとヨーロッパで二つの家庭を持ち、
どちらでも父親と呼ばれていたことなどです。

それまで誰もしたことがなかった単独による大西洋横断飛行。
この偉業を成し遂げたがゆえに、後世の人々は彼にあらまほしき英雄像を重ね
のみならずその行動から彼を理解しようとします。

しかし、特にこの人物を完全に理解することは、
飛行から数十年経った今でも、どんな識者にも容易ではないと言われます。

伝記作家A.スコット・バーグは、この有名な飛行家について

「事実上孤立の中に育った人物」

と述べています。

「深い私的な性質を備えて生まれ、自立と不適合の原則に従って育てられ、
そして、偉大な行いは必然的に誤解を生むという代償がつきものだと
本能的にリンドバーグは理解していた」

【チャールズ・リンドバーグJr.誘拐事件】

CRIME OF THE CENTURY: Lindbergh Kidnapper Brought to Justice | History's Greatest Mysteries: Solved

Huluでシリーズ化されているわたしの好きな番組で、リンドバーグの息子、
チャールズ・リンドバーグJr.の誘拐を取り上げています。

以下、このビデオからの情報です。

犯人は梯子で赤ん坊の寝ている部屋に侵入し、わずかな隙に誘拐して
15000ドルを身代金として要求しました。

乳母がそれを発見してから30分で世間は大騒ぎになったといいますから、
それだけでもリンドバーグの有名ぶりがわかります。

息子の遺体はその後、家の近所に埋められて発見されました。

ビデオによると、犯行を疑われていたハウスキーパーの女性は、
尋問に耐えられずに精神を壊し、公聴会の前日に自殺していますが、
FBIの捜査では彼女は関与していないと結論づけられました。

ここで後に大統領にまでなるJ・エドガー・フーバーが登場し、
間違いだらけの脅迫状から犯人が教養のないドイツ系であると判断します。
そして現場に残されたノミなどの証拠から、
犯人は木工を行う職場で働いている、という情報が上がってきます。

ここでコンドンという訳のわからない怪しげなおっさんが出てきて、
仲介役を引き受け、身代金を渡した際に犯人の顔を目撃。

そして身代金のナンバーに相当する札をガソリンスタンドで使ったとして
ドイツ系の大工、ブルーノ・リチャード・ハウプトマンに容疑がかかります。

自宅からは札と、脅迫状そっくりの筆跡が見つかり、
彼は第一級殺人の疑いで逮捕され、裁判の結果有罪となって
電気椅子で処刑されました。

ただ、
このハウプトマンも冤罪ではないのか?
国民的英雄の関連する事件だけに警察やFBIが結果を逸り、
それらしい犯人をでっち上げたのでは?という説もあるそうです。

ブルーノ・ハウプトマン〜殺人博物館
(閲覧注意)

【ナチスとリンドバーグ】



リンドバーグは1936年から1938年にかけて数回ドイツを訪れ、
ドイツの航空を評価していますが、これはアメリカが依頼した任務です。

このときアメリカ人として初めて、ドイツの最新爆撃機ユンカースJu 88
戦闘機メッサーシュミットBf 109を調べ、操縦することを許された彼は、
特にメッサーシュミットBf109について、

「構造の単純さとこれほど優れた性能特性を併せ持つ追撃機は他にない」

と激賞しています。

ここまでの情報から鑑みるに、ドイツにリンドバーグを派遣したのは
アメリカであり、当時のドイツが彼を歓迎したとしても当然です。

この時のことを、あのハップ・アーノルド将軍も、

「リンドバーグが帰国するまでヒトラーの空軍について
我々に有益な情報を与えてくれた者はいなかった」

とそれが至極普通のことであったと表明しています。


アドルフ・ヒトラーに代わって
リンドバーグに勲章を贈呈するゲーリング

この時にナチスの高官にメダルをもらって機嫌良くしていたことが、
数週間後「水晶の夜」と後に呼ばれるようになるユダヤ人排斥が起きると
彼への大非難となって炎上していくのです。

いやしかし、そもそもこの夕食会も、駐独アメリカ大使が企画し、
ゲーリングやドイツ航空界の中心人物を招いたのもその大使なんですが。

リンドバーグがこの時ゲーリングから受け取った勲章を突き返していれば、
もしかしたらアメリカ国民はそこまでヒステリックに
彼を非難することはなかったのかもしれません。

しかしリンドバーグは勲章の返還を断りました。

「平和な時代に友情の証として与えられた勲章を返還しても、
何の建設的効果もないようだ」

「もし、私がドイツの勲章を返上するとしたら、
それは不必要な侮辱になると思う」

「このような状況下で贈られた勲章を拒否すれば、
良識に反する行為であると感じていた。
(夕食会は大使公邸で行われたため)そこでは
大使の客人に対して不快な行為であったろう」

ここまでは至極真っ当に思われますし、これだけなら
その後もそれほど非難されることはなかったのかもしれませんが。


■不干渉主義とアメリカ第一主義

1938年以降、リンドバーグは各国の航空機の現場を視察することで
政治的な事情に深く関わらざるを得ない立場に入り込んでいきます。

彼の私見は一貫して不干渉主義とアメリカ第一主義でした。

具体的には、ヒトラーのチェコスロバキアとポーランドへの侵攻の後、
リンドバーグは脅威にさらされている国々に援助を送ることに反対し、
次のように発言しています。

「武器禁輸を廃止することがヨーロッパの民主主義を援助するとは思わない」

「戦争をしている一方を援助するという考えのもとに武器輸出をするなら、
なぜ中立という言葉で我々を惑わすのか」

「海外で武器を売ることで自国の産業を発展させようとする人々に応える。
我が国はまだ戦争の破壊と死から利益を得たいと思う段階には至っていない」

今なら、ウクライナ軍に武器を売る国を非難するようなものでしょうか。
これも、中立のふりをして武器を売って儲ける企業の思惑に乗るな、
ということを言っているだけのような気がします。

しかし、リンドバーグがヒステリックなまでに叩かれるようになったのは、
それだけでなく、彼が「アメリカ第一主義」を唱える中で
国内のメディアをユダヤ系が牛耳っていることに疑問を呈したからでしょう。

世界のヒーローとなったリンドバーグの発言が影響力を持ち始めた時、
必ずしも彼の考えを歓迎しない巨大な勢力もまた存在し、
彼を存在ごと潰そうというキャンペーンが繰り広げられた。
彼の発言の内容からはこんな仮定が自然と導き出されます。

1940年後半、リンドバーグは非干渉主義をモットーとする
アメリカ第一委員会のスポークスマンとなっていました。

マディソン・スクエア・ガーデンなどで行われた演説で、彼は
アメリカにはドイツを攻撃する筋合いはないということを力説しています。

演説するリンドバーグ

「私は深く懸念していました。
アメリカという潜在的な巨大権力が、無知で非現実的な理想主義に導かれて、
ヒトラーを滅ぼすためにヨーロッパの“聖戦”に参加するかもしれないことを。

そしてその結果、ヒトラーが滅亡すれば、今度はヨーロッパが
ソビエト・ロシア軍の強姦、略奪、野蛮にさらされ、
西洋文明が致命的な傷を負わせられるであろうことを理解せずに」

結論としてはアメリカは参戦し、ヒトラーは滅亡して
その後アメリカはソビエトとの冷戦に突入することになりましたから、
ある意味リンドバーグは慧眼だったことになります。

アメリカが参戦しなかった世界が現実のそれより良きものになったか?
という仮定にはもちろん誰も答えを出すことはできませんが。



■ルーズベルトとの確執

フランクリン・ルーズベルト大統領は、リンドバーグの意見を
「敗北主義者、宥和主義者」と断じました。

リンドバーグは直ちにアメリカ陸軍航空隊の大佐を辞職し、
アメリカ・ファーストの集会でこのように述べています。

「この国を戦争に向かわせる3つのグループ、それは
イギリス人、ユダヤ人、そしてルーズベルト政権だ」

「アメリカ・ファースト」を掲げたドナルド・トランプが、
民主党的リベラルやユダヤ系のメディア、GAFAに嫌われたように、
リンドバーグの「アメリカ・ファースト」も、それは排他主義、
そして民族主義だと非難の謗りを受ける運命でした。

今にして見れば勇気のいる発言だったと思われる、
当時のリンドバーグのユダヤ系に対する意見をご覧ください。
今ならその地位がなんであっても社会的抹殺されそうな種類のものです。

「ユダヤ人がなぜナチス・ドイツの打倒を望むのかを理解するのは
難しいことではありません。
彼らがドイツで受けた迫害は、どのような人種であれ、
激しい敵を作るに十分だと思います。

人類の尊厳の感覚を持つ者は、誰であっても
ドイツにおけるユダヤ人に対する迫害を容認することはできません。

しかし、誠実で先見の明のある人なら、彼らの戦争推進政策を見て、
そのような政策が我々にとっても彼ら自身にとっても
危険であることを見抜かないわけにはいかないでしょう。

この国のユダヤ人グループは、戦争を煽るのではなく、
あらゆる手段で戦争に反対すべきです。

寛容は、平和と強さに依存する美徳です。
歴史は、それが戦争と荒廃に耐えられないことを示しています。
少数の先見の明のあるユダヤ人はこのことを理解し、
介入に反対する立場をとっています。
しかし、大多数はまだそうではありません。

この国にとっての彼らの最大の危険は、映画、報道、ラジオ、
そして政府における彼らの大きな所有権と影響力にあるのです。

私は、ユダヤ人とイギリス人のどちらを攻撃しているのでもありません。
どちらの民族も、私は賞賛しています。

しかし、私が言いたいのは、イギリスとユダヤの両人種の指導者たちは、
我々から見て好ましくないのと同様に彼らの視点からも理解できる理由、
つまり「アメリカ的ではない」理由で、
我々を戦争に巻き込みたいと考えているということなのです。

彼らが利益と信じるものに注意を払うことを責めることはできませんが、
私たちもまた、我々の利益に注意を払わなければなりません。

私たちは、他国民に備わった感情や偏見が、
我が国を破壊に導くことを許すことはできないのです。」


長いので3行でまとめると、アメリカはアメリカファーストであるべきで、
ユダヤ人が主導する組織が、ドイツでのユダヤ人のために
アメリカを戦争に巻き込もうとするのは間違っていると。

ユダヤ人の苦境は十分に理解した上で、それでも
アメリカは不干渉を貫くべきだと言っているわけですね。



そしてこうなる

アン・モロー・リンドバーグ夫人は、彼の演説に対する批判に対して、
リンドバーグの評判が不当に汚されることを懸念しました。

「リンドバーグの誠実さ、勇気、そして本質的な善良さ、公平さ、優しさ、
その気高さ・・私は一人の人間としてリンドバーグを最も信頼している。

それなのに、彼がしていることについて
私が深い悲しみを感じているのは、どういうわけだろう?

もし彼が言ったことが真実なら(そして私はそう思いたい)、
なぜそれを述べることがいけなかったのだろう?

彼は戦争を支持するグループを名指ししたのだ。
彼が英国や政権を名指ししても誰も気にしない。

しかし、『ユダヤ人』と名指しすることは、
それが憎しみや批判なしに行われたとしても、非米国的である。
なぜなのだろうか。」

アンは、リンドバーグが敵に回した勢力の巨大さと
その力に、底しれぬ恐怖を感じているように見えます。


しかし彼はユダヤ人の迫害までを容認していたわけではありません。

1938年11月「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」が起こりました。
これに対しリンドバーグは不快感を示しています。

「(こんなことは)ドイツ人の秩序と知性に反しているように思える。
彼らは間違いなく困難な "ユダヤ人問題 "を抱えていたのに、
なぜこれほど理不尽に処理する必要があるのか」

彼は、全人口に対するユダヤ人の割合が高くなりすぎると、
必ず反動が起きるおで、適切な割合に調整するべきだとして、

「適切なタイプの少数のユダヤ人は、どの国にとっても
財産であると思うので、残念なことである」

と述べ、この考えは多くのアメリカ人に深く共鳴され、
彼の優生学と北欧主義は社会的に受け入れられていきますが、
ナチスの優生学とリンクしており、肝心のナチスが彼を称賛したため、
ナチスのシンパであると疑われていました。

ルーズベルトはリンドバーグの政権の介入政策への率直な反対を嫌い、
財務長官ヘンリー・モーゲンソー(ユダヤ系)に

「もし私が明日死ぬとしたら、これだけは知っておいてほしい、
私はリンドバーグがナチだと絶対に確信している」


といい、陸軍長官ヘンリー・スティムソンにも

「リンドバーグの演説を読んだとき、これは
ゲッペルス自身が書いたとすればこれ以上ない表現だと感じた」

繰り返しますが、リンドバーグはユダヤ人の迫害に
一度たりとも賛同したことはありません。
実は白人の優位性を信じ、ユダヤ嫌いであったかもしれませんが、
それはそれ、これはこれという態度です。

終戦後まもなく、ナチスの強制収容所を見学した彼は、

「人間、生と死が最低の品位にまで達している場所であった」

と激しい不快感を示しました。

優生学といえば、彼はヨーロッパ系の血の継承を尊重、つまり
外国の軍隊による攻撃と外国の人種による希釈から自分たちを守る限り、
アメリカは平和と安全を得ることができるという考えでした。

「科学と組織に関するドイツの天才、
政府と商業に関するイギリスの天才、
生活と人生に対する理解に関するフランスの天才」

「アメリカではそれらが混ざり合って、
最も偉大な天才を形成することができる」

と信じていたといいます。

ホロコースト研究家(つまりユダヤ系側の人間)にとって彼は、

「善意はあるが、偏見に満ちた誤ったナチスのシンパであり、
その孤立主義運動のリーダーとしてのキャリアは
ユダヤ人に破壊的な影響を与えた」


リンドバーグのピューリッツァー賞受賞の伝記作家A・スコット・バーグは、

「リンドバーグはナチス政権の支持者というよりも、
自分の信念に頑固で、政治工作の経験が比較的浅かったため、
ライバルが自分をそう描くことを簡単に許してしまったのだ」


と主張していて、わたしはこちらが公平な視点かと思われます。

時代がそういうことにしてしまったからこそ
ナチスシンパなどという色に染められたリンドバーグでしたが、
ナチスから勲章をもらったのも当時のアメリカ政府の手引きでしたし、
その考え方は戦間期のアメリカでは一般的なものであり
多くのアメリカ人の意見でもあったということを忘れてはなりません。


■ スピリット・オブ・セントルイスの卍


真ん中にハーケンクロイツが書かれたスピナーキャップ。
これは外されてしまいましたが、オリジナルのリンドバーグの愛機、
「スピリット・オブ・セントルイス」に装着していたものです。

1927年5月12日、リンドバーグがロングアイランドに到着した後、
スピナーシュラウドに亀裂が発見されたのでノーズコーンが交換されました。

この時航空機の仕事をした男女は、皆でノーズコーンにサインをしました。

その名前の中には、ライアン航空の社長だったB・F・マホニー、
ライアンの工場長で有名な飛行機設計者ホーレー・ボウラスがあります。

スピナーの真ん中にある鉤十字にギョッとしてしまったのですが、
よく見てください。
日本の神社の印と同じで、鉤の向きが反対です。
これはスミソニアンによると、

「ネイティブアメリカンのグッドラックシンボルです」

なのだそうです。

SWASTICA(卍)がなぜスピナーの真ん中に描かれたか、
そこまでスミソニアンの説明にないのですが、
おそらく卍の周りにあるマホニー、ボウラスと後二人が
何か意図してこれを書いたのかもしれません。

ただ、マホニーもボウラスも、およそネイティブアメリカンとは
血縁的にも全く関係なさそうなのが何やら不気味ですが・・・。


続く。










「ラッキーリンディー」〜スミソニアン博物館のチャールズ・リンドバーグ

2022-07-06 | 飛行家列伝

前回に続き、スミソニアン航空博物館プレゼンツ、
チャールズ・リンドバーグ特集です。

冒頭イラストは、スミソニアン博物館おなじみの飛行家紹介コーナーのもの。
「The Lone Eagle」というキャッチフレーズは、
彼が成し遂げた大西洋横断飛行の際、
機体を改造したこともあって一人しか乗れず、
バックアップのパイロットなしで飛行したことを指しているかもしれません。

【”ラッキーリンディ”ブーム】



大西洋単独飛行ののち、彼は一躍ヒーローになりました。
まさに、バイロンの言うところの「目覚めてみたら有名になっていた」です。


リンドバーグの大西洋横断を報じるニューヨークタイムズ。
ヘッドラインは

リンドバーグがやった!
33時間30分でパリへ;

雪とみぞれの中1000マイル飛行ののち;
彼を讃えるフランスの人々がフィールドから彼を運ぶ」

そのほか、めぼしい文章を書き出してみますと、

「聴衆の歓迎の声は雷鳴の如く鳴り響いた」

「兵士と警察のラインを突破してコックピットから
疲労し切った飛行士をコクピットから飛行機の上に押し上げた」

「彼が食べたのはサンドイッチ一つと半分だけ」

「大使館で行われたインタビューで彼は冒険を語った」

セントルイスのパイロット仲間やビジネス界の後援者の間で
「スリム・リンドバーグ」と呼ばれていた彼は、見るからに内向的で
有名になってからもどこか陰気さが拭えない目立たぬ青年でしたが、
英雄となってから世間に巻き起こった「リンディ・ブーム」で、
名前に便乗して儲けようと、あらゆる商人が彼を利用しました。

彼の飛行機にちなんだ「スピリット・オブ・セントルイス」レターオープナー、
「ラッキーリンディ・リッド」と呼ばれる婦人用帽子。

いくら流行りでも、これは後で被ってたのが黒歴史になるレベル


彼の写真が上部に挿入されたパテントレザーの靴、少年用半ズボン
そして「ラッキーリンディ・ブレッド」までもを生み出しました。

「太陽🌞ビタミンD増量」と謎の謳い文句のあるパンの包み紙

ひ、日の丸?

当然、そのものズバリ「ラッキー・リンディ」という歌もありました。


「西海岸から東海岸まで、その名を響かせた人に乾杯しよう」
(1番)

「子供のように微笑むこのヤンキー野郎のせいで世界は大騒ぎ」
(2番)

一応読める方のために楽譜を載せておきます。

Lucky Lindy


なんと手巻きの蓄音機で音源をアップしている人が・・・。
(わたしが発見した段階で再生回数26回)
我慢して聞いていると、国歌と「ヤンキードゥードル」、
続いて飛行機のプロペラの音が聴こえてくるという凝った?構成。

曲が終わったと思ったらエンジン音が去っていく、という具合です。



リンドバーグは、塗り絵からゲーム、おもちゃなどの子供向け商品でも
一種のマーケティング現象を起こしたため、
全米で彼の名を知らない子供はいないというくらいになりました。


なぜか飛行機が描かれたトラックまで


そして航空業界で空前の「リンドバーグ・ブーム」が巻き起こりました。
彼の快挙で航空機業界の株が跳ね上がり、飛行への関心は高まりました。

この子供たちの中からは、のちに何人もの有名な飛行家が出ました。
それだけでも大した影響力だったと言えます。

そして、彼がその後行ったアメリカ全土への飛行行脚は、
飛行機がいかに安全で信頼できる輸送手段であるかの可能性を
国民に宣伝するのに大いに役立ったのです。

そしてリンドバーグは自分の名声を、惜しみなく
商用航空の拡大を促進させようとする航空業界に提供しました。


【ザ・リンドバーグ・ライン】

トランスコンチネンタル・エア・トランスポート、
(大陸横断航空輸送)TAT
社幹部とリンドバーグ

TATは現在トランスワールド航空(TWA)となっていますが、
この頃は「エアライン」という会社名は存在しませんでした。
民衆の移動手段として航空という概念がなかったからです。



1929年に始まったTATの「大陸横断旅行」では、汽車と飛行機を乗り継いで
48時間で大陸を横断ができるというのがキャッチフレーズでした。

TATはリンドバーグをアドバイザーに雇い、
彼のアドバイスでこの大陸横断プランを開発し発売します。



ちなみにこの時売り出された移動方法は、
ポスターの地図に示されていますが、具体的には以下の通り。

🚃夜行列車でニューヨークからオハイオ(中西部)まで行く

🛫翌日日中、オハイオ州コロンバスからオクラホマ(南中部)まで飛行機移動

🚃その夜サンタフェ鉄道でニューメキシコ(南西部)まで寝台車で移動

🛫次の朝飛行機に乗ってロスアンゼルスに到着

ニューヨークからロスまで48時間、338ドルで行けるのがウリでした。

今のおいくら万円かと言いますと、当時の最新モデル新車、
シェボレー・コーチが525ドルだったことから、現在の日本円では
片道300万円強くらいだったのではないかと考えられます。

上のポスターは、ニューヨークからオハイオまでの陸路を担当?する
ペンシルバニア鉄道の宣伝です。


この方法だと、エアラインという割に汽車移動が多いので、
TAT社は「Take the A Train」社などと揶揄されていたと言いますが、
それでも、この乗り継ぎ方式は画期的な新基軸でした。

それから100年後の今では、NYからロスまで6時間半で移動できます。
まさに文字通りの隔世ですが、その最初の一歩のきっかけとなったのが
他でもないリンドバーグの成功だったことは言うまでもありません。



