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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「大空のSAMURAI!2」フジコとサカイ

2013-08-28 | 海軍人物伝



やたらドラマチックな坂井三郎と登場人物の会話を翻訳しながら、
これは映画化決定だなあとふと思いつき、キャスティングしてみました。
残念ながら坂井三郎を演じられる若い俳優の名を思いつかず、さらに
「息をのむほど美人」なニオリ・フジコを演じられる20歳くらいの女優も、
わたしには何のアイデアも思い浮かばなかったため、
年代的に少し無理のある配役となりましたが・・・。

因みにニオリ・フジコの漢字は正しいものではなく、当てずっぽうです。
ご了承下さい。


さて前回お約束したように、今日は淡々と、SAMOURAI!における
坂井三郎のロマンスについてお話ししていきます。


ハツヨは、坂井が九州佐賀県の田舎から青山学院に進学したとき、
東京での下宿先となった叔父の家の娘でした。
坂井は青山学院での成績が芳しくなく、素行不良で退学処分となり、
叔父をがっかりさせた上、逃げるようにまた故郷に戻ります。
このとき、彼とハツヨとの間は単なる「いとこ同士」でした。

この後、坂井が操練を首席で卒業し、中国戦線で活躍し始めたころ、
ハツヨから、手紙を受け取ります。

「あなたからの手紙を、クラスのみんなは待ちわびています」

ハツヨは若い飛行機乗りのいとこを皆に自慢しており、
また当時の女子の憧れ「ネイビーのパイロット」である坂井は
クラスのアイドルのようになっていたのでした。
その中で特に坂井に夢中になった女性がいました。
彼女の名はニオリ・ミキコと言います。(丹織?仁折?)

「手紙を見せたクラスの皆の中で、一番興奮し、そして
あなたに紹介してくれと頼んできたのは彼女でした」

ハツヨはクラスで一番美しく一番聡明で、神戸大学の教授を父に持つ
このミキコと坂井を結びつけようと、写真を送ってきたのです。

写真にも明らかな彼女の美貌に坂井も惹かれますが、
かれ自身気づいていない気持ちがありました。
自宅でモーツァルトを弾いてくれた、ハツヨの姿がいつの間にか
ひっそりと心の隅に住みついていたのです。

さらにしばらくして、またハツヨから手紙が届きました。
なんとミキコが交通事故で突然亡くなったという知らせでした。

「わたしは神様を恨みたく思います。
なぜ、なぜミキコのような素晴らしい女の子が、わずか16歳で、
何の落ち度もないのに・・・」

そして、その手紙にはミキコの母からの手紙も同封されていました。

「ミキコはあなたからの手紙の返事をもらう前に逝ってしまいました。
どんなにか心残りだったことでしょう。
どうか、彼女の棺に入れるための手紙を送っては下さらないでしょうか。
わたしたちはミキコの魂が、あなたを敵の銃弾から空で護ってくれることを
神様にお願いしています」

ミキコの母親に慰めの長い手紙と香典を送った坂井に、ある日、
ミキコの姉という「フジコ・ニオリ」から手紙が届きます。

手紙に対する真摯なお礼と共に、それにはこんなことが書かれていました。

「あなたの手紙を見るまで、わたくしは戦闘機搭乗員とは暖かい真心や
感情など持たず、戦闘にしか興味の無いものだと思っていたのです。
あなたの手紙はわたくしの考えを変えました。
もしよろしければお友達になっていただけませんでしょうか」

添えられた写真を見て、坂井はすぐさま返事を書きます
二人の間にせわしなく手紙が往復し、坂井は一日のほとんどの時間を使って
彼女に手紙を書き、彼女から来た手紙を何回も何回も読み直すのでした。


昭和14年の11月、操練を恩賜の銀時計で卒業し中国戦線で活躍する坂井は、
故郷で英雄のように迎えられ、大いに照れます。
次いで大阪で展覧飛行をすることになったことを坂井は急いでフジコに伝え、
フジコは両親と共にそれを観に行くことを約束しました。

展覧飛行の後、大阪ホテルの一室に戻った坂井はおろしたての軍服に着替え、
颯爽と下に降りていきます。

「坂井搭乗員!早く来たまえ!婚約者が階下で君を待ってるぞ!」
皆は笑い、喝采しながらわたしが出て行くのを促した。
フジコ・ニオリは衝撃的に美しかった。

わたしは思わず階段の途中で立ち止まり、ただ彼女を見つめ、
息をのんだ。

彼女は美しい着物をまとい、両親と共にそこでわたしを待っていた。
わたしは何もしゃべることもできず、
しかし彼女から目を離すこともできなかった。

ただ呆然としながらお辞儀をした」

あらあら。
坂井さん、フジコさんに一目惚れしてしまいました。


しかし、この両親というのが、坂井を婿にすることをすでに考えていて、
坂井は「彼らはわたしに好意的であったが、わたしは息子の婿に相応しいか、
試験をされているようで何か違和感を」感じます。

確かにフジコは美しく、心奪われたのは事実だが、いきなり結婚とは・・・。


これらの逸話が、
「全く根も葉もないフレッド・サイトウとマーティンの創作」
とは
とても言い切れないリアリティを感じるのがこの部分です。

Increasing my anguish was the knowledge that Niori family was
the one of the most distinguished in Japan,
that they came from one of the outstanding Samrai groups
in in the country, and that Fujiko's father had attained eminence
as a college professor.

ニオリ家が日本でも名家の一つであり、彼らは地方でも名だたる士族の家系の出で、
フジコの父親が著名な大学教授としての地位にあるなどということを知るにつけ、
わたしの苦痛はさらに増した)

坂井の家はこの本の紹介文にもあるように
「impoverished samrai family=貧しい士族の出」ですから、
この時代の男としてかれが苦痛を感じたのも当然のことと言えます。

しかも、当時の坂井はまだ搭乗員としても駆け出しといってもよく、
郷里で英雄扱いされたことを、「何者でも無い地位の自分」が
過剰に評価されていると感じかえって意気消沈しているわけですから、
おそらくこれは実際そのような状況であったのかと思われます。
なんと言ってもこのころ彼はまだ22~3歳ですからね。

男女の結婚話が当事者の承諾を全く得ないで行われていたこの時代でも、
さすがに戦争中の搭乗員が相手では話はここで途切れ、
ましてやこの時代であるからこそ、当事者の間に何も起こるはずはなく、
坂井はフジコさんに心を残したまま戦地に帰っていきます。

戦地で、坂井はフジコから
「ハツヨさんと一緒に駅前であなたのために千人針を集めました」
という手紙を読みつつ考えます。

「これをおなかに巻いていたら、敵の弾が当たらないのだそうです」

フジコの手紙はわたしにある考えを起こさせた。
その夜初めてわたしは、撃墜した敵のパイロットもまた、
わたしと同じ人間なのだと考えた。
それは奇妙で、わたしを落ちこませもしたが、しかし、殺さねば殺される、
これもまた戦争の真実なのだ。


ハツヨさんはいったいどうなっているのか、って?

そうなんです。
会えばいつでも温かく迎えてくれるこのいとこを好ましく思っていますが、
フジコに心を奪われた坂井さんにとって、今のところハツヨはアウトオブ眼中。

坂井さんにとって彼女は、今のところただのいとこにすぎないのです。

この後どうなるのか?

続きはまた後日。





伏見宮博恭王~大鑑巨砲主義の「宮様元帥」

2013-08-21 | 海軍人物伝

幹部学校で見学した海軍軍人の書の中でも、個人的感想ですが、
もっともこの伏見宮博恭王の

「儲 材 鎮 洋」

という書はのびやかでかつ雅な典雅さを持っているように思われました。

「儲材鎮洋」 ちょざい・ちんようとは、おそらく伏見宮の創作した語で、
人材を儲え、海を鎮めるという意味です。

決してお飾りの軍人ではなく、この、艦長や艦隊司令長官を務め、
黄海海戦では旗艦「三笠」乗り組みで負傷もしたという、最も実戦経験の豊富な
「最強の皇族軍人」
伏見宮博恭王に相応しい言葉であると言えましょう。



左に「伏見若宮の御軍服」という字が見えますね。
これは記念艦三笠内に展示されている、負傷時に着用されていた軍服。

伏見宮(当時は庶子である宮はまだ伏見ではなかった)は当時少佐で、
二年前から三笠の分隊長を務め、黄海海戦に参加されたのですが、
「三笠」右砲の砲身内膅発が原因で、右半身を負傷。

この作業服を見ると、右腹のあたりが割けているのがわかります。

伏見宮は海軍兵学校を中退し、ドイツの海軍兵学校に留学、
これを卒業されました。
どうしてわざわざ兵学校を中退されねばならなかったのかというと、
想像ですが、伏見宮はご自身が海軍に「水が合う」ことから、この世界でやっていくことを決め、
だからこそ兵学校の超絶優秀な同級生と正面から競うことを避けられたのではないでしょうか。


もっとも、たとえどんなに出来が悪くても皇族となれば無条件で卒業時は恩賜の短剣組です。
もしかしたら、こういう「特別扱い」の後で指揮官として彼らの上に立つことに
忸怩たるものを感じられたのかもしれません。


ドイツ留学後、帰ってきた伏見宮は、

巡洋艦「厳島」、「松島」、「富士」
装甲巡洋艦「浅間」、「出雲」、「日進」、戦艦「朝日」「三笠」
防護巡洋艦「新高」、「浪速」、敷設艦「沖島」などを経て
防護巡洋艦「高千穂」「朝日」、巡洋戦艦「伊吹」

では艦長を務めるなど、たっぷり潮気のついた叩き上げの海軍軍人畑一直線。


当時の海軍の慣例では、大佐昇進から少将昇進には6年かかりました。
しかし大佐として、もし主力艦(戦艦・正規航空母艦)の艦長を務めれば、
1年後に少将へ昇進することができるというものでした。

伏見宮の場合、戦艦「朝日」がその主力艦に相当したようで、
大佐任官から一般より三年も早い3年目に少将に昇進しています。

そして海軍大将任官は1922年(大正11年)。伏見宮なんと47歳。

山本五十六が56歳、井上成美57歳、
「大和」艦長の伊藤整一(特進)でも55歳。
だいたい「大将の任官年齢」の平均は56歳であることを考えると、異様ともいえる早さです。

皇族としての特別扱いのみならず、これだけの艦隊勤務をこなし、
実際に「名誉の負傷」もしていますし、何といっても本人がやる気満々でおられたので、
このスピード昇進も当然と言えば当然のことであったかもしれません。


当時、伏見宮は、東郷平八郎元帥とともに

「宮様、神様」

と呼ばれ、海軍内でも一種神格化されていました。

口だけでなく体を張ってフネを渡り歩いてこられた宮様です。
経験豊富なだけあって実際の操艦技術もなかなかのもので、知性人柄の点で
評価の非常に高かった山梨勝之進大将が、実は「操艦下手」で、
入港のときは皆が息を飲んでハラハラしながら見ていたというのと対照的に、
こちらは難関と言われた関門海峡でも難なく航行をさせることができ、
その技術は現場の者ですら信頼を置いていたと言いますから本物です。

しかも、地位に驕ることなく、けじめをはっきりさせる公明正大なお人柄で、
その面長すぎる御かんばせをしてあだ名が「長面くん」。
結構親しまれる面もお持ちだったということのようですね。

ところが。

なまじこの権力者が、潮気たっぷりすぎる海軍軍人だったことが、
日本のその後の選択に若干の変化をもたらしたと言われています。


1930年のロンドン軍縮会議を巡って、海軍内は条約を受け入れるべきとする
「条約派」

財部彪谷口尚真山梨勝之進左近司政三寺島健堀悌吉下村正助

と、大鑑巨砲主義の上に立ち条約妥結反対する「艦隊派」

加藤寛治山本英輔末次信正高橋三吉南雲忠一神重徳

に分かれ、その対立は後に統帥権干犯問題に発展します。

この「艦隊派」の先頭になったのが伏見宮であり、
またシンボルとして担がれたのが東郷平八郎でした。
つまり「神様」と「宮様」がいずれも属していた「艦隊派」は、
このご威光ゆえ「有利」だったと言えます。

