檜貝襄治海軍少佐 1906年(明治39年)11月20日生まれ
海軍兵学校57期卒 第七〇一航空隊飛行隊長
1943年1月29日レンネル島沖海戦において戦死
死後全軍布告二階級特進、海軍大佐
キスカ島守備隊の撤退作戦もそうでしたが、日本軍の「ケ号作戦」(乾坤一擲のケ)は、
こちらが本家のガダルカナルにおいても、実にうまくいっています。
「撤退は軍が行うのが当たり前」
などと、キスカについて書いたとき、市民活動家のようなことをつい言ってしまいましたが、
撤退しようにも、もともと制空権も制海権もないからジリ貧となっていたわけで、
素直に撤収部隊を上陸させてくれるくらいならだれも苦労せんわい、
とやはり大本営としては言い訳の一つもしたいところでしょう。
しかし、補給線もままならないガダルカナルの撤退は、御前会議によってすでに決定済み。
大本営がそのために練りに練った作戦とは?
制空権、制海権を一時でもいいから我が方に取り戻し、敵勢力がそこに集中している間に
撤退を敢行する、陽動作戦です。
本日主人公の檜貝少佐は、陽動作戦につられて米軍の繰り出してきた強力な艦隊に挑み、
魚雷を命中させた後被弾、突入して、重巡シカゴを大破させる戦果をあげています。
シカゴは、翌日曳航中に日本軍の追撃を受け沈没しました。
この攻撃によって、ガダルカナルの撤収は米軍に察知されることなく行われ、
作戦は成功を見たのです。
檜貝少佐の上げた戦果は絶大で、その功を称えられ全軍布告、二階級特進しました。
本日のタイトルを「サムライ」ではなく、「侍」としたのは、この―
外出の日には少佐を一目見るために航空隊の外に女性が鈴なりになっていたとか、
映画監督に「軍人をやめて俳優になっては」と誘われたとか、
高峰三枝子の片思いの相手だったとかの神話に事欠かない超のつく美男士官が、
その巷間残る逸話から見ても、その戦いと壮絶な最期を見ても、
こう呼ぶにふさわしい「戦う者の覚悟」を持った「侍」であったからです。
檜貝少佐は、常に几帳面で、やるべきことは最後までやり抜き、飛行技術はずば抜けて優秀。
たとえば「五省」に恥ずることは一瞬たりともなかったであろう真面目人間でありながら、
誰もが「檜貝さん」と階級なしで呼んだという、穏やかで出会った人を悉くとりこにするような、
まさに、心技体、どこをとっても非の打ちどころのない軍人であったようです。
女優の高峰三枝子は、撮影で航空隊を訪れた際、檜貝中尉(当時)に一目ぼれし、
彼女の方が積極的に中尉をを誘って、デートもしていたようですが、
回りの「ありゃ結婚するぞ」という噂を尻目に、檜貝中尉は彼女をとっとと振ってしまうのです。
勿体ない、なんていう声も聞こえてきそうですが、
このあたりは、今の感覚で判ずるには少し難しい点があります。
軍人にとって、結婚は家だけの、ましてや個人のものではありません。
士官ともなると海軍大臣の許可を必要としたように、それは軍人としての公的部分です。
一般の結婚においても、家が第一で惚れたはれたはあまり優先されなかった頃ですから。
考えてもみてください。相手は女優です。
今現在でも、一般人で、ましてや自分の仕事に大志を抱き目的に邁進する男が、
たとえ向こうから迫ってきたとしても、女優と結婚しようと思うでしょうか。
普通の人生を堅実に送っていきたいと思う男性であれば、相手の人間的いかんにかかわらず、
それは選択として避けられるのが普通だと思うのです。
しかも当時女優の社会的地位は低く、まず上の許可は下りなかったと思われます。
一人の男として彼女をたとえ憎からず思うようなことがあっても、
それは結婚というものにつながるものではないと、本人は最初から強く思っていたでしょう。
だからこそおそらく檜貝中尉は、責任ある男として自分から別れを早々に告げたのです。
檜貝少佐はその後長らく独身を通し、一度はすすめられた縁談を
「まだその時期ではない」断っていますが、
35歳のとき山本五十六の姪にあたる19歳の女性と結婚し、
わずか11カ月の新婚生活の間に男児をもうけています。
(山本長官の縁戚に連なるこの結婚には、さすがの少佐も年貢を納める気になったのでしょう。
この選択を見ても、檜貝少佐が女優と結婚する可能性は全くなかったことがわかります)
この檜貝少佐は、「デストロイヤー」と呼ばれていた38期飛行学生時代の菅野直大尉が、
霞ヶ浦航空隊で元気に飛行機を壊していたときの飛行隊長でした。
穏やかでありながら裡に闘志を秘めた武人として、学生の尊敬を集めていたそうです。
菅野少尉が霞ヶ浦での練習機教程を終わる少し前に、檜貝少佐は七〇一飛行隊長として
転出し、それから間もなく、菅野超少尉たちは少佐の戦死の報に接するのです。
壮絶なその戦死の様子は学生たちにも伝えられ、皆一様に
「あの物静かな人が・・・」
と大きな衝撃と、感慨をもってその死を受け止めました。
菅野少尉と同じ飛行隊だった光本卓雄少尉は、
「感受性の強い彼はひとしお深く心に涙したことと思う」
とその様子を語っています。
下写真は、霞空での集団写真。
檜貝少佐は、檜貝式爆撃法という攻撃法を編み出すほどにその技術を昇華させていました。
零戦がまさにそうですが、日本の戦闘機は誰が乗っても一定の効果がある、
というような生易しいものではなかったように思われます。
個人の技術の練達によっては名刀となるように、当時の飛行機は、搭乗員の職人技で
飛んでいたと言っても過言ではないでしょう。
檜貝少佐は、一式陸攻を乗り機とし、まだまだ未発達であった機材を使って、霧の中の航法や
離着陸の方法、爆撃法を常に研究していました。
そして、中国大陸の攻撃においても、弾幕をかいくぐって、名人芸のように爆撃を、
しかも中国空軍のように「数撃ちゃ当たる」式の爆弾バラマキと違い、まさにピンポイントで、
成功させること数十回。
その飛行ならびに攻撃技術はまさに全軍にその名をとどろかせていたそうです。
この逸材が戦死したとき、軍令部には
「戦艦陸奥が沈んだより檜貝少佐を失ったことは痛手だ」
と嘆く声さえあったと言います。
そして、その飛行術は精密である上に、少佐一流のこだわりによって支えられていたようです。
空母分隊長時代、夜間着陸訓練で一番最後に着艦した後、やり方が気にいらないとして、
再び離艦し、再度着陸をやり直したというのです。
戦死した最後の戦いにおいても、檜貝少佐の乗り機は、煌々と照らされた吊光弾に目標を
失い、発射高度が高かったため、雷撃をやり直しています。
猛烈な対空砲火の中、いつものように冷静に機を建て直し、魚雷を二射投下。
まさにその時、檜貝機は被弾します。
以前、映画「雷撃隊出動」の主人公、一式陸攻の「三上」の最後について書いたことがあります。
檜貝少佐の最後を知ったときに真っ先に思い浮かべたのが、この映画のラストシーン、
三上少佐(藤田進)の自爆でした。
あの冷静沈着な攻撃、被弾して助からない機を最後まで駆って、任を果たす姿。
この映画での三上の戦死は、檜貝少佐戦死をモチーフに創られたのではなかったでしょうか。
檜貝少佐も、その最後の瞬間、三上少佐がたった一言叫んだように、皆に向かって
「自爆!」
と声をかけたのでしょうか。
檜貝機は、被弾した跡からガソリンを重巡シカゴの甲板に撒き、それが火災を起こしました。
そして、驚くべきことに、艦橋にではなく、手前で上昇し、後方上甲板に機体を激突させます。
最後の最後まで、その突入法ですら計算しつくされたものでした。
計算と言えば、檜貝少佐が指揮官として率いたこの夜間攻撃では、
目的の「できるだけ敵を長く引き付けていること」を果たすためでしょう、
飛行隊は爆弾を残したまま、何時間も上空で制圧を続けました。
ラバウルの航空参謀であった源田大佐(当時少佐)はこの地にあり檜貝隊の戦いを
司令部で見守る立場でしたが、
「燃料もなくなっているので早く引き揚げればよいがとやきもきしていたが、
彼は敵地上空にあって戦い続け、結果6時間以上制圧を続けた」
と語っています。
いつも髪をオールバックにしていた檜貝少佐は、ラバウル転出にあたって、
長髪をばっさり切って坊主頭にしています。
この日の攻撃も、もともとは巌谷二男大尉が出撃するはずだったのですが、
「是非今日の攻撃は自分にやらせてほしい」と頼んだそうです。
そして、交代することが決まったとき、巌谷大尉に向かって
「隊長、後を頼みます」
と言って出撃していったのでした。
この戦いから生きて戻るつもりはなかったのでしょう。
北海道の女満別にある美幌海軍航空隊跡(現自衛隊美幌駐屯地)には、
戦死後受けた感状や勲章、写真や礼服などの檜貝少佐の遺品がまとめて展示されています。
そこには、飛行服のボタンを、きっちり全部上まで留めた、
(どうやら少佐は今日の画像でもそうですが、飛行服を着崩すことはしなかったようです)
初々しい檜貝少尉の写真が展示されています。
後の「軍神」は、両手をポケットに入れたままカメラの前に立ち、きゅっと口を引き締めて、
まっすぐ、曇りのない目で、こちらを見ています。
皆さん。
もし、あなたが熱烈な菅野直ファンであるなら、ぜひ靖国神社の遊就館にいっていただきたい。
そこには、菅野大尉が最後まで使っていた黒い皮の財布が展示されているからです。
靖国神社に寄贈したのは菅野家の人々であるらしく、寄贈者の名字は「菅野」。
全く型崩れしていず、まだ使えそうなその財布は、当時は買ったばかりだったのでしょうか。
残っていたお金と、財布のポケットに入れてあった大分航空隊の身分証が並べられ、
他の軍人の軍服軍帽、軍刀などの遺品とは違って、
これが菅野直という個人の遺品であることがあらためて意識されます。
菅野大尉が戦闘機専攻学生となったのは昭和18年2月。
この財布に遺された身分証は、菅野大尉がまさに「デストロイヤー」であったときのものなのです。
本日エピソードは、碇義朗氏の「最後の撃墜王」に載っていたもので、
部下の笠井智一上飛曹の回想によるもの(のアレンジ)。
菅野大尉の部隊が、中島飛行機小泉製作所に、新しく造られた飛行機のテストをしたうえで、
フィリピンに完備機を移送する直前のこと。
横須賀の産業報国会の別館に泊っていたかれらは、夜になると
25、6歳の綺麗な寮母さんを囲んでウィスキーを飲んだそうですが、
菅野大尉は部下が邪魔だったので、「遊びに行こう」といって全員を引き連れて花街に行き、
自分一人だけ帰ってきた、というものです。
クレジットカードなど全く無い時代ですから、
菅野大尉は全ての支払いをこの財布から行ったでしょう。
このときの「みんなのお遊び代」も、この黒革の財布から出されたのに違いありません。
菅野大尉は、他の戦闘機搭乗員と同じく、自分の貴重品をいつも小さな箱に入れて、
肌身離さず持ち歩いていました。
基地移動のときも一緒に携えていたその箱の表には、
「故海軍少佐菅野直の遺品」と書かれていました。
菅野大尉は、自分が死後二階級特進することまでは予想できなかったようです。