TAT社はその後TWA社と名前を変えました。
この頃にはリンドバーグの開発した路線は「リンドバーグ・ライン」として
普通に有名になっていたということです。

この企業への協力でリンドバーグが成し遂げたのは、
空路の開拓と、全米に数多くの空港を設立したことでした。

もっと端的にいうと、「リンドバーグ以前」には、
世界のどこにも商業航空という概念は存在していなかったのです。


リンドバーグがたった一人で小さな飛行機に乗って海を渡ったとき、
人類は安全に空を飛び、予定通りに正確に目的地に行くことができる、
という現在ではごく当たり前のことが可能であることを
当時の人々は初めて知ることになったのでした。

この瞬間から航空はビッグビジネスとなっていくのです。

【アン・スペンサー・モロー】


リンドバーグを語って彼の妻、アン・モローを語らないわけにはいきません。



大西洋横断を成功させた後、彼が凱旋飛行としてメキシコを訪れたとき、
アテンドした当時のメキシコ大使、銀行家のドワイト・モローとその娘、
アン・スペンサー・モロー嬢。

恥ずかしくなるほどわかりやすい経緯を経て、リンドバーグは
モロー大使の令嬢に引き合わせられ、そして結婚しました。

「わかりやすい経緯」と書きましたが、そのいきさつは実はわかりません。
わかりませんが、安易に想像がつくではありませんか。

モロー大使はその後JPモルガン商会のパートナーとして
リンドバーグのファイナンシャルアドバイザーを務めた人物です。

まあいわばリンディの後援者でありタニマチという位置付けですね。

メキシコへの訪問の際、彼は21歳の名門スミス大学在学中のアンと出逢い、
そしてアンはその時のことをこう書いています。

「彼は他の誰よりも背が高かった。
群衆の中でも頭一つ高く、目立つ彼の視線は誰よりも鋭く、
しかし澄んでいて明るく、より強い炎で照らされているようで、
それがどこを向いているのかすぐに気づくのだ。

わたしはこの青年に対して何を言えただろう?
何を言ってもそれは凡庸で表面的な言葉にしかならない。
まるでピンクのフロスティングシュガーをまぶした花のように。

わたしはそれ以前の世界を、軽薄で、表面的で、刹那的なものと感じた」

この文章を見てお気づきの方もおられると思いますが、
アン・スペンサー・モローは大変文学的な女性でした。

彼女の父親は大使、そして母親は詩人で教師。

彼女は毎晩母親の読み聞かせを1時間聴いて育ち、詩を書き、
大学で文学士号を取得し、のちにはエッセイや小説を残しています。

ところで、夫となったチャールズ・リンドバーグですが、前にも書いたように
大西洋横断成功後に、出版業者の大物パットナムとの契約にのっとり、
グッゲンハイムの豪邸に缶詰になって、3週間で書き上げた自伝は
実に単純な、悪くいえば稚拙なものだったとされていましたね。

書くものは時代を経るごとに良くなっていったそうですが、彼は
その自伝の中で、バーンストーマー時代の同僚の「女好き」を揶揄し、
陸軍で見た士官候補生たちの「安易な」恋愛観を批判したりしています。

国民的英雄に、その著書中、ほとんど名指しで書かれた当事者たちが
どう思い、また彼らが周りからどう言われるか、
その辺をちょっとでも考えたことはなかったのでしょうか。

そして彼の理想的な恋愛とは、

「鋭い知性、健康、強い遺伝子を持つ女性との安定した長期的なもの」

であり、

「農場で動物を飼育した経験から、優良な遺伝子の重要性を学んだ」

とも述べています。

彼は有名になるとほとんど同時にアンと知り合い、結婚しましたから、
これらの考えは、彼女との関係性の中で生まれてきたものと思われます。

が、それにしても、アン・モローの文学的内省的表現に対し、
リンドバーグのこの考えは、いかにも即物的で、

それは恋愛観ではなく生殖観だろうが!

と思わず突っ込んでしまいたくなるほど愛がありません。
何やら違和感とこの二人の性質の齟齬すら感じてしまいますね。

もし彼女が夫の影響で自らも飛行家に転身しなければ、
おそらく二人の破局は避けられなかったのではないかという気がします。



アン・モロー・リンドバーグは、スミソニアン博物館において
リンドバーグの妻ではなく、一人の女流飛行家として紹介されています。

恥ずかしがり屋で学究肌の銀行家の娘、アン・スペンサー・モローは
1906年、ニュージャージー州イングルウッドで育ちました。

彼女はスミス大学を優等で卒業し、執筆で賞を受賞しました。

アンは、父親が在メキシコアメリカ大使を務めていたメキシコシティで
有名な飛行士、チャールズ・リンドバーグに出逢いました。

リンドバーグがアンに操縦のレッスンを行うと同時に二人は恋に落ち、
1929年5月27日(リンディが大西洋横断を成功させたちょうど2年後)、
結婚しました。

1933年に彼女はナショナル・ジオグラフィック協会の
ハバード金メダルを受賞した最初の女性になり、
1934年には飛行家に与えられるハーモントロフィーを受賞しました。

1934年まで、アンは「航空のファーストレディ」(First Lady of Aviation)
と呼ばれており、それから作家としても評価されるようになりました。

また、彼女は3000マイルの長距離無線通信記録を樹立し、
ベテラン無線事業者協会の金メダルを受賞した最初の女性となりました。


1931年、彼女は夫リンドバーグと一緒にパンアメリカン航空から依頼されて
北太平洋航路調査のため、ニューヨークからカナダ・アラスカを経て
日本と中華民国まで水上機「ティンミサトーク」で飛行しています。


これは先日の帰国時のアラスカ

この飛行でアラスカを超え、着地する瞬間について、
彼女が自著で書いている言葉がこの写真に添えられています。


”四方に高い雪が縞模様に積もった山がある。
わたしたちはついに氷山の間に着陸するのだ。”


アン・モロー・リンドバーグ 1933年8月6日


リンドバーグ夫妻が日本に到着するシーンが見られる
一連のニュースフィルムが残っています。

ジングル?というかニュースの始まりには、先ほどの
「ラッキー・リンディ」のイントロがそのまま使われていて、
この曲が彼のテーマソングとして扱われていたのがよくわかります。

霞ヶ浦に着水するのは3:40から。
リンディの飛行機を海中で抑えて?いるのは、その事業服から見て
霞ヶ浦航空隊の兵隊さんたちであろうと思われます。

到着に対し、全員で万歳していることも、アナウンサーは報じています。

Lindbergh With His Wife Aka Lindburgh With His Wife (1931)

飛行機から降りてきたリンドバーグがスーツにネクタイというのがすごい。

次回はリンドバーグ夫妻についてのスミソニアンの記述をご紹介します。

続く。





スミソニアンのチャールズ・リンドバーグ展示〜「翼よあれが巴里の灯だ」

2022-07-04 | 飛行家列伝

スミソニアン航空宇宙博物館には、この飛行界のパイオニアにして英雄、
あるときは非難の対象となったチャールズ・リンドバーグについて、
大変なボリュームの資料と展示があちらこちらにあります。

その最も大きく、彼の存在意義が一目でわかる展示が、
このスピリット・オブ・セントルイス号、1927年5月21日、
リンドバーグが史上初めてノンストップでの大西洋横断単独飛行に成功した
ライアン NYP-1 であることは言うまでもありません。

今回はスミソニアン博物館のリンドバーグ関連展示を紹介していきます。


歴代の有名飛行家コーナーはミリタリーとシビリアンに分けられており、
リンドバーグはその筆頭に紹介されています。

「チャールズ・リンドバーグとライアンNYPスピリットオブセントルイス」

というパネルには、見るからに仕立てのいいスーツに長身を包み、
飛行帽を被ったリンドバーグの等身大の写真が添えられています。

「1927年5月27日、チャールズ・A・リンドバーグは、史上初めて
単独かつノンストップで、愛機スピリットオブセントルイスによる
ニューヨークのロングアイランドからパリまでの飛行をおこなった」

チャールズ・オーガスタス・リンドバーグとは?

⚫︎バーンストーマー。航空郵便パイロット

⚫︎大西洋を単独横断した最初の人間

⚫︎飛行機が安全で信頼できる輸送手段であることを証明するため
スピリットを48州全てに飛ばした

⚫︎航空会社のアドバイザーとして航空界の発展を助けた


barnstormerというのは元々旅芸人とかの意味がありますが、
飛行機が登場してからは、アクロバット飛行やパラシュート降下を見せて
全国を巡業する職業パイロットのことを言うようになりました。

1922年、リンドバーグはウィスコンシン大学で1年半学んだ後、
ネブラスカ・エアクラフト社で航空学を学びはじめます。

名門ウィスコンシン大学のマディソン校で工学を少し学んでいますが、
1年半で中退し、彼は本格的に飛行機人生を歩むようになります。

【陸軍とリンドバーグ】


チャールズ・リンドバーグ陸軍少尉、23歳ごろ

すでにこの頃彼はバーンストーマーとして活動していましたが、
何を思ったか陸軍で軍事飛行訓練を受け、卒業しています。

最初104人いた同期の訓練生は卒業時には18人しか残っていませんでした。

その中で首席だったリンドバーグは陸軍予備少尉に任官しますが、
当時陸軍は現役のパイロットを必要としていなかったため、
彼は予備役に席を置きながら民間でバーンストーマーや教官をしていました。

そしてセントルイスのミズーリ州兵第35師団第110観測飛行隊に所属し、
軍の飛行も部分的に続けて1926年には少尉から大尉になっています。

予備役となってから、彼はセントルイスとシカゴを結ぶ
民間航空便のパイロットを務めていました。

その後彼は飛行家としての栄誉に伴い、軍における階級は
最終的に1954年准将にまで昇進しています。


【翼よあれが巴里の灯だ】



そもそもどうしてリンドバーグは大西洋横断飛行をすることになったか。

それは彼がトランス・アトランティック航空が企画したコンテスト、
成功すれば賞金25,000ドルがもらえる
「ニューヨーク・パリ間横断飛行」に自ら応募したからでした。

1919年、フランス生まれのホテルオーナー、レイモンド・オルテイグは、
ニューヨークからパリまでノンストップで飛行した最初の飛行家に
2万5千ドルの賞金を出すことを提案しました。

スミソニアンには、この時のエントリーシートが展示されています。
1927年当時の2万5千ドルは2022年現在で5千万円ちょっとの価値です。

誓約書の条件を見ると、全米飛行協会に定められた規則の遵守、
気象条件やその他アクシデントによって不利益を被った場合も
主催者にその責任を問うことを放棄するということが書かれています。

また、サインされた日付は、コンテストの約3ヶ月前となっています。

後年、リンドバーグは

「賞金よりも飛行に挑戦することにずっと興味があった。
(賞金にも興味がないわけではなかったけど)」

と書いています。


"平和と親善の使者は、時間と空間の壁をまた一つ打ち破った"

1927年、チャールズ・A・リンドバーグの大西洋単独横断飛行について、
カルヴィン・クーリッジ大統領はそう語りました。

その後、1969年にアポロ11号が月面着陸したというニュースまで、
リンドバーグが小さなライアン単葉機をパリに着陸させたときほど、
全世界が航空イベントに熱狂することはなかったと言えます。

1927年初頭、彼はわずか数人の知人の支援を得て、1919年、
2万5千ドルの賞金を賭け、史上初となるニューヨーク-パリ間、
初の無着陸飛行に挑戦することになり、サンディエゴのライアン航空に、
そのために必要な仕様の航空機を発注しました。

設計開発は、飛行の目的を考慮して慎重に行われました。
主翼幅の10フィート拡大、胴体と主翼の構造部材は
より大きな燃料負荷に対応できるよう設計し直され、
主翼の前縁には合板を貼るという工夫がされましたが、
胴体は、2フィート長くなった以外は標準的なM-2の設計を踏襲しました。

コックピットは安全のため後方へ、そしてエンジンはバランスのため
前方へ移動し、燃料タンクが重心になるように据えたことで、
パイロットは前方をペリスコープか、あるいは機体を回転させて
側面の窓からしか見ることができなくなりました。


これは地味に精神的ストレスになったのではないかと想像されます。

エンジンはライト社のワールウインドJ-5Cを使用。
1927年4月下旬に機体の整備が完了しました。

機体は銀色で、垂直尾翼上部に登録番号N-X-21 1が記され、
他の文字もすべて黒でペイントされました。


リンドバーグは本番まで何度かテスト飛行を行っています。

写真は、テスト飛行でサンディエゴからニューヨークまで飛行した後のもの。
セントルイスへの着地を含め飛行時間は21時間40分でした。



ニューヨークで数日間天候に恵まれるのを待った後、
5月20日の朝、ガーデンシティホテルで前夜眠れなかったリンドバーグは、
スピリットオブセントルイス号を、現在ショッピングモールとなっている
カーティスフィールドの格納庫から、長い滑走路に牽引させました。

明るいうちから大勢の人が集まり、リンドバーグを見送りました。
この時のことを彼は後に、

「パリへのフライトの始まりというより、葬儀の行列のようだった」

と語ったそうですが、彼の目から見て、見送りの人々は
ことごとく不安からくる暗い表情をしていたのでしょうか。

そしてリンドバーグはたった一人でパリに向けて飛び立ちました。

その後彼は17時間飛び続け、40時間近く起きていた時のことを
自らの言葉で痛々しく表現しています。

「背中はこわばり、肩は痛み、顔は火照り、目はしょぼしょぼした。
これ以上飛び続けるのは到底不可能に思えた。
そのとき私がこの人生で望むことはたった一つ、
体を横たえて伸びをし、眠ることだけだった・・・」

数十年後、リンドバーグは、24時間飛行した後、
このような幻覚を見ていたことを認めています。

「ぼんやりとした輪郭で、透明で、動いていて、
飛行機の中で私と一緒に無重力で移動している誰かの姿」

それら(複数だったらしい)は善良な人間のような形をしていて、
エンジンの轟音の中で彼に話しかけてきたのみならず、
「普通の生活では得られない重要なメッセージ」を与えてくれたと。

やがて彼らは彼を置いて消えてしまい、彼は別の幻影を見ました。

機体を旋回させ、波の上約15mを飛行しながら窓から身を乗り出して、
漁師に「アイルランドはどっちだ」と尋ねるというシュールなものです。
もちろんそれは幻覚なので答えはありませんでした。
(これは日本語のwikiでは実際に起こったこととして書かれている)

ちなみに後年彼をモデルにしたビリー・ワイルダーの映画の日本語タイトル、
「翼よ、あれが巴里の灯だ」ですが、原題も原作となった
リンドバーグの自伝も、タイトルは彼の愛機である

「Spirits of St.Louis」

であり、さらにはこの感動的な言葉はリンドバーグ自伝の抄訳を手がけた
翻訳家の佐藤亮一が良かれと思ってつけたオリジナルです。

リンドバーグ本人も全く預かり知らぬ言葉であり、
言ってみれば余計なお世話なのですが、ことこれに関しては
あまりにキャッチーでイケているため、どこからも文句が出ていません。

流石のわたしも、良しとせざるを得ないほどの?名作です。

Spirit of St Louis -- landfall at Ireland
アイルランドディングル湾で陸地を発見するシーン。眠そう

彼が実際にパリに着いてから発した言葉は、

「誰か英語を話せる人はいませんか」

(その人に)「ここはパリですか」

だったという説、また、

「トイレはどこですか」

という説がありますが、いくら何でもいきなりトイレはないだろうから、
この三言は流れるようにこの順番で発せられたとわたしは想像します。




これがリンドバーグが大西洋横断の時機内に積んでいたグッズだ!

1、陸軍航空隊謹製、非常用レーション

2、釣り糸と釣り針(いざという時用)

3、何かに使える糸を丸めた球




4、非常用発光装置(ハンドフレア)

5、弓のこ

6、針


7、(口紅ケースのようなもの)マッチ入りマッチホルダー



「スピリットオブセントルイス」が積んでいたバログラフ

バログラフはバロメーター値を記録できるデバイスです。
リンドバーグが大西洋ノンストップ飛行を行った時の飛行機の高度、
そして飛行時間が正確に記録されました。

5000万円という賞金の出るレースですから、規則によって
飛行機が正しくノンストップで直行したかを証明する必要がありました。

このドラムには、リンドバーグの離陸と上昇、それに続き、
適切な風を求めて硬度を変えつつ上昇した様子、そして
嵐や霧に遭遇した時の操作のあれこれ、乱気流によるエアポケット、
アイルランド近くでしばし降下したこと(あれ?あの話本当だったの?)
そしてイギリス南西部を通過しフランス北西部からパリに着陸したこと、
全てが明瞭に記録されていました。



ロングアイランドを離陸してから33時間30分後、
パリ近郊のル・ブルジェ飛行場に無事着陸したリンドバーグの機を迎える
10万人の熱狂的な観衆。



その熱狂ぶりがいかにすごかったかがわかる一枚。
ところでこの写真はどこからどうやって撮ったのか。
他の飛行機からかな。

【凱旋帰国と栄光】



リンドバーグとスピリット・オブ・セントルイス号は、
6月11日にU.S.S.「メンフィス」で米国に帰国しました。
写真は「メンフィス」に載せられたSOS号。


埠頭に出迎える人に挨拶するために「メンフィス」デッキに立つリンディ。
世紀の英雄と歴史的飛行機を運ぶ大役を担った「メンフィス」乗員も
全員がビシッと第二種軍服でキメて舷側に立つ姿はいかにも誇らしげです。

USS「メンフィス」は現在では原子力潜水艦になっていますが、
この時は軽巡洋艦で、艦種はCL-13でした。

帰国したリンディはワシントンD.C.とニューヨークで、
熱狂的とも言える歓迎を受けました。

その後7月から3ヶ月かけて、彼はこの名機で全米を巡業して回りました。

そして12月、スピリット・オブ・セントルイス号とともに
ワシントンからメキシコシティまで直行便で飛びます。



メキシコシティで学校の生徒たちに歓迎されるリンディ。
右横を歩いているのはアメリカ大使ドワイト・モローです。

皆様、ぜひこの「モロー」(Morrow)という名前を
記憶の片隅に留めておいてください。
試験に出ます。

そして中米コロンビア、ベネズエラ、プエルトリコを経由して、ハバナへ。



キューバのハバナで演説するリンドバーグ。
右端はヘラルド・マチャド・イ・モラレス大統領、周りは政府高官です。

そしてこの後、セントルイスに戻り、巡業は終わりました。



この時に訪問した国の国旗はカウリングの両側に描かれました。

実はリンドバーグは、後にアメリア・イアハートの夫となる
出版社社長のジョージ・パットナムと、もし大西洋横断に成功したら
その感動的な体験を綴った本を書くことを約束していました。

帰国してすぐ、彼は父親の知り合いグッゲンハイムの豪邸で缶詰になり、
3週間で「We」という陳腐な冒険譚を書き上げ、
スピリット・オブ・セントルイスによる3ヶ月の全米順行に出かけました。

パットナムはこの本がヒットすることが出版前からわかっていました。

リンドバーグの本は、大西洋横断の2ヶ月後、1927年の7月末に発売され、
1928年6月にはすでに31刷りになっていました。
ベストセラーといっても過言ではありません。

しかし、その文章は、ほとんど子供のような単純なものでした。

彼はその後も自伝を多くの出版社から求められては書きましたが、
年月を経るごとによくなっていき、50年代に書いた
『スピリッツ・オブ・セントルイス』は、ピューリッツァー賞を受賞しました。

これが日本で「翼よ、あれが巴里の灯だ」と訳された本です。
ワイルダーは、この本をジェームズ・スチュワート主演の映画に使い、
48歳のスチュワートは25歳のリンディを好演し、映画は大ヒットしました。


1928年4月30日、スピリット・オブ・セントルイス号は
セントルイスからワシントンDCへ最後の飛行を行いました。

その後、リンドバーグはこの機体をスミソニアン博物館に寄贈し、
それ以来それはここにあります。

続く。






U-2事件と捕らえられた偵察パイロット〜スミソニアン航空博物館

2022-02-25 | 飛行家列伝

スミソニアン航空博物館の軍事偵察・写真のコーナーから、
今日は偵察機ロッキードU-2を取り上げます。

その前に、アメリカ空軍の偵察パイロットであり、
数奇な運命により有名になったある人物の話をしましょう。

■捕らえられたU-2パイロット
 フランシス・ゲーリー・パワーズ大尉
Francis Gary Powers 1929-1977


パワーズ大尉

米ソ冷戦の真っ只中であった1960年5月1日、アメリカのU-2偵察機が、
ソ連領内深くで空中偵察を行っている最中に、ソ連防空軍に撃墜されました。

これをU-2撃墜事件といいます。

CIAパイロット、フランシス・ゲリー・パワーズが操縦する単座機は、
スベルドロフスク、現在のエカテリンブルグ付近上空で
S-75ドビナ(SA-2ガイドライン)地対空ミサイルを受けて墜落し、
機体から脱出したパワーズはパラシュートで降下し、捕らえられます。

アメリカ政府は当初、NASAの民間気象調査機が墜落したと言い張っていましたが、
数日後、ソ連政府が捕虜となったパイロットとU-2の監視装置の一部、
作戦中に撮影されたソ連軍基地の写真などを公表したため、
それがアメリカ軍の軍事偵察機であることを認めざるを得なくなりました。


【U-2事件の背景】

当時の両国首脳はアイゼンハワー大統領とフルシチョフ首相でした。


キャンプデービッドにおけるアイクとフルシチョフ

まずいことに、両巨頭は2週間後にパリでの東西首脳会談を控えていました。

フルシチョフとアイゼンハワーは、前年すでにキャンプデービッドで
歴史的な直接会談を行なっており、その成果がまずまずだったことから、
アメリカ政府は、次の会談を、米ソ関係の雪解け、
冷戦の平和的解決につなげようと大きな期待を持っていました。