艦隊派の後ろ楯であった伏見宮は

「私の在任中でなければできまい。是非やれ。」

と後押しし、このツルの一声で軍令部の権限強化策が断行され、
「条約派」の面々はすべて「大角人事」によって予備役に追いやられてしまいます。
つまり、マイルドに粛清されたということですね。

このように、対立する派閥を追いやって来たことで戦後の評価は芳しくありませんが、
伏見宮には一方で「大局に建つ視点」も備わっていたようです。

たとえば日米開戦についても

「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。
ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、
日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」

という、考えをもっておられた、と嶋田繁太郎は日記に記しています。

この考え、どこかで聞いたことはないですか?
そう、山本五十六聯合艦隊司令長官が言ったことと全く同じですね。

山本は「条約派」で、伏見宮とは意見を異に相対する陣営にいたのですが、
こういう面を見ると、伏見宮は山本と同じリアリストであったということなのかもしれません。

(この考えが、実行不可能な『現実』であったことは今はさておきます)


大佐時代の井上成美は、この軍令部の権限強化に対して職を賭けて激しく抵抗しました。
「艦隊派」の尖峰、南雲忠一には何度も「殺すぞ」と脅迫と圧力をかけられています。
このため井上は危うく更迭の末、予備役編入ということになりかかっていましたが、
それをすんでのところで救ったのが、井上が非難した当の伏見宮でした。

伏見宮は

「男としてまた軍人として、まさにああでなければならない。
自己の主張、信念に忠実な点は見上げたものである。
次は良いポストに就けてやるとよい」

と井上をかばい、その甲斐あって井上は「比叡」の艦長に就いたのですが、
その後大将になるのも、この時の口添えが無ければ実現しなかったことになります。


このときに井上成美を抹殺しなかったことは、伏見宮が艦隊派の推進力の中心として
条約派を追いやったことによる「日本の国益の損失」を少しは挽回する結果となりました。

なぜなら、井上成美という最後の海軍大将がもし存在しなかったら、
戦後の日本の在り様が少しならず変わっていたのではないかと思われるからです。

確かに、井上や、井上の指名した高木惣吉の活動は、結果として、
日本の終戦を早めることは出来なかったかもしれません。

しかし、少なくともあの時期にそのような日本軍人がいたということは、
それだけで終戦後の日本にとって、対外的にも一点の「良心」となりえたのです。

これが日本の復興にとって、どれだけ救いになっただろうかとわたしは思うのです。



思えば日清日露戦争を経験した海軍軍人たちが「大鑑巨砲主義」に拘るのは当然で、
ましてや伏見宮のような実力のある軍人であればなおさらのことでしょう。
伏見宮を「頑迷に陋習に囚われて結局日本を戦争に追い込んだ悪」と決めつけるのは
そこにいなかった後世の人間の傲慢にすぎません。

そして、伏見宮がこの典雅な書でいうところの

「儲材鎮洋」

という、いかにも自信に満ち溢れた海軍軍人らしい文言の前半二字、
優秀な人材、将来に有益な人材を育てるという部分は、
敵対する陣営の井上の資質を高く買って、
かつ潰すことをしなかった慧眼をそのまま言い表しています。


伏見宮は開戦前の1941年4月には軍令部次長を辞職され、また元帥として国政に携わられますが、
日本の戦況が悪化した昭和19年6月頃のご発言で
「特殊な兵器」(特攻を示唆するという説あり)を早急に開発使用すべき、と述べられています。

その前年の昭和18年8月、伏見宮は、通信隊司令部として
前線に赴いておられた第四王子の博英王を、
セレベス島上空での乗機被撃墜により失われました。

我が子を失ってなお戦争は完遂されるべきというお考えは
変わることはなかったのでしょうか。


おそらく傷心のままに終戦を迎えた伏見宮は、終戦わずか一年後、
博英王の後を追うかのように、焼失した旧伏見宮邸近くの旅館で薨去されました。

享年71歳。

57年前、昭和21年8月16日のことです。








目黒・防衛省見学~「天空海闊」鈴木貫太郎

2013-08-15 | 海軍人物伝

防衛省エリアにある海自幹部学校所蔵の書、
鈴木貫太郎の

「天 空 海 闊」

これは、心が広々として度量が大きく 何のわだかまりもないことという意味です。
「海闊」は大海が広々としていることで、「天空」は空がからりと晴れ上がってどこまでも広いこと。
「闊」は「濶」とも書き、「海闊天空かいかつてんくう」とも言います。

鈴木貫太郎の書、というとわたしとしては思い出さずにはいられない話があります。


「鈴木貫太郎と安藤大尉」というエントリで扱った話で、
鈴木の居にしばしの対話を求めて訪れた2・26事件の首魁である安藤輝三大尉が、
鈴木の人格に触れこれに私淑し、所望した鈴木の揮毫を事件の日まで自宅に掛けていた、
というエピソードです。


このときに、鈴木はどのような書を揮毫し安藤大尉に与えたのでしょうか。

それはどこにも伝わっていませんが、安藤大尉が鈴木との面会後に同行者に言ったという

「鈴木閣下は、話に聞いたのと会って見たのとでは、大変な違いだ。
今日は実に愉快に、頭がサッパリした。ちょうど風呂に入って出たときのようだ」
「あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」
(ウィキペディア)

という人物評は、鈴木がこの揮毫の表す文字そのものの人物であったということでもあります。



ところで、鈴木貫太郎についてのウィキペディア記事で、
鈴木が蜂起した陸軍の反乱軍にもう少しで暗殺されそうになった2・26事件の項に、
わたしは決定的な間違い(と思われる記述)を見つけてしまいました。

鈴木は午前5時頃に陸軍大尉・安藤輝三の指揮する一隊に襲撃される。
はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。
鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。

1、血の海になった八畳間に安藤が現れると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。

2、安藤が軍刀を抜くと

部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが

「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。

3、どうしても必要というならわたくしが致します


と気丈に言い放った。

4、安藤はうなずいて軍刀を収めると、

「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃(つつ)」と号令した。
そしてたかの前に進み、
「まことにお気の毒なことをいたしました。
われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、
国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、
女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げていった。

以上がウィキペディアの記述です。


わたしがかつてアップしたエントリによると

1.倒れた鈴木の生死の確認をしたのは下士官で、とどめをさしましょうか、
というのも下士官同士の会話である。

2.安藤は全く鈴木の前に姿を見せず、部下が鈴木を襲撃している間女中部屋にいた。

3.たかの証言によると、たかが命乞いをしたのは下士官に対してであって安藤ではない。
 次の間で拘束されていたたかは、その場から「止めはやめてください」と懇願し、
 これを聴いた下士官は対応に困って、初めて安藤を呼びに行っている。

4.安藤大尉は一度も鈴木に向かって刀を抜いていない。
 女中部屋にいて、部下に呼ばれて初めて鈴木の前に立ち、ただ
 「止めは残酷だからやめよ」といって捧げ銃を命じた。


ということになっています。

え?

ウィキペディアより自分のエントリを正しいと言い切るのか、って?
言い切りますともさ。
いや、それどころかどうしてウィキがこのように記述しているのかがまったくわかりません。
わたしは、自分のエントリに書いたこの時系列にかなり自信を持っています。

なぜなら、わたしが参考にした、この事件の模様は、ほかならぬ
鈴木貫太郎自身が、事件後水交会の講演で語ったことそのものであり、
これを文章に聞き書きしたのは、そのときに講演を聴いていた海軍軍人だからです

この文章はそのまま水交会が発行した「海軍の記録」という著書(一般書ではない)として、
図書館などでは見ることもできるはずなのですが・・・。


鈴木に私淑していた安藤大尉が、心ならずもその鈴木の命を取ることになったとき、
いかに逡巡し苦悩したかについてはもう余人の知るところではありません。
しかし、このとき、鈴木の前に姿を見せず、殺戮を部下に任せて自分は女中部屋にいたことを、
わたしはこの苦悩に因果付けて推理をしてみました。


もしウィキに書かれている

「中隊長殿、とどめを」

と下士官が言い、妻が命乞いをしたので安藤は鞘を納めた、というのが本当なら
たかが聞いたという、

「止めは残酷だからやめよ」

という安藤の言葉の意味が全く通らなくなってしまいます。
わたしはやはり、安藤大尉は最後まで鈴木と対峙するのを避けて
最後まで刀を抜くことが無かったとするこの記述が正しいと信じます。

鈴木は事件後、生死の境をさまよいましたが、治癒してこの講演を行うにあたり、
妻のたかからその時の状況を詳しくあらためて聞きだしたでしょう。
「止めは残酷だからやめよ」
という言葉が、間違って妻から伝えられる可能性は全くないのではないでしょうか。


そもそも、下士官たちが最後に安藤にとどめをさせようとした、となっていますが、
実際にそのような立場に追い込まれた安藤が、決行隊の指揮官として
止めをさすことを止めることなど、いくら妻が懇願したからと言ってできるものでしょうか。

実はわたしはこんな推理をしています。

安藤大尉の腹心の部下である下士官が安藤の苦悩を慮って、
自分たちだけで全てを行い安藤大尉の手を汚させまいと決めて決行に臨んだのではないか。
しかし、すべてを済ませたつもりが、とどめをさす段階で妻の命乞いがあった。
このため下士官だけではその後を決定できなくなり、
そこで初めて安藤大尉が呼ばれたのではなかったか。


というようなことですが、もし、ウィキペディアの記述が正しい、という資料をもしご存知の方がいたら、
ぜひご一報いただければ幸いに存じます。



さて。

鈴木はこの襲撃のあと、生死の境を彷徨いました。
タクシーで日本医大に運ばれた鈴木は出血多量で顔面蒼白となり、
意識を喪失し、心臓も一時停止しています。
総力を挙げて蘇生術が施され、その間妻のたかは枕元で鈴木に呼びかけ続けました。
腰、胸、肩(かすっただけ)そして頭に4発の銃弾を受けて、
しかもその頭への一発は頭蓋を貫通して耳の後ろから出ています。
これで死ななかったというのは奇跡以外の何物でもないでしょう。

頭部貫通した銃弾が脳をそれたこと、胸部も銃弾も心臓をわずかに逸れたこと、
このことと、たかの命乞いにより安藤が止めをささなかったことが鈴木を救いました。

ちなみに鈴木の命を救った夫人のたかですが、病死した前妻の後添えで、
乞われて昭和天皇、秩父宮、高松宮の皇孫御用掛(養育係)をしていたという女性です。
鈴木が何より昭和天皇の御信任篤かったのは、このこともあったと言われています。


鈴木貫太郎という人は、その生涯、2・26を含め二回の暗殺から九死に一生を得ています。
二回目が終戦の日、8月15日朝の宮城事件で、陸軍大尉・佐々木武雄を中心とする
国粋主義者達に総理官邸及び小石川の私邸を襲撃され、警護官に間一髪救い出されています。

このほかにも、3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、
海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたり。

もしかしたら、八百万の神はこの人物に、戦争の泥沼に陥った日本国を終戦に導く
役割を与えるために試練を与えては救いたもうたのではないかと思われるほどです。

事実、鈴木は何度も死の淵から帰ってきた自分の人生の最後の奉公として
終戦時の総理大臣を引き受けたと言われ、その就任の辞は

今日(こんにち)、私に大命が降下いたしました以上、
私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、
まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。
国民諸君は、私の屍を踏み越えて、
国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、
謹んで拝受いたしたのであります。

というものでした。

そして国運の打開のために鈴木が選んだ道は「終戦」だったのです。


最後の仕事を終えた鈴木は、戦後公職追放される形で表舞台から姿を消し、
終戦後3年目の昭和23年4月17日、肝臓がんで82歳の生涯を終えています。

日本を終戦に導き、もう戦火にまみえることもなくなった祖国を見届け、
人生最後の瞬間、鈴木の心は、信条たる「天空海闊」の境地にあることができたでしょうか。


死後荼毘にふされた鈴木の遺灰からは、2・26のときに受けた弾丸が出て来たということです。







目黒・防衛省~野村吉三郎 開戦を止められなかった外交官

2013-08-11 | 海軍人物伝

目黒の防衛省区域内にある海上自衛隊幹部学校所有の、
野村吉三郎海軍大将の書です。

「無遠慮必 有近憂」

(遠い慮りなかりせば必ず近き憂いあり)