この黒皮の財布も、この手箱にあったのでしょうか。
なお、破天荒でやたら元気に遊んでいたという菅野大尉ですがナイーブな部分を持っていて
「粗にして野だが卑ではない」という言葉があてはまる青年であったことが特に妹さんの証言
(妹の前で下品な歌を歌った者に激怒した)などから窺い知れます。
最後の日々、どんなに荒んだ風に悪所通いをしたりしても、
菅野青年の本質は文学に傾倒するロマンチストだった、と思えるのですが・・・。
今日は、そんな「二人きりになると見せたかもしれない菅野大尉のシャイな部分」
を漫画にしてみました。
入谷清宏大尉
大正7年8月3日生まれ 海軍兵学校67期
宇佐、霞ヶ浦、横須賀海軍航空隊附兼教官を経て第502、第755、偵察第102航空隊長
昭和19年7月14日、哨戒任務のためペリリュウ基地発進のまま消息不明
敵機と交戦 戦死と認定 戦死後昇進、海軍少佐
兵学校67期の肥田真幸大尉のいうところの「悪童三羽ガラス」、
入谷、肥田そして渡辺一彦少尉は、延長教育終了後、級友が戦地に行って戦っているのに、
霞ヶ浦の飛行学生教官に残され大いにくさっていました。
この三人が土浦の街を夜な夜な暴れまわるその過程で、貴公子の容貌を持つこの
入谷少尉を偽殿下に仕立てあげ、二人はお供としてかしずいていたのですが
「この宮様がお供以上にキタナくて」(肥田大尉談)きっとレスにはばれていたに違いない、
という話を「搭乗員のユーモア」の日にしました。
入谷大尉の写真は、クラス写真以外ではこの写真しか手に入らなかったのですが、
横向きではっきり見えるその鼻筋の通ったシルエットは
「土浦の貴公子」←エリス中尉命名
の名に相応しい気品を湛えています。
しかし、この貴公子は酔うと少し品を落としたものの、
穏やかでさっぱりしていて人付き合いのいいユーモアあふれる好青年でありました。
友人と一緒に満員の横須賀線の満員電車に乗った入谷大尉、乗客に向かって
「みなさん、出っ張ったところとへこんだところを突き合わせ融通して、
ずーっと奥へ詰めてください!」
電車中が大笑いになったそうです。
この入谷大尉は当時の飛行学生がほとんどそうであったように熱烈な戦闘機志望でした。
母上に向かって自分の宙返りを天覧に供したいものだと冗談に言うほど自信もあり、
また台南空の笹井醇一中尉とは飛行学生時代はよきライバルを自任し、
操縦ではよく張り合ってお互い負けまいと努力しあった仲でもありました。
しかし、入谷少尉は艦攻専修、笹井少尉はご存知のように戦闘機専修を命じられます。
ガッカリして落ち込んでいた少尉を親身になって慰めたのがその笹井少尉でした。
「涙が出るほどうれしかった」と入谷少尉は語っています。
台南空に赴任した笹井中尉が一足先に戦地に出ることになりました。
十二連空卒業試験前夜、「なるみ」で飲みかわしたのが二人の最後の邂逅になります。
「俺は往く。
しかし、艦隊決戦の最後のとどめを刺すのは貴様の雷撃だ。
悲観するな、焦らずしっかりやれ」
こう言いのこし戦地に赴いた笹井中尉の活躍ぶりは、次々と戦地から入谷中尉の耳に
報ぜられて入ってきていました。
その華々しいしい戦いぶりを、羨ましく思いながらも武運長久を祈っていた入谷中尉でしたが、
ついに昭和十七年八月二十六日、笹井中尉が戦死したという悲報に接します。
「彼の武人としての短くも花々しい人生が、もっとも彼に相応しいように思われるのが
一層悲しく感ぜられる」
戦死の報を受けて笹井中尉に寄せる回顧録に、入谷中尉はこのように記しました。
その入谷大尉は家族に向かっては
「自分は最後の切り札だから、自分が出るようになれば戦争は終わりだ」
と相変わらず冗談のように言っていたのですが、
南方の戦地で厳しい戦いを余儀なくされていたようです。
映画「雷電隊出動」にも描かれていたように、戦地では飛行機が不足していました。
この映画の「川上」のように、入谷中尉も飛行機を取りに日本に帰って来たことがありましたが、
その姿は家族の目にも「あわれに痩せはてて」いたそうです。
整備する人も無く、一カ月かけてやっと数だけ揃った埃だらけの飛行機を揃えて再び、
「全滅すること三回」という最前線(ペリリュー島)へと戻って行きました。
これが入谷大尉の最後の帰国になりました。
「途中で振り返ると、着いてくるはずの僚機が一つ、二つと消えているのを知ったときは
隊長としてたまらない気持ちだ」
「作戦上の指令とあらば、
探知機ですぐやられると決まっている方へも飛ばなければならない」
こんなことを家族に語っていったそうです。
入谷少尉には陸軍に行った兄がおり、幼いころから二人とも秀でた優秀さを噂されていました。
彼らの祖母などは、いつも学校では成績人格ともに教師から絶賛されるこの兄弟が自慢で、
「いつもほくほくしていた」ということです。
入谷少尉と前後してこの兄も戦死しています。
笹井中尉死後、一足、ほんの一足早く散った級友に向けて、
入谷大尉の遺した追悼文の一部をそのまま最後に掲載しましょう。
彼はついに「ソロモン」の花と散ってしまった。
彼の戦死の報に接し、無限の感慨の中に燃え出ずるものは唯、雪怨の炎であり、勃々たる戦意であった。
今こそ我等の出撃すべき秋である。
六十七期搭乗員の残党は未だ未だ健在である。
今は亡き戦友の屍を乗り越え乗り越え突進し、
必ずや仇敵米英に最後の止めを刺し尽くさねばならぬ。
「しゃも」よ。
何処かで待っていてくれ、共に勝利の美酒に酔わん日まで。
「零戦隊長藤田怡与蔵の戦い」という本は、兵学校73期の阿部三郎氏によって書かれました。
真珠湾攻撃に参加し、ウェーキ、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンの各作戦に参加し、
硫黄島の迎撃作戦にも従事。
第二次世界大戦の戦闘機パイロットそしてそれこそすさまじい修羅の戦場をくぐってきながら、
戦後その体験を本に著すこともしなかった藤田氏に、阿部氏が
「あなたが書かないなら私が書いてもいいか」
と声をかけ、その戦歴を書いたものです。
戦闘機パイロットとしての藤田氏の戦いについては、この本を読んでいただくとして、
本日ここでお話ししたいのは、戦後、民間機パイロットとして空を飛び続けた
「日航パイロット藤田怡与蔵の戦い」です。
終戦。
海軍が消滅し、軍という組織に職業として生活を依存していた全ての人々は、
全てゼロからの出発を余儀なくされました。
占領国による「旧軍パージ」の嵐が吹き荒れ、
「職業軍人」イコール「戦犯」と後ろ指をさす日本人さえいた当時、
元軍人たちにとっては、実際はゼロではなくマイナスからの出発だったと言えましょう。
藤田氏にとってもその道は決して平たんなものではなかったようです。
農業や土建屋の労務係、米軍キャンプの機械工を経て起業。
紆余曲折の職歴で糊口をしのいでいる頃、日本航空が設立されました。
設立当初の日航では、アメリカ人パイロットだけが勤務していました。
「日航が邦人パイロットを募集することになったそうだ」
ある日、同級生からそれを聞いた藤田氏は、その足で日航本社を訪れ、
その翌日には履歴書を携えて入社面接に赴きました。
しかし、ここで問題発生。
藤田氏の飛行時間に「2500時間」とあるのが問題になりました。
今回の募集は3000時間以上なので、受験資格がない、というのです。
「私は戦闘機に乗っていたから時間が少ないのです。
同期の大型機の者は皆5000時間に達しています。
時間より離着陸の回数を見てくださいませんか。技術はだれにも負けないつもりです」
藤田氏は懸命に説明したのですが担当者は首を振るばかり。
なんと、この押し問答は10回にわたって行われました。
その10回目。
「2500時間ではどうしてもだめですか」
相手の頑固さも普通ではない気がしますが、このときの答も
「だめです」
「・・・・・では私の履歴書を返して下さい」
引き出しから出された履歴書を受け取るやいなや、藤田氏は履歴書を広げ、2500をペンで消して、
その横に3200と書いてこう言い放ったそうです。
「これならいいでしょう」
面接担当「・・・・・・・・・」(-_-メ)
藤田氏「・・・・・・・・・」(^^)v
以前「海軍就活必勝法」という項をアップしたのを覚えている方はおられるでしょうか。
履歴書や経歴に書かれていることより、
「この人物と仕事をしてみたい、この人物の、履歴書に書けない部分を見てみたい」
と担当者に思わせたら勝ち、ということを書いたのですが、
まさに藤田氏のこの「暴挙」はその見本のような好例だったと言えましょう。
だからって、この藤田氏のマネをして、面接官に
「この空白の三年間に何をしておられたのですか?」
と聞かれ、
「履歴書を返して下さい」
といってさらさらと
「自己啓発と自己の可能性探求を目的した自宅待機、
あるいはインターネットによる情報収集と匿名掲示板における討論術のスキルアップ」
なんて書いてもだめよ、とそのときと同じことをここでも言っておきますね。
さて、日航の面接会場に話を戻して。
しばしにらみ合うのち、吹き出す担当者。(AA省略)
「負けたよ。受験しなさい」
そして最終面接。
大戦の戦闘機パイロットと聞いて社長も興味を持ち、
戦争中のことについてのいくつかの質問があったそうです。
しかしなんといっても合格の決め手は
「私は戦争中に人生を終わったものと思っていますので、これから日本航空で余世を送らせて下さい。
また実戦の体験から見ると、わたしは戦争の骨董品のようなものです。
日本航空ともあろう会社が、骨董品の一つや二つ持ってもよろしいのではありませんか」
という、一同が大笑いしたこの最後の言葉だったかもしれません。
後半は藤田氏の日航入社後の戦いについてです。
「菅野直伝説」の続編を読者の方から催促されてしまいました。
「たぶん続く」
と書いたまま、全く続ける気が無いことをどうやら見抜かれたようです。
中指を駆使して描きあげた初期の菅野大尉伝説ですが、
どうやら菅野大尉で画像検索すると必ず出てくるようで、いまだに毎日訪問者がある人気シリーズ。
そこまで期待されては、とリクエストにお答えしました。
(余談ですが、まったく関係ないことを画像検索していて自分の描いた絵が出てきてびっくり、
ということが最近何度かありました。
インターネット検索の仕組みって、ほんと不思議だわ)
(前回までのあらすじ)
「特攻など犬死にではないか」と言い放った軍医中佐の言葉を勝手に
(しかもとなりの部屋で)
聞き咎め、部屋に乱入、またがってタコ殴りにした菅野大尉。
その半年後、敵の銃弾を受け、担ぎ込まれた医務室には、その軍医中佐が。
因果はめぐる。世間は狭い。
あるいは、春休みに公園で見知らぬガキに散々苛められ、その2日後新学期が明けて、
そいつが同じクラス来た転校生であったのをを知ったときの、
小学校5年、あの日のエリス中尉のような気持ちかもしれません。
(カキウチー、元気か?)
