
画像は兵学校七十期の卒業式に桟橋で「帽振れ」をする草鹿校長のアップです。
映画「勝利の基礎」最後のシーンですが、その眼が涙で濡れているのにお気づきでしたか?
この画像も「うるうるしている眼」をポイントに描きました。
少しは校長の心情が表れていればいいのですが。
エリス中尉が井上大将と対照的なこの草鹿中将のファンであるのは、
その残された エピソードにうっすら見られる利かん気のやんちゃぶりゆえにです。
勿論、中将まで登りつめた旧海軍軍人ですから、そんな無茶苦茶な話が残っているわけではないのですが、
例えば兵学校の校長に就任することが決まったとき
「草鹿は兵学校に行儀見習いに行くんだ」と同級生が口々に笑ったという話。
その兵学校では、生徒と一緒に泳ぎ、一緒に訓練を受け、生徒からは「任ちゃん」といって慕われた話。
そして、七十二期の新庄大尉発言の
「夏場、家に遊びに行ったら、ふんどし一枚で出てきた」という話。
そして、英雄色を好むを地で行くような「イケイケ」であったらしいこと。
なかでも、今日お話しするエピソードにはすっかりノックアウトされました。
阿川尚之氏(勿論、あの方の御子息です)著、「海の友情」(中公新書)を読みました。
海軍が敗戦によって消滅した後、海軍軍人たちがその精神と、その組織の再建を果たし、そして、
かつては敵国人であったアメリカ海軍と、いかにして今日の信頼を築いていったか。
戦後の掃海艇、名海上幕僚長中村悌次、内田一臣、こういう人たちがどのように海上自衛隊に、
いや「新海軍」に旧海軍の伝統を伝えるべく奮闘したか。
海軍に、あるいは自衛隊に興味をお持ちの方にはぜひ一読をお奨めしたい内容です。
その中で、アーレイ・バーク海軍大将と日本とのかかわりについて書かれた項があります。
バーク大将は、戦中、ソロモン海域で日本艦隊を相手に熾烈な戦闘を繰り広げた駆逐隊司令でした。
戦後、朝鮮戦争が勃発したとき、その戦況をワシントンに報告する参謀副長として日本にやってきました。
かつての敵国において、日本人と触れあううち、すっかり日本人が好きになった、という大将ですが、
この草鹿任一旧海軍中将とのある日の出会いが、かれの日本人好きを決定的にしたという話です。
ある日、バーク大将は、同期の部下から戦後の草鹿中将の困窮についての噂を聞きます。
かつての海軍中将が、いまや公職追放にあい、鉄道工事の現場でつるはしを奮い生計を立てている。
夫人は街で花売りをして回っているらしい・・・・。
バーク大将がソロモンで駆逐艦隊司令であったまさにそのとき、
ラバウル方面海軍最高司令官は、ほかでもないこの草鹿中将でした。
その艦隊にバークは何隻かの艦を沈められ、バークもまたその艦隊を屠った、
つまりカタキ同士です。
「飢えさせておけ」
その話を聞いてすぐはこんな言葉しか出てこなかったバークでしたが、すぐに思い直します。
いくら敗戦したからといってあれだけ勇猛に戦ったかつての提督が、
同胞にそこまでの仕打ちを受けなくてはならないものか。
惻隠の情にかられた大将は、匿名で草鹿家に食料を送りました。
数日後バークの執務室のドアが開いて、小柄な日本人がわめきながら飛び込んできた。草鹿である。
(中略)
草鹿は
「侮辱するのはよせ、誰の世話にもならない。
特にアメリカ人からは何も貰いたくない。
アメリカ人とは関係を持たない」
それだけ言うとプンプン怒りながら出ていった。
バークは提督に好感を持った。
自分が彼の立場だったら、全く同じことをするだろうと思った。
バークは草鹿と板野常善、富岡定俊の三人の旧海軍提督を、あらためて帝国ホテルの食事に招待しました。
擦り切れた礼服で固くなって現れた三人に酒を勧め、話すうちに三人とも英語ができ、
わけてもあの日、日本語でわめいて出ていった草鹿中将が
実は一番―英語が達者だったことがわかりました。
草鹿中将は大佐時代ロンドンの駐在武官も務めているのです。
すっかり和んだ食事の最後に、バーク大将は、あらためて乾杯を提案しました。