遠い将来のことを考えなければ、必近い将来に何か問題が起きる。


揮毫を所望されたときに、どんな文言を記すか、それは即ち書き手がどんな人間であるかを
その筆跡と共に露わにするものです。

前回述べた秋山真之も、永野修身も、自然の風景あたかも切り取るようにさらりと詠み、
なかなかの通人ぶりを見せているわけですが、野村吉三郎、直球です。

こういった教訓めいたことを書く軍人は、基本的に謹厳という印象がありますが、
ところがどっこい、有名レスのエスさん(芸者)などは、
「ひざまくらしてもらった」
なんて暴露してしまってます。
野村大将が、じゃなくて、酔いつぶれた芸者さんをひざまくらしていた、という意味ですよ。

とこのように海軍さんらしくしっかりと遊んでおられます。
因みに野村大将、若き日はかなりのいい男。



ちょっと孫文に似ていますか。

野村吉三郎は1877年(明治10年)、和歌山県の生まれ。
海軍兵学校は26期です。

卒業時のハンモックナンバーは、当ブログ過去ログによると2番。
入学前は海軍兵学校への予備校である「海軍予備校」に通いました。
この予備校は、まさに当時のエリート中のエリートたる兵学校への入学のために
万全の体制で敷設された「プレップ・スクール」で、
現在は名門校「海城中・高校」として存在しています。

恩賜の短剣で海兵卒業を果たした野村は、その後海兵教官、「千歳」航海長を経て、
1901年には完成した戦艦「三笠」の回航員としてイギリスに渡っています。

その後、出世コースまっしぐら、オーストリア、ドイツ、アメリカの駐在武官を経験。
アメリカ在任中にはFDRことルーズベルト(当時は海軍次官)とも同じ海軍同士のよしみか、
親交があったということです。

最初の任務地がドイツ語圏であったため、野村の英語は達者ではなかったという話もあります。
確かに今日残る野村の英語の発音は、とんでもなく生硬で、
これほどの秀才がもしかしたらカタカナの振り仮名でも打って発音しているのではないか、
を思わず疑ってしまうほどです。

野村吉三郎の英語

この人物を語るとき、そこには「開戦」と「終戦後」における日本の動きに
大きく足跡を残していたことを避けるわけにはいきません。

日米開戦時、野村は駐在大使としてアメリカにいました。

アメリカとの関係が悪化したとき、この「英語が得意でない大使」では心もとないと思ったのか、
日本政府はアメリカにもう一人の大使を送る決定をします。

これが来栖三郎大使で、確かにアリスというアメリカ人の夫人もいる知米派でしたが、
ドイツ大使として三国同盟を調印している来栖に対し、ルーズベルトは不信感を隠さず、
決してこの人事はうまくいったとは言えなかったようです。

「海軍同士」という理屈抜きの「仲間意識」がFDRには強くあったようで、
信頼関係というものは言葉を流暢に繰れることとは無関係である、
という一つの例がここにあると言えましょう。


因みに、この来栖大使とアリス夫人との間には、良、という名前の息子がいました。
彼は陸軍の航技大尉で、邀撃に上がるために愛機「疾風」に向かおうとして、
急発進した「隼」のプロペラに刎ねられ即死し、戦死扱いとなりました。

現在、靖国神社の遊就館にある戦死された命の方々のなかに、
ひときわ目立つ眉目秀麗の来栖大尉の遺影を見ることができます。


アメリカとの交渉は難航しました。
この間、野村は何度も大使を辞職したい旨の要請をしましたが、
その都度退けられ、

「アメリカが日本を挑発しない限り、日本は戦争を起こさない」

と公言していた野村は、コーデル・ハル長官から
「あのようなものを突きつけられたら、どんな小国も武器を取って闘うであろう」
と後世に評価されるアメリカの「挑発の極み」、あの「ハルノート」を突きつけられることになります。

この頃、野村からアメリカから日本国民に向かって語りかけた
「映像レター」が残されています。

「あるいは近いうちに参戦するかとも言われております」
「日本が枢軸国の一員である以上、アメリカから相当風当たりが強い」

などといった発言が聞かれます。

野村大使「開戦前夜」

去年の12月8日に、ジョン・フォード監督作品

Hawaii,December 7, 1941

という映画について書いたとき、

「英語が達者で愛想のいい野村・来栖両大使は
ハル氏に平然と長い『最後通牒』を手渡した」

「この裏切りの瞬間、200機の死の使者が楽園に襲いかかった」
「地獄が始まった。日本製の(メイド・イン・ジャパン)」

というこのプロパガンダ映画で野村大使たちについて語っている部分を
抜き出してみました。

この悪意のある文章にも覗えるように、アメリカは挑発しておいて
開戦に踏み切った日本だけを悪者にすることに挙国一致の宣伝に努めましたから、
野村大使は当然のように大使引き揚げとなるまで、

「交渉をしながら裏で開戦準備を着々と進めていた」

という白眼視に曝されながら針のむしろの半年間を過ごすことになります。


まさに、日米開戦そのときにアメリカにいて、開戦を止められなかった大使。

「悲運の大使」
「日米開戦を回避できなかった男たち」

野村について書かれた書物は彼をしてこのように称します。


そこで、もう一度、冒頭の書に立ち返ってみましょう。

「無遠慮必 有近憂」。

そもそも、この書がいつ書かれたのかはわかりません。
しかし、日米開戦後、9か月後に抑留者交換船で帰国し、枢密院顧問官として、
表舞台に出ないまま、戦争の成り行きを見守っていた頃に書かれたものでないことだけは
確かなことに思われます。

野村にとって開戦前の交渉も、それに対するアメリカの「裏切り」によって
決して望まない結果に帰してしまいました。
それは、いかに個人が「遠くを慮ろうとも」、巨大な国家単位の欲望の前には
いかなる努力も全く無力であったということでもあります。


むしろ、皮相的にはこんな皮肉な見方もあります。
つまり、この東洋の小国の潜在的能力に恐れをなした欧米大国は、
この国を追いこんで挑発し、開戦に踏み切らせて潰そうとしました。
「遠くを慮って憂いの近づかぬようにその芽を摘んだ」のは、
野村が交渉していた当の相手であるアメリカの方だったということです。


野村は戦後長らく公職追放に甘んじていましたが、大使時代を知るアメリカ側から
臨まれる形で再び表舞台に引き上げられ、吉田茂のもとで海上警備隊の創設に関わります。

日本の再軍備、そして海軍の再建のために奔走した末、
昭和27年、海上警備隊は帝国海軍の末裔として不死鳥のように甦りました。
この年日米間で締結した船舶貸借協定に基づき、翌二十八年、
米海軍が横須賀基地で正式に計十隻の船舶を警備隊に引き渡したとき、
野村の目には涙があったと伝えられます。

かつて個人の果たせる力の虚しさを、相手から突きつけられる形で思い知ったこの元提督は、
自分が創設に尽力した海上警備隊が、まさに日本国の「遠く」すなわち「将来を慮る」ために
真に必要な組織、海上自衛隊となることを、このときどのくらい認識していたでしょうか。





或る海軍少佐の終戦~谷川清澄

2013-06-06 | 海軍人物伝

 

昨日に引き続き、海軍少佐、谷川清登氏の講演内容を編集してお送りします。

が、その前に。

先日、旧日本軍のものとみられる不発弾が発見され、自衛隊の処理班が
爆破処理に携わったというニュースがありました。

わたしは運転中で、正午のニュースとして放送されたものを聴いたのですが、
NHKラジオではごく淡々と、爆破処理の様子を伝え、鉄道路線が止まったことなど、
報道としてまっとうに伝えるにとどまりました。

なのでそれ以上の感想を持つこともなかったわけですが、
テレビ報道ではアナウンサー()がまた何か言ったようです。


ある読者がそれに対してこのような感想をお寄せくださいました。


エリス中尉様

 
こんばんは。
今夜は、サッカーがオーストラリアとPKで・・省略・・世間が沸いておりますが、
昼間のうちは、東京北区の高射砲弾不発弾処理関連のニュースが、
交通関係への影響等で比較的大きくテレビで取り上げられて
おりました。
 
NHK(・・・まぁ、落ち着いて、話しはこれからです。)の夕方の首都圏ニュースでも、
取り上げられており、トン数の土砂が入る様な、沢山の大きな土嚢袋で防護した中で、
爆破処理される映像が映し出されましたが(見ましたか?)、そのニュースの中で、
女子アナのお姉ちゃんの一言が、グッと来ました。

曰く、
「これらの負の遺産は(それに関する処理の為の影響は)何時までつづくのでしょうか・・」
 
負の遺産、詰まりそれを生み出した一連の出来事と私、関係有りませーん。
理解する気も有りませ−ん。
私という存在は出自からして、それらのものとは「隔たって」「きれい」
(彼女の見た目の事では有りませんよ)なのでーす。 

そんな様に聞こえました。
 
不発弾は迷惑です。
有り難がる人はいないでしょう。
しかし、お前、お前も日本人なら、その負の遺産を背負えよ。
100%被害者面するのは止せ。そう思う私でした。

この時、コメントするなら、「処理関係者の皆様、お疲れ様でした。」ではないでしょうか?
 
因みに、以前何かのテレビ番組で、この不発弾処理に当る陸自の隊員達に付く
「危険手当」の金額を見た事があるのですが、
専門の隊員が不発弾の先端の信管を慎重に外す様な、非常に危険な作業をしても、
手当てとしては確か5千円しなかったと思います。
どういう計算に基づいてのものか解りませんが、安過ぎますよね?
多分、「お役所の単価」ですから、今でも殆ど変わらないのでは?
お疲れ様な事です。


ありもしなかった「軍による強制連行された慰安婦」という「負の遺産」を捏造し、
それを今の日本に「背負わせたい」民族と、その国に肩入れし彼らの立場で
日本を非難するマスコミ。

そんなマスコミのいうこの場合の「負の遺産」っていったいなんなのかしら。
日本は「負の遺産」を=たとえ捏造であっても負うべきで、
しかし、自分(つまりマスコミ)には何の責任もないと。

皆さまは、この件いかがお感じになりましたか。





さて、遊就館で行われた谷川氏の話に戻りましょう。

ミッドウェイとともに
日米攻守が逆転した転換点となったガダルカナルの戦い。

谷川大尉のいた「嵐」は、この北方輸送作戦に10回参加しています。
艦長として優れた判断力で上層部の信任も厚い
有賀幸作少佐がその腕を見込まれたのでした。

「嵐」は1942年の8月7日、あの坂井三郎が航空戦で負傷し
片目を失ったときの海兵隊のガ島上陸を受けて、
グアムに待機していたあの一木支隊をトラック島に輸送しています。

その後8月21日に一木支隊は包囲殲滅させられる運命です。


「一木支隊の幽霊」という有名な話があります。

軍隊の者はみな知っていたのだそうですが、この一木支隊の幽霊が、遠く離れた日本の、
旭川第7師団で8月20日、彼らが激しく戦っている最中目撃されたという話がありました。

抜刀乗馬の将校を先頭にした一団が近づいてきたと思ったら、
かき消すように消えた様子を二日に亘って何人かの歩哨が上に報告しています。


それでは、谷川氏のお話をどうぞ。


ガ島補給作戦

目に見えて劣勢になってきていました。
補給船もどんどんやられてね。
「嵐」は生き残りました。
10回くらい行きましたが20回は生かされたフネもありましたね。

飛行機も、もうゲタバキ(水上艇)で敵に応戦するしかないんです。
見ているとね、敵の飛行機に向かって、
鈍重なゲタバキ機が果敢にも向かっていくんですよ。
相手は30機くらいなのに一機で向かっていくんです。
目の前でそれらがバタバタ落とされていくんです。

もうかわいそうでね。

なんでこんなくだらん戦闘をやらせるんだ、と腹が立ちました。



有賀さんは輸送艦の艦長として優秀でしたから引っ張りだこでした。
だから「嵐」も何度も攻撃にさらされています。

一度爆弾が当たりましてね。
しかも水雷機関の補給室だったんです。
そこにあった93式魚雷に当って・・・・、
93指式魚雷ってのは酸素魚雷ですから、酸素に引火して
燃えだしたんです。
わたしは水雷長で、艦橋の上から見ていました。

ああ、もう死ぬな、と思って見ていたんですが、
不思議なことに「すっ」と火が消えた。
あそこにはほかに8本魚雷がありましたからね。
その一本が爆発していたらフネは轟沈していたでしょう。

本当に、戦争とはわけのわからないことが多いです。

・・・え?