しかも、殴った相手は今や生殺与奪の立場に立ち、不敵な笑いを浮かべています(想像)
後ろで部下が見ていなかったら、素直に謝ってことを大きくしないで済んだのに、と
「隊長はつらいよ」で書きました。
案の定、この軍医がたこ殴り軍医でなかったら、おそらく菅野大尉がここでも
「麻酔なんぞいらん」
と大見得を切る必要はなかったわけですが、前回と言い今回と言い、菅野大尉、
なんだって、「男の見栄」のためにこんな究極のやせ我慢をするのでしょう。
度々引用するのですが、漫画「紫電改のタカ」で、背中に銃弾を受けた久保二飛曹が、
麻酔なしで手術をするシーンは、幼心に強烈でした。
「すうっ」とメスが入り、軍医の顔に縦に飛び散る血しぶき。
(このシーンはいくら漫画でもありえないと思います。戦地でもマスク無しは危険すぎ。
知人の医者の同僚は、劇症肝炎の血をオペ中に被って小さな傷から感染、死亡しました)
仲間が押さえつけるも、痛さのあまり気絶してしまう久保。
「麻酔なしで切り刻む」ということも起こりうる戦場の過酷さを初めて知った部分でした。
しかし、ここは外地ではなく、日本国内。
いくら物資不足でも麻酔くらいはなんとか調達できたでしょうに、なぜそこまで意地を張る?
しかも、この後、まだその傷も癒えないうちに出撃し戦ったというのですが、
このあたりの描写は何かと創作の多い豊田穣氏の記述ですので、
話半分で聴いていた方がいいかもしれません。
菅野大尉の知人や家族が、豊田穣氏や、碇義朗氏のインタビューに答えて語る菅野直像は、
常に生真面目で刻苦勉励を惜しまない、闘志あふれた優等生。
文学青年でもあり、家族や友人には好かれる好青年である一方、豪快で、時として磊落も
行きすぎたやんちゃな逸話をたくさん残しています。
(またまた余談、この『やんちゃ』という言葉を、過去の犯罪自慢に使うある連中が、
エリス中尉は大嫌いです。『昔はやんちゃしたけど今は』みたいな、アレ。
菅野大尉のやんちゃと、たかが不良の軽犯罪を同じ言葉で語るな!と言いたい)
そのやんちゃゆえ、特に菅野大尉の人間性を知らない、軍の上官、通りすがりの関係者には
「なんだあいつは」
と眉をひそめられたり、呆れられたりといったエピソードが数多く残されているのでしょう。
世が世ならばこのような人物は、その本質を見抜くことのできる実力者に認められさえすれば、
可愛がられ、いずれは何か大きなことを成し遂げていたはず、とは個人的な感想です。
究極のやせ我慢と言えば「修羅の翼」を書いた角田和男氏が、ラバウルにいる頃。
ルッセル沖飛行中、
「突然眼前の水平線が揺れた。変だな、とよく目を据えて見定めようとすると、
たちまち今度は大きく左右30度位も揺れ、傾く。(中略)
下方水面を見るともりもりと水面がせりあがってくる」
現象に遭遇します。
「戦争どころではない、地球の終わりが来たのか!と恐怖を感じた」
終わっていたのは地球ではなく、このとき角田氏はマラリヤを発病していたのでした。
しかし、マラリヤにかかったと知られれば、角田氏は飛行止めになり、
帰還を控え、大事をとって出撃を控えていた同僚と、
最近まで飛行学生だった未熟な中尉を出撃させざるを得なくなる・・・。
そこで角田氏は必死に発病を押し隠し、計器飛行に切り替え、帰還します。
「分隊士の計器飛行はあまり上手じゃないですね」
ふらふらと計器飛行で飛ぶ姿を列機の部下にからかわれても、
「それは俺がマラリヤだからだああ」
などとは口が裂けても言わない角田分隊士。
このやせ我慢は、あくまでも自分以外の人のためのもので、我慢したからと言って本人には、
何のメリットもない、というあたりにこの人物の凄さが現れています。
しかも
「このときの計器飛行の経験は後で役に立った」
と、ころんでもただでは起きない角田氏でした。
さて。
「痛いのや苦しいのを我慢するなんて、死を覚悟し、いつ死ぬかわからない搭乗員なら当然だろう」
などと、他人事だと思ってちらっとでも考える人は、ここにはいませんね?
人間というものが、目の前に来ている死の運命よりも、歯の痛みや切り傷をとりあえず辛く思う、
「目先の肉体的苦痛に弱い生き物」であることを、よく表している証言を一つ紹介します。
桜花隊特攻に出撃を志願したある搭乗員は、その旨血書にしたため、隊長に提出します。
この搭乗員は結局戦争で死ぬことは無かったのですが、戦後、知人に
「私は死ぬことはちっとも怖いと思わなかったけど、
血を取るのに小指を切ったときは、痛かったですねえ」
としみじみ語ったそうです。
菅野大尉のやせ我慢が、相当なものであることが窺い知れます。
あなた、麻酔なしで手術しろなんて、いくら相手に弱みを見せたくないからって、
実際にその場になったら言えますか?
日高盛康少佐は海軍大将日高荘之丞の孫にあたります。
日高荘之丞大将は戦功により男爵の爵位を授けられ、兵学校校長を務めたこともありました。
山本権兵衛とは兵学寮の同期。
「坂の上の雲」で中尾彬氏が演じた、といえばお分かりでしょうか。
爵位が生きていた頃の知人である兵学校の後輩などが日高少佐について語ると、
必ず「男爵」と爵位を付けています。
しかし日高家は昭和17年に爵位を返上しています。
この日高少佐の兵学校66期、飛行学生33期は、士官パイロット揺籃の地であった霞ヶ浦航空隊ではなく、
筑波航空隊で教育を受けました。32期が教育中であったためです。
このとき筑波はできたばかりでした。
士官搭乗員が皆口を揃えて言うように、この半年間は日高少佐らにとっても
「大いに青春を謳歌しあった生涯最良のとき」であったそうです。
66期の教官には真珠湾で自爆を遂げた飯田房太大尉がいて、日高少尉らを鍛えました。
「お嬢さん」というあだ名の、温顔の好青年でしたが、内に烈々たる気魄を秘めたリーダーぶりだったということです。
ただし、硬派一本でもなく、日高少佐と同期の藤田怡与蔵少佐などはレス通いを指南された、
と想い出で語っているそうですから、もしかしたら日高少尉もこの飯田大尉の言うところの
「夜間訓練」参加組だったかもしれません。
さて、いよいよ卒業の日が間近に迫ってくると、寄ると触ると彼らの話題は「機種決定」。
皆、希望や期待を膨らませ、勝手な憶測が乱れ飛びます。
この練習機過程では、全員が一通りの操縦技術を習得するようになっていますが、
ここから先は適性に応じて専門の機種に回されるというわけです。
「血気盛んな若者に偵察は人気がなかった」
と、半ば予測でこのように考えを述べたことがありましたが、
実は日高少尉らにとってはそれどころではなく、
卒業時3分の一が偵察に行かなければいけないというのは
「大問題だった」。
人気がないどころか誰も行きたくなかったということです。
当時シナ事変で、渡洋爆撃など中攻隊の活躍が目覚ましく、
攻撃隊の指揮官にはパイロットよりは偵察が望ましい、という考えが生まれ始めていました。
つまりそれまでは「操縦適性の劣るものが偵察に行く」という傾向にあったのですが、
この辺りから「操縦適性のある者は、偵察適性も優れているはず」という風になってきて、
むしろ優秀なものを偵察に回す、という動きになってきていたのです。
皆戦闘機に行きたがるので
「偵察は操縦が優秀だから行くということにすれば少しは志望が増えるのではないか」
という兵学校がひねり出した苦肉の策のようにも思えます。
だがしかし。
いくら「偵察は優秀」と言われても、花形の戦闘機乗りに憧れるなというのが無理。
当時戦闘機は日進月歩。
その最新鋭のマシンを駆って空で戦う戦闘機乗りに、
ただでさえ積極先取の飛行学生が魅力を感じたとしても、何の不思議もありません。
日高少尉もまた戦闘機を「大熱望」していました。
しかし、狭き門でもあり、そもそも日高少尉の操縦の成績はご本人いわく
「どうひいき目に見ても抜群とは言えなかった」。
因みにこのとき「抜群であった」のが、真珠湾作戦にも参加した先ほどの藤田怡与蔵少尉でした。
そして、日高少尉にとってさらに不吉な予感のすることに、トンツーの成績はトップクラス。
衆目の見るところ「日高は偵察決定」というのが当日までの下馬評でした。
ところが蓋を開けてみればびっくり、日高少尉は戦闘機。
このとき戦闘機に選ばれたのは、原正、山下丈二、藤田怡与蔵、坂井知行の5人です。
戦闘機に決まったものはみな躍りあがって喜んだそうです。
山下丈二少尉は、このあと七五二空の分隊長としてニューギニアで戦死。
坂井知行少尉は先日書いたように66期のクラスヘッドでしたが、
五八二空の分隊長になってわずか一五日後、ラバウルに着いたばかりの空戦で戦死しました。
このクラス30名の内訳は10名偵察、20名が操縦。
20名の操縦の内訳は5名戦闘機、艦爆3名、艦攻6名、中攻5名・・・・
・・・・あれ?