ところがよりによって最悪のタイミングでこの事件が起こってしまったのです。

先の会談の開催地名から、両者の歩み寄りと友好具合をして
「キャンプ・デービッドの精神」と世間にもてはやされているときに事件が起こり、
予定されていたパリでの首脳会談は中止となってしまいました。

U2の事件はアメリカの顔に泥を塗ることになってしまったのです。
アイゼンハワーは、この知らせを受けて俺おわた、と思ったに違いありません。


そもそも、どうしてよりによってこんな時期に、
アメリカはソ連の領地奥深くに入り込んで偵察をしていたのか。

そのきっかけとなったのは、他でもないアイゼンハワー大統領その人でした。

キャンプ・デービッド会談の前年となる1958年7月、
アイゼンハワー米大統領は、パキスタンのフェローズ・カーン・ヌーン首相に、
パキスタン国内にアメリカの秘密情報施設を設立することを求めました。

当時のソ連戦闘機では届かない高高度を飛行し、ミサイルも届かないと考えられた
U-2偵察機を、ソ連になんとか潜入させることができる場所、ということで
ソ連領内の中央アジアに交通至便なパキスタンが選ばれます。

その結果、アメリカ国家安全保障局(NSA)は大規模な通信傍受を行い、
ソ連のミサイル実験場、主要インフラ、通信の監視が可能になったのでした。

U-2、通称「空のスパイ」は、衛星観測の技術がない時代に、
敵の重要な写真情報を得るための大変有効なツールであったのです。

【アイゼンハワーの誤算】

しかしながら、アイゼンハワー大統領本人は、そもそも
自国のパイロットを直接ソ連の上空に飛ばすことには否定的だったといいます。

それは、もしこのパイロットの一人が撃墜されたり捕らえられたりすれば、
それが侵略行為とみなされる可能性があると考えたからに他なりません。

とくに冷戦時代には、侵略行為とみなされるだけでも、それが
両国間の紛争に発展しかねない一触即発の緊張関係にあったからです。

しかし、せっかくパキスタンに偵察の根拠地を得たので、なんとかここを使いたい。

というわけで、CIA(中央情報局)の代わりに、同盟国であるところの
イギリス空軍のパイロットがソ連の空を飛ぶ
という案が浮上しました。

当時イギリスは、スエズ動乱でエジプトに負けてスエズ運河を取られ、
国内もしっちゃかめっちゃかという「スエズ後遺症」が残っており、
アメリカの要請を無視できる立場ではなかったので、
結局この提案を飲み、英軍パイロットを偵察に出すことを了承します。

U-2をイギリス人パイロットに操縦させることによって、
アメリカは何かあってもシラを切れる、いや関与を否定できるというわけです。

汚いさすがアイゼンハワー汚い。

しかしこの作戦、イギリスには一体どういうメリットがあったのかと思いますよね。
ジャイアンアメリカの機嫌を損ねることを恐れていたのかな。
イギリスさん、スエズ動乱でそんなに弱り目だったのでしょうか。

それはともかく、最初の2人のイギリス人パイロットは偵察に成功しました。
これはいける、と喜んだアイク、ソ連の大陸間弾道ミサイルの数を
より正確に把握するために、さらに2つの偵察ミッションを許可しました。

その後、2回の成功で調子にのって、パイロットをアメリカ人にしたことが、
アイクとアメリカ政府にとって大きな後悔を生む結果となります。

これが5月16日に予定されていた4カ国首脳会議(パリサミット)の前のことです。

そして1960年4月9日、CIA特別部隊「10-10」のU-2C偵察機は、
ソ連の南側国家境界線をパミール山脈付近で越え、セミパラチンスク実験場、
Tu-95戦略爆撃機が配備されているドロン空軍基地、
サリシャガン付近にあるソ連防空軍の地対空ミサイル(SAM)実験場、
チウラタムミサイル射場(バイコヌール宇宙基地)
という
ソ連の4つの極秘軍事施設の上空を飛行しました。


国家境界を飛行した時点でソ連防空軍に探知され、U-2は飛行中に
MiG-19とSu-9による数回の迎撃を受けますが、これを回避し、
諜報活動をまず一回成功させました。

【U-2撃墜さる】

パリでの東西首脳会議開催予定日の15日前の5月1日。

ロッキードU-2C偵察機「アーティクル358」に搭乗した
ミッションパイロットのフランシス・パワーズ大尉は、
作戦コード「グランドスラムGRAND SLAM」を受けて基地を出発し、
バイコヌール宇宙基地プレセツク宇宙基地のICBM発射場などを偵察、
撮影するというミッションを成功させました。

しかしながらソ連側はU-2の飛来を十分予測していたため、
ソ連ヨーロッパ地域と極北のソ連防空軍の全部隊が警戒態勢に入っていました。

機影が探知されるやいなや、全空軍部隊の指揮官に、

「進路範囲内を全てくまなく警戒飛行し、
侵入者を攻撃、必要とあらば『体当たりram』せよ」


という過激な発令が下されました。


ramというのはAir rammingともいいます。
昔の軍艦に装備されていた衝突用の「衝角」をラムといいますが、
航空機のラムは、空中での体当たりのことで、
戦法として行うため自身は生き残ることを目的としているところが戦略であり、
自死が前提の神風特別攻撃とは全く違っています。

このときソ連軍司令部が出した「体当たりしてでも」という命令は
偵察機に対する戦法としてはあまりにアグレッシブですが、
「資本主義者の侵略意地でも許すまじ」とでもいう気概だったのでしょう。


しかし、ソ連軍の戦闘機による迎撃は失敗に終わりました。
先ほども書きましたが、U-2の航行高度が極端に高かったためです。

戦闘機の攻撃を難なくスルーしたU-2はウラル地方のコスリノ付近まできました。
そこで、ミハイル・ボロノフ中佐が指揮する砲台が発射した
3発の地対空ミサイルSA-2ガイドライン(S-75 Dvina)のうち、
最初の1発がU-2にヒットし、撃墜されることになります。



なぜか写真ではなく似顔絵しか残っていないボロノフ中佐


U-2を撃墜した対空ミサイル


スミソニアンに現物展示中

皮肉なことに、CIAはすでにこのミサイルの発射位置を
情報活動によって把握していたはずでした。

このとき、U-2を追っていたソ連のMiG-19戦闘機の1機も
ミサイル一斉射撃で破壊され、結局撃墜されて
パイロットのセルゲイ・サフロノフ中尉死亡しています。

さすがはおそロシア(あ、ソ連か)と思ったのですが、
いくらソ連でも、味方と分かって撃ったわけではなかったようです。

サフロノフ中尉にとって不幸なことに、この日5月1日が祝日だったため、
MiGのIFFトランスポンダーが5月の新コードに切り替わっておらず、
その結果、機体がミサイルオペレーターに敵と認識され、
さらに一斉射撃が行われたというのが真相のようです。


気の毒すぎるサフロノフ中尉(享年30歳・妻子あり)

しかも、サフロノフ中尉には赤旗勲章が授与されたものの、
勲章には死亡理由などは書かれておらず、彼の存在は、そ30年後の
グラスノスチの時期まで明らかにされなかったそうです。
(やっぱりおそロシア)

没後50周年には、ボリショエ・サビノに駐留するミコヤン製のMiG-31戦闘機に
サフロノフの名前が付けられたそうですが、なんだかなあ。


【パワーズ捕虜になる】

パイロットのパワーズは、この時点では軍人ではありません。
U-2を運行していたのは、軍ではなく、CIAだったからです。

もともとF-84のパイロットであった彼は、朝鮮戦争で数々の戦果を挙げ、
CIAに引き抜かれた後、空軍を除隊し、CIAのU-2による偵察活動に加わりました。


操縦用のスーツを着用したパワーズ

撃墜された機からベイルアウトしようとしたパワーズは、
酸素ホースを外すのを忘れていたため、ホースが切れるまで格闘した末、
ようやく機体から離脱することができました。

さすがのベテランも初めてのことで少しパニクっていたのかもしれません。

パラシュートで降下したパワーズは落下地点の住民に救出されました。
当初ソ連軍兵士と思われていたのですが、すぐに
所持品からスパイであることがバレて逮捕されることになりました。

U-2パイロットのためのサバイバルキット。
U-2パイロットは、フィールドでのサバイバルのために、
驚くほど完全かつコンパクトなキットを装備していました。

マチェーテ(サバイバルナイフみたいな刀)
リップバーム(左真ん中の注射器状のもの)
水分補給キット
サメよけ
浄水タブレット
日除けゴーグル
虫除け

シャープストーン(砥石)
サンスクリーン
バッテリー
サバイバルマニュアル
ホイッスル
コンパス

釣り道具(左下のカードのようなもの)
ウォーターバッグ
ラジオ
シーダイ・マーカー(海難救助用マーカー)
シグナルミラー
単眼鏡


この他、おそらく偵察パイロットの多くが、捕らえられたときのために
何らかの自決用道具を持っていたと思われるのですが、このときパワーズも、
貝由来のサキシトキシンを含んだ致死性の針を改造した銀貨を持っていました。

しかし、彼がそれを使うことはありませんでした。
すぐに没収されてしまってできなかったのか、それどころではなかったのか、
あるいは自決は全く考えなかったのかは謎です。


アメリカ軍司令部は航空機が破壊されたことに30分以上も気づきませんでした。


ソ連当局に捕らえられたパワーズは公開裁判にかけられました。
偵察スパイ行為を行っていたことを自白し、有罪判決を受けた彼は禁固10年、
それもシベリア((((;゚Д゚)))))))送りの刑を言い渡されます。

ちょっと待て、アメリカがパワーズのために何もしなかったはずはないだろう?
と思われた方、あなたは正しい。

もちろんアメリカ側もパワーズの救出のためにいろいろと画策しましたともさ。

その策とは、アメリカでスパイ容疑で逮捕されていた
捕虜KGB大佐ルドルフ・アベルとの身柄を交換するというものです。

結果申し入れが成立してパワーズは解放され、無事帰国することができました。


パワーズの有罪を伝える国内紙



帰国することを知り涙するパワーズの妻(美人)

【アメリカ帰国後のパワーズ】

パワーズがアメリカに帰国したとき、アメリカ国内では英雄扱いどころか、
偵察員としての彼の行動に非難の声が起きました。

つまり、撃墜されてからソ連側に逮捕される前に、U-2機密情報や偵察写真、
部品を自爆装置を用いて処分するべきだったでしょ、というわけです。

そして、やはりというか、一部からは
CIAの作った自殺用毒薬を使用しなかったという批判
もなされました。

戦時中までの日本なら当たり前だったかもしりれない、この
「生きて虜囚の辱めを受けず」論ですが、アメリカでも
軍人に対してはこういう言説があるのかとちょっと驚かされます。

もっとも、今回はパワーズが偵察員であったことが批判の原因でした。
「恥」などではなく、機密保持のためなら自殺も辞すな、というわけです。

パワーズは、帰国後にCIA、ロッキード社(U-2の製造者)、空軍から
事情聴取を受けたあと、1962年3月6日、上院軍事委員会に出頭しましたが、
その結果、重要な機密は一切ソ連側に洩らしていないと判断されました。
無実が証明されたというわけですが・・・・本当かしら。

彼はその後、ロッキード社にテスト・パイロットとして勤務し、
1970年、事件における自身の体験を綴った本、
“Operation Overflight”を共著で出版しています。

この本の中でパワーズは、かつてソ連に一時亡命した、あの
リー・ハーヴェイ・オズワルドがソ連側に渡したレーダー情報が
U-2撃墜事件につながったと指摘しているそうです。

これはどういうことか、5行くらいで説明しておきます。

オズワルドというと、ケネディ大統領の暗殺犯の疑惑がかけられたまま
暗殺されてしまっったあの人物ですが、彼は海兵隊員として
厚木で航空管制官をしていたことがあり、そのときに得たU-2の情報を
のちにソ連に亡命したときに当局に売り渡し、その情報をもとにして
ソ連軍はこのときU-2のミサイル撃墜を可能にした、というのが彼の説です。

ケネディ暗殺が謎に包まれているのでこの辺のことも全く明らかになっていません。



1998年、U-2偵察活動についての情報が極秘解除され、
この偵察活動は合衆国空軍とCIAの共同作戦だったことが判明しました。

今もなおアメリカ国内では、パワーズは逮捕時自殺すべきであった、
との世論も根強くあるといいます。

しかし、高度2万メートルで搭乗中にミサイルに撃墜された事例は他になく、
また通常脱出装置が作動しても生還できないケースも多いことから、
自爆操作や自殺が可能であったかなどについては疑問が残されています。

■パワーズが着用したU2フライトスーツ


このときのパワーズの写真が添えられたU-2搭乗員の装備が展示されています。


フランシス・ゲリー・パワーズがソ連から帰国後
ロッキード社のU-2をテストパイロットとして操縦した際に着用した高高度分圧服。
(実物です)

高高度飛行による生理的影響を防ぐために1950年代に開発されました。
U-2の高高度服のさらなる改良は、
初期の宇宙服開発の技術革新によるものでもあります。

U-2のフライトスーツは、パイロットの体にスーツを密着させるために、
膨らませたチューブとクロスステッチを使った
「キャプスタン原理」を初めて採用していました。

キャプスタン原理については詳しいことはわからなかったのですが、
おそらくこれが関係あるかと・・・。

キャプスタン方程式

これにより機械的な圧力が発生し、
高高度での体内のガスや液体の膨張を抑えることができました。

【フランシス・パワーズの死】

1977年8月1日、パワーズは、ロサンゼルスでKNBCテレビのレポーターとして
ヘリコプターに搭乗中、墜落死しました。

事故の原因は燃料計の故障でした。

自分の操縦する機体を撃墜されてその人生を狂わされた男が、
その人生を墜落事故によって終わらせたということになるのですが、
運命とはなんと手の込んだ皮肉な真似をするものです。

墜落中の彼は、かつてU-2から脱出した瞬間を思い返したでしょうか。

2000年、事件から40年後、既に亡くなっていたパワーズに
捕虜章(Prisoner of War Medal)、
殊勲飛行十字章(Distinguished Flying Cross)、
国防従軍章(National Defense Service Medal)
が授与され、
彼の遺族がそれを受け取りました。




パワーズの遺体はアーリントン国立墓地に埋葬されています。

続く。


ジョー・フォスコーナー〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-07 | 飛行家列伝

サンディエゴの海兵隊航空博物館、「フライング・レザーネック」には
ご覧のような「ジョー・フォス」コーナーがあります。





ジョー・フォスはアメリカ海兵隊の戦闘機エースです。
スミソニアンの展示「第二次世界大戦の世界のエース」で
スミソニアンに選ばれたのは、グレゴリー・ボイントン一人でしたが、
この人の名前もその世界では大変有名です。


ジョセフ・ジェイコブ・"ジョー"・フォス
Joseph Jacob "Joe" Foss(1915〜2003)は、
第二次世界大戦中のアメリカ海兵隊を代表する戦闘機のエースの一人。
ガダルカナル・キャンペーンでの空戦での活躍が評価され、
1943年に名誉勲章を受章しました。

戦後は、空軍准将を経て、第20代サウスダコタ州知事、
全米ライフル協会会長、アメリカン・フットボール・リーグコミッショナーなどで
名声を得たほか、テレビ放送作家としても活躍したという、
実に多才な人物です。

ところで今回検索していて、世の中には英語による
「ミリタリーWiki」なるページがあることを知りました。
このページのありがたいことは、軍人であれば
そのサービスや勤務地、ランクについて、
途中経過も含めて記載してくれているところです。

たとえばジョー・フォスの場合、1940年から1946年まで
海兵隊におり、その後アメリカ空軍に移籍したのですが、
海兵隊では少佐まで、空軍では准将まで、とわかりやすく書いてあります。

そして軍サービスで得た「あだ名」についても。

彼のニックネームは
「スモーキー・ジョー」「オールド・ジョー」
「オールド・フース(Foos)」「エース・オブ・エーセズ」
など。
「エースの中のエース」といわれたフォスとはどんなパイロットでしょうか。
「ミリタリー・ウィキ」の力も借りながらお話しします。

■リンドバーグに憧れて

ニューヨークタイムズ紙の表紙を飾ったジョー・フォスの写真。

フォスは、サウスダコタ州の、農家の長男として生まれました。
実家は貧しく、電気も通っていない家だったそうです。

12歳のとき、地元の飛行場に、伝説の飛行家チャールズ・リンドバーグ
「スピリット・オブ・セントルイス号」のツァーで訪れました。

はて、この名前には何か聞き覚えが。
と思い、念のためスミソニアンで撮った写真を調べてみたところ、
ありました。

「スピリット・オブ・セントルイス」実物が。



同機はライアンNYPという型で、1927年、
リンドバーグが史上初の大陸間ノンストップ飛行を達成した機体です。

具体的にはニューヨークからパリまでの5810kmで、
この時の英雄的な飛行はその後、
「翼よ あれがパリの灯だ」という映画に自伝として描かれました。

この飛行によってリンドバーグは一躍ヒーローになり、
リンドバーグブーム、ひいては飛行機ブームが巻き起こりました。

フォスが見たツァーというのは、大陸間横断を成功させた後、
「スピリット」に乗って行った凱旋飛行で、
フォスの故郷であるサウスダコタを含む中南部の都市を巡りました。

それを見て空に憧れたフォスは、その4年後には、
父親と一緒に1人1ドル50セントを払って、空を飛びました。

これは、おそらく遊覧飛行という程度のものだったと思われます。


1933年、フォスが17歳になったとき、父親が事故死します。
暴風雨の中、畑から戻ってきて車から降りたところで電線を踏み、
感電死してしまったのでした。

彼は学校を中退して母親と一緒に農場で働かざるを得なくなります。
その頃、彼の住む地域で海兵隊の飛行チームのデモが行われました。
そしてオープンコックピットの複葉機による華麗な曲芸飛行に魅せられた彼は、
海兵隊の飛行士になることを決意したのでした。

まず彼はガソリンスタンドで働いて書籍代や大学の授業料を稼ぎ、
操縦の個人レッスンを受けることから始めました。

その後州立サウスダコタ大学(USD)に入学した彼は、
志を同じくする学生たちと一緒に、当局に交渉して
大学内に航空局の飛行コースを設けてもらい、
卒業までに100時間の飛行時間を稼ぐことができました。

スポーツに秀でており、大学時代はボクシング部、陸上競技チーム、
フットボールのチームで活躍していたそうです。

1940年には、パイロットの資格と経営学の学位を取得したフォスは、
海軍航空士官候補生プログラムに参加して海軍予備軍になるために、
ヒッチハイクでミネアポリスに向かいました。

■ 軍でのキャリア

海軍飛行士に指定されたフォスは少尉任官し、
まずUSS「コパヒー」( USS Copahee (CVE-12))に乗り組んだ後、
フロリダのペンサコーラ海軍航空基地教官として勤務しました。

学費を稼ぐために働いているうちにかれはすでに26歳になっており、
志望である戦闘機パイロットになるには年を取りすぎていたため、
代わりに海軍の写真学校に配属されたのです。

もちろん彼はこれに不満でした。

最初の任務を終えると、サンディエゴの海軍航空基地、
ノースアイランドにある海兵隊写真撮影隊(VMO-1)に転勤を命じられますが、
フォスはめげず、戦闘機課程への異動を繰り返し希望しました。

上もこれに根をあげたのか、彼はグラマンF4Fワイルドキャットで
訓練課程の履修を許されます。
ただし所属は写真撮影隊のままだったそうです。

そうして彼は1942年6月から1か月間で150時間以上の飛行時間を達成し、
最終的に海兵隊戦闘飛行隊121VMF-121に幹部として配属されたのでした。


同年フォスは高校時代の恋人ジューン・シャクスタと結婚しています。

■ガダルカナル



1942年8月20日、初めてガダルカナルの戦いで投入された戦闘機隊は、
VMF-223、通称ブルドッグスでした。
到着後、中隊はカクタス航空隊の一員となり、その後2ヶ月間、
ラバウルを拠点とする日本軍と制空権をめぐって戦いを繰り広げました。



FL航空博物館の室外航空展示には、ご覧のように
フォスの時代のワイルドキャットが展示されています。
他の航空機は野ざらしなのに、これだけ屋根がついており、
特別扱いを感じさせる展示となっています。

General Motors FM-2 Wildcat

このFM-2の意味は、F=ファイター(戦闘機)、
M=マニファクチャー(GMイースタン)、2=モデルバージョンです。

現地の説明を翻訳しておきます。

最初のF4Fワイルドキャットは、WW2前と初期に、
グラマンエアクラフトによって設計・製造されました。
この航空機は1941年から1942年の間に海兵隊と海軍が運用できる
唯一の効果的な戦闘機という位置づけでした。

太平洋戦行きの初期の主要な敵は帝国海軍の三菱A4M零式でした。
零戦はワイルドキャットを打ち負かすだけの力を持っていましたが、
ワイルドキャットの重火器と頑丈な機体構造は、
熟練したパイロットが飛行させた時有利になりました。

グラマンは新しい戦闘機F6Fヘルキャットを導入する準備を完了していましたが、
海軍は依然としてF4Fを必要としていました。

ヘルキャット生産の余地を作るために、GMは
ワイルドキャットF4Fの二つのバリエーションを生産しました。
GMのワイルドキャットは、多くの点でグラマンバージョンとは異なりました。

FM-2はより強力でかつ軽量なライトR-1820星型エンジンを搭載していました。
4基の50口径機関銃を搭載し、地上の標的、船、
または浮上している潜水艦に対して高速ロケット弾を搭載しました。