その時ですか?

だらーっとしていましたね(笑)

(前ログ参照)

死ぬのをこのころには全く怖いとも思わなくなっていた。


教官着任、そして終戦


「嵐」は帰国してドックに入りました。
私はその後兵学校の教官を江田島で8か月、
岩国でも8か月やりました。

(写真を指されて)ええ、この写真のどこかにいます。
どこにいるかわかりません。
こちらの教官だけの写真も、どこかにいますが、
どこにいるかわかりません。

このとき教えたのは水雷術です。

(会場にはこの時の教え子が3人来ていた)

5月1日、少佐に昇進しましたが、写真は撮っていません。
え?残念?
なんでですか(笑)


4月に第5航空艦隊西海航空隊に配置されて、
航空魚雷の実用実験や整備、調整の指揮をしていました。

そして終戦を迎えました。


8月15日、掩体壕の上に乗せる木を取りに山にいったんです。
すると、別荘の奥さんが

「玉音放送があるらしいから聞きましょう」

と誘ってくれて、そこで放送を聞きました。
でも、何を言っているかわからないんですよ。
わからなかったけど、戦争が継続するならこんな放送するわけないので
たぶん負けたんだろうな、と理解しました。

五航艦の軍紀も士気も低調でしたね。
他部隊から聞こえてくるのは
「大日本帝国は不滅なり」なんて言葉ばかりで、
倉庫に泥棒すら入ったりしたんです。

わたしは「負けたら負けたで敗戦を自覚して立ち直ればいい。
それをいつまでも『負けていない』とは男らしくない」
と考えましてね、それを全部隊に電報で発信しようとしました。

「光輝ある海軍が敗戦で軍規を乱し、
威信を失墜したことは誠に遺憾である
気合を入れなおし、有終の美を飾り再建を目指そう」

こんな文を送ろうとしたら、通信員が
「そんな電文は発信するわけにはいきません」
と拒否するのです。
私は拳銃を突きつけ「発信しなければ撃つ」といいました。
電文を打たなければ本当に撃つつもりだったのです。

あわてて参謀が飛んできて「軍法会議だ」と騒ぎましたが、
私はもし参謀が拳銃を抜いたらこちらも撃つつもりでした。

結局参謀は黙って出て行き、電報は発信されました。



第五航空艦隊といえば宇垣纏司令長官が、
「最後の特攻」を行いました。

基地に帰ると飛行場に艦爆の「彗星」が10機並んでいて、
これから宇垣長官が自ら飛行機に乗って沖縄に特攻する、
というのです。

なぜ長官自らが特攻機に乗るのか理解に苦しみましたが、
その時は「まだ戦争は終わっていないのかな」と思いました。

でも、今から考えるとあれはいけませんよ。

死にたいのなら一人で死ねばよかったんです。
部下を道連れになんて、人間に対して失礼です。

宇垣さんは、ダメですよ。


アベノミクスは男をあげた



昔もそうですが、日本は今も上がダメですね。
今の政治なんて酷いものです。

民主党なんて、あれ日本の政党だろうか?
って感じでしたからね。

ただ、アベノミクスは男を上げてるみたいですね。
何とか頑張ってほしいと思いますよ。

後、どうしても生きている間に見たいものがあります。

天皇陛下が靖国神社にお参りされる姿です。

77期に陛下のいとこがおられますね。
(久邇宮邦昭王・くにみやくにあきおう)
この方に何とか陛下にお参りを賜れないかお願いしてるんですが、
どうも実力がないということで難しいようなことをおっしゃる。


320万人もの方が国を護るために死んで靖国にいるんです。
なぜ天皇陛下がそれをされないのか、
わたしはもはや棺桶に片足を突っ込んだような人間で、
それを実現するにはもう力がありませんが、
このことが今の一番の心残りですね。





2013年3月16日、靖国神社遊就館における講演を
構成しました。



或る海軍大尉のミッドウェイ~嵐水雷長・谷川清澄

2013-06-05 | 海軍人物伝

谷川清澄(たにがわきよすみ)
大正5年 福岡県大牟田市出身
昭和9年4月、海軍兵学校に入校
昭和11年4月、病気療養のため66期生として卒業

重巡「三隅」「筑摩」、戦艦「陸奥」乗り組みを経て
昭和16年駆逐艦「雷」に航海長として着任

同年4月駆逐艦「嵐」に水雷長として着任
海軍大尉に昇進

同年6月ミッドウェイ海戦、
8月ガダルカナルに先遺隊を輸送
昭和18年海軍兵学校教官

昭和20年横須賀航空隊教官で終戦を迎える
同年5月少佐に昇進

戦後は復員輸送に従事後、
海上自衛隊に入隊

昭和48年佐世保地方総監で退職
最終階級は海将

今日はミッドウェー海戦71周年記念企画として、元海将、元海軍少佐、
そして元「雷」航海長である谷川清澄氏のお話を聞いてまいりました。
ミッドウェー海戦のこと、「敵兵を救助せよ!」で有名となった「雷」のこと、
そして戦後のことを二日に亘ってこの講演のお話からまとめてみました。

谷川氏はいまだに矍鑠とした元海軍軍人らしい佇まいの老紳士で、
冒頭画像における若き日の超美青年の面影を残し、
「美しく老いた」
という言葉がまさにぴったりとあてはまる素敵な方です。

インタビューは「女ひとり玉砕の島を行く」の著者である笹幸恵氏によって
対談形式で行われました。
以下、エリス中尉の聞き書きによる構成でお送りします。




チェリーマークの海兵時代

私のいた66期は200名いましたがそのうち6割が戦死しました。
「軍人半額25年」だと自分でも言ってきたのですが、
どういうわけかその四倍生きています。

今年で95歳になります。

生まれは佐賀でしてね。
佐賀と言うのは「尚武の国」で「軍人に非ずば人に非ず」
みたいな気風があり、また海が好きだったので
兵学校を受験しました。

祖父は私を東大に入れて裁判官にしたかったようです。
その祖父が受験中に亡くなったり、病気をしたりして、
結局兵学校は三回受験することになりました。


兵学校時代に楽しかったこと、ですか?
羊羹食ったことくらいかな(笑)

私が4号生徒のときの1号はあの62期でしてね。
獰猛(ネーモー)クラスだったのでそりゃ殴られました。

入校して日記に「正」の字で殴られた数を数えていたんですが、
夏休みに数えてみたら2千発殴られてました。
馬鹿馬鹿しくなってそれから数えるのをやめたんですが、
一号時代だけで少なくとも5千発は殴られてるでしょうね。

辛いとは思いませんでした。
「日本のために尽くす」と決めていたので。

・・・・・・・・え?

ハンサムだなんて、私、初めて言われましたけど(笑)
もしそうなら、この時期殴られ過ぎて顔面が「修正」されたんでしょうかね。



ここの宮司(徳川泰久氏)のおじさんの徳川 熙(ひかる)
同級生でした。

(15代将軍・徳川慶喜の九男。
呂101潜水艦先任将校(水雷長)として戦死した)

数学はできなかったですけど、気宇壮大な人物でした。
我々が身の回りのことを考えているときに、
世界のことを考えている、といったような。


この写真(兵学校時代のもの、優等生のマークである
桜の襟章をつけている)チェリーマークですが、まあ

そういうときもあった

ということです。
勿論、そうでないときの方が多かったですよ。


イケイケドンドンの初陣


昭和16年の12月8日、開戦は「雷」航海長で迎えました。
その時香港沖にいたんですが、皆逸っていてね。

そのときイギリスかアメリカのフネを見つけたので

「あいつをやっつけて戦果第一号だ!」

と追い掛け回しました。
でも、着弾しても沈まないんですよ。
木造の船だったので。

でももう、皆イケイケドンドンになってまして、
目の色変えて追いかけているうちに、
有効弾着距離の4000以内に入り込んでしまった。

はっと気が付いたら敵の三隻の「三角形」のど真ん中に
いて、敵は三発撃ってきました。

慌てて煙幕を張ってのた打ち回りながら逃げ何とか生還しましたが、
今から考えてもよく助かったなと思いますよ。

今日は目の前にもきれいな女性がいらっしゃるので
少し言いにくい話なんですが・・・・。

上海に行って上海陸戦隊の戦闘を経験した先輩と話したとき、

「大砲の音は物凄いぞ。
あれを聞くとタマがどこにいったかわからなくなるんだ」

と言っていたのを思い出して、そのとき探してみたのですが

ありませんでした。

思うんですが、戦争をするときには
必ず生死を超越した、「覚めた」人間が一人いないと危ない。
わたしは自分がそうなりたいと思っていましたが、
このときはそれどころじゃありませんでした。

当時23歳の航海長です。


敵兵を救助せよ

私は酒は呑みませんが煙草を嗜みます。
一度飲んでみたい煙草がありましてね。
「ウェストミンスター」といって煙が本当に紫なんです。
「香港攻略が終わったら買えるな」
と本当に楽しみにしていたのに、そのまま上陸せずに
ジャワに移動になってしまいました。

ウェストミンスターを味わう機会も煙と消えました。


(このジャワ、スラバヤ沖で、「雷」は撃沈され漂流中の
英海軍の乗員を救助し、そのエピソードは、近年
助けられた乗員が広めたこともあって有名になった)


工藤俊作艦長は180センチ、体重100キロくらいの巨漢でね。
普段は黙っているときの方が多い、落ち着いた人物でした。
しかし、決断が鮮やかでしたね。
いける、と思ったらぱっとやる。

あのときも心配ない、と思ったからあの指令が出せた。

はっきりしておきたいのはあの時敵兵を救助したのは
「雷」だけではなかったんです。
「電」「山嵐」「江風」
皆同じように敵兵を救助しているんです。

向こうも一生懸命戦ったのですから、たとえ敵兵でも
まだ浮いている生存者を救助するのは当たり前のことであって、
特別なことをしたわけではないのです。

すっかり美談のようになってしまっていますが、
当時の日本海軍では普通の行為だったと思います。


(工藤艦長は甲板の敵将兵に向かって
『只今から諸子は帝国海軍の名誉あるゲストである』
と語りかけた)

私はそれを聞いていません。
この間血眼で見張りをしていましたからね。
もし何か見落としていて起こったらハラキリものですよ(笑)


ミッドウェイ海戦


駆逐艦嵐乗り組み時代、横須賀に停泊していたときです。
見慣れない飛行機が飛んでくるのを見ました。
B-25の編隊が東京に向かっていました。
聯合艦隊は「追いかけろ」と慌てて指令を出したらしいんですが、
それがドゥーリトル隊だったんですね。

この東京空襲を受けて聯合艦隊はミッドウェイ海戦を決意するんですが。

聯合艦隊と機動部隊が呉に集結させられたので我々も行きました。
するとね、制服を着て歩いていると、一般の人が

「海軍さん、今度ミッドウェイでするそうですね。勝ってください」

と声をかけるんですよ。
もうびっくりしてしまいました。
道行く人が知ってるなんて、この作戦大丈夫なのか?
と本当に不安になりましたよ。

(このエピソードは、映画『聯合艦隊』で、芸者が『ミッドウェーミッドウェー』
と言うのを主人公が聞いて愕然とするというシーンに採用されていました)

今にして思うんですが、この頃聯合艦隊は
機動部隊が出て行けば勝っていたので慢心していたんじゃないか。
やるべきこと、情報収集を潜水艦でするとか、
そういうことを全くしないで突入してますからね。

艦隊が北西からミッドウェイに向かった進路を
「13度に取れ」と言うんです。
13とは縁起の悪い数字だな、と思いました。

聯合艦隊の動向は皆偵察されていましたね。
「嵐」のとき、艦長は有賀幸作でした。
カタリナ飛行艇が偵察に来ていたので、
「落とすんでしょうね」と聞いたら「もちろんだよ」
と言うんですが、結局見逃した。

なんか、こういうのも「慢心」の表れかなと。

ミッドウェイでいつ負けると思ったかって?
負けてからですよ(笑)