一人足りませんよ。日高少佐。
手記には人数を数えながら一人ずつ名前を書きだしておられるのですが、
どうも一人、どうしても名前の出てこなかったクラスメートがいたようです。
このときの日高少佐の感慨。
操縦と発表されたものは戦闘機でなくて希望と違ったとしても、まあ一様にほっと胸をなでおろしたが、
偵察と発表された中の一部の人たちは一大ショックであったに違いない。
うーん、そんなにイヤなものなんですか、偵察。
まあ、後ろに座っているだけだからねえ。
責任感の重さのわりにつまらないといえばつまらないかもしれません。
というか、飛行機に乗るのならやはり自分で操縦したいですよね。
わたしだって、いまだに人の運転で助手席に乗るのは苦手で、ってそういう話ではないか。
さて、めでたく専攻も決まり、大分に向かうわけですが、
この戦闘機の5人は揃って卒業を迎えることはできませんでした。
原正少尉は射撃訓練に複葉の95戦で飛び立ったのですが、
機首をあげた刹那両翼が吹き飛んで、海に一直線に突っ込んでしまったのです。
この殉職については藤田怡与蔵氏もその手記に書き残しています。
原少尉は一週間見つからず、やっと見つかった無残な遺体は、
ばらばらになった手足胴体を包帯で固定して納棺しなければなりませんでした。
他の航空隊でも訓練中の事故、殉職は日常茶飯事と言っていいほど多かったそうです。
兵学校の飛行訓練の時にプロペラの前で屈んで身体を起こしたとたん頭を切られた、
という生徒さんの話を読んだことがありますが、これなどは本人の注意力欠如でとしか言いようがなく、
こんな事故で息子を失った家族はいたたまれない思いをしたのではないでしょうか。
菅野大尉が少尉時代に飛行機の脚を回されてひっくり返ったとき、皆真っ先に
「ああ、海軍葬だ、午後の上陸は中止になった」
と思った、というのも、菅野大尉が特に嫌われていたわけでも、皆が特に冷たかったわけでもなく、
おそらく「みんなそういった事故に慣れていた」ということだったのかもしれません。
しかし、日高少尉や藤田少尉にとっては修羅場の経験の全くないころの出来事であったわけで、
そのショックはひとかたならぬものだった、ということです。
「原が生きていたら基地部隊を希望していただろう・・・・・」
配属先が決まった喜びも、このような悲しさのまつわるものとなってしまった日高少尉ら33期飛行学生でした。
この原少尉は神戸出身の都会的なモダンボーイで、やはり東京出身の日高少佐とは
同じ都会派シティボーイズを自認する、気心の知れた者同士だったのでしょう。
兵学校の休暇時、神戸を案内してもらったのが戦後も少佐にとって楽しい想い出になったそうです。
実は、原少尉が事故を起こした飛行機は直前まで日高少尉が操縦していました。
日高少尉が事故で死ななかったのは全くの奇跡的な偶然の産物ともいえるでしょう。
事故の回避や出撃の中止など、いくつもの小さな奇跡が起こり、それゆえ終戦までを生き抜き、
さらに戦後の昭和平成の世を生きて天寿を全うしたと言っても差し支えない日高少佐と、
同じ機に時間差で乗っていたがゆえに若い命を事故で散らした原少尉。
いったいどんな運命の女神の気まぐれな采配が起こったのか。
その人生の最後の瞬間まで、仲の良かった原少尉と自分の彼我を分け隔てたものが何であったのか、
その問いが日高少佐の頭から離れることはなかったのではないでしょうか。
ところで、藤田怡与蔵少佐ですが、機種決定についてはあまり感慨もなかったもののようで、
一言もそれについては触れておられません。
日高少佐のように、熱望していたけれど行けるかどうか全く自信が無かった飛行学生ほど、
戦後もその感慨がありありと思い出せるくらいに喜びもひとしおだったのかもしれません。
坂井知行海軍少佐。海軍兵学校六十六期卒。
加賀乗組、横須賀空分隊長兼教官を経て昭和17年11月15日、五八二海軍航空隊分隊長。
昭和17年11月30日、ラバウル上空にて戦死。
同級生の薬師寺一男氏が初めて坂井知行生徒を入校前江田島のクラブで見たときに受けた印象です。
「こいつ頭のいいような顔をしている」
その印象の通り、秀才ぞろいの江田島でこの坂井生徒は「何の勉強もしないのにいつもトップ」
のハンモックナンバーでした。
「クラス・ヘッド」という項で七十期のクラス・ヘッドについて話しましたが、
天下粒よりの兵学校生徒ともなると、普通の秀才などではなく「何となく何でもわかってしまう」
天才タイプの生徒がその中でもトップを占めたようです。
しゃべるとき何となくもぐもぐと言った調子であることから飛行学生の時に拝命したあだ名は
「モグ」。
クラスヘッド・モグの勉強時間は誰よりも少ないので有名でした。
正規の勉強時間以外はもっぱら級や分隊のことをやり、休日には真っ先に倶楽部にでかけました。
なのにかれは難解な天文数字とか熱力学理論の問題も、またたくまに算式を解いてしまうのです。
「貴様、なぜ勉強をあまりしないのに試験がよくできるのだ」
級友のこの質問に対する坂井生徒の答えは
「教官が熱心に講義するところを、教室で覚えてしまうのだ」
『先生のの口調や身ぶりを見て、その力の入ったところを中心に試験のヤマを当てましょう』
と、その昔エリス中尉が読んだ学習雑誌に書いてあったことそのままではないですか。
そのとおり実行してみましたが、ヤマであろうが冗談であろうが、同じ調子で講義する
「敵もさるもの」や、一貫してぼそぼそと同じ調子で眠い講義をする先生の授業には
全く通用しなかった記憶があります。
そういう失敗談はともかく、この坂井生徒の四号時代、それを真に受けたのか、同分隊の生徒たちは
どうもこの「あまり勉強しない」というところだけを見習ったらしく、分隊監事から
「お前たちは坂井生徒とは頭の出来が違うから、刻苦精励の要が大である。
鵜のまねをする鳥(カラス)の結果となるのは当たり前だ云々」
とのお叱りを蒙ってしまったそうです。
この坂井生徒、クラスヘッドでありながら航空、しかも戦闘機を志望し、三〇名の飛行学生の中から
ほぼ全員が志望しながらわずか五人しか選ばれなかった戦闘機専修に選ばれ、
意気揚々と訓練に励みます。
しかし、ある日五人のうちの一人、原正少尉が訓練中で事故を起こし、殉職しました。
この事件で級友の、特にこの四人の戦闘機専修学生の受けたショックは大きかったようで、
何十年後になっても日高盛康少佐、藤田怡与蔵少佐が懐古録でそのときの思い出を語っています。
この坂井生徒は戦後を生きることがなかったのですが、遺稿となった家族への手紙に、
明らかに原少尉のことに衝撃を受けて書かれたと思しき一句が綴られています。
海荒れて夕闇は濃し一機帰らで 山人
山人とは、坂井少尉の句名でしょうか。
この句には「太平洋の真中に不時着行方不明となれる機を思ふて」と添え書きがあります。
原機は訓練中上昇の際両翼が飛び、機体ごと海中に一直線に突っ込み、
さらにその遺体は一週間の捜索を待たねば見つかりませんでした。
この句は、明らかにその一週間の間に書かれています。
さて、飛行機の操縦にも「スランプ」というものは訪れました。
おそらくどんな搭乗員も、そんな波を繰り返しつつ一人前になり、一人前になった後も
調子の波というものは戦況などとは全く関係なくその技術に影響を与えたのでしょう。
クラスヘッドで、操縦技術にも長けていたモグも、飛行学生時代スランプに見舞われました。
同じようにスランプだった薬師寺学生と連れだって水戸連隊に馬術訓練に行っています。
何とかしてそれから脱したいという思いでしたが、効果なし。
そこで悪友のアドバイスがあり、二人は・・・・・
ここは薬師寺氏ご本人の言にお任せしましょう。
「紀元二千六百年の記念作業も兼ねて、思い切ってバージンを捨て
スッキリするに如かずと二議一決」
ちょっと待て。いや、お二人、ちょっと待って下さい。
この「紀元二千六百年の記念」というのは一体何ですか?
何とかスランプを打破するついでにちゃっかり記念作業も、ということですか?