また、エンジンによって増加するトルクを打ち消すために、
標準のF4Fよりテールを高くしてあります。




展示中のワイルドキャットは、ガダルカナルキャンペーン中の
ジョー・フォスが所属した「ブラック53」塗装をされています。


VMF-223は1942年10月中旬までに、日本のエース・笹井醇一を含む
110機半の敵機を撃墜して島を後にしています。

ジョー・フォスの所属するVMF-121は、VMF-223を救援するため、
1942年10月「ウォッチタワー作戦」の一環としてガダルカナルに派遣されます。

「ウォッチタワー作戦」(望楼作戦)は、ニミッツ大将を総指揮官として
サンタクルーズ、ツラギ等周辺諸島の攻略を目指したものです。

護衛空母「コパヒー」から発進し、ガダルカナルに到着したフォスらは
ヘンダーソン飛行場でカクタス航空隊の一部となり、
ガダルカナルの戦いにおいて極めて重要な役割を果たしました。

スミス

カクタス航空隊のエースといえば、有名なのが
笹井を撃墜したマリオン・カールジョン・L・スミスでしたが、
 フォスも積極的な近接戦術と驚異的な砲術の技術で評判になりました。

ただし、フォスは10月13日初めての空戦で零戦を撃墜したものの、
自身のF4Fワイルドキャットも銃でエンジンを損傷、
3機の零戦に追尾されたフォスはアメリカ軍の滑走路に逃げ込んで
フラップなしのフルスピードのまま着陸し、
かろうじて椰子の木立を避けて生還を果たしています。

■ フォスのフライングサーカス

隊長であるフォスが
「ファーム・ボーイズ」と「シティ・スリッカーズ」
と名付けた二つのセクションからなる8機のワイルドキャットの小隊は、
すぐに「フォスのフライング・サーカス」と言われるようになります。

腕利きのパイロットと彼が率いる小隊を「〇〇サーカス」と称するのは
アメリカが発祥だと思いますが、日本でも
「源田サーカス」なんてのがありましたよね。

なにをどう勘違いしたのか、
「ラバウルにいるアメリカ軍の搭乗員にはサーカス出身
(芸人のことか?)などがいるらしい」

と登場人物に言わせていた「ラバウルもの」があって、
当時初心者だったわたしは、マリオン・カールを
サーカスのアクロバット出身と一瞬とはいえ勘違いしていたことがあります。

ジャングルの環境は過酷で、1942年12月、フォスはマラリアにかかりました。
治療のためにシドニーに送られたフォスは、
そこでオーストラリアのエース、クライヴ "キラー "コールドウェルと出会い、
新たにこの戦域に配属されたRAFのパイロットたちに作戦飛行の講義を行いました。
’Killer’コールドウェル


1943年1月1日、フォスはガダルカナルに帰還しましたが、
現地防衛戦は1942年11月の危機的状況から回復していたため、
彼は1ヶ月で帰国を果たしました。

ガダルカナルにおける一連の戦闘で、フォスは
第一次世界大戦ののエース、エディ・リッケンバッカーの26機撃墜に並び、
アメリカで最初の「エース・オブ・エース」の栄誉に浴しました。

■戦闘復帰

1944年2月、フォスは太平洋戦域に戻り、
F4Uコルセアを装備するVMF-115を率いました。

フォスはこの2度目の遠征で、同じ海兵隊の戦闘機エースである
マリオン・カールと出会い、友人になったということです。

そして、彼にとって少年時代の憧れだったチャールズ・リンドバーグ
この時期、航空コンサルタントとして南太平洋を視察していたこともあり、
彼と一緒に飛行するという願ってもない機会に恵まれました。

左からカール少佐、リンドバーグ、フォス少佐

ここでフォスは8ヵ月間任務を行いましたが、
戦時中の撃墜記録をを伸ばす機会はありませんでした。

そしてまたしてもマラリアにかかったため、アメリカに帰国して、
サンタバーバラの海兵隊航空基地で作戦・訓練担当官となります。

■戦後の人生

1945年8月、フォスは、チャーターフライトサービスと飛行教習所
「ジョー・フォス・フライング・サービス」を経営し、
パッカードなどの車も販売する会社を立ち上げました。

【サウスダコタ州兵】
1946年、フォスはサウスダコタ州航空州兵の中佐に任命され、
第175戦闘迎撃飛行隊の指揮官となりました。
朝鮮戦争中、大佐だったフォスはアメリカ空軍に召集され、
最終的に准将の地位に就いています。

【政治家】
サウスダコタ州議会の共和党議員を2期務め、
1955年からは39歳で州最年少の知事に就任しました。
選挙運動は自分で軽飛行機を操縦して行ったそうです。

1958年、下院議員選挙に立候補しましたが、同じく戦時中のパイロットの英雄、
民主党のジョージ・マクガバンに敗れて落選し、政界を引退しました。

【フットボール・リーグコミッショナー】
知事を務めた後、フォスは1959年に新設された
アメリカン・フットボール・リーグの初代コミッショナーに就任しました。
就任中、フォスはリーグの拡大に貢献し、ABC、NBCと
有利に放映権を結ぶなどしています。

【テレビ司会者】
フォスは、生涯を通じて狩猟やアウトドアを愛しており、
ABCテレビの司会を務め、狩猟や釣りのために世界中を旅しました。

アウトドアTVシリーズ「The Outdoorsman: Joe Foss」では
司会とプロデューサーを務めています。
972年には、KLMオランダ航空の広報部長を6年間務めました。

【全米ライフル協会】
フォスは1988年から2期連続で全米ライフル協会の会長に選出されました。


ライフル協会会長の頃のフォス

■その他展示品


2013年の消印がついた、これは葉書でしょうか。
栄誉賞、海軍十字章、サウスダコタの州旗、
ライフの表紙、旭日旗に「26機撃墜」
なんなら彼の墓石まで印刷されています。

 
航空帽、海兵隊キャップ、サウスダコタ州兵キャップ。



パイロットログブックと1942年7月20日付のサイン。
戦闘機航空課程を終了したときのものです。

左側のフライングクロス授与の際のサイテーションは、
海軍長官だったジェームズ・フォレスタルのサインがあり、
このような文言が書かれています。

米国大統領は、喜びをもって、名誉勲章を授与します。

ジョセフ・J・フォス大尉
アメリカ海兵隊予備役
以下の表彰状に記載されている任務に対して

海兵隊戦闘飛行隊の執行官として、ソロモン諸島のガダルカナルにおいて
職務の範囲を超えた傑出した英雄的行為と勇気を示した。

1942年10月9日から11月19日までの間、ほぼ毎日
敵との戦闘に従事したフォス大尉は、
23機の日本軍機を個人撃墜し、他の航空機を撃破せしめた。
また、この期間中、彼は多くの護衛任務を成功させ、
偵察機、爆撃機、写真機、水上機を巧みにカバーした。
1943年1月15日には、さらに3機の敵機を撃墜し、
この戦争では他に類を見ない空中戦の記録を残したのである。

1月25日、敵軍の接近に対し、フォス大尉は
8機のF4F海兵隊機と4機の陸軍P-38を率いて行動を開始し、
圧倒的な数の差に臆することなく、迎撃と攻撃を行い、
日本の戦闘機4機を撃墜し、爆撃機に1発の爆弾も投下させることなく撃退した。

彼の卓越した飛行技術、感動的なリーダーシップ、不屈の闘志は、
ガダルカナルにおけるアメリカ軍の戦略的陣地の防衛において、
際立った要因となった。




ところで、先日当ブログで取り上げた
「スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース」で、
海兵隊のエースは28機撃墜のボイントンでした。

フォスはあと2機というところで国に帰されてしまったので、
海兵隊一位を奪われてしまったということになります。


FLに展示されているワイルドキャットには、彼の名前の下に
彼の撃墜数とされる26機を表す旭日旗のペイントが施されています。

しかしながら先日、わたしはネットの片隅でこんな話を読みました。

「戦後日本側の被撃墜記録と照合したところ、
彼の撃墜を主張する数より少なかった」

彼我の撃墜被撃墜の記録が合わなかったという例はいくつもありますが、
不思議と撃墜数は被撃墜側の記録(つまり正解)より多く、
実際より自己申告が少なかったという例は寡聞にして知りません。

ハルトマンのように本当に撃墜したかどうか見張りがついていればともかく、
(それも全てを見届けられないと思いますが)自己申告ではどうしても
人間は自分のいいように記憶を操作してしまうものなのでしょう。

おそらく「スミソニアンの選んだエース」にしても、
何人かは不確かな撃墜を「まいいか」と撃墜にカウントしたり、
もしかしたらちょっと水増ししていた人もいたのではないでしょうか。


その点、撃墜数を公式な記録とするのをやめた日本軍は、ある意味
パイロットをこの手の「要らん煩悩」から解き放ったと言えるのかもしれません。



続く。




スミソニアンの選ぶ第二次大戦のエース(西沢広義編)〜スミソニアン航空博物館

2021-10-11 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の「第二次世界大戦のエース」シリーズ、
紆余曲折を経てついに最終回です。

スミソニアンに限らず、これまでアメリカの軍事博物館で
航空についての展示を見てきた経験から言うと、アメリカ人、そして
世界にとっての認識は、西沢広義をトップエースとしており、
岩本徹三はそうではないらしいと言う話を前回しました。

いずれにしても、日本軍が個人撃墜記録を公式に残さなかったことが、
岩本がトップエースと認められない原因であり、いまだに
世界のエースの残した記録という歴史的資料の上に、日本の記録が
正式に刻まれない理由でもあります。

部隊全体での戦果を重要視した結果、個人成績を記録しない、
というのは、その「精神」としては非常に日本的ですが、
どんなことでも書類に残す「記録魔」の日本人らしくなくもあります。

 

今日は前回に続いて日本のトップエース、西沢広義についてですが、
本稿で扱う情報は、あくまで英語サイトの翻訳ですので、
日本語での資料とはかなり違う点があるかと思います。

どうかそれを踏まえた上でお読みください。

 

【死の舞踏〜敵地上空宙返り事件】

さて、ここで、以前も当ブログで扱った、
実話かどうかわからない「あの」逸話についてです。
ぜひ眉に唾をつけながらご覧ください。

5月16日の夜。
西沢、坂井、太田が娯楽室でオーストラリアのラジオ番組を聴いていると、
フランスの作曲家、ピアニスト、オルガン奏者である
カミーユ・サン=サーンスの「ダンス・マカーブル」(死の舞踏)が流れた。
この不思議な骸骨の踊りのことを考えていた西沢は、

「いいことを思いついたぞ!」

と興奮気味に言った。

「明日のミッションはモレスビーへの空爆だよね?
俺たちも『死の舞踏』をやってみようじゃないか」

太田は西沢の提案をくだらないと一笑に附したが、西沢は粘った。

「帰投後、3人でモレスビーに戻り、敵さんの飛行場の真上で
宙返り(デモンストレーション・ループ)をするんだ。
地上の敵に一泡吹かせてやろうじゃないか」

太田は言った。

「面白いかもしれないけど、上はどうするんだ。
絶対に許してくれないよ」

西沢はニヤリと笑った。


決行日と決めた5月17日の任務終了後、坂井は一旦着陸したが、
中島司令に敵機を追うと合図して再び離陸した。

そして西沢、太田と上空で落ち合うと、ポートモレスビーに飛び、
緊密な編隊で3回の宙返りをやってのけたのだった。

西沢は大喜びで「もう一度やりたい」と言った。

零戦は高度6,000フィートまで降下し、さらに3回ループしたが、
地上からの攻撃を受けることはなかった。
その後、彼らは他の部隊から20分遅れて基地到着した。

午後9時頃、酒井、太田、西沢の3人は笹井中尉の部屋に呼ばれた。
彼らが到着すると、笹井中尉は一枚の手紙を差し出した。

「これをどこで手に入れたと思う?」

と彼は叫んだ。

「わからん?馬鹿者どもが!教えてやろう。
数分前に、敵の航空機がこの基地に落としていった」

英語で書かれた手紙には「ラエ司令官へ」とあった。

「本日基地上空に来訪した3人のパイロットに、
我々はとても感銘を受けております。

基地一同、我が上空で行ってくれたあの宙返りを大変気に入りました。
また同じ皆様が、今度はそれぞれ首に緑色のマフラーをつけて、
もう一度訪問してくれればこれに勝る喜びはありません。

前回はまったくお構いもできず大変申し訳ありませんでしたが、
次回は全力で歓迎することを約束いたします」

3人は固まって笑いをこらえていたが、笹井は彼らの馬鹿げた行動を叱責し、
今後敵地での曲芸飛行を禁止したのである。
しかし、台南空の3人のエースは、西沢の「ダンス・マカブル」の
空中デモンストレーションには価値があったと密かに納得していた。

ところで、英語の西沢のWikiには、この写真に写る手前が西沢とその零戦で、
後は彼の僚機であるという説明があります。

この情報も不確かですが、敵基地宙返りに関しては
そもそも台南空の行動調書にも、肝心の連合軍基地の記録にも、
そのようなことは全く残されていません。
(少なくとも台南空の行動調書はわたしも確認済み)

わたしに言わせれば、「死の舞踏」というサンサーンスの曲を
西沢広義が知っていたという可能性はもっと低く、さらにこの曲から
三回宙返りを思いつくということ自体日本人のメンタルに思えません。

これは後世の、日本人ではない作家の「創作」と考えるのが妥当でしょう。

 

【特攻掩護と西沢の死の予感】

この頃絶好調だった台南空ですが、勿論そのまますむわけはありません。
次第に疲弊を強め、薄皮を剥ぐように戦力は落ちていきます。

15勝のエースだった吉野俐(さとし)飛曹長を空戦で失い、
西沢は僚機である本吉義男1等飛兵を撃墜され失います。

「このとき着陸した西沢は、地上スタッフの彼のに対する歓声を無視し、
飛行機に燃料を補給し、銃を装填しろと命令して、
たった一人で行方不明のウィングマンを探しに行った。
2時間後に戻ってきた彼の顔には悲壮感が漂っていた」

 

この頃、西沢と対戦したVF-5のハーバート・S・ブラウン中尉は、
自分の機体に銃撃で損傷を負わせ、その後近づいてきた零戦の操縦席から、
搭乗員が彼に向かってニヤリと笑って手を振って去った、と証言しています。

なぜこの証言が残されたかというと、ブラウン中尉はその後、
F4Fを空母「サラトガ 」に帰還させ生きて帰ることに成功したからです。

西沢は相手に致命傷を負わせたわけではないことを知りながら、
あえてとどめを刺さず去ったということになります。

 

その後、坂井三郎はドーントレスの銃撃で負傷して帰国。

笹井醇一中尉は海兵隊戦闘機隊VMF-223の
マリオン・E・カール大尉に撃墜され戦死。
PO3C羽藤 一志(19勝)、WOC高塚寅一(16勝)、
PO2C松木進(9勝)が戦死。

太田敏雄34回目の勝利を収めた直後に
フランク・C・ドーリー大尉に撃墜され戦死。

1943年2月7日、ガダルカナルから最後の日本軍が退去し、
西沢は帰国して教官職を経たのち、第251空隊に編入され、
再びラバウルに戻ることになりました。

西沢は6月中旬までに6機の連合軍機を撃墜しましたが、その後、
日本の海軍航空隊は個人の勝利を記録することを完全に放棄したため、
西沢の正確な記録を把握することはこの時点で不可能になっています。

しかし、この頃、西沢の功績を称え、第11航空艦隊司令官から
 Buko Batsugun (=For Conspicuous Military Valor)
(武功抜群=卓越した軍事的勇気を称えて)と書かれた軍刀が贈られました。

西沢は9月に第253空に転属し、その後准尉に昇格しました。

アメリカのフィリピン侵攻の脅威が高まり、日本は
特攻という最後の手段を取らなくてはならなくなります。

関行男中尉ら爆弾を搭載した零戦を操縦する志願者たちは、
遭遇したアメリカの軍艦、特に空母に意図的に機体を衝突させるという、
「神風」と呼ばれる自殺行為の最初の公式任務を遂行することになっていた。


特攻機が突入した「セント・ロー」

西沢はこの護衛に付き、20機のグラマンF6Fヘルキャットと交戦、
彼の個人撃墜はは87に達した。
この時5機の神風のうち4機が目標に命中し、護衛艦セント・ローを沈めた。


1944年10月25日、護衛艦USS「ホワイトプレーンズ」に激突する直前の
関行男中尉の三菱A6M2

 

西沢はこの飛行中に自分の死を幻視した。
それは予感となった。

西沢は帰投後、中島中佐に出撃の成功を報告し、
翌日の神風特攻隊への参加を志願した。

中島は後に坂井三郎に「不思議なことだ」と言っている。
このとき西沢が抱いた予感とは、
自分はあと数日しか生きられないという確信めいた思いである。

中島は、しかし彼を手放さなかった。

「あれほど優秀なパイロットは、空母に飛び込むよりも、
戦闘機の操縦桿を握っている方が、国のために貢献できるからだ」

西沢の零戦には250キロの爆弾が搭載されたが、それに乗ってスリガオ沖で
護衛空母「スワンニー」に飛び込んだのは経験の浅い勝俣富作少尉だった。

「スワンニー」

沈没はしなかったものの、数時間にわたって炎上し、
乗組員85名が死亡、58名が行方不明、102名が負傷した。


【最後の瞬間】

自分の零戦が勝俣の特攻によって破壊された翌日、
西沢をはじめとする第201航空隊の搭乗員5名は、
中島キ49呑龍(「ヘレン」)輸送機に乗り込みました。

セブ島の飛行場で代替の零戦を受け取るため、
マバラカットのクラーク飛行場に向けて出発したのでした。

ミンドロ島のカラパン上空で、キ49輸送機は、空母USS「ワスプ」の
VF-14飛行隊のF6Fヘルキャット2機から攻撃を受けて撃墜され、
西沢は操縦者ではなく乗員の一人として死亡しました。

空中戦では絶対に撃墜されないと公言していた西沢は、ヘルキャットの
ハロルド・P・ニューウェル中尉の攻撃の犠牲になったのです。

最後の瞬間、彼が何を思ったか、その気持ちは容易に想像がつきます。

 

西沢の死に対し、連合艦隊司令官の豊田副武は、全軍布告で
その戦死を広報し、死後二階級特進となる中尉に昇進をさせました。

その頃の終戦時の混乱のため、
日本最高の戦闘機パイロットの葬儀が行われたのは
戦争の終結した2年後となる1947年12月2日のことでした。


英語の資料だと、西沢の戒名はこうなっています。

Bukai-in Kohan Giko Kyoshi

「武海院」

は間違いないと思うのですが、あとは力及ばず見つけられませんでした。
Gikoは「技巧」Kyoshiは「教士」かな。

最後に、あるアメリカ人ジャーナリストの、
彼についてのエッセイの最後の言葉を引用します。

Nishizawa was also given the posthumous name 
Bukai-in Kohan Giko Kyoshi, 
a Zen Buddhist phrase that translates: 
‘In the ocean of the military, reflective of all distinguished pilots, 
an honored Buddhist person.’

It was not a bad epitaph for a man once known as the Devil.