このとき、私は一介の水雷長でしたが、

「何してるんだ」

と非常に疑問に思ったことがありましたね。
空母というのは甲板に一つでも穴が開けば機能は停止しますから、
航空機で爆弾を落とせばいいのに、
わざわざ爆装を雷装に変えさせたんですよ。

「虚しい」

こんな言葉がよぎりましたな。
馬鹿みたいな攻撃をしているうちにやられてしまった。

本当に上層部が馬鹿に見えました。
なんでこんなことやるんだろうって。
私は平凡な、平均的な人間で決して人より図抜けた眼力を
持っているわけでもなんでもないと思っていますが、
その私ですら「お粗末な作戦」だと思った。

目の前の飛行甲板に一発落とせばいいのに、
あんなに簡単にやられるはずないのに、って。
悔しかったですよ。

有賀艦長は腕利きでしたから。上層部の信頼があってね、
例えば南雲長官なんか「有賀がトンボ釣りしてくれなきゃやだ」
っていつもご指名でした。

トンボ釣りというのは空母にくっついて海に落ちた飛行機を拾う
駆逐艦のことです。
海戦のときには駆逐艦なんて見向きもされませんからね。

この海戦のときは赤城の後ろにトンボ釣りとして待機していた。
甲板の整備員が目の前で爆撃にやられるんですよ。
片手や片足が吹っ飛ぶのがこちらからも見えました。

もう・・・・涙もでませんでしたよ。
「嵐」は小さいフネだから見向きもされません。
だから食事なんか取るんですが、出された握り飯が
全く喉を通らないんです。

悔しくて、かわいそうで。
もう、地獄絵でしたね。


白い服の人

翌日、赤城を魚雷処分することになりました。
3000メートルの距離から撃つんですが、
涙が出てもう止まりませんでした。
不思議なことに真っ直ぐ進んでいた魚雷が
あと500メートル、と言うところで海面に顔を出しました。

2秒くらい遅れて、また海中に沈んで命中しました。

「魚雷はさようならの挨拶をするために顔を出したんだろうな」

皆で言い合いましたよ。
一発目は命中しましたが沈む様子がない。
よっぽど堅牢にできていたんだなと思いました。


二発目を撃ち込む前に双眼鏡で見ていたら、
艦橋から一人、白い作業服がでてきて
ポカーンという感じでこちらを見ているんです。

昨日乗員の移送作業をしたんですが、
何かの理由で乗れなかったんでしょうか。

2発目を撃ち込んだら赤城は沈みだしました。


以来30年、あの時の白い作業服がしょっちゅう夢に出てきました。
30年経った頃から見なくなりましたが・・・・。


90歳から話すことにした


私はもう95歳です。
全く、なぜ私だけがこんなに生きているのかわかりません。
亡くなったクラスメートは靖国に祀られていますが、
その壁のあたりから今こちらを見ながら

「谷川の奴、全く話が下手だなあ」

と笑っているかもしれません。



私は戦後、80歳くらいまでは海軍の先輩のことを
かれこれ批判するのは畏れ多いし間違いだと思って
控えていたんです。
でも、そういうことを避けていると、たとえば自衛隊や、
幹部候補生に講話してもあまり感動してもらえない。

90歳になったときにはっきりなんでも言うことにしました。
思ったことを言わなかったら死んでも死にきれませんから。

南雲さんはね、愚将で、悪将だったと思います。

山本さんも・・・悪将は少し言いすぎかな、でも愚将でしたね。

当時の幕僚たちはやるべきことをなにもやらなかったんです。
海戦のイロハというべき「二度索敵」なんかもやらせなかったですから。
本当に参謀は馬鹿揃いとしか言いようがないです。
あんなので勝てるわけがないんです。

お粗末な計画で優秀で立派な搭乗員の命が多く失われた。
全く無駄遣いとしか言いようのない愚挙でしたよ。

アメリカの参謀なんかとはものを考える次元すら違っていた。

例えば、何の意味もなく人事を動かしてしまう。
組織ってのは、特にフネの組織なんてそんなに動かすもんじゃない。

レベルの低い水雷長が来てしまう。
皆が「今だ」って思う瞬間に、行かないんです。
それを見て皆「違う」と思う。
うまく言えないが、空気が悪くなるんです。
士気が落ちるとでも言うんですかな。

もし私が指揮官だったら、ですか?

私が指揮を執ることになったら、いつも日露戦争のときの
加藤参謀や秋山参謀がどうしたか、生きていたらどうされたか、
こんなことを指針にしたでしょうね。

真珠湾攻撃も、もし空母が無いということがわかったら
その時点で引き下がって空母を見るまで待ったかもしれない。
だいたい明らかに空母が避退していなかったんですから、
「戦艦やっつけた!バンザイ」じゃ子供ですよ。

日露戦争からこの戦争の間に何かが「劣化した」としたら、
それは「人心」じゃないかと思います。
軍縮で300人クラスが50人になったりして、
人数の変動が多かったころが指揮官になってますからね。
それと大正デモクラシーなんかも原因じゃないでしょうか。
そういう「変な変化」があると、軍隊は弱くなるような気がします。

負けたことを隠したり、あれもダメですね。

中央と艦隊、さらに艦隊と軍令部の関係が悪かった。
これも勝てなかった原因だと思います。
陸軍と海軍が仲が悪かったこともそうですよ。

名古屋の飛行機工場ですが、道を隔てて
「海軍工廠」「陸軍工廠」が分かれてるんです。
なんで一緒にやらなかったんですかね。
道一本向かいにいるのに技師同士の付き合いすらなかったって。
意見交換なんかも勿論しなかったですよ。
こんなのを見ても勝てるわけなかったって思います。

有賀さん、あと木村晶福さんは名将でしたね。
ピカイチでした。
有賀さんは、いつも水虫の手入れなんてしてるんですよ。
煙草をふかしてばかりでね。
でもいざとなるとぱっと変わりました。
その指示が全てにおいて的確で当を得ていました。

私だけでなく「男に男が惚れる」とでも言うのか、
「この指揮官のためなら死んでもいい」と思っておりましたよ。

大和の艦長などにしてわざわざ死なせるなんて、
本当にもったいなかったとしか言いようがありません。




後半に続きます。

(2013年3月16日、靖国神社遊就館での講演をもとに構成しました)






日本海大戦~秋山参謀の「奇行」

2013-05-24 | 海軍人物伝



その1







その2














今日は、少し息抜きに(わたしは全然息抜きになってませんが)
久しぶりのコマ漫画をお届けします。

いずれも「こんな聯合艦隊は嫌だ」という言葉も虚しく、実話でございます。

主人公は、海軍一の秀才、のべつ頭が回転し続ける天才、
「天気晴朗なれど風高し」
この一文にすらたただものでないひらめきを感じさせる伝説の参謀、

秋山真之海軍中将(最終)です。


天才となんとかは紙一重、と申します。

天才参謀秋山真之も、実は本人を知る者たちにはどうも
そのきらいがあったようで、いくつかの逸話が残っています。

明治三十年、秋山はアメリカに留学していますが、その際
駐米大使であった星亨(ほしとおる)の執務室に勝手に出入りし、
いつも勝手に棚の本を手に取って見ていました。

星という人物は押しが強く、のちに国会議員になったとき
「ほしとおるではなく、押し通る」
と言われたくらいの人物ですが、このとき秋山の行為を見咎め、
一言文句を言ったにもかかわらず全く相手にされなかったそうです。

早いうちから戦術家として後進を指導する立場でありながら、
秋山には実に粗野なところがあって、のべつ幕なしに口にモノを入れていました。

ドラマで描かれていた「豆をいつでもポリポリしていた」というのもその一つですし、
本日の漫画「その2」における逸話のように、周りが緊張する中、
果物かごの林檎に手をだし、一人でシャクシャク言わせながら食べだしたので、
東郷司令長官はじめとする聯合艦隊の司令部将官は
あっけにとられて見つめていたということもありました。

人前で放屁することも平気なら、海大の教授になってからも立小便をしました。
学校の門を入ったところにある桜の木が、彼のお気に入りのスポットで、
必ずそこで用を足してから建物に入ったそうです。

・・・・・・・・・犬か。

大人物なのか、それともやはり「紙一重」だったのか。

アメリカでもその悪癖は一向に治らず(というか、悪いことだとも思っていなかったようで)
人の家を訪問したとき、その家の植木の根元で用を足し、
直後にその家の夫人とその手で握手し、そのまま何事もなかったように家に入ったそうです。

っていうか、これ、誰が見てたんでしょう。


いやー、奇行というより野生児のまま一生を突っ走ったって感じですね。
しかしそれもむしろ天才の名にふさわしいと思ってしまいました。





 


飛虎将軍廟~将軍になった飛曹長

2013-01-07 | 海軍人物伝

 

今回の旅行先はわたしが「何が何でも」と台南を盛り込んだわけではなく、
台北と、去年行かなかった南西部に行っておけば「台湾をとりあえず網羅した」
と言えるのではないかということでTOが決定しました。

台南航空隊のあった場所に行けるのは感無量でしたが、かといって
台南航空隊が台湾のここ台南でどんな活動をしていたか調べても全くわからず、
あまり海軍関係は期待していなかったと言うのが本当のところです。

しかし、改めてこの海軍搭乗員、村人のために自らの命を失った杉浦飛曹長を知り、
(といってもそれが海軍軍人であったことは台湾に行く前日に知ったのですが)
やはり海軍の縁がわたしをここに来させたのかもしれない、と思いました。

台南到着の次の日、最初にここを訪れるためにホテルを出発しました。
ホテルの人に資料を見せて「ここに行きたいのだが、運転手に何といえばいいのか」
と尋ねると「ここは有名だから誰でも知っている」と言われました。

特に台南に来た日本人は必ずここを訪れるようです。

 

1993年に建て替えられた本堂はそれでも小さなものです。
赤い垂れ幕には

「歓迎 日本国の皆々様 
ようこそ参詣にいらっしゃいました」

と書いてあります。
ご本尊の飛虎将軍は、この廟が建立された1970年当時には正確な資料がなかったのか、
明治時代の海軍軍装か、警官の制服のような姿をして見えます。



この廟を管理しているおじさん。
我々が入っていくと、お昼時間で祭壇の横の机に座ってお弁当を食べていました。
日本語は全くしゃべれないようでしたが、
お線香の上げ方を身振りで教えてくれ、日本語で

「日本語の説明が必要です」
「いいえ、時間がないので説明は結構です」

と書いた紙を出してどちらかと聞いてきたので、説明をお願いすると、
近くに住んででもいるのか、数分で一人の男性がやって来ました。

蔡さんと言う方で、日本からの客に日本語で説明してくれる係です。

 

それによると、杉浦少尉の生い立ちはこのようなものでした。

杉浦茂峰は大正12(1923)年11月9日、茨城県水戸市に、
杉浦満之助、たねの三男として生まれました。
小さいときから利発で、家族にもかわいがられて育った子供でした。

志願して海軍飛行予科練に入隊。
乙種予科練であったと言うことは13~4歳で予科練に入ったことになります。
乙種は尋常小学校高等科卒(中学2年生)が受験できたといいますから、
杉浦飛曹長は最後の乙種予科練生であることは間違いないでしょう。

戦死した時、一か月後に21歳になるはずだったこの若者はすでに飛曹長でした。
乙種入隊で海軍に入って、すでに8年経っていたからです。

霞ケ浦駐屯地に一時いたこともあるそうです。
最後の乙飛ということは、杉浦飛曹長は、当ブログ「甲飛予科練の憂鬱」で述べた、
「甲種予科練と折り合いの悪かった期」ということでもあるのですが、その話はさておき。

1944年10月12日、杉浦飛曹長は台湾、台南の海尾上空に来襲したグラマンF6Fと、
二号零戦と言われた零戦三二型に乗って交戦、墜落死します。

昭和20年、高尾の海軍航空隊にて、海軍合同葬が営まれ、さらに同年6月、
茨城県水戸市にて、他の戦死者192柱とともに合同葬にてその魂が弔われます。
水戸市は杉浦飛曹長の出身地です。

その功績に対し「功6級金鵄勲章」並びに「勲7等青色桐場章」が叙勲され、
杉浦飛曹長は海軍少尉に特進しました。

 