その辺は秀才といえども実に若者らしくて、思わず微笑んでしまいます。
教官に紹介状を書いてもらった(さすが海軍!)お二人、柳橋のさる一流料亭に勇躍乗り込みます。
ところがこの料亭の女将、たった一言、
「勿体ないことしなさんなっ!」
「・・・・・・・・・・・」(._.)(._.)
海軍軍人も、海千山千の女将にかかっては子供扱い。
でも、わたしがこの女将ならやっぱりこう言う。
とにかく二人はこの神の、じゃなくてゴッド(おかみ)の一言で雄図空しく帰隊しました。
その後二人がどのようにスランプを解消したのか、また「記念作業」はその年のうちに行えたのか、
それは薬師寺氏も書きのこしてくれていません。
昭和十七年十二月。
兵学校六十六期同級生の外山三郎氏は、トラック島に出店していた料亭、パイン(小松)に立ち寄りました。
そこで外山氏は他のパイロットから
「坂井知行さんが立ち寄りましたよ。自信満々、米機など鎧袖一触(がいゆういっしょく)、
ものの数ではなさそうな口ぶりでしたよ」
という報告を受けます。
頭脳だけでなく、運動神経もよく、敏捷でパイロットとしてはピカ一の存在である坂井大尉の存在は
関係者の中では有名だったのです。
しかし、同席した一人が「心配だなあ。相手もしたたかだぞ」と言いだし、
しばし座は坂井大尉をめぐって論争になりました。
外山氏は坂井大尉の腕を信じる気持ちと、不安に交互に見舞われつつ、武運を祈って宴を終えましたが、
実はこのときすでに坂井大尉は戦死しており、この世からいなくなっていたのです。
後からそれを知り、外山氏は暗然と打ちのめされたそうです。
着いて早々、地形も敵情も戦闘法も、何も知らない若い士官をいきなり隊長として実戦に出し、
緒戦で未熟な彼らを失ってしまう、ということがこの時期多くありましたが、
飛行学生時代腕のいいパイロットと言われた坂井大尉もこの例にもれなかったのです。
せめて、しばらくの間、状況を把握する時間があったら。
明晰な頭脳に技術を備え、何よりも人望のあった坂井大尉ですから、武運さえあれば指揮官として
腕を奮う逸材に育ったことは間違いないでしょう。
この頃のラバウルでは実に多くの若い士官搭乗員が着任早々亡くなっています。
毎日のようにいなくなる士官パイロットの補充要員として次々に実戦に出されたためです。
すでに「馴らし」を行わせてもらえるほど余裕のある戦場ではなかったということなのですが、
それにしても、この戦場にとってだけではなく、戦後の日本にとっても必要だった
優秀な人材を失わないためにも、あとせめて暫時の猶予が与えられなかったのでしょうか。
坂井大尉は生前家族への手紙に
「人生わずか五十年、軍人半額二十五年」と冗談めかして書いています。
その言葉はそのまま悲しい予言となり、クラスヘッド「モグ」こと坂井知行大尉の人生は、
わずか二十五年で終わりました。
荒木俊士少佐(死後昇進)
海軍兵学校67期卒。
伊号10潜水艦乗組を経て鹿島空、四五二空、宿毛空、四五三空、三〇二空で分隊長。
昭和二〇年二月一六日、敵艦載機来襲の際厚木基地発進
厚木東方上空において敵戦闘機群を発見、二機撃墜せるも被弾のため戦死
靖国神社の二の鳥居を出たところの左側に、旧九段高校があります。
おそらくこの高校のものと思われる実に立派な天文台があるのです。
その昔、天文部が盛んだったこの高校で、荒木俊士という高校生が夢中で悠久の星空を眺めた、
それが、この九段の一角だったのでしょうか。
「我々は負けていない」という題で森岡寛大尉について書いたとき、厚木の三〇二空の隊写真を見つけました。
中央の折椅子に森岡大尉と並んで腰かけている大柄な荒木俊士大尉。
この、いかにも大らかで部下に慕われそうな豪快な感じのする隊長はこの後まもなく戦死します。
隊長としての荒木大尉は、やはり写真にも覗えるように
「ヌーボーとした風貌は海兵出にしては珍しいタイプで、枠の外にはみ出したような大らかさがあった」
「古武士のようなひょうひょうとした態度、その話しぶりはいつもユーモアがあり、優しい目はみなを惹きつけた」
という人物であったようです。
靖国神社の横に二〇〇九年に閉校してしまいましたが名門だった都立九段高校がありました。
荒木大尉はこの前身の市立一中出身で、朝夕靖国神社の前を低頭して通学したそうです。
兵学校の入学式には全国津々浦々からあらゆる階層のの中学生が集まって来るので当初は
「羽織はかまの国粋型もあれば背広スタイルの制服もあった」のですが、
九段の一中は当時珍しい背広スタイルの制服を採用していましたから、
この記述は入学式の際の荒木大尉の姿を指していたものでしょう。
現在六七期の合格者の集合写真が残されていますが、この中にスーツ姿は三人います。
荒木大尉はどこに行ってもリーダーを務めるタイプだったようですが、隊長になってその真価を発揮したようです。
「髭の荒木」として、甲板士官時代は下士官を震え上がらせました。
しかし、もともと天文学部で熱心に天体観測をしたり、ヴァイオリンを趣味で弾くなど、
「柔」の部分も持っていたようです。
この「飛行学生時代同室者をさんざん悩ませた」ヴァイオリンには隊長になってからは触れなくなり、
そのかわり僻地の航空隊(おそらく占守島、別飛沼基地にいた第452海軍航空隊のことと思われる)にいたときは、
士気高揚と娯楽のために入手困難だったレコードを私費を投じて買い集めることをしています。
指揮官には、技量もさることながらいかに人心を掌握するかという将器が何より必要なものであると思われますが、
この荒木大尉には、部下の心をひきつける人間的な魅力とともに、
そういった気遣いが自然にできる優しさが備わっていたようです。
厚木一豪勢な布団の置かれた私室には常に香が焚き込められていたのだそうですが、
これも剛でありながらその対極にある荒木大尉の雅の部分だったでしょうか。
博多空時代のこと。
隊内の酒保で買ったものは持ちだし厳禁と決まっているのに、
どうも隊の境の垣根のあたりに部下に菓子類を持って来させ、
外出許可が出て外に出てから垣根越しに受け取っている者がいるらしい、という噂が立ちました。
荒木中尉は衛兵司令であったので責任を感じ、同期の高木中尉と夜な夜な作戦会議を行います。
その結果、荒木中尉がずっと松の木によじ登って上から見張りをすることになり
首尾よく犯人を捕まえることに成功しました。
犯人は元教員の優秀な上飛曹で、かれはフィアンセとのデートのとき
一緒に食べるためにお菓子を持ちだしていたのでした。
相手が許嫁ということで大目に見たくとも、そこは立場上大目に見られない荒木中尉、
上飛曹を隊内に連れ帰りお説教をする一方、待っているはずの許嫁には高木中尉に
「急用ができてこられなくなった」
ということを伝えさせています。
さて、この荒木大尉が、死後も名隊長として部下から慕われ続けたのは、壮絶なその最後の姿ゆえでした。
昭和二〇年二月のその日、その最後の空中戦は基地の上空で行われたため、
列機を始め何人かがその最後を目撃しています。
彼らの証言を総合するとこのようになります。
「この日、雷電隊と同時に零夜戦隊も厚木基地を離陸した。
荒木大尉を一番機に、たった四機の夜間戦闘機零戦が、何百機いるかわからないグラマンに、
せめて一機でもと気負い立って離陸していった・・・・・」
「荒木大尉はグラマン十数機を発見した。
百m以上の優位から荒木大尉はそのグラマンの一番機に一撃を加えていった」
「三、四番機はすでに敵中に突入と同時にばらばらになっていた。
四機の零戦で突入するには、あまりに敵の数が多すぎたのだ。
それにしても、自分の後から射撃されながらも前の敵に食いついて離れない荒木大尉の攻撃法は
その性格を如実に表していた。
荒木大尉は前のグラマンを墜としたけれど、自分もまたやられて離脱、
その飛行機はふらふらしながら藤沢の不時着場へ機首を向けて不時着しようと試みたけれども、
ついに途中で墜落してしまった。
飛行機に残った無数の被弾の中の一発は、荒木大尉の頭に命中していた」
よく訓練され、技も肝も日本一、と自負する零戦隊の、
見る見る失われていく部下を一機でも救うために、荒木隊長は果敢に敵機の大群に挑んでいったのでした。
戦後数十年を経ても、当時の部下は荒木大尉の名指揮官ぶりを、そしてその最後を忘れ得ず語り続けたそうです。
「あのときの隊長は、立派だった」と。
若き日の昭和天皇のお姿ですか?