 

また、西沢にはBukai-in Kohan Giko Kyoshiという戒名が与えられた。
これは禅宗の言葉である。

「海洋の軍隊におけるすべての優れたパイロットの反映であり、
かつ名誉ある仏教徒であった男」

かつて "悪魔 "と呼ばれた男の墓碑銘としては悪くない。

 

続く。

 


スミソニアンの選んだエースと選ばなかったエース(日本編)〜スミソニアン航空博物館

2021-10-09 | 飛行家列伝

さて、最後まで引っ張ってしまいましたが、
「スミソニアンの選んだ第二次大戦のエース」シリーズ、
我が帝国海軍の二人のエースを紹介するときがやってきました。

言わずと知れた西沢広義と杉田庄一ですが、この二人については
今更わたしがブログに書くような情報はみなさんご存知のはずですので、
まずは、スミソニアンが選ばなかったエースから回り道します。

 

■ スミソニアンの選ばなかった日本人エース

スミソニアンが選んだ西沢、杉田は両者ともに海軍です。

西沢広義は名実ともに日本のトップエースとしてアメリカでも有名で、
日本の記録だと撃墜数143機、単独87機か36機とされており、
スミソニアンによるとこれが104victorysとなりますが、
数字だけならそれより上とされている、

Tetsuzo Iwamoto.jpg 

岩本徹三海軍中尉(自称202機、確実141機、記録80機)

が影も形もありません。
西沢の記録も曖昧なのは、海軍が1942年から撃墜記録を
公式に残すことをやめたからだとされています。

そして、西沢と杉田(70機撃墜)の間に、本来ならば
海軍エースの3位、日本人エースでは4位として、

福本繁夫

という搭乗員がいるのですが、どこにも資料が残っていません。
日本人ですら知らないのですから、スミソニアンが知ってるはずないですね。

そして、もう一人の「スミソニアンが選ばなかったエース」は、

上坊 良太郎(じょうぼうりょうたろう)陸軍大尉 

76機撃墜

となります。
福本さんはともかく、スミソニアンはどうしてこの人を無視したのか。
数字の上では、杉田庄一より上となるはずなんですが。

というわたしも、実は初めて聞く名前で初めて見る写真なので、
ざっとバイオグラフィーを要約してみます。

上坊 良太郎 1916(大正5)年 - 2012(平成24)年

陸軍少年飛行兵第1期出身。
20歳で明野陸軍飛行学校の戦闘機訓練課程を受ける。

翌年1937年日中戦争に出征し、九五式戦闘機で中国空軍のI-15を初撃墜。
1939年ノモンハン事件で18機のソ連戦闘機を撃墜。

帰国後陸軍航空士官学校に入校し少尉に任官。

南支の広東と武昌でアメリカ陸軍航空隊のPー40 と交戦。

その後太平洋方面でB-29を2機撃墜。

撃墜数については、公式記録が76機とされており、
さらに同期生などもその数を肯定していたものの、本人が
謙虚な性格のためそういったことを全く語ろうとせず、
回想記によれば、ノモンハンでの18機、中国でのP-40・2機、
シンガポールでのB-29・2機を含めて30機、というのが
どうやら「正確な数字」かもしれない、みたいな話になっており、
要するにスミソニアンとしても公式記録じゃないなら仕方ない、
ということだったのではないかと思われます。

もう一つ、上坊さんは戦闘機乗りらしい写真が全く残されておらず、
唯一見つかったのがこれだけ⇧だったので、やっぱりいかにもな
面魂を感じさせる杉田庄一にしておこう、となったのではないでしょうか。


日本のエースについては、いつの頃からか個人撃墜を記録することを
日本人らしい謙虚さに欠けるという理由で(知らんけど)
やめてしまったので、ワールドワイドなレベルでは
客観的な数字が出てこないという研究者泣かせの事態を生んでおります。

岩本徹三の名前が出なかったのも、おそらく信憑性の点で、
いくら多くても、酔っ払って本人が吹聴していた数字じゃどうも、
ということだったのではないかと思われます。

杉田庄一(すぎたしょういち)帝国海軍飛曹長

 C.W.O  Shyouichi Sugita

80機撃墜

杉田庄一の最終階級は海軍少尉なのですが、
スミソニアンでは「チーフ・ウォラント・オフィサー」を意味する
CWOがタイトルになっているので、飛曹長としておきました。

ただし、杉田飛曹長については英語の資料がほぼ皆無なので、
残りの紙幅を西沢広義情報で埋めます。

西沢広義(にしざわひろよし)帝国海軍飛曹長

 C.W.O. Hiroyoshi Nishzawa

1920年1月27日生まれ
日本、長野県
1944年10月26日没(24歳)
フィリピン、ミンドロ

104機撃墜

西沢広義については普通に日本語のWikiを見ればわかることばかりなので、
英語による記述を拾ってきて翻訳することにします。

西沢広義も最終階級は少尉ですが、スミソニアンでは
チーフ・ウォラント・オフィサー、兵曹長となっているので
それに準じました。 

日本のエースがどう海外で捉えられているかの理解の一助になれば幸いです。
ネイティブネーム 
西沢広義

ニックネーム  ラバウルの魔物
桜の暗殺者(まじかよ)

西沢は、その息を呑むような華麗で予測不可能な曲技と、
戦闘中の見事な機体制御により、同僚から「悪魔」と呼ばれていた。 

1944年、フィリピン攻略戦で日本海軍の輸送機に搭乗中戦死した。

戦時中、最も成功した日本の戦闘機のエースであった可能性があり、
86または87の空中戦での勝利を達成したと伝えられている。

【初期の人生】

西澤は、1920年1月27日、長野県の山村で、
カンジ・ミヨシ夫妻の五男として生まれた。
父は酒造会社の経営者であった。
広義は高等小学校を卒業した後、織物工場に就職した。

1936年6月、西沢は「予科練」への志願者を募集のポスターに目を止め、
応募して、日本海軍航空隊の乙種第7飛行隊の学生パイロットの資格を得た。

1939年3月、71人中16番目の成績で飛行訓練を修了した。
戦前は、大分、大村、鈴鹿の各航空隊に所属した。
1941年10月、千歳航空隊に転属し、階級は一等兵曹となった。

【西沢広義という人物】

西沢広義は、痩せこけて病弱のような顔をしていたが、
零戦のコックピットに座ると「悪魔」と化した。

ドイツのエーリッヒ・ハルトマン、ロシアのイワン・コジェドゥブ、
アメリカのリチャード・ボングなど、
第二次世界大戦時の戦闘機パイロットの多くは、
生まれながらにこの名誉を背負っているような雰囲気を持っていたが、
日本のトップエース、西沢広義は決してそうではなかった。

戦友の一人、坂井三郎は、西沢のことを、

「病院のベッドにいてもおかしくないタイプだった」

と書いている。

日本人にしては背が高く、5フィート8インチ近く(177cm)あったが、
体重は140ポンド(63kg)しかなく、肋骨が皮膚から大きく突き出ていた。

柔道と相撲に長けていたが、坂井はまた、西沢が常に
マラリアと熱帯性皮膚病に悩まされていたことを指摘している。

「いつも顔色が悪かった」

坂井は西沢の数少ない友人の一人だったが、

「普段は冷たく控えめで寡黙、
人望を集めるタイプではなく、どこか哀愁を帯びた一匹狼的人物」

と表現している。
(ここは考えられる限り穏便に翻訳してみました)

しかし、西沢は信頼するごく一部の人たちに対しては、非常に誠実であった。こんな西沢は、三菱A6M零戦のコックピットの中で、驚くべき変貌を遂げた。
坂井は、

「一緒に飛んだすべての人にとって、彼は "悪魔 "だった」

と書いている。

「西沢が零戦でやったようなことを、他の人がやったのをみたことがない。
その操縦は息を呑むほど見事で、まったく先の予想がつかず、
見ていて心が揺さぶられるようなものだった」

彼はまた、誰よりも早く敵機を発見できるハンターの目を持っていた。

新世代の米軍機が日本軍から太平洋の空を奪い取った時でさえ、
零戦を操縦している限り、彼に敵はないと皆が確信していた。


【ラバウルの悪魔】

1941年12月7日の開戦後、西沢を含む千歳グループの飛行隊は、
ニューブリテン島に到着し、台南航空隊に参加してラバウルに展開する。

彼の初撃墜はポートモレスビーで遭遇した
オーストラリア空軍のカタリナI型飛行艇である。

3月14日、アメリカ陸軍航空隊のP-40の撃墜を部隊として主張したが、
これらはいわゆる個人の公式記録とはなっていない。

日本軍は、個人の成績を集計することを奨励せず、
部隊のチームワークを重視していた。
フランスやイタリアと同様に、撃墜は個人ではなく
航空隊の勝利として公式にカウントされるのが常だった。

したがって、日本の飛行士の個人的な撃墜記録は、
戦後になってからの本人の手紙や日記、あるいは
仲間の手紙などをもとに確認するしかないのが現状である。

西沢もまた、スピットファイアを撃墜したと主張しているが、
当時のオーストラリア軍にはスピットファイアは存在していない。


その後日本軍はラエとサラモアを占領し、西沢を含む戦闘機中隊は
斉藤正久大尉の指揮する台南空に編入された。

台南空の笹井醇一中尉率いる台南空の零戦隊は、4月11日、
ポートモレスビー上空で4機のエアコブラと遭遇した。

笹井は、本田PO3Cと米川ケイサク1飛兵の2人の翼手に守られながら、
最後尾の2機のP-39に飛び込み、即座に2機を撃墜している。

この時の空戦で、坂井が零戦を横滑りさせて
先頭の2機の真後ろにつけようとすると、
戦いはすでに2機によって終わらされていた。

「2機のP-39は、真っ赤な炎と濃い煙を上げながら、
狂ったように地球に向かって突っ込んでいった。

私は、急降下から抜け出したばかりの零戦の1機に、
新人パイロットの西沢博義が乗っているのを確認した。
一発で命中させた2機目の零戦(太田敏雄操縦)も、
急降下しながら編隊に戻ってきた」

この時から、西沢と22歳の太田は、台南空の際立った存在となる。
坂井は

「よく一緒に飛んでいたので、他のパイロットからは
 "クリーンナップ・トリオ "と呼ばれていた」

と書いている。

太田は外向的で陽気で愛想が良かった。
坂井は、太田のことを

「辺鄙なラエなんかよりも、ナイトクラブの方がしっくりくるような」

と評していた。

しばらく勝ちのなかった西沢が、3機のP-39とP-40を撃墜し、
帰投してきた時の様子を坂井はこう書いている。

「零戦が止まったとき、西沢がコックピットから飛び出してきた。
いつもはゆっくりと降りてくるのに、今日はゆったりと伸びをして、
両手を頭上に上げて『イエーイ!』と叫び、 ニヤリと笑って去っていった。

その理由は、笑顔のメカニックが語ってくれた。
彼は戦闘機の前に立ち、指を3本立てたのだった。

西沢が復活した!

 

ナイトクラブは謎だわ。

続く。

 

 


スミソニアンが選ばなかった第二次世界大戦のエース〜スミソニアン航空博物館

2021-09-29 | 飛行家列伝


スミソニアンが選んだ21名の第二次世界大戦のエース。
我が大日本帝国から選ばれたのは、海軍搭乗員の二人です。

勿体をつけるまでもなく、それは西沢博義杉田庄一であるわけですが、
ここであらためてその21名のエースの名前を列挙しておくことにします。

【スミソニアンが選んだ21名のエース】

ルフトバッフェ編で書いたように、撃墜数というのはあくまでも
その時代の、その国の装備で、相手があってのことであるので、
必ずしもその数が戦闘機乗りとしての技量を評価するものではないのですが、
ここではその21名を撃墜数順に列記していきます。


1、エーリッヒ・ハルトマンナチス・ドイツの旗352

2、ゲルハルト・バルクホルンナチス・ドイツの旗301

3、西沢広義104

4、エイノ・イルマリ・ユーティライネン🇫🇮 93

5、杉田庄一80

6、ハンス・ウィンド🇫🇮78

7、イヴァン・コジェドゥーブ62

8、アレクサンドル・ポクルィシュキン59

9、マーマデューク・パトル南アフリカ連邦の旗🇬🇧51+

10、リチャード・ボング🇺🇸 40

11、トーマス・マクガイア🇺🇸 38

11、”ジョニー”ジェームズ・ジョンソン🇬🇧38

13、デビッド・マッキャンベル🇺🇸34

14、ピエール・クロステルマン🇫🇷 33

15、フランシス・スタンリー・ガブレスキー🇺🇸 28

15、グレゴリー・ボイントン🇺🇸28

17、アドリアーノ・ヴィスコンティ🇮🇹26

18、フランコ・ボルドーリ-ビシュレッリ🇮🇹 24

19、マルセル・アルベール🇫🇷 23

20、スタニスワフ・スカルスキ🇵🇱22+

21、ヴィトルト・ウルバノヴィッチ🇵🇱18


1位と2位が「対ソ連機チート」のハルトマンとバルクホルン。
3位に我が西沢広義中尉が入ってきています。
つまり西沢は連合国相手に最も多い撃墜数を挙げたことになります。

しかし、たとえばアメリカ航空隊は、ある程度以上の数字をあげたら
人的リソースの確保というか、褒賞の意味合いで、
エースを後方に配置し、ボングのように教官職に付ける制度だったので、
死ぬまでこき使われた(?)帝国陸海軍の搭乗員より
数字が低くてもこれはあたりまえのことです。

それからこのランキングを見ていて気付くことがもう一つ。
スミソニアンは同じ国から2名ずつ(アメリカ以外)を選んでいますが、
その二人の撃墜数が、国によってほぼ拮抗していることです。

つまり、撃墜数というのは環境(期間)と与えられた装備、
相手のレベルによってある程度上限が決まってくると言えるでしょう。


そういう細かいファクターも絡んでくるとなれば、
単純に各国エースの撃墜数を順位にすることには、
ほとんど意味がないということもおわかりいただけるでしょう。
(やってしまってますけど)

【スミソニアンが選ばなかったドイツのエース】

300機以上の撃墜数をあげたエースがいる一方、
9機の撃墜にもかかわらず、超有名なルフトバッフェのエース、それが、

ナチス・ドイツの旗ハンス=ウルリッヒ・ルーデル大佐
Hans-Ulrich Rudel (2 July 1916 – 18 December 1982) 

です。
ハルトマンがヒットラーに勲章を授与されたとき、

「君とルーデルみたいなのがもっといればよかったのに」

とまで言わせたドイツの空の英雄。

彼は急降下爆撃機のパイロットであり、戦闘機ではないのに
なまじ9機撃墜というエースの要件を満たしているため、
一応エース名鑑にはその名前がありますが、その真の功績は
ユンカースJu87シュトゥーカで東部戦線のソ連戦車を500両以上、
列車を800両以上撃破したことにあります。

【スミソニアンが選ばなかった国のエース】

米英独日仏伊波芬露。

スミソニアンは以上9カ国からしかエースを選ばなかったので、
その他の国が輩出したエースをご紹介しておきます。

Mato Dukovac with aircraft.jpg

クロアチア独立国の国旗マト・デュコバク大大尉

Cap. Mato Dukovac(23 September 1918 – 6 June 1990)

クロアチア独立国空軍

44機撃墜

クロアチアは第二次世界大戦中ドイツとイタリアの支援を受けて
クロアチア独立国となっていました。
両国の傀儡国家なので、つまり枢軸側ということになります。

日独伊が三国同盟を結ぶとこれと軍事同盟を結び、
日本とも国交がありました。

デュコバク大尉が空戦を行った相手は赤色空軍となります。
数が多めなのはそのせい・・・?

ちなみに彼は当時ドイツ空軍元帥でありリヒトホーフェンの従兄弟、
ヴォルフラム・フライヘア(男爵)・フォン・リヒトホーフェン
からドイツ十字章を手渡されております。

 

Bazu cantacuzino.jpg

ルーマニア王国の旗 「バズー」コンスタンティン・カンタクジノ予備中尉

Constantin Cantacuzino  Bâzu;(11 November 1905 – 26 May 1958) 

ルーマニア王立空軍

44機撃墜

ルーマニアもまたソ連に土地を割譲されていたため、
ドイツ側につき枢軸国として第二次大戦に参加しました。

彼はルーマニア王立空軍の予備士官としてBf109Gに乗り、
RAFのスピットファイアやソ連赤色軍のエアコブラやYak-7、
そしてさらにはアメリカ陸軍P51マスタング、B-24、
P-38ライトニングを撃墜のリストに加えました。

この人の特異な点は、ルーマニアが1944年に連合国側に寝返ったため、
その後彼はルフトバッフェのHe111H、Fw190と撃墜している件です。

調べたわけではありませんが、連合国、ソ連、枢軸国と戦い、
計4カ国の空軍機を落としているのはこの人だけじゃないでしょうか。

ヤン・レズナク曹長

Ján Režňák(14 April 1919– 19 September 2007)

スロバキア空軍

32機撃墜

 

スロバキア空軍で戦闘機パイロットの訓練をうけ、兵長として
アヴィア Bk-534を装備し、東部戦線でウクライナに出撃を行います。

その後デンマークでBF 109Eへ機種転換を行い、
ソ連空軍との制空権争いでLaGG-3、I-16、I-153、MiG-3、
DB-3、Pw-2、Yak-1などを撃墜し、第二次世界大戦における
スロバキア空軍のトップ・エースとなりました。

Josef František.png

🇨🇿ヨゼフ・フランチシェク軍曹

Josef František (7 October 1914 – 8 October 1940) 

チェコスロバキア空軍

17機撃墜

この人の顔を見た途端、ガールフレンドにアクロバット飛行を見せていて
事故死してしまったというその最後を思い出しました。

本人は死んじゃったからともかく、目の前で墜落死されたガールフレンドは
その後のトラウマ半端なかったんじゃないかということも書いたかな。

まあ、なんだ。ドンマイ。

Liu Cuigang.jpg

中華民国の旗 #劉粋剛(りゅう すいこう)空軍上尉

Liu Cuigang(1913年-1937年)

中華民国空軍

11機撃墜

試用機 カーチスホークIII, 日中戦争

日中戦争は第二次世界大戦か?という説もありますが、
一応戦史的には第二次世界大戦の一部であるとされていますし、
当コーナーにはフライングタイガースの資料もありますので、
彼を「第二次世界大戦のエース」とみなします。

日中戦争開始後、劉は
九六式陸上攻撃機、空母「加賀」「鳳翔」の艦上戦闘機隊
(複葉機[と九六艦戦)などと交戦、
9月22日の南京防空戦、続く南京空戦で11機を数え、
事実上のトップエースとなりました。
その勇猛ぶりから「空軍五虎将の一人」「空の趙子龍」と呼ばれています。

加藤隼戦闘機隊と戦うため、派遣されることになった劉は、
ホークⅢ4機を率いて現地に飛びますが、途中で日没となり、
僚機と離れ離れとなってしまいました。

ある村の上空に飛来した劉の飛行機の音を連絡機と錯覚した町長は、
誘導のため三階建ての楼閣の傍で火をたいたところ、
燃料不足で火を目印に降下してきた劉は暗闇の中楼閣に衝突、死亡しました。
享年24。死後少校に特進しています。


その他、スミソニアンが選ばなかったエースは、

クリブ・コードウェル 28機1/2  オーストラリア空軍

レイモンド・ヘスリン 21機1/2 ニュージーランド空軍

セントジェルジ・デジェー 30機1/2 ハンガリー空軍

アンドレアス・アントニオウ 6機 ギリシア空軍

カルロス・ファウスティノス 6機 メキシコ空軍

などがいます。

 

続く。

 


スミソニアンの選ぶ第二次世界大戦のエース(バルクホルン編)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-27 | 飛行家列伝

スミソニアンの「第二次世界大戦のエース」、ついつい
エーリッヒ・ハルトマンに一項を割いてしまいましたが、
今日はスミソニアンの選んだもう一人のドイツ空軍のエースです。

 

ナチス・ドイツ

Barkhorn33.jpg戦後の貫禄よ

ゲルハルト・”ゲルト”・バルクホルン少佐(最終少将)

Gerhard Barkhorn (20 March 1919 – 11 January 1983) 

301機撃墜

 

【初期の人生とその後のキャリア】

バルクホルンはハルトマンに次ぐ成績を上げた戦闘機パイロットです。

1919年、現在はロシアのカリーニングラードとなっている、
当時ワイマール共和国のケーニヒスベルクに、

土木関係の公務員の父を持つ4人兄弟の3番目として生まれた彼は、
兄弟と共にドイツ青年運動のグループに参加しており、
青年期には帝国労働奉仕に加わったりしています。

その後ナチス・ドイツの空軍学校に
ファーネンユンカー(士官候補生)として入隊し、
ハインケルHe72複葉練習機で飛行訓練を受けますが、
当時の飛行教官は彼のことを当初ヘタクソだと評価していたといいます。


彼が少尉に昇進した1939年の9月、ドイツ軍のポーランド侵攻によって
ヨーロッパに第二次世界大戦が始まりました。

バルクホルンは戦闘機パイロット学校に配属され、訓練機を経て
メッサーシュミットBf109に初搭乗することになります。

最初の頃、彼の空中射撃訓練の結果はむしろ平凡以下でした。
飛行学校でもそうだったように、彼はスロースターターで、
何事も最初はうまくいかず、むしろ不器用なタイプでした。

【第二次世界大戦】

歯並び良し!