ここに奉納されているこれは勿論本物ではありません。
杉浦少尉が叙勲された勲章のレプリカが保存されているのです。

戒名は「忠勝員義阿繁峰居士」

戦後、自分たちのを戦火から救うために自分の命を犠牲にした
この海軍搭乗員に対し、海尾の人々は感謝の念を表そうと、
1971年にその恩を顕彰する祠を立てました。

四坪の小さな祠はそれ以来近隣の人々は勿論遠方からの参詣者が絶えず、
特に日本からは毎日のように人が訪れて杉浦少尉の霊に手を合わせます。

お弁当を食べていたおじさんは廟守といい、参拝客の相手は勿論、
朝夕二回、煙草を三本ずつ点火して祭壇に捧げ、朝は「君が代」、
夕方五時ごろに「海ゆかば」を流して廟を守ってくださっているのです。



どうやらこのような専門の煙草立てを誰かがつい最近奉納したようです。

日本語で説明してくれた蔡さんが、「時間外ですがお供えしましょう」と、
わたしを祭壇の前に呼んでくれました。



こうやってガスバーナーで火をつけるのですが、それを
蔡さんはありがたくもエリス中尉にやらせてくださいました。
なぜ三本かと言うと、祭壇には真ん中のご本尊、「飛虎将軍」と、
両脇に軍服を着た二体の神様がいらっしゃるからです。

「これは信者に頼まれれば、飛虎将軍の代理として、
短期間その家にお出ましになる、護衛のような役目の神様です」

というのが蔡さんの説明でした。



三本の煙草から紫煙が立ち昇りました。
生前煙草が大好きだった杉浦飛曹長のために、こうやって今日も
煙草に火は点けられるのです。

普通に点火して置いておくよりもなぜか早く燃えるのだそうで、
「何しろ、ヘビースモーカーでいらっしゃいますから」
と蔡さんは真顔で言いました。

「飛虎」とは戦闘機を意味するとのことですが、「将軍」とは?
実際には昇進して少尉だけど、この廟ではちと昇進させ過ぎではないか?
そもそも杉浦飛曹長は海軍さんなんだから将軍と言うよりは提督なんじゃ?
と思われたあなた、あなたは正しい。

しかし、この台湾の人々にとって、「将軍」の意味は軍隊のそれではなく、
「神様として祀られる勇士の総称」なのだそうです。

毎日自分のために国歌や「海ゆかば」が流され、好きな煙草に火が灯されるばかりか
日本人が毎日のようにやってきて、そして総称とはいえ将軍にまで祭り上げられて・・・。

当の杉浦飛曹長は、もしかしたら少し照れておられたりしませんでしょうか。


明日は台湾の人々とこの飛虎将軍廟の関係についてお話しします。




台湾・飛虎将軍廟~神様になった海軍搭乗員

2013-01-06 | 海軍人物伝

今回の台湾旅行を計画していたとき、
「神様になった日本人」というあるインターネット記事を読みました。
敵機に攻撃されて墜落しそうになる機を、村の住居を避けて操縦し、
そのため戦死した搭乗員が神様になっている、という話です。

その祠が今回の訪問先、台湾の台南にあることがわかりました。
台南に到着した次の日、真っ先にここを訪ねてきましたのでご報告します。



毎日日本からの参拝者の絶えないこの「鎮安堂、飛虎将軍廟」。
ここで神様として祀られているのが、冒頭写真の海軍搭乗員。

杉浦茂峰帝国海軍少尉。(戦死時兵曹長)

1944年12月12日朝、グラマン邀撃のため台南市同安区海尾上空に、
この杉浦兵曹長ら海軍201飛行部隊の零戦数機が上がりました。
零戦は勇敢にもグラマンに向かっていきますが、数で勝る敵にはかなわず、
一機、また一機と撃墜されていきます。

この空戦を目撃した者によると、そのなかでも一機の零戦は非常に善戦し、
また敵をよく制したとのことですが、圧倒的な多勢にはその健闘もむなしく、
そのうち被弾し尾翼から発火しました。
零戦はおそらく空戦から離脱し脱出するため、一旦態勢を急降下させました。
しかし次の瞬間、搭乗員は、そのまま機が墜落すればそこは「海尾寮」という村で、
当時の竹と木と土でできた家屋が並ぶ集落であることに気付いたのでしょう。

敢然と機首を上げ、機体を上昇に転じたのです。

機をそのまま村の東側にある畑と養殖池に向けた搭乗員は落下傘で脱出しますが、
グラマンに落下傘を機銃掃射で破られ、畑に墜落しました。

それが今現在、飛虎将軍廟のあるあたりです。
搭乗員は畑の上に仰向けに横たわり死んでいました。
村人が駆け寄ったところ、死んだ搭乗員の軍靴には「杉浦」と書かれていました。

その後、第二〇一海軍航空隊分隊長である森山俊夫大尉の協力で、
この搭乗員が杉浦繁峰飛曹長であることが明らかになります。

杉浦飛曹長はこの戦死後海軍少尉に昇進し、金鵄勲章を授与されました。

これだけなら、戦争中の「一つの戦死」として忘れ去られるところですが、
村人はそうではありませんでした。
自分の村を命を呈して守ってくれたこの海軍搭乗員を彼らは忘れなかったのです。



いや、正確には「忘れていたが、搭乗員が忘れさせなかった」と言うべきでしょうか。

終戦後何年かして、この悲劇のあった養殖池付近で不思議なうわさが立ちはじめます。

「白い帽子をかぶり白い服を着た人物が闇夜に現れ、
泥棒かと思って追いかけるとすうっと消えてしまう」

同じ白い帽子、白い服の人物の目撃談が相次ぎ、
さらには夢枕にその人物が立ったと言うものも現れるに及んで、
村人は恐怖にかられ、この地元の神様にお告げを聴いたところ、

「それは戦時中の戦死者の亡霊である」

という言葉が下されたのでした。
人々は、村を救うために零戦を最後まで操縦して無人の畑に墜落させ、
自分は逃げ遅れて撃墜されたあの日本軍の搭乗員のことを思い出しました。

あの搭乗員が白い帽子に白い服で現れたのだと。



廟の中には海軍の軍帽、昇進した杉浦少尉のために、
ちゃんと抱き茗荷の士官用軍帽が飾られています。

人々が見たのが杉浦飛曹長の霊であるというのが本当であれば、
かれは海軍の白い第二種軍装で村人の前に姿を現したのでしょう。

 

ここには杉浦少尉にまつわるいくつかのものがこのように飾られています。
この零戦の模型は、日本から部品が送られてきたものだそうで、
案内してくれた日本語の堪能な蔡さんという方が苦心して組み立てたということです。

おそらく、杉浦少尉のために飾ってあげてほしいという思いを込めて、
日本の誰かが、この廟に宛てて模型の部品を送ってきたものと思われます。



この廟では、朝と夕方のお勤めとして、朝は「君が代」夕方には「海ゆかば」
を流し、一日に二度、七本ずつの煙草を、煙草が好きだった杉浦少尉のために
火を灯し、その霊を弔うとともに、村人の感謝の意を受け継いでいます。

「飛虎」とは、「戦闘機」のこと。
戦闘機零戦を駈って勇敢に戦い、最後の最後まで他人の、
台湾人たちのことを思いやる心を持ち、侍のように往ったこの一搭乗員を、
台湾の人々は「神様」と呼び、今日も祈りを捧げ続けてくれているのです。


明日も、この飛虎将軍廟と杉浦少尉のことをお話しします。



年忘れネイビーギャラリー

2012-12-31 | 海軍人物伝


今年もはや最後の日になってしまいました。
いつも「ネイビーギャラリー」と称してその年にお話しした海軍軍人の
肖像を挙げていくのを恒例としています。
今年は話題がよく言えば多岐にわたったため、ネイビー画像が
あまりたくさん集まりませんでした。

その他のギャラリーシリーズは、年明けに「年初めギャラリー」としてお送りします。

笹井醇一少尉



「海兵67期の青春」

お約束の笹井中尉からです。
ただ、この少尉任官時に撮られた笹井少尉の写真の絵が描きたくて、
そのためにアップし、そのために記事を書きました。

どんな状況でも、どんな戦争の暗雲垂れ込める時勢でも、
若者はいつも青春を謳歌することができるものです。
その底抜けのパワーと生命力が、たとえ戦争を前にしても
「明日」を信じさせる強さとなるのかもしれません。
そんなことを、67期の生存者の手記から語ってみました。



臼渕巌海軍大尉


「男たちの大和」と「戦艦大和」

二つの大和映画を同じ角度から語ってみました。
臼渕巌大尉についてはどちらの映画も、そもそも年齢について
全く考証されていないらしい、という結論になりました。
大尉、という階級が終戦直前には非常に若年となっていたことを
どちらの映画も全く考慮していないと思われます。

臼渕大尉については本当にあのセリフを言ったのかどうかが、
史実として検証するすべもありません。
つまり吉田氏の創作ではないかという説もあるので、
それ以上個人的なエピソードの出ようもなく、したがって
「実在の人物でありながら創作上の人物のような扱い」
になってしまっているといった感があります。

臼渕大尉は71期581名中の98位という好成績で卒業しています。

檜貝襄治海軍大佐


「檜貝譲治大佐―女優の愛した侍」

戦後撃墜王としてもてはやされたり伝記が書かれたわけでもない、
しかし職人芸ともいえる精緻な攻撃法を研究によって編み出し、
腕だけでなく温厚で誠実、聯合艦隊司令から航空学生まで
その人格は全ての尊敬を集め、おまけに映画スターにも見まごう美青年。

若き日の高峰秀子の片思いの相手と言われ、軍神とも言われた、
この檜貝大佐こそもっと皆に知られるべきだと思うのですが・・。

最後まで自分の信念と美学を貫いて散ったその死こそ、
侍とたたえるにふさわしいものだったと思います。

小沢昭一海軍兵学校予備生徒


「海兵生徒小沢昭一~最後の兵学校生徒」

俳優、俳人、エッセイスト小沢昭一は、予科生徒として集められた
最後の兵学校生徒78期に4か月在籍していました。
この経験から氏が戦後反戦反体制反天皇の思想に至ったらしいこと、
そして海軍が終戦間際に小沢ら4000人もの生徒を最後に集めたわけ。
そんなことを語ってみました。

ある日、この記事にアクセスが集中しました。
12月10日、83歳でお亡くなりになったそうです。

合掌。


仁科関夫海軍少佐


兵学校71期をハンモックナンバー26番という優秀な成績で卒業した仁科中尉。
黒木博司大尉とともに人間魚雷「回天」を考案しました。
仁科中尉は黒木大尉を事故によって失った後、回天隊を率い、
昭和19年11月4日、菊水隊としてウルシー出撃。
「ミシシネワ」を沈没せしめたと言われています。

「六尺褌に、搭乗服に身を固め、日本刀をぶち込み、七生報国の白鉢巻を額に、
黒木少佐の写真を胸ポケットに、右手には爆発棹、
背には可愛い女の子の贈り物の布団を当て、いざ抜き放った日本刀、
神州の曙を胸に、大元帥陛下の万歳を唱えて、全力30ノット、大型空母に体当り」

中尉の最後(前日)の日記より。

黒木博司少佐


人間魚雷「回天」は黒木博司大尉と仁科中尉によって発案、開発されました。
黒木大尉はこの特攻を敢行することによって、「航空部隊が後に続くこと」
を期していたといわれています。

「たとえ大西瀧治郎がいなかったとしても、日本人は誰かが特攻と言う戦法をしただろう」
とわたしは考えていますが、その根拠が、この黒木大尉です。

海軍機関学校卒、この俊秀が、あの時代に生まれたがために選択した道。
特攻は追いつめられた日本人の「必然」ともいえました。
二度とその道は歩んではなりませんが、この覚悟を持った若者たちの存在が、
日本と言う国を、戦後精神的に支え、評価されてきたことまで否定してはいけません。
そして、その自死の精神は世界の思想家にとって称賛と憧憬の対象になったということも。

板倉光馬海軍少佐


板倉少佐は、「回天」の司令官になってすぐ、第一子に恵まれます。
そのときすでに殉職していた黒木大尉はそれを知ることはありませんでしたが、
仁科中尉は「自分たちは子孫を残していくことはできないけど、司令官、
坊ちゃんを立派に育ててください」と言い遺して往きました。