と思われたあなた、違います。
これは(しかし似てるな)海軍兵学校の名物英語教授平賀源内先生。
七十一期生徒の卒業式でのフロックコート姿です。
と、ナチュラルに言ってみましたが、もちろんこれはあだ名。
本名は平賀春二先生といいます。
ある日、兵学校生徒がどこぞの名所に課外授業で訪れたとき、
「ここにはあの平賀源内が」
という係の説明がありました。
生徒がそのときどっと笑い出したのです。
謹厳で決して笑わないと言われていた将校生徒が笑いだしたので係は「?」
この理由は彼らの英語教授が親しみをこめて「源内先生」と言われていたことにありました。
源内先生は明治三十七年、江田島のお膝元広島に生まれました。
海軍が好きで好きで、もともと兵学校に入りたかった源内先生。
視力が悪かったのでそれは当初から断念せざるを得なかったのですが、
広島師範学校卒業、大阪四条畷中学に奉職した後、京都帝大を経て念願の兵学校教授になります。
昭和七年のことでした。
以来、昭和二〇年の終戦のその日まで源内先生は海軍兵学校の名物教授として生徒に親しまれるのです。
前職の四条畷中学では自らを「源内」と名乗っていた先生。
兵学校においては威圧させられる校風に緊張する毎日、そんな余裕をかますどころではありません。
しかし、誰が言うともなく、同僚教師が、そして学生が、平賀先生を
「源内先生」
と呼びだしたのだそうです。
先生も
「天下粒よりの秀才、人格高潔身体強健、まさに紅顔純潔のサラブレッド」
たる兵学校生徒を教えるのに掛け値なしに充実した日々を送ったようです。
私は四十年あまりも教員をしておりますが、あの頃のような授業ができましたのも
後にも先にも兵学校においてだけでした。
教師の気持ちが直ちに生徒に通じ、生徒の疑問がすぐ生徒の眼に読めて、
敵味方火花を散らすような授業でございました。
火花を散らすのは学業のみならず。
打てば響くような彼らのユーモアとノリの良さに源内先生すっかり魅了されます。
先生「そんな下手な質問をするようでよくもまあこの兵学校に受かったもんだな」
生徒「教官、私も不思議に思っとります」
先生「・・・・・」
先生「貴様たちの訳文は冗漫でしかも文がなってない。
オレが電報を打つと誰でも言うぞ。
『平賀さんの電報は語呂が良くて明確で短くて・・』」
生徒「やすあがりで」
先生「・・・・・」
先生「貴様たちの小銃射撃の練習ぶりを見るといかにもなってない。
今から射撃術を授ける!」(源内先生は京大の射撃部キャプテンだった)
「(射撃法のなんたらかんたら)つまり照準点の他はなにも見なくてよろしい」
生徒「教官は近眼(ちかめ)のようですが、それでもそんなに当たるのですか」
先生「貴様たちは今まで眼で撃っていたのか―道理であたらないはずだ。
腹で撃つのだよ、腹で」
生徒「実際!実際!」
生徒「先日貴様たちに取られた一本、ただ今完全に取り返したぞ!!」
この「実際!」は、今では聴きませんが、当時の「ムカつく」「笑える」状態のときに言う
流行り言葉だったようです。
上級生に不当な修正を受けた生徒たちが口々にこう言っていた、という記述を見たことがあります。
そういえば私の父親も言っていたことがあるような・・・?
海軍兵学校について書かれたものの中には、この源内先生がよく登場します。
手許にありませんが、学生時代の野中五郎少佐と一緒に写っている写真を見たことがあります。
野中少佐は昭和八年海兵を卒業していますから、源内先生の見送った最初の一号生徒ということですね。
源内先生はまた現役引退して江田内で兵学校の教材として余生を送っていた軍艦「平戸」に居住していました。
夫人が結核で闘病しており、単身赴任していたのですが、艦長室を宿舎として使用していたのです。
艦長こそいませんが教材といえどちゃんと先任下士官以下二十名の艦船(フネ)。
先生、内心「艦長気取り」でもあったようです。
ある日舷門のあたりで「平賀」「艦長」と聞こえます。
「さっきおれのことを言っていたようだが」
源内先生が尋ねると水兵が当たり前のように
「『艦長在艦』と前の当番兵が申し送っただけであります」
これを聴いて源内先生、小躍りせんばかりに喜びます。
海軍兵学校にに入らずして「艦長」の称号で扱われたわけですからね。
海軍に憧れ、兵学校の生徒が好きで好きで仕方なかった源内先生、海軍式の敬礼も堂にいったものでした。
兵学校では文官教官は敬礼をしないのですが、源内先生だけは
「海軍中佐にも本物ですねと褒められた」自慢の敬礼で生徒にパッと挙手します。
生徒たちはこの源内式答礼を好んでいたようで、各自の思い出にはこのことが必ず書かれています。
「平賀教授には早めに敬礼しないと向こうから先にやられるぞ」
という申し送りもあったとか。
しかし、源内先生は文官ならではの心配りも忘れませんでした。
教官に敬礼するときはどんなに急いでいても、駆け足から速足、
「頭―右!」―「なおれ!」
をして、威を正して敬礼後、もとの駆け足に戻るわけですが、それを知っている源内先生、
次の課業に間に合うために隊伍を組んで駆け足で急いでいる生徒を認めるやいなや、
物陰に姿を隠して生徒をやり過ごすのだそうです。
生徒はそれを眼の端に認めていて、戦後先生に会う機会があると
「あれは本当にありがたかった」
と当時は言えなかった感謝を述べるのでした。
戦後、先生は、海上幕僚長も務めた兵学校卒の内田一臣氏にこのように語りました。
「生徒館の廊下などを歩いていると、戦死してしまったあの頃の生徒が、そこの柱の陰からとび出してきて、
教官!と呼ぶような気がすることがあります」
そしてどっと涙をこぼしたということです。
平賀源内、本名春二海軍兵学校教授。
晩年広島大学名誉教授を務め、1984年、八十五歳で亡くなりました。
元海軍教授の郷愁 源内師匠 講談十席 平賀春二著 海上自衛新聞社
写真集 江田島 海軍兵学校
海軍兵学校よもやま話 生出寿 徳間文庫
千早猛彦海軍大佐。
海兵62期、空母赤城分隊長を経て一二空飛行隊長。
「偵察の神様」とまで言われた士官偵察員です。
偵察、という分野は戦闘機より一見地味な分野です。
志望の段階でも第一希望にあがることはあまりなく、
軽視されていた傾向にあったそうです。
海兵六十七期の「海軍史」に寄せられた手記によると
天山乗りの肥田大尉には学生時代にこんなことがあったとか。
大村航空隊での延長教育中のこと。
洋上航法訓練をしていて二、三時間たつとどちらを向いても海ばかり。
後席の偵察係に「もう帰ろうや」と言うと、「肥田、ここはどこだ」
「馬鹿!貴様が偵察員ではないか」
帰隊は大幅に遅れ、二人はこってり油をしぼられたそうです。
後ろ席のK少尉、少なくとも偵察志望ではなかったのでしょう。
ところで淵田美津夫中佐が偵察出身だということをご存知ですか?
真珠湾の立役者となった淵田中佐ですが、実は中尉時代、航法を間違え、
危く海の藻屑になりかねないチョンボをしています。
海中に転落し行方不明の潜水艦艦長を捜索するために空母「加賀」から飛び立った六機。
その小隊長機が進路を間違え、あさっての方向へ飛んで行くのです。
偵察員は飛行学生を卒業したて、若葉マークの淵田中尉。
二番機のベテラン兵曹、さすがにすぐさま間違いに気付き手旗でそれを報せますが、
淵田中尉、手旗が分からないのか自信があるのか、知らん顔。
当然隊長も気付かずまっすぐ間違った方向へ行ってしまいました。
二番機は辛うじて加賀に帰艦することができましたが、
淵田偵察員の乗った隊長機は燃料が切れ、海の上に不時着。
しかしその後、運よく中国のジャンク船に救助されたそうです。
このように判断一つで海軍葬になりかねない機上の航法。
事実方位を失って殉職する搭乗員は少なくなかったといいますから、
責任は重大で、パイロット以上に沈着冷静で緻密な判断が求められるのが、
偵察という任務。
しかし、飛行機を目指す血気盛んな青年が最初から偵察を志望する例はあまりなかったようで、
この千早猛彦大佐も霞空卒業時思いがけず偵察に回されてしまいます。
ショックを受ける千早少尉ですが教官の
「操縦員は車曳き、偵察は一軍の将」
という言葉に納得し、以後その道に邁進します。
教官の目に狂いはなく、のちには
「偵察の神様」と言われ、
死しては「軍神」と呼ばれるほどの偵察将校に成長することになるのですが、
それでは偵察の任務とは何か?