バルクホルンは訓練終了後、第一次世界大戦の戦闘機パイロット、
マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンにちなんで命名された
リヒトホーフェン戦闘機隊に配属されました。

戦後、トップエースだったハルトマンがこの戦闘機隊の司令官になり、
スターファイターの導入をめぐって解任されたという話をしたばかりです。

かつてこの分隊はフランクフルトにあり、Bf109 Eを装備して、
第二次世界大戦の「偽装戦争」の時期に国境の哨戒を行っていました。

「偽装戦争」=Phony War、フランス語:Drôle de guerre(奇妙な戦争)
ドイツ語:Sitzkrieg(座り込み戦争)は、日本語では、

「まやかし戦争」「いかさま戦争」

などと言われており、ドイツがポーランド侵攻してから8ヶ月間を指します。

ナチス・ドイツは1939年9月1日にポーランド侵攻を行い、
2日後に英仏はナチス・ドイツへの宣戦布告を行うわけですが、
それでドンパチが始まったわけではなく、実質翌年の1940年5月10日、
ドイツによるフランスへの侵攻があるまで何も起こりませんでした。

これはイギリスとフランスが大規模な軍事行動は行わなかったからですが、
もちろんこの両国は全く何もしなかったわけではありません。
海上封鎖を中心とした経済戦を展開し、ドイツの戦力を低下させるために、
数々の大規模な作戦を綿密に計画していたのです。

作戦の中には

ノルウェーに侵攻してドイツへの鉄鉱石の供給源を確保する
バルカン半島に英仏軍の戦線を展開する
ソ連を攻撃してドイツへの石油の供給を断つ

などがありました。

こういうのを見ると、イギリスという国の狡猾さというか、
国家としての老練さというのは鉄板だなと思いますよね。
着々と裏側から手を回していく老獪さが。

 

この頃もバルクホルンには戦闘機エースとしての目立った動きはありません。
偽装戦争では交戦のしようがなかったのでしょう。
それどころか、猩紅熱にかかって1ヶ月入院したりしています。

彼が初めて敵と接触することになるのは、バトル・オブ・ブリテン、
英仏海峡を越えた戦闘哨戒中でした。

何度か爆撃機を援護する任務をこなし、ここですでに勲章を授与されますが、
初交戦はその後、英仏海峡上空で遭遇したスピットファイアでした。

しかし、このときの彼は散々で、何度も被弾し、
英仏海峡に墜落するありさま。
非常用ディンギーで2時間漂流中、ドイツの救助隊に発見されました。


つまり、バルクホルンは「偽装戦争」「バトル・オブ・ブリテン」で
1機も撃墜していないと言うことです。

これは彼がスロースターターだったからではなく相手がRAFだったからです。

彼はハルトマンに次ぐ撃墜数を挙げましたが、
それはすべて対ソ戦によるものでした。

前回のハルトマン編でも書きましたが、
この頃のソ連空軍というのは全くお粗末な装備で戦わされていたのです。

これもその一環というべきか、当時他の国が決してやらなかった
「戦闘機に女性を乗せる」のも、ソ連だけがやっていましたし。

逆にそんなソ連軍でエースになった人は真の実力者だったといえましょう。

 

【バルバロッサ作戦】

Unternehmen Barbarossa ウンターネーメン・バルバロッサとは、
1941年6月22日に始まったドイツによるソ連奇襲作戦の名称です。

バルバロッサとは神聖ローマ帝国のフリードリヒ一世のあだ名で、
barba「あごひげ」+rossa「赤い」=赤ひげ。
フリードリッヒ一世が救国の英雄であることからあだ名を拝借したようです。

バルクホルンの戦闘機隊、JG52は、バルバロッサ作戦発動の準備のため、
独ソ境界線付近の飛行場に出動を命じられました。

6月22日、ドイツがソ連への攻撃を開始した日、彼は侵攻支援のため
空戦を行い、これが最初の撃墜を彼にもたらします。

相手はイリューシンDB-3爆撃機でした。
続けざまにポリカルポフのI-16戦闘機、翌日にはDB-3爆撃機を撃破し、
彼は一気に3度目の空中戦勝利を収めました。

また、この頃彼はミコヤン・グレヴィッチ社のMiG-1戦闘機
ドイツでの初期の呼称であるI-18戦闘機の破壊を主張しています。

MiG-1

その間にもバルクホルンはオーバーロイトナント(中尉)に昇進。
撃墜数は10機となっていました。

案の定、ソ連空軍を相手にするようになってから、彼は急激に
撃墜数を伸ばして行ったわけです。

【飛行隊長】

バルクホルンは1942年3月1日にJG52の第4戦闘機隊長に任命されました。

6月22日、にドイツ軍が行った「フリデリクスII」作戦の支援で
ラヴォーチキン・ゴルブノフ・グドコフのLaGG-3戦闘機を5機撃墜し、
「1日エース」(エースの条件が5機撃墜であることから)になりました。

駐機中のLaGG-3 66シリーズ (第88戦闘機連隊所属、1943年夏撮影)

LaGG-3、ラググ3は、空中分解を起こすこともあるという代物で、
ソ連兵たちはその木製部分を持つ飛行機をして、

保証付きの塗装済棺桶(Lakirovanniy Garantirovanni Grob =LaGG)

と呼んでいましたから(パイロットはなかなかの皮肉屋が多い)
技量の低いパイロットが操縦するラググ3を1日5機撃墜するのは
RAFや米航空隊を相手にするよりはよほどイージーだったのは否めません。

彼は不時着によって下肢に重傷を負ったことがありますが、
相手はソ連機ではなく、高射砲の命中でした。

 1942年12月19日、バルクホルンは勝利数を101に伸ばしましたが、
これはドイツ空軍における「大台」を達成した32番目となります。

【ハンス・ヨアヒム・マルセイユの実力】

ここで、ご存じない方は、是非Wikiでもいいですから、
「第二次世界大戦のエース」「独軍のエース」のランキングを見てください。

対ソ連戦でルフトバッフェのパイロットがいかにイージーモードだったか、
「大台」が数えるのも面倒になるほど多いのに驚かれることでしょう。

352機のハルトマン、301機のバルクホルンに次いで、
200機台が13人、162機〜199機までが13人。

どうして162機からにしたかというと、158機撃墜した
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは、対ソ戦ではなく、
全て対連合国機の撃墜でこの数字を上げているからです。

「アフリカの星」マルセイユ

対ソ連機の撃墜数はある意味「チート」で、メッサーシュミットなら
誰でもある程度数字を挙げることができる一方、
同じパイロットでも相手が連合国ならこんなにうまくいくはずない、
とわたしは常々言っています。

こう言ったことを勘案すると、ルフトバッフェで真に実力があったのは、
ハンス・ヨアヒム・マルセイユだった、ともう一度言っておきます。

彼は自他共に認める射撃の名手であり、相手にしていた敵機も、
欠陥だらけのソ連機ではなく、スピットファイアやハリケーンでした。

 

とはいえ、少なくともバルクホルンは
ソ連軍のパイロットを舐めていたわけではなく、
必ずしも常にイージーモードだったわけではないことを告白しています。

ある日、彼は「飛ぶ棺桶」であるはずのLaGG-3と会敵し、
40分間のドッグファイトを行い、

「まるでシャワーから出てきたかのように汗が噴き出してきた」

にもかかわらず、この相手を捉えることができませんでした。
明らかに劣る機体を駆るこのパイロットの技量がいかに優れていたかを思い、
バルクホルンは相手に崇敬の念を抱いたと回想しています。

 1943年 2月27日、バルクホルンは120回目の空中戦勝利を挙げ、
騎士十字勲章に加えて柏葉勲章を授与され、
その休暇にクリスティーン・ティシャー(通称クリストル)と結婚しました。

彼らはその後ウルスラ、エヴァ、ドロテアと3人の娘を授かっています。

ズラっぽい髪型・・


【隊司令】

バルクホルンは1943年9月1日、
JG52のII.グルッペのグルッペンコムマンデゥール
(隊指揮官)に任命されました。

順調に撃墜記録を伸ばし、1943年11月30日に200回の大台に乗ります。
そして戦闘任務1000回を達成した最初のドイツ人パイロットとなりました。

Bf 109のコックピットにて(1943年秋)

さて、ここで「ハルトマン編」でお伝えした、
「エース車中泥酔勲章受賞事件」の話をもう一度お伝えします。

というのは、このときハルトマンと一緒に柏葉付鉄十字騎士章を
ヒトラーから受賞されることになり、総統の別荘に招待されたエースの中に、
バルクホルンもいたからです。


ついでに、他の二人は

ヴァルター・クルピンスキーWalter Krupinski(197機撃墜)

ヨハネス・ヴィーゼ Johannes Wiese(133機撃墜)

というメンバーでした。

このとき勲章を受けるために総統の「狼の巣」に招待されていたのは
戦闘機エースだけではなく、爆撃機部隊や対空砲士などもいたそうですが、
列車の中で酔っ払ったのはこの4人だけです。

互いの成功と健闘を称え合い、コニャックやシャンパンで乾杯した結果、
互いに支え合わないと立っていられない状態で駅に到着しました。

ヒトラーが地下壕で最後に自決したのち、カイテルに当てた書簡を持って
脱出したことで歴史に名前を残しているドイツ空軍の副官、
ニコラウス・フォン・ベロー少佐は、彼らを見てショックを受けました。

気の毒だった副官ベロー少佐

授賞式が終わっても彼らはまだ酔っており、エーリッヒ・ハルトマンが、
帽子台から自分のと間違えてヒトラーの軍帽を取り、被ったものの、

「あれー、これ大きすぎね?」

とかヘラヘラしているのを見たフォン・ベロー少佐は、

「それは総統閣下のものだ。元に戻しなさい」(震え声)

と動揺しながら言わなければなりませんでした。
このとき4人のエースはまとめてベロー少佐に叱責されています。

ついでに、このベロー少佐は戦後連合国軍の裁判にかけられましたが、
1948年には釈放されて1980年には回想録を出版しています。


【被撃墜】

彼を撃墜したのもまたソ連機ではなく、P-39戦闘機でした。

USAAF P-39F-1BE 41-7224号機(撮影年不詳)
エアコブラ

右腕と足に重傷を負った彼は、 強制着陸して病院に搬送されました。

ちなみにハルトマンは、バルクホルンがこの負傷で欠場している間に
彼の通算勝利数を超える301回の空中戦勝利を記録しましたが、
二人の関係が気まずくなることは決してなく、
このときハルトマンが挙げた結婚式で
バルクホルンはベストマン(結婚式の介添え人)を務めました。

ハルトマンはバルクホルンをして、

「指揮官として、友人として、仲間として、そして父親として、
彼は私が出会った最高の人間」

と評しています。

しかし、この頃バルクホルンの精神は少しずつ変調をきたし始めました。
コックピットに座ると襲ってくる強い不安、
後ろに味方の飛行機がいるときでさえ拭えない恐怖。

この状態から彼は数週間かけて立ち直り、その後、
1945年の1月5日の301勝目までの3ヶ月間に26機を追加しています。

その後彼の部隊はフォッケウルフFw 190 D-9を配備しましたが、
この機体を戦闘で飛ばしたかどうかは不明のまま、バルクホルンは
健康上の理由で指揮を解かれました。

当時の彼は、4年間の戦闘で心身ともに大きなダメージを負っていたのです。
彼が1,104回目となる最後の飛行を行ったのは1945年4月21日でした。

バルクホルンはクルピンスキー、カール・ハインツ・シュネル、
エーリッヒ・ホーゲンらとともに連合軍の捕虜となりました。


【戦後の人生から死まで】

1945年9月3日、バルクホルンは釈放され、家族と再会します。
しばらく公職追放されていましたが、1949年フォルクスワーゲンに入社し、
施設・サービス管理の責任者を務めました。

1955年末、新たに創設されたドイツ空軍に入隊した彼は、
少佐に昇進し、イギリスに渡ってRAFで訓練を受けます。

チェンバレン空軍副司令官からRAFの航空機乗務員章を授与され、
ドイツに帰国後、
リパブリックF-84Fサンダーストリークを装備した部隊の指揮官となり、
続いてロッキードF-104スターファイターの操縦訓練も受けました。

彼の部隊は戦闘爆撃機F-104 Gへの移行を完了した最初の部隊です。

1964年からバークホルンはホーカー・シドレー・ハリアーV/STOL機の前身、
V/STOLケストレルの軍事的能力を評価する部隊にいました。

この飛行隊は、英米独の3カ国の軍人と地上スタッフで構成され、
彼は飛行隊のパイロットであると同時に、2人の副隊長の1人でした。

この任務で彼は機の推力を失速させて不時着させる事故を起こしましたが、
助け出されるとき、

「Drei hundert und zwei [302]!」

と言ったとされます。
ちょっと意味不明ですが、彼の撃墜数が301機であったことと関係あるかな。
知らんけど。


彼はその後少将まで昇進しました。
「指揮に必要なタフネスとプレッシャーの下で働く能力が欠けていた」
ことがそれ以上出世できなかった理由だとされます。

 

1983年1月6日、バルクホルンは妻のクリステルと友人を乗せて運転中、
自動車事故で帰らぬ人となりました。

完全な貰い事故で、妻は車から投げ出されて即死、
バルクホルンと友人は病院で意識不明のまま死亡しました。

連邦空軍の多くの上級士官が参列した軍葬では、
多くの勲章が彼の棺を彩り、空軍大将が弔辞を述べました。

 

続く。

  


スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(ハルトマン編)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-25 | 飛行家列伝

スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」展示の一隅にある
「第二次世界大戦のエース」でこれだけ楽しめてしまったわけですが、
お待たせしました。

エンディングをラスボス枢軸国日独で締めさせていただきます。
まずは皆さん大好きな(え?わたしだけ?)ドイツのエースハルトマンから。

ドイツ

 

エーリッヒ・アルフレート・ハルトマン少佐

Erich Hartmann (19 April 1922 – 20 September 1993) 

Luftwaffe(Wehrmacht) 、 Luftwaffe (Bundeswehr)

352機撃墜
ニックネーム「Baby(Bubi)」(ベビー)「Der Schwarze Teufel」(黒い悪魔)

ルフトバッフェ、という言葉をこのシリーズでナチス人民空軍に使っているので
勘違いされないように改めて書いておくと、この言葉は空中兵器を意味し、
ドイツ空軍を表すドイツ語であるので、現在のドイツ空軍のことも
ルフトバッフェと称します。

ハルトマンが第二次世界大戦時に所属した「Wehmacht=ヴェアマハト」
1935年から1945年まで存在したドイツ国防軍で、

  • 陸軍- Reichsheer(ライヒスヘーア)→ Heer(ヘーア)
  • 海軍- Reichsmarine(ライヒスマリーネ)→ Kriegsmarine(クリークスマリーネ)
  • 空軍- Luftwaffe(ルフトヴァッフェ)

から成るというわけです。
戦後ドイツ軍はドイツ連邦軍(Bundeswehr=ブンデスヴェア)になりましたが、
空軍という言葉そのものは変える必要は全くないのでそのままです。

ライヒはナチスの「ドイツ第三帝国」という意味なので、戦後は変更されています。

童顔だったハルトマンのニックネームの一つに、「Bubi」というのがあって、
それは「kid」という意味である、と英語で検索すると出てくるのですが、
実はキッドをドイツ語でいうと「キント」になるんですよね。

これ、ドイツ人が「Baby」を発音すると「ブビ」になりますので、
英語圏の人がわかりやすいように、あえて発音表記にしたのに違いありません。

それはともかく、写真でもお分かりのように、ハルトマン君、本当に童顔です。
第二次世界大戦ベビーフェイスパイロットコンテストがあったら、
こちらもダントツで(あるいは川戸正治郎と僅差で)優勝でしょう。

 

さて、エーリッヒ・ハルトマンについて検索すると、不思議なことに
ドイツ語より英語となんなら日本語の資料の方が情報が多量に出てきます。

第二次世界大戦期、人類史上最強の戦闘機エースであったハルトマンについては、
戦後自粛に萎縮してきたドイツ人より、他の民族の方が素直に?彼の功績を
(すなわちそれは連合国航空機の撃墜ということになりますが)賞賛できるのかもしれません。

【幼少期から空軍入隊まで】

ハルトマンは、医師であるアルフレッド・ハルトマンとその妻エリザベートの
2人の息子の長男として生まれました。
経済的理由で移住した中国で彼は幼年期の一時を過ごしています。
(本人は小さ過ぎて覚えていないと思いますが)

ドイツでギムナジウムを卒業するといきなりパイロット資格を取ります。
ちなみに、ハルトマンはギムナジウム時代、のちに妻になる
ウルスラ "ウシュ "ペッチと出会っています。

ウルスラさんと

彼は301回目の勝利を得た後、10日間の休みをとって
幼なじみであった彼女と市民結婚式を挙げています。

 

母親がドイツ初のグライダーパイロットという家庭に育ち、
彼女から直接飛行訓練を受けたハルトマンは、14歳という年齢ですでに
ヒトラーユーゲントでグライダーの教官を務めていました。

そんな彼が18歳でドイツ空軍の将校候補生として志願したのは当然のことでしょう。


飛行訓練生時代の彼にはこんな逸話が残されています。

入隊して2年目の砲撃訓練飛行中、規則を無視して
飛行場の上空でBf109で曲芸飛行を行い、1週間の宿舎への監禁と、
給料の3分の2の罰金という処罰を受けたのです。

しかし、そういえばこれに似た話(腕利きパイロットのいわゆるヤンチャ)
って、結構あちこちの「撃墜王物語」で聞きませんかね?
兵学校の訓練で複葉機の宙返りをして怒られたあの人とか、
戦争中わざわざ敵航空基地までいって宙返りしてきたあの人たちとか。

これらの話がもしかしたらハルトマンの伝記にインスパイアされた
ライターの創作かもしれない、と思うようになってしまっている今日この頃です。

それはともかく、ハルトマンは後に、この出来事が自分の命を救ったと回想しています。

「自室待機をしていなければ、僕は死んでいたかもしれません。
自室待機処分を受けていた週のある午後、砲撃演習が行われました。
ルームメイトが、僕の乗る予定だった機で飛行したのですが、
離陸した直後、機体は砲撃場に向かう途中でエンジントラブルを起こし、
不時着しましたが、彼はこの事故で亡くなったのです」

Featured image


その後、ハルトマンはいっそう熱心に練習に励み、自分の飛行体験から
他の若いパイロットたちに伝えるための新しい「ディクテ」を編纂しました。

【第二次世界大戦の対ソ連戦】

ハルトマンは1940年から、ドイツ空軍のさまざまな訓練所で基本的な飛行訓練、
続いてメッサーシュミットBf109の操縦を学び、戦闘機隊デビューすると
すぐに初撃墜(イリューシンIl-2)の記録を挙げます。

ただし、最初の出撃は散々でした。
ウィングマンとして最初の戦闘任務に就いた彼は、10機の敵機に遭遇すると、
焦ってスロットルを全開にして隊長機から離れ、交戦しますが、
ヒットしないどころか危うく衝突しそうになり、その後、
低層雲の中に逃げ込み、燃料切れで不時着すると言った具合です。

この初陣で彼は空対空戦のほぼすべての規則に違反していたため、
彼は3日間の地上勤務を命じられることになりました。

彼が初撃墜をしたのはその22日後でしたが、しばらく記録はこれだけにとどまりました。

 

彼のあだ名「Baby=ブビ」はこの頃上官から与えられました。
しかしそのベビーフェイスはすでに戦隊長を務めるようになっていました。

彼は赤軍から「黒い悪魔」デア・シュワルツ・トイフェルと呼ばれました。
Bf109の先端を黒いギザギザ模様に塗っていたことからついた渾名です。

1944年3月2日には、彼は202回目の、そしてその5ヶ月後には
301回目の空中戦勝利を達成して鉄十字章を受賞されました。

最後の撃墜は終戦まであと数時間となった1945年5月8日正午、
ソ連のヤコブレフを撃墜したのが352回目の空中戦勝利となり、
同日、上官から少佐に昇進を告げられますが、終戦のドサクサで
その情報は人事部まで届いておらず、のちにトラブルになります。

 

彼の行った戦闘任務は 1,404回、空中戦は825回。
ソ連機345機、アメリカ機7機、合計352機の連合軍機を撃墜しました。

彼は任務上16回機体を不時着させていますが、
敵の直接攻撃によって撃墜されたことは一度もありません。

 

ドイツ軍パイロットに次ぐ撃墜記録を挙げたフィンランドのエース、
ユーティライネンについて書いたとき、おずおずと、

「もし相手がソ連軍でなければこんなに撃墜数は伸びなかったのではないか」

と言ってみたわたしですが、驚くことに(驚くほどでもない?)
ハルトマンも同じようなことを言っております。

作戦に参加した最初の年から、ハルトマンは、いうなれば

「ソ連の『パイロットに対する敬意の欠如』」

というべき機体と装備のいい加減さをはっきりと感じていました。

ほとんどの戦闘機には有効なガンサイトさえなく、パイロットは当初
フロントガラスに手で照準を描いていたこともあったというのです。

「信じられないかもしれませんが、最初の頃は、
ロシアの戦闘機が後ろにいても全く恐怖を感じませんでした。
手描きの照準では、適切に引鉄を引くことができず(偏向射撃)、
命中するわけがないからです」

ハルトマンはまた、ベルP-39エアコブラ、カーチスP-40ウォーホーク、
ホーカー・ハリケーンは、ソビエトに貴重なガンサイト技術を提供したものの、
それでもフォッケ・ウルフFw190やBf109には劣ると感じていました。

のちにイギリスのテストパイロットがハルトマンに
どうやってその記録を達成したのかを尋ねたとき、ハルトマンは
至近距離での射撃に加えて、ソ連の(貧弱な)防御武装と操縦戦術のおかげだ、
と正直に答えています。

 

しかし彼は、捕虜のソ連軍パイロットから、極寒地で
エンジンオイルが凍らないようにする方法などを教えてもらったりしています。

【ハルトマンの戦法】

 ハルトマンの戦術はは最終的に「見る→決める→攻める→壊す」というものです。 
一旦「立ち止まる」ことで状況を判断し、そののち、
回避行動をとらない目標を選んで近距離で破壊するというものでした。

射撃手であり偏向射撃の名手だったハンス・ヨアヒム・マルセイユとは対照的に、
ハルトマンはドッグファイトよりも近距離での待ち伏せや射撃を好みました。

しかし、空戦の研究家に言わせると、明らかに「名人」の域だった
マルセイユと違い、彼には卓越した才能があったわけではなく、
知的な戦術革新者ではなかったようです。

成功の秘訣は彼が自分の飛行能力、視力の良さ、攻撃性を自覚した上で
決してリスクを取らず、優位な位置、主に後方の至近距離から攻撃し、
すぐに離脱後すると冷静に状況を再評価して次の行動をとったことでした。

彼は本能的に「落としやすい相手」「簡単な標的」を見抜く直感を持っていたのです。


しかしこの大量撃墜という結果が、あまりに「非現実的」な数字だったため、
ドイツ空軍の最高司令部にもこれを疑う者が何人もいました。
ようするに、嘘をついているのではないかと思われたわけです。

彼の主張は二重三重にチェックされ、彼の編隊のオブザーバーは
彼のパフォーマンスを注意深く監視するというおかしな状態になりました。

もちろん敵にもその名前は鳴り響いていて、彼のコールサインは共有され、
その首には1万ルーブルの賞金がかけられましたが(軍隊なのに)、
肝心のソ連パイロットたちが彼と直接対戦することを避けたため、
これで彼の「キルレート」は下がったとまでいわれています。

 

【ヒトラーから勲章を】



1944年3月、ハルトマンには他のルフトバッフェエースとともに、
アドルフ・ヒトラーから柏葉鉄十字騎士章が授与されました。

彼らはドイツに戻る汽車で全員コニャックやシャンパンをしこたま飲み、
ハルトマンなどは帽子掛けから間違えてヒトラーの帽子をとって被ってしまうほど酔っていました。
ヒトラーは酒嫌いだったので、副官は真っ青になって彼らを叱責しました(´・ω・`)