「子孫を残さずに往く」

これが、若い彼らにとって唯一にして最後の今生への心残りであったことでしょう。
しかし、そのかわり自分の死によって未来の日本人が生き残る。
彼らの慰めはそこにあったはずです。

仁科中尉がその誕生を喜んだ赤ん坊は仁科中尉戦死後、病没します。
しかしその知らせを受けても板倉少佐は
「自分の子供か死んだくらいで家に帰るわけにはいかない」
と玄関から立ち去ろうとしました。
皆になだめられて息子の亡骸と一晩を過ごした少佐が
「あんたがうまれて俺はいつ死んでもいいと思ったのになぜ死んだのだ」
と号泣しているのを部下が目撃し、
「この人の下でなら死ねる」と泣きながら仲間に語りました。

子を生(な)すということが、自分の生、自分がこの世に生まれてきたことに
意味を与えるという思いは、おそらく「自分の死」=「自分の消滅」を考えるとき
人が本能的に行きつくものなのかもしれません。


この写真で板倉少佐に抱かれている赤ん坊はその亡くなった第一子ではなく、
そのあと生まれた女の子だそうです。

木村惟雄海軍一飛曹



甲飛予科練の憂鬱

予科練というシステムは、つまり海軍が時局をにらんで飛行兵を
大量に海軍に採用した一大プロジェクトだったわけで、その目的は
時勢と「パイロットになれて、しかも士官にもなれる」という、
若者たちが飛びつくような誘い文句のおかげで、この木村一飛層のように
海軍士官学校を目指すほど優秀な若者が応募に殺到しました。

しかしながらそれは「人手ほしさの美辞麗句」という部分が避けがたく、
いざ入ってみたら「話が違う!」と彼らは不満を募らせ、
ついにはその一部がストライキを起こすという不祥事にまでなります。

この稿では、予科練の入隊試験からその訓練、卒業までを描いた映画
「空の少年兵」と、その予科練生たちの不満、海軍上層部について
お話ししてみました。


この稿に対してポチ三水が筑波山の旅館の女将から聞いてきた話、
予科練が「若鷲の歌」を歌ってから松根油を集めていた、と言う話題を、
別の稿『筑波山よーそろ』というページでご紹介させいただきました。
この時にポチ三水から教えていただいた

霞ヶ浦の湖岸(阿見町)には、予科連記念館(雄翔館)と、
3年前にできた予科練平和記念館というのがあります

ここを訪ねるのが来年の目標です。


それでは皆様、よいお年を。





友々呼びつつ死してゆくらん~黒木博司大尉

2012-09-27 | 海軍人物伝

               

黒木博司
大正10年9月11日、岐阜県出身
海軍機関学校51期卒
仁科関夫中尉と共に人間魚雷による必死作戦を考案
「天を回(めぐ)らし日本を窮地から救うべく戦局を好転させる」という意を込め
これを「回天」と名付ける
1944(昭和19)年9月6日、訓練中の事故により樋口孝大尉と共に殉職
死後少佐 亨年二十二

先日奇しくも黒木大尉殉職の9月6日に回天について書こうと思い立ったことを、
「何かの縁」と考えているエリス中尉です。

この事故の起きた9月6日、大津島の回天基地では訓練の二日目を迎えていました。
画像は、回天に乗り込む黒木博司大尉。
黒木大尉の写真はこの写真と正面からの写真が計二枚あるだけで、他の皆のように
基地での団体写真や出撃前の記念写真がありません。
この写真は、画像が不鮮明ですが、光の感じから晴天であるらしいことがわかります。
この9月6日は朝方は晴れ渡っていたのですが、午後から急に強風が吹き始めました。

この写真が撮られたのは、その前日の9月5日か、あるいはこの6日のことです。
どことなく険しい表情から、皆の反対を押し切って訓練を決行した9月6日、
つまり事故直前の黒木大尉の姿ではないかと思えてなりません。

それにしても、回天に乗り込むのになぜ酒瓶のようなものを持っているのでしょうか。

回天は一人乗りです。
この時はま二日目で、搭乗員を一人ずつ「適性検査」のような状態でチェックする段階でした。
座席は一つしかありませんから、指導官は、操縦席の左前方のわずかな隙間に、
体を折り曲げるようにして座ることになっていました。
そして、この指導官の重責が果たせるのは黒木大尉と仁科中尉二人だけです。

出航予定の4時、ますます風が強くなり、波浪は一段と高くなり、うねりさえ加わりました。
板倉光馬指揮官は危険と判断し、訓練の中止を告げます。
しかし、黒木大尉は語気も鋭く

「指揮官、どうして中止するのですか!」

と食ってかかりました。
波が高すぎて危険であることと、訓練予定の樋口孝大尉(兵70)が初めてであること、
板倉少佐は説得しますが、黒木大尉は一歩も引こうとしません。
それまで黙って横で聴いていた仁科中尉がこう言いました。

「今日はやめた方がいいでしょう。
私のときも湾口で波に叩かれ、潜入のとき20度近いダウンがかかって危なかった」

「黙れ!」

板倉司令官には見せなかった凄まじい形相で黒木大尉は仁科中尉に向かって怒鳴りました。

「天候が悪いからと言って、敵は待ってくれないぞ!」

この一喝で仁科中尉は押し黙りました。
そのとき、同乗予定の樋口大尉が

「指揮官、やらせてください。お願いします」

決然とした様子でこう言ったこと、そして、こと回天に関する限り板倉少佐は「素人」であること、
それらが板倉少佐に命令を翻させる理由となりました。
そして、板倉少佐は、そのことを生涯の痛恨として生きて行くことになります。

板倉指揮官の乗った追躡艇(ついじょうてい)はエンジン停止、仁科中尉の艇も的を見失いました。
そして、帰ってこない一号艇を求めて夜を徹した必死の捜索も叶わず、二人の命をつなぐ
酸素の無くなる予定時間―午前一時が過ぎました。

遺された黒木大尉の遺書によると、5時40分に発動、18時12分、つまり発信して30分後に鎮座。
7時40分ごろ、捜索のためと思われるスクリュー音を聞いたことが記されています。
黒木大尉は、事故直後の処置、経過、所見と仁科中尉に「後を頼む」と託すことば、
家族への遺言を手帳に書きつづりました。
中には、
「事故に備えて、用便器の準備を要す(特に筒内冷却のため)」
などという文もあります。

そして、艇内に
「天皇陛下万歳、大日本万歳、帝国海軍回天万歳」
などとしたためたのが夜の10時。

この間空気不足による思考力の低下を何とかしようと睡眠を取ろうともしたようですが、

〇四〇〇死ヲ決ス。心身爽快ナリ。心ヨリ樋口大尉ト 万歳ヲ三唱ス。

〇四四五、君ガ代斉唱。莞爾トシテユク。万歳。

基地では午前一時が酸素の限界としていたようですが、
実は二人はそれよりもう少し長く生存していたようです。

〇六〇〇猶二人生存ス。相約シ行ヲ共ニス。万歳(黒木大尉)

〇六・〇〇 猶二人生ク。行ヲ共ニセン。(樋口大尉)

と、全く同じことを同時に記しています。
これは、一体どういう状況だったのでしょうか。
もうろうとしながら、どちらともなく声を掛け合い、
「まだ生きていたか」
と、もしかしたら二人で微笑みを交わし合ったのかもしれません。

板倉光馬司令官が戦後著した「不沈潜水艦長の戦い」には、司令官から見たこの日の事故経過、
さらに黒木大尉死後、仁科大尉が「火となった」凄まじいその後の様子、そして、
この事故が大津島の島民の心を打ち、これ以降彼らは回天を見ると、歩みを止め、
深々と頭を下げるようになったことが記されています。

黒木大尉はなぜ回天を考案したのか。
それは、黒木大尉が仁科大尉に打ち明けたこの言葉に包括されるでしょう。

「回天が敵艦に体当たりを敢行して戦果を上げれば、必ず航空部隊は同調する。
俺が回天の戦力化を急ぐのはこのためだ」

元々黒木大尉は、飛行機を爆装して敵艦に体当たりする作戦を、昭和18年の8月に、
呉空の司令に対して提起していたのでした。
時期尚早であるとこのとき提案を退けられたのが、
黒木大尉が回天作戦を進める動機であったともされます。

その後日本の戦局はやむにやまれぬ状態に陥り、ついに大西瀧治郎長官の提言により、
一撃必死の特別攻撃を挙行することになりました。

1944年10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊がレイテ湾で最初の特攻作戦を敢行。

黒木大尉が殉職した次の月のことです。


黒木大尉は遺書にいくつかの句を遺していますが、比較的早い時間に「辞世」とかかれた
句のうちの一つはこのようなものでした。


国を思ひ
死ぬに死なれぬ益良雄が
友々よびつつ
死してゆくらん








嗚呼彼遂ニ帰ラズ~仁科関夫中尉

2012-09-23 | 海軍人物伝

仁科関夫(にしな・せきお)

大正12年4月10日、大津市鹿間町出身
海軍兵学校71期卒業
黒木博司大尉と共に人間魚雷「回天」の発案者
昭和19年11月20日、菊水隊出撃に参加、
ウルシー環礁にて戦死、死後二階級特進、海軍少佐
亨年二十一


何度かこのブログでお話している佐藤秀峰氏の漫画「特攻の島」には、実在の人物が出てきます。

黒木博司。板倉光馬。そして仁科関夫。


物語冒頭からよく見る、やたら目つきの鋭いこの司令が板倉光馬であることを、
今回読み直してあらためて気づいた次第です。
その豪快さんぶりに魅かれて、何度か語ってきたこの「不沈艦長」、実はこ両人の上司でした。

この漫画における板倉艦長、年齢的にも雰囲気も実物と全く似ていません。
似ていないと言えば、黒木、仁科両人も実物の雰囲気とはほど遠い容姿に描かれています。
著作権の壁ゆえこの画像と並べて掲載するのを断念したこの漫画の仁科中尉画像
(一応趣味半分で絵に描いてはみました)
ですが、髪を肩まで伸ばし、髭もそらない偉丈夫風。
写真の白皙の秀才風の青年(ハンモックナンバーは581名中25番)とは大分風情が違います。

しかし不思議なことに、同じくワイルドすぎる黒木大尉も含めて、この描写は
彼らの壮絶な最後の日々を表わすに相応しい説得力を持っているようにも思われます。

黒木大尉と共に回天を発案し、軍令部に許可を求めて日参した末に動き出した「回天」。
その訓練が始まってわずか二日目に、黒木大尉と樋口孝大尉の乗った訓練的が事故を起こし
仁科中尉は共同発案者にして一身同体の盟友である黒木大尉を失います。

当時を知る者の証言によると、悲痛をこらえ黒木大尉の遺志を受け継ぐものとして皆の先頭に立ち、
回天隊を率いていた最後の日々の仁科中尉には「鬼気迫る雰囲気が漂っていた」とのことです。

「髪を切らない」と誓ったのか、仁科中尉が伸びかけた髪で写っている写真は、
他の隊員と共に腕組みをしている仁科中尉だけがレンズの方を全く見ていません。
生への無関心、現世に対する未練の拒絶、哀しいまでに感情を閉ざした表情・・・・。

佐藤秀峰氏の描く仁科中尉像は、この遺された写真以上に、もしかしたら
仁科中尉の実像に迫っているのかもしれない、とあらためてこの作品を読んで感じました。



「回天」が非人間的な特攻兵器であり、皆が強制的な心理的圧迫を上から受けて志願し、
死んでいったとする戦後の論調について、回天隊員だった小灘利春氏の
「そうではない、国を救えると信じて喜んで往った者もいたのだ」
と言う反論があったことを紹介したことがあります。

この証言に真実味を与えているのが、
回天を開発し作戦を企画したのは軍の上層部ではなく若い二人の士官だったという事実でしょう。
彼らの目的は、国家存亡の危急に自らが立ちあがり、その兵器の有効性以上に
「自分が死ぬことによって国を生かすために為す特攻の先駆けとなる」ことでした。

甲標的での真珠湾攻撃もそうですが、少なくとも回天は、
上から命令された必死作戦ではなかったのです。

第9期潜水学校普通科学生の教程を終了した仁科少尉が、
呉の魚雷実験部(P基地)に、甲標的訓練を受けるためやってきたのは昭和18年10月のことです。
このとき仁科中尉は一年歳上の海軍機関学校51期卒、黒木博司中尉と同室になります。