ここで少し説明しておきたいと思います。
通信、爆撃、射撃、偵察、写真。
乗り機によって任務の種類はもちろん分担されることもありますが、
偵察員にはこれだけの仕事が課せられていました。
しかし、もっとも重要なのが
航法と見張り
でしょう。
海軍機は洋上を飛ぶことが多く、現在地を地形に頼ることができません。
たとえ地上を飛ぶのであっても、
天候によっては全くそれは頼りにならなくなるわけで、
特に母艦を離発着する機の場合、
帰投する艦そのものは一つのところにじっとしていません。
風向、風力も時々刻々変化していくのです。
飛行機はほとんど風によって流されますから、
その度合いに応じて針路を修正していかなくてはなりません。
偵察員は、風向、風速を偏流測定器と計算盤を使用して算出するそうです。
豊田穣氏は艦爆機に同乗していたベテランの偵察員 から
「士官の偵察員の人たちはどうして、ああ若いうちから
航法でぴたりと空母の位置まで戻れるのでしょうかね」
と聞かれたことがあるそうです。
兵学校の座学ではもちろん航法はかなり厳しく叩きこまれるそうですが、
もともと理数系の学校である上、
偵察に行く者は座学の段階で自分が向いているかどうかを見極めているため、
実戦でも優秀な偵察員が多かったのかもしれません。
そして、なまじ志望の少ない地味な専攻だったゆえ、
千早大佐のように素質のありそうな学生を教官が客観的に見極めて
選抜する事が多かったためではなかったでしょうか。
さて、中国戦線で大陸の戦場に出た千早猛彦大佐は、いかにして「神様」になったか。
敵の戦闘機が味方の陸攻隊を認め飛び上がる所を、千早機は詳しく無線で報告します。
陸攻隊はその報告を受けてしばらく避退し姿を隠しています。
燃料の無くなった敵飛行機が基地に帰ってきて着陸するのを見届けた千早隊が
それを陸攻隊に報告。
「敵機着陸終了」
それを受けて陸攻隊は敵基地に殺到、地上の飛行機に爆撃を浴びせるという方法です。
この方法で何度も戦果を上げ、「爆偵の千早」の名をあげたのでした。
零戦が初戦果をあげたのは初陣から数えて四回目の出撃になる昭和一五年九月一三日の重慶攻撃です。
試作品のまま大陸に送られ現地で調整されたという零戦は、
最新鋭の戦闘機とはいえ単座なので、
航法、無線に不備が多く、したがって陸偵が先頭に立ち誘導することが必要でした。
このとき進藤三郎大尉率いる零戦13機による攻撃は歴史的な大戦果をあげます。
続いて十月四日には横山保大尉率いる零戦8機を成都爆撃に誘導。
この戦果も千早機の誘導なしには得られないものでした。
このときのことを横山大尉は
「千早君は大言壮語することなく、いつも黙々と研究し、
往復とも冷静に誘導してくれた」
と述解しています。
千早少佐はテニアン基地からマリアナ沖海戦にに参加、メジュロ偵察を三度にわたり強行しますが、
愛機彩雲に乗った少佐はそのまま行方不明となります。
連合艦隊司令部の作戦の誤りから、二回にわたる千早機の偵察結果は、
作戦に生かされないまま海軍は大敗します。
開戦以来、海軍がこのときほど的確に、
敵艦隊の動静を捉えていたことは無かったというのにもかかわらず・・・・・・。
幼いころから内向的で沈思黙考型、学者が向いていたのではないかと言われた千早少佐。
穏やかで子煩悩の愛妻家、部下思いの優しい性格であったと伝えられます。
昭和19年6月11日マリアナ沖で戦死、享年三十歳。
二階級特進し、海軍で最も若い大佐になりました。
参考:人物抄伝・太平洋の群像76・上原光晴
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
新・蒼空の器 豊田穣著 光人社
帝国海軍士官入門 雨倉孝之著 光人社
海軍六十七期史
海軍少佐(死後二階級特進大佐)野中五郎率いる神雷部隊には、
「南無八幡大菩薩」「非理法権天」(註)という楠正成も掲げた幟がはためいていました。
隊員は誇りを込めて自らを「野中一家」隊長を「野中親分」と呼びました。
時には陣羽織を着て指揮にあたった野中親分には、
しかし、戦場で茶の湯を点てる雅(みやび)な一面もありました。
註:ひりほうけんてん。
「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する」
非<理<法<権<天、つまり、
「権力者が法令を定め、その定めた法令は道理に優越する」
皇国主義の大東亜戦争当時「天」は「天皇」とされた。
ここで似顔絵を写真から描きおこすとき、約小一時間写真を何回も眺め、細部を点検するのですが、
野中少佐の気品のある鼻筋、何か愉快なことを企んでいるかのような生き生きとした目、
そしていつも心もち持ち上げた唇の端に、
人生を肯定するかのような微笑みが漂っているのをつくづく見るに、
この「親分」に写真だけで魅了されてしまいました。
兵学校時代からその最後まで逸話の多かったことは皆さんももしかしたらご存知かもしれません。
先日堂々たる居眠りを話題にしましたが
全ての逸話が少佐の魅力を物語り、
人間に器の大きさがあるならばこれほど大きな器の持ち主はいるまいと思われるほどです。
カリスマとはこういう人のことを言うのでしょう。
搭乗員整列の合図に陣太鼓を打ち鳴らし、
号令台の上で右ひじをちょっと曲げるだけの招き猫みたいな答令をし、
「今日は滅法天気がいい。
陸攻隊の野郎ども、具合のいいところからおっぱなせ。
桜花隊の野郎ども、目ん玉ひんむいて降りて来い。
野郎どもかかれえーっ」
搭乗員たちは「がってんだーっ」
「おう、君が林くんか。てめえ、野中てぇケチな野郎でな。
まあ奥にはいんねえ。もっともあんまり奥にへえると突き抜けちまうがな。へへ」
と品のない笑い方をしました。(兵71 林富士夫大尉)
野中少佐が茶道に傾倒したのは
裏千家を学んだ搭乗整備員藤村鉱三兵曹の手前を見て影響を受けたものです。
こんにち、基地指揮所で茶を点てる少佐の写真が残されています。
少佐が茶を点てる場所はそれこそ飛行機の翼の陰、
敵弾でハチの巣になった陸攻での帰途の機内、
硫黄島での灯火管制の暗闇のなか。
戦場でありながら機会を見つけ、出陣前や帰投後、そのひとときを持ったそうです。
戦国時代、長路の道中で茶を点て、
「こんなときに」と同僚にいぶかられた武士が
「これもまたそれがしの一日(いちじつ)でござれば」
と答えた、という話を彷彿とさせます。
海兵66期、藤原弘道少佐の回想です。
「粗菓ですが召し上がれ」
隊長は何かを私の前に出してくれた。
探ってみると、丸い小さな木盆があり、何やらのっている。
それをまさぐると紙に包んだものである。
開いて口に入れてみると、何とそれは配給の熱糧食であった。(略)
いよいよ隊長が茶を点てることになった。
タバコをふかしながら茶を点てるとは不作法ではないかと思っていたが、
なつめから抹茶をすくうとき、茶碗に湯を注ぐとき、
タバコのあかりで分量を見定めるのを見て、なるほどと感心した。
静かに夜は更けていった。
あるいは、全精力注いで雷撃を繰り返し、暗夜の洋上を帰ってくる機上で、
うしろから肩を叩かれる。
ふりかえると野中少佐が黒茶碗に点てた抹茶を差し出している・・・。
それを飲むとき、隊員は「生き返った」と実感したのだそうです。
一式陸攻に吊られた「丸大」桜花ロケットに人間を乗せ体当たりさせる特攻隊
「神雷部隊」隊長だった野中少佐は、桜花を
「この槍、使い難し」と評し、出撃を命じられたとき
「湊川だよ」
宰相の愚策から、敗北を知りつつそれでも
天皇の御為に出陣した楠正成軍が全滅した戦場の名を呟いたと言われます。
自らの最後を楠公の湊川になぞらえた少佐が、いつその覚悟を決めたのか分かりませんが、
そのころ少佐は戦地から自分の茶道具を親族に送り返しています。
形見のつもりだったのでしょうか。
野中少佐の茶道具はこんにち、「非理法権天」の幟とともに靖国神社遊蹴館で見ることができます。
見事な手さばきで茶を点て、戦闘で疲弊した部下の心を慰める野中少佐は
またクラシックを愛する音楽青年でもありました。
「いやべつに、ただ俺の好みでやっているだけよ」
「野中流」の理由を尋ねられ、少佐はこう答えたそうです。
湊川となった3月21日の最後の出撃の訓示はいつものべらんめえではなく
「まともな演説」だったということでした。
「野中親分」は繊細な野中五郎が作りだした人心掌握のための鎧だったのでしょうか。
戦争という舞台がなかったら、野中五郎はこの役を演じなかったでしょうか。
「最後の一瞬、
野中は火だるまの機中で、阿修羅のように絶叫してつっこんだのであろうか。
あるいは茶を点てているときのように、穏やかな顔で莞爾として突っ込んだのだろうか。
私にもわからない」
(海兵60 足立次郎少佐)
そのいずれであったとしてもそのときのかれが本当の野中五郎だったのでしょう。
作戦として組織された特攻で散華した佐官は野中少佐ただ一人でした。
参考:「戦場での茶の湯」藤原弘道
「剛柔二刀流」湯野川守正
「つむじ風部隊」板倉光馬
「指揮官先頭、共生同死」生出寿 徳間文庫
「海軍兵学校よもやま物語」生出寿 徳間文庫
「最後の精鋭『神雷』一家さむらい列伝」 足立次郎
「神雷部隊の思い出」林富士夫 人間爆弾と呼ばれて 文芸瞬春秋編
海軍兵学校出身者の戦歴 後藤新八郎 原書房
ウィキペディア フリー辞書より
「野中五郎」「非理法権天」「楠正成」
「日本海軍戦闘機隊」大日本図書
元海軍大尉とお話ししたときのことです。
大尉が海軍兵学校生徒だったとき校長をしていた井上成美海軍大将の話になりました。
そのときに元大尉が言うには(校長職は)
「まあ、いわば左遷職ですね」
「またも負けたか第四艦隊」
当時兵学校では節をつけてこのようにその敗北が揶揄されていました。
ウェイク島攻略、珊瑚海海戦に失敗し、自らも
「本当にいくさが下手でした」と言ったという井上大将が、
兵学校の校長を拝命したのは1942年10月。
(ただし、戦後そう語った井上氏はその後
『・・・・ということになっております!』と一言付け足したそうです。
状況から考えて井上大将の采配だけに問題があったかを疑問視する説もあり、
この場合の戦果は個人の能力ではいかんともしがたかったのではないか、
とだけ個人的な感想として言っておきます)
実際には左遷であったのかもしれませんし、本人も最初は戸惑ったようでしたが、
井上校長は兵学校の校長職を非常に気にいるようになります。
「校長なら何年やっていてもいい」と周囲に語っていたといわれ、
また1944年に海軍次官になったあとも
「私は中央より江田島が合っている」と、校長への復帰を頼んでいたといわれます。
「居眠りの達人」の日に、居眠りしている生徒が後ろからつつかれて不機嫌に振り向いたら
校長が立っていた、という話をしましたが、職務熱心な井上校長は校内をまめに見周り、
生徒の様子をつぶさに観察してまわりました。
「海軍の頭脳」とまで言われた学者肌の井上成美の本領は、戦闘司令官としてより