草鹿中将は立ちあがり、杯をあげてこう音頭を取りました。
「今日招いて下さった御親切なバークさんに乾杯をしたい。
もうひとつ、自分が(戦中)十分な任務を果たさなかったことにも乾杯しましょう。
もし任務を忠実に果たしていたら、この宴の主人を殺していたはずだ。
そうしたら今日の美味しいステーキは食べられませんでした。
では乾杯!」
負けじとバークもこう返します。
「私も自分が任務を果たさなかったことに乾杯したいと思います。
任務をきちんと果たしていれば、草鹿提督の命はちょうだいしていたはずで、
今日の素晴らしいステーキディナーを誰も食べることができなかったからです。
乾杯!」
アーレイ・バーク氏は、その後野村吉三郎氏に協力し、海上自衛隊の創設に大きな力を注ぎました。
晩年のかれは
「アメリカ海軍より自衛隊のほうがよっぽど自分を大事にしてくれる」と笑って言ったそうですが、
日本を愛し、日本人を愛すようになった大きな一つのきっかけが、
草鹿中将の乾杯であったことは確かでしょう。
バーク氏が1996年に永眠したとき、その棺に横たわる大将の身体には、
日本政府から送られた勲一等旭日大褒章がつけられていました。
棺の蓋が覆われたとき、大将がその生涯で貰った数多くの勲章は全て棺の縁にならべられていましたが、
その一つだけが無くなっていたのです。
アーレイ・バーク海軍大将は、たった一つ、日本から送られた勲章を胸に天国に旅立ったのでした。
アーレイ・バーク大将のこの逸話って本当にいい話ですよね.戦争は,起きてほしくないですが…
ところで,私のサイトで,この逸話の部分を引用させていただいでもよろしいでしょうか?
もちろん,引用として,URL記載と,”ネイビーブルーに恋をして”さんのブログを紹介します.
阿川尚之氏の著書からの引用ですので、
記事とともに氏の著書名を明記してくだされば勿論大歓迎です。
azpek.net さんがもしこのブログ内でご自分のブログを紹介したいという希望をお持ちでしたら、
トップページの「読者登録」をすればそこからご自分の記事へのULRを貼ることができるようですよ。
草鹿中将は、同期で大将にまで出世した井上成美が嫌いだったらしく、
戦前は井上大将を非難して憚らなかったのですが、
戦後になって井上大将が清貧に甘んじたため生活が困窮し健康を害したときには
率先して救済のために動いたという話もあります。
いろんな意味で「アツい男」だったのですね。
本日,記事を投稿いたします.
はい,もしかしたら,リンクを貼らせていただくかもしれませんん.
草鹿中将にそんな逸話もあったのですか…!?
今まで聞いたことがありませんでした.
確かに「アツい」ですね!! そして,カッコいい…
海の友情、ご紹介いただきありがとうございました。なるほどこういうことがと感銘をもって読みました。
私のブログで中尉のブログ紹介をさせていただきました。
http://blogs.yahoo.co.jp/ef53182007/18490734.html
余談の写真のほうが本文より多くてて恐縮ですが、八幡宮で出会った方は、いわゆる海軍士官らしさを持った方でした。
中尉は乗馬をされているので、(11/3の入間とはかぶりますが)、一度は明治神宮の「武田流弓馬会」の神事をご覧になることをお奨めします。
鎌倉のもののふの精神を今に伝える行事と思っています。
乗って猛スピードで走るだけでも大変なのに、さらに馬上から弓を射るとは・・・。
あまりに次元の違いすぎる話で目がくらくらしそうです。
乗馬をやるようになって、映画などで何となく見ていた騎乗シーンが驚かされることだらけです。
俳優さんはああいう役が来たら練習するそうですが、
乗馬姿の決まっている人って、どれだけ練習したんだろう、とまじまじ見てしまいます。
「坂の上の雲」の阿部寛さんは凄かったですよ。
海の友情、本当にわたしは好きな本で、読んでいただけて本当に嬉しいです。
当ブログをご紹介くださったページにお邪魔しましたが、過大なご評価を頂き、お恥ずかしいばかりです。