また、ダイヤモンド勲章受賞の時には、ヒトラー暗殺未遂事件直後だったため
セキュリティ対策のためにピストルの持ち込みを禁じられると、彼は、
そんなことをするなら勲章などいらぬと突っぱねています。

このとき、ヒトラーはハルトマンと長時間話し込み、

「ドイツは軍事的にはもう戦争に負けている」

ことを訴え、君とルーデルのような人物がもっといればいいのに、
といったとか。(お酒の件は不問だった模様)

 

彼は少なくとも一回、敵によって命を救われています。

アメリカ軍と交戦しているとき、燃料切れになったメッサーシュミットから、
パラシュートで脱出したハルトマンに、第308戦闘機隊の
ロバート・J・ゲーベル中尉が操縦するP-51マスタングが真っ直ぐ近づきました。

ハルトマンはこのとき覚悟を決め、自分の運命を受入れようとしていましたが、
ゲーベル中尉は、ただハルトマンの離脱とパラシュート降下をカメラパスで記録し、

通り過ぎる最後の瞬間彼にバンクをし、ハルトマンに手を振って去りました。

Captain Robert Goebel
11 Victory Ace
31st Fighter Group - 308th Fighter Squadron - 15th AF
(11機撃墜のエース、ゲーベル中尉
戦後は物理学の専門家としてジェミニ計画に参加した)

 

【最後の戦闘任務】

 1945年3月、空中戦勝利数が337となったハルトマンは、
新型ジェット戦闘機Me262部隊への参加を2度目に要請されました。

ハルトマンとジェット戦闘機。

鬼に金棒の具体例のようなマッチングで、これが実現していたら
彼の撃墜記録はどうなっていたんだろうと考えずにいられませんが、
彼は実質この要請を断っています。

そして彼の最後の空中勝利は、ヨーロッパでの戦争の最終日である5月8日、
チェコスロバキアのブルノ上空で、相手はYak-9でした。

これが停戦となる何時間か前のことです。

着陸すると戦争は終わっていたというわけですが、
ハルトマンはJG 52の司令官として、部下をソ連軍ではなく、

アメリカの第90歩兵師団に降伏させることを選択しました。

この時彼は上から自分とウィングマンだけイギリスに飛んで降伏し、
部下はソ連軍に降伏させろと密かに命令を受けていましたが、
彼は部下を置いていくことを拒否したことになります。

結局米軍はハルトマンらをソ連に引き渡すことなるわけですが。
米軍兵士はドイツ兵の脱走を見てみぬふりをするものもいました。
その後に起こった捕虜に対するソ連軍の残虐な行為(特に女性に対する)
は夜通し続いた、とハルトマンは書き遺しています。

 

ソ連側はさっそく彼にスパイとして協力することを打診してきます。
当然彼はそれを拒否したため、10日間コンクリートの床で寝て、
パンと水しか与えられないという独房生活を余儀なくされました。

このとき、妻を誘拐して殺すと脅迫され、ついには
Me262の情報について尋問を受けた際、ソ連軍の将校に杖で殴られたので、
ハルトマンは座っていた椅子で将校を殴って相手を気絶させています。

しかし彼は射殺されませんでした。
ソ連と言えどもこの英雄を殺害することのリスクを重々わかっていたのでしょう。

彼はこの時のソ連の脅しにも甘言にも一切首を縦に振ることなく、
彼を共産主義に染めようというソ連当局の試みにも、
さらには東ドイツ空軍への入隊要請も拒否し続けました。

【戦争犯罪の容疑者として】

ハルトマンはその後逮捕され、20年の懲役刑を宣告されます。

罪状は、

ソ連市民に対する残虐行為

軍事施設への攻撃

ソ連の航空機の破壊

その結果、ソ連経済に大きな損害を与えた

などの、つまり「戦争犯罪」でした。
彼は自己弁護を(弁護士がつかなかったので)行いましたが、
裁判長はこれを時間の無駄だと退けました。

判決として言い渡された25年の重労働を拒否し、独房に入れられると、
仲間の拘置者たちが暴動を起こし、看守を制圧して一時的に彼を解放しますが、
彼は公使館に再審を求め、最後まで決して諦めませんでした。

その結果、1955年末、ついにその甲斐あって釈放されます。
ハルトマン、33歳でした。


【戦後】

翌年1956年、ハルトマンはドイツ連邦軍に新設された西ドイツ空軍に入隊し、
第71 戦闘機中隊"リヒトホーフェン "の初代司令官となりました。

よかったよかった、と言いたいところですが、彼は、
F-104の調達に反対したことが下との軋轢を生み引退することになります。
この部隊は、当初はカナダエアー・セイバーを保持しており、
後にロッキードF-104スターファイターの装備を決めています。

ハルトマンはF-104を根本的に欠陥のある安全でない航空機と考え、
それが空軍が採用することに強く反対した理由でした。

彼の反対は決して根拠のないことではなく、F-104の非戦闘任務での
269機の墜落と116人のドイツ人パイロットが死亡したこと、
ロッキード・スキャンダルにまで発展した賄賂疑惑など、
彼の低い評価を裏付ける出来事に基づいていましたが、
つまりこういった率直な批判は上層部にとって邪魔だったということです。

 

彼のこの時の態度は、危険な状態での空戦は決して行わない、という、
戦闘機乗り時代の戦闘姿勢を彷彿とさせますし、ソ連の拷問にも

一瞬たりとも自分の正義を曲げることのなかった強い意志が窺えます。

同時にこんな人物が組織にとって目の上のコブでしかなかったのも当然でしょう。

 

 

ハルトマンがソ連に拘留されている間、1945年に生まれた彼の息子、
エーリヒ=ペーターは、父親の不在中生まれ、彼が帰ってくるまでに
亡くなり、ついに父はこの世で息子の顔を見ることはありませんでした。

ドイツに帰国したハルトマンは1957年に娘のウルスラ・イザベルをもうけました。

Erich Hartmann, his wife Ursula and his daughter Ursula Isabel looking at his Knights Cross and Pilot’s badge.
“I think if I had not written to my wife everyday I would have surrendered my soul to the war, and returned home a different man than my...
「これが鉄十字章だよー」

軍人としてのキャリアを終えた後、彼は民間の飛行教官になり、
1993年9月20日に71歳で亡くなりました。

死後、ロシア政府は彼の「有罪」は間違いであったとして、
ハルトマンの戦争犯罪は無罪の判決を下しています。

【金髪のドイツ騎士】

アメリカの作家であるコンスタブルとトリバーによって、
『The Blond Knight of Germany』というタイトルで伝記が書かれています。

The Blond Knight of Germany: A Biography Of...Erich ...

ドイツでのタイトルは
『Holt Hartmann vom Himmel! (「ハルトマンを撃ち落とせ!」)

この著作は、商業的に大変成功し、本は売れましたが、歴史的には
史実とは異なる部分が多く、ハルトマンを称賛することによって
ナチスのプロパガンダの無批判な引用や、ソ連に対するステレオタイプなど、
事実を「歪める」ものとして評価されていない、とされています。

あれ・・・・?

「そんな」本が一時我が日本でも競って出版された時期がありましたよね。

あの一連の「零戦ブーム」を作った著作ラッシュって、
まさにこの本がブームになったのと同じ頃じゃなかったですか?

あれって、もしかしたらハルトマンが「元祖」だったのか・・・。

続く。

 

 

 


スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(枢軸国編1)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-23 | 飛行家列伝

英米に始まり、スミソニアンが選んだ第二次大戦の戦闘機エースを
連合国からご紹介してきましたが、ようやく枢軸国側に参ります。

今更説明するまでもないことですが、枢軸国=アクシスは、
第二次大戦前から戦時中にかけて、米・英・仏等の連合国に対立した諸国家、
つまりドイツ、イタリア、日本を中心とする国家のことです。

語源は、1936年、ムッソリーニが

「ローマとベルリンを結ぶ垂直線を枢軸として国際関係は転回する」

と演説したことに由来します。

おいおい、日本はその線にどうかかわるんだ、という説もありますが、
ムッソリーニもヒトラーも、日本などは枢軸の「軸」とは思っていないので、
つまり枢軸国以外のアルバニア、ブルガリア、フィンランド、ハンガリー、
ルーマニア、スロバキア、スペイン、タイと同様、

「枢軸の周りを転回している国の一つ」

程度に認識していたに過ぎないんだなと思われます。

ところで今回、わたしは今まで考えたこともなかった、

「フィンランドは第二次世界大戦で連合国枢軸側どちら側だったのか」

について、驚くべきことを(わたしだけ?)知りました。
しかも、調べてみるとこの区分けが非常に曖昧です。

連合国だったのか?というと、そうでもない。
ちなみにウィキでは、

枢軸国側に宣戦・戦闘行為を行ったが、連合国とは認められていない国

これではまるでコウモリみたいです。

それでは説明しよう。

フィンランドは開戦3ヶ月後、連合国側であるソ連に本土侵攻されました。
そして「冬戦争」で闘ったので、この時点では「反連合国」です。

しかし、1944年9月にソ連および英国と休戦協定締結することになりました。
その休戦協定には

「フィンランド領内からドイツ軍を追放するか武装解除して人員を抑留せよ」

と要求した条項があったのです。

ドイツ軍の撤退はフィンランドと戦争していたわけではなく、後述するように
ソ連との戦争で航空機を供与するなど共闘関係だったため平和的でしたが、
一旦何かのきっかけでフィンランド軍とドイツ軍の間に戦闘が発生すると、

以降、ドイツ軍は、徹底した焦土戦術を伴い、
これによってほどなく両国間に正式な戦争、
ラップランド戦争が始まってしまいます。

そういう流れでフィンランドは対独宣戦布告を行いますが、
なんとそれは1945年3月3日という終戦間際のことでした。

ですから、文献によってフィンランドは枢軸国側となったり連合国となったりします。

フィンランドからは、枢軸国側ならドイツに次ぐ、

そして連合国側ならダントツトップとなる
戦闘機のトップエースを排出していますが、彼らの撃墜記録は
そのほとんどが対ソ連戦の、ソ連空軍機に対してのものであることを、

まずご理解いただけるといいかと思います。

🇫🇮 フィンランド

エイノ・イルマリ・"イッル”・ユーティライネン空軍准尉

W. O. Eino Ilmari Ill Juutilainen

FAF(Finnish Air Force)

93機撃墜 

 "The Terror of Morocco"『モロッコの恐怖』『無敵の帝王』

93機撃墜というのはあくまでも「公式記録」であり、実はもっと多かった、
という説が今でも有力なトップエースが、アメリカでもドイツでもなく、
フィンランド人であることを知っていたら、
あなたはよほど「この世界」に通じている人でしょう。

実際彼はドイツ人パイロット以外では最多撃墜数をあげました。
スミソニアンでは93機となっていますが、英語のWikiでは94機、さらに
本人は126機と主張しており、これはかなり信憑性のある数字とされます。

 

彼が使用したのは、フォッカーD.XXI、ブリュースター・バッファロー、
そしてメッサーシュミットBf109の戦闘機で、
敵戦闘機からの攻撃を一度も受けず、(被弾はわずか1発だけ)
戦闘中に僚機を失うこともありませんでした。

(英語Wikiでは『日本の戦闘機エース、坂井三郎のように』とある)

撃墜したのは、
ポリカルポフI-153「チャイカ」
I-16、ツポレフSB爆撃機
です。

ユーティライネンのブリュースターにはハーケンクロイツが付いています。

彼の偉大な記録にケチをつける気は毛頭ありませんが、
相手がソ連機でなければ、こんなに撃墜できたのかな。

いや、ふと思っただけですが。

 

戦後、ユーティライネンは1947年まで空軍に所属し、辞めてからは
1956年までプロのパイロットとして活動したといいますが、
それはデ・ハビランド・モスに観光客を乗せて飛ぶ遊覧飛行の操縦でした。

とにかく飛行機で飛ぶのが大好き、という人だったのでしょうか。

 

1997年、彼はフィンランド空軍の2人乗りF-18ホーネットに乗り、
人生最後のフライトを行いました。
このとき83歳。亡くなる2年前のことです。

 

ハンス・ヘンリック・”ハッセ”・ウィンド空軍大尉

Hans Henrik "Hasse" Wind (30 July 1919,– 24 July 1995)

FAF

78機撃墜

Hans Henrik Wind in Suulajärvi 1943.png

ウインドは1938年、パイロット養成コースに志願して参加し、
パイロットとしてのキャリアをスタートさせました。

ソ連との冬戦争(1939-1940)では予備役として参加したものの、
飛行機がなく出撃する機会はありませんでした。

フィンランドとソ連の第二次戦争ともいえる「継続戦争」
初めて戦闘機に乗って参戦したウィンドは、ブリュースターB239
ソ連軍相手に撃墜数39の勝利を収めるというスタートを切りました。

その後I-15で連合国のハリケーン、I-16、スピットファイア、Yak-1を撃墜。
その後機種をメッサーシュミットBf109Gに変更しています。

彼はフィンランド空軍で最も巧みな空中戦術家の一人とされており、
教官として執筆した「戦闘機戦術講義」は、その後何十年にもわたって
フィンランド空軍の新人パイロットの訓練に使用されていました。

彼は「無傷の帝王」と言われたユーティライネンとは違い、
空中戦で重傷を負っています。
なんとか生還したものの、その後2度と戦闘任務に就くことはありませんでした。

彼の戦時中の302回の出撃、75機撃墜は
フィンランドのエースで2位にランクされています。

戦後はすぐに空軍を退役し、結婚してビジネススクールで勉強をし、
あらたな第二の人生を歩み出しました。

1995年に75歳で亡くなったとき、彼は妻と5人の子供、
たくさんの孫に囲まれていたということです。
 

🇮🇹イタリア

さて、というわけで枢軸国の中の枢軸、枢軸の元祖、イタリアです。

元祖のわりに三国同盟の中でとっとと連合国側に寝返ってしまうあたり、
「ヘタリア」の異名は伊達ではないと思ってしまうわけですが、
全部が全部ヘタリアだったわけではなく、強かった部隊もありましたし、
(知らんけど)もちろん戦闘機のエースも輩出しています。

アドリアーノ・ヴィスコンティ空軍少佐

Mag. Adriano Visconti di Lampugnano (11 November 1915 – 29 April 1945)

RA(Regia Aeronautica= Italian Royal Air Force)
ANR(Aeronautica Nazionale Repubblicana= National Republican Air Force)

26機撃墜


この人の「少佐」」メージャーのイタリア語が
「マッジョーレ」であるのにはちょっとだけウケました。
それから、イタリア系の名前の出身出自をを表す言葉、
「ダ・ヴィンチ」(ヴィンチ村出身)
「ディ・カプリオ」(カプリオ家出身)
の前置詞『ディ』が、この人の名前にもついているのですが、

「ディ・ランプグナーノ」

という響きが長過ぎ、あるいは「音楽的でない」という理由か、
彼はその名前からdi以降をすっぱりないことにしてしまっています。

 

Visconti.jpgマリオじゃないよ

【イタリアの降伏】

彼は航空アカデミーのコースで免許を取り、その後軍飛行士になりました。

戦闘機パイロットとしてマッキM.C.200戦闘機の操縦訓練を受けた後、
マッキM.C.202でマルタ島やアフリカの空で作戦行動を行い、
中尉時代には、スピットファイアVを初撃墜します。

そして大尉に昇進した彼が航空偵察を専門とする戦闘機隊の司令官となった
1943年9月12日、ヘタリアがヘタれてしまい、無条件降伏してしまうのです。

ヴィスコンティ大尉とその部下はその知らせに完全に驚かされます。
(そらそうだ)
他のイタリア軍司令官と同じように、彼もまた
上層部と連絡を取ろうとしましたが、全く無駄に終わりました。

そこで彼はイタリア社会共和国空軍の設立に積極的に参加し、
マッキC.205戦闘機を装備した戦闘機隊中隊長に任命されることになります。

無条件降伏後も北イタリアを爆撃しにくる英米の爆撃機を撃退するため、
ヴィスコンティの部隊はメッサーシュミットBf109G-10に乗って戦いました。

同隊が最終的に降伏するまでの間、彼はP-38ライトニング2機、
P-47サンダーボルト2機の計4機を撃墜しています。

■ 殺害されたヴィスコンティ

彼の死亡年は1945年。
撃墜による戦死ではありません。

1945年4月29日、彼の所属する第1戦闘機グループは降伏しました。
隊員は生命の安全を保障された上で捕虜となり、
イタリアまたは同盟国の軍当局に引き渡されることになっていました。

ところが、収監された兵舎からパルチザンがヴィスコンティを連れ出し、
副官のヴァレリオ・ステファニーニとともに
後頭部をなんの予告もなしに撃って射殺したのです。

ステファニーニ副官

降伏条項を無視して行われたアドリアーノ・ヴィスコンティと
副官の殺害の真の原因は、今日に至るまで解明されていません。


フランコ・”ルボール”・ボルドーニ-ビスレリ中尉

Ten. Franco ’Rubor'  Bordoni-Bisleri (10 January 1913 – 15 September 1975)

RA

24機撃墜

Ten.というのはTenenteの略称のことで中尉です。
ついでにイタリア軍の士官の呼び方を一部書いておきます。

将官 Generale ジェネラーレ 

大佐 Colonnello コロネッロ

中佐 Tenente colonnello テネンテ・コロネッロ

少佐 Maggiore マッジョーレ

大尉 Capitano カピターノ

中尉 Tenente テネンテ

少尉 Sottotenente ソットテネンテ

音楽用語でSotto voce(音量を抑えて)というのがありますが、
ソット、というのは「それ以下」という意味なので、
少尉は「中尉以下」、中佐は「大佐以下」という意味になります。

 

ミラノの名家に生まれたフランコ・ボルドニ・ビスレリは、若い頃
レーシングカーのドライバーとして結構有名な存在でした。

パイロット志望でしたが、鼻腔狭窄症のため健康診断ではねられます。
しかし、さすがは上級国民(知らんけど)、軍当局から特別許可を得て、
爆撃学校に配属されるというチートで入隊を果たしました。

【北アフリカ】

彼の初撃墜はブリストル・ブレニムでした。
ビスレリはこれを迎撃するために100キロ以上の追跡しています。

Fiat CR.42 - Aegean Islands.jpg

ビスレリはこのフィアットC.R.42ファルコを操縦して、
ホーカー・ハリケーンMk.1、ブリストル・ブレニムを撃墜したそうですが、

ハリケーンMk1

飛行するブレニム Mk.I L1295号機 (1938年撮影)ブレニム

複葉機でこういうのを撃墜できるものなの?

1941年当時、ファルコは操縦しやすく頑丈な機体で、
グラディエーター、ブレンハイム、ウェリントンとは戦えた、
ということらしいですが、ハリケーンを撃墜というのは
操縦者がビスレリだったから・・・・?