教育者であることでより発揮されたとする説もあります。
着任の当初、井上校長は生徒の様子を観察した結果、
皆何かに追われているような余裕のない様子であることに気づきます。
その生徒の様子を「前科三犯のの面構えだ」といい、
生徒を硬直させている伝統的な慣習から彼らを解き放たれるべく
「もっと遊ばせてやれ」と指導します。
このような井上校長なりの改革後しばらくたってから、
陸軍士官学校の牛島満校長が兵学校の見学に訪れ、このような感想を漏らしています。
「ここの生徒は可愛い顔をしているね。
俺んとこの生徒はもっと憎たらしい顔をしているよ」
憎たらしいて牛島校長・・・・・・。
井上校長、「生徒の服装が違うからでしょう」と謙遜しますが(謙遜になってない)
内心、さっそく効果がでてきたわいと喜びます。
ちなみにこのとき、生徒館においてあったピアノを生徒がかわるがわる演奏するのを見て
牛島校長は陸士との雰囲気の違いに驚いたという話もあります。
井上校長が軍人教育ではなくジェントルマン教育をモットーとしていた、
というのは有名な話ですが、それは同時に人格教育でもあり、たとえ戦闘をするのであっても
人格の優れた人間でないと部下はついてこないという信念でもありました。
「直角定規」「蒸留水」
井上大将を言いあらわす言葉は、ときとしてその融通のなさ、面白みのなさ、
今でいうところの空気の読めなさを批判したものが多くあり、
その原因のほとんどは井上大将の直情径行からくる言動から来ているようです。
因みに直情径行をあらためて辞書で引くと
「相手の思惑や周囲の事情など気にしないで自分の思った通り行動すること」
とあります。
そのとおり井上大将は、信念を強く持つ人にありがちな衝突を
周りと起こしていたきらいがあったようにも見受けられます。
(同期でよく言う人がいなかったのは、もしかしたら「戦下手」にもかかわらず、
そして本人の意志ではなかったにもかかわらず、
たったひとり大将に昇進したということと無関係ではないかもしれません)
ともあれ、信念の人、井上校長はかれの教え子たちを心から愛する教育者でもありました。
昭和18年、当時三号だった74期の赤帽(泳げない生徒の印)生徒が水泳訓練中溺死する
という痛ましい事件がありました。
個人の運動能力や体力を時に無視するような兵学校のスパルタ式訓練では、
このように時おり人命が失われるという事故が起こったもののようです。
亡くなった生徒が横たわる病院の通夜室に弔問に訪れた井上校長を、
52期の福地周夫中佐がこのように書いています。
校長は副官を従えて室内に入り、遺体の前に直進され、焼香も何もせられず、
生ける者に対するごとく
「許せー!」と叫ばれた。
そして悲痛な顔をして、すいと室を出て行かれた。
校長は日ごろ謹厳な顔をしておられたが、
このときほど恐ろしい、悲痛な顔を見たことがなかった。
この生徒は、夏休みが終わり帰校した次の日の八月十日に無くなりました。
その翌日から、井上校長の姿が遊泳訓練開始から二時間の間、
海岸のおもて桟橋に見られるようになりました。
校長は炎天下の直射日光にさらされながら白の第二種軍装を着てそこに立ちつくし、
訓練を終えて全員が陸に上がるのを見届け続けました。
それが毎日だったので、教官にも生徒にも誰の目にも印象深く残っている。
ただ、そのような井上校長の心を知る者は、ほとんどいなかった。
私も全く知らず、
(この暑いのに校長は、よくあんな姿で立っていられるなあ)
と遠くから見ていただけだった。
その前任であった草鹿校長が生徒から「仁ちゃん」と呼ばれ親しまれていた理由の一つに、
たとえば水泳訓練のときには褌になって生徒と一緒に泳いでいた、というような
かれの根の明るい性格があったようです。
親の心子知らずとはよくいったもので、井上校長が二種軍装で桟橋にに佇むのより、
草鹿校長が一緒に泳いでくれる方が生徒の受けはよかったようです。
「二種軍装で表桟橋に立った井上さんは双眼鏡でなく、
片眼で見る望遠鏡であちこち見ていたが、なんかイヤな気がしたな」
当時七十二期だったある生徒の感想です。
どちらも、当人にはそうとしかできないやり方であったと思われるのですが。
戦後、公職につかず、人の助けを断って貧困の生活に甘んじた井上大将でしたが、
それを耳にした兵学校の教え子が助けの手を差し伸べます。
やはりそれを最初は断った井上大将に対し、深田秀明元中尉はこう言います。
「子供が立派に成長して小遣いを持って訪ねてきたのに、
それを受け取らない親父がどこにいますか」
この一言に心を動かされ、元校長は好意を受け取るようになりました。
しかし、その死後、その預金通帳はほとんど手つかずのまま残されていたそうです。
帝国海軍最後の大将は、その最後の日、ふらつく足で庭に出て、
長い間冬の海を眺めていました。
臨終の言葉が
「海が・・・、江田島へ・・・」
だった、というのは本当だったのでしょうか。
参考 井上成美 阿川弘之著 文春文庫
海軍兵学校よもやま物語 生出寿著 徳間文庫
反戦大将 井上成美 生出寿著 徳間書店
ウィキペディア フリー辞書
広辞苑
肥田真幸(ひださねゆき)大尉。海兵67期。
インターネットの投稿型スレッドで(2ちゃんねるなんですが)
「君の尊敬する(日本)軍人は?」というテーマを見つけ、興味深く読んでいたら、
「東郷平八郎」「山口多聞」「秋山好古」「栗林中将」「坂井三郎」「広瀬武夫」「樋口希一郎」
(先日の『陸軍のシンドラー』ですね)という名前の中に「肥田真幸大尉」が。
肥田真幸大尉
攻撃251飛行隊長(艦攻)で鈴鹿で終戦
特攻に走らず、夜間雷撃の訓練を重ねて機会に備えた。
絶望的な状況の中で、ベストを尽くした男たちの一人だったと思う。
終戦後も、退職金の空輸を手配したり、遅滞ない隊員の復員と機器の引渡しに努めた。
当時、このような若きリーダーが陸海空を問わず、沢山いたのだと思う
2ちゃんねるのスレッドに何ですが、このような視点を持っている人が他にもいることに
我が意を得たり、の思いでした。
氏の自伝、「青春天山雷撃隊 ヒゲのサムライ奮戦記」には、肥田隊長の若き隊長ぶりが
あますところなく描かれています。
攻撃隊長として腕を奮い、あるときはグアムから修理した二人乗りの月光に整備員一八人を詰め込んで脱出。
あるときは敵飛行艇との一騎打ち。
勿論、このような血沸き肉躍る戦闘の話ばかりではありません。
上記スレッドの「特攻に走らず」というのは正確には間違いです。
肥田大尉のいた第三航空艦隊は硫黄島への特攻を出しており、下命されてから肥田大尉は
志願者による特攻の名簿を作っています。
勿論その先頭には自分の名前がありました。
総員六〇名のこの艦攻特攻の指揮官には、肥田大尉は選ばれず、
兵七〇期の村川弘大尉が選ばれています。
そしてその彼らを見送り、戦果を確認する・・・このような悲痛な体験も描かれているのですが、
この役者にしたいほどの男前隊長の人柄なのでしょうか、器の大きさなのでしょうか、
目の前の任務にどんなときにも信じられないほどの前向きなパワーで全力をもってあたる熱血隊長ぶりは
まさに「痛快」。
そして、この「青春雷撃隊」は、氏の体験した戦争を描きながらもタイトルの
「青春」という言葉が実にぴったりの不思議な明るさに満ちています。
何気ない描写や、語尾の端々に、巧まざるユーモアさえ漂っていて、肥田大尉という方の
大らかで根っから明るい人柄が感じられるのです。
そして2ちゃんねるの書き込みにもありますが、肥田大尉の「将器」というものがより感じられるのは、
鈴鹿で終戦を知ってからの二カ月間、隊員に対して行った終戦処理の際の行動なのです。
一九四五年八月一五日の朝、肥田大尉は「敵大部隊発見」の報せに
「ついに最後のときは来た。
伝統ある空母部隊の残党たる天山艦攻雷撃隊の最後を飾り、はなばなしく散ろう」
と覚悟を決めます。
ところが、招集がかかり、飛行服のまま聞いたのは終戦の勅令。
大尉はその足で床屋に行き、自慢の髭と長髪をばっさり切ってしまいます。
そして、最後まで戦いたい気持ちや、徹底抗戦する他隊の動向などに揺れ動く自らの衝動を抑え、
ひたすら冷静に隊員の気持ちの安静化に心を砕きます。
そして、遂に停戦交渉が締結したということを知った大尉は、隊全員に今生の思い出となるかもしれない
最終飛行をさせることを決心しました。
「飛行機五機用意。ただ今から最終の飛行作業を行う。
ただし、飛行場の見える範囲に限定する。
時間は三十分、かかれ!」
私の言葉に、はじめはキョトンとしていた隊員たちも、私の心中が分かったのか喜色満面となり、
どっとばかり飛行機の運搬にかけだして行き、まもなくワッショイワッショイと
かけ声をあげて押し出してきた。
肥田大尉は、しかし、自分は機に乗らず、目を細めるようにして隊員の様子を見守ります。
そして、それからは隊員の復員のため、給料の運搬、公文書の偽造(?)帰省していた隊員を
呼び寄せて退職金をわたす、はては残務整理部隊のための食料確保に漁協と交渉など・・・・
混乱の中で時には独断することもやむなく、部下のために奔走するのです。
たとえば帰郷していた隊員を「無断で帰隊せざるものは軍法会議」などといって脅かして呼び寄せ、
事務手続きをしたのち給料の残りと退職金を渡して即帰省させたりなどということもしたそうです。
(この兵はおっかなびっくりやってきて『帰ってよし』と言われると眼をパチクリさせていたとか)
そして、肥田大尉が海軍で最後の任務をする日がやってきます。
天山艦攻三機を鈴鹿から横須賀に空輸し、米軍に引き渡すのです。
肥田大尉は空輸隊を選抜し、それをもって海軍での任務を終了。
自分は帰郷の途につきます。
「できるだけ立派な飛行機を米軍に渡し、海軍軍人の心意気を見せてやろう」
とぴかぴかに磨き上げられた三機の天山艦攻は、日の丸を星に塗り替えるという屈辱的な作業ののち、
横須賀に向かいました。
先導のアベンジャーは速力がなく、天山では前に出過ぎてそのたびスロットルレバーを絞りつつ
「こんな飛行機を相手に戦い、敗れたのか」と搭乗員は歯ぎしりしながら着陸。
搭乗員たちは米軍の目の前で、最高の着陸を見せるべく意気込んで横須賀に降りました。
そのときあたかも帝国海軍の終焉を意味するかのように真っ赤な太陽が沈みつつあるのを目にし、
感無量であったそうです。
さて、この輸送に、なぜ天山を愛した隊長肥田大尉は加わらなかったのか。
「もしも私が横須賀の上空に飛び、米艦隊を翼下に目撃すれば、おそらく突入するだろう」
冷静なんだか冷静でないのだかわからないこのような自己分析の結果だったのだそうです。
元第三航空艦隊攻撃第二五四飛行隊隊長、そして「青春天山雷撃隊」の著者、
元海軍大尉、肥田真幸氏は、戦後自衛隊に入隊。
海将、航空集団司令官を務めるなど、根っからの飛行機乗りとしての半生を送りました。
平成元年、その功績が認められ、国民栄誉賞である勲三等瑞宝章を授かっています。
「青春天山雷撃隊 ヒゲのサムライ奮戦記」 肥田真幸著 光人社NF文庫