二人の運命的な出会いが、国家危急を救うための画期的な新戦法を思案していた黒木大尉をして、
「一撃必殺の人間魚雷兵器」
を考案させるきっかけを生んだのでした。

当時日本の魚雷は「世界の20年先を行っていた」とまで言われていました。
高圧酸素を原動力にして走行する九三式魚雷は世界最優秀の性能を備えていたのです。
原動力が純酸素であるため排気ガスが水蒸気として海水に吸収され、
航跡が見えにくいという利点もありました。

しかし、敵がレーダーを採用したころからこの特徴が利点では無くなり、さらに時代は
航空戦が主流となっていたため、大量の魚雷が倉庫に眠っている状態だったのです。

この九三式魚雷は全長が九メートルありました。
これを回天仕様に一四メートルにまで延長し、さらに耐圧を20mから水深80mまで補強。
これは、的が潜水艦の外側に搭載されるためです。

設計図と意見書が完成し軍務局に届けられました。
最初の計画は「必死」を前提とする作戦は許可できない、と言う理由で却下されます。
しかしふたりは仮称「人間魚雷」の設計図を携え、上京し、
時の海軍大臣嶋田繁太郎大将に直訴する熱意で、遂に許可を得ることに成功します。

その試作命令には、しかし
「脱出装置の設置」が厳命されていました。

山本五十六司令が特殊潜行艇「甲標的」の真珠湾参加を当初許可しなかった理由は、日本海軍に
「生還する道の無い必死作戦は認めない」と言う東郷司令の遺訓が生きていたからです。
同じ理由で「脱出装置を設置するならば許可する」
と海軍軍令部としては言うのが当然です。

しかし、魚雷から回天に改造する段階で、重さはすでに3トンから8、3トンにまで増えています。
二人は「これ以上の重量を加え性能を低下させることはできない」と、真っ向から反対しました。

そのときに、仁科中尉は
「脱出装置をつけるならば、おつけになって結構です。
その代わり、私達は出撃するとき、そいつを基地に置いて出ていきますから」
と言い放ったと言われています。

このような二人の熱意によって、この兵器が「自死を前提とした特攻兵器」として、
作戦に導入されることになったのでした。

黒木大尉は
「本訓練中、貴様と俺と二人のうち一人は必ず死ぬだろう。
さらに二人とも死んだ場合はどうなるだろうか」
と常に話していたと言いますが、その予言通り、昭和19年の9月6日、天候不良の中
反対を押し切って訓練に出た黒木大尉の的は帰投時間を過ぎても戻らず、
翌朝午前9時、海底に沈んだ的ならびに黒木大尉と樋口大尉の死が確認されたのです。


その死に顔を見たとき、仁科中尉がどのように慟哭したかはわかりません。
しかし、従容として死に就いた黒木大尉について、漫画「特攻の島」で作者は仁科中尉に

「あの人は・・・殉教者だ」

と言わせています。

そして、何の迷いもなく死を遂げた黒木大尉に対する自分を

「俺は・・・・・、凡夫だ」

とも。そして、

黒木大尉の死に顔を見たとき、
「俺は気づいた・・・
俺は、あの人に、一歩でも近づきたくて・・・回天の開発に没頭していたのだと」

作者の佐藤秀峰氏の解釈は、おそらく仁科中尉がウルシーでの突入寸前、
伊潜の中で記した日記の中の、「黒木少佐ヲ偲ブ」という一節から生まれたものでしょう。

「嗚呼彼遂ニ帰ラズ。
徳山湾ノ鬼ト化ス。
回天隊員ヨ奮起セヨ。
日本国民ヨ覚醒セヨ。
訓練開始ニアタリ三割ノ犠牲ヲ覚悟ニ猛訓練ヲ誓ヒシ仲ナレド
黒木少佐ノ今日ノ姿ヲ見ントハ」



黒木大尉の遺影を胸ポケットに、そして遺骨を的に携えて行ったという仁科中尉。
その瞬間、彼は愛する人々の面影を瞼に過らせ、
そして魂は体を抜け、遠くに立つ黒木大尉の姿を追いかけて行ったのかもしれません。


実は、この項を書いている今現在の日時は、2012年九月六日です。
このテーマをこの日取り上げたのに、取りたてて深い意味があったわけではありません。

黒木大尉が殉職したのが、まさに今日、六十七年前の九月六日であることに気づいたのは、
記事を書いている最中のことでした。



参考文献:人間魚雷回天 ザメディアジョン
       特攻の島 佐藤秀峰 芳文社
       回天 その青春群像 上原光晴 翔雲社
       「あゝ回天特攻隊」横田寛 光人社
       「特攻最後の証言」アスペクト出版





板倉光馬~とある潜水艦長のブラックアウト 

2012-09-11 | 海軍人物伝
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板倉光馬~とある少尉候補生のブラックアウト 

2012-09-10 | 海軍人物伝







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菅野直伝説7~「紫電改のカンノ」

2012-08-01 | 海軍人物伝
















今日は、昭和20年8月1日、
菅野直大尉が屋久島近海で戦死してから、ちょうど67年目になります。


菅野直伝説シリーズも、七回目を迎えました。
今回は、趣向を変えて、「紫電改のタカ」タッチで描いてみました。
言わずと知れた名作「紫電改のタカ」をお手本にカットを取りましたので、

なぜ移動の陸攻の中で、菅野大尉が搭乗員服を着ているのか?
とか、
なぜ菅野大尉が襲われているカットで、外に見えているのが日本機なのか?
とか、

作画に融通のきかなかった部分に対して、いちいち突っ込みを入れないでね。


以前「紫電改のタカ」に出てくる菅野大尉は、あまりにもおじさんのようで、
当時23歳だった菅野大尉の実像を全く伝えていないではないか、
滝城太郎こそが、菅野大尉そのものではないか!と、突っ込んでみましたが、
今回は堂々とその説を押しとおし、菅野大尉を滝城太郎で描いてしまいました。

ちばてつや先生、もうしわけありません

ついでに、ちょっとしたこのマンガの突っこみどころ、アメリカ人がしゃべる時はなぜか
台詞がカタカナになっている、という、今考えればかなり可笑しな部分をパロってみました。




さて、今日の事件?は、菅野大尉がフィリピンで特攻隊の直掩(一緒に飛んで護衛すること)
として任務を終えた後、自分の機を置いてセブ島からマバラカットに向かうときに起こりました。
当時、この空域はほとんど敵の制空権下にあり、セブからマバラカットまでの六百キロの距離、
敵に見つからずに輸送機が無事に飛ぶのは非常に困難な状況でした。

昭和19年の10月25日、海軍航空隊の至宝であった撃墜王西沢広義飛曹長は、
同じ状況で直掩の後、この進路で移動途中、敵飛行機と遭遇して機が撃墜され、
戦死しています。

ここで非常に不思議なのですが、なぜ日本軍は輸送機に護衛をつけなかったのでしょうか。
当時、民間の船、いわゆる「軍事徴用船」が大東亜戦争中その多くを喪失した理由に、
「その航行に関して、軍は護衛などの配慮を一切しなかった」という状況がありました。

特攻には確かに直掩をつけましたが、それは護衛とともに戦果確認をする必要があったからで、
何の武装もない輸送機を護衛なしに飛ばすというのも、無謀極まれりです。
勿論、「そんな余裕はなかった」というのが当時の切羽詰まった理由でしょうが、それにしても
この戦力として非常に有能な人物が、軍の無責任と怠惰の結果失われたのだとしたら、
それは全く先を見ない愚かな采配だったと言わざるをえません。

ラバウルで名をあげたアメリカ陸軍のエース、リチャード・ボングは、実績をあげたとたん
内地に召還され、航空学校の教官の職を与えられています。
本人はそれを忌避し戦場に戻りたがっていたようですが、少なくともアメリカ軍は
「功績のあった人物にそれなりの待遇と、保護を用意する」
というつもりでのこの配置を取ったもののようです。

戦争映画を観ていると
「このミッションが終わったら故郷に帰れるんだ!」
と兵士が言うシーンをよく観ますが、アメリカでは実際戦功を立てたらご褒美として兵役免除、とか、
あるいは一線を退かせる、といった待遇が与えられていたのかもしれません。(未確認)
少なくともエースと言われた人物を、敵制空下を護衛もなしに運ぶなどということだけは
ありえなかったことだけは確かです。

さて、菅野大尉ら一行を乗せたのは一式陸攻を改造した輸送機でした。
(この輸送機はどう見ても一式陸攻に見えない、という突っ込みもなしね)
ご存じのとおり、アメリカ軍からは「ワンショット・ライター」、つまり一回クリックすればシュボっと
火の付くライター、とあだ名されていたくらい、簡単に燃えやすかった機体です。

あと少しでマニラに到着、と言うところまで来たとき、敵戦闘機と遭遇しました。
アメリカ陸軍の、そう、R・ボングの愛機でもあったロッキードP-38、ペロハチです。
もうすでに改良に改良を重ね、精鋭ぞろいのラバウル航空隊も後期には「ペロッと食える」
ペロハチではなくなっており、そのフォルムから「双胴の悪魔」と呼ばれた戦闘機。

(えー、紫電改のタカには、この『メザシ』がでてきません。敵と言うとグラマンか、
あるいはタイガー・モスキトンの乗機、カーチス・ウォーホークしかなかったりするので、
画像はグラマンで描かせていただきました。
一般画像を参考にするにも、いろいろあるんですよ。角度とか)

単機で非武装のこの一式陸攻を、敵機はしつこく攻撃し、輸送機の機長は
「もう駄目です。皆さん、覚悟して下さい」
と乗員に告げました。
そういわれて菅野大尉が黙って覚悟を決めるような人物であろうはずがありません(笑)

「馬鹿言うな。どけっ!おれが操縦する」

そういうや否や操縦員を席から引きずりおろし、自分が操縦桿を握ったのでした。
(えー、滝城太郎が、誰かを引きずり降ろしているシーンが見つからなかったので、
殴って操縦を変わったことにしました。違和感ありませんよね?)

そして、機を急降下させ、地表すれすれに這うように飛行を始めました。
生きた心地もしない同乗者、鈍重な爆撃機がいきなり戦闘機のような動きを見せ、
しかも高度をぎりぎりに飛ぶのに驚く敵機のパイロットたち・・・・。

そのまま逃げ続け、見えてきた島の海岸に機を胴体着陸させた菅野大尉は、そのまま
他の乗員と共に飛び出して逃げ、一命を取り留めた、と言うのですが・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・。

本当だろうか?(ぼそっ

いやなんだか最近、この手の「よく出来過ぎた話」に対して、懐疑的になっているんですよ。
「島の海岸にそんなおあつらえ向きに陸攻を着陸させるだけの平坦な砂浜があったんだろうか」
とか、
「機を捨てて逃げたとたん、それまで攻撃してこなかった敵機は陸攻に掃射を加え、
あっという間にその銃撃で炎上し、菅野大尉らは危機一髪であった」
とか、
なんだか話がよく出来過ぎている気がしないでもないというか・・・。

ましてや、このとき逃げ込んだジャングルの中で、原住民に(自称)「プリンス・カンノ」として
敬愛を集め、下にも置かぬもてなしをされた、という海兵の同級生の「菅野から聞いた話」
は、この話の後日譚としてはあまりにもマンガっぽくて、思わず眉に唾をつけてしまいそうです。

(このときの原住民とはフィリピン人のことであり、決して画像のような、冒険ダン吉に出てくる
『土の人』ではないという点も、ご了承ください)


でも、それを語っていたのが他ならぬ菅野大尉本人であった、というところをわたしは評価したい。
実際がどうあったかというより、再会したクラスメート(光本卓雄氏)が

「当時を懐かしみながら彼一流の話術で面白く話してくれました」

と語る、菅野大尉の菅野大尉らしさが、この愉快な結末に現れている気がするからです。


それにしても・・・・。

しょせん「たられば」であるのと、特に西沢広義ファンの顰蹙を買うことを覚悟で言うと、
もし、乗り機が敵の攻撃に遭ったとき、西沢飛曹長が菅野大尉のように、
輸送機の操縦者を殴ってでも操縦を交代していたら・・・・・・・・。