その後彼はマッキM.C.202の初号機で撃墜数を伸ばしました。
彼が撃墜したのはカーチスP-40キティホークなどです。

度重なる空戦で全く銃弾を受けず無傷だったビスレリですが、
皮肉なことにこの期間1自動車事故で負傷し、病院船で国内に送られました。

【イタリア】

イタリアで彼はマッキM.C.205「ヴェルトロ」を手に入れました。


ローマ上空でP-38ライトニングに護衛されたB-17の編隊を迎撃した彼は
1機の爆撃機を撃墜することに成功しました。
彼はこの戦争で合計5機のB-17を撃墜しています。


【戦後と事故死】

終戦直後、ボルドニ=ビスレリは家業を継いで社長となり、
ミラノ・エアロ・クラブの会長に就任しました。

昔取った杵柄でレースに復帰し、マセラティを駆って、
ヨーロッパで最も評価の高いアマチュアドライバーの一人となり、
1953年にはイタリアのスポーツカー選手権で優勝を果たしました。

しかし、1975年9月15日、ビスレリが62歳の時です。

自身が会長を務めるミラノ・エアロ・クラブが主催した
落下傘部隊の記念式典に出席し、
ローマで教皇パウロ6世との会談を終えて帰国した際、操縦していた
SIAIマルケッティF.260は悪天候で山中に墜落し、死亡しました。

飛行機には10歳の息子と、友人も乗っていたそうです。

当時、彼の死は新聞で大きく報道されましたが、
彼が英国空軍のエースだった過去については
ほとんど報じられることはありませんでした。

 

続く。

 

 

 


スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(連合国フランス編)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-21 | 飛行家列伝

スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
世界の戦闘機のエースを紹介しています。

このコーナーでスミソニアンが選んだトップエースは21名。
アメリカ人パイロットが5名というのは自国なので仕方がありませんが、
あとは8カ国から2名ずつという内訳です。

米英につづき、ソ連、ポーランドまできましたので、今日は
残りの連合国であるフランスのエースを紹介しましょう。

🇫🇷フランス

当ブログで第一次世界大戦について取り上げたとき、
「ソンムの戦い」「ヴェルダン攻防戦」などでは
「肉挽き機」というくらい壮絶な死者数を出したことについてお話ししました。

フランスは第一次世界大戦でドイツと戦って勝ったわけですが、
その人的被害はあまりに凄まじかったため、報復感情もあって、
戦後フランスはドイツに対し莫大な損害賠償を請求します。

そしてそのことがドイツを追い詰め、ヒトラー率いる国粋主義的政党、
ナチス労働党が生まれるきっかけを生むことになります。

1939年にドイツがポーランド侵攻を行い、第二次世界大戦が始まると、
フランスはイギリスとともにドイツに対し宣戦布告を行いますが、
フランスは第一次世界大戦の成功体験から、「マジノ線」という防衛ラインを置くと
それで安心し、近代装備を備えたドイツ軍にしてやられ、降伏してしまうのです。

フランスがなぜこうもあっさりとドイツ軍に凱旋門を明け渡したかというと、
第一次世界大戦の被害が大きすぎて、
国民の戦意(モラルですね)が低かった、ということのようですが、
もちろんそうではない人もいて、パルチザンとなってゲリラ活動を行いました。

というわけで、フランス空軍の第二次世界大戦における戦闘というのは、
どのように行われたのか、あまり人々に語られることはないわけですが、
航空隊の戦闘機エースはもちろん存在します。

 

ピエール・アンリ・クロステルマン空軍中佐

WC Pierre Henri Clostermann DSO DFC&Bar
( 28 February 1921 – 22 March 2006)

FAFL RAF AAEF

33機撃墜

まず、彼が所属した最初の軍の略語FAFLについて説明します。

Forces Françaises Libres(自由フランス軍)

はフランスがドイツに占領され、仏独戦が休戦となってから以降に
枢軸国軍と戦ったフランスの個人あるいは集団を表します。

自由フランス海軍はイギリス海軍の補助的任務を行い、
自由フランス空軍(FAFL、Les Forces aériennes françaises libres )は
フランスから逃れたパイロットや、南アメリカ諸国からの志願者から成り、
バトル・オブ・ブリテンにも参加しました。

しかし、クロステルマンが本格的に戦闘機乗りとしてデビューしたのは、
自由フランス軍という身分のまま、王立空軍RAFでのことになります。

彼のWCというタイトルは、Wing Commander、RAFの中佐という意味です。

 

ピエール・クロステルマンは、アルザス-ロレーヌ地方出身の外交官の息子で、
父親の赴任地であるブラジルが出身地です。

外交官令息という恵まれた環境に育ち、14歳で水上機の操縦を始めており、
その後はアメリカに留学して航空工学の学士号と免許を取得しています。

自由フランス軍に入隊したときには、
彼の飛行時間はすでに315時間になっていました。

祖国フランスのために空軍パイロットとして奉仕する決心をし、
彼はイギリスに渡り、RAFの士官候補生コースを優秀な成績で卒業します。

彼のRAFでの初飛行は、スーパーマリン・スピットファイアでした。


指輪とかブレスレットとかお洒落な感じがさすがおフランス人

写真は、フランス人ばかりの第341戦闘機部隊「アルザス」に配置された
クロステルマン軍曹(当時)。

ちなみにこの「クロステルマン」という名前は、
彼の家系がドイツ系であることを表しています。
ドイツ軍の伝説のエース、マルセイユの家がフランス系だったように、
ヨーロッパでは他国の血筋を表す名前を持つ人が普通にいるものです。

RAFという組織は、リベラルというのか、外国人パイロットを取り入れ、
その民族グループごとにまとめる組織を作って任務をまかせるという、
実に合理的なやり方で枢軸国と戦っていたわけですが、それは、
同じ連合国同士協力してもらうが、文化風習が違う異質な存在を
我々の中には決して混入させない、というあの民族独特の排他主義のもとに
きっちりと運営されていたという感があります。

その現れが「アルザス」などの民族部隊です。
このフランス人部隊の役割は、「元リビア・シリア」そして
「RAF内で孤立したフランス人」を再統合することでした。

アルザス航空隊はRAFの組織でしたが、彼らの身分は自由フランス軍人のままです。


【RAFの自由フランス軍部隊】

クロステルマン軍曹が他の三人のフランス系軍曹と到着したとき、
部隊にはまだ飛行機がなく、しばらくすると9機が届けられました。

パイロット30人に対し9機の飛行機で訓練は開始されます。
飛行隊長はある意味完璧主義で、空対地、空対空、空対海戦について

「自分たちの態勢を完璧に、油を塗った歯車を持つ美しい機械のように仕上げる」

という姿勢で訓練を行いました。

クロステルマンの部隊は主にフランス上空での爆撃機の護衛で、
彼はよく隊長のウィングマンを務めていました。

そして90機のルフトバッフェを24機で迎え撃つことになったある日の任務で、
彼はウィングマンを務めた隊長、ルネ・ムショットを失います。

René Mouchotteムショット(左)

ムショットは初めて英連邦以外の国の士官としてRAFの飛行隊長となった人で、
フランスでは至る所にその名前がレガシーとして残されています。
華々しい功績を挙げたとかいう話は残っていませんが、どうもその人格が
誰をも敬服させずにはおかないほどの立派な指揮官であったようです。

 

ムショットの遺体は数日後にベルギーの海岸で発見されました。

国際的に評価の高く尊敬されていたリーダーをむざむざ失ったことを、
彼の過失とする人々もいたようですが、後の調査によると、撃墜されたのではなく、
体調不良による操縦ミスで飛行機を墜落させたのではないかということになっています。
(と少なくともクロステルマンは語っているそうです)

しかし、ムショットの後任の隊長はクロステルマンを編隊から外しました。

 

そのことがきっかけで、クロステルマンはフランス人部隊を出て、今度は
602飛行隊「シティ・オブ・グラスゴー」15への配属を希望しました。

ここで彼は、イギリス人の友人と「気楽で楽しい生活を送った」とされます。
どうもフランス人パイロットの社会には馴染めなかったようですが、これは、
ブラジル生まれでアメリカに留学し、フランス本土でほとんど生活をしてこなかった、
という彼の育ちが多少なりとも関係しているような気がします。


イギリス人の方が俺なんか気楽に付き合えるんだよな(左)ってか


そしてノルマンディ上陸作戦では5回の空戦成功を収め、

RAFの基準で11回の勝利を追加しました。

ところで、彼自身が身をもって経験し、恐れていたことに、ドイツ軍の対空砲がありました。

クロステルマンの部隊はルフトバッフェのMe262ジェットを封じ込め、
さらに敵の鉄道網と対空砲を攻撃するという任務を負っていましたが、
ドイツ軍の対空砲は恐ろしいくらい正確で、何人もの同僚を失うことになりました。

しかし、彼はMe262と交戦し、破損した機体を胴体着陸させたり、
次にフォッケウルフ・コンドルに撃墜されるも無傷で生還するなど、
強運に徹頭徹尾恵まれたパイロットでした。

「僕に任せておけば楽勝さ」

生還するたび、彼は楽天的にこんなことを嘯いていたそうです。

彼が危うく難を逃れたのはこれだけにとどまらず、戦闘ではない
デモンストレーション飛行で、一度はチームメイトの機と空中衝突し、
墜落していく機のコクピットからパラシュートで脱出していますし、
また別のデモンストレーション(デンマーク国王天覧)では
ランディングギアの故障で着陸に失敗するも、命に別状はありませんでした。

しかし前者の事故では彼は3人のチームメイトを喪い、これらの事故は
彼をRAFとの関わりから「足を洗う」きっかけになりました。

 

第二次世界大戦中あげた33機撃墜記録はフランス人パイロットのトップであり、
その後はフランス空軍(Armée de l'Air et de l'Espace FrançaiseAAEF)に移籍して
予備中尉に任官し、予備役大佐という階級で軍人としてのキャリアを終えました。

戦後は政治家となり、著作を行なって、2006年、85歳の生涯を終えています。

 

ついでに、彼は戦後RAFが所有していた(というかドイツから召し上げた)
Me262を操縦し、初めてジェット機を操縦したフランス人パイロットになりました。

 

マルセル・アルベール 空軍大尉

Cap. Marcel Albert(25 November 1917 – 23 August 2010)

FAFL RAF

23機撃墜

Marcel Albert.jpg

ピエール・クロステルマンに次ぐ撃墜記録を挙げたフランス人エース。

アルベールの父親は第一次世界大戦に出征し捕虜となったり、
マスタードガス後遺症で苦しんだという人物です。
学齢期に父親を失った彼は国からの奨学金で中等教育を受け、
パイロットの資格も取りました。

下士官から始めて戦闘機部隊配属された彼は、当時のフランス最高の戦闘機、

ドゥボワティーヌ Dewoitine D.520

に乗って30ものミッションをこなし、ドルニエ17とハインケル111、
2機に対し勝利を挙げました。

【ヴィシー空軍から自由フランス軍へ】

ドイツに祖国が占領されたことについて、フランス人パイロットは
遺恨に持ち、前線では絶え間なく存在感を確保するため神経を尖らせていました。

しかし、彼らはフランス敗北の原因の大部分が空軍にあったということを
おそらく理解していなかったのではと思われます。

彼らは、なぜ何百機もの新型機が倉庫に放置されているのか、
作戦部隊の装備が大幅に不足しているのかを知りませんでした。


アルベール軍曹は他の2名の軍曹仲間とともにフランス軍を「辞め」、
自由フランス軍に逃れることを決意します。

自由フランス軍、それはつまりRAFの「フランス人部隊」ということでもあります。

彼はそこでスーパーマリン・スピットファイアによるミッションをこなし、
少尉に任官するに至りました。

【ノルマンディ戦闘機群】

ドゴール将軍がフランスの戦闘機部隊をロシア戦線に派遣することが決まり、
アルベール少尉は志願してロシアに赴き、そこで
「ノルマンディ戦闘機群」に配備されてYak-9戦闘機に乗ることになります。

飛行するYak-9M (1944年撮影)

彼はここでフランス人同僚を全員失い、唯一の生存者となりました。
ロシアで挙げた撃墜数は21機となり、彼は大尉に昇進して、ソ連政府から
最高賞である「ソ連の英雄」のゴールドスター賞を授与されました。


1944年12月23日、彼はグループの元メンバー数人とともに、
フランスに帰郷&休暇に出かけ、帰ってきたら戦争は終わっていました。

その後彼はパリに戻り、凱旋式典で迎えられると同時に腸チフスで入院しています(´・ω・`)


戦後彼はプラハのフランス大使館に軍属として赴任しますが、
新しい職場に馴染めず、そこで知り合ったアメリカ人女性と結婚して
ニューヨークに渡り、紙コップを作る会社を起こして成功しました。

そして92歳、テキサス州の老人ホームで人生を終えました。

 

フランス人のツートップエースがどちらも祖国でなく、アメリカで
第二の人生を選んで結構幸せな一生を送ったことは、たんなる偶然かもしれませんが、
何かフランス人の超個人主義の現れかもしれないなどと思ってみたりします。

 

続く。

 


スミソニアンが選ぶ第二次世界大戦のエース(連合国編)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-19 | 飛行家列伝

スミソニアンの「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
当博物館がセレクトした戦闘機エースのその頂点となるトップエースを
ご紹介していますが、前回英米編をお送りしたので、今日はその流れで
連合国軍のエースと参りたいと思います。   

ソビエト連邦(ソ連)国歌 歌詞の意味・和訳ソビエト連邦

戦後冷戦でアメリカ世界の勢力図を二分したソ連が、
第二次世界大戦の時には連合国側だったというのが不思議な気がします。

ソ連が連合国側に加わったのは、1941年のソ連侵攻、つまり
独ソ戦が始まったときということになります。

というわけで、最初に紹介する冒頭の目が怖い搭乗員は、ソビエト空軍のみならず、
連合国軍全ての戦闘機搭乗員のトップに君臨するエースであるこの人です。

【連合空軍のトップエース】

イヴァン・ミキートヴィッチ・コジェドゥーブ ソ連人民空軍元帥

Msl. Ivan Nikitovich Kozhedub  Иван Hикитович Кожедуб
( 8 June 1920 – 8 August 1991)

BBC CCCP(ソ連空軍)

62機撃墜

飛行クラブで航空への第一歩を踏み出した彼は、1940年初頭に赤軍に入隊し、
軍パイロットとしてのキャリアを始めます。

戦闘機パイロットとしての初陣で彼は メッサーシュミット109と交戦しますが、
機体を損傷し、なんとか帰還したものの彼にとって完全な敗北戦となりました。

その後、ユンカースJu-87爆撃機2機とBf-109戦闘機2機を皮切りに、
たちどころに20機を撃墜し、トップエースに躍り出ます。

終戦まで彼はLa-7による330回の出撃、120回の空戦で62機の敵機を撃墜しました。

その内訳は、

Ju-87→17機、
爆撃機Ju-88→2機
He-111→2機
Bf-109→16機
Fw-190→21機、
攻撃機Hs-129→3機、
ジェット戦闘機Me-262→1機

というものです。
Me-262を撃墜したのはソ連空軍では初めてですが、史上3番目
(前年にアメリカ軍のクロイとマイヤーズが1機ずつ撃墜)です。

彼は機体を撃破されても必ず機体を帰還させ、生還しました。
28歳の時にはMiG-15ジェットの操縦もマスターしています。

戦時中は下士官だった彼は、1956年に36歳で陸軍士官学校を卒業し、
最終的には空軍元帥にまで昇り詰めました。

【味方を撃墜した理由】

アレクサンドル・イワノビッチ・ポクリシュキン ソ連空軍元帥

Gds. Col. A. I. Pokrysyhkin(21 February 1913 – 13 November 1985)

BBC CCCP

59機〜90機撃墜

Маршал авиации А. И. Покрышкин最終型。勲章塗れ

ポクリシュキンは、連合国軍中、前述のコジェドゥーブに続く
2番目の撃墜数をあげて成功した戦闘機パイロットです。

12歳の時に初めて飛行機が飛ぶのを見て、航空に興味を持った彼は、
赤軍入隊後、こっそり民間人パイロットクラブに通ってプログラムを終了し、
軍航空学校を卒業してパイロットになる夢を叶えます。

第二次世界大戦の参加のことをロシアでは「大祖国戦争」といいますが、
その大祖国戦争に少尉として参加したポクリーシュキンは、
早々に大失敗をしてしまいます。

邀撃戦でいきなり間違えて同僚、しかも爆撃隊飛行隊長機を撃墜したのです。

彼の言い訳?によると、空中に見たことのないタイプの航空機を見つけ、
攻撃して撃墜してしまってから、翼にソ連の赤い星が付いていることに気がついたと。
しかもそのSu-2軽爆撃機にはソ連の第211爆撃機航空連隊長の乗っていました。
なぜ彼が誤解したかというと、ソ連軍内にも秘密にされていた新型機だったからです。

深く反省した(たぶん)彼は、翌日Bf109を撃墜しました。

のちにこの味方撃墜が国民的英雄である彼の仕業と聞いた同僚が、彼に

「冗談だろ、サーシャ」

というと、彼はこういいました。

「冗談じゃない、戦争が始まった頃、本当にSu-2を撃墜したんだ。
スホーイは戦争直前に登場したんだが、とても珍しい形をしていたので、
てっきりぼくはファシスト(の機)だと思ってしまったんだよ」

その後彼は190回の出撃を行い、公式には59機、非公式には
90機とも言われるドイツ機を撃墜し、連合国第二位のエースになりました。

🇵🇱 ポーランド

1939年のドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まったのですから、
当然ですがポーランドは「最初の連合国」?ということになります。

【祖国からの告発ー死刑囚から准将へ】

スタニスワフ・スカルスキ 空軍准将

BG Stanisław Skalski DSO DFC & Two Bars
 (27 November 1915 – 12 November 2004)

PAF・ RAF

22機撃墜 

この人のことについて以前当ブログで取り上げたことがあります。

第二次世界大戦中、ポーランド空軍とイギリス空軍に所属し、
戦争が始まってまもなく、一回の出撃で6機のドイツ機を撃墜したことから、
第二次大戦最初の連合国側の戦闘機エースということになります。

彼はその後他のポーランド人パイロットとともにルーマニア亡命し、
イギリス王立空軍に加わってバトル・オブ・ブリテンに参戦しています。

その後RAFでHe 111爆撃機、メッサーシュミットBf 109などを撃墜し、
RAFのNo.317(ポーランド)飛行隊の指揮官を務めました。

彼の指揮した部隊は「Cyrk Skalskiego」(スカルスキー・サーカス)と呼ばれていた、
ということもこのブログに以前書いたかと思います。

その後彼はRAFのNo.133ポーランド戦闘機航空団の司令官に任命され、
マスタングMkIIIを使用していました。


🇺🇸製マスタング、🇬🇧空軍仕様に乗る🇵🇱人の図

順調だった彼のキャリアは戦後暗転することになります。
帰国した彼を待っていたのは、共産党当局によるイギリスのスパイという汚名でした。

逮捕勾留中には拷問を受け、1950年、見せしめの裁判で死刑を宣告されるのです。

心労が髪に・・・

死刑判決を受けてから3年間を牢屋で過ごす間、彼の母親は必死で運動し、
大統領にまで働きかけた結果、まず無期懲役に減刑されました。

それからさらに3年後、1956年に裁判所は前回の判決を覆しました。

「ポーランドの10月」でスターリン主義が終焉を迎えた後、
1956年、8年ぶりに解放された彼はポーランド軍に復帰し、
そしてポーランドの共産主義崩壊を目前にした1988年、准将に昇格しました。


【三カ国空軍で戦った男】

ヴィトルト・ウルバノヴィッチ空軍大将

Witold Urbanowicz (30 March 1908 – 17 August 1996)

LWP RAF  USAAF 

20機撃墜

彼が88歳でその生涯を終えたのはニューヨークでした。
ポーランドの農家に生まれ、イギリス軍で少佐になり、中国大陸で日本軍と戦った男は、
その余生をアメリカで過ごしたということになります。

ポーランドの空軍士官候補生学校に入学し、24歳で少尉任官した彼は、
夜間爆撃隊を経て戦闘機乗りの道を歩み始めます。

教官となった彼は、どういう理由でか「コブラ」というあだ名をつけられました。
第二次世界大戦で活躍した多くのパイロットが、彼の指導のもとで最初の訓練を受けています。

航空学校の演習が行われていた時、ドイツ機が襲来し、これが彼にとって
最初の空戦の実戦となったわけですが、1機も撃墜することはできませんでした。

それどころか地上の愛機が撃破され、次の飛行機も到着しなかったため、
彼は自国軍に見切りをつけたのか、王立飛行隊の招待を受けて英国に移りました。

このときRAFはポーランド軍の搭乗員全般をスカウトしており、
ウルバノヴィッチの他にもそれに応じたパイロットは何人もいたのです。

のちにRAFに「ポーランド飛行隊」が結成されたのもこういう下地があったからです。

ウルバノビッチはRAF145戦闘機隊のパイロットとして、
8月4日にバトル・オブ・ブリテンに参加し、このとき
メッサーシュミットBf109を2機撃墜していますが、公式統計には含まれていません。

9月15日はバトル・オブ・ブリテンの勝敗が決まったと言われる日ですが、
この日、彼はドイツ軍の60機の爆撃機を援護する戦闘機隊との交戦を指揮し、
バトル・オブ・ブリテンの間だけで、

Do-17 3機
ハインケルHe111 1機
Ju88 2機、
Bf109 4機
Bf110 1機

という撃墜記録を残しています。

その後彼はポーランド軍戦闘機隊の指揮官になったのですが、
どういう理由かポーランドでは彼は評判が悪く、任務から外されてしまいました。

そもそも、この人は最初から何かと物議を醸すたちだったようで、
「妥協しない」(融通が効かない)「非外交的」などと言われていました。

ポーランド語による彼のバイオグラフィによると、かれは

「ポーランド軍の格納庫付近でスパイ活動をしていた
ヴィリー・メッサーシュミットへの厳しい仕打ちを行った」

つまり「そういう(酷い)人だった」とされているようですが、
そもそもメッサーシュミットがポーランドでスパイ活動をしていた、
という話は他に聞いたことも見たこともありません。

彼の人望のなさはわかりましたが、メッサーシュミットのスパイの件、
本当だったのかどうか。
どなたかご存知でしたらぜひ教えていただきたく存じます。

アメリカへ

ポーランド軍の指揮官を外された彼は、アメリカに渡りました。
アメリカのポーランド系コミュニティに向けて、軍の志願者を募るため、
講演会を開くという名目でした。

その後、駐在武官としてワシントンにとどまっていたウルバノビッチは、
1943年、中国戦線で戦うアメリカの第14空挺部隊に(ゲストとして)志願します。

そして「フライングタイガース」として有名な、第23航空群第75戦闘飛行隊に配属されました。

(おそらく)シェンノートと話すウルヴァノビッチ。

この部隊のパイロットとしてP-40Nキティホークに乗り、
彼は爆撃機や輸送機を護衛しながら、12月11日、南昌飛行場上空で、
日本軍機2機(公式記録)]おそらく中島キ44型機を撃墜しています。

これにより、彼は三ヶ国の空軍のために飛んだパイロットとなり、
史上たった一人、日本軍と交戦したポーランド人パイロットになりました。

 

除隊後はアメリカに残り、航空関係の会社の統計担当者として、
その後はニューヨークのキリスト教男子青年同盟の理事会事務局長として働きました。

彼はYMCAの代表として、ポーランドに滞在した際、公安省の職員に
4回も拘束されながら、なんとか刑務所を免れて海外に逃れたと告白しています。

運が悪ければ祖国の裏切り者として、スカルスキのような目に遭ったのかもしれませんが、
その後ポーランド政府からは亡命中にも関わらず大佐に任命され、さらにその後、
レフ・ワレサ大統領は彼に准将の階級を与えました。

かつて日本を敵として戦った彼ですが、航空業界のコンサルタントであった1991年6月、
彼はオファーを受けて、初めての来日を果たしています。

バブル時代のきらびやかな日本の姿に、彼は目を見張ったかもしれません。

 

 

